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こんなトロい善人だったら、全国統一したとこの豊臣政権をたった15年ぽっちで根絶やしにして、幕末まで260年も自家だけのために国を衰退させる仕組みなんか考えたりできないから。
秀頼ぜんぜん暴君じゃないし。毒殺魔を善人に描きすぎでワロス。8歳の国松を市中引き回しの上…斬首したこと忘れてんじゃない?
毒殺を免れた女達ではこの悪人レベルが想像できず、場当たり的に要求を飲む内に詰んでったってだけのこと。
秀吉は織田家を乗っ取ったけど信長にはずっと敬意を払って盛大な葬儀もしたし織田家も残したのに。豊国神社までぶっ壊しておいて忠孝を説くなんて面の皮の厚い狸やな。
浅野幸長の時からイチャモン魔でもあるしな。家系図自作だし思考・行動・残ギャク性どれも間違いなく日本人外。
今も東を支配する集団の大部分は同じであり、唯我独尊なのは疑いようがない。
源氏の長者になった時点も、狸爺は下剋上に決意したではないか。
やはり女の浅知恵っていうか、秀頼が先頭に立てば豊臣恩顧の大名は戦うことを躊躇ったかも知れない、そうすれば引き分けに持ち込めたかも知れない、やはり淀君の秀頼出陣反対が豊臣の命運を決したな!
関ヶ原は家康の謀反だろ
教科書は略しすぎだし、大河は時間かかりすぎるしすごくわかりやすいです!
嬉しいお言葉ありがとうございます!今後ともよろしくお願いします🙇♀️
やっぱ小牧の時に絡め手なんて使わず数の暴力で叩き潰すべきだったんだろうな。。。中途半端に生かしたから寝首を搔かれたんだろうな。でもこれって家康にも言えて関ヶ原の時に島津と毛利を生かしたから幕末に滅ぼされる始末。。。
池禅尼の意見を受け入れて頼朝公を処刑しなかった清盛光の甘さにも通じる。歴史は繰り返す。
ワシかて島津と毛利は日本に不要の産物で滅ぼす対象でしかなく、現代に復活したら厄介な存在になるは必定だから日本政府関係者の方々はよく認識すべきです。
「徳川家に徹底的に従わず滅亡した豊臣家」との”タイトルが正解“ですよね?・当時の習いとして”国替に応じない大名家は家名断絶、良くて改易との処分ですよね。・“国替を受け入れて居れば豊臣は大名家の1つとして残されたでしょう。」「戦国の世では”後顧の憂いを断つ“のは常識ですよ。=秀吉が甥の秀次への粛正で証明済み」単に“それ以上、それ以下”でも無い“戦国の世の常識の範囲の出来事”ですよね。
ヒグマの駆除はかわいそうというのと同じで殺意を持ってかかって来る敵に情けをかけると自分が危なくなるのですね😢
他者に不穏な気持ちを持つだけでいずれ身に降りかかる鏡の法則なのか、因果応報なのか、一歩間違えると己の命さえも危険になる権力者は跳ね返りも強い。恐ろしいから平民でのらりくらり暮らすのが良いっす。
こうゆう方が教師とかになればもっと歴史が好きになる人が増えるんだろうな♪
わけわからないままに滅亡させられた秀頼可哀想w
秀頼は決して無能ではなかったと思うので訳も分からず滅ぼされたとは思えません私見ですが関白として徳川の上位にいるのは豊臣であるとの思いの強い、母親の淀殿に従ったのではないでしょうか⁉️完全なる恭順の意を示せば、はての地に送られるかも知れませんが滅亡は無かったのではと思います豊臣、徳川の主であった織田の血筋のプライドが豊臣を滅亡させたと考えます
秀頼が軟弱に描かれてるが、とんでもない。秀頼は六尺(180cm)ある大男だったんだよ。これまで秀頼を演じた俳優で最も適任だったのは、NHK大河ドラマ春日局の故渡辺徹。
まあ、俗説だが、家康が豊臣家の滅亡を急いだのは、大男の秀頼に初めて会った時、その貫禄に圧倒されたというのがある。
中川大志も良かったですよ見目麗しく、武家の棟梁ではなくて公家の棟梁の関白の気品がありましたそれでありながら、力強さもあり私のが押す、秀頼No.1です❤
たわけ うつけ 間抜け 葵徳川三代の徳川秀忠のイメージが
大阪城を残したまま豊臣秀頼を残す事に脅威を感じたのだと思います。浪人とはいえ大阪夏の陣では10万人の人が集まりました。100万石の大名でもないのにです。100万石でも普通の大名だったら集まらないと思います。だから滅ぼさなければ徳川家が滅ぼされると考えたのかもしれません。
わかりやすいし、喋りのテンポ好きです 聞きやすい
ありがとうございます!そう言っていただけてとても嬉しいです☺️今後ともよろしくお願いします🙇♀️
正直家康はそこまで豊臣を潰すことに執着してなかったと思う関ヶ原時点で60近い年齢で当時はいつ死んでもおかしくない高齢だったにも関わらず豊臣を15年間江戸への参勤や転封も免除したりと非常に緩やかに政権交代を目指している豊臣が徳川に絶対服従するつもりなら存続の目は十分合ったと思う
じゃあ淀がガンだったんでしょうね。
関ヶ原とその後数年で徳川家が盤石になったのは誰の目にも明らかそこから10年も大阪方の臣従を待ったのは、家康なりの豊臣家に対する忠義もあると思う秀吉や信長なら2、3年待たずにキレてたし臣従自体許されなかったやろね長期間待った結果、徳川としてはもはや徹底的に潰すしかない状況に
大和か安房への転封になっただろう。
豊臣が生きてたら秀忠の代で潰されるでしょ
家康公が秀頼に気を使ってたのは自分も同意しますが、その反面きっちり真綿で首も絞めています。江戸城普請。堺や4つの金銀鉱山の譲渡。秀吉の遺言だった秀頼の関白職を他の者に。徹底した官位コントロール。20以上に及ぶ神社仏閣の再建。二条城での臣下の礼。秀頼は馬脚を露さず、これらの命令に全て従っています。秀吉が簡単に織田家を簒奪できたのは、向こうの方から逆らってくれたからです。信雄も秀吉派の重臣を殺して兵を上げましたし、神戸も清須会議に抵抗して挙兵しました。方広寺の一件のように少し強引にいかなければ、家康は服従か滅亡かを迫る大義名分が無かったのだと思います。 まあ、それでも秀忠より官位が上になるようにしてるので、気を使っていたのも間違いないと思いますが……。
死んだら骨だけになるんだったら生きてる内に自分のやりたいことをする家康に一票。なにも間違ってない。
犯罪人の思考やん
やりたいことやって「余は満足じゃ!」って言ってあの世に逝く世界が、250年近く続いてたんだよなぁ😅
狸😂
@@user-kj8mu1fm9q 戦国は食うか食われるかの時代なんだからそこに犯罪人の思考もへったくれもないんだよ。
ナレーションのクセが凄いがだんだんクセになるw内容はすごくためになりました
日本史も世界史もこのくらいのテンポの授業で良いのでは?と思います。
ありがとうございます。今後ともよろしくお願いします🙇♂️
ろくすっぽ授業も受けてない私もそう思います
語尾を伸ばすのやめてほしい涙
「ますぅ。」が苦手です
