邪馬壹(台)国が見つからない理由について ① 里程計算に「對馬國」の「方可四百餘里」、「一大國」の「方可三百里」の2倍を合計里数に加えると、里程最後「不彌國」が12,000里で到達する国になります。 ② 「南至邪馬壹國 女王之所都」の「都」は首都という意味ではなく、古くは「多くのものを集めて統率する」という意味があり、「邪馬壹(台)国」は「連合国」を意味すると考えられます。「邪馬壹(台)国」の「七萬餘戸」の中に「奴國」の「二萬餘戸」は含まれると思われます。 ③ 「邪馬壹(台)国」の「官」の名前と国名の関係から、「邪馬壹(台)国」の中心である「女王國」は、「伊都國」の代表である「伊支馬」と「不彌國」の代表である「彌馬升」「彌馬獲支」と「奴國」の代表である「奴佳鞮」の4人で構成されていると推察されます。 ④ 「南至投馬國」「南至邪馬壹國」はどちらも大きな数十か国の大連合国と思われることから、里程で表すことができなかったため、日数表記になったと考えられます。また、「南至」はどちらも「帯方郡」から出発する時の方角を表すと思われます。 ※上記の項目を考慮して考えると「邪馬壹(台)国」が見つかるのではないでしょうか、参考にしていただければ幸です。
中国の使者『お前たちの国の名前は何という?』
大和の国の人『オイどんの国ン名前はヤマトたい!』
中国の使者『成る程、お前たちの国の名前はヤマトタイ、と。』
なんて間抜けなやり取りがあったと信じている九州の土着民です。
あ~まさに盲点・・・やまったい!
@@legato9193
そう、ネイティブに発音するとまさに『やまったい』になるのです。
倭国は我が国、狗奴国はクの国、奴国はナの国の意味と根拠なく思ってます。紀伊国がキの国だし上野下野がケの国だからありえるかもね。
@ 笑ってしまいました。筑紫の弥生人もそう言ってたと思います。(^^) つまりヤマトもヤマッタイも指してるものは同じってことですよね。
オイドンつてどこの国の人間の言葉?
貴方は九州じゃなかね?
三種の神器が元々北部九州の副葬品だったらしいから、北部九州の人が近畿の人らに影響与えたか移住したからヤマトの名を持っていったとかありそう。
天皇家も宮崎出身となってるんだしルーツは九州にあるんだろうなという気はする。
ただ、魏志倭人伝の邪馬台国が九州なら、纏向遺跡の真の姿は研究されないままなんだろうと悲しい。
いつも思うのですが、当時の文献の距離記述と(位置が実際に確定している)現在の距離との差異を比べた研究はないのでしょうか?
それがあれば、距離記述の曖昧さが判るのですが。
そういうことを論じた本はいくらでもあるよ。それを無視した邪馬台国論のほうが少ないぐらいだよ。
RUclipsのChannelさんは、手抜きだらけ。印象に残らない。…………畿内説は、行程論争には、参加する必要性がありませんね?💧…………Yamatoに決まりですから。北九州説は、短里で「合意」してスクラムを組みます。…………研究には程遠いのが現状ですねぇ~💧😅
奈良県民です。盆地の寒さ、なめるな。邪馬台国みたいに、冬でも裸足だったら、全員足を凍傷でやられます。温かい国だけにしなさい。
確かに。邪馬台国は熱帯ですね。
私も今奈良住まいですが、邪馬台国が熱帯なんて記述は何処にもないですよ。そもそも魏志倭人伝であり邪馬台国伝ではありません。戸数をみれば七万戸ですから、これは西日本の半分位は該当してもおかしくない広さですよ。
@@トミヤマサキオ冬でも裸足で過ごせるって記述があるで
だから、それは倭人の風俗して書いてある話。魏志倭人伝には邪馬台国に関しての情報なんてごく僅かで、投馬国五万戸より遠方で七万戸もの巨大な国、卑弥呼が都とする国、また卑弥呼自身は鬼道を使い人を惑わすとあるだけ。
ちなみに七万戸もの国というと、魏志韓伝(魏志東夷伝の史料で魏志倭人伝も同じ文献)馬韓国が十万戸、辰韓国が四、五万戸とある。馬韓国は九州島位の大きさで辰韓国は四国島位ある。つまり七万戸の国ならそれ位の大きさだという事。
大都市圏の人などにはわからないだろうが、2万戸って相当なもんよね。
人口で8万とすると、2階建て以上が当たり前な現代ですら、広さとしても10km四方あってもおかしくなく、そして中心部は都市らしい都市に成り始める規模。
戦後の再開発で相当量の遺跡が「工期の遅れ」「調査費用がかかる」を理由に報告すらされずに破壊されたと言われてるから、まあ今でもそれなりの都市があるところのどこかだよね
奈良県桜井市で三輪そうめんを食べてる時に邪馬台国の話になったら店のお姉さんが「卑弥呼のお墓もあるしこの辺で間違いないです」と言ってたw確かに道路沿いに大きな卑弥呼の看板があったw
この動画タイトルに完全に同意します
魏志倭人伝、ヤマタイかヤマイチか…
スタート地点の分かれ道で2度と会うことはないさようなら〜って感じ
南と東もそう
攻略本的にではなく 大山倍達伝を空手バカ一代で読むって感じで良いんじゃないでしょうか?
