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今まで会津戦はわかってたつもりですが、流れをわかりやすく解説頂きありがとうございました。とくに女性たちの戦いと覚悟の解説には涙が出てしまいました😢
涙が出たではいかんのや、その後、貴方はどうあるべきか考えて後世にお話しせんといかんのやぜ。それが歴史を学ぶと言う事ですよ。
女性部隊に薙刀を持たせ近代兵器に立ち向かわせた容保とその側近が悪質すぎるだろう。女性から願い出たと言う話が本当かどうかは別にして、仮のそんな話があっても、「ならぬものはならぬ」と言えばいいだろうに、会津の上役はそれをしなかった。もっと言えば、白虎隊は城が燃えているから自刃したのではなく、誤って敵に擒(とりこ)にせられ、縄目の屈辱を受ける如(ごと)き事態を回避すべく若い命を絶ったが、鳥羽伏見以降、越後他で夥しい蛮行を重ね、空前の贋金をつくったり、北海道を売ろうとまでした挙句、戦いに負け3千人の会津の命を失わせたのに、容保ほか会津の首脳陣は家老一人の首を差し出し、生き恥をさらした。そう言えば、会津出身の陸軍元帥、畑俊六は「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」の一節が悪名高い戦陣訓の発案者で、兵士だけでなく、多くの市民の命を奪ったが、天寿を全うした。
会津の軽挙妄動で鳥羽伏見で旧幕府側を敗北し、藩祖保科正之の遺訓など全く守らず、慶喜の意に反し、謝罪・謹慎どころか、上野や北関東に兵を送り、寛大な措置を約束した新政府の意向を無視、世良修蔵の手紙を捏造、仙台藩を味方につけると即座に白河城を先制攻撃した。しかも、戦費調達と新政府寄りの他藩藩士に対する脅しを含め、新潟や福島二本松藩領などで会津藩兵は夥しい略奪・暴行を繰り返した。領民には苛烈な重税を課し、江戸時代最大の贋金(新潟港で学国貿易が衰退した理由でもある)をつくり、さらに、北海道まで売ろうとした。弾丸飛び交う戦場に女性を薙刀で立ち向かわせる意思決定をした萱野権平もおかしいが、白虎隊の隊長、日向内記は敵前逃亡し、白虎隊の悲劇を生んだ。会津藩士は明治維新後、薩長土に随分助けられたが、そのことは触れず、その恩義を忘れ、会津戦争では薩長土や大垣の凄惨な乱暴狼藉があったとか、会津藩士の埋葬が許されなかったとか、捏造の歴史(会津観光史学)をつくり上げ、金もうけに走った。白虎隊の悲劇は美化され、その後、ムッソリーニやナチスドイツから絶賛され、記念碑まで立ててもらった。「ならぬものはならぬことばかり」した松平容保は、「ならぬものはならぬ」と議論を封じ込めたところが、会津藩の硬直的な組織をつくり、薩長土のような下級武士の活躍がほぼ皆無だったこととは無縁ではない。会津の失敗は、世界で殆ど通用しない社長と大過なく過ごしたり、会社の為と称してコンプラのできないサラリーマンばかりの現代日本の低迷と重なることが多く、その意味では、学ぶことが多い。
私は福島県出身ですが、昔から会津の人には『会津魂』と言って、正義を貫くための意地と根性があったのです。こちらに書いてる方もいらっしゃいますが、会津では今でも長州(山口県)の人間が嫌いだと言う人がいます。戊辰戦争を知らない会津の人はいないので、先祖から伝えられて来た教えと感情が今でも根強く残っているのだと思います。この動画から知る内容を見ても、それは納得だと思います。
逆に鹿児島県民の人の中には福島県嫌いの人はいるみたいですよ。
知っていますか?会津藩は脱藩した浪士達を使って他の藩に略奪や火つけ行為を行っています。新選組による残党狩りのための火つけ行為のやりすぎで京都の大半が燃えています。そういうのも知っていますか?日本の領土である蝦夷地を勝手に北海道に売却しようとしていた事も知っていますか?NHKで報道されましたし、新聞にも載りました。北海道新聞でも話題になりました。
未だに、鹿児島市からの友好都市の申し込みを拒否しつづけているんですよね?そうした意地の張り方、感動します。
鹿児島県民だが福島県を嫌う理由なんてないし、福島県嫌いの人間がいるなど初耳。
会津藩士の末裔ですが、亡くなった祖父は、「薩摩はまだしも、長州の汚さだけは許せない」と言っていました。
祖母が二本松の生まれでした幸せを信じきれない所の有る祖母で自分の子供達は、世間に比べ幸せじゃ無くて、かわいそうにと言う様な、嘆く言葉を良く言っていました。半農半武士だったと言うお父さんに、毎朝学校に行く前に、髪を結って貰ったと言う微笑ましい話だけ教えてくれましたそれ以外は、話す事は有りませんでした。『花は会津の白虎隊』と言う、悲しい唄を時々歌っていました
俺は二本松少年隊の方が立派に思う。白虎隊は誤認により自刃したが、彼らより更に年下の少年隊は、戦って果てた。もし、彼らが生きていたら、日本にどれだけの功績を残せたのか。そう思うと本当に無念でならない。
苦悩には中毒性がありますよね🤔でも福島に住む人達が幸せになってほしいといつも思います☘️
@@瑞希教 苦悩に中毒性‥‥えっと、ドMではありません。ただ、この苦難は試練だと思いますし、戦争そのものの非道さと悲惨さ、それによりもたらされる物は何かの教訓と思えます。
二本松の悲劇は会津藩のすぐ隣だったこと。会津藩に武力侵攻されて、会津の軍門に下り、無理やり東北戦争緒戦の白河に二本松藩の主力を送ったこと。白河では、ただ偉いだけで、近代戦を知らず実戦経験もない西郷頼母率いる会津兵が、少数の新政府軍相手にヘマばかりして、動けず、ガラ開きだった二本松の側面を衝かれたこと。しかも、二本松藩主を仙台に差し出していたから、降伏もできず、唯一城を枕に戦った二本松藩の少年隊の悲劇を生んだ。その後も母成峠の斥候を怠り、十六橋も破壊できずに、まずい戦いを続ける会津藩の犠牲になったのが白虎隊だが、彼らはムッソリーニとナチスドイツに顕彰され、戦後、会津観光最大の目玉になった。自刃した白虎隊士たちはそんな喧騒を喜んでいるのかな?
会津生まれ小さい頃から会津の悲劇を聞いて育ちました。明治維新を賛美する声の裏でこのような悲劇があったことを忘れないでほしい。
悲劇は悲劇なんでしょうが、士族にとってだけの話ですね会津士族は憎まれて、新政府軍は解放軍として歓迎された面もあり、道案内をしてくれた農民も多数いました。容保が江戸に護送される際には、沿道の農民が容保に罵声を浴びせていたと、従軍していた西洋人医師の日記にあるほどです。海岸警備や京都守護職の費用を捻出するため元々重かった年貢が、さらに重税(生産される米はほぼ年貢)となり、さらに商人からは20年後に返すといって押し借りという状況なので領民の怒りは分かります(西郷の言うことを聴いていれば.....)。
@@miyakoshim.4443 士族だから農民だからということは関係ありませんね。実際に進んで戦った農民もいるわけです。確かに新政府軍を歓迎した人たちもいましたが、それは一部の人たちですよ。私自身も容保公の罪は大きいと思います。腰の据わらない慶喜を信じたばかりに会津に悲劇をもたらしたわけですから。だからといって新政府軍の行いや会津に怒った出来事を受け入れる気にはなりませんね。
@@銀河-m8w とは言っても自業自得の部分が、かなりありますよ鳥羽伏見で幕府に味方した藩は会津藩を含めて、全て朝敵とされましたが朝敵認定された高松藩や姫路藩などの場合、周囲の藩に朝敵だから撃つようにという指令が発せられるや城を出て藩主は謹慎、抵抗せずに城を明け渡し、その後かなりの献金をしたので罪は軽くなりました。会津も城を出て恭順し、無抵抗で城を明け渡し、献金でもしていれば結果は違ったでしょう。慶喜と容保に対する新政府の方針は斬首ということでしたが、慶喜は江戸城を明け渡し無抵抗(一部、彰義隊の争乱はあったが)で謹慎したので罪一等を減じられました。会津も高松藩や姫路藩のように無抵抗であれば、あのような悲劇?はありませんでしたね。
会津の人が、新政府を恨むあまり、嘘まで伝わってたという事実もあります。明治維新を賛美する気はないが、会津をただの悲劇で片づける気もない。
@@銀河-m8w 様正義と正義の闘い? 守護職の会津桑名兵は長州藩士をムチャクチャ殺しておりますね! 此れも正義を護る為でしたね🤣
新撰組が好きでたどり着いた会津戦争のお話。そこから八重の桜をみてから会津の歴史を学びました。とても悲しい歴史ですよね。
先祖は会津藩で実家は青森南部です。ここに言ってませんが会津狩りで殺された死体は普通ならば武士の情けで土に埋めるが死体はさらしカラスとかキツネの餌になってました。地元の百姓が哀れみで土に埋めるとその百姓も打ち首になったそうです。三戸の神社で会津藩の慰霊塔が祀ってます。八戸とか十和田市とかにもうあるみたいです。一番悲惨なのは下北半島みたいです。
斗南藩ですね。
函館出身です。会津と同じで五稜郭で死んだ旧幕軍は放置され、人として厚く葬ることは禁止されました。町中に腐乱死体が溢れそうです。旧会津の方々は西南戦争の際、会津戦争の怨みで、薩摩への攻撃が凄まじかったようですね。
@@taku3yoshida 五稜郭、行きました。本当に素晴らしい城跡で美しい。函館戦争での中島親子の悲劇は有名ですよね。
まだ「ウソ」がすりこまれてて、平気でウソをつく人がいるね。
最近その説を否定する当時の資料が発見されて会津側の遺体もきちんと埋葬されたという事実が判明している
時代の流れとは言え、ただただ涙です。
この会津戦争では、二本松藩の二本松少年隊がさらに涙を誘う。白虎隊士より幼い少年達が藩を守るために命を落としていく。白虎隊は生き残った飯沼貞吉さんの証言で有名になったけど二本松少年隊の事はそれをきちんと証言してくれる人もおらず、この悲劇は近年動画などで知られてきているけど、本当に切ない。昭和の年末時代劇の白虎隊や五稜郭で悲劇の一端を知ることができて以来、色々と見聞きして会津には何度も訪れた。西郷家の子女の自刃のようすは武家屋敷に展示されていて、こんなに幼い子供がと涙が止まらなかった。
女子供といえど武家という特権階級に生まれた以上、名誉に殉じる意味もありますが、非戦闘民の犠牲を1人でも出さないためもあったでしょうね