二重構造だったのですね。秀頼はお殿様らしい振る舞いでその先立派に世を納めるのも可能だったかも。その佇まいに家康が焦った…。なんというか秀頼も気の毒でした。が、秀頼にとって家康の戦国武将の百戦錬磨の経験値には敵わないですよね。違う時代に生まれていたなら良かったのに、相手が最強でした。わかりやすくて勉強になりました。
ありがとうございます。そう言っていただけてとても嬉しいです☺️今後ともよろしくお願いします🙇♀️
方広寺の長い鐘銘文言の中から、誰が「国家安康」「君臣豊楽」の2句に目を付け、誰が冬の陣を起こさせるイチャモンにまで昇華させたのか。そこに詳しく触れてほしかったです。
羅山だと言われています。ちなみに諱割りの前にも家康は「大工長の名前がないぞ!」「色が金色じゃないか!」「そもそも長い!」と次々と文句をつけてきてます。機嫌が悪かったのか、加齢によるものか……ちなみに機嫌が直ったのか、方広寺の一件は手打ちになります。ただ秀頼側は警戒して浪人集めを加速していたので、そこを家康は片桐に注意して「両家が上手くいく解決案を出せ」と指示。片桐は秀頼に参勤、人質、国替えの一つを要求。ブチきれた家臣の大野らが片桐暗殺を計画。秀頼は片桐を追放。取り次ぎ役の片桐追放に家康は激怒して、その日の内に大阪出陣命令。翌日、秀頼も全国の大名や浪人に檄を飛ばす。数日後、追放された片桐が豊臣側攻撃する。その約1ヶ月後、大坂の陣勃発。
家康にとっては皮肉にも真の脅威は豊臣よりも毛利家だったという!目先の豊臣の脅威だけ滅ぼしても駄目でしたね
皮肉になってますか
250年続いたんですし時代が変わっていることを考えたら慶喜さんは上手に次の時代へと繋いで下さったと思います
徳川秀忠がもっとしっかりした名将であれば大阪の陣は起きなかったのでは、それから豊臣秀頼が出陣していれば又歴史は変わっていたと思います。それと、東照大権現様(徳川家康)が史実(1616年)よりもあと2・3年生き長らえていた場合東北の伊達氏も攻め滅ぼされていたのでは・・・
わかりやすいです。今更ながら、日本史を勉強したくなった。ありがとうございました。
嬉しいお言葉ありがとうございます。今後ともよろしくお願いします🙇
秀頼は秀吉の子どもではない。家康も他の多くの方々も気付いていた。信長の気質を引き継いでいる淀殿ではまた戦乱の世になることが予想された。家康は自分が全国をまとめることを決意したのでしょう。
淀殿に戦乱を起こす気質があるなら、関ケ原のあと溢れ帰った牢人たちを雇ってたと思います。有名だった立花宗茂とか後藤又兵衛も流浪してましたし。豊臣家は直轄領の制圧すら出来ずに家康を頼る始末でした。まだ家康も将軍になっていないし、どの大名も有能な人材は欲していました。 淀は戦いで天下を目指すのではなく、秀頼を関白にして独自勢力になる二重公儀体制の継続を狙っていたのではないでしょうか?
@@安西弘-t1o なるほど。淀殿はお寺を建立したり修復したり、なかなか良いことをしていますからね。
別に家康亡き後、豊臣の世になっても良かったんじゃないかな?世の人々が平和、安寧なら。結局、世の為と言いながら、我が家が治めないといけないと考える独裁者だね。
歴史が好きです。わかりやすい。
ありがとうございます。今後ともよろしくお願いします🙇
信康健在なら徳川家は空中分解するのが明らかだし、秀吉以前に信長健在のうちに改易され跡方もなかった筈。後継者があまり有能なのも危険だが、出来が悪いのも危険なのは明らかだからそのさじ加減が難しいところ。 豊臣家は勿論、島津と毛利を滅ぼさなかったのが手落ちとしか言えず、そこまでは頭がまわらなかったのかも。普通のガバナンスが出来ていれば、徳川の世はもう少し長く続いたかもですね。
西洋列強の驚異にさらされては、どれ程徳川だけで相対することが出来たでしょうか❓あの事が無ければ‼️と言うことも時代の必然だと思います
初めてコメント💬します。実に家康公の興味深い人間像ですね😃今迄の狸親父通説を覆すような見解。もしかしたら家康公の本当の姿を現した動画かもしれませんね😃
初コメントとても嬉しいです!ありがとうございます☺️今後ともよろしくお願いします🙇♂️
有能であるが上に先を見据えた家康が滅ぼしたというより無能な秀忠がやらかしたという感じですね
とてもわかりやすいですが、家康が「恩のある豊臣家を倒すのは悪だと考えてきた」というところが、ちょっと…🤔 何処の馬の骨ともわからぬ秀吉は下剋上の極みで一代で成り上がり関白に。その人物の子孫の世襲を当然と考えたでしょうか。加藤清正、福島正則などの豊臣恩顧の武将とは全く違うのでは? その部分が???です。
秀頼が成人したら実権を返すことを何枚も誓紙で誓ってます。豊臣家は摂家同格という皇族ですら下座に座らせるチート性です。家康は没落した今川氏親に一国与えようとしたこともあるので割と律儀だったのかもしれません。それに当時の価値観では主家筋を根切りにすれば後世に汚名を残すことにもなります。
家康公は一説には蹴鞠にも一国与えようと信長に相談したくらいですから、主家筋殺しはあまりしたくなかったのではないでしょうか。自身も少し前まで豊臣家康でしたし、豊臣性の摂家は宮家すら下座に座らせる天皇家に次ぐ名家です。さらに秀頼のことを秀吉に頼まれて、何枚も誓紙を書いています。 誰一人大名は秀頼に付かなかったように、すでに幕府の体制は安定し出していましたし、無理に戦は起こしたくなかったと思います。 虐殺ばかりしていたら極楽浄土に行けない、と天海に聴かされ写経三昧してましたし笑 それに一歩間違えば明智光秀のように後世に汚名を残すことになります。実際近年まで家康は、鐘の文言で難癖を付け、豊臣家臣団の分断を謀り、偽りの和平で堀を埋めた狸じじいだと思われていました。
秀忠は幼少期に秀吉の養子になっていたので養父の秀吉を裏切れなかった為にわざと遅刻してたのです戦国時代は幼少期に敵対する大名家に婿養子に入る事が常識でした秀忠にとって育ての親は家康ではなく秀吉なんです
ん〜とても分かりやすい解説ですね!!納得!!
ありがとうございます!!今後ともよろしくお願いします🙇♀️
関ヶ原に遅刻した理由は簡単 真田をかまったからだぞ。スルーして追って来たら迎え撃ち 来なければ関ヶ原に行くって感じで簡単な話
勝てば官軍、さらに長期に江戸幕府が続いたこともあり、家康のイメージはかなり過大評価されている気がします。その時代、あるいは後世の取り巻きの歴史家は、彼をよく書くことが多いでしょうから。でも、こうした事実から、かなり野心家だった気がします
過大評価と思わんな、むしろ大衆には正当な評価を与えられてないのが徳川家康って感じ
息子を殺したのを信長の命令にしたり、関東国替えを秀吉の嫌がらせにしたりは歴史捏造してる可能性がありますね。安土だって田舎町だったのを交通の要所だから信長は本拠地にしましたし。
関東人と朝鮮人だけはこの男を庇うんだよね
昨日何故か夢の中に豊臣秀吉公が出てきて😊ハイタッチでパワー🎉を頂きました😊感謝🎉❤
サルとタヌキが喧嘩してタヌキが勝利!
