なぜ賢丸は田安家を継げなかった? 史実の田安家はもっと絶望的だった【べらぼう】
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- Опубликовано: 5 фев 2025
- 田安家は元々、田安宗武が将軍の座を狙って吉宗から謹慎処分を言い渡されるなど、将軍家にとって好ましい存在ではありませんでした。
田安治察に男子どころか正室すらいない状況でも、田沼意次をはじめ松平武元ら幕閣、さらには大奥までもが賢丸の白河藩行きに動きます。
定信の義母の宝蓮院は賢丸の田安家相続の約束を取り付けたとされますがこれも反故にされ、最終的に田安家は一橋治済によって乗っ取られます。
今回は、あらゆる勢力が動いた結果実現してしまった、田安賢丸の養子縁組と田安家の断絶の経緯について紹介します。
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参考文献
高澤憲治『松平定信政権と寛政改革』
amzn.to/4hxbhmu
秦新二,竹之下誠一『田沼意次・意知父子を誰が消し去った?』
amzn.to/4gmro5G
藤田覚『田沼意次:御不審を蒙ること、身に覚えなし (ミネルヴァ日本評伝選)』
amzn.to/4abTijn
高澤憲治『松平定信 (人物叢書 新装版) 』
amzn.to/3WknFyn
大石慎三郎『田沼意次の時代』
amzn.to/3ZY8dZq
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【画像引用】
大河ドラマべらぼう公式サイト
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【目次】
1:16 田安家の背景事情
5:49 賢丸が白河藩松平家に行った理由
12:10 田安家断絶の決定
#松平定信 #田安賢丸 #大河べらぼう #べらぼう #一橋治済 #大河ドラマ
以前からご三卿の存在が不思議でしたがお話でよく分かりました。将軍家の跡継ぎ候補のストックならご三家だけで十分ですものね。他藩への養子候補だったとは。それにしても吉宗が作ったこの制度、幕府財政を圧迫するし、人間関係を複雑にして悪化させるし、禍根を残す制度だなあと思いました。
御三家は 越前などの有力な親藩大名からすれば 口実を設けられて 家督 介入される リリーフがいるようなものだし 幕府を支える気を無くすよね
一橋治済にとっては、吉宗の次男の家系である田安家が消えることはだいぶでかいんですよね
この後、田安家は治済の家系が継いでいくんですよね。
一橋家は御三卿の設立経緯を考えるとナンバー2なので、田安家が断絶すると筆頭になりますからね。
結果的に田沼政権→定信政権に代わる時に田安家当主が復活しましたが、当主は一橋系なので一橋家に仇をなす可能性が激減したと言えます。
※修正あり
一橋治済が御三卿の当主であり、
近い親戚の将軍家・田安家・清水家の跡継ぎがいない成り行きがあったので一橋系が勢力拡大したと言えますね。
最終的に幕末は水戸から慶喜を迎え、そして徳川家宗家は田安家達が継ぐのですよね。
確か静岡市に移り徳川宗家を田安家達が継ぎました。静岡市に田安家も移り屋敷も構えたので静岡にも田安門があります。江戸城の田安門よりは小さいけどね。
松平定信がその血筋から将軍になってもおかしく無かったのを、妨げたのは田沼だと認識しといたが、更に裏で糸を引いていた黒幕がいたとは参考になった。
石坂浩二さんは東出昌大氏よりも賢いですか
1995の大河ドラマ吉宗がオモロかったよな、英明な宗武が9代将軍になったら幕府はどう変わったか、愚鈍な家重を中村梅雀が熱演していたのが印象に残っている。
田安宗武の肖像画、清水重好は肖像画すら見たことない
これが一橋治済の家系が牛耳った証しだとずっと思ってます。
説得力ありますね
16:58 治済と家斉は将軍家、田安と清水の他の御三卿、尾張と紀伊の水戸以外の御三家に養子を送りこむ一方で一橋家では治済の孫の斉礼をはじめ5代連続で実子を残す事出来なかった。
田安家の当主宗武が兄家重の将軍職を狙っていた因縁で謹慎処分にまでなっていたのが、田安家が幕府にとって身内として手放しで安心できる存在ではなかった理由ですね。御三卿の実態が将軍の跡継ぎのバックアップのためではなく、他の大名へ養子を送るための役割であり、そのため独身であらねばならなかったとは、盲点でした。以前から治察がなぜ正室もいないのか不思議に思っていたので。一橋家のように、御三卿との婚姻により家格が上がり溜詰に入れるなら、白河藩が同様に賢丸を得たかった理由も明白です。それにより、老中から相談を受ける立場になれるのであれば万々歳ですね。ドラマで登場した文書が、御議定なのですね。それにしても、田安家存続でも当主不在とは妙な決定です。田沼だけでなく、大奥や松平武元までもこの白河藩への養子縁組に賛成だったことは、やはり現在の体制を維持したい首脳部の思惑でもあるのでしょうか?!ついには、一橋治済の5男をもって田安家当主に据えた松平定信の真意は、どうだったのでしょう?治済は水戸を除く御三家と御三卿を全て自身の血縁で独占したとは、やはり卓越したやり手と感じられます。御三卿という、いわば幕政内では外野的立ち位置だったからこその逸材だったのかもしれません。
吉宗が御三家を遠ざけて、自分に近い血筋から将軍を出し続けるために御三卿を新設したって聞いたことがあったけど、
実際は他藩への養子縁組のための家だったのね。
解説お疲れ様でした。
定信の白河藩行きは田沼の判断だけではなかったのですね。
家格上昇について、結城秀康が結城家に養子入りした時、晴朝がすでに養子に入ってた朝勝がいるにも関わらず、秀康を迎え入れた事に似てる気がしますね。(実際、石高は増えましたが、その後が…)
田沼意次は弟の田沼意誠が長年一橋家の家老で、完全な一橋派でした。
松平定信の白河藩行きは、田沼意次の意志ではなく一橋治済の意志だと考えるのが自然だと思います。
後に松平定信が田沼意次の悪口を書きまくったのも、将軍の父親の悪口は書けなかったからその代わりと考えるのが妥当だと思います。
@@satosin2660
治済に大御所の称号を渡さなかった事は、せめてものの抵抗の様に見えてきますね…
刃を交えなくても、武家は常に戦をしているのでしょう。
本来順当にいけば正室の子で、田安治察の様に一橋家を継ぐ筈だった治済の長兄福井松平重昌が早世せず、子が出来ていたら、治済の同母の兄福井松平重富が一橋家を継いでいたかもしれませんね。
なろう小説の旗本改革男で田安家が登場してて良い予習になった
定信の子を田安家の養子にすればと思ったけど、家格の関係でダメなんやろか?
ということは血統より家格の方が重視されるということでいいのかな?
昔の大河は、こういうのをアバンタイトルでやってくれたんよね
石坂浩二さんは東出昌大氏よりも賢いですが
拙者大河ドラマの戦国時代物がヘドが出るほどウンザリ❗太平記の時代、応仁の乱の時代、去年の平安時代、そして今年の江戸時代後半、大河ドラマ初の登場人物が多く、新鮮でワクワクする。
久松三家の内、今治だけが薩長に恭順した理由が判った気がするなぁ。
石坂浩二さんは東出昌大氏よりも賢いですか
3:11 3:30 6:44 7:38 8:28
まあ松平定信は老中としてはミスったけど優秀だったのは間違い無い
全ての事件の黒幕は治斉では🤔
上様が有能でなければ老中で政治はまわせるってことで御三卿なんて足軽出の田沼からしたら穀潰しでしかなかったのだろう。
費用がかかるから田安家潰したんですよね