少年隊士、成田才次郎。少年でありながら官軍指揮官を討ち取ったんだよな。その後銃弾で討ちタヒなったが。木村銃太郎。少年隊隊長。砲術は凄かったとか。しかし、敵弾に倒れ戦タヒ、少年隊士達が『先生の首を敵に渡してはならぬ』と必死に運んだとか。大壇口の二勇士。少年隊士達を逃す為、二十代の青年二人が官軍に斬り込むで戦タヒ。『子ら!逃げろ!』たった二人で大軍を翻弄させ、少年隊を決タヒで逃す。
頑迷固陋な性格で、周りからチビのヒゲダルマと嫌われまくった、西郷頼母のせいで、城に避難できなかった家族の悲劇。肝心のコイツは徹底抗戦を主張した癖に、戦の最中に国外脱出したもんだから、あまりの変節振りに、松平容保から刺客を差し向けられるカス。最後は会津に戻り、天寿を全うしたが、コイツに振り回された、周りの者達は、たまったものじゃない😡。
😢
@@獅子原鱗 武士に対し、重い年貢にあえぐ百姓は恨みを持っていたそうですよ。
知ってるようでよく知らない。戊辰戦争聞くと会津戦争の大雑把な経緯と会津藩、白虎隊、什の掟、ならぬことはならぬものです、しか出てこない、愛しき日々が頭の中で再生される。女子供や弱者なりの戦い方なんて悲しすぎます。いつの時代も戦争は憎しみしかうまれない。
鳥羽伏見の戦いでは、淀藩に幕府軍が助けを求めたが、主からの指示がないとのことで門の中に入れてもらえず敗走。納所にあるお寺には、当時の弾痕があるらしい。
時代の変わり目であったとしても会津の人達の生き様や思いは誰も真似できないと思う、会津魂には感服しかありません
今でも立ち上がれないように地震や原発で嫌がらせされてますね😰ラストサムライの会津藩、日本の宝です🙏
日本を羨ましいと記述する朝鮮の歴史本は読むほどに つじつまが合わず創作的とわかる。日本人に見える彼等は反日の可能性がある。秀吉が連れてくるはずがない。徳川も身分制度を設けたのはそこです。区別がつかない。今、政府は帰化を急がせてる。21世紀の今は身分制度は皆無となってます、徳川も倒された。日本は平和?牛耳られたのはどちら? 正義の私達の先祖の無念は日本の未来の平和のために命をかけた。先祖達に感謝してほころんできてる陰謀者たちは日本を継続的に支配して日本に住む民の区別は明確に分かれてる。 缶と明会津藩のことも○○隊も僅か何代前の事。戦争も僅か何代前の事彼らに教育を受けて忘れさせられてきた。歴史は他人事では無い僅か15代程の昔、日本の池に 外来種が紛れました。するとどんなことがおきますか。後数年で戸籍廃止されてしまうニュースは 二度と報道されない。ヒトとして扱われないと感じる日本の国民の財産が詐欺犯罪で奪われても 警察は動かない弁護士もミカタのふりして財産を奪う。日本人の財産を奪うのが現代の統一教会の目的と方途されていました。日本の血は汚い血。絶滅させた方が良い人種とね。
@@アベマリア-w5m様で、現在長州では、受給金を不正受給して、殆ど全額使い込んだ奴や、あの「迷惑系」が大暴れしてますからね・・・
江戸時代ならどこの藩でも、このような状況になれば同じような行動を取るでしょう武士階級の婦女子の行動原理は、どの藩も同じです
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余りにも悲しく、悲惨だ。言葉にもできない。
どうぞこの方々の御霊が安らかでありますように。ありがとうございます。
明治になって自由民権運動の指導者となった板垣退助は、会津戦争のとき、官軍先方隊の司令官で速攻が得意だった。会津のご城下に入る手前に石の頑丈な橋がある。会津藩はそこを爆破しようとしたが、間に合わず、官軍に先に渡られてしまう。そして一気にご城下になだれ込まれた。そして板垣が会津屋敷に入ると、大勢の家人が自刃しているのを見てショックを受けた。「こういう社会は価値観から変えなければならない」と考えて、後に自由民権運動に身を投じることとなった。
私は会津生まれの会津育ちです!今住んでいる所は会津ではないですが、誇りに思って、生きて生きます。
❤素晴らしく色んな意味で、、、✨学習院信悦侍女
山口はすきですか?
ヨーロッパに20年以上住んでいますが、私も会津生まれの会津育ちです。時々、自分自身の融通のきかなさに辟易する時がありますが、良くも悪くもそれは会津の血なのかもしれません。私欲に囚われない誇り高き日本人として生きていく事が現在の目標です。
フグスマ😂
会津藩の心意気を尊敬しています。もっと史実をしらねばならないと思います
有意義な動画!コメント欄まで隅々まで見てとても勉強になりました。(なぜか返信がで見れないのがいくつもありましたが)明治以降の歴史を鑑みると余計に悲しくなってきます。
会津人です。地元で会津の歴史の話をすれば、教科書やテレビでは語られない様なエグい話を聞きます。動画にするにあたり、これでもマイルドに仕上げて下さっているのでしょうが、正直こんなもんじゃないです。田舎が嫌で都会に出た身ですが、会津に戻って故郷に貢献するのを目標にあと少し会津魂で都会で頑張ろうと思います。
頑張って👍会津魂の誇りを持って‼️
都会に出ても、会津魂を忘れない貴方は、立派な会津人です。とても、尊敬しますし、同じ東北人として、誇りに思います。
@@二等陸尉伊丹 さんありがとうございます。先人たちが命懸けで守ったものを残し伝えていけるように、一人の力では非力ではありますがやっていきたいです。
私の母は会津出身です。同感です。他コメでもしましたが、長州兵は民度の低い農民兵ばかりです。武士ではありません!それがわかっていたので、あれだけの自害者がいたのです。同じ日本人ではありません!戦死した武士を埋葬して弔わない?あり得ない事です。そんなことないです!許すわけありません。おそらく会津の方達は先の大東亜戦争のアメリカより許さないでしょう。受け入れるとか、そんな事ではありません!人間の魂の根本的なことです。
@@momochau2002 鳥羽伏見の戦いでも、幕軍の御遺体を回収、弔ってはならないと奴らは言っていた。それを『哀れで不憫だな。』と、夜中に部下と共に回収し、寺に秘密裏に運んだ人達が居ました。それが会津の小鉄です。今の極道は思うところはありますが、初代会津の小鉄は正に極道と思います。また、母成峠に『土饅頭』と呼ばれる墓所があります。彼らも秘密裏に埋葬された人々です。墓前に手を合わせると、何故か自然に涙が溢れてしまいます。
面白い動画、ではないですが、悲しい歴史です。余り教科書では語られない歴史です。取り上げて下さりありがとうございます。
東京の会社勤めですが、会津に出張商談に行ったとき上司から出身地の話はするな、聞かれたら嘘をつけ、と言われた。山口県出身です。
福島の人は今でも長州憎しでしょうから…
アリもしない長州藩の蛮行を捏造(戦後)し、会津藩士が埋葬された証拠がでてきても、長州には謝罪せず、一方、長州から恩義は無視(山川健次郎、飯沼貞吉他の養育、)した山口県の方に同情です。しかも、謝罪も恭順もしなかった会津藩は越後や福島中通りの夥しい略奪をしたのに知らん顔、他に例を見ない贋金づくりや北海道をビスマルクに売ろうとしたことや、飯盛山にムッソリーニやヒトラーに贈られた記念碑のあることには触れないようにして、金儲けの観光に勤しむってのはどうなのかな。銃弾の飛び交う中、「薙刀の婦女隊を送り込む」と言う世紀の虐殺まで、それを決断した容保と萱野を糾弾せずに美談に変えたのだから、その商魂たるや驚く限り。
@@kuchika4502だけど福島ユナイテッドには山口県出身の選手がいましたね、ちなみに一切差別はなかったらしい、マスコミに批判記事もなかった(ガチ調査済み)、ベテランのサポーターのあるおばあさんは『安心してね、サッカーはヤングのスポーツだから、あんな昔のことグジグジいうやつはおらん』と言われた。
ちなみに、山口県の奇兵隊参加者が多かった地域では『攘夷の命令に沿って下関で戦ったのに超敵扱いされ、※嘘つき会津薩摩桑名の鵼公にやられた』と恨む人も多い、孝明天皇は怨霊にやられたと本気で信じる人も多い、朝廷に裏切られた共通点から菅原道真公の天満旗が部隊の旗にもなりました。ちなみに、某J2️⃣チームは一応、この3地域には勝ちました。よかったね🎉(どっかの陰謀論者が帝の死因をめちゃくちゃな事に書いてる人がいるが、書いた人に会ったことがあるけどガチ統失なので相手にしてはダメ)#上からくるぞ気をつけろ 並に気をつけて※薩英戦争はそもそも武器を持たない一般人を無礼打ちから始まったとこや、上陸戦がなかった事から当時の長州人は冷めた目で見ていた。なお、晩年を東北地方で過ごした山口の探検家西川一三氏は出身地で揉めると、大声で山口県の民謡を歌い出し相手を黙らせたらしい
長州藩は主力を北越戦争に置いており、会津で残虐なことをした記録は全くと言って良いほどないのに対して、会津藩による蛮行の記録は福島中通りや新潟に数多ある。そもそも幕末最悪の藩主と言われる容保率いる会津藩は徳川慶喜の意向に逆らい、一度も謝罪も謹慎もしなかったうえ、上野や北関東に兵を送っている。さらに仙台藩を戦争に引き込みたい会津藩は長州藩の世良修蔵の手紙の捏造(仙台戊辰史)し、世良を含め、勝見善太郎や松野儀助、従者繁蔵、野村十郎、中村小次郎を死に至らしめた。さらに長州藩は会津で不忠者のそしりを受けた飯盛山の白虎隊の唯一の生き残り飯沼貞吉を匿って養育し、さらに会津藩士、山川健次郎や小川亮の飛躍の場を提供し、明治になっても平田東介、山下源太郎、日下義雄、柴五郎などを抜擢した。そんな長州藩を日本最大の捏造、会津観光史学では、こき下ろし、テキトーな小説やエッセイを読んだ会津市民の一部は、未だに、山口県の方を敵視しているらしい。本当に会津の被害者ビジネスには本当に困ったものですね。どうぞお気を付けて。
会津藩のじーちゃん部隊は若松市内で薩長を引き止めてたのです。(会津では官軍と言ってはいけないのです。)
土方歳三氏が亡くなったあと、榎本武揚が中央に加勢しましたよね。あと、西郷隆盛を亡くす働きも明治にはあり、結果、西郷氏は亡くなりましたが明治になっても、というか昭和も遺恨があり、会津長州の永きに渡ってのそれぞれの深掘りをしてほしいです。