女狐とたぬきが喧嘩したという説もあります笑
歴史の授業もこんな風なら楽しいのにみたいな話も分かるけど、元講師として教壇に立ってた身としては教科書を完璧に取り扱わないと受験や学テなどにおいて点が取れず、その担当指導者が職員室内で晒し者にされるとかあるので教科書通りじゃないといけないのです。受験や学テで点が取れない際に責任なんて取れませんし。正直受験などで歴史分野の点が取りたい場合は現代から遡って勉強すればいいのであって、言い方悪いですが戦国やそれ以前は軽視されがちです…
やはり4年を『よねん』ではなく『よんねん』と読むのはちょっと違和感あるなぁ。
信康が生きてたら安心できただろうけど。
信康存命なら、秀吉は徹底的に弱体化を図ったろう、関東移封は無かったろう、、
やはり名将結城秀康が将軍になれば人望もあり、戦も強く、秀頼を弟のようにかわいがっていたから、豊臣家を実権がない公家として残して、収まったかもしれない。まあ寿命が短いのがネックだが。
家康のニ男の結城秀康は、若くして、梅毒で鼻が欠け歯が全部欠けてフガフガになっていた、父の家康に久しぶり会見した時、家康から、「馬鹿モン!あそびめ(遊び女)ばかり、うつつぬかしやがって、なんだそのザマは!」と叱責されたのは、有名な話で、家康は、コイツもうだめだなと思った通り若くして亡くなった。
@@user-qn1js2dn1gその話は初めて聞きました本当なら全然有能な人ではありませんね自己管理すら出来ないんですから😮
@@user-yz6qp2ld4b 当時は、高貴な身分の人でも、梅毒に患って命を落とす人がたくさんいました。恥ずかしい病気と思われていたのは、昔も同じだったはずですが、なんせ治療法や特効薬など皆無の時代です。徳川家康は自分が梅毒のみならず病気に罹患することをとても気にし自分で薬草等を煎じて漢方薬を作ってよく服用していたのは有名な話ですよね。
家康は秀頼の舅ではなく 舅の父。
本能寺の変の後に明智光秀を豊臣秀吉が討伐し、賤ケ岳の戦い、小牧長久手の戦いを経て豊臣秀吉が天下を獲ったのと同様に、関ヶ原の戦いの後に方広寺鐘銘事件、大坂の陣の後に徳川家康が天下を獲ったと年号暗記の歴史教育に対して、歴史人が天下を獲るプロセスを分かりやすく解説されており、とても価値のある動画と感じました。
ありがとうございます。そう言っていただけてとても嬉しいです☺️今後ともよろしくお願いします🙇
どうする家康見てますか?個人的なことですがどうする家康の考察みたいなのして欲しいです。再生数も取れると思いますし…よろしくお願いします。
秀忠がめちゃくちゃ優秀過ぎたら豊臣家は潰れてなかったりするんかな「まぁ俺死んでも秀忠ならうまくやるだろ」みたいに
家康が最後に情に流されかけたけど秀忠が毅然とした態度で豊臣家に引導を渡したのか。
葵徳川三代の大坂の陣終盤で、家康が「2人(秀頼親子)は山里の丸か」と言った後、不穏なBGMが流れる中、家臣に何かを耳打ちしてるんですが、何を命じたのでしょうか?2人を生かしておくなと言ったのかと思ったのですが、秀頼親子が自害したのを知って「しまった!」と言ってるのがよく分からないです。
秀忠の御陰で、その後戦のない世が続いたね。長州から戦争だらけの。
太閤秀吉の子孫は今はいないけど、今となっては豊臣秀吉の名前は未来永劫語り継がれるビッグネーム豊臣も徳川も今の日本を作った礎の1人英雄に代わりはない
凄く分かりやすいです😊今の大河でも平和なイメージにされているけどその実は武力で平和を保つ源氏の棟梁征夷大将軍を望んだ。武力で天下を取った。。子孫達は江戸時代改易取り潰しという脅しをチラつかせて平和を保った。武家の棟梁征夷大将軍の名に相応しい。秀頼でも平和は保て豊臣政権のままで良かった。秀頼あまりに可哀想。秀頼暴君違うし。林羅山。。。
秀吉殿と家康殿は共に強気だが、秀吉殿は賢く、信長殿と同じく病んでいるので、痛いところに手が届くように信頼されていた。家康殿は優しい人柄だが、二人とも潰し虎視眈々と天下取りを狙っていた!
【関ヶ原の戦い後の恩賞】加藤清正 肥後52万石福島正則 安芸49万石池田輝政 播磨52万石黒田長政 筑前52万石浅野幸長 紀伊38万石細川忠興 豊前40万石加藤嘉明 伊予松山20万石藤堂高虎 伊予今治20万石京極高次 若狭10万石京極高知 丹後12万石田中吉政 筑後32万石山内一豊 土佐20万石
猿と狸は相性が悪いようですね😅
猿も狸も魔王とは上手くいってたのに笑
秀忠公も近年の調べでは、名将ですね!
動画配信ありがとうございます。加えて、榊原康政、本多忠勝、大久保忠佐といった、徳川家の歴戦の勇将たちが相次いで亡くなっていますからね。結城秀康や松平忠吉といった、武勇に秀でた息子たちに先立たれたことも、影響があるのかもしれません。
このころの家康は天下を取るために特に徹底して邪魔になる可能性がある人物を潰して回ってた
二条城で頭を下げた後は加藤清正が安堵したように、割と良好な関係が続いてたのに(家康は全国展開していた天下普請を凍結する) 方広寺の一件から一気に崩れましたね。 片桐からではなく、臣下の礼の時のように北政所から3か条(参勤、人質、国替え)を要請していれば秀頼は受け入れたでしょうか? 少なくても片桐追放はなくなるので、どこかで妥協点が見つかっていたかも知れないですね。
家康の秀吉への怨み。家康はねねを抱き込んだ。ねねと淀の軋轢を利用。
はたしてそうであろうか?これでは家康の疑心暗鬼が元と言う土台背景に捉えられる。私はやはり血統が本質だと思っていたが…徳川は痩せても武家の出。一方秀吉はしがない農民の子。鎌倉時代より発した源氏と平家の源流が大いなる元ではないだろうか?私にはこの解説論には疑問を感じる。
源より摂家同格の豊臣家の方が家の格は上です。源性では将軍にはなれても関白にはなれません。摂家なら関白も摂家将軍にもどちらでもなれます。ただし関白は最低16歳以上じゃないと就任できないので、4歳でも世襲出来る将軍職の方がその点はメリットだと思います。(将軍なら秀吉は秀頼に将軍職を譲れた)
マア、家康は「吾妻鏡」を熟読してきたようだし。あれ読んでたら「邪魔者は消せ!」ってなるわな。
方広寺の言いがかりは笑えるレベル😊
そうかな?放置したらしたでばかにされそう。
当時の価値観ではアウト今の時代で言うなら隣の国が公文章で岸田首相を「増税メガネ」天皇陛下を「日王(隣の国での天皇陛下の蔑称)」と記載したレベルらしい
いや、近年の研究では、当時の感覚でかなり非常識な振る舞いってわかってきてるから、ケンカ売ってると思われても仕方ないよ
それほどまでに気に入らないなら鐘は鋳潰してるはずなのに、現代まで残っているのはその証拠。
豊臣を滅亡させた証拠品として残したのでは⁉️こんなに酷いことを言われたから滅亡させても当然でしょう‼️って
秀忠は舅という立場があるのである程度豊臣を制御できたかもしれないが、家光の代では...。その憂いもあって秀忠は非情な決断をしたのかもしれませんね。まあ、あくまでも憶測ですが。
朝鮮出兵は、必要だったか……
朝鮮出兵した大名はキリシタンが主で、キリスト教が広まるのを豊臣秀吉が恐れて!?広まっていたキリスト教を抑えるための出兵だったらしいですよ
この手の動画本当好き
それは豊臣は潰すよね
1.もし豊臣秀頼が関白となったら、徳川家康政権が覆るかも知れない。2.歴史に関心ある徳川家康は吾妻鏡とかを読み平氏が源氏を滅ぼさなかったので、平氏が滅ぼされてしまった。
秀忠のせいなら、なんだか江と千姫が被害者になってしまいましたね。
それも一説。ありがとうございます。
当時の「方広寺」は奈良・鎌倉を超える「史上最大の大仏殿」だった。今の国立競技場を超える「一世一代の大事業」の筈だった。今まで武将として沢山殺めてきた死後の行方に不安もあり、歴史的なレガシーも残したい家康はその完成を大いに楽しみに期待していた。・・・しかし、それが大きく裏切られた。本来なら、寺の棟柱に掲げる玉串に、貫主(寺の頭領)と、棟梁(大工の親分・建築士)と、並び発願主(発起人・秀吉並び家康)が記される筈が、玉串自体を掲げられて無かった。貫主を調べたら経歴に疑いがあり、棟梁も逃げ出し、仕舞いには梵鐘からも不吉な字文が見付かる始末。世間から「大恥」を掻かされ、「権威」を傷付けられ、「死後の不安」を深め「コレは徳川を滅ぼす呪詛だ」と言うのは疑いの無い「事実」として受け止められた。豊臣家へ反意を抱き、滅亡して、権威を取り戻し、死後を安寧にするコトを決意するのには十分な理由だった。
呪詛に関しては五山の僧7人全員が否定しています。諱を割るのは無礼だとは思いますが、ドラマのように秀頼が描かせたわけではないので、まずは方広寺再建の責任者である片桐を罰するのが筋ではないでしょうか?銘文を書いた和尚を選定したのも片桐です。そもそも方広寺再建は家康が秀頼に要請したことであり、片桐は幕府に知行をもらう幕臣でもあります。片桐を罰しなかったのは、鐘銘文は重大な問題だが、且元に責任はなく、梵鐘から問題の銘文をすりつぶせば良いとの家康の内意があったからだとも言われています。 貴方の主張は間違ってはないとは思いますが、秀頼が命令したわけでも、呪詛でもないのですから、さすがに主家筋を滅ぼす大義名分としては弱いと言わざるを得ないと思います。
面白い内容でした👍️
二条城の会見が分岐点かも知れない。
あえて逆張り、秀忠とその側近が企てた戦いだと思いますね、豊臣秀頼はもちろん松平忠輝にも罠をかけ、上杉景勝伊達政宗の忠義を見極める、周到な秀忠と柳生の陰謀です
徳川家康の人生経験と秀頼の能力は武将の暴走を予知できないほどだった。豊臣の維新は政略のみ
福島正則、加藤清正とか生きてる間に徳川に戦えば違う世の中になったかも?
