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素晴らしい動画を制作してくださりありがとうございます。本当の幸せが分かった気がします。早速本書を読んで理解を深めようと思います!ありがとうございます。
素晴らしい動画でした。深く考えずに善行を行い、さっさと忘れる。そんなサイクルが作れればなと思います。
強い意志を持つってこと自体が業を生むと思います。
紹介してくれてありがとう。
今まで見えていたものをひっくり返されたような深い話でした。今の自分が輪廻の輪から離れたいと思っているのかどうかすらわからない状態ですが、こういう考え方が昔からあったというのは斬新に思いました。ほとんど思を介さずに目の前に起こることに対し淡々と、とるべき行動をとっているのは「虫たち」だと思います。実は輪廻の輪から外れる寸前の存在は虫たちなのかなと思いました!
私も二度と生まれ変わりたくないです毎日生きるのが辛くてたまりません三木住職が言ってました「喜怒哀楽のない平坦な(平安)状態で常に在ることが理想です」と。
産まれる前もあっちの世界も無我の宇宙なので、せめてこの世ではエゴを楽しみたいです。
私も思った地球ならではなんだからエゴも楽しもうと…
善行を行おうとする思いの中には自らへの何らかの見返りを期待している心があるから、そのような善行の想いに捉われることなく執着することなく、自然に善行が出てくることが好ましいというわけですね。禅の世界は奥が深い。
行動それ自体に善悪のレッテルを貼らずに淡々と「ただ、やる」の境地はもう既に悟りの境地なんよ
ベビーカーを運んでもらった母親が礼も言わず去ってしまっても何も気にしないのが業のない状態やね
●【ただ、やる】は、禅に受け継がれているように思います。 只管打坐●【心所】が出たら、唯識を学ばないと理解するのが難しいでしょうね。
道に落ちているゴミを見るたびに葛藤してしまうダメな私。「あぁ拾わなきゃ」「でもそのごみをいれるとカバンの中が汚れる」「誰かが見ててヘンに思うかもしれない」「でもこんなところにゴミはないほうがいい」「あぁどうしよう、考えているうちに通り過ぎてしまった」「戻る勇気はない」「帰りに見たらまだあった。よし今度は拾おう」「拾った。やった。ちょっと満足(神様見てる?)」こんな煩悩をもたずに何も考えずに拾えるようになりたい。きっと大谷君は何も考えずにすべてやっていて、彼は善も悪も考えることもなく、まさにただ目の前のことをしているだけで、それゆえにあんなことができているのかもと確信しました。メンバーにならせてください。
返信遅くなりました...!メンバー登録感謝です✨いやぁ、わかりますわ...気になったならそうすればいいのに、なぜか現状維持させようとする声が聴こえてくるんですよねぇ...でも、そんな自分に気づいているだけでも大した進歩だ!と思うようにしています。できることをひとつずつ、やってまいります!大谷君は素晴らしい習慣の持ち主なのでしょうね✨
❤ありがとうございます❤ 四諦八正道も考えてみて下さい。今に生きる 新しい神聖な意識になる 😊今 人生の劇の終演から昇華して、新しい劇の幕開けを迎えました。キリスト意識 愛、許し、癒し、前進する❣️教えに捉われずに 生きる事を目的にすると意図しました アビダルマ 分かりやすかったです。今までありがとうございました。解除します。またいつか
凄く為になりました。
誰かのために…という思いからの行動と、ただただ自分がやりたい!楽しい♪勝手に?無意識に動いてしまったことは、同じ行動でも違ってくるのかなと思いました。情けは人のためならず…なのでしょうか?とても面白いお話でした!ありがとうございました🙏😊
2024年8月18日(日曜日☀13時41分)参考に成りました。ありがとう御座いました\(^o^)/✌🛕
自分にとっての良い事は、誰かにとっての悪い事である…
興味深い本の解説ありがとうございました。リクエストになりますが、、“光の中のマインドフルネス“という本をいつか解説してもらえるとうれしいです♪
解脱=静謐な状態、という言い方がいい感じでした。解脱=存在の消滅と捉えていましたので、印象が変わって興味が持てるようになりました。
目から鱗でした!
子供の頃から何となくそうだろうと思ってた。
仏教の善悪は、自分にとって という意味合いが強いんですね。
仏教の究極の目的、解脱とは無限ループから抜け出すって頭で分かっていても凡人には無縁で、だったら少しでもいい行い積んで、より良い来世を迎えようぜ〜な感じで仏教を捉えてしまいがちでした。でも仰る通り、良い意図(善心所)で行いをしているつもりなのに、なんで人助けを繰り返していて疲れてるスパイダーマン症候群みたいになってしまうんだろう?への処方箋が明快に解説して頂きありがとうございます♪😊サティの瞑想(徹底的に事実と思考を峻別する瞑想法)的なスタンスをキープしたまままで、行為を行うこと。つまり普通の善行と、究極の善行には違いがある。無意識層で、ついつい思ってるはずなんですよ、「評価されて〜なあ!」「誰か認めて欲しいな」とかね😅
究極的に今を生きるってことなんだろうな。未来に期待もしない、過去に後悔もしない。だから今の行いに意味を持たせない。ただ、必要だから行う。ただ、、今を生きる
しっくりくる
インドのヒンズー教の聖書、バガヴァッド・ギーターでそれ説明してました。インドで修行をした釈尊はそれをわかりやすく一般ピーポーに説明したんだと思います。新たなカルマを作って生まれ変わりのサイクルから抜ける方法。Bギーターでは目の前にベビーカーで手こずっている人が現れたのは私の過去に撒いた種の表れとしてそれに反応抜きで対処する。何するの!触らないで、余計なことして!とママさんに怒られる。どうもありがとうございます、助かりました。と感謝される。結果がどう出ようとその結果にも反応ぜずにただそれを自分のカルマ(過去に撒いた種が発芽した)として受け取っていくという生活を続ける。今目の前に現れたことに自分でできる一番良い判断を下しながらその結果に一喜一憂しないで生きていくという姿勢を貫くことでカルマのサイクルから抜けられるそうです。今度はBギーター翻訳おねがいします♡
人生とは2つの異なる宿題があり、一つは輪廻に付随する宿題、もう一つは解脱だと思います。そして凡夫は一つの人生において少しの宿題しか出来ないはず。だから焦ることはないと思いますね。
今回も良い動画でした。輪廻転生は私的にはアリです。問題は再び人に転生できる確率がほぼ無理に近いってとこでしょうか、まして恵まれた境涯で産まれることは更に難しい事だそうです。生き物は死を迎えると全てバラバラになり、元に戻ります。それはやがて何かの一部になり長い時間を経て転生します。ですが、それは人間の姿をしている確率は極めて低いとの事、例え転生できても苦しすぎる境涯が待っているそうです。私の課題は次の転生で今より更に良くなる事を目指してます。因みに地球とは業の深い者達の収容所と聞いています。
争いの原因はいつも同じ正義、正しさ、善と思う者同士から生まれるそれはそうと著者の方のお名前「閑」かっけー!!