あまりにも資料が少ないので頼らざるをえませんが 個人的には 偽書倭人伝って感じに思ってます
ちなみに自分は九州説派です
九州は邪馬台国(ヤマト)の一部でそこに到達できる
そこから水行〜陸行で首都へ行く感じなのかなぁ
福岡県の南部に八女(やめ)と言う場所がありますが。
八女大国ね😆
謎なのは距離や日数そして方角が、船乗りにしては出鱈目過ぎる処だ。
わざと場所を知られないようにしている節が有る。
知られて困るのは良質な鉄や翡翠の加工技術ではないか。
つまり硬いものを加工出来る技術は軍事的に必要だろうから。
ならば投馬国は出雲で、邪馬台国は大和で良いのでは。
大和川沿いには青谷と言う製鉄所が有るし、石見はそれこそ有名だ。
そして鉄を研ぐには金剛砂で有る。
つまりは葛城山系に成る。
見つからない理由について別府温泉説は納得感ある
台は「たい」ではなく「と」って読むのでは?って前から思ってた
邪馬壹(台)国が見つからない理由について
① 里程計算に「對馬國」の「方可四百餘里」、「一大國」の「方可三百里」の2倍を合計里数に加えると、里程最後「不彌國」が12,000里で到達する国になります。
② 「南至邪馬壹國 女王之所都」の「都」は首都という意味ではなく、古くは「多くのものを集めて統率する」という意味があり、「邪馬壹(台)国」は「連合国」を意味すると考えられます。「邪馬壹(台)国」の「七萬餘戸」の中に「奴國」の「二萬餘戸」は含まれると思われます。
③ 「邪馬壹(台)国」の「官」の名前と国名の関係から、「邪馬壹(台)国」の中心である「女王國」は、「伊都國」の代表である「伊支馬」と「不彌國」の代表である「彌馬升」「彌馬獲支」と「奴國」の代表である「奴佳鞮」の4人で構成されていると推察されます。
④ 「南至投馬國」「南至邪馬壹國」はどちらも大きな数十か国の大連合国と思われることから、里程で表すことができなかったため、日数表記になったと考えられます。また、「南至」はどちらも「帯方郡」から出発する時の方角を表すと思われます。
※上記の項目を考慮して考えると「邪馬壹(台)国」が見つかるのではないでしょうか、参考にしていただければ幸です。
× 邪馬壹(台)
〇邪馬壹(壱)
〇邪馬臺(台)
@@zennin375 様 返信ありがとうございます。
「邪馬壹(台)国」の国名の解釈についてです。「魏志倭人伝」に記載されているのは、「邪馬壹国」と記載されているだけで、「臺」でも「台」もありません。本来は金印に使用されている「委」の「邪馬委国」(ヤマイコク)だったと考えられます。そこで同じ発音の「壹」を使用して「邪馬壹国」(ヤマイコク)と表記されていたと考えられます。後に委(倭)国(イコク)が大きくなり、大委(倭)国(タイコク)と呼ばれるようになったが、国名には「壹」のまま使用したので「ヤマタイコク」という呼び名ではあるが、「邪馬壹国」と「魏志倭人伝」に表記されたと推察されます。
船で何日とかって言われたら距離も方向もよく解からん
7万戸の規模なんてよほどのことがない限り現代でもそれなりの規模の都市圏があるはずだから、九州なら福岡市周辺・久留米市・八女市周辺くらいしかなくないかな
都圏なら現代でもに多くの人が住んでて遺跡調査は難しいだろうし、辛うじて出来た場所でも戦後再開発の工事中に見つかって破壊され証拠が葬られたんだと思ってる
魏の使者を邪馬台国に入れると朝貢の立場から、
「魏使者>卑弥呼」のポーズを示さないといけなくなり
それを見た邪馬台国民衆・隣国の卑弥呼への求心力が低下する可能性を恐れ、
入国を諦めさせるくらいの場所に有るという事にした。
つまり「テキトーに行程・距離を盛った」説かなぁw
昔の外国の書物に書かれて距離が正しいと思うのがそもそもの間違い。
なるほど、確かに、
また、漢の一里と魏の一里の相違点そして陳寿の書いた時代の一里も違えばややこしくなります
伊能忠敬以前の地図なんて歪みまくってるんやから、山から見渡せる程度の距離ならまだしも、それ以上の距離になると実際に移動した人のざっくりな感覚でしかないもんな。正確に測れてたら、もうその頃に正確な地図も出来上がってるってね。
状況だけで考えれば、九州北部のヤマト=山門=邪馬台が倭国平定に乗り出して、その間は中国さんの機嫌を窺う余裕が無く、落ち着いた頃には本拠地を畿内のヤマト=大和に移してて、そこからまた中国さんの機嫌を取り始めたんかな?て気はするな。
陳寿が地図をつけてくれたら邪馬台国までの行程の議論はしなくて済んだのにね。
動画内の地図の奴国の位置がどう見ても博多ではなく小倉あたりになっていますね。
渡邉説は著書によると一万二千里が魏略にもあることから魏の公式見解で陳寿はそれを引き継いだ、ということで情報が不確かな時代の距離をそのまま引き継いで書いたのではないでしょうか。
以下細かいツッコミを失礼。
↓
4:00 伊都国、奴国の位置が博多というよりは北九州になってる?
9:30 畿内に九州の土器が一切見つからないは古い説で最新の発掘調査では見つかっている。ニュー速日本史板の住人さんの動画で解説されてる。
そもそも陳寿本人が使者として邪馬台国に来たわけではなくあくまでも伝聞の記録(しかも勅なんかはともかく行程なんて間に何人入ってるか分からないレベル)
記憶違いや話し手自身が話を盛ってる可能性も否定できないので記述もどこまで信じてよいものやら……
耶馬台国はすなわち大和国、それは福岡県みやこ郡から大分県中津市に渡る地域、瀬戸内海に面した地域です。すなわち豊前の国です。海の幸、山の幸に恵まれたところで、稲作も豊かな所だったのでしょう。中国や朝鮮半島から離れていて、少し隠れた位置にあることから、繁栄できたと考えられます。
仮に邪馬台国があったとしても、当時強い王朝はなく、邑村連合集合のひとつだろう。
いや近畿にはかなり強くて伝統もあり広い領域に影響力を持つ政権があったと思いますね。九州は半島との繋がりが強い両者が混ざったような勢力が北の海岸地域にありそれとは別に内陸の勢力もあった。それらが争ったのが倭国大乱。争っているうちに大和王権の力が伸びて来て九州の勢力は一転連合を組んで大和王権に対抗しようとしたこれが邪馬台国であり記号としての女王卑弥呼。
結局のところ九州勢力は大和王権に屈して連合は解かれ不必要となった邪馬台国は機関機能を喪失して
山の中の一勢力に戻った。だから
大中華帝国のありがたい文字に記されていてもあまり日本史には関係ないのが邪馬台国と卑弥呼。実際東夷伝でもそう読める。鬼道で国を治めるwwwワロタみたいな
「やまたい」国なのか「やまと」国なのか
じつは「やわた」国で、や(多い、大きい、まとまる)わた(海神、渡る、海の意味)という
玄界灘連合なのではないか、とか
後は卑弥呼=日御子=日の国(肥の国)の御子、臺與=豊=豊の国の御子とかね
筑後の山門、地名ごと遺さない方向に向けられている気がする。
学者も医者も僧侶も政治も、ビジネスでしているヒトが多いですね。
神武東征、因幡の白兎の伝承、宇佐神宮の絶対的地位をみると、少なくとも継体帝より前の血統は宇佐が出身ではないかと思う。
佐伯氏、緒方氏など軍事に長けた古族が平安末期ぐらいまでは活躍したが、かれらの出身は豊後南部というのが定説(これは詳しく調べたわけでない)。
謎多き豊後の大豪族である大神氏が東国からの侵略者である大友氏などによって壊滅させられたこと、
また、大友宗麟が行った寺社破壊が、この地域の歴史解明に暗い影を落としているように思えてならない。
邪馬台国はヤマト国と発音して現在の奈良県を指しています。
紀元前60年に初代神武天皇が橿原神宮で即位されて以来、都が京都に遷都されるまでの間長く奈良県に大和政権があり、歴代天皇がいらっしゃいました。
また、邪馬台国初代女王卑弥呼は第7代孝霊天皇の皇女の倭母母曽毘売命です。
倭母母曽毘売命は紀元115年に生まれ198年に84歳で崩御され箸墓古墳に葬られました。
従って邪馬台国は奈良県にほかなりません。
神武東征はあった。
シンプルに卑弥呼は日向でトヨは豊
邪馬台国はヤマト国。
北九州探したって痕跡あるわけない。宮崎大分掘りまくれ!