時期、次期関白?
同じ世代に均衡する2つの勢力は成り立たないんだろうな カリスマは常に一つだと 力が拮抗すればどちらかが滅びる ドイツ陣営とアメリカ陣営 アメリカとソ連 そしてアメリカと中国も 織田信長公に敵対関係にならなくてもいずれ大きな勢力を持つ武田家は不安な存在として戦う運命だし信玄の選択は間違えてなかったのかな
最後の秀忠のひと仕事が最も戦功ありでワロタ😂
家康のアテレコが・・・w アホの殿様みたい
息の根を止めとかないとどうなるか。平清盛は助命した頼朝兄弟に一族滅ぼされ、足利尊氏は後醍醐帝を吉野に逃したことで大混乱をもたらした。
ですね。秀吉は家康討伐を諦めたことで息子の死を招いていますし、浦上家も赤松主家を暗殺しておきながら、息子はそのまま自分が養育し、後にその子に討たれています。家康公も同じように薩長に天下を奪われたとはいえ、250年も天下太平が続いたのだからしっかりと出る杭は打っていたのではと思います。
自ら滅んだと思う、みじめに生きることを選ばなかったのかもしれない。
ありがとうございます!
多大なるご支援ありがとうございます!良い動画をお届けできるよう精進いたします。今後ともよろしくお願いします🙇♀️
非常に勉強になりました チャンネル登録しました
徹底的に潰して無かったら徳川は二代で終わって戦国時代が長引いただろうねま、豊臣も滅んで将軍は毛利家だったかもな江戸時代がないまま幕末だったら今頃日本は消えてたかも知れないね
今の日本人特有の価値観って、江戸時代に培われたものが多いから、(老人は大事にする。犬や猫は食べない。写経や念仏をしようが悪いことをすればバチがあたる)江戸時代がなければもっと違った国民性になっていたでしょうね。
秀頼は秀吉の子供と言われているが お父さんは違うと思う
京都上洛にあんま野心持ってなかったよな、、、
よくまとまっていて勉強になりました
やはり大河はこの感じが最高ですね!作者の方再び書いて頂きたいです🤗
淀殿と秀頼の自害は一般的に周知されていますが、一族となるとどの程度まで根絶やしになったのかが知りたかったのですが。よく聞くのが子々三代とかそこまでだったのか。
淀の弟(浅井長政の息子)は、毛利勝永隊にいましたが、姉の初が救って無事大坂を脱出。 京極家が幕府に隠してこっそりと天寿を全うするまで保護しました。
鐘銘の件はどう見ても言い掛かり
言いがかりのネタを仕込んだまで有ると思う方向寺大仏もも豊国神社も寄進して再興させて金を消費させようとしていたんだから
おもしろいね歴史は!とても分かりやすく理解しやすい^_^
ありがとうございます!今後ともよろしくお願いします🙇
別に徳川が豊臣を意識なんかしてないでしょ。だからこそ関ヶ原まで煽ったわけだし。幕府をひらいて以降なんて豊臣など一大名にしかすぎず、生殺与奪は家康が握ってた。だからこそ豊臣も大人しくしてた。ちなみにに秀忠は有能な将軍。遅さんだって家康が真田を攻めろと言ったから。平和な時代に幕府の運営等、外様との友好関係など実に有能な将軍。成人した秀頼を見て危機感を感じた というより加藤清正福島マサノリなどまだまだ豊臣を担ぐ大名がいる事を再確認した。方広寺の鐘も、呪詛ならその文字は削られるはずが今日まで残ってる。江戸幕府は磐石で秀忠もうまくやってる。死期が近い家康ができる事は豊臣を滅ぼし自らが全ての恨みを背負いあの世へ持って行くこと と思ったから。豊臣滅亡の原因はひとえに淀君の意識が高かっただけ。何度も一大名としての豊臣存続の機会はあったはず。
すぐに結集する中心になるからな
豊臣の天下は秀次事件で終わった。後は余興に過ぎない!
長生きが一番!
健康は金で買えない
勉強になりました
片桐が何故あんなことを言ったのか・・・
もうすでに清正などと協力して二条城で臣下の礼させたので、参勤ぐらいは出来ると思ったのではないでしょうか。 3か条が徳川からの正式要請なら片桐はただ取り次ぎをしただけなので、暗殺未遂は起こらなかったと思います。 ほんと何故一人であんな要求を……。
争い事は、誰も〜止められませんね、😂
浅野幸長(よしなが)
秀忠がちゃんとした息子だったらこうはならなかったかもなぁ。
方向寺事件は林羅山が進言したと思う。
秀吉は織田家を潰しはしなかったな。家康は豊臣を完全に潰した。やっぱ徳川をひっくり返す、少なくとも大混乱させるだけの可能性をもっていた~ということなのだろう。大人しく郡山城に引っ込み家康の死後にかけるべきでしたな。
郡山への国替えですか?秀頼は冬の陣のあと国替え不要で和睦したのに、4ヶ月も経たずに国替え要求されたわけですから「家康信置けず!」と怒って国替えも牢人追放も断ったそうです。淀はもう心が折れてて「御家第一」と説得したそうですが、秀頼の心は変わらず夏の陣が始まったとか。 50年後ぐらいに書かれた二次資料の記述ですけど。
私は三方ヶ原は敗戦といわれるが全く逆で、領主の心意気を示せたぞ。私が部下、地元の豪族なら「こいつになら、ついていく」と思うよ。アンケート取れたら面白かっただろうよ。
金地院数伝では
こんなトロい善人だったら、全国統一したとこの豊臣政権をたった15年ぽっちで根絶やしにして、幕末まで260年も自家だけのために国を衰退させる仕組みなんか考えたりできないから。
秀頼ぜんぜん暴君じゃないし。毒殺魔を善人に描きすぎでワロス。
8歳の国松を市中引き回しの上…斬首したこと忘れてんじゃない?