自分の行動を省みて、あ~エゴで行動してたな~と認識でき人生勉強になりました。ただ、エゴの善と純度の高い善の区別を意識せず、無意識に純度の高い善をしてきた人が、この区別を知ってしまうと行動しづらくなりませんかね?
前回、時は未来から現在へさらに過去へ流れるといった動画を見た覚えがある。その内容と今回のこの動画の内容合わせると反応して業を作る限り現在と未来はループしているような気がする。現在の自分が反応して業を作る。それが未来に存在する要素になる。そしてそれを引き寄せの法則などによって現在の自分に届き、さらに経験し、新しい業が生まれる。まぁ、間違っているかもしれないが、そんな印象を得た。
自分の行いに善悪を感じることが結局は業の輪廻を生むんですよね。他人に迷惑、または犯罪にならない範囲で自分の自由意思で物事を行っていく、これが大事。情報社会で、より様々な損得勘定や煩悩が入ってきがちな現代人にこそ持ってほしい仏教精神。
10:00 '出来事自体はそれほど重要ではなく、その時の意図が重要'→《目に見える》出来事自体はそれほど重要ではなく、《目には見えない》その時の意図が重要
分かり易く、理解が深まりました。感謝ですm(_ _)m。鈴木大拙さんが、よく無分別を説いてました。自分と他、善と悪とか区別がない所が空で、区別のない所での行いが慈悲らしいです。この動画と同じ事を言ってますね。
大拙の空論は間違ってますよ。
やった行いより、意識が現象化させている事に気づいていたんですね🤔
『意志作用を起こさずに』というのがすでに意志なので、そもそものスタート地点からして間違ってしまう。結局、意図からスタートしてしまえば、何をどう考えようと全ては妄想(苦の因)の域をでない。 企志尚峰さんの『仏陀の真意』が最高の名著だと思います。読むだけで目が覚めていきます。
た、たしかに…本の紹介ありがとうございます!読んでみます!教えてくださり感謝です✨
@@simpleeelife ご返信ありがとうございます! 是非、『仏陀の真意』を動画でご紹介いただけると嬉しいです。
仏教説では喜怒哀楽を起こさせる芸能などは地獄に落ちるとされる、芸能人は地獄に落ちるとか、怖いんですよ。仏教は人を平安に平穏にさせる事が最も貴いんです。
つまるところ、見返りを求めず自然と善い行いができるようになりなさい、ということですよね。 大人になると否が応でも"これやると自分にメリットが出てきてしまうんじゃないか、それって本当に善い行いなんだろうか、自分のメリットのためにしてるんじゃないか"と考えてしまってすぐに行動できなくなってしまいます…自分はそういう下心的なことを感じた時点で行動しないようになってしまいましたが、果たしてこれが善いことなのかどうかとても悩ましいです。。
なんかで読んだ二人の修行僧の話を思い出した。二人の僧が橋の無い川の浅瀬に来ると一人の若い女人が渡れなくて困っていた。すると一人の僧が私がおんぶしてあげますといって女人をおぶって浅瀬を渡った。女人と別れてしばらく歩いていた二人だが、僧は女人に触れることは禁止されていることがどうしても気になるもう一人の僧が「あれは戒律破りではないのか?」と問い詰めた。すると女人をおぶった僧が答えた「私はもう女人に触れていない。おまえは今もなお女人をおぶっているのか?」
12:35
記憶を引継がない時点で来世とは別人なので解脱に魅力を感じないけど見返りを求めない善行はちょっと凄いなと思ったよ
自発呼吸なみに善が行えれば良いのですが、実際は自我が先に出て余計なことをしてしまいます。
輪廻転生をしないことが一番の救いなんですね。仏の悟りにいくことが輪廻転生しない永遠の救いですね。善行をしても何も見返りを期待しないことがいいのですね。
それが「業」であるとどうやって判断するのでしょう。そもそも「業」も人間の作り出した概念です。下手に「業」というものに囚われてしまうと苦が生まれます。そして人によっては修行を始めてしまうのです。(本来は修行すら必要ないのですが)全ての「苦」は思考が生み出しています=言葉が「苦」を作り出しているのです(時間があれば瞑想して自分の思考を観察してみてください)「言葉」が無ければ、この世界は「ただ在る」だけです。そして「苦」を滅する方法は「沈黙」すること、ただそれだけです。(ただし思考の癖があるので、すぐには改善しませんが)ブッダも言っているように、この世界は諸行無常、どんなことが起きようとも全ては常に移り変わり消え去っていくのです。それは「業」とて同じこと。何かをやったから解放されるではなく、ただ移り変わって行くだけです。是非パパジの「覚醒の炎」をご一読ください。仏教を超えた真実がわかるはずです。
いつもありがとうございます🙏✨✨✨「輪廻転生」ありがとうございます✨私も輪廻転生で、もうこの世界には帰りたく無いと思う者ですが、今回の「善」の業を教えて頂き🙏まだまだ、生まれ変わりそうですね😓私の場合、「何気に言ってしまう事」(勝手に口からその人しか知らない事や、未来有効であろう事、前世の記憶)を言ってしまいます😥自分では、人の為になってるのだから…と思っていましたが、これも「業」にあたるのだと思いました😢意識して言わないようには努力していますが、苦しいですね。ベビーカーのお子さんを助けるなんて、普通な事ですけど…口を慎む努力が私の業ですね。
仏教の善行はそれを行ったことを知る人はいないんだ✨☀️✨
あるがままでいきろということ、
親切に動機はなく、慈愛に理由もない😮
よくわかりました。どっちかって言うといわゆる善行を行っている人は評価されて、真の善行が好きな私は余りこの世では評価もされず何だか釈然としない人生ではありましたが、おそらくこれは仏教的には正解の道を歩んでたと思えたらすげーホッとしました
80年90年、心所の強い作用を起こさず淡々と生きるのは無理な気がします💦善悪ではなく業を生まない輪廻転生から抜け出たところが悟りなのですね。
スパイダーマンもこんな風に悩んでた気がする…人を助けると言うのは…みたいなジレンマに苛まれていたよねその心の隙間に宇宙から来た黒い物体が入り込んで…脚本家は仏教を勉強していたのだろうか…ハリウッドのセレブって禅に興味のある人とか多いからね
