剛竜馬・復帰戦!で映してはいけない場面を映してしまった!あなたは気づくかな?「WAPレッスルエイドプロジェクト⑦旗揚げ第2試合」2004.5.16ディファ
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- Опубликовано: 17 окт 2024
- わたしが手掛けたWAP試合映像です。当日来場のみの予定?だった剛竜馬選手が急遽?出場ということでカード変更されたWAP旗揚げ第2試合。その割にはわたしども、Vはしっかり用意させていただきましたが😁そこでうちのカメラマンがんばりすぎて、映してはいけない場面を映していましたが、コアなプロレスファンなら気づくけど、普通の人にはわからないでしょうね😁息子にはまだわかりませんでした😊
ファントム船越選手は、なんと今年まで現役で活躍。64歳で引退されたそうです。
#剛竜馬 #松崎一彦 VS #宇宙魔神ゴールデンX #ファントム船越
(WAPレッスルエイドプロジェクト 2004年5月16日ディファ有明)※弊社制作映像
#親子と週刊プロレス(その他)と
ひょんなことから譲り受けた大量の週刊プロレス(1983年NO.4~)を、昭和世代の父と、令和の息子で一冊づつ読んでいく、昭和ファンには懐かしい、現代のファンには勉強になる史料価値ありのチャンネルをめざします笑
その他は観戦写真レビューなど。
※基本スタンスとしては、後から入った知識が出すぎないように、できるだけ、その当時の感覚で、リアタイのつもりでしゃべります。
#アントニオ猪木 #タイガーマスク #ハルクホーガン #長州力 #藤波辰爾 #藤原喜明 #前田日明 #ザコブラ #ジャイアント馬場 #ジャンボ鶴田 #天龍源一郎 #テリーファンク #クラッシュギャルズ
#プロレス #週刊プロレス #新日本プロレス #全日本プロレス #UWF #プロレスリングノア #全日本女子プロレス #昭和プロレス #平成プロレス #プロレスファン #80年代 #90年代
これたしか見に行ったなあ
記憶朧気ですが、凄く面白かった思い出が
@@まりごー-z7e ありがとうございます😃レアな大会をご覧になってますね😁
ファントム船越、懐かしいーーーー
@@hirokoshinaka お~❗ファントム船越をご存知とはさすが通ですね~😆この仕事するまでぜんぜん知りませんでした😅
9:47
下から若手が腕を入れて・・・
@@TKNABE ありがとうございます🙏正解です😁
ファントム船越さん、アマチュアプロレス時代から知っています。
@@とんび0号 へ~アマチュア時代というのがあったんですね❗😃貴重な情報ありがとうございます🙏
@@oyakoprowrestling アマチュア時代からファントム船越のリングネームでした。
@@とんび0号 最初から最後までファントム船越だったんですね❗ありがとうございます😃
ランニングネックブリーカードロップは剛竜馬の数少ない得意技なんだけど、松崎に譲ったのかな?
@@直重秋野 ありがとうございます😃なるほど松崎選手、見事に決めてましたね😆
この映像とは関係ないですけど、剛竜馬と言えばオリエンタルプロレスを思い出すなぁ。 何かあの頃のインディって好きだったな。
オリプロは何故か剛竜馬が途中から抜けちゃったけど、外人もブルースブラザーズやジェシー・バーって言う実力外人も居たし、板倉広や松崎や荒谷、いい若手もたくさん居たから地道に活動していけば案外面白くなりそうな団体だったんだけどな。
@@kimihiko6439 ありがとうございます😃オリエンタルプロレス、ぜんぜん知らないので調べてみたら、レッスルエイドの中では松崎、矢口選手もいたんですね~
勉強になりました😁
パパさん、息子さん、おはよう☀ございます😂。剛は新日在籍当時、体を大きくする為に、肉を毎日毎日1キロ食べてたら、足に支障が出て切断の危機があって、何とか免れたものの、UWFや全日で国際血盟軍をやってた時も、足は長年ウィークポイントになってたみたいですね。
パパさんの言う通り、確かに剛は3度目の挑戦で藤波を破り、大阪でWWFジュニア王座を奪取してます。僕は2日後のリターンマッチ、蔵前での初防衛戦を観に行きましたが、あっさり取り返され、48時間天下でした😂。真っ白のショートタイツにカジュアルなパーマ姿、カッコ良かったんだけど😂。いつからプロレスバカと言われ、ショアッ!とかやるようになっちゃったのかな😂。
……確かにあれは、映してはいけない場面かも😂。
@@へいちゃん-u2v へいちゃんさんおはようございます😃藤波剛のライバルストーリーってそんなもんなんですかあ…もっと盛り上がっていたのかと思ってましたよ😅自分も気づいたときにはプロレスバカになってたって感じですね😁色々苦労があったんでしょうね~
映してはいけない場面、さすがにへいちゃんさんならすぐわかりますよね😂
78年の春、剛は突然、所属の国際プロレスに辞表を出し、同世代の藤波とやりたいとアピール、藤波から、やりたい、だけですぐやれるような甘い世界じゃねえよ、の言葉に発奮して渡米、ヒロ・マツダの元を訪れました。厳しいトレーニングと肉体改造で、見違える程たくましい体で帰国、7月の武道館で藤波の王座に挑むも敗戦、11月の広島での再戦でも敗れます。ジャーマンと飛龍原爆だったと記憶してます。確か、マツダもセコンドで来日してたかな?この辺あたりだったか、剛はもっと藤波と戦いたいと、新日入団の流れになります。
そして翌79年10月、逆さ押さえ込みでついに藤波のV25を阻止、2日後、回転足折リ固めで奪回されるも、念願の打倒藤波、WWFジュニア王者になりました。
剛が凄かったのはこれからで、翌80年3月、古巣の国際にブーイングで登場、当時WWUジュニアという、ヨーロッパのタイトルを持っていた阿修羅原と対決、引き出し開放、まったく原が太刀打ち出来ない予想外の展開になり、翻弄した挙げ句、最後はアトミックドロップの形で原を抱え上げ、テレ東の放送席に投げ込み、堂々の反則負けで、尾てい骨を打ち、悶絶する原を無視、剛は悠々と帰って行きました😂。
この2日後、剛は大阪で今度は藤波に挑戦するも敗戦、リングアウトだったと思いますが、ノーテレビじゃなかったかな?
悲惨だったのは原で、この翌日、国際プロレスの選手として、蔵前で藤波に挑戦したけど、ジュニア戦なのにグランド中心の藤波のねちっこい技について行けず、藤波を流血させたものの、逆片腕固め、今で言う三角締めで完敗。これで原は長いスランプに陥り、剛にぶっ壊され、藤波に引導を渡されたと揶揄されました。原が復調した時には、もう国際は末期になりかけてたから、印象深く残っています。
剛が血盟軍のメンバーとして全日に現れた時は。もう原との立場は逆転してましたけどね😂。
藤波対長州みたいな形に新日もしたかったはずなのに、藤波対剛がそうならなかったのは、毒のない剛の性格が災いしたんじゃないかなあ、と僕は思っていますけど。
@@へいちゃん-u2v なるほど!ストロング小林が猪木に挑戦したのと同じ流れだったわけですね。
でもそれより自分が驚いたのは、藤波と国際時代の原が絡んでたということですね😅
新日本と国際の対抗戦?みたいなことが、はぐれ国際以前にあったんですね~
自分のなかで原は全日本の人でしかなかったので。
まだまだ知らない歴史があります。教えてくれてありがとうございます🙏😊