お話中の柴五郎は後の義和団事件の時、陸軍中佐として清国兵に包囲された北京の西欧列強の公使館でイギリス、フランス、イタリア、ロシアなどの籠城軍を良く指揮して、守り抜きました。その功績によって多くの国から勲章を授与されています。また、日英同盟のきっかけになったとも言われたほど、日本軍兵士の活躍は素晴らしかったそうです。大使館の壁に大穴を開けられ敵兵がなだれ込んで来たところに、援軍の日本軍の兵士がたった8名やって来て、すぐさまサーベルを振りかざし白兵突撃して敵を蹴散らしたそうです。それを見ていた公使館員や家族などが大いに感動して日本兵のファンになりました。(「守城の人」 明治人 柴五郎大将の生涯 村上兵衛 光人社NF文庫より)
戦争の悲惨さはいつの時代も、どの戦も同じなのかもしれません。考えさせられますね。
年末時代劇スペシャル「白虎隊」ですね。しょこたんのお父さんが沖田総司だったり、坂上忍が白虎隊員でした。あの時期の年末時代劇スペシャルシリーズはマジで名作揃いでした。
風間杜夫さんが松平容保役でしたね。
娘さんがAKBメンバーだという白虎隊メンバーの役者さんもいらっしゃいます
あのドラマに登場した中川宮が誰なのか説明が無かった。ちなみに孫は昭和天皇の皇后だから上皇様の曾祖父。
萱野権兵衛役の西田敏行さんの切腹する鬼気迫る姿が良かったです。
現青森県のむつ市にはその敗れた会津藩が移住して来たとされています。斗南藩(となみ)と言い廃藩置県で青森県に編入され斗南藩は2年で消滅してしまいましたが、会津の血は青森の地にも少なからず繋がって行ったと聞きます。最北の厳しい土地に開拓をさせられて酷い思いをしたと思うと涙がでます。
斗南へ行くのを選んだのは、会津藩。新政府に斗南か猪苗代にするか、選べと言われた際、猪苗代は戊辰戦争の折、領民の家、屋敷を焼き払って、恨みを買っていたから、選べなかっただけ。
会津藩の悲しみ悔しさは、八重の桜。感動と共に苦しく何て理不尽な結末。それをバネに八重さんは赤十字、新島ジョーと共にしっかり地盤を築いてくれた。素晴らしい日本人のなかの日本人。あのドラマをもう一度観たい。そして有り難うございますと。会津藩のお陰で今の日本の礎が出来たと。この方々の命の上に。
薩長は会津で狼藉の限りを尽くし女を犯し略奪し会津藩士を辺境の地まで追いやりました、抹殺作戦です西郷が英雄などは明治政府が作っただけと思っています、西南戦争で天誅は降りました、安倍晋三にも天誅は降るが積年の恨みは消えません。
八重の兄、山本覚馬は鳥羽伏見以降、薩摩藩や岩倉具視に助けられたが、なんといっても恩人は槇村正直(のち京都府令・知事)。京都府の顧問として府治を指導する。槇村の下で、小中学校・女学校・病院・医学校などの設立に力を尽くした他、大阪と北陸を結ぶ京都鉄道の敷設願書を当局に提出するなど、開明的諸政策を推進できたのです。ついでに、新島襄は幕末に米国に密航していたが、岩倉使節団に加わっていた木戸孝允と出会い、木戸は専属の通訳として新島を使節団に参加させた。明治8年、新島は大阪で長州藩の木戸孝允に会い、豪商磯野小右衛門から出資の約束を得て大阪での学校設立を目指したが、府知事の渡辺昇のキリスト教反対のため断念し、木戸の勧めにより長州出身の槇村正直が府知事を務める京都を新たな学校の候補地と定めた。そして、槇村は仏教の牙城、京都でキリスト教の学校の設立に向けて剛腕ぶりを発揮したのです。ところで、その新島襄と八重の縁まで取り持ったのが槇村正直ですよ。世良修蔵がヤバいやつで、会津に戦争をもたらしたというウソを堂々と放映した「八重の桜」では槇村が山本覚馬や新島襄を邪魔したみたいな意地悪な描き方をされていましたが、、、。
今でも会津の人が長州(山口)の人を許せないっていうのもわかる気がします。
許すわけない!長州兵は殆どが民度の低い農民兵ばかりで強姦、殺戮し放題!私の母は会津出身ですが、この事は話として受け継いでおり、長州、山口は決して許さないDNAが染み付いております。まあ、一般的な武士達ではなかったのでしょう!だからこそ自害したのでしょう!
山田洋次の寅さんで、会津の若い医者が長州の女の子に恋をする!という場面が有りましたね~私は、映画監督やシナリオを書く人間でも、会津戊辰戦争の悔しさがわからないのか!と一気に、寅さんシリーズが馬鹿げていると思いました~
会津の男の子が長州の女の子どの結婚は駄目!と親から言われて、それなら故郷を捨てる、と言ってめでたしめでたし~私は、歴史への無知に腹が立って、山田洋次も駄目だ!と嫌な気分になりました~
本当に歴史認識も何もない陳腐な内容そうですし、私は会津の人ではありませんけど、見たら気分悪くなりそうですね。
@@anpanマン それは知りませんでした。いくら映画の中とはいえ、まず会津の方達は観ないでしょう!維新自体がただの権力奪取であり、天皇を山口の田布施出身の人間にすり替えた茶番劇である事は結構知られております。会津は同時東北の大都市であり、維新以降わざと、主流から外されました。戊辰戦争後敢えて会津の方達は最北の斗南へ自ら向かいました。武士の最期の意地でした。新幕府の温情は受けない!母からは色々教わりました。粛々と受け入れました。こういう歴史は官軍の歴史であり、決して現代の国民にはしらされません!維新以降の戦争、日清、日露、大東亜戦争を見ればわかります。外国の植民地を恐れた?嘘ばかりです。彼らの好戦気質というか、破滅型というか、狂気の歴史です。今の政府を見ればわかります。長々と失礼します。本当の事はご自身のご判断にお任せします。ありがとうございました。
私は生まれが会津です。歴史を紐解いていただきありがとうございます。
私の父方の先祖は戊辰第4の函館先祖はまで会津と共に戦った一族の末裔です。銀座や六本木のクラブで昔、働いてた時にリアル徳川さんに私のお家の事を教えてもらったから叔父さんから聞いた話は本当だった!って思った。今、福島県に何故か流れ着いたんだけど…他者扱いされてショックでした。今はよくしてくれる人も居ますけど。父方の先祖は明治前後?なのかな?函館のちょっと上の江差町(官軍の船が最後に着いた場所)に領地が今もあります。 五稜郭の近くってかほぼ前に親族の家もあったのを覚えてます。歴史は大切だけど、戦争は何も残さないよな…。
福島、特に会津地方の人は、保守的でなかなかよそ者を受け付けません。でも、安心してください。会津の三泣きという言葉がありますが、会津に来た人は、初めよそ者への厳しさに泣く、次に人情に触れて泣く、最後に会津から離れがたくなって泣く…といいます。きっとまだ第一段階を過ぎた頃なんですよ😉私も全部味わった一人です。
お返事ありがとうございます!最初に福島県来た時はwelcome!って感じで次によそ者扱いにたまたま同じ飲み屋で呑んでだけなのに…働き先とか調べられて嫌がらせ受けたりと(誹謗中傷にネットストーカー含む)中々、福島県ではハードな思いをしました。特に東京から働きに来てたから震災の影響もあるんだろけど…都内でたった1人で十代の被災して生活困窮しながら義援金と物資も送って…被災地に炊き出しにも参加したりしてたんですよ。それでもいい顔をされない県民性に一時期は本当に病みました。たった17歳の家庭(お家含む)事情で頼る大人もいなくて頑張って来たし、被災地の片方の為!と、生活費削って頑張ったんだけど…三年後に福島県に来た時は本当に酷い目に会いました。それからたまたまるろうに剣心の映画のDVDかりて原作見て…ふと、うちの家って福島県に縁あるじゃん!酷いなぁ…福島の人ら…って思いながら今日に至りますが、小4の時にとある、紫の袈裟掛けたお坊さんに家の因縁全て背負って世の中をよくする為に生まれて来た子供だと言われたの思い出して今、こっちでよくしてくれる人達に逢うためにたどり着いたんだな。と思うようにしてます!歴史は大切だけど戦争は本当に何もいいことは残さないですよね。
凄い方なんですね!うちは父方が会津で、自分のかみさんの祖母が北海道の江良なんですよ。結婚後に初めて北海道へ行ってみて、函館〜江良〜江差までずっと道沿いに戦があったと知り、不思議な縁を感じてます。会津には親族がたくさんおり、いとこなどから色んな話を聞きます。僕自身も写真をやりますので会津で色んな人に話しかけてましたが…あとから結構嫌がらせされますね(笑)酷いと当日中に車などで追っかけて来てまで嫌がらせされます。会津人は非常にプライド高いので、こっちが親近感持つとそれだけで舐められてると感じる人が多いんです。未だ戊辰戦争の影が街じゅうを支配しているようなところですので、自分が時代劇の住人になったような接触の仕方でちょうどいいくらいです。写真趣味と言いましたが経験上田舎の人に親しくして良い事は一つもなかったです。どんな時でも『いや私は結構でございます』『いや私などとんでもない』みたいに謙遜しながらも一切プライベート情報を出さないようにしないと必ず失敗すると思います。向こう側はそれが当たり前なので、こっちが何か自分を知って欲しいとかそういう要素があると酷い目に遭いますよ。