原始仏教またはテーラワーダ仏教でいう『業』については、本の要約ではなく自身でしっかりと勉強した方が良いかと思います。なお、涅槃を目的とした善行為は瞑想だけでなく、戒律を守ることが最も大切ではないかと理解しています。
今回のお話をもう少しわかりやすいレベルに落とすと、「生きる意味」とは、・赤ちゃんに帰ることなのではないか、と思いました。というのも、赤ちゃんにはエゴがありません。なので、自然と一体の存在です。「自然」は、「なすがまま」の状態ですよね。引力に従ってあらゆるものが動きます。それに抵抗する存在はいません。たとえば、「鳥が飛ぶ」という状態を見た場合、鳥は一切、引力に逆らっていません。鳥は引力・慣性の法則などの「自然の法則」に逆らわずに、むしろそれを利用して、完全に自然と一体化した状態で生きています。しかし、人間はどうでしょうか。たとえば、野球のバッティングフォームで、・力任せに振る選手がいますよね?これは、引力などの自然の法則に逆らい、「自分の力」でなんとかしよう、としている動きです。その結果、やがてその選手は怪我をするわけです。つまり・・・いわゆる「うまくいく」状態は何か、というと、自分の力で何とかしようとするのではなく、なすがままにすることなんですね。で、もし自分の力を加えるとするなら、「なすがまま」の中で、ほんの一押しする程度でいいんです。たとえば、イチローのバッティングフォームはそうですよね。見るからに、自然の法則と一致しています。だからまるで樹木が風にそよぐかのような、「ナチュラル」で「美しい」形なんですよね。そうなんです・・・「自然」な姿は、美しいんです。一方、「自分の力でなんとかしよう」という姿は、醜いんです。★ ★ ★これを「人生」に当てはめて考えると・・・人間は、「自分の力」でなんとかしようと生きて、その結果、醜い人生を歩んでしまいます。そうした場合、赤ちゃんはどうでしょうか?まさに「なずがまま」で美しいですよね?ただそこに存在しているだけで、まわりを笑顔にするような、そんな存在です。そうなんです。ただそこに存在するだけでいい。わざわざ資格を取ることはないし、スポーツ大会で優勝する必要もない。ベビーカーで引っかかっているどこかのママさんを助けるなどという「善行」を行う必要もない。ただそこにいるだけ。それだけでいいんです。まさに「なすがまま」。で、もし「善行」を行うとしたら、「なすがまま」の延長で、自然に、ナチュラルに行う。まるでイチローのバッティングフォームのようにしなやかに、美しく、風に揺られてそのまま動いているかのように・・・自然に「善行」を行えばいいんです。いわば・・・知識・経験は「大人」の状態で、心は「赤ちゃん」の状態になること。これを実現できたら、その人の人生は「達成した」と言えるのではないでしょうか。★ ★ ★もっと言うと、赤ちゃんどころか、自然に帰る。つまり・・・死後に「意識」は肉体から離れて残りますよね?何せ、「有」のものが「無」にはならないんですから。肉体だって消えるわけじゃない。何かに変換されるんです。それと同じく、「意識」だって何かに変換されるはず。で、その「変換」されたときに、もし、人生をエゴまみれで生きた場合は、いわゆる「成仏していない霊」のような状態になって漂うのかもしれません。一方で、イチローのバッティングフォームのようにナチュラルに生きた人は、死後、その「意識」は自然に帰って、「風」や「光」になるのではないか。それが、輪廻転生から抜け出した状態、と言えるのかもしれません。今回の動画から、いろいろなことに気付きました。いつもありがとうございます!
言っていいですか?輪廻の輪を止める方法?シンプルに生まれ変わりや別の可能性を信じない事ですよね?
ええと、瞑想もしたことないような一般人や学者風情がさも仏教を理解したように解説する書籍があまたありますが、私は一切読みませんよ。仏教でも悟ってない者が教義を解説してはいけないと戒律があります。公的になっている概略を説明するくらいは良いですけどね。それくらい仏教は間違った解釈の功罪に厳格ですよ。
強欲-執着 強欲とは物財の蓄積を過度に熱望することだ。 欲張りな人は、物的には与えられるものを沢山持っているにも関わらず、自分の物だと思っている物を他者と分かち合うことを拒否する。魂の感情認識が進んでも共有ができない場合には、物的な強欲は、霊的な強欲へと変化する。 霊的な強欲とは執着であり、不当に自分の所有物だと考えている人たち、たとえば子どもやパートナーなどの愛情を分かち合うのが難しい。 執着に苦しむ者は、少数の人しか愛さず、その人たちにも同じことを強要する。 多くの人が、誤って「愛している」のだと思い込み、相手を強く愛するがために苦しいと言うが、実際には愛着による執着から苦しんでいるのだ。 魂が進歩して初めて、愛と執着との区別がつくようなる。Q愛と執着との違いを説明いただけますか。A人が愛す場合は、愛する人と自分の自由意志を尊重しようと努める。自分がその人と一緒にいられなくても、愛する人が自由で幸せでいられるように尽くすのだ。 執着を患う場合は、愛す人のためになることよりも、自我を満たすことを考える。そのため、愛している筈の人の自由意志を侵害する傾向にあり、その意に反して自分の近くに置こうとしたり、自分のやりたい事を強要したりして、相手と「自分の競争相手」と見なす他の人との関係を最大限妨害しようとする。 本当に愛す者は、愛する人を所有しようとはせず、愛する人が他の人たちを愛しても不快に思わない。執着は底をつくかもしれないが、本当の愛・真実の愛は決してなくならない。より沢山の人を愛せるようになっていったとしても、その他への愛が減る訳ではない。しかし執着は、そうだ《愛が減る》と思い込ませるのだ。他の人たちに与えられる愛は、自分から奪われると思わせるのだ。 執着がある者は、感情を要求し強制し強要するのだ。自分がすることの見返りをいつも求める。要求し受け取ることばかりを考え、与える時には利益と引き換えで、最初に自分が頼んだことをしてくれるのが条件だ。