邪馬台国の「やま」は、神聖な山を中心にした国家だと思うんだよな。
北部九州にそれに相応しい山といえば…やはり阿蘇山か。
邪馬台国→大和の流れは、日本の覇者国家が「ヤマト」を名乗っていたからではないかと。
神聖なる山の守り人(山門、山の入り口の門番的な)みたいな意味で。
日数表記ってことは、陸路で行くのは困難(距離を測れない)な場所と言う事。
三韓・倭地に限っては里数は、一寸千里法で測量したと思われます。一寸千里法は80寸棒の影の長さを寸で測り、それを里で読んだ、周里で測り直すことができない、実距離を無視した測量です。デタラメ距離ですが、海峡があるときなどは、有用ではあります。
面白いことに2箇所の影長の差を求めたとき、必ず1里が76m程になります、数学的にもです。ただ、測れるのは南北だけ、東西と斜めは三角関数で計算して求めます。ただ、東西は架空の距離なので、合計して12000里に近づけるのは無意味が薄く、萬二千餘里は単独の距離であって、伊都国等とは別の場所を意味します。
古墳の発掘で女性の骨と親魏倭王の金印が出土したら、絶対にとは言えないものの卑弥呼か台与の墓でありそこが邪馬台国の可能性が高い。今後絶対に発見されないとは断言できない。
そもそも、記述の距離が正確と言えないと思うんです。伊能忠敬ですら、当時最先端の道具を使っても誤差があるんですから。
個人的には、九州北部をぐるぐる回ってたんじゃないかなと。
邪馬台国の場所が確定する事は、親魏倭王の金印が見つかるか、それこそタイムマシンが発明でもされない限り、不可能だろうね。
金印は参考にはなるが確定にはならないですよ。簡単に持ち運び出来る物は移動できますから。
そもそも邪馬台国は七万戸ありますから、広さは最低でも九州なら全部含むというレベル。畿内でも紀伊半島周辺は全て含む広さですよ。
以前にも申し上げましたが、そもそも「邪馬台国」という書き方に疑問があります。
加治将一氏の説によれば、魏志倭人伝の時代の漢字「台」の旧字と「壱」の旧字が似通っており、どこかで入れ替わった可能性を指摘しています。
魏志倭人伝の写本はいずれも「邪馬壱国」(ヤマイコク)となっているようですね
「邪馬台国」の表記は後漢書で見られますが後年の注記として「邪摩惟」(ヤマイ)の訛りと記されています
「台」の音読みは「タイ」ですが表外読みで「イ」とも発音することがあり「邪馬台国」の表記で「ヤマイコク」と読むことも成立しないことはありません
これらのことから本来は「邪馬壱国」(ヤマイコク)が正しいとすべきなのではないでしょうか
この指摘は古くからあり説得力もあるのですが「邪馬台国」をどうしても「大和」に繋げたいという願望を持つ人が多いためなかなか普及しないのでしょう
隋書倭国伝では邪靡堆(ヤマタイ)表記が見られ古代においても邪馬台国呼称論争があったと想像できて面白いですね。
@@zennin375
大和政権による思惑が有るかもしれませんね?
隋の頃はもう奈良大和政権ですので、卑弥呼とは時代が違います。
邪馬壱国と書いて さばい さばえ 鯖江とは❓
同時代史料の魏志倭人伝には邪馬台国ではなく邪馬壹国と書いてあり、邪馬台国が登場するのは一世紀以上も後に編纂された後漢書なんだべ
国名が壹から台(たい)に変わったんだべ
ついでに単里(1里=76メートル)で記載されているんだべ
正確な測量技術のなかった時代のこと、伝聞をもとにした史書の記述であることなどから、魏志東夷伝倭人の条から件の国の位置を特定することは難しいと考えます。こういう時は物的証拠を待つしかないのでは?と思います。みなが納得できる規模の集落跡などの発見を期待するしかないのでは?ただ、それも興味を持つ人があってこそ。みんなで大いに議論して機運を醸成していくのが大事。私自身は九州かな?と思ってはいますが説得力のある根拠はありません。近畿よりも北九州のほうが中国大陸に使者を送りやすいのではないか、という程度のものです。難題であると同時にロマンあふれる話ですよね。
ころころ変わる中国王朝の支配権から隠れるために九州から奈良県辺りに遷都した説
北部九州説にこだわるのではなく、魏志倭人伝にしか邪馬台国が記載されていない点が邪馬台国無い説の根拠なのでしょうか?私は北部九州から大和まで広範移動説を取りたいと考えます。あの距離と思われる記述から急に日数(日程)に変わるあたりから北部九州にあった邪馬台国が、少しずつ東征して行ったと捉えるのが、自然な読み方ですし、その後5人の倭王の話が出てくるあたりから大和政権が成熟しヤマトに都を開いたと言う考え方もありかなと思います。もちろん魏志倭人伝にしか邪馬台国の事が書かれていない点を考慮して時間軸距離軸の方に疑うべき点もあるかなと言う妄想ではあるんですがね。www
魏志倭人伝の内容と整合性が取れる場所は古代日向、都城盆地とその周辺の平野部のみ。
12000里は帯方郡からの直線距離。戸数から考察すると奴国2万戸は筑後平野。投馬国5万戸は熊本平野だと思う。
水行30日で太平洋上に~と言ってる人は水行・陸行についてまともに考察するつもりがないでしょ。
ほんの100年前の出来事でも好き勝手に歴史を改変してる国だらけだし、数千年前の人間が書いたモノなんて・・・
そもそも、いつまで邪馬台国を
「ヤマタイコク」と呼ぶのか?
だったら
卑弥呼の跡継ぎの台与も
「トヨ」でなく
「タイヨ」と呼ばねば
おかしいです。
もともと日本人は邪馬台国をヤマトコクと読みたがったので台与もそれに合わせてトヨと呼ばれた
中国人から歴史的に見ても「台」の字はどう頑張っても「ト」の発音にはならないと指摘され仕方なくヤマタイコクの読みに変更した
事績がなく研究の余地が少ない台与の読みはさほど重要ではないのでそのまま放置されているというだけの話
というか日本においても基本的に「台」を「ト」と発音することはない
一万二千里って言うけど渡海の段階で狂ってそうやな
まぁ、中華中原の記録にも、殷を滅ぼした太公望呂尚の太伯(上級貴族)であり句呉の末という認識だそうで。まぁ、遠い分家というモノ。
分家に本家乗っ取り仕掛けられた!なんて恥ずかしくて恨み百倍になるわさ。
中国の1里は数百(3〜500)メートル。
@@ishikawakinzoku2024どうやって計ったんやって話じゃねーの?
