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関羽の骨を削る話は表面的には医療なんだけど、儒教的には親不孝を示唆したものだからね。この辺りのサインが判ると三国志が更に面白くなります。
なるほど、儒教的な解釈、深いですね!
本当に惜しいですよねえ〜😢
馬良にもう少し武術の心得があれば、戦死する事なく生き残れたのではないかと惜しまれる。
北伐に同行していたら、馬謖の失態も無かったですね。
馬良が生きていれば、歴史は大きく変わっていたかもしれませんね。
多分、羅貫中が馬良のファンだったのだろう。本当は少なくとも諸葛亮の南蛮遠征まで活躍させたかったのではなかろうか。
4:06この伝承がある益陽には「馬良村」「馬良湖」と馬良の名前がついた地名があるらしい。
『會劉備東下、武陵蠻夷蠢動、權遂命隲上益陽。』(歩騭伝)↑武陵蛮が蠢動したとあります。歩隲は孫権の命令で長沙郡益陽県に入り情勢を見る様に言われて任地の交州より派遣される。馬良が武陵を通り越して長沙に入るとは思えないですね。まして交州にいた歩騭を長沙まで北上させて睨みを効かせてますから。歩騭伝には続きある。『備既敗績,而零、桂諸郡猶相驚擾,處處阻兵,騭周旋征討,皆平之。』劉備が負けた後、零・桂でまだ燻っていたから歩騭が赴いて討伐したと。歩騭が動いたのは夷陵の戦いの後になります。
劉備が連れ回すくらい優秀だったから、長生きしてたら諸葛亮の地位が危なかったかも
確かに、馬良は優れた人物でしたよね。
季漢輔臣賛の馬良の欄が余りに雑な評なんですよね。『季常良實』たった4文字だけ。意味としては馬良は誠実。他に褒める点は無かったのか?あとは本伝を見てねのノリなのか?こうなると馬良はほんとに有能だったか怪しいかもしれない(笑)
呉に使者に行く前の孔明との下りを見る限り使者としてはそこそこ有能だったのではと解釈してます。惜しむらくは人材不足とはいえ戦場に出すべきではなかったかなと( ゚Д゚)
@@綾御前-i3qこれ馬良が諸葛亮に仲介を頼んだら、諸葛亮が「君試自為文(自分で文を書いてみw)」と突き放した話ですね(笑)尊兄とは義兄や兄事している人を指す尊称でもあるんだけど、対等の立ち位置にあっての年長者と言う意味もあるんですよ。これ後者で捉えると諸葛亮は馬良とは対等ではないと言う意味にも繋がるんですよ民明書房刊「白眉眉唾説」より
せめてもう少し武術の心得があれば、生き残れなかったかな。
@@月友 おそらく武陵での功績が評価されて夷陵にも引っ張られたのかな?と勝手に思ってますとはいえ元々が文官な人なので戦場で死なせるのは勿体ない人材でしたね(´・ω・)
話の流れはこれ。長いよw馬良伝『遣良入武陵招納五溪蠻夷、蠻夷渠帥皆受印號、咸如意指。』↑馬良を武陵に行かせる。五渓蛮夷を招いて渠帥とその仲間に印号(官位&印綬)を与えた。注:渠帥とは反乱首謀者という意味です。ここでの反乱首謀者は樊伷なので渠帥は樊伷の事を指しています。呉主伝『於是諸縣及五谿民皆反為蜀。』↑五渓蛮夷の全てが背き蜀に付いた。歩隲伝『會劉備東下、武陵蠻夷蠢動、權遂命隲上益陽。』↑武陵蛮が蠢動したとあります。歩隲は孫権の命令で長沙郡益陽県に入り情勢を見る様に言われて任地の交州より派遣される。江表伝(樊伷)劉備が秭帰に到達すると武陵郡の諸県と蛮民が樊伷の挙兵に呼応する。潘濬は兵五千を持って樊伷の反乱を鎮圧した。襄陽記(習珍)関羽の死後、関羽配下であった習珍は孫権に降伏。樊冑(樊伷)と盟約して挙兵。習珍は邵陵太守を自称して七県を従えた。潘濬が樊冑を斬り反乱がほぼ平定されると潘濬は習珍に降伏を勧める。習珍は「我、必ず漢の鬼となろう。呉臣にはならぬ」と言い放ち降伏を拒絶。潘濬に一ヶ月間包囲されると終には食糧が尽きて自殺した。