執着すると、《愛する人を自分に引き留めるために》自分の自由意志すら侵害し、したくないことをするように自己を強要する。 真実の愛を感じる者は、無条件に与え、感情を束縛しない。強制も強要もせず、愛する人に何の見返りも求めず何の要求もしない。Q違いが明らかになる例があればいいのですが。Aいいだろう。鳥を愛していると公言する二人が出会ったとしよう。 一人は、冷房の効いた部屋の美しい金のかごの中で鳥を飼っている。高品質のえさをやり、瓶詰めの湧き水を与え、定期的に獣医に連れて行く。もう一人は、単に食べ物を公園に持って行くだけで、鳥が止まればなでてやり、怪我をして飛べない時は世話してやる。 最初の人は、「僕はなんて鳥たちを愛しているんだろう。野生であれば得られない快適さを享受できるように、鳥たちには多額を費やしている! でも直ぐに死んでしまうんだ! いつも病気で、薬や獣医に金を使っても早死にしてしまう。それが酷く辛い! どうしたらいいだろう?」と言う。 二人目は、「僕が世話する鳥たちは、僕のものではない。かごに閉じ込めてはいないし、自然の中で生きている。鳥が僕と一緒にいてくれるのは、かごの格子から出れないためではなく、そうしたいからなので、僕は幸せだ。自由に飛び回り、望むがままに生きているのを見られるので、嬉しい。友よ、君の鳥は自由でないから、悲しみで死んでしまうのだ。好きに羽ばたけるようにかごを開ければ、自由になれて幸せになるので、生き続けるよ」と言う。 最初の者は「かごを開ければ逃げ出して、二度と会えなくなるじゃないか!」と答える。 二人目は、「逃げたとしたら、それは意に反して捕らえられていたからで、隷属した生活から離れたいのだよ。僕の鳥たちは、好きな時に行ったり来たりできると知ってるから、逃げたりしないよ。その反対に、僕が公園に着くのを見ると、直ぐに寄って来て取り囲んでくれて、僕の上に止まるよ」と応じる。 一人目は「それが僕の望みだ。鳥たちに好かれたいんだ」と言う。 二人目は、「強要してでは、絶対に君の望みは叶えられないだろう。君は、彼らが最も切望すること《自由になりたい》の埋め合わせのために、快適さばかりを与えたのだ。鳥は自由に飛びたいのだ。鳥を本当に愛しているのなら、自由に生かしてあげなさい」と返答する。 Q愛しているのは誰で、執着しているのは誰ですか。A鳥をかごに入れておきたい人に執着があり、鳥を自由にさせておきたい人が愛しているのだ。
【🎊神本🎊】読んだあと確実に人生が激変する「最高の本」でした『さとりをひらいた犬 ほんとうの自分に出会う物語』by 刀根健ruclips.net/video/H048aRepMUc/видео.html
やるのが当たり前すぎて意識にすら浮かばないという感じかな。承認欲求の強い人は絶対ムリですね😅
この理屈で行くと、こころに波風を立てずに息を吸うように悪いことをする奴も、悪では有るが善になるけど。
無意識の悪行は善なのか
仏教は五道輪廻六道輪廻説が分らないとわからないですよ。業とか悟りとか縁起とか煩悩とか空とかわからんでしょう。インド人は考えた、地獄の一番恐ろしい地獄これを無間地獄という、どんなところか?一切休みの無い苦しみ痛みの世界である。無間よりましな地獄を等活地獄とかがある、これは苦しみ痛みが一時無い時があり次にまたも苦しみ痛みが延々と繰りかえす地獄。インド人は地獄に対する想像力は凄いものがある、極楽に対する想像力は無いみたい。死んでも地獄の生き物に生まれるかも知れんので死んで物事は何も解決しない。
面白いとは思うけど、抑々転生が不幸なの?
そうなんです🎉私が凄くかっこいいと思った座席の譲り方は車椅子を引いている私に気が付いた其のgentleman は何も言わずスッと立って他の車両に向かって行きました!一般的に『どうぞ」と言って譲る方は大衆に私は良い事をしてるアピールが有り目の前に立たれる訳で何度も何度も御礼を言う羽目になります其れもイイ事なんですが『業』が付くのでしょう!まあ私は元気に見える故 殆ど譲っては貰えませんし 殆どの方はスマホに一生懸命で気も付かない!ですねlol
凡人である私には全然理解できないwでも、確かに生きるって辛いよね。最近RUclipsで量子論と宗教を絡めた動画が増えてキモいんだけど、なんか気になる。
助けようと思って助ける業も、輪廻を止めようと思い何も考えずに助ける業も、たいして違いはないように思えるのですが。
それ、思いました!笑なので、切符を買う感覚で助けるのが業を生まない境地だと思いました。僕には無理…
悪行の場合も同じって事?だとしたら怖い…輪廻から解脱するにはロボットの様になる事?でも何となく解る…思考とか感情めんどくさいもんね…
意図は良くないと大学の仏教の先生言ってた。あれだからこうする、あれだからこれはこれだとかの意識からではなく、自然体であるがまま流れるのが大事。思考にとらわれない。面白い思想だよなぁ。手塚治虫のブッダでは悟った仙人が動物のようになってたな。
すごいお話です✨教えてくださりありがとうございます✨
いいことも、わるいことも考えず行動するって意味あるのかな?それって「生きること自体の否定」じゃない??じゃ なんのために生まれて今生きているの?
善いことをしたと思った時点で負けやね
行き仏か?
輪廻転生などあるかどうかも分からないものをただ信じてこうあるべきなどと言うのは全く非科学的である。仏教の悪いところは人生は苦であるとしているところだ。人生には苦もあれば楽もあるのだ。釈迦はもう一度生まれ変わって人生には楽しい時もあると言うことで新しく悟りの定義を創り直してほしいものだ。
仏陀はM男だったんじゃないかな?w
病気 死が苦しみでは無いという人にとっては全く意味のない言説。死からの逃避を人はやってるだけですよ。それに気が付くかどうか分りませんが。政治家も芸能人もビジネスマンも死から逃避です。それを死王というその死王が逃げ出す方法が仏教ですよ。
素晴らしい動画を制作してくださりありがとうございます。
本当の幸せが分かった気がします。
早速本書を読んで理解を深めようと思います!