@@310k-md5vl 凄いんですかね?私自身は多分…昔を捨てきれずにいる一族を恥じてます。年端もいかない子供にお母さんの為に還暦ぐらいの遠縁のおじさんと見合い結婚させようとしたり…父方の祖母(フランス人)の私が二十歳で相続するはずの財産をすべて家の為だとかって知らぬうちに奪われてたり…暴力と隠蔽が当たり前でしたよ。血筋だけは叔父と本当に徳川さんに聞いたので世が世なら姫であった件は本当みたいだけど(笑)ちなみに祖母の母もフランス貴族の家柄らしいんで。血筋だけは本当に姫ですね。だけど、考え方とかが江戸時代で停止してるんでついていけず両親の借金返済と両親と兄からの暴力や色々あって12歳で家は出ました。凄いって言うならリアル徳川さんの方が凄い!って思います。私がクォーターで幕臣の家で江差辺りに領地あるっていったら名字や未成年バレました(笑)とてもいい方でしたよ。奥様が北海道の江差なんですね!なんか仲間感ありますね(笑)私も写真は好きですよ。田舎が嫌いって言うわけではないんですけど…フレンドリーに根掘り葉掘り聞いて来ていざまたになるとよそ者暑いやら…変人扱いしてくるとこらは苦手ですね。見識の違いは100人いたら100あるわけだし。それを受け入れない姿勢が強いと思います。まるでよそ者は宇宙人扱い!って感じかな…まぁそれだけでネットストーカーして誹謗中傷していい理由はないと思うし、いい人もいるけれど、片寄った考え方の人多いのも事実ですよね。親族全員が悪魔みたいな人間だったわけではないので。いつか会津に行ってみたいです!と、職場の先輩の仲良しさんがたまたま会津で先日、武家で医者の家系らしかったって聞いてびっくりしたんですよ。先祖は間違いなく会津の為(福島県)に一緒に戦ってたはずなんで。と、江戸時代までは有名ではないにせよ日本有数の金持ちだったらしいと叔父とかから聞いてます。父は馬鹿様の二代目と言われてましたけどね!その他の詳しい事は知りませんが会津に資金力で後方支援してたみたいですね。函館戦争まで供に戦ってたって言ってましたから。
以前福島県白河市で仕事をしていた時、当時のお客様から、白河市が戊辰戦争の激戦地だった話を聞いたことがある。新政府軍(主に長州)に負けた後、当時の白河の女性達が新政府軍に酷いことをされたとか。これは当時勤めていた会社の社長もそうだったが、50〜60代以降の良い大人達も知らない人間が多い。明治以降も、ひとたび戦争ともなれば、長州出身の人間はたとえ無能であっても重要なポストに就くことができ、白河を含めた東北人はどんなに有能であっても出世が難しく、なおかつ危険な戦場へ回された。地元の人間はおろか、どの位の日本人がこの事実を知っているだろうか(もっとも、戦後マッカーサーにより日本の真実の歴史を尽く消されたので知らない人間が多いだろうが)❓TV放送や教科書に書いてある、耳障りの良い話ばかりを鵜呑みにせず、歴史を真実に迫らない限り、日本は危ない。
詳細は解らないでしたが、友人のルーツは白河の武家の分家で戦争があったという事は聞いてました。そういう悲劇があったんですね。因に前総理の安倍さんは、長州ですが母系だったかな。ルーツは青森の安倍氏族と言われてます。蝦夷の血が流れてますよね。長州の一部のルーツは東日本にあっても平安時代以降の乱世の時代に移住しまくって幕末そこに定住してれば長州藩士ですからね。
長州と薩摩どちらと絡んだかで明暗が分かれた戦争だったかな。。。長岡藩では西郷さんの評価は高かったよね。
薩摩藩より長州藩への恨みが強い様に感じます。人道的にかなり酷かったらしい。
中学生時に新撰組を好きになり、それから大人になり京都や福島県へ歴史探索へ行きました。その後偶然祖先が会津若松の偉い百姓だったという事を知り、より縁を感じました。ただ仰る様に、司馬遼太郎によってだいぶ美談化され脚色されています。日本人は情弱により、彼の話がノンフィクションだと思ってる方々が多いです。Wikipediaでもノンフィクションと書かれてしまっている。でも彼は一番大事な真核には触れていないと思います。苫米地博士の「明治維新の洗脳」を多くの方に読んで頂きたいと思っています。
@@Mizugameza-s 禁門の変で会津と共に長州を撃退した薩摩が手のひら返しで長州と結んだってことで、当初は長州より薩摩に対する怒りの方が強かったらしいですが、西南戦争の際、会津士族出身の方が抜刀隊としてかなり参戦され、薩摩に対してはある程度の仕返しが出来たんで、仕返しが出来ていない長州に対しての恨みの方が残ったって聞いたことがありますけどどうなんでしょうね。
話を聞いていると、喉が詰まってくる。
だいたい歴史の裏では女性達が悲惨な目にあっているんですよね。
子供も老人もね。
百姓の男も撫で切りにされてるんですが
会津戦争は「八重の桜」で知りましたが、この悲劇を歴史の授業で教えるべきだと思います。
教える側の教育意識が低いからね
東北・関東大震災後に会津若松に行き、白虎隊の自刃の地も訪れて密かに涙しました。鶴ヶ城も訪問して、大河ドラマ「八重の桜」にちなんだ展示会も見学してきましたが…恥ずかしながら二本松少年隊の話はコメント欄で初めて知りました。元服前の少年たち…今ならまだ小学校高学年とか中学校に入ったばかりな少年たちが文字通り玉砕覚悟で戦ってたとは…。亡くなった方々の冥福を祈ります。
会津藩に隣接していたことが、二本松の悲劇の元凶。会津藩兵が二本松藩の安積郡の村々が略奪・焼き討ちなどの威嚇行動を行い、小藩、二本松藩を戦争にひきずりこみました。そして、二本松藩は会津の要請で、白河に戦力の大半を置いたので、二本松城を護衛するのは老人子供となってしまった。これが二本松少年隊の命を奪った原因。
彦根市が戦後井伊直弼の子孫が市長の時に水戸市と友好都市となるまで雪融けしたのに会津若松市は(令和になっても)未だに萩市からの友好都市の申し出を拒絶しているくらい未だに根深い恨み。
やらかした人間が『水に流せ』と言ってもやられた人間は納得出来ません。やられた人間から『水に流しましょう』と言って初めて和解となる。
それだけ会津が、愚鈍だということ
それだけ会津が実直だと言うこと。
それは拒絶するでしょていうか萩市から友好都市の申し出なんてしているんだ、傷口にわざわざ塩を塗る行いにしか思えない
実際会津の三泣きという言葉があり、余所から来た人には最初は心を開かないが、許すと大変仲良くしてくれる。萩の人間には閉ざしているのかなぁ
このサムネ釣りは冒涜にならないの?
徳川慶喜に 徳川家康並みの 胆力があれば。鳥羽伏見の戦いなんて 負けるはずない戦いだった。大将が 大阪城に引きこもっていたんじゃ、幕府軍も士気が上がらんよ。かわいそうに。しかし 会津戦争は 本当に悲惨だな。女性や子供たちの犠牲者には 同情します。
当時最新最強だったフランス軍直伝の幕府伝習隊のポテンシャル等、幕府軍のアドバンテージを考えれば、慶喜の振る舞い一つで歴史は変わってた
第二次長州戦争でも、幕府軍10万に対し長州軍5千であっても、長州が勝利していますなので、負けるはずがないとは言えないですが鳥羽伏見の敗戦の責任の第一が指揮官の無能であるのは確かです
鳥羽伏見は完敗してるよ。旧幕府軍の本陣であった京都奉行所が陥落して、京都から追い出されてるんだから鳥羽伏見は負け。大将の慶喜が大坂城から出陣しなかったのも、慶喜の京都への出陣は朝廷への謀反と捉えられて政治的に危険すぎたから。そんなことは現場も分かっている。大坂城から逃げたのは仕方ない。薩長が官軍になったので日和見の藩がこぞって薩長側につきはじめたし、津藩・淀藩・彦根藩などの裏切りも発生して、形勢逆転どころか籠城戦では一番まずい疑心暗鬼の状態になっていた。事実、大坂城内は混乱状態で、指揮官の竹中重固が匙を投げたと記録に残ってる。神君様だって形勢不利と見たら逃亡した戦はあったのだから、慶喜が逃げて悪いわけじゃない。ただ慶喜には運と、人を見る目がなかった。
徳川慶喜の明治後の振る舞いを見れば、上に立つような人間でないことは明白だわな会津の人間は梯子を外した徳川を恨んだ方がいいんじゃないか
第2次長州戦争で負け本陣が陥落し、錦の御旗を取られた時点で終わりだよ。あれで前に出た所で首が増えるだけ。
今の日本もこういう時期にきていると思う。新しい政府が必要だ。
政府のレベルも下がったが国民のレベルも下がったから無理やろな
きれい事言いすぎ、官軍戦勝したことで、婦女子と子供まで性犯罪を正当化したこと書かれていない。
母親が会津出身。爺ちゃん婆ちゃん世代の薩摩長州嫌いは凄まじかった😂
うん、知れば嫌いになるよなぁ。普通。
会津藩のその後(下北半島に島流し)というのもまた悲惨なんですけど知られてませんね
むつ市の少し北、国道添いに旧会津藩の史跡が在りますよ
知られていますよ
生きていたら凌辱されて辱めを受けますからね。下級兵士だらけの官軍、娘子軍では凌辱の辱めを受けたものもいると言う。
動画を見て大変勉強になりましたが、同時に辛くなりました。いつの世も犠牲になるのは老人、女性や子供たちなんですよね余談ですけどこんな歴史があったのに、よく捨松さんと大山巌さんの縁談まとまったな…(2人は戊辰戦争で敵同士だった)
😊😊
百姓は眼中にないんですね。なお、捨松さんは後妻だから、若い愛人感覚だったんでしょう
いやいや男もたくさん殺されましたよ
小学5年生の時に宿泊学習で福島に行って白虎隊の寸劇を演じて卒業文集に写真が残っています。もう50年近く前の話だけど…大河ドラマ、八重の桜の始まりの時代。何となくは知っていたけど詳しく解説されると苛烈な時代背景と改めて思いますね😢
おれが25年前くらいに福島に赴任したけど、九州出身ていうのは隠したほうがいいと言われた。特に年配の人には。
自分も幕末史を勉強しています。学んでいるうちに、会津の苦悩と悲劇、そして薩摩や長州との関係性など、色々なことを知ることができました。会津若松の郷土史に関する本も読みました。会津藩の様々な苦悩が垣間見えますね。二本松藩領の石筵村の農民たちによる母成峠の道案内、西蒲原で農民たちも新政府軍に対しゲリラ攻撃で抗ったこと。戦後、亡くなった会津藩士たちは罪人塚に埋葬されてしまったこと。そして彼岸獅子入城作戦。歴史とは平等な目線で見て、どちらにも正義がある。それを学ぶことができました。
長州出身の身として戊辰戦争にまつわる悲惨な事情については以前より申し訳なさが少なからずありました。知っていたとはいえ涙が止まりませんでした。江戸無血開城で終わらなかったのが残念です。いつか会津をおとづれたときは深くお詫びと犠牲者の方々のご冥福をお祈り申し上げたいと思うばかりです。
救われます。
この動画の内容は間違ってる部分があります。専門家に聞いてもすべてが正しい内容という人はいないです。会津藩が攻められたのは会津藩が頑なに恭順や謝罪をせずに最後まで抵抗したのが原因。その会津藩はなんと現在の北海道の一部を外国に売る代わりに武器や軍資金を得ようとしていました。新聞にも載りましたし、NHKでも放送されました。
@@なや-m6l榎本武揚か関わっていたやつかな?