毒殺を免れた女達ではこの悪人レベルが想像できず、場当たり的に要求を飲む内に詰んでったってだけのこと。
秀吉は織田家を乗っ取ったけど信長にはずっと敬意を払って盛大な葬儀もしたし織田家も残したのに。豊国神社までぶっ壊しておいて忠孝を説くなんて面の皮の厚い狸やな。
浅野幸長の時からイチャモン魔でもあるしな。家系図自作だし思考・行動・残ギャク性どれも間違いなく日本人外。
今も東を支配する集団の大部分は同じであり、唯我独尊なのは疑いようがない。
源氏の長者になった時点も、狸爺は下剋上に決意したではないか。
やはり女の浅知恵っていうか、秀頼が先頭に立てば豊臣恩顧の大名は戦うことを躊躇ったかも知れない、そうすれば引き分けに持ち込めたかも知れない、やはり淀君の秀頼出陣反対が豊臣の命運を決したな!
関ヶ原は家康の謀反だろ
教科書は略しすぎだし、大河は時間かかりすぎるし
すごくわかりやすいです!
嬉しいお言葉ありがとうございます!
今後ともよろしくお願いします🙇♀️
やっぱ小牧の時に絡め手なんて使わず数の暴力で叩き潰すべきだったんだろうな。。。中途半端に生かしたから寝首を搔かれたんだろうな。でもこれって家康にも言えて関ヶ原の時に島津と毛利を生かしたから幕末に滅ぼされる始末。。。
池禅尼の意見を受け入れて頼朝公を処刑しなかった清盛光の甘さにも通じる。
歴史は繰り返す。
ワシかて島津と毛利は
日本に不要の産物で滅ぼす
対象でしかなく、現代に復活
したら厄介な存在になるは
必定だから日本政府関係者の
方々はよく認識すべきです。
「徳川家に徹底的に従わず滅亡した豊臣家」
との”タイトルが正解“ですよね?
・当時の習いとして”国替に応じない大名家は家名断絶、良くて改易との処分ですよね。
・“国替を受け入れて居れば豊臣は大名家の1つとして残されたでしょう。」
「戦国の世では”後顧の憂いを断つ“のは常識ですよ。=秀吉が甥の秀次への粛正で証明済み」
単に“それ以上、それ以下”でも無い
“戦国の世の常識の範囲の出来事”ですよね。
ヒグマの駆除はかわいそうというのと同じで殺意を持ってかかって来る敵に情けをかけると自分が危なくなるのですね😢
他者に不穏な気持ちを持つだけでいずれ身に降りかかる鏡の法則なのか、因果応報なのか、一歩間違えると己の命さえも危険になる権力者は跳ね返りも強い。
恐ろしいから平民でのらりくらり暮らすのが良いっす。
こうゆう方が教師とかになればもっと歴史が好きになる人が増えるんだろうな♪
わけわからないままに滅亡させられた秀頼可哀想w
秀頼は決して無能ではなかったと思うので
訳も分からず滅ぼされたとは思えません
私見ですが
関白として徳川の上位にいるのは豊臣である
との思いの強い、母親の淀殿に従ったのではないでしょうか⁉️
完全なる恭順の意を示せば、はての地に送られるかも知れませんが滅亡は無かったのではと思います
豊臣、徳川の主であった織田の血筋のプライドが豊臣を滅亡させたと考えます
秀頼が軟弱に描かれてるが、とんでもない。秀頼は六尺(180cm)ある大男だったんだよ。これまで秀頼を演じた俳優で最も適任だったのは、NHK大河ドラマ春日局の故渡辺徹。
まあ、俗説だが、家康が豊臣家の滅亡を急いだのは、大男の秀頼に初めて会った時、その貫禄に圧倒されたというのがある。
中川大志も良かったですよ
見目麗しく、武家の棟梁ではなくて公家の棟梁の関白の気品がありました
それでありながら、力強さもあり
私のが押す、秀頼No.1です❤
たわけ うつけ 間抜け
葵徳川三代の徳川秀忠のイメージが
大阪城を残したまま豊臣秀頼を残す事に脅威を感じたのだと思います。浪人とはいえ大阪夏の陣では10万人の人が集まりました。100万石の大名でもないのにです。100万石でも普通の大名だったら集まらないと思います。だから滅ぼさなければ徳川家が滅ぼされると考えたのかもしれません。
わかりやすいし、喋りのテンポ好きです 聞きやすい
ありがとうございます!
そう言っていただけてとても嬉しいです☺️
今後ともよろしくお願いします🙇♀️
正直家康はそこまで豊臣を潰すことに執着してなかったと思う
関ヶ原時点で60近い年齢で当時はいつ死んでもおかしくない高齢だったにも関わらず豊臣を15年間江戸への参勤や転封も免除したりと非常に緩やかに政権交代を目指している
豊臣が徳川に絶対服従するつもりなら存続の目は十分合ったと思う
じゃあ淀がガンだったんでしょうね。
関ヶ原とその後数年で徳川家が盤石になったのは誰の目にも明らか
そこから10年も大阪方の臣従を待ったのは、家康なりの豊臣家に対する忠義もあると思う
秀吉や信長なら2、3年待たずにキレてたし臣従自体許されなかったやろね
長期間待った結果、徳川としてはもはや徹底的に潰すしかない状況に
大和か安房への転封になっただろう。
豊臣が生きてたら秀忠の代で潰されるでしょ
家康公が秀頼に気を使ってたのは自分も同意しますが、その反面きっちり真綿で首も絞めています。
江戸城普請。
堺や4つの金銀鉱山の譲渡。
秀吉の遺言だった秀頼の関白職を他の者に。
徹底した官位コントロール。
20以上に及ぶ神社仏閣の再建。
二条城での臣下の礼。
秀頼は馬脚を露さず、これらの命令に全て従っています。
秀吉が簡単に織田家を簒奪できたのは、向こうの方から逆らってくれたからです。
信雄も秀吉派の重臣を殺して兵を上げましたし、神戸も清須会議に抵抗して挙兵しました。
方広寺の一件のように少し強引にいかなければ、家康は服従か滅亡かを迫る大義名分が無かったのだと思います。
まあ、それでも秀忠より官位が上になるようにしてるので、気を使っていたのも間違いないと思いますが……。
死んだら骨だけになるんだったら生きてる内に自分のやりたいことをする家康に一票。
なにも間違ってない。
犯罪人の思考やん
やりたいことやって「余は満足じゃ!」って言ってあの世に逝く世界が、250年近く続いてたんだよなぁ😅
狸😂
@@user-kj8mu1fm9q
戦国は食うか食われるかの時代なんだからそこに犯罪人の思考もへったくれもないんだよ。
ナレーションのクセが凄い
がだんだんクセになるw
内容はすごくためになりました
日本史も世界史もこのくらいのテンポの授業で良いのでは?と思います。
ありがとうございます。
今後ともよろしくお願いします🙇♂️
ろくすっぽ授業も受けてない私もそう思います
語尾を伸ばすのやめてほしい涙
「ますぅ。」が苦手です
二重構造だったのですね。秀頼はお殿様らしい振る舞いでその先立派に世を納めるのも可能だったかも。
その佇まいに家康が焦った…。
なんというか秀頼も気の毒でした。が、秀頼にとって家康の戦国武将の百戦錬磨の経験値には敵わないですよね。違う時代に生まれていたなら良かったのに、相手が最強でした。わかりやすくて勉強になりました。
ありがとうございます。
そう言っていただけてとても嬉しいです☺️
今後ともよろしくお願いします🙇♀️
方広寺の長い鐘銘文言の中から、誰が「国家安康」「君臣豊楽」の2句に目を付け、誰が冬の陣を起こさせるイチャモンにまで昇華させたのか。
そこに詳しく触れてほしかったです。
羅山だと言われています。
ちなみに諱割りの前にも家康は「大工長の名前がないぞ!」「色が金色じゃないか!」「そもそも長い!」と次々と文句をつけてきてます。
機嫌が悪かったのか、加齢によるものか……
ちなみに機嫌が直ったのか、方広寺の一件は手打ちになります。
ただ秀頼側は警戒して浪人集めを加速していたので、そこを家康は片桐に注意して「両家が上手くいく解決案を出せ」と指示。
片桐は秀頼に参勤、人質、国替えの一つを要求。
ブチきれた家臣の大野らが片桐暗殺を計画。
秀頼は片桐を追放。
取り次ぎ役の片桐追放に家康は激怒して、その日の内に大阪出陣命令。
翌日、秀頼も全国の大名や浪人に檄を飛ばす。
数日後、追放された片桐が豊臣側攻撃する。
その約1ヶ月後、大坂の陣勃発。
家康にとっては皮肉にも
真の脅威は豊臣よりも毛利家だったという!
