わかる歴史【平安時代】保元の乱②骨肉の争いと戦後処理

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  • Опубликовано: 7 окт 2024
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Комментарии • 7

  • @草履草鞋
    @草履草鞋 4 года назад +2

    崇徳天皇、上皇は、皇を民に、民を皇に、と申されて、三大祟り神にされました。しかし、シューメール人の古文書に上を下に、下を上にと同じ事がかかれています。

  • @gongochi009
    @gongochi009 7 лет назад +4

    摂関家について。藤原頼長は、忠通の弟。忠通に跡継ぎの男子がいなかったため、歳の離れた弟の頼長が養子になっていた。従って首に矢傷を負った頼長が最期に頼った忠実は、おじいちゃんじゃなく、「おとうちゃん」が正しいです。
    あと7:40あたりの合戦の絵の説明が変ですね。白河北殿の崇徳・頼長・為義・忠正を攻めたのが義朝・清盛の後白河勢。

    • @やま-o6y2t
      @やま-o6y2t 2 года назад +1

      おっしゃる通りです!

    • @gongochi009
      @gongochi009 2 года назад +1

      @@やま-o6y2t すみません。改めて 7:40 の画像を見直しました。この画像はwikiにもあり、そこのキャプションは
      『保元・平治合戦図屏風』神泉苑所蔵
      保元の乱。格子の前の黒い鎧武者が平清盛。
      となっていますが、十中八九『平治の乱』の平清盛です。清盛の画像の上方に「六波羅」の表記があることから、六波羅合戦の平清盛と思われます。平治物語にもこの時の清盛の出で立ちは「紺の直垂に黒糸縅の腹巻」とあり、絵画の構図も保元の乱の描写とするにはずっと違和感を感じていました。書き込みが遅くなって申し訳ないです。

    • @やま-o6y2t
      @やま-o6y2t 2 года назад +1

      @@gongochi009
      見事なご考察
      私もその通りだと思ってました。

  • @masakisrw8547
    @masakisrw8547 5 лет назад

    この時の義朝と清盛は仲間だったんだなぁ
    後々のことを思うと皮肉だ

  • @亜羅武
    @亜羅武 4 года назад

    落語の「崇徳院」は崇徳上皇の事。