長州への遺恨が語られているが、これは「会津観光史学」という日本最大級の歴史捏造の結果である。長州の残虐行為の裏付けるものはない。会津若松市の商工観光部長であった宮崎十三八氏や白虎隊記念館長 早川喜代治氏、さらに、早乙女貢・星亮一などの小説家による捏造、誇張によって分断が生まれたことは大変残念。よく言われる世良修蔵が東北を蔑んだと言われる手紙も、後に、会津が作成した偽物のであることをが「仙台戊辰史」ほかの資料から明らかになっている。長州軍のトップ、大村益次郎は戦意の無い仙台藩を叩く方が合理的だと主張したが、薩摩と土佐の会津攻撃(※)が通り、大山巌をトップに板垣退助、伊地知正治が指揮を執ったのだが、長州藩の主力は北越、特に長岡で戦っており、会津に合流する頃には、会津の降伏間近(山縣有朋が会津に入ったのは降伏の4日前)であった。会津戦争後、長州藩士の奥平謙輔は会津の秋月悌次郎に素晴らしい手紙を送り、秋月もそんな奥平に、後に東大総長になる山川健次郎他、会津の若者を託した。さらに、最近になって白虎隊の唯一の生き残り飯沼定吉が故郷に入ることを憚られ、長州藩に匿われ養育を受けたことが判明している。さらに、会津藩士永岡久茂は、先述の奥平謙輔が盟友、前原一誠と萩の乱を起こしたとき、それに呼応、千葉県庁を襲撃しようとして捕縛され獄死した。会津と長州は今よりも近かったのである。※会津攻撃は結果論から言えば、会津と庄内藩が画策した、プロイセンへの北海道の譲渡を止めた(会津の早期降伏)と言う意味で正解だった?勿論、会津が戦場となり悲劇を生んだのだが、、、。
そのお気持ちに感謝です。会津はいい所です。是非遊びにいらして下さい。
思わず見入ってしまいました。分かり易い解説に、制作者様の凄い事に驚いております。制作者の方が私の通っていた学校の先生でしたら、どれだけ勉強が夢中になれた事でしょうに、と思わずに要られませんでした。
同じ熾烈な市街戦となった北越戦争や西南戦争で城下の女性たちまでが戦い、或いは自害した、という話はあまりないんですよね。同様に大勢が決し、結果城下が占領されても、ここまで悲惨な逸話があちこちにある話は少ないですよね。本当はあったかも知れませんが。会津が悲惨過ぎるんですよね。保科正之公の家訓が厳しく、またそれを大事に守った容保公故の悲劇なんでしょうかね?
娘子隊の薙刀の威力は凄まじかったそうです。
薙刀は刀より強いので、だから女性が持っていたのです。
山口出身ですが大学入試時に友人で、予備校からは難易度と傾向で福島大学が選ばれて本人もその気になってたけど、担任から、福島は辛い目に遭う可能性が高く勧められないと言われ山口大学を受験し落ちて関西の私大に行った奴がいました。いまいち意味が分かりませんでしたが、納得しました。
西郷頼母っていう家老の一家女性が子供皆心中したんだよね。新島襄の妻新島八重さんも会津藩の人間なんだよね。松平容保の代わりに切腹したのは、日テレの年末時代劇では西田敏行さんが演じてたんだよね。西郷頼母の妻を演じたのは野川由美さんだったんだよね。雪子さんを演じたのは池上季実子さんで、中野竹子を演じたのは岩崎良美さんだったね。
安倍晋三が総理大臣時代、会津にて地元の名士やら大勢の前で演説する冒頭ジョークのつもりで「未だに会津にはフグやがありません」と言ったら会場が静まり返ったらしいね。
こうやって亡くなっていった女性達がいる一方、同じ会津で同時期に城の中で飛んできた砲弾に座布団や水をかけて鎮火させていた山川浩の妹、山川捨松が、津田梅子らと共にアメリカ留学した後に、会津の敵「薩摩の敵将」だった大山巌(西郷隆盛の親族)と結婚して「鹿鳴館の華」と蝶よ花よと持て囃され生涯楽しく幸せに暮らしたことを鑑みると非常に複雑な気がします。それと、箱館戦争について、特に榎本武揚の解釈について間違っている部分があります。なお埋葬禁止令は箱館では実際にあり碧血碑の記録や柳川熊吉翁の生涯を見れば判りますし、その一連の記録が函館市の博物館に展示されております。会津はどうなのでしょうか?もしそういった記録が残っているのならば観に行きたいです。
津田梅子は恵まれてるように聞こえるけど、実際は結婚適齢期だった10代を留学で犠牲にさせられたばかりか才女は当時結婚相手として人気がなく、海外帰りの女は鼻つまみ者として扱われ、身の置き場がないと憂いていたところを不憫に思った巖が嫁に貰ってあげたんやで。
今の平和は亡くなられた多くの犠牲の上に私たちは今を生きている事を感じます貴重なお話しをありがとうございます感謝します❤😂🎉
動画ありがとうございます、福島市出身です。神保雪子がここだとあっさり自害していますが、吉松速之助が自害する脇差を渡してあげるほどの酷い凌辱だったと聞いた事があります。会津に行くと文字以上のリアルな戦争の跡が見れるので是非!
旦那様の神保しゅりも可哀想だ。もう悲しみしかありません。会津魂なんですね。皆さん福島の方は粘り強くて辛抱強くて自然の厳しさもなく温暖なフワァっとした処に住む私などはリスペクトしかないです。
新保雪子の凌辱は会津観光のための捏造ですね。岐阜県・大垣に対する侮辱だと思いますよ。土佐藩士吉松速之助(のちに西南戦争で乃木希典の命を救ったと言うのは事実で正義の人なのだろう)を登場させ、長命寺で大垣藩兵が暴行したという小説が元になっていることが多いが本当に正しいのか?それを扱った阿達義雄氏や会津観光史学の中心的な小説家、中村彰彦氏の著作には本当に根拠があるのか?一方では元白虎隊士で東大総長にまでなった山川健次郎が新保雪子に関して調べ直したところ、中野竹子戦死地と同じ涙橋で雪子が戦死したとしている。カネの為なら嘘をつく隣国顔負けの悪名高き観光史学、しかも、福島出身でもない小説家と代々会津藩家老の出身で学者のトップオブトップとして活躍された山川氏の調査とどちらが正しいのだろう。
東大総長だった山川健次郎の調査とは違い、小説では凌辱と言ういい加減なことが書かれていますが、小説とかエッセイとか講演とか適当な作り話に基づくコメントは如何なものでしょうか?