目先の豊臣の脅威だけ滅ぼしても駄目でしたね
皮肉になってますか
250年続いたんですし
時代が変わっていることを考えたら
慶喜さんは上手に次の時代へと繋いで下さったと思います
徳川秀忠がもっとしっかりした名将であれば大阪の陣は起きなかったのでは、それから豊臣秀頼が出陣していれば又歴史は変わっていたと思います。
それと、東照大権現様(徳川家康)が史実(1616年)よりもあと2・3年生き長らえていた場合東北の伊達氏も攻め滅ぼされていたのでは・・・
わかりやすいです。
今更ながら、日本史を勉強したくなった。
ありがとうございました。
嬉しいお言葉ありがとうございます。
今後ともよろしくお願いします🙇
秀頼は秀吉の子どもではない。家康も他の多くの方々も気付いていた。信長の気質を引き継いでいる淀殿ではまた戦乱の世になることが予想された。家康は自分が全国をまとめることを決意したのでしょう。
淀殿に戦乱を起こす気質があるなら、関ケ原のあと溢れ帰った牢人たちを雇ってたと思います。
有名だった立花宗茂とか後藤又兵衛も流浪してましたし。
豊臣家は直轄領の制圧すら出来ずに家康を頼る始末でした。
まだ家康も将軍になっていないし、どの大名も有能な人材は欲していました。
淀は戦いで天下を目指すのではなく、秀頼を関白にして独自勢力になる二重公儀体制の継続を狙っていたのではないでしょうか?
@@安西弘-t1o
なるほど。淀殿はお寺を建立したり修復したり、なかなか良いことをしていますからね。
別に家康亡き後、豊臣の世になっても良かったんじゃないかな?世の人々が平和、安寧なら。
結局、世の為と言いながら、我が家が治めないといけないと考える独裁者だね。
歴史が好きです。
わかりやすい。
ありがとうございます。
今後ともよろしくお願いします🙇
信康健在なら徳川家は空中
分解するのが明らかだし、
秀吉以前に信長健在のうちに改易され跡方もなかった筈。
後継者があまり有能なのも
危険だが、出来が悪いのも
危険なのは明らかだからその
さじ加減が難しいところ。
豊臣家は勿論、島津と毛利を
滅ぼさなかったのが手落ちと
しか言えず、そこまでは頭が
まわらなかったのかも。
普通のガバナンスが出来て
いれば、徳川の世はもう少し
長く続いたかもですね。
西洋列強の驚異にさらされては、どれ程徳川だけで相対することが出来たでしょうか❓
あの事が無ければ‼️と言うことも
時代の必然だと思います
初めてコメント💬します。
実に家康公の興味深い人間像ですね😃
今迄の狸親父通説を覆すような見解。
もしかしたら家康公の本当の姿を現した動画かもしれませんね😃
初コメントとても嬉しいです!
ありがとうございます☺️
今後ともよろしくお願いします🙇♂️
有能であるが上に先を見据えた家康が滅ぼしたというより無能な秀忠がやらかしたという感じですね
とてもわかりやすいですが、家康が「恩のある豊臣家を倒すのは悪だと考えてきた」というところが、ちょっと…🤔 何処の馬の骨ともわからぬ秀吉は下剋上の極みで一代で成り上がり関白に。その人物の子孫の世襲を当然と考えたでしょうか。加藤清正、福島正則などの豊臣恩顧の武将とは全く違うのでは? その部分が???です。
秀頼が成人したら実権を返すことを何枚も誓紙で誓ってます。
豊臣家は摂家同格という皇族ですら下座に座らせるチート性です。
家康は没落した今川氏親に一国与えようとしたこともあるので割と律儀だったのかもしれません。
それに当時の価値観では主家筋を根切りにすれば後世に汚名を残すことにもなります。
家康公は一説には蹴鞠にも一国与えようと信長に相談したくらいですから、主家筋殺しはあまりしたくなかったのではないでしょうか。
自身も少し前まで豊臣家康でしたし、豊臣性の摂家は宮家すら下座に座らせる天皇家に次ぐ名家です。
さらに秀頼のことを秀吉に頼まれて、何枚も誓紙を書いています。
誰一人大名は秀頼に付かなかったように、すでに幕府の体制は安定し出していましたし、無理に戦は起こしたくなかったと思います。
虐殺ばかりしていたら極楽浄土に行けない、と天海に聴かされ写経三昧してましたし笑
それに一歩間違えば明智光秀のように後世に汚名を残すことになります。
実際近年まで家康は、鐘の文言で難癖を付け、豊臣家臣団の分断を謀り、偽りの和平で堀を埋めた狸じじいだと思われていました。
秀忠は幼少期に秀吉の養子になっていたので養父の秀吉を裏切れなかった為にわざと遅刻してたのです
戦国時代は幼少期に敵対する大名家に婿養子に入る事が常識でした
秀忠にとって育ての親は家康ではなく秀吉なんです
ん〜とても分かりやすい解説ですね!!納得!!
ありがとうございます!!
今後ともよろしくお願いします🙇♀️
関ヶ原に遅刻した理由は簡単 真田をかまったからだぞ。
スルーして追って来たら迎え撃ち 来なければ関ヶ原に行くって感じで簡単な話
勝てば官軍、さらに長期に江戸幕府が続いたこともあり、家康のイメージはかなり過大評価されている気がします。その時代、あるいは後世の取り巻きの歴史家は、彼をよく書くことが多いでしょうから。でも、こうした事実から、かなり野心家だった気がします
過大評価と思わんな、むしろ大衆には正当な評価を与えられてないのが徳川家康って感じ
息子を殺したのを信長の命令にしたり、関東国替えを秀吉の嫌がらせにしたりは歴史捏造してる可能性がありますね。
安土だって田舎町だったのを交通の要所だから信長は本拠地にしましたし。
関東人と朝鮮人だけはこの男を庇うんだよね
昨日何故か夢の中に豊臣秀吉公が出てきて😊ハイタッチでパワー🎉を頂きました😊感謝🎉❤
サルとタヌキが喧嘩してタヌキが勝利!