松本清張が「一万二千里」ってのは遥か絶遠の彼方を示してて、邪馬台国もヨーロッパも全部一万二千里になってるって言ってた
あと、距離が日数に変わるのは、実際にそこまで行ってないからとも言ってた
「台」の発音が”と”であったことは、16世紀に日本を偵察に来た明人が著した日本一監を見ても明らか。
「台」を”たい”と発音するようになったのはかなり新しいことだろう。
10世紀編纂の和名類聚抄に「大和国」のルビとして「於保夜万止」が記載されている。
つまり「大和国」の本来の発音は”おおやまと”だった。
おそらく、中国で自分たちの国が「倭」と呼ばれていることを知り、それを好字「和」に換え、「大」を付けた。
阿波国でええやん
邪馬台国の表記は中国史書によるものなので重要なのは中国における「台」の発音では?
日本の発音は何の関係もないが
魏史は中国人陳寿が晋帝国の関係者に読ませる事を目的として作った歴史書なのだから、彼ら(この場合は魏の長政ら)が現地で聞いた音を当時の中国での発音ルールに則って記載しているにすぎない
当時日本に文字はないのだから
そこに後代における日本での漢字の発音が影響を与える余地はどこにもない
里数までの記録を書いた文書と日数を記録を書いた文書とではおそらく元となった資料が違う時代のものだという説を推します。
つまり、最初の里数の頃の邪馬台国は九州にあり、日数の頃の邪馬台国は奈良にあった、という理解です。
具体的には西暦100~200年ごろまでは九州で、260年ごろには奈良にあった説を推します。
実在を確実視されている10代目の崇神天皇は古事記・日本書紀では紀元前の頃の活躍なってますが、遺跡や朝鮮半島などの記録と照らし合わせれば西暦300~350年ごろの活躍となります。
逆算すれば初代の神武天皇は200年~250年ごろの活躍と思われます。神武東征時の戦争と魏志倭人伝の倭国大乱の戦争とも時期的に合います。
これでいかがでしょうか。
金国では邪馬台をヤマトと読んでいたようだし、卑弥呼の後を継いだㇳヨも
台与と書いているからヤマトと読んでいいのではないかな。
ちょっと面白いけど、決定的に違う。西日本は江戸時代から散々検証を重ねて、掘って掘って検証を重ねて見つからない。
当時、人口の多かったのは、果たして西日本だろうか?水行を行えるのがどこかを考えて見て。海じゃない。
やまと、この変換予測がたくさんあるので、全て地名を当てはめてみたらどうだろうか、大飛、矢的、山登、山留、八真人、いろいろあるもんだね
糸島市周辺が可能性。
やはり、平原遺跡周辺説を推薦する。
そこは、皇室の故郷。玉依姫の墓。昭和の研究者 原田大六先生が言っている。そこ、伊都国だから。
@sunsun2181
その説は知っている。
唯、遺跡から出てきた物がな…。儂には、此処なんだよな。
奴国二万戸有とある時点でこれは大国のある北部九州しか該当しません。
更に遠方の投馬国が五万戸可、邪馬台国が七万戸可とあるようにこれだけで九州にあった事はかなり無理があります。
五万戸だと対岸の辰韓国と同じ規模の国となりますから。普通に解釈するとかなり大国であると判るはず。
つまり巨大古墳が多数造られる労働力がある畿内しかありませんよ。関川氏の論はここに矛盾があります。
吉野ヶ里遺跡を含む佐賀平野に点在する遺跡群をまとめて一千戸程度の国だったと言われているので
九州に投馬国や邪馬台国まで収めるのは無理があるでしょうね
九州説はこの戸数問題をかなり推測で説明しないといけない、もしくは無視するしかないですからね。
そもそも東夷伝ですから東アジアの情報は半島込みで見ないといけない。倭人も関わっていれば尚更でしょう。投馬国と邪馬台国で12万戸は西日本全域が該当してもおかしくない大きさです。
距離は詳細に説明するのに戸数問題を軽視しすぎだと思います。
九州説か畿内説にかかわらず考古学的に当時の日本の全人口が60万程度と言われているので魏志倭人伝の戸数は盛りすぎでしょう
戸数の数字が正確とはいえません。だが奴国に関しては二万戸有ですから把握はしている戸数ととれます。
対して可とある投馬国、邪馬台国はある程度の推測だと思います。ただ国の大きさについて嘘をつく必要性もない、ので邪馬台国はかなりの大国だといえると思います。
半島諸国に対して倭国だけ極端に数字を盛る必要性は薄い。
だけど三世紀以降の畿内には巨大古墳を連続して作るだけの労働力が存在するのは事実です。この点が重要だと思います。
素戔嗚のモデルになった人と領土争いできるくらいの位置にはあったと思うよ
こんにちは。
魏志倭人伝で不思議なのは、投馬国から何故いきなり水行◯日とか漠然とした距離の説明になってるのかですよね。
邪馬台国の正確な位置をぼかすための意図的な表現なのかなと疑ってみたりします。
多分奴国や不弥国までは正確な位置表記と思いますね。
個人的には邪馬台国は福岡の久留米から熊本の山鹿市周辺にかけてではと思ってます。
山鹿市付近は縄文時代前期頃に淡水の巨大な湖があって、縄文末期から弥生時代には干上がっていて稲作に適した土地になってたらしいのと、
久留米市郊外に祇園山古墳という円墳があって、古墳の周りに弥生時代から古墳時代の大量の墓地があって、
それを卑弥呼と一緒に埋められた奴婢の墓とか倭人伝に書きまくられたんじゃないかなとか考えてしまいます。
また、仲哀天皇と神功皇后夫妻が九州に熊襲征伐に来た時、わざわざこの古墳の上に陣を張ったという逸話があるそうで、天皇が余程雑に扱いたかった位のお墓だという辺りが何か気になる古墳です。
倭人伝に書かれていた鯨面文身文化が大和政権主流の古墳時代には見られなかったり、度重なる朝廷による九州征伐から、九州の倭人と近畿の大和政権とは全く違う文化の人じゃなかったのかと私は思います。
方角・距離表記から方角・日数表記にに変わるのはやはり魏の使者が実際には訪れていないからという説がありますね。
使者に場所を隠ぺいする動機がありませんし中国の史書には倭人には里数の概念がないことが言及されています。
ただ総距離万二千里とあるので放射説に依れば距離が逆算可能ではあり省略されたと考えることもできなくはありません。