ありがとうございます。
素晴らしい動画でした。深く考えずに善行を行い、さっさと忘れる。そんなサイクルが作れればなと思います。
強い意志を持つってこと自体が業を生むと思います。
紹介してくれてありがとう。
今まで見えていたものをひっくり返されたような深い話でした。
今の自分が輪廻の輪から離れたいと思っているのかどうかすらわからない状態ですが、こういう考え方が昔からあったというのは斬新に思いました。
ほとんど思を介さずに目の前に起こることに対し淡々と、とるべき行動をとっているのは「虫たち」だと思います。実は輪廻の輪から外れる寸前の存在は虫たちなのかなと思いました!
私も二度と生まれ変わりたくないです
毎日生きるのが辛くてたまりません
三木住職が言ってました
「喜怒哀楽のない平坦な(平安)状態で
常に在ることが理想です」と。
産まれる前もあっちの世界も無我の宇宙なので、せめてこの世ではエゴを楽しみたいです。
私も思った
地球ならではなんだからエゴも楽しもうと…
善行を行おうとする思いの中には自らへの何らかの見返りを期待している心があるから、そのような善行の想いに捉われることなく
執着することなく、自然に善行が出てくることが好ましいというわけですね。禅の世界は奥が深い。
行動それ自体に善悪のレッテルを貼らずに淡々と「ただ、やる」の境地はもう既に悟りの境地なんよ
ベビーカーを運んでもらった母親が礼も言わず去ってしまっても何も気にしないのが業のない状態やね
●【ただ、やる】は、禅に受け継がれているように思います。 只管打坐
●【心所】が出たら、唯識を学ばないと理解するのが難しいでしょうね。
道に落ちているゴミを見るたびに葛藤してしまうダメな私。
「あぁ拾わなきゃ」「でもそのごみをいれるとカバンの中が汚れる」「誰かが見ててヘンに思うかもしれない」
「でもこんなところにゴミはないほうがいい」「あぁどうしよう、考えているうちに通り過ぎてしまった」
「戻る勇気はない」「帰りに見たらまだあった。よし今度は拾おう」「拾った。やった。ちょっと満足(神様見てる?)」
こんな煩悩をもたずに何も考えずに拾えるようになりたい。
きっと大谷君は何も考えずにすべてやっていて、彼は善も悪も考えることもなく、まさにただ目の前のことをしているだけで、それゆえにあんなことができているのかもと確信しました。
メンバーにならせてください。
返信遅くなりました...!
メンバー登録感謝です✨
いやぁ、わかりますわ...
気になったならそうすればいいのに、なぜか現状維持させようとする声が聴こえてくるんですよねぇ...
でも、そんな自分に気づいているだけでも大した進歩だ!と思うようにしています。
できることをひとつずつ、やってまいります!
大谷君は素晴らしい習慣の持ち主なのでしょうね✨
❤ありがとうございます❤ 四諦八正道も考えてみて下さい。
今に生きる 新しい神聖な意識になる 😊今 人生の劇の終演から昇華して、新しい劇の幕開けを迎えました。キリスト意識 愛、許し、癒し、前進する❣️
教えに捉われずに 生きる事を目的にすると意図しました アビダルマ 分かりやすかったです。今までありがとうございました。解除します。またいつか
凄く為になりました。
誰かのために…という思いからの行動と、ただただ自分がやりたい!楽しい♪勝手に?無意識に動いてしまったことは、同じ行動でも違ってくるのかなと思いました。情けは人のためならず…なのでしょうか?
とても面白いお話でした!
ありがとうございました🙏😊
2024年8月18日(日曜日☀13時41分)参考に成りました。ありがとう御座いました\(^o^)/✌🛕
自分にとっての良い事は、誰かにとっての悪い事である…
興味深い本の解説ありがとうございました。リクエストになりますが、、“光の中のマインドフルネス“という本をいつか解説してもらえるとうれしいです♪
解脱=静謐な状態、という言い方がいい感じでした。解脱=存在の消滅と捉えていましたので、印象が変わって興味が持てるようになりました。
目から鱗でした!
子供の頃から何となくそうだろうと思ってた。
仏教の善悪は、自分にとって という意味合いが強いんですね。
仏教の究極の目的、解脱とは無限ループから抜け出すって頭で分かっていても凡人には無縁で、だったら少しでもいい行い積んで、より良い来世を迎えようぜ〜な感じで仏教を捉えてしまいがちでした。でも仰る通り、良い意図(善心所)で行いをしているつもりなのに、なんで人助けを繰り返していて疲れてるスパイダーマン症候群みたいになってしまうんだろう?への処方箋が明快に解説して頂きありがとうございます♪😊
サティの瞑想(徹底的に事実と思考を峻別する瞑想法)的なスタンスをキープしたまままで、行為を行うこと。つまり普通の善行と、究極の善行には違いがある。
無意識層で、ついつい思ってるはずなんですよ、「評価されて〜なあ!」「誰か認めて欲しいな」とかね😅
究極的に今を生きるってことなんだろうな。
未来に期待もしない、過去に後悔もしない。
だから今の行いに意味を持たせない。
ただ、必要だから行う。
ただ、、今を生きる
しっくりくる
インドのヒンズー教の聖書、バガヴァッド・ギーターでそれ説明してました。インドで修行をした釈尊はそれをわかりやすく一般ピーポーに説明したんだと思います。
新たなカルマを作って生まれ変わりのサイクルから抜ける方法。
Bギーターでは
目の前にベビーカーで手こずっている人が現れたのは私の過去に撒いた種の表れとしてそれに反応抜きで対処する。
何するの!触らないで、余計なことして!
とママさんに怒られる。
どうもありがとうございます、助かりました。
と感謝される。
結果がどう出ようとその結果にも反応ぜずにただそれを自分のカルマ(過去に撒いた種が発芽した)として受け取っていくという生活を続ける。
今目の前に現れたことに自分でできる一番良い判断を下しながらその結果に一喜一憂しないで生きていくという姿勢を貫くことでカルマのサイクルから抜けられるそうです。
今度はBギーター翻訳おねがいします♡
人生とは2つの異なる宿題があり、一つは輪廻に付随する宿題、もう一つは解脱だと思います。そして凡夫は一つの人生において少しの宿題しか出来ないはず。だから焦ることはないと思いますね。
今回も良い動画でした。
輪廻転生は私的にはアリです。
問題は再び人に転生できる確率がほぼ無理に近いってとこでしょうか、まして恵まれた境涯で産まれることは更に難しい事だそうです。
生き物は死を迎えると全てバラバラになり、元に戻ります。
それはやがて何かの一部になり長い時間を経て転生します。
ですが、それは人間の姿をしている確率は極めて低いとの事、例え転生できても苦しすぎる境涯が待っているそうです。
私の課題は次の転生で今より更に良くなる事を目指してます。
因みに地球とは業の深い者達の収容所と聞いています。
争いの原因はいつも同じ
正義、正しさ、善
と思う者同士から生まれる
それはそうと
著者の方のお名前「閑」
かっけー!!