劉備は習珍の死を惜しみ邵陵太守を追賜した。流れ的には馬良は五渓蛮夷の他に呉に渋々降った習珍と樊伷の内応工作のために武陵に向かったものだと判ります。そしてこの五渓蛮夷の内応を尽く阻止したのが劉備の旧臣だった潘濬だったと言う話になります。そして夷陵では… 陸遜伝『斬張南 馮習及胡王沙摩柯等首、破其四十餘營。』↑張南と馮習と沙摩柯等を斬首し四十余の営を破る。徐盛伝『劉備次西陵、盛攻取諸屯、所向有功。』↑これは陸遜麾下としての活躍。潘璋伝『劉備出夷陵、璋與陵遜并力拒之、璋部下斬備護軍馮習等、所殺傷甚衆、拜平北將軍・襄陽太守。』↑こちらも徐盛と同じかな。孫桓伝『與陸遜共拒劉備。備軍衆甚盛、彌山盈谷、桓投刀奮命、與遜戮力、備遂敗走。』↑同じw丁奉伝『屬甘寧・陸遜・潘璋等。』↑以下同文w朱然伝『劉備舉兵攻宜都、然督五千人與陸遜并力拒備。然別攻破備前鋒、斷其後道、備遂破走。』↑おそらく馬良は此処で落命した様に思われる。馬良伝『會先主敗績於夷陵、良亦遇害。』↑夷陵で負けて、馬良もまた害にあったとある。上の朱然伝にあるように朱然は別働隊として先鋒を務め、後方遮断をして劉備を破走(敗走)させている。馬良が劉備の近くに居た場合は此処での乱戦で落命したのだろう。武陵蛮と行動していた場合、潘濬か歩騭に負けたかなと。益陽史(郷土史)だと馬良は此処で歩騭によって落命みたいな事になってるが、ただ歩騭が駐屯した益陽は長沙郡なので馬良は其処まで深入りした可能性は低いんですよね。なので馬良は武陵蛮(五渓蛮夷)と行動していたら潘濬辺りに撃退された可能性があるんですよ。
生きてたら北伐にも同行したのでしょうね!
確かに、生きていれば北伐にも参加していたかもしれませんね!
派手な戦タヒ……手足に埋め込んだ爆弾を発動させて、陸孫もろとも自爆とか………?
それはあの「こんな事もあろうかと。」の方ですわ。
お疲れ様です😊馬良って有能な方だったんでしょうが、正直なにやったの?感が拭えないんですよね。馬良ファンの方すみません😢あ、ちがうな。龐統、法正、関興、張苞と一緒で、もっと長生きしていたらって人なんだろうな😊馬謖の、山登り止めていたかも😳
須らくが誤用
関羽の骨を削る話は表面的には医療なんだけど、儒教的には親不孝を示唆したものだからね。
この辺りのサインが判ると三国志が更に面白くなります。
なるほど、儒教的な解釈、深いですね!
本当に惜しいですよねえ〜😢
馬良にもう少し武術の心得があれば、戦死する事なく生き残れたのではないかと惜しまれる。
北伐に同行していたら、馬謖の失態も無かったですね。
馬良が生きていれば、歴史は大きく変わっていたかもしれませんね。
多分、羅貫中が馬良のファンだったのだろう。本当は少なくとも諸葛亮の南蛮遠征まで活躍させたかったのではなかろうか。
4:06この伝承がある益陽には「馬良村」「馬良湖」と馬良の名前がついた地名があるらしい。
『會劉備東下、武陵蠻夷蠢動、權遂命隲上益陽。』(歩騭伝)
↑武陵蛮が蠢動したとあります。歩隲は孫権の命令で長沙郡益陽県に入り情勢を見る様に言われて任地の交州より派遣される。
馬良が武陵を通り越して長沙に入るとは思えないですね。まして交州にいた歩騭を長沙まで北上させて睨みを効かせてますから。
歩騭伝には続きある。
『備既敗績,而零、桂諸郡猶相驚擾,處處阻兵,騭周旋征討,皆平之。』
劉備が負けた後、零・桂でまだ燻っていたから歩騭が赴いて討伐したと。
歩騭が動いたのは夷陵の戦いの後になります。
劉備が連れ回すくらい優秀だったから、長生きしてたら諸葛亮の地位が危なかったかも
確かに、馬良は優れた人物でしたよね。
季漢輔臣賛の馬良の欄が余りに雑な評なんですよね。
『季常良實』
たった4文字だけ。意味としては馬良は誠実。
他に褒める点は無かったのか?あとは本伝を見てねのノリなのか?