数日間凌辱され続けてたらしいねやったのは今の岐阜県の大垣藩の兵士達。土佐藩兵が止めるのも聞かずに嬲り続けたらしい。
@@小栗上野介-c8v実際に見た市民が日記に纏めとるから読むとええで。総長なんて上のもんが恥部を赤裸々に残すわけないやん。
大阪夏の陣では、多くの婦女が暴行されたというし、結局弱い者が犠牲になる。この頃までは、日本人同士の戦だけど、この後は海外との戦になるが、結局いつも弱い者が犠牲になる。
大阪夏の陣は婦女暴行というレベルじゃなくて、奴隷や婦女が売られたりもあったらしいですよ。戊辰戦争での婦女暴行って婦女を編成した部隊に大垣藩が苦しめられてそれで追い回したということくらい。会津では根拠のないデマが多くて参考にならないですよ。史料とかきちんとしたものがないと。会津藩は世良修三の手紙も捏造してたくらいですし、埋葬が半年くらい禁止されていたといわれていましたが、それも福島県出身の歴史家さんが言うには埋葬が禁止されたというきちんとした証拠はないみたいです。エッセーや小説で埋葬が禁止されたというのが使われるようになりそれが広まっただけのようですから。星亮一という自称歴史家さんのような過激派の人は証拠もないのに、婦女暴行やレイプなど虐殺されたと本に書いています。婦女暴行はあったのでしょうが、戊辰戦争においての性奴隷や拷問や虐殺については嘘だと思ったほうがいいです。
自刃に失敗した西郷細布子のトドメを刺したのは、坂本龍馬・陸奥宗光率いる「海援隊」の元メンバーで土佐藩士の中島作太郎信行です
柴五郎と言えば義和団事変で居留区合同守備隊の指揮を取った不屈の闘志あふれる軍人ですね。事変後各国から勲章を一杯授与されています。相当古い映画でチャールトン・ヘストン主演の「北京の55日」って映画がありましてその映画にも柴中佐が出演されています。ちなみに役者は当時はまだ俳優で80年代から90年代に映画監督で数々の作品(マルサの女、ミンボーの女)を手掛けた伊丹十三が演じております。
白河城攻防戦で新選組を率いたのは土方歳三ではなく斎藤一です😢土方さんはこの頃東山温泉でケガの療養中でした。
中野竹子さん、姉妹のこと、時代劇で知りました。本当に残念でなりません。
男性は戦争が起こると命の危険を感じるだけだが、女性には別の恐怖があるんだな、と改めて認識した。ロシアのウクライナ侵攻でも、こう言った事が起こっていると聞いた。朝からいろいろと考えさせられた。
会津の年配の方にはまだ薩長によくない心情を持っている人がいるくらいです。どんな戦争でも回避するべきなんだと思いました。
そもそも当時の会津藩は殆どは降伏する気がなかったので戦争回避は無理だったと思います。旧幕府に味方した藩の中で会津藩は謝罪しませんでした。あまり薩摩藩を恨んでないのは西南戦争で元会津藩士達は新政府軍側として参加して薩摩藩に復讐できたからだと思います。人によっては長州より薩摩のほうが憎いと言う人もいるかもしれませんが。逆に鹿児島の人の中には会津藩である福島県をよくおもっていない方がいるようですね。新婚さんいらっしゃいでは鹿児島の女性と福島の男性が新婚夫婦がいて福島の男性が鹿児島の女性の実家にきて結婚の許可を貰おうとしたら、鹿児島の女性の父親から大反対があったらしいです。会津だからダメだと断ったらしいです。その後父親が亡くなり反対する人がいなかったので結婚したようです。
これは本当に悲しいです。忘れてはいけないと定期的に観るのですが、もうつらいっ。そりゃ、会津の方は薩摩の人、嫌いになるわよ。
嫌いなのは薩摩より長州。長州は東北で酷かったらしい。
俺にとってはドングリの背比べだな。薩長土肥、全部嫌い。会津に攻め込んで来なければ、列藩同盟も無かったし、会津以外の藩の犠牲者も出さずに済んだ。テーブルに付かせるより、新しいおもちゃ(兵器)を使って遊びたかったんだろ。
歪曲された事実とかけ離れた歴史観を信じ込んでいつまでも怨念を募らせる人が絶えないから世界は平和にならない
@uknrfc歪曲された事実とは何を?この動画の話は嘘という事ですか?
@@m7ocean嫌いというわりには萩の乱には多くの会津藩士が長州に加担してますし、松平容保の息子が長州藩士の婿養子になったりと、むしろ憎いと思い込んでる現代人よりも当時の人間のほうが友好的じゃないかと思うんですが
確か、西郷頼母のご子息が西郷四郎。この人が、姿三四郎のモデルになったと言う記憶が、、
その通りだと思います。
養子ね
86年年末時代劇スペシャル「白虎隊」でもこの自害の場面はありましたね。放送当時は単純に悲劇と思いましたが、今見るともっと悲劇!「なんで!ウチの娘と同じくらいの娘が死ななきゃいけないんだ!」って。岩崎良美さん演じた中野竹子最期も悲しい。
一番かわいそうなのは農民よな。城にも入れてもらえず食い物取られ犯され、、、
「八重の桜」で主人公新島八重(綾瀬はるか)の活躍がカッコ良かったけどその裏ではそんな凄惨な実情があったとは、、今更ながら戦士や自刃された会津の皆様に哀悼の意を表明します。
自決の大半は土佐藩軍の進撃が急すぎて城に入れなかったからですというか会津藩が弱すぎで国境の防衛線を突破されるや新政府軍が無人の野を行くごとくで城下にせまったため入城できなかったのです。会津藩首脳の観測も甘く、城への退避命令も遅すぎました。容保を含む会津藩首脳に一番の責任があるでしょう。集団自決については会津藩だけに特殊なものではなく第二次世界大戦でもサイパン(バンザイクリフ)や沖縄では米軍の捕虜になると強姦された上に殺されると信じていた住民は集団自決しました
ドラマでも西郷頼母一族の凄惨な集団自決の場面や、中野竹子の最期の場面、しっかりと演出されていましたよ。
江戸文化のホ〜リ〜様🍒 御一新は間違いでしたね? 上野の西郷どんの銅像を撤去するように小池都知事に請願してくださいませ🙇 会津女の怨霊😡
@@中野善行-h6t 会津の百姓は、おなじ百姓の長州兵を歓迎したそうな
@@田中一郎-v7g 創作は歴史小説で。 長州軍は会津戦争に参戦しておりませんね🫵何故か。 禁門の変で敗戦した長州兵の多数が薩摩藩と会津藩の捕虜になりましたね。 薩摩藩は捕虜の長州兵を薩摩藩邸で客人として処遇して長州征伐後の講和で変換しています! 会津藩は捕虜を江戸の小伝馬牢にすし詰め放り込んで半数は餓死病死でした。 江戸無血開城後にそれらの事実を知った長州軍は復讐の会津殲滅戦争を誓いました。 官軍大将の西郷どんは凄惨復讐戦を回避すべく会津戦争から長州軍を外しておりましたね🙇
新兵器の価値を知っていた薩摩等が作った新政府軍はやがては新兵器マシマシの昭和の帝国陸海軍になったんだろうが、最終的には精神主義に陥った。日本の栄光も悲劇も、だいたい根っこは同じなんだなあ。。。
色々と日本人が忘れがちの心を思い涙しました。会津にはまた行って今の日本の人の心を思いたいと思います😢😢
新政府に1番抵抗した藩は会津藩と長岡藩と庄内藩でした でも戦争後の処分にはかなりの差が有りました現東北地域の中心であった仙台藩は62万石から28万石 長岡藩7.4万石から2.4万石会津藩は23万石から 下北半島の斗南藩3万石へ移封と1番厳しい対応がなされていますそれに対して 会津藩 長岡藩 と共に同盟の中心的存在だった庄内藩は17万石から12万石へと軽い減封で済んでいます これは誰もが不思議がっていました 何故 薩摩藩江戸屋敷を焼きはらった事が有るのに おかしいと思ったはず でも西郷隆盛言った(庄内藩を潰すならおいどんを殺してくれ)の一言で庄内藩は他の列藩同盟とは違う処遇を受けたという事ですこれは 元々庄内藩の処遇について話し合いの席で 薩摩藩江戸屋敷を焼きはらったことも有り取りつぶしの話が出た際に西郷隆盛の一言で処遇が変わってしまったそうですこれは薩摩藩と庄内藩の繋がりからくるそうです 明治維新の100年前 薩摩藩藩は九州の南端で幕府の目が届かない事を良いことに盛んに密貿易を行っていたとのことです藩主が密輸品も含めた特産品の販売に力を注いでいましたので優秀な商人が必要になり日本中に募集したそうです そこで応募して来たのが庄内生まれの岩本源右衛門でしたこの人の活躍で薩摩藩は豊かな藩になったそうです つまり 薩摩藩はこの人に恩が有り庄内出身の為 強く反対したのではと思われます 店は今でも在り山形屋(やまかたや)鹿児島では有名なデパートです。
山形屋はそういうことだったのですねあなたは賢いお人だ
なるほど😂わかった。
領主が早々に、自らの首を差し出してれば、違った結末になってただろう。
全く違いますね西郷は何の関係もありません庄内藩や盛岡藩など(会津藩含め)も、改易の上、大幅減封というのが新政府の方針でしたが、庄内藩などは本間家を中心に30万両という献金を新政府にしたので処分が軽くなりました。盛岡藩も庄内藩には及びませんが10万両以上の献金をしています。会津も献金するだけの金があれば、なんとかなったかもしれませんが.....庄内藩に関しては、磐城平へも転封命令は、6月16日。転封取り消しと献金は、7月22日です。
@@miyakoshim.4443 さん色々な指摘有難うございます山形県に有った庄内藩の場所に南洲神社が有りますその神社は西郷隆盛と関係のある神社です 神社のすぐ側にある史料館の中には西郷隆盛の書いた本物の書が4まいとコピーした物が有ります 南洲神社は鹿児島県にも有る神社です戊辰戦争も終わり庄内藩の処遇が言い渡された時 庄内藩は重い処罰を覚悟していました その時薩摩藩の黒田清隆に言い渡された処遇が甘いものでしたその時庄内藩の人が黒田にお礼を言うとこれは私ではなく 西郷さんのお考えだと言われたそうです 確かに財政的に豊かだったため武器も新しく戊辰戦争では勝ち続けています 但し中心的な会津が降伏したのでこれまでと降伏しました そういうことも有り庄内藩から何人も西郷さんへお礼を言いに鹿児島の薩摩藩へ行きましたその時の銅像が有ります 徳の交わりと言います 西郷隆盛と庄内藩の家老の二人です ですのでかなり信頼され続けて西郷隆盛を慕っていたはずです 西郷隆盛の書いた物を後に庄内藩で書にして藩に配布しています
会津城(鶴ヶ城)が目の前にある小学校に通ってました。4年生になる頃には動画で紹介された内容を授業で教わった記憶があります。
福島はいつも時代の犠牲になるって..いつか聞いた事がある原発しかり。
大東亜戦争の会津連隊の事も忘れてはならない。
会津だけ東電から金が出ない
勘違いしてはいけない。長州藩はこの時武士らしき武士は居ない。既に長州藩は内乱の末、下級武士や商人農民の烏合の衆。最早、武士の礼儀作法すら知らない輩で卑怯なやり方を横行。元々、長州藩は会津藩とは比較にならない程の下級藩。端から相手にはしてないのですよ。恨むべきは裏切り者の薩摩藩ですよ。九州男児と聞こえは良いが、九州男児は絶対信用してはいけない。平気で人を裏切りますからね。それを戊辰戦争がさらけ出してくれた。
子供と言えども官軍は慰み物にしたり殺したりする。それならば先に潔く死を選んで来世でまた家族で暮らそうということでしょう。辱めを受けたと受けないで死を選ぶのは天と地との差があります。
柴五郎氏は部下であった俺のひいじーちゃんが運営する旅館に泊まった時(当時は職業軍人も副業OK)旅館の前で閲兵式やってくれたんだべした。
会津藩士の忠誠心は素晴らしいものだと感心しますが、この人達を指導した幹部たちにもっと先を見る目が有ったなら、こんな悲壮な死を遂げる事は無かったと思い残念です。会津魂に感服しかないと言うのは美しいですが、もっと選ぶべき道が有ったように思いますが、皆さん如何考えますか ?