女狐とたぬきが喧嘩したという説もあります笑
歴史の授業もこんな風なら楽しいのにみたいな話も分かるけど、元講師として教壇に立ってた身としては教科書を完璧に取り扱わないと受験や学テなどにおいて点が取れず、その担当指導者が職員室内で晒し者にされるとかあるので教科書通りじゃないといけないのです。
受験や学テで点が取れない際に責任なんて取れませんし。
正直受験などで歴史分野の点が取りたい場合は現代から遡って勉強すればいいのであって、言い方悪いですが戦国やそれ以前は軽視されがちです…
やはり4年を『よねん』ではなく『よんねん』と読むのはちょっと違和感あるなぁ。
信康が生きてたら安心できただろうけど。
信康存命なら、秀吉は徹底的に弱体化を図ったろう、関東移封は無かったろう、、
やはり名将結城秀康が将軍になれば人望もあり、戦も強く、秀頼を弟のようにかわいがっていたから、豊臣家を実権がない公家として残して、収まったかもしれない。まあ寿命が短いのがネックだが。
家康のニ男の結城秀康は、若くして、梅毒で鼻が欠け歯が全部欠けてフガフガになっていた、父の家康に久しぶり会見した時、家康から、「馬鹿モン!あそびめ(遊び女)ばかり、うつつぬかしやがって、なんだそのザマは!」と叱責されたのは、有名な話で、家康は、コイツもうだめだなと思った通り若くして亡くなった。
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その話は初めて聞きました
本当なら全然有能な人ではありませんね
自己管理すら出来ないんですから😮
@@user-yz6qp2ld4b 当時は、高貴な身分の人でも、梅毒に患って命を落とす人がたくさんいました。恥ずかしい病気と思われていたのは、昔も同じだったはずですが、なんせ治療法や特効薬など皆無の時代です。徳川家康は自分が梅毒のみならず病気に罹患することをとても気にし自分で薬草等を煎じて漢方薬を作ってよく服用していたのは有名な話ですよね。
家康は秀頼の舅ではなく 舅の父。
本能寺の変の後に明智光秀を豊臣秀吉が討伐し、賤ケ岳の戦い、小牧長久手の戦いを経て豊臣秀吉が天下を獲ったのと同様に、関ヶ原の戦いの後に方広寺鐘銘事件、大坂の陣の後に徳川家康が天下を獲ったと年号暗記の歴史教育に対して、歴史人が天下を獲るプロセスを分かりやすく解説されており、とても価値のある動画と感じました。
ありがとうございます。
そう言っていただけてとても嬉しいです☺️
今後ともよろしくお願いします🙇
どうする家康見てますか?
個人的なことですがどうする家康の考察みたいなのして欲しいです。
再生数も取れると思いますし…
よろしくお願いします。
秀忠がめちゃくちゃ優秀過ぎたら豊臣家は潰れてなかったりするんかな
「まぁ俺死んでも秀忠ならうまくやるだろ」みたいに
家康が最後に情に流されかけたけど秀忠が毅然とした態度で豊臣家に引導を渡したのか。
葵徳川三代の大坂の陣終盤で、家康が「2人(秀頼親子)は山里の丸か」と言った後、不穏なBGMが流れる中、家臣に何かを耳打ちしてるんですが、何を命じたのでしょうか?
2人を生かしておくなと言ったのかと思ったのですが、
秀頼親子が自害したのを知って「しまった!」と言ってるのがよく分からないです。
秀忠の御陰で、その後戦のない世が続いたね。長州から戦争だらけの。
太閤秀吉の子孫は今はいないけど、今となっては豊臣秀吉の名前は未来永劫語り継がれるビッグネーム
豊臣も徳川も今の日本を作った礎の1人英雄に代わりはない
凄く分かりやすいです😊今の大河でも平和なイメージにされているけどその実は武力で平和を保つ源氏の棟梁征夷大将軍を望んだ。武力で天下を取った。。
子孫達は江戸時代改易取り潰しという脅しをチラつかせて平和を保った。
武家の棟梁征夷大将軍の名に相応しい。
秀頼でも平和は保て豊臣政権のままで良かった。秀頼あまりに可哀想。秀頼暴君違うし。林羅山。。。
秀吉殿と家康殿は共に強気だが、秀吉殿は賢く、信長殿と同じく病んでいるので、痛いところに手が届くように信頼されていた。家康殿は優しい人柄だが、二人とも潰し虎視眈々と天下取りを狙っていた!
【関ヶ原の戦い後の恩賞】
加藤清正 肥後52万石
福島正則 安芸49万石
池田輝政 播磨52万石
黒田長政 筑前52万石
浅野幸長 紀伊38万石
細川忠興 豊前40万石
加藤嘉明 伊予松山20万石
藤堂高虎 伊予今治20万石
京極高次 若狭10万石
京極高知 丹後12万石
田中吉政 筑後32万石
山内一豊 土佐20万石
猿と狸は相性が悪いようですね😅
猿も狸も魔王とは上手くいってたのに笑
秀忠公も近年の調べでは、名将ですね!
動画配信ありがとうございます。
加えて、榊原康政、本多忠勝、大久保忠佐といった、徳川家の歴戦の勇将たちが相次いで亡くなっていますからね。
結城秀康や松平忠吉といった、武勇に秀でた息子たちに先立たれたことも、影響があるのかもしれません。
このころの家康は天下を取るために特に徹底して邪魔になる可能性がある人物を潰して回ってた
二条城で頭を下げた後は加藤清正が安堵したように、割と良好な関係が続いてたのに(家康は全国展開していた天下普請を凍結する)
方広寺の一件から一気に崩れましたね。
片桐からではなく、臣下の礼の時のように北政所から3か条(参勤、人質、国替え)を要請していれば秀頼は受け入れたでしょうか?
少なくても片桐追放はなくなるので、どこかで妥協点が見つかっていたかも知れないですね。
家康の秀吉への怨み。
家康はねねを抱き込んだ。
ねねと淀の軋轢を利用。
はたしてそうであろうか?
これでは家康の疑心暗鬼が元と言う土台背景に捉えられる。
私はやはり血統が本質だと思っていたが…
徳川は痩せても武家の出。
一方秀吉はしがない農民の子。
鎌倉時代より発した源氏と平家の源流が大いなる元ではないだろうか?
私にはこの解説論には疑問を感じる。
源より摂家同格の豊臣家の方が家の格は上です。
源性では将軍にはなれても関白にはなれません。
摂家なら関白も摂家将軍にもどちらでもなれます。
ただし関白は最低16歳以上じゃないと就任できないので、4歳でも世襲出来る将軍職の方がその点はメリットだと思います。(将軍なら秀吉は秀頼に将軍職を譲れた)
マア、家康は「吾妻鏡」を熟読してきたようだし。あれ読んでたら「邪魔者は消せ!」ってなるわな。
方広寺の言いがかりは笑えるレベル😊
そうかな?放置したらしたでばかにされそう。
当時の価値観ではアウト
今の時代で言うなら隣の国が公文章で岸田首相を「増税メガネ」天皇陛下を「日王(隣の国での天皇陛下の蔑称)」と記載したレベルらしい
いや、近年の研究では、当時の感覚でかなり非常識な振る舞いってわかってきてるから、ケンカ売ってると思われても仕方ないよ
それほどまでに気に入らないなら鐘は鋳潰してるはずなのに、現代まで残っているのはその証拠。
豊臣を滅亡させた証拠品として残したのでは⁉️
こんなに酷いことを言われたから滅亡させても当然でしょう‼️って
秀忠は舅という立場があるのである程度豊臣を制御できたかもしれないが、家光の代では...。その憂いもあって秀忠は非情な決断をしたのかもしれませんね。まあ、あくまでも憶測ですが。
朝鮮出兵は、必要だったか……
朝鮮出兵した大名はキリシタンが主で、キリスト教が広まるのを豊臣秀吉が恐れて!?広まっていたキリスト教を抑えるための出兵だったらしいですよ
この手の動画本当好き
嬉しいお言葉ありがとうございます!