日数は帯方郡からのものという説もありますがこれは文脈を無視したかなり不自然な解釈だと個人的には感じています。
ただいずれにしても九州説の立場だとに日数かかりすぎ問題がありますね。
山鹿は自分も候補のひとつとして考えています。
邪馬台国はヤマト国と発音して現在の奈良県を指しています。
紀元前60年に初代神武天皇が橿原神宮で即位されて以来、大和政権が奈良県にあり、都が京都に遷都されるまでの間長く奈良県に歴代天皇がいらっしゃいました。
また、邪馬台国初代女王卑弥呼は第7代孝霊天皇の皇女の倭母母曽毘売命です。
倭母母曽毘売命は紀元115年に生まれ198年に84歳で崩御され箸墓古墳に葬られました。
従って邪馬台国は奈良県にほかなりません。
2万+5万=7万戸という事ではないのかな
其山有丹
観光資源になってるから、よほどの事がないと認められないと思う
ワイは邪馬台国はなかった説を推す
司馬懿がライバルよりも功績を多く見積もる為に虚偽を述べている可能性がありますよね。そこは『政争の具』という流れが世にはありますので。
魏の人
『安価で,2千年後の倭人釣ろうぜ!』
そもそもヤマト国だしねぇ
台はトと読むらしいし 台与(トヨ)
無いよ
九州の一部の村落を誇張してそう言ってる感じがする
そうすれば支那が日本を支配しているという既成事実が作れる
まあそれも成り立ちますね
ミハイルロマノフみたいに勢力間の妥協で小勢力の長が記号/象徴的に
トップとされる地位につく。でも
連合が解体したら意味を失い元の小勢力として簡単に消えてしまった。
晩期室町将軍のような存在
やはり、前提が間違ってるんじゃないかなぁ。
女王国(卑弥呼)と邪馬台国は別と考えるほうがわりとスムーズなんですよね。実際、魏略には「邪馬台国」という記述は無いからなぁ。
あと、狗奴国と邪馬台国は敵対してないんですよね。遠絶国の紹介のあとに、女王国と狗奴国が敵対してると記載されてるわけで。
つまり、条件としては「水行10日、陸行1か月」の場所に「邪馬台国」があるとしか読めない。萬二千里は関係ないと思うんだよね。
最近、ある方の説を読みました。その内容は、水行10日は朝鮮半島から邪馬台国へ向かう際の行程の一部で、陸行1ヶ月は同じ区間を邪馬台国から朝鮮半島へ向かう際の手段と所要日数だというものです。日本海を北上する対馬海流に乗って進む場合と、それに逆らって南下する場合の手段や日数の違いだそうです。それは意外な場所だったのですが、私は納得出来ました。
ちなみに、その方は理論的に考察した邪馬台国の場所や、その地に実在する卑弥呼の墓などの遺構を撮影したとする動画をYouTubeにもUPしておられます。興味がおありならばご覧下さい。
魏志倭人伝になくて本来記載されていないといけないのが「纏向遺跡」です。
魏志倭人伝を作った大陸の西晋が大和王権を知らなかった証拠だと言えます。
つまり大陸は北九州の地域勢力を柵封していたが、記紀にある通り日本は交流していなかったのです。
記紀の三韓討伐の記述が真実である場合、北九州の地域勢力に半島を柵封していたのに、大陸が取り戻せないので大和王権を柵封地域のように偽装したと言えます。
伊都国は怡土県であり、怡土と志摩郡になり、今の糸島市まで
すっきりわかる所のなので、まちがいようがないんだよね
もともと山島に依って暮らしたyamatoんちゅーは筑紫人のことだったらしいです、日本人の祖先は筑紫から東に拡がり大和で纏まったと考えると答えが見えてくる、かも?
平地の面積の割合でいえば、那国(福岡市)2万に対し、筑紫平野7万は妥当と思いますけどね。
楽しく見ています。これからも頑張ってください。
魏志倭人伝は、
①女王国までの行程、伊都国の一大率は後の太宰府、ここに男王がいた。
②女王国以外の大きな国、投馬国へは博多湾から出航して日本海経由で出雲、邪馬台国へは宇佐から出航して瀬戸内海経由で大和。(宇佐が女王の都とする所)
③女王国内の国々。九州以外は遠く隔たり不明となっているので女王国が支配する国々だろう。
私も、久留米、甘木、八女、日田そして、宇佐までが女王国だと思います。日本書紀の神功皇后期に、遣魏そして八女の女酋長、田油津姫の記載があり、何らかの勢力があったと思います。南、至投馬国、水行20日を、フミ国からと考えないで、帯方群からと考えると、凡そ宮崎当たり、水行10日では記載の通で、凡そ末盧国からの距離からも、陸行も、まあ?妥協の範囲かと思いますが。
実在しなかったから
絶対に見つからないのかな
ドラえもんの未来の勉強道具では2004年に邪馬台国の場所が明らかになったと言っていたが…
「魏」の後継国家「晋」の創始者「司馬懿」を持ち上げる背景、隋書「倭国伝」、明史「日本伝」に見られる日本史との食い違い、中華思想による周辺国sage(「卑」弥呼、「邪」馬台国、「匈奴」等etc…)等を考えると、魏志倭人伝は本当に資料として信頼できるのかと思ってしまいますね。
そうですよね。彼等の尊大な態度には鼻持ちならないですけど、当時の最先端国であるのは事実だろうし、当時の日本人は漢字が読めなかったそうですから、その屈辱的な表現に気付けなかったのではないかと思います。
強大な国力を背景にして、偉そうに言う側は安易に意見を言えただろうけど、その誤りを指摘して訂正を求めたい側が国力が弱い場合には、然るべき立証が求められるという状況になっていたのかもな、と想像します。
魏志倭人伝がなぜ信頼されているかと言えば狗奴国と邪馬台国までの地理が同定できるからです。
日本の記紀は神話部分を使って学会では全部嘘だと言われていますが、考古学的証拠として魏志倭人伝にない証拠が見つかっています。
どう考えても邪馬台国とは言えない「纏向遺跡」が発掘されていますが、本来魏志倭人伝に記述がないのはおかしいと言えます。
記紀の三韓討伐が正しいとすれば、大陸は柵封していない大和王権に朝鮮半島の南部を勢力下にされたのに、取り返せないので捏造した可能性が非常に高くなります。
未だに距離と道のりを混同している人がいるとは。。。笑
そもそも魏志倭人伝をまんま信用できるのか?
さすがにまんま信じている学者は居ないよ。
根本的な話、そんな昔に正確な測量技術何て無いから距離は感覚的な物では?