私もそう思います。しかし戦争によらず外交によって会津藩の人々を味方として生かせなかった新政府にも無能のそしりは逃れられないとおもいます。戦わずして勝つという孫子の言葉を忘れてはなりません。
おっしゃる通りですが、もともと会津藩の首脳部はそんな指導をしていたから、そうなったのです。もっともっと広い目で世の中を見て指導すべきだったと思います。私ならそうします。@@シロハル-s2m
鳥羽の戦で幕府に味方した藩はみんな恭順したのに会津藩だけは謝罪なし恭順もなし、不審な行動ばかりとる、会津藩は他の藩に嘆願運動を頼んでおきながら裏ではこっそり庄内藩と軍事同盟を結ぶ。新政府軍側は会津藩討伐命令を出すも会津藩に対して今からでも恭順すれば寛大な処置にするという通達を仙台藩を通じて通達します。しかし会津藩は返事を何日も放置したあげくに拒否(会津藩側の資料に拒否したという証拠があります)新政府軍側は戦力的に余裕なんてなかったですから、なるべく戦わずに解決したいのに、会津藩側が戦を続けようとする以上はどうしようもなかったとおもいます。会津藩討伐においては、東北の藩をあてにしていたくらいです。会津戦争は実は会津藩と旧幕府の残党と一緒に新政府軍の占領地に攻め込みその地を占領してることで始まる。当時の会津藩は戦争派の人間が多数を占めていたので家老の西郷のような降伏派が多かったら会津戦争はおきてなかったでしょうね。また会津藩は軍資金や武器を得るためにドイツに対して蝦夷地売却の交渉もしています。新政府軍に勝利すれば、東北側が政権を握れていたでしょうから東北側もそれを狙って奥羽越列藩同盟を結成しています。会津藩を助けるためというのはあくまで表向きです。東北側は輪王寺宮を天皇に即位することを強要してバックに天皇をつけていました。つまり当時、天皇が2人いたということですね。新政府軍 VS 会津藩含む奥羽越列藩同盟の戦は言い換えたら政権争いとも言えます。
さすがに深堀されてますね。大変勉強になりました。ありがとうございました。@@なや-m6l
会津藩は「将軍家がどんなに衰退しようともですから」先を見ちゃダメな家訓でした。その家訓は藩主のみならず藩士にも徹底して教え込まれていましたから。西郷頼母が暗殺されそうになり出奔したのも「恭順を称えろ」と進言をしたのが原因です。徳川家の力を削ぐ戦争をしない限り徳川慶喜が新政府の議長でしたので外交でどうこうは無理かと思います。薩長は徳川慶喜の討伐を公言してしまっていたので「薩長の中心人物の切腹」になるでしょう。なので戦ありきです。ここで悲惨だったのは「忠誠を貫いたのに将軍徳川慶喜から見捨てられた」こと。
会津藩士の軽輩の末裔です。会津戦争のターニングポイントは白河口の戦いと母成峠の戦いの2つがありました。薩長軍の侵攻は兵站供給路封鎖で東の海路常陸国からと西の海路越後国(長岡藩)から、陸路は下野国(宇都宮、今市)からの3方攻めだったと聞いています。そのうちの奥羽列藩同盟の中核をなす会津藩、関連する白河、二本松などの壊滅が目的だったようです。その中で陸路の要衝のひとつは「白河口の戦い」で、現在の福島県白河市小峰城への攻防戦ですが、南湖公園西側の小丸山から稲荷山一帯での惨状は非戦闘員の男子、女子供もことごとく惨殺の上、田畑路上に放置。引き取ることも埋葬することも許されなかったそうで、季節が真夏に差し掛かる白河の地に放置された亡骸は腐るに任せて異様な臭気が漂っていたそうです。この戦争でも殺戮、窃盗、強姦の類では筆舌に尽くしがたい様だったと聞いています。要因としてもっとも挙げられるのが農民兵の薩長軍の規律と武士道を規範とした会津藩士の規律の違いだったと言われています。大先輩で3年前に亡くなった山内日出夫さんとは会津戦争の話もよくいたしましたが、会津藩士の規律を重んじる勤勉実直さは誇りだと述べておられました。
小峰城か。滝川本陣でもそうだったが、柱に弾跡があったなぁ。
農民?薩摩は士族主体だけど?
日本最大級の捏造、カネの為なら何でもアリの志津観光史学のロジックですね。「殺戮、窃盗、強姦の類では筆舌に尽くしがたい様だった」と聞いていますと言う言葉で逃げてはダメですよ。テキトーな小説家の悲劇・美談やそれを読んだ高齢者の証言と言うのが多く、歴史学上の一次資料は示せない。どこぞの国の慰安婦20万人の強制連行と基本的同じ構図。
最初と最後に使用されているBGMは何という曲なのでしょうか?
250年間江戸時代は戦争もなく人々は平和に暮らしていた。明治新政府になってから1945年まで戦争に明け暮れどれほどの国民が亡くなったのだろうか。
それは徳川家の権威が保たれていたからですよ。桜田門外の変とか習いませんでしたか?そういうのが起きてる時点で幕府の権威が失われつつありいう事を聞かない藩も出てきてたんですが。要するに幕府の崩壊は時間の問題だったわけです。
@@machimachio ????
会津の人達は皆さん勇ましい、これぞ、ラストサムライ。
よく言われがちな「会津藩は農民たちに恨まれていたから新政府軍の道案内をした」についてなんですけど、僕もそれなりに会津若松の郷土史には詳しいので。恐らく母成峠でのことでしょうが、石筵村の農民たちが新政府軍を道案内したのは確かです。でも石筵村は二本松藩領なんですよ。ここよく「会津藩領の農民」と勘違いされがちなんですが。石筵村の農民たちは新政府軍から褒美をもらって、帰りに猪苗代(会津藩領)の農民たちに「裏切り者」として○されています。会津藩領の農民たちは割と容保公には好意的だったようです。まあ確かに会津藩は善政とは言い難かったかもしれませんが、民衆全員が満足する政治なんて到底無理ですからね。こんな話もあります。若松城下の飯寺村の若者たちは、新政府軍に包囲されている時に「お殿様たちもこったことに(こんなことに)なっちまってさぞ参ってんベ!何か美味いもんを差し入れてやんべ!」と言って容保公に餅を届けています。それに山川大蔵による彼岸獅子入城作戦にも、会津の農民が協力しています。戦後、容保公の助命にも農民たちが奔走していた、という資料が2018年に見つかっています。以上のことから、少なくとも容保公は「近年言われるほどバカ殿というわけではない」ことが分かります。あくまで参考として。長文失礼しました。
太平洋戦争の沖縄戦を思い起こさせるな。当時の軍部も戊辰戦争の時の会津藩も、降伏のタイミングを誤って多くの犠牲者を出す結果になってしまったのは非常に哀しい事だ。
早乙女貢著の「会津士魂」を読んで欲しい。克明に会津の人々の動きが分かる。「続会津士魂」では戦争に負け、政府から会津の土地から奥州の土地で苦しみながらも生き抜く藩の人々の様子が描かれている。電子書籍もあります。
柴五郎、この人の活躍を是非ググって見るべきです。大雑把ではアメリカ映画『北京の55日』。残念ながら、日本人の本当の活躍などは描かれませんでしたが、ネットではその当時の活躍がアップされ、この活躍で日英同盟の締結の一役買いました。
会津に旅行に行く機会があり女も武家であり侍であり誇りがあり 命を賭している(、いた) というのが衝撃的に記憶に残った
会津は、八重さん新島襄さんと有名な日本のクリスチャンが沢山います。千利休もクリスチャン、茶道も聖書を元に作られたものだとか、鶴ヶ城の麟閣も千利休との縁もあるとか、野口英世もそうですね。なぜ会津のクリスチャン文化が盛んになったのでしょうか 会津は今キリシタン文化の歴史について力を入れているようです。とても興味深いです。会津の女性の清い潔さにも何か関わりがあるのかも知れませんね
こりゃ今でも会津の人が薩摩・長州の人を良く思わないのは納得だわ
会津では、けっこう最近まで長州藩への怨みから、会津の人と山口の人が結婚することをしなかったらしいですね。
嘘で塗り固めた会津観光史学の面々の書いたエッセイ・小説が婚姻を妨げたとしたら、人権問題では?いや、憲法違反ですよ。
捨松は薩摩の大山様と結婚されたが‼️
会津若松城に行ったとき白虎隊の遺影を見てまだ若い少年なのに早すぎる死に同情しました。
更に若くして亡くなったのが二本松少年隊だよ。12〜13歳の元服前の子供達だった。刀を振り回す事だって出来ないから、抜刀したら『突け』と教えられたそうだ。つまり、捨て身で体当たりしろとの事だった。
@@二等陸尉伊丹 知らなかったです。知っているのは城が焼け落ちているのを見て多くの白虎隊の子供たちが割腹自殺したが、命が助かった子もいてその出来事が後世に語り継がれているってことぐらいでした。
いつか福島に行き手を合わせたいと素直に思える動画でした。ありがとうございます
いまでも会津の方は他より団結力が強いと思います。魂は残ってますよ。
うううっ、辛くて最後まで観れない‼️ごめんなさい‼️😭
会津戦争は八重の桜で知った。
戊辰戦争の会津藩の悲劇は、涙が出る思いです。丁寧な解説ありがとうございます。しかし、かつて薩摩藩(島津氏)や長州藩(毛利氏)も関ケ原の戦いで西軍やその後の幕府の政策により徳川家康に苦渋を舐めさせられ、藩民が犠牲を強いられた事をご存じでしょうか。江戸時代を通して、それを供養する祭りや、藩の年頭所感として語り継がれ、幕末の原動力となった根底は、そもそもそこにあったという事実を。朝鮮についても同じことだと思います。秀吉の朝鮮出兵、明治時代の朝鮮併合も元を辿れば、文永・弘安の役(元寇)襲来時の高麗の蛮行への反発として、倭寇から発展したものであると。 歴史は繰り返されるのです。