自分の行動を省みて、あ~エゴで行動してたな~と認識でき人生勉強になりました。
ただ、エゴの善と純度の高い善の区別を意識せず、無意識に純度の高い善をしてきた人が、この区別を知ってしまうと行動しづらくなりませんかね?
前回、時は未来から現在へさらに過去へ流れるといった動画を見た覚えがある。その内容と今回のこの動画の内容合わせると反応して業を作る限り現在と未来はループしているような気がする。現在の自分が反応して業を作る。それが未来に存在する要素になる。そしてそれを引き寄せの法則などによって現在の自分に届き、さらに経験し、新しい業が生まれる。まぁ、間違っているかもしれないが、そんな印象を得た。
自分の行いに善悪を感じることが結局は業の輪廻を生むんですよね。
他人に迷惑、または犯罪にならない範囲で自分の自由意思で物事を行っていく、これが大事。
情報社会で、より様々な損得勘定や煩悩が入ってきがちな現代人にこそ持ってほしい仏教精神。
10:00 '出来事自体はそれほど重要ではなく、その時の意図が重要'
→《目に見える》出来事自体はそれほど重要ではなく、《目には見えない》その時の意図が重要
分かり易く、理解が深まりました。
感謝ですm(_ _)m。
鈴木大拙さんが、よく無分別を説いてました。自分と他、善と悪とか区別がない所が空で、区別のない所での行いが慈悲らしいです。この動画と同じ事を言ってますね。
大拙の空論は間違ってますよ。
やった行いより、意識が現象化させている事に気づいていたんですね🤔
『意志作用を起こさずに』というのがすでに意志なので、そもそものスタート地点からして間違ってしまう。
結局、意図からスタートしてしまえば、何をどう考えようと全ては妄想(苦の因)の域をでない。
企志尚峰さんの『仏陀の真意』が最高の名著だと思います。
読むだけで目が覚めていきます。
た、たしかに…
本の紹介ありがとうございます!
読んでみます!
教えてくださり感謝です✨
@@simpleeelife
ご返信ありがとうございます! 是非、『仏陀の真意』を動画でご紹介いただけると嬉しいです。
仏教説では喜怒哀楽を起こさせる芸能などは地獄に落ちるとされる、芸能人は
地獄に落ちるとか、怖いんですよ。仏教は人を平安に平穏にさせる事が最も
貴いんです。
つまるところ、見返りを求めず自然と善い行いができるようになりなさい、ということですよね。
大人になると否が応でも"これやると自分にメリットが出てきてしまうんじゃないか、それって本当に善い行いなんだろうか、自分のメリットのためにしてるんじゃないか"と考えてしまってすぐに行動できなくなってしまいます…自分はそういう下心的なことを感じた時点で行動しないようになってしまいましたが、果たしてこれが善いことなのかどうかとても悩ましいです。。
なんかで読んだ二人の修行僧の話を思い出した。
二人の僧が橋の無い川の浅瀬に来ると一人の若い女人が渡れなくて困っていた。すると一人の僧が私がおんぶしてあげますといって女人をおぶって浅瀬を渡った。女人と別れてしばらく歩いていた二人だが、僧は女人に触れることは禁止されていることがどうしても気になるもう一人の僧が「あれは戒律破りではないのか?」と問い詰めた。
すると女人をおぶった僧が答えた「私はもう女人に触れていない。おまえは今もなお女人をおぶっているのか?」
12:35
記憶を引継がない時点で来世とは別人なので解脱に魅力を感じないけど
見返りを求めない善行はちょっと凄いなと思ったよ
自発呼吸なみに善が行えれば良いのですが、実際は自我が先に出て余計なことをしてしまいます。
輪廻転生をしないことが一番の救いなんですね。仏の悟りにいくことが輪廻転生しない永遠の救いですね。善行をしても何も見返りを期待しないことがいいのですね。
それが「業」であるとどうやって判断するのでしょう。
そもそも「業」も人間の作り出した概念です。
下手に「業」というものに囚われてしまうと苦が生まれます。
そして人によっては修行を始めてしまうのです。(本来は修行すら必要ないのですが)
全ての「苦」は思考が生み出しています=言葉が「苦」を作り出しているのです(時間があれば瞑想して自分の思考を観察してみてください)
「言葉」が無ければ、この世界は「ただ在る」だけです。
そして「苦」を滅する方法は「沈黙」すること、ただそれだけです。(ただし思考の癖があるので、すぐには改善しませんが)
ブッダも言っているように、この世界は諸行無常、どんなことが起きようとも全ては常に移り変わり消え去っていくのです。
それは「業」とて同じこと。何かをやったから解放されるではなく、ただ移り変わって行くだけです。
是非パパジの「覚醒の炎」をご一読ください。
仏教を超えた真実がわかるはずです。
いつもありがとうございます🙏✨✨✨「輪廻転生」ありがとうございます✨
私も輪廻転生で、もうこの世界には帰りたく無いと思う者ですが、
今回の「善」の業を教えて頂き🙏まだまだ、生まれ変わりそうですね😓
私の場合、「何気に言ってしまう事」(勝手に口からその人しか知らない事や、未来有効であろう事、前世の記憶)を言ってしまいます😥
自分では、人の為になってるのだから…と思っていましたが、
これも「業」にあたるのだと思いました😢
意識して言わないようには努力していますが、苦しいですね。
ベビーカーのお子さんを助けるなんて、普通な事ですけど…
口を慎む努力が私の業ですね。
仏教の善行はそれを行ったことを知る人はいないんだ✨☀️✨
あるがままでいきろということ、
親切に動機はなく、慈愛に理由もない😮
よくわかりました。どっちかって言うといわゆる善行を行っている人は評価されて、真の善行が好きな私は余りこの世では評価もされず何だか釈然としない人生ではありましたが、おそらくこれは仏教的には正解の道を歩んでたと思えたらすげーホッとしました
80年90年、心所の強い作用を起こさず淡々と生きるのは無理な気がします💦善悪ではなく業を生まない輪廻転生から抜け出たところが悟りなのですね。
スパイダーマンもこんな風に悩んでた気がする…人を助けると言うのは…みたいなジレンマに苛まれていたよね