邪馬台国は日本と中国の記録に有るから存在はしてたと思いますよ。
邪馬台国は存在してましたが…神の怒りを受けて跡形も無く滅ぼされました。
中国で里と日数の換算で、一日あたり帥行30里、一舎30里という言葉がある。これで換算すればすぐに答えが出る。だいたい熊本南部あたりになる。水行+陸行=二月=60日=60*30=1800里
伊都国から先の、日数で書いて有るところは、適当に書いたんじゃ無いのww。要は使者は行っていないとか。
タイムマシンが無い限り真相はわからない
実は晋書倭国伝に答えらしきものが書いてあります😅
倭人在帯方東南大海中 依山島為國 地多山林無良田食海物 舊有百餘小国相接 至魏時有三十國通好戸有七萬
つまり倭国の戸数が七万戸で、邪馬台国の戸数と一致しますので邪馬台国とは大和王権のことで、
三世紀の大和王権の領域が邪馬台国という意味だと思われます😅
畿内や北九州とか限定された地域ではなく普通に邪馬台=大和 と解釈して普通に五世紀の倭の五王に繋がってるだけで謎の四世紀でもなんでもないつまらない結論になってしまいますが笑😂
どこで皆間違うかは、帯方郡から女王国までの里程記事がまず存在しておりこれは九州のことが書かれています。
後の時代になり新しい情報で投馬国と邪馬台国の帯方郡から日数で行く行程が追加されてこれは本州のことでしょう。
女王国時代はまだ東の海渡ること千里倭種の国有りという認識しかないのでここで時代が異なる別資料だとわかります😅
ようは帯方郡から邪馬台国=女王国まで万二千里と里数の行程記事と日数の行程記事が連続してると勘違いすることから生じる問題で、
魏志倭人伝の各文章ごとに時代の異なる資料を用いていると意識して読めばそんな難しく考える必要はなく、現在でも位置論争はほぼ畿内説で決着してる通り、都は大和でただ領域が奈良盆地限定ではなくもっと広い領域を指しているということだと思う次第です😅
卑弥呼の在位期間は倭国大乱後の二世紀後半から三世紀半ばまでとかなり長期間に渡ったので、この間かないし卑弥呼の死後に九州から畿内への東遷があり、それが記紀の神武天皇の東征話の元ネタだと思います。これ以上は妄想になるのでやめときます😂
邪馬台国がなかったというのは、魏志倭人伝を正確に読めていないからです。まず、邪馬台国は正確には「邪馬臺国」であり、読み方は「ヤマダ国」です。台と臺は別の字であり、「臺」の発音は「だ」で、それを「たい」とか「と」と読むので間違ってしまうのです。次に、不弥国の次の水行をつなげて読むのではなく、これは別の文章であり、帯方郡からの距離を日数で再度書いたということです。里程の記事は不弥国で終わっており、ここは福岡県宇美町ということですが、宇美町は内陸にあって船で行くことはできません。そこから水行などあり得ません。つまり女王国・邪馬臺国は宇美町に隣接している地域ということです。
魏志倭人伝だけでなく、日本書紀を参考にするとかなりよく分かります。日本書紀では邪馬台国のことは書かれていませんが、神功皇后の記事の中に魏志倭人伝の引用があり、日本書紀の作者は卑弥呼と神功皇后をだぶらせているようです。そこで、神功皇后の足跡を辿ると魏志倭人伝に登場している国が何箇所も登場します。その中で、重要な地点は応神天皇が誕生した場所が宇美町であり、その前後の移動経路を見ると、魏の使者が通ったであろうと思われる経路と重複しています。それは、まず、福岡市東区香椎を出発して、粕屋町駕与丁(かよいちょう)→宇美町→太宰府市御笠(この地名は神功皇后の笠が風に飛ばされたことによる)→筑前町砥上→筑前町栗田→朝倉市秋月となっています。このルートは神功古道として言われているものです。この付近一体が女王国・邪馬臺国の勢力範囲と思われます。その中には、吉野ヶ里に匹敵する平塚川添遺跡もありますが、多くの遺跡はこの神功古道に沿って数多く点在しています。そして、そのまま進むと筑後川に接するところが朝倉市山田で、ここには661年、斉明天皇が朝倉橘広庭宮を置いたところです。筑後川を上流に進むと日田市で、この辺りも女王国の範囲でしょう。
あったとしても地方の豪族だろな
魏志倭人伝の内容は金印もらった北九州時代の記述。邪馬台国は魏時代の大和。卑弥呼がいた場所は大和と九州を行ったり来たり
当時の測量技術はかなり正確です
「馬王堆漢墓」という魏志倭人伝より400年以上前の墓から発見された地図が現代のものと比較しても遜色ない精度です
(ちなみに埋葬者の保存に「辰砂」が使われています)
水平線の向こう側海の向こう側の都市と都市の距離を測るのには天測以外手段がありません
これは現代でも同じです
GPSは現代技術による天測です
従って1万二千里、東南の方位という記述は間違いありません
「帯方郡から狗邪韓國まで七千里」
狗邪韓國が何処であれ朝鮮半島南岸です
直線で七千里(500km)ピタリです
しかし魏志倭人伝には「海岸線沿いに進んだ」と記述されています
グーグルマップで確認してください
海岸沿いに進んだら七千里では絶対着きません
従って「七千里」も「一万二千里」も直線距離です
しかし途中南へ行ったり東へ行ったりしてます
「東南の方位」とハッキリ書いてるのですから途中行程の合算ではない、というのは明らかです
結論、
謎は謎のままの方が、…………良いんだな……と。
萬二千餘里は女王国の場所であり、邪馬台国となっていない。距離をどうやって測ったか、都市と都市の距離を測る手段は無いはずなので、国の場所ではない可能性もある。
海峡の距離はどう測る、1里は何メートル、見えない遠い先の方向はどう決める、東西距離は測る手段が無い、など調べるのも楽しそう。
古代中国の測量技術を舐めちゃいけない
ググれば出てくる
ちょっとビビるよ
最初のほうは良かったのだけどな・・w 魏略を見ても、その記述が魏志(倭人伝)と語順というか使われている漢字まで一緒であることから、これら2つの書物は”同じ元文章”をコピーした可能性が高いことが伺えます。一部の差異は魏略の著者である魚豢の推測によるものでしょう。非常に駄文である魏志倭人伝を陳寿が書いたものだなどと言うのは、陳寿に対しても失礼と言うものでしょう。そもそも陳寿は序文にて、”信じられない記述もあるが”といったようなことも書いていたりする。
万二千里を(特に畿内説者が)無視するというのは昔から多くの人が指摘するところですが、今でもほとんどの人が無視している記述が、魏の使いが梯儁と張政の2回あったという事実でしょう。多くの人は、何の根拠もなくこの2回の行程が全く同じものであったと考えているのですが、これは魏の使いが1回しかなかったと考えるのと同じほど間違えた考えです。実際にはこの2回の行程は、特に九州上陸後は大きく異なっていたと考えることで、多くの魏志倭人伝の記述を読み解くことができます。例えば、梯儁が一大国から伊都国に(末盧国を経ずに)船で行ったと考えるだけで、魏志倭人伝で多くの『謎』と言われているものの多くが解決することが分かると思います。
私も動画を作成しているのですが、それは魏志倭人伝の記述に焦点を当てたものであり、私の考える説とは異なる人であっても魏志倭人伝の読み方のヒントになることが1つか2つは含まれているのではないかと自負するものですので、是非にご一覧くだされば幸いです。
(これは、れーしch様だけでなく、全ての視聴者様に向けたメッセージでもあります♪)
阿蘇山の噴火で埋もれた説に1票
ワシはヤマタイコクの生き残りじゃ。
邪馬台国が九州に確定しても奈良公園がある奈良県はなにも困らないけど、畿内説のとおりだと佐賀県は観光的に大ダメージ受けるんだよな。
佐賀県は吉野ヶ里の発掘広報に知事自ら乗り出してくるぐらい積極的だけど、奈良県は纏向遺跡も箸墓古墳も観光地として見てないという。
元奈良県民です。何百と古墳がでるので、一応めだつ古墳は整備していますが、そんなにあれもこれも予算出せません。キトラ古墳とかは、保護されて、資料館や公園とかになってますが・・・。箸墓は宮内庁管理なので、手出しできませーん。
わからないけど、奈良県的には優先順位として、平城京跡地をもっと建物復旧して、いいかんじの公園と学習施設、観光施設にしたいのでは? なんせ都だし。
宮内庁管理でも堺市は大仙古墳の観光地化推し進めて、世界遺産にまでしちゃってるのでなあ。
まあ、奈良県に足りてないのはホテルや新幹線のインフラと食い物屋ですよね。
宇佐神宮のある宇佐市一帯でしょ!
