荻野吟子の生涯

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  • Опубликовано: 16 окт 2024
  • 若きベートーベンが記した「ハイリゲンシュタットの遺書」には次の一節がある。「私は将来に絶望し自ら命を絶とうとした。ただ芸術が私を引き止めてくれた。私は自分に課された創造を全て果たさずにこの世を去ることはできない」。この遺書は音楽家の命ともいえる耳の病に苦悩し、死と向き合う内容でありながら、自身の生と芸術に対する決意の書として知られている。
     絶望を前にして立ち尽くす人間の姿。その宿命を受け止め、暗闇から光明へ進み出ようとする不屈の精神が新たな時代を作る。この奇跡は熊谷の地に生を受けた荻野吟子の人生と重なる。
     荻野吟子は、江戸時代末期の嘉永4(1851)年3月3日、利根川近くの幡羅郡俵瀬村(現在の熊谷市俵瀬)に生まれた。幼少から才女として知られ、若くして結婚するも予期せぬ病を発症し離婚。この治療の体験により女医の必要性を痛感し、医師になることを決意した。吟子は妻沼の「両宜塾」の松本万年に師事し、熊谷近郊に画室を構えた女流画家の奥原晴湖(おくはらせいこ)の影響を受けた。上京した後、東京女子師範学校で学び、私立医学校「好寿院」を優秀な成績で卒業した。女性が医学を修め医師となる道が閉ざされていた中で、意義深い一歩を踏み出した。
     明治18(1885)年、吟子は旧来の制度など多くの障壁を乗り越え、医術開業試験を受験し合格。日本公許登録女医第1号となり、東京の本郷湯島で開業した。吟子の努力が女性医師の道を切り開き、近代日本に一つの美しい花を咲かせた瞬間だった。
     吟子は医療に留まらず、キリスト教の活動や女性の社会進出を目指す運動に力を注いだ。志方之善(しかたゆきよし)と結婚し、夫とともにキリスト教徒の理想郷建設のために北海道へ移住。地域の医療を進めたが、夫の病死など過酷な運命にも直面した。晩年は東京に戻り、温かな目線で患者と向き合い続け、大正2(1913)年に激動の一生を終えた。
     俵瀬の「荻野吟子生誕の地」には石碑や銅像が建立され、近隣には吟子の資料を展示した記念館と史跡公園が整備されている。吟子の誕生日を過ぎる頃には「吟子桜」と名付けられた早咲きの河津桜が花開く。吟子は「人その友のために己の命を捨つる、これより大いなる愛はなし」というヨハネによる福音書の聖句を愛した。吟子の大いなる愛は薄紅色の花とともに、希望に満ちた春の到来を待ち望んでいる。
    (『熊谷ルネッサンス』「荻野吟子生誕の地」より)
    熊谷デジタルミュージアム、聖天堂の部屋、絵馬・奉納額
    www.kumagaya-bu...

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