その心の隙間に宇宙から来た黒い物体が入り込んで…
脚本家は仏教を勉強していたのだろうか…ハリウッドのセレブって禅に興味のある人とか多いからね
原始仏教またはテーラワーダ仏教でいう『業』については、本の要約ではなく自身でしっかりと勉強した方が良いかと思います。なお、涅槃を目的とした善行為は瞑想だけでなく、戒律を守ることが最も大切ではないかと理解しています。
今回のお話をもう少しわかりやすいレベルに落とすと、「生きる意味」とは、
・赤ちゃんに帰る
ことなのではないか、と思いました。というのも、赤ちゃんにはエゴがありません。なので、自然と一体の存在です。
「自然」は、「なすがまま」の状態ですよね。
引力に従ってあらゆるものが動きます。それに抵抗する存在はいません。たとえば、「鳥が飛ぶ」という状態を見た場合、鳥は一切、引力に逆らっていません。
鳥は引力・慣性の法則などの「自然の法則」に逆らわずに、むしろそれを利用して、完全に自然と一体化した状態で生きています。
しかし、人間はどうでしょうか。
たとえば、野球のバッティングフォームで、
・力任せに振る選手
がいますよね?これは、引力などの自然の法則に逆らい、「自分の力」でなんとかしよう、としている動きです。
その結果、やがてその選手は怪我をするわけです。
つまり・・・
いわゆる「うまくいく」状態は何か、というと、自分の力で何とかしようとするのではなく、なすがままにすることなんですね。で、もし自分の力を加えるとするなら、「なすがまま」の中で、ほんの一押しする程度でいいんです。
たとえば、イチローのバッティングフォームはそうですよね。見るからに、自然の法則と一致しています。だからまるで樹木が風にそよぐかのような、「ナチュラル」で「美しい」形なんですよね。
そうなんです・・・
「自然」な姿は、美しいんです。一方、「自分の力でなんとかしよう」という姿は、醜いんです。
★ ★ ★
これを「人生」に当てはめて考えると・・・
人間は、「自分の力」でなんとかしようと生きて、その結果、醜い人生を歩んでしまいます。
そうした場合、赤ちゃんはどうでしょうか?
まさに「なずがまま」で美しいですよね?ただそこに存在しているだけで、まわりを笑顔にするような、そんな存在です。
そうなんです。ただそこに存在するだけでいい。
わざわざ資格を取ることはないし、スポーツ大会で優勝する必要もない。
ベビーカーで引っかかっているどこかのママさんを助けるなどという「善行」を行う必要もない。
ただそこにいるだけ。それだけでいいんです。まさに「なすがまま」。
で、もし「善行」を行うとしたら、「なすがまま」の延長で、自然に、ナチュラルに行う。
まるでイチローのバッティングフォームのようにしなやかに、美しく、風に揺られてそのまま動いているかのように・・・
自然に「善行」を行えばいいんです。
いわば・・・
知識・経験は「大人」の状態で、心は「赤ちゃん」の状態になること。
これを実現できたら、その人の人生は「達成した」と言えるのではないでしょうか。
★ ★ ★
もっと言うと、
赤ちゃんどころか、自然に帰る。つまり・・・
死後に「意識」は肉体から離れて残りますよね?何せ、「有」のものが「無」にはならないんですから。肉体だって消えるわけじゃない。何かに変換されるんです。
それと同じく、「意識」だって何かに変換されるはず。で、その「変換」されたときに、もし、人生をエゴまみれで生きた場合は、いわゆる「成仏していない霊」のような状態になって漂うのかもしれません。
一方で、イチローのバッティングフォームのようにナチュラルに生きた人は、死後、その「意識」は自然に帰って、「風」や「光」になるのではないか。
それが、輪廻転生から抜け出した状態、と言えるのかもしれません。
今回の動画から、いろいろなことに気付きました。いつもありがとうございます!
言っていいですか?
輪廻の輪を止める方法?
シンプルに生まれ変わりや
別の可能性を信じない事ですよね?
ええと、瞑想もしたことないような一般人や学者風情が
さも仏教を理解したように解説する書籍があまたありますが、
私は一切読みませんよ。
仏教でも悟ってない者が教義を解説してはいけないと戒律があります。
公的になっている概略を説明するくらいは良いですけどね。
それくらい仏教は間違った解釈の功罪に厳格ですよ。
強欲-執着
強欲とは物財の蓄積を過度に熱望することだ。
欲張りな人は、物的には与えられるものを沢山持っているにも関わらず、自分の物だと思っている物を他者と分かち合うことを拒否する。魂の感情認識が進んでも共有ができない場合には、物的な強欲は、霊的な強欲へと変化する。
霊的な強欲とは執着であり、不当に自分の所有物だと考えている人たち、たとえば子どもやパートナーなどの愛情を分かち合うのが難しい。
執着に苦しむ者は、少数の人しか愛さず、その人たちにも同じことを強要する。
多くの人が、誤って「愛している」のだと思い込み、相手を強く愛するがために苦しいと言うが、実際には愛着による執着から苦しんでいるのだ。 魂が進歩して初めて、愛と執着との区別がつくようなる。
Q愛と執着との違いを説明いただけますか。
A人が愛す場合は、愛する人と自分の自由意志を尊重しようと努める。自分がその人と一緒にいられなくても、愛する人が自由で幸せでいられるように尽くすのだ。
執着を患う場合は、愛す人のためになることよりも、自我を満たすことを考える。そのため、愛している筈の人の自由意志を侵害する傾向にあり、その意に反して自分の近くに置こうとしたり、自分のやりたい事を強要したりして、相手と「自分の競争相手」と見なす他の人との関係を最大限妨害しようとする。
本当に愛す者は、愛する人を所有しようとはせず、愛する人が他の人たちを愛しても不快に思わない。執着は底をつくかもしれないが、本当の愛・真実の愛は決してなくならない。より沢山の人を愛せるようになっていったとしても、その他への愛が減る訳ではない。しかし執着は、そうだ《愛が減る》と思い込ませるのだ。他の人たちに与えられる愛は、自分から奪われると思わせるのだ。