もしかして山台国じゃ無かったのか?
山岳国家。
村おこし気分で考える人も居るから余計に混乱。地形を考えれば簡単なのに。福岡平野で2万戸。その3倍ぐらいだと筑紫平野しかないのに目を背ける。使者のとどまるところが伊都国(糸島)、奴国は福岡市というより、福岡市南部・春日市・大野城市あたり。太宰府市は筑紫平野に抜けるための関所みたいに見える。歴史的にも太宰府の北側に水城跡がある。機内や四国だと伊都国を抑えるのは不可能。吉野ヶ里遺跡・平塚川添遺跡・尾迫辻原遺跡がそのエリアに思える。曹操の鉄鏡に似たものの出土地とされる地域でもある。
帯方郡から直線で12000里だと徳島県あたりになると言う阿波説もありますね。
そうすると水行、陸行の日数にも整合性が出てきます。
「その山に丹(水銀朱)あり」という記載から徳島の若杉山がそれではないかと言われています。
徳島説ってかなり無理があって、邪馬台国の北にある伊都国が邪馬台国の西にあるので方位を無視しないと成立せず、里数も直線ではなく行程10500里で伊都国まで来て、そこから邪馬台国は1500里ではなく、帯方郡から12000里なので残り7000里先にってなるので里数の解釈にも無理があります。
直線でなら短里も解釈で30mはブレがあるので、長さを都合の良いように解釈すればある程度どこにでも候補地にできます。
その山に丹ありは後漢書にはその山に丹土ありと訂正されているので、水銀ではなく丹土で赤土のようです。そうなると水銀が出るというのは根拠にはなりません。
@@NK-pl6no 当時、徐福伝承もあるように非常に価値のある丹=辰砂(水銀朱)の話だと思います。丹、丹土とわざわざ記載が変わってるところに意味があるとは思いますが、とても重要なポイントであることは当時の人も理解していたはず。赤色土のことなのか、辰砂のことなのか曖昧に書きますかね?
さすがにただの赤土を特産物のトップにはもってこないですよ、三世紀の認識とすれば丹は辰砂で間違いないと思いますよ。
朱丹と書かれたなら、赤土か水銀朱か分からないが赤い塗料という認識でしょう。辰砂はただの赤い岩ですからね。
だが間違えてはいけないのは丹が邪馬台国の産物ではなく、倭の山に丹がある、と書かれてるにすぎない点。邪馬台国の場所の証拠にはならないのです。
「丹あり」は倭地の概要として書かれているだけだね。
何処の国の特産とかそういう意味ではない。
「倭では丹が取れるよ」くらいの意味。
@@TheKzit1969そもそもこの当時は辰砂や丹土や鉛丹も含めて丹と呼んでいたので、丹=辰砂=水銀と考えるのは水銀を根拠にしたいがために結論から逆算してるだけではないかと。
帯方から会稽まで南に1万2千里だから、風俗の似ている女王国も南に1万2千里のところにあるぐらいな話とおもう。地理情報に関しては日数の書かれたテイシュンの報告と距離数で書かれた張政の報告とこの作者不詳の風俗からの資料の3種類の紹介なんだろうなぁと考える。
奈良は昔はヤマトでなくオオヤマトと呼ばれたようです。と言うのは奈良を表す大和と言う字は大はオオであり和は倭ですからヤマトですから昔は大和と書いてオオヤマトと読んだと思われます。 本来のヤマトは九州の山門郡だと思われます。そして邪馬台国即ちヤマト国は九州の山門郡から奈良に移動したため奈良のヤマトを本来の九州のヤマトの山門郡と区別して大和オオヤマトと呼んだのではないでしょうか。
魏志倭人伝の記述は鵜呑みにするのに、同じく邪馬台国について書かれた
隋書倭国伝については全く触れないのがまたね。隋書にはヤビタイの都、
都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也(ヤビタイは魏志のヤマタイ)があり、
有阿蘇山(阿蘇山がある)と言及しています。まあ、この頃のヤビタイは
すでに東方遷移していて、当時の飛鳥朝(ヤマト朝廷)を示すのでしょう。
邪馬台国の「台」の文字が使われるようになったのは戦後のことで「やまたいこく」じゃなく邪馬壹国(やまいちこく)、「壹」は「壱」=1なので
だからヤマトうんぬんてのはおかしな話
「やまいち」だと山一(やまいち)みたいなのでもおかしくない、むしろ平地ではなく山なのでは?
九州は山岳信仰が多いしシャーマンである卑弥呼が山に居てもおかしくない
そもそも中国側は漢字を勝手に当ててるだけなので日本の呼び名に音を当ててると考えると「山」かな
経路については途中から距離ではなく時間になってるのがキモよね
九州上陸してから東南の方向ってとこはいいとして直進できなかった=難所が多かったからではないかと
九州西北部から東南へ行くとなると真っすぐ進めない、陸路は難所で近代になっても隣県へいくにも大変だったりする
大分なんか九州なのに四国との関係が深かったり宮崎大分間もジャングルみたいな山間部が隔ててる
耶馬渓みたいな遭難の名所もあるし
だから海路ってのも出てくる
陸路も海路も数日ってのは直進ではなく蛇行するからでしょう
そうすると途中で数泊して温泉にでも入ってくかと
宇佐神宮が卑弥呼の墓説ってのがあるけど、あのあたりが豊の前、つまり邪馬台国への入り口なのでは
卑弥呼の後継者台与(とよ)の国から豊の国の入り口で豊の前、豊前になった、として
大分から宮崎にかけてのどこか、にあったと思う
「壹」は漢音で「イー」の方が妥当かと
古代中国の測量は天体を利用していたので難所の有無はあまり関係がなかったと思う
途中からの日数表記は里数を知らない倭人からの伝聞という説も説得力がある
いずれにしても全行程説も含めて九州説では陸行時間かかりすぎ問題がある
「壹(い)」なのか「臺(と)」なのかの議論は日本人が「ベニス」なのか「ベネツィア」なのかと議論してるのに近くて
「そんなもん現地人に聞けw」となる
仮に「臺(と)」だとするとそれは「ヤマト」となり現代日本へとつながる記述となる
「壹(い)」だとすると「ヤマイ」となり関連がありそうな古い地名、伝承もなくここで途切れる
邪馬〇国と交流があったのは「魏」
この時代に書かれた歴史書は「魏略」で原典は現存しません
のちに続く「魏志倭人伝」「後漢書東夷伝」「隋書倭国伝」「宋書倭国伝」もこの「魏略」が出典です
その中で「壹(い)」は「魏志倭人伝」(これも写本)だけで他は「臺(と)」なっているので写し間違いと見られてます
いや「壹(い)」が正しいんだという議論もありますが最初に述べたように
現地日本に「ヤマイ」に連なる地名や伝承が無いため妥当性があるようには思えません
もう一つ付け加えておきます
「ヤマト」だから「山」とする説にはかなり疑問があって
「ヤマトタケルノミコト」が日本書紀では「日本武尊」と記述されています
「日本」訓読みすると「ヒモト」ですが、これを古代では「ヤマト」と読んでいたということです
念のため書くと「ヒモト」も「ヤマト」も現代発音です
対応する文字を考えると「日(ひ・ヤ)」「本(もと・マト)」となり
「ヤマト」は「ヤマ・ト」ではなく「ヤ・マト」となるはずです
尚、山岳信仰は日本中にあります
当時の魏は三国の時代、行軍のための測距技術と地図の技術は重要です。この時代、すでに天体や影を使って一万二千里をほぼ正確に測る技術はあったようです。遠いほど正確になるようです。つまり1万2千里はほぼ正確だということになります。帯方郡から円をかけばそれが日本のどこに当てはまるかおおよそわかりますよね、
一寸千里法は唐の時代に誤差が大きいと廃れた手法で、夏至に緯度、南北の距離はある程度正確に出ますが、経度、東西の距離は誤差が大きくなります。地表も天も平面が前提の説なので遠くなればなるほど誤差は大きくなります。
@ ご教授ありがとうございます。では夏至に測定したとして南北方向の距離は精度高く測れたとして経度が何度ズレた場合に誤差がどのくらい広がりますか?