今後ともよろしくお願いします🙇♀️
それは豊臣は潰すよね
1.もし豊臣秀頼が関白となったら、徳川家康政権が覆るかも知れない。2.歴史に関心ある徳川家康は吾妻鏡とかを読み平氏が源氏を滅ぼさなかったので、平氏が滅ぼされてしまった。
秀忠のせいなら、なんだか江と千姫が被害者になってしまいましたね。
それも一説。ありがとうございます。
当時の「方広寺」は奈良・鎌倉を超える「史上最大の大仏殿」だった。今の国立競技場を超える「一世一代の大事業」の筈だった。
今まで武将として沢山殺めてきた死後の行方に不安もあり、歴史的なレガシーも残したい家康はその完成を大いに楽しみに期待していた。
・・・しかし、それが大きく裏切られた。
本来なら、寺の棟柱に掲げる玉串に、貫主(寺の頭領)と、棟梁(大工の親分・建築士)と、並び発願主(発起人・秀吉並び家康)が記される筈が、玉串自体を掲げられて無かった。
貫主を調べたら経歴に疑いがあり、棟梁も逃げ出し、仕舞いには梵鐘からも不吉な字文が見付かる始末。
世間から「大恥」を掻かされ、「権威」を傷付けられ、「死後の不安」を深め「コレは徳川を滅ぼす呪詛だ」と言うのは疑いの無い「事実」として受け止められた。
豊臣家へ反意を抱き、滅亡して、権威を取り戻し、死後を安寧にするコトを決意するのには十分な理由だった。
呪詛に関しては五山の僧7人全員が否定しています。
諱を割るのは無礼だとは思いますが、ドラマのように秀頼が描かせたわけではないので、まずは方広寺再建の責任者である片桐を罰するのが筋ではないでしょうか?
銘文を書いた和尚を選定したのも片桐です。
そもそも方広寺再建は家康が秀頼に要請したことであり、片桐は幕府に知行をもらう幕臣でもあります。
片桐を罰しなかったのは、鐘銘文は重大な問題だが、且元に責任はなく、梵鐘から問題の銘文をすりつぶせば良いとの家康の内意があったからだとも言われています。
貴方の主張は間違ってはないとは思いますが、秀頼が命令したわけでも、呪詛でもないのですから、さすがに主家筋を滅ぼす大義名分としては弱いと言わざるを得ないと思います。
面白い内容でした👍️
二条城の会見が分岐点かも知れない。
あえて逆張り、秀忠とその側近が企てた戦いだと思いますね、豊臣秀頼はもちろん松平忠輝にも罠をかけ、上杉景勝伊達政宗の忠義を見極める、周到な秀忠と柳生の陰謀です
徳川家康の人生経験と秀頼の能力は武将の暴走を予知できないほどだった。
豊臣の維新は政略のみ
福島正則、加藤清正とか生きてる間に徳川に戦えば違う世の中になったかも?
時期、次期関白?
同じ世代に均衡する2つの勢力は成り立たないんだろうな カリスマは常に一つだと 力が拮抗すればどちらかが滅びる ドイツ陣営とアメリカ陣営 アメリカとソ連 そしてアメリカと中国も 織田信長公に敵対関係にならなくてもいずれ大きな勢力を持つ武田家は不安な存在として戦う運命だし信玄の選択は間違えてなかったのかな
最後の秀忠のひと仕事が最も戦功ありでワロタ😂
家康のアテレコが・・・w アホの殿様みたい
息の根を止めとかないとどうなるか。平清盛は助命した頼朝兄弟に一族滅ぼされ、足利尊氏は後醍醐帝を吉野に逃したことで大混乱をもたらした。
ですね。
秀吉は家康討伐を諦めたことで息子の死を招いていますし、浦上家も赤松主家を暗殺しておきながら、息子はそのまま自分が養育し、後にその子に討たれています。
家康公も同じように薩長に天下を奪われたとはいえ、250年も天下太平が続いたのだからしっかりと出る杭は打っていたのではと思います。
自ら滅んだと思う、みじめに生きることを選ばなかったのかもしれない。
ありがとうございます!
多大なるご支援ありがとうございます!
良い動画をお届けできるよう精進いたします。
今後ともよろしくお願いします🙇♀️
非常に勉強になりました チャンネル登録しました
ありがとうございます。
今後ともよろしくお願いします🙇♂️
徹底的に潰して無かったら徳川は二代で終わって戦国時代が長引いただろうね
ま、豊臣も滅んで将軍は毛利家だったかもな
江戸時代がないまま幕末だったら今頃日本は消えてたかも知れないね
今の日本人特有の価値観って、江戸時代に培われたものが多いから、(老人は大事にする。犬や猫は食べない。写経や念仏をしようが悪いことをすればバチがあたる)
江戸時代がなければもっと違った国民性になっていたでしょうね。
秀頼は秀吉の子供と言われているが お父さんは違うと思う
京都上洛にあんま野心持ってなかったよな、、、
よくまとまっていて勉強になりました
やはり大河はこの感じが最高ですね!
作者の方再び書いて頂きたいです🤗
淀殿と秀頼の自害は一般的に周知されていますが、一族となるとどの程度まで根絶やしになったのかが知りたかったのですが。よく聞くのが子々三代とかそこまでだったのか。
淀の弟(浅井長政の息子)は、毛利勝永隊にいましたが、姉の初が救って無事大坂を脱出。
京極家が幕府に隠してこっそりと天寿を全うするまで保護しました。
鐘銘の件はどう見ても言い掛かり
言いがかりのネタを仕込んだまで有ると思う
方向寺大仏もも豊国神社も寄進して再興させて金を消費させようとしていたんだから
おもしろいね歴史は!
とても分かりやすく理解しやすい^_^
ありがとうございます!
今後ともよろしくお願いします🙇
別に徳川が豊臣を意識なんかしてないでしょ。だからこそ関ヶ原まで煽ったわけだし。
幕府をひらいて以降なんて豊臣など一大名にしかすぎず、生殺与奪は家康が握ってた。
だからこそ豊臣も大人しくしてた。
ちなみにに秀忠は有能な将軍。
遅さんだって家康が真田を攻めろと言ったから。
平和な時代に幕府の運営等、外様との友好関係など実に有能な将軍。
成人した秀頼を見て危機感を感じた というより加藤清正福島マサノリなどまだまだ豊臣を担ぐ大名がいる事を再確認した。
方広寺の鐘も、呪詛ならその文字は削られるはずが今日まで残ってる。
江戸幕府は磐石で秀忠もうまくやってる。
死期が近い家康ができる事は豊臣を滅ぼし自らが全ての恨みを背負いあの世へ持って行くこと と思ったから。
豊臣滅亡の原因はひとえに淀君の意識が高かっただけ。何度も一大名としての豊臣存続の機会はあったはず。
すぐに結集する中心になるからな
豊臣の天下は秀次事件で終わった。後は余興に過ぎない!
長生きが一番!
健康は金で買えない
勉強になりました
片桐が何故あんなことを言ったのか・・・
もうすでに清正などと協力して二条城で臣下の礼させたので、参勤ぐらいは出来ると思ったのではないでしょうか。
3か条が徳川からの正式要請なら片桐はただ取り次ぎをしただけなので、暗殺未遂は起こらなかったと思います。
ほんと何故一人であんな要求を……。
争い事は、誰も〜止められませんね、😂
浅野幸長(よしなが)
秀忠がちゃんとした息子だったらこうはならなかったかもなぁ。
方向寺事件は林羅山が進言したと思う。
秀吉は織田家を潰しはしなかったな。家康は豊臣を完全に潰した。やっぱ徳川をひっくり返す、少なくとも大混乱させるだけの可能性をもっていた~ということなのだろう。大人しく郡山城に引っ込み家康の死後にかけるべきでしたな。
郡山への国替えですか?
秀頼は冬の陣のあと国替え不要で和睦したのに、4ヶ月も経たずに国替え要求されたわけですから「家康信置けず!」と怒って国替えも牢人追放も断ったそうです。
淀はもう心が折れてて「御家第一」と説得したそうですが、秀頼の心は変わらず夏の陣が始まったとか。
50年後ぐらいに書かれた二次資料の記述ですけど。
私は三方ヶ原は敗戦といわれるが全く逆で、領主の心意気を示せたぞ。私が部下、地元の豪族なら「こいつになら、ついていく」と思うよ。アンケート取れたら面白かっただろうよ。
金地院数伝では