執着がある者は、感情を要求し強制し強要するのだ。自分がすることの見返りをいつも求める。要求し受け取ることばかりを考え、与える時には利益と引き換えで、最初に自分が頼んだことをしてくれるのが条件だ。執着すると、《愛する人を自分に引き留めるために》自分の自由意志すら侵害し、したくないことをするように自己を強要する。
真実の愛を感じる者は、無条件に与え、感情を束縛しない。強制も強要もせず、愛する人に何の見返りも求めず何の要求もしない。
Q違いが明らかになる例があればいいのですが。
Aいいだろう。鳥を愛していると公言する二人が出会ったとしよう。
一人は、冷房の効いた部屋の美しい金のかごの中で鳥を飼っている。高品質のえさをやり、瓶詰めの湧き水を与え、定期的に獣医に連れて行く。もう一人は、単に食べ物を公園に持って行くだけで、鳥が止まればなでてやり、怪我をして飛べない時は世話してやる。
最初の人は、「僕はなんて鳥たちを愛しているんだろう。野生であれば得られない快適さを享受できるように、鳥たちには多額を費やしている! でも直ぐに死んでしまうんだ! いつも病気で、薬や獣医に金を使っても早死にしてしまう。それが酷く辛い! どうしたらいいだろう?」と言う。
二人目は、「僕が世話する鳥たちは、僕のものではない。かごに閉じ込めてはいないし、自然の中で生きている。鳥が僕と一緒にいてくれるのは、かごの格子から出れないためではなく、そうしたいからなので、僕は幸せだ。自由に飛び回り、望むがままに生きているのを見られるので、嬉しい。友よ、君の鳥は自由でないから、悲しみで死んでしまうのだ。好きに羽ばたけるようにかごを開ければ、自由になれて幸せになるので、生き続けるよ」と言う。
最初の者は「かごを開ければ逃げ出して、二度と会えなくなるじゃないか!」と答える。
二人目は、「逃げたとしたら、それは意に反して捕らえられていたからで、隷属した生活から離れたいのだよ。僕の鳥たちは、好きな時に行ったり来たりできると知ってるから、逃げたりしないよ。その反対に、僕が公園に着くのを見ると、直ぐに寄って来て取り囲んでくれて、僕の上に止まるよ」と応じる。
一人目は「それが僕の望みだ。鳥たちに好かれたいんだ」と言う。
二人目は、「強要してでは、絶対に君の望みは叶えられないだろう。君は、彼らが最も切望すること《自由になりたい》の埋め合わせのために、快適さばかりを与えたのだ。鳥は自由に飛びたいのだ。鳥を本当に愛しているのなら、自由に生かしてあげなさい」と返答する。
Q愛しているのは誰で、執着しているのは誰ですか。
A鳥をかごに入れておきたい人に執着があり、鳥を自由にさせておきたい人が愛しているのだ。
【🎊神本🎊】読んだあと確実に人生が激変する「最高の本」でした『さとりをひらいた犬 ほんとうの自分に出会う物語』by 刀根健
ruclips.net/video/H048aRepMUc/видео.html
やるのが当たり前すぎて意識にすら浮かばないという感じかな。
承認欲求の強い人は絶対ムリですね😅
この理屈で行くと、こころに波風を立てずに息を吸うように悪いことをする奴も、悪では有るが善になるけど。
無意識の悪行は善なのか
仏教は五道輪廻六道輪廻説が分らないとわからないですよ。業とか悟りとか縁起とか
煩悩とか空とかわからんでしょう。インド人は考えた、地獄の一番恐ろしい地獄これを
無間地獄という、どんなところか?一切休みの無い苦しみ痛みの世界である。
無間よりましな地獄を等活地獄とかがある、これは苦しみ痛みが一時無い時があり
次にまたも苦しみ痛みが延々と繰りかえす地獄。インド人は地獄に対する想像力は
凄いものがある、極楽に対する想像力は無いみたい。死んでも地獄の生き物に
生まれるかも知れんので死んで物事は何も解決しない。
面白いとは思うけど、抑々転生が不幸なの?
そうなんです🎉
私が凄くかっこいいと思った座席の譲り方は車椅子を引いている私に気が付いた其のgentleman は何も言わずスッと立って他の車両に向かって行きました!
一般的に『どうぞ」と言って譲る方は大衆に私は良い事をしてるアピールが有り目の前に立たれる訳で何度も何度も御礼を言う羽目になります
其れもイイ事なんですが『業』が付くのでしょう!
まあ私は元気に見える故 殆ど譲っては貰えませんし 殆どの方はスマホに一生懸命で気も付かない!ですねlol
凡人である私には全然理解できないw
でも、確かに生きるって辛いよね。
最近RUclipsで量子論と宗教を絡めた動画が増えてキモいんだけど、なんか気になる。
助けようと思って助ける業も、輪廻を止めようと思い何も考えずに助ける業も、たいして違いはないように思えるのですが。
それ、思いました!笑
なので、切符を買う感覚で助けるのが業を生まない境地だと思いました。僕には無理…
悪行の場合も同じって事?
だとしたら怖い…
輪廻から解脱するには
ロボットの様になる事?
でも何となく解る…
思考とか感情めんどくさいもんね…
意図は良くないと大学の仏教の先生言ってた。
あれだからこうする、あれだからこれはこれだとかの意識からではなく、
自然体であるがまま流れるのが大事。思考にとらわれない。面白い思想だよなぁ。
手塚治虫のブッダでは悟った仙人が動物のようになってたな。
すごいお話です✨
教えてくださりありがとうございます✨
いいことも、わるいことも考えず行動するって意味あるのかな?
それって「生きること自体の否定」じゃない??
じゃ なんのために生まれて今生きているの?
善いことをしたと思った時点で負けやね
行き仏か?
輪廻転生などあるかどうかも分からないものをただ信じてこうあるべきなどと言うのは全く非科学的である。仏教の悪いところは人生は苦であるとしているところだ。人生には苦もあれば楽もあるのだ。釈迦はもう一度生まれ変わって人生には楽しい時もあると言うことで新しく悟りの定義を創り直してほしいものだ。
仏陀はM男だったんじゃないかな?w
病気 死が苦しみでは無いという人にとっては全く意味のない言説。
死からの逃避を人はやってるだけですよ。それに気が付くかどうか分りませんが。
政治家も芸能人もビジネスマンも死から逃避です。それを死王というその死王が
逃げ出す方法が仏教ですよ。