これがわかれば経度ごとの誤差が掴めますよね。
とは言っても、ヤマドかヤマト国の都に行っていなければ測定はできないでしょうが
@倭人伝行程は大まかに捉えて、それ以外の状況記述の付合を参考にした方が良いということかな?
邪馬台国はやまとこく、やまとは山のところ、山戸
山戸が大和になった
10世紀編纂の和名類聚抄に「大和国」のルビとして「於保夜万止」が記載されている。
つまり「大和国」の本来の発音は”おおやまと”だった。
おそらく、中国で自分たちの国が「倭」と呼ばれていることを知り、それを好字「和」に換え、「大」を付けた。
「台」の発音が”と”であったことは、16世紀に日本を偵察に来た明人が著した日本一監を見ても明らか。
「台」を”たい”と発音するようになったのはかなり新しいことだろう。
"やまと"は"やま"+"と"で、山地と平地の境目への普遍的な呼称だったのではないか。
だから日本各地に"やまと"と読む地名が多数現存する。
地名にヤマトという音が使われることが確実なのは平安中期からなんだよね。だれもヤマトと呼ばなかったらしく、記紀の写本の一つに 倭はヤマトと読むなり と注釈を入れたものがある。
@@axxx0101
"だれもヤマトと読まなかった"?
それは「倭」の話か?
中国人は「倭」を"やまと"と発音しないし、初めてこの字を自身らの呼称として見た日本人が読めないのは当たり前だろ?
「倭」を"やまと"と読むのは、日本人の意訳だから
@@axxx0101 樫原とか吉野とか城がよく出てくることに比べたら大倭は皆無に近いですよね。天孫王朝の使者が女王国に成りすました時にヤマトに改名したのではないかと思ってしまうレベル。倭は一字でヤマトと読むのではなく、倭面土国の倭をとったものではないでしょうか。
末盧国を松浦や唐津とするのは壱岐からの距離が千余里とするには短すぎせいぜい五百余里程度しかない
そして距離も方角も道程も戸数も何一つ一致しない糸島を伊都国とするのはあまりに地名の語呂合わせを優先しすぎだと思う
末盧国を糸島または隣接の西区あたりとし大宰府を糸島、奴国を筑紫平野東部とすると距離も方角も規模もしっくりくるように感じる
邪馬台国への往路は筑後川を下る水行で十日、復路は川を遡上できないので陸行一月の場所ということではないか
「往路は川を遡上できない」は、とてもいいかんじだと思います。河を遡るの、荷物持ってるから辛い。きつい。
でも、さすがに1か月は九州内部だとかからんので・・・。どうでしょうかね?
@@sunsun2181 陸行は「往路」ではなく「復路」の間違いでしたので本文を修正させていただきます。
隅田川など江戸時代の河川の水上交通でも流れの緩やかな下流域以外では遡上するときに川岸から船を曳いていたのでこのように考えました。
日数かかりすぎ問題は確かにその通りで想像力を働かせれば様々な解釈も可能だとは思いますがそれは控えておきましょう。九州説の急所のひとつですね。
水行と陸行を全行程とする説をとっても末盧国までの行程はほとんどが水行なので九州縦断に一月もかからないだろうという同じ問題が発生します。
絶対見つけられないなんて、ロマンがあるじゃないですか。
絶対解明できない、絶対証明できない。
面白いじゃないですか。
石斧で動物を狩っていた邪馬台国の頃、
中国では、三国志時代で、既に鉄砲等が実在していたらしいですね😊
17:02「当時の外交というのは現代で考えればかなり適当に行われていた」
いやー現代も負けてないだろ。日本なんて外交せずに一足飛びで武器開発してっからね。問題抱えてるのに話し合いせずに挑発してどうなったかなんてウクライナを見れば分かるだろ。
山門って地名、福岡県北九州市門司区にもあるんですよね。ちょうど九州の北端で国境と言えなくもない位置。
邪馬台国はヤマト国と発音して現在の奈良県を指しています。
初代神武天皇が紀元前60年に橿原神宮で即位されて以来、奈良県には大和政権があり、都が京都に遷都されるまでの間長く歴代天皇がいらっしゃいました。
又、邪馬台国初代女王卑弥呼は第7代孝霊天皇の皇女の倭母母曽毘売命です。
倭母母曽毘売命は紀元115年に生まれ198年に84歳で崩御され箸墓古墳に葬られました。
従って邪馬台国は奈良県にほかなりません。
「政治的な配慮で椿寿が盛ったかも」は面白いですね。あり得た話です。
今の日本(だけでなく他国も含めて)の歴史教科書ですら、政治的な意向・配慮でデタラメな記述をしたりするわけですからね。
事実もりも政治的な配慮が優先されるのです。
九州最大の平野、筑紫平野に遺跡がアホほどあるのに何故に無視?
7万戸かどうかは不明だが、九州最大の人口があった可能性が一番高いでしょ。
あと、北部九州には女や姫などの漢字が入った地名や神社、祭りが多い。
真実はひとつ!と、何処かの子ども探偵が………
琵琶湖に沈んでいる遺跡に答えが………なんてね
地形は時代で変わるし、後の開発で遺跡がなくなることもあるだろうし、森林に埋もれているかも知れない
発見は難しいでしょうね