こうなると馬良はほんとに有能だったか怪しいかもしれない(笑)
呉に使者に行く前の孔明との下りを見る限り使者としてはそこそこ有能だったのではと解釈してます。
惜しむらくは人材不足とはいえ戦場に出すべきではなかったかなと( ゚Д゚)
@@綾御前-i3q
これ馬良が諸葛亮に仲介を頼んだら、諸葛亮が「君試自為文(自分で文を書いてみw)」と突き放した話ですね(笑)
尊兄とは義兄や兄事している人を指す尊称でもあるんだけど、対等の立ち位置にあっての年長者と言う意味もあるんですよ。
これ後者で捉えると諸葛亮は馬良とは対等ではないと言う意味にも繋がるんですよ
民明書房刊「白眉眉唾説」より
せめてもう少し武術の心得があれば、生き残れなかったかな。
@@月友 おそらく武陵での功績が評価されて夷陵にも引っ張られたのかな?と勝手に思ってます
とはいえ元々が文官な人なので戦場で死なせるのは勿体ない人材でしたね(´・ω・)
話の流れはこれ。長いよw
馬良伝
『遣良入武陵招納五溪蠻夷、蠻夷渠帥皆受印號、咸如意指。』
↑馬良を武陵に行かせる。五渓蛮夷を招いて渠帥とその仲間に印号(官位&印綬)を与えた。
注:渠帥とは反乱首謀者という意味です。ここでの反乱首謀者は樊伷なので渠帥は樊伷の事を指しています。
呉主伝
『於是諸縣及五谿民皆反為蜀。』
↑五渓蛮夷の全てが背き蜀に付いた。
歩隲伝
『會劉備東下、武陵蠻夷蠢動、權遂命隲上益陽。』
↑武陵蛮が蠢動したとあります。歩隲は孫権の命令で長沙郡益陽県に入り情勢を見る様に言われて任地の交州より派遣される。
江表伝(樊伷)
劉備が秭帰に到達すると武陵郡の諸県と蛮民が樊伷の挙兵に呼応する。潘濬は兵五千を持って樊伷の反乱を鎮圧した。
襄陽記(習珍)
関羽の死後、関羽配下であった習珍は孫権に降伏。樊冑(樊伷)と盟約して挙兵。習珍は邵陵太守を自称して七県を従えた。潘濬が樊冑を斬り反乱がほぼ平定されると潘濬は習珍に降伏を勧める。
習珍は「我、必ず漢の鬼となろう。呉臣にはならぬ」と言い放ち降伏を拒絶。潘濬に一ヶ月間包囲されると終には食糧が尽きて自殺した。
劉備は習珍の死を惜しみ邵陵太守を追賜した。
流れ的には馬良は五渓蛮夷の他に呉に渋々降った習珍と樊伷の内応工作のために武陵に向かったものだと判ります。
そしてこの五渓蛮夷の内応を尽く阻止したのが劉備の旧臣だった潘濬だったと言う話になります。そして夷陵では…
陸遜伝
『斬張南 馮習及胡王沙摩柯等首、破其四十餘營。』
↑張南と馮習と沙摩柯等を斬首し四十余の営を破る。
徐盛伝
『劉備次西陵、盛攻取諸屯、所向有功。』
↑これは陸遜麾下としての活躍。
潘璋伝
『劉備出夷陵、璋與陵遜并力拒之、璋部下斬備護軍馮習等、所殺傷甚衆、拜平北將軍・襄陽太守。』
↑こちらも徐盛と同じかな。
孫桓伝
『與陸遜共拒劉備。備軍衆甚盛、彌山盈谷、桓投刀奮命、與遜戮力、備遂敗走。』
↑同じw
丁奉伝
『屬甘寧・陸遜・潘璋等。』
↑以下同文w
朱然伝
『劉備舉兵攻宜都、然督五千人與陸遜并力拒備。然別攻破備前鋒、斷其後道、備遂破走。』
↑おそらく馬良は此処で落命した様に思われる。
馬良伝
『會先主敗績於夷陵、良亦遇害。』
↑夷陵で負けて、馬良もまた害にあったとある。
上の朱然伝にあるように朱然は別働隊として先鋒を務め、後方遮断をして劉備を破走(敗走)させている。馬良が劉備の近くに居た場合は此処での乱戦で落命したのだろう。
武陵蛮と行動していた場合、潘濬か歩騭に負けたかなと。
益陽史(郷土史)だと馬良は此処で歩騭によって落命みたいな事になってるが、ただ歩騭が駐屯した益陽は長沙郡なので馬良は其処まで深入りした可能性は低いんですよね。なので馬良は武陵蛮(五渓蛮夷)と行動していたら潘濬辺りに撃退された可能性があるんですよ。
生きてたら北伐にも同行したのでしょうね!
確かに、生きていれば北伐にも参加していたかもしれませんね!
派手な戦タヒ……
手足に埋め込んだ爆弾を発動させて、陸孫もろとも自爆とか………?
それはあの「こんな事もあろうかと。」の方ですわ。
お疲れ様です😊
馬良って有能な方だったんでしょうが、正直なにやったの?感が拭えないんですよね。馬良ファンの方すみません😢あ、ちがうな。龐統、法正、関興、張苞と一緒で、もっと長生きしていたらって人なんだろうな😊馬謖の、山登り止めていたかも😳
須らくが誤用