(客観的に見て)朝鮮併合は間違いだったと思う※結果的に火に油を注ぐことになった
タイムマシーンがあったら日本人同士で戦争するなと言いたい。
同意します。それと人間同士で戦争するなと言いたい。
それだと日本が2つに別れたかも知れないし幕府崩壊しなかったら身分制度が今でも続いてたかも知れない
内容は素晴らしくこれからも引き続き同チャンネルを見ていきたいが、今回のサムネは直した方が良いと思う。
誇り高き『会津魂』に敬服致しました。どうか未来永劫、語り継いで頂きたいです。
当時の人達の精神状況、環境下…今の時代でこのときに比べて緩く生きている私達のものさしではかれるほど、簡単なことではないし、語ってはいけないと思う。どっちが…ではなく、こういった人達が実際にいて、出来事があったという事実を忘れないことですよね😢
生まれも育ちも会津若松の父親は何よりも「賊軍」と呼ばれることを嫌ってましたね。
作家の今東光:大僧正が 生前仰言ってました。会津の 女性達が 官軍に蹂○サレタと…。西南戦争が勃発💥嘗ての会津の御侍達が 次々と鎮圧部隊へ 巡査抜刀隊を組織💥強敵の西郷軍=薩摩示現流と激闘を重ねたそうです。母や妻・姉・妹達の 仇を撃つために…🙏
長らく西南戦争での抜刀隊の異様な士気の高さが謎だったんだけど、そんな因縁があったのかそりゃあ復讐の鬼と化すわなあ・・・・・・出来れば相手は薩摩ではなく長州だったら良かったんだろうけど
薩長は会津松平家預かりの新撰組を憎んでいたからね…今思えば憎まれ役を無理矢理押しつけられたのかも…徳川慶喜が恭順した以上戦う大義名分は無かったと思う。
どの藩もやりたくない京都守護職をお上から言われ、什の教えにより断れないが故に引き受けざるを得なかったんだよな。しかも、新撰組も無法となりつつあった京都をテロや恐喝から守ってただけなのに。自分達のやった事を棚にあげて官軍を名乗るのは、大丈夫か?と思う。
今まで会津戦はわかってたつもりですが、流れをわかりやすく解説頂きありがとうございました。
とくに女性たちの戦いと覚悟の解説には涙が出てしまいました😢
涙が出たではいかんのや、その後、貴方はどうあるべきか考えて後世にお話しせんといかんのやぜ。それが歴史を学ぶと言う事ですよ。
女性部隊に薙刀を持たせ近代兵器に立ち向かわせた容保とその側近が悪質すぎるだろう。女性から願い出たと言う話が本当かどうかは別にして、仮のそんな話があっても、「ならぬものはならぬ」と言えばいいだろうに、会津の上役はそれをしなかった。
もっと言えば、白虎隊は城が燃えているから自刃したのではなく、誤って敵に擒(とりこ)にせられ、縄目の屈辱を受ける如(ごと)き事態を回避すべく若い命を絶ったが、鳥羽伏見以降、越後他で夥しい蛮行を重ね、空前の贋金をつくったり、北海道を売ろうとまでした挙句、戦いに負け3千人の会津の命を失わせたのに、容保ほか会津の首脳陣は家老一人の首を差し出し、生き恥をさらした。
そう言えば、会津出身の陸軍元帥、畑俊六は「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」の一節が悪名高い戦陣訓の発案者で、兵士だけでなく、多くの市民の命を奪ったが、天寿を全うした。
会津の軽挙妄動で鳥羽伏見で旧幕府側を敗北し、藩祖保科正之の遺訓など全く守らず、慶喜の意に反し、謝罪・謹慎どころか、上野や北関東に兵を送り、寛大な措置を約束した新政府の意向を無視、世良修蔵の手紙を捏造、仙台藩を味方につけると即座に白河城を先制攻撃した。しかも、戦費調達と新政府寄りの他藩藩士に対する脅しを含め、新潟や福島二本松藩領などで会津藩兵は夥しい略奪・暴行を繰り返した。領民には苛烈な重税を課し、江戸時代最大の贋金(新潟港で学国貿易が衰退した理由でもある)をつくり、さらに、北海道まで売ろうとした。
弾丸飛び交う戦場に女性を薙刀で立ち向かわせる意思決定をした萱野権平もおかしいが、白虎隊の隊長、日向内記は敵前逃亡し、白虎隊の悲劇を生んだ。
会津藩士は明治維新後、薩長土に随分助けられたが、そのことは触れず、その恩義を忘れ、会津戦争では薩長土や大垣の凄惨な乱暴狼藉があったとか、会津藩士の埋葬が許されなかったとか、捏造の歴史(会津観光史学)をつくり上げ、金もうけに走った。白虎隊の悲劇は美化され、その後、ムッソリーニやナチスドイツから絶賛され、記念碑まで立ててもらった。「ならぬものはならぬことばかり」した松平容保は、「ならぬものはならぬ」と議論を封じ込めたところが、会津藩の硬直的な組織をつくり、薩長土のような下級武士の活躍がほぼ皆無だったこととは無縁ではない。
会津の失敗は、世界で殆ど通用しない社長と大過なく過ごしたり、会社の為と称してコンプラのできないサラリーマンばかりの現代日本の低迷と重なることが多く、その意味では、学ぶことが多い。
私は福島県出身ですが、昔から会津の人には『会津魂』と言って、正義を貫くための意地と根性があったのです。
こちらに書いてる方もいらっしゃいますが、会津では今でも長州(山口県)の人間が嫌いだと言う人がいます。
戊辰戦争を知らない会津の人はいないので、先祖から伝えられて来た教えと感情が今でも根強く残っているのだと思います。この動画から知る内容を見ても、それは納得だと思います。
逆に鹿児島県民の人の中には福島県嫌いの人はいるみたいですよ。
知っていますか?会津藩は脱藩した浪士達を使って他の藩に略奪や火つけ行為を
行っています。新選組による残党狩りのための火つけ行為のやりすぎで京都の大半が
燃えています。そういうのも知っていますか?
日本の領土である蝦夷地を勝手に北海道に売却しようとしていた事も知っていますか?
NHKで報道されましたし、新聞にも載りました。北海道新聞でも話題になりました。
未だに、鹿児島市からの友好都市の申し込みを拒否しつづけているんですよね?そうした意地の張り方、感動します。
鹿児島県民だが福島県を嫌う理由なんてないし、福島県嫌いの人間がいるなど初耳。
会津藩士の末裔ですが、亡くなった祖父は、
「薩摩はまだしも、長州の汚さだけは許せない」と言っていました。
祖母が二本松の生まれでした
幸せを信じきれない所の有る祖母で
自分の子供達は、世間に比べ幸せじゃ無くて、かわいそうにと言う様な、嘆く言葉を良く言っていました。
半農半武士だったと言うお父さんに、毎朝学校に行く前に、髪を結って貰ったと言う微笑ましい話だけ教えてくれました
それ以外は、話す事は有りませんでした。
『花は会津の白虎隊』と言う、悲しい唄を時々歌っていました
俺は二本松少年隊の方が立派に思う。
白虎隊は誤認により自刃したが、彼らより更に年下の少年隊は、戦って果てた。
もし、彼らが生きていたら、日本にどれだけの功績を残せたのか。
そう思うと本当に無念でならない。
苦悩には中毒性がありますよね🤔
でも福島に住む人達が幸せになってほしいといつも思います☘️
@@瑞希教
苦悩に中毒性‥‥えっと、ドMではありません。
ただ、この苦難は試練だと思いますし、戦争そのものの非道さと悲惨さ、それによりもたらされる物は何かの教訓と思えます。
二本松の悲劇は会津藩のすぐ隣だったこと。会津藩に武力侵攻されて、会津の軍門に下り、無理やり東北戦争緒戦の白河に二本松藩の主力を送ったこと。白河では、ただ偉いだけで、近代戦を知らず実戦経験もない西郷頼母率いる会津兵が、少数の新政府軍相手にヘマばかりして、動けず、ガラ開きだった二本松の側面を衝かれたこと。しかも、二本松藩主を仙台に差し出していたから、降伏もできず、唯一城を枕に戦った二本松藩の少年隊の悲劇を生んだ。
その後も母成峠の斥候を怠り、十六橋も破壊できずに、まずい戦いを続ける会津藩の犠牲になったのが白虎隊だが、彼らはムッソリーニとナチスドイツに顕彰され、戦後、会津観光最大の目玉になった。自刃した白虎隊士たちはそんな喧騒を喜んでいるのかな?
会津生まれ小さい頃から会津の悲劇を聞いて育ちました。
明治維新を賛美する声の裏でこのような悲劇があったことを忘れないでほしい。
悲劇は悲劇なんでしょうが、士族にとってだけの話ですね
会津士族は憎まれて、新政府軍は解放軍として歓迎された面もあり、道案内をしてくれた農民も多数いました。
容保が江戸に護送される際には、沿道の農民が容保に罵声を浴びせていたと、従軍していた西洋人医師の日記にあるほどです。
海岸警備や京都守護職の費用を捻出するため元々重かった年貢が、さらに重税(生産される米はほぼ年貢)となり、さらに商人からは20年後に返すといって押し借りという状況なので領民の怒りは分かります(西郷の言うことを聴いていれば.....)。
@@miyakoshim.4443
士族だから農民だからということは関係ありませんね。
実際に進んで戦った農民もいるわけです。
確かに新政府軍を歓迎した人たちもいましたが、それは一部の人たちですよ。
私自身も容保公の罪は大きいと思います。
腰の据わらない慶喜を信じたばかりに会津に悲劇をもたらしたわけですから。
だからといって新政府軍の行いや会津に怒った出来事を受け入れる気にはなりませんね。
@@銀河-m8w
とは言っても自業自得の部分が、かなりありますよ
鳥羽伏見で幕府に味方した藩は会津藩を含めて、全て朝敵とされましたが
朝敵認定された高松藩や姫路藩などの場合、周囲の藩に朝敵だから撃つようにという指令が発せられるや城を出て藩主は謹慎、抵抗せずに城を明け渡し、その後かなりの献金をしたので罪は軽くなりました。
会津も城を出て恭順し、無抵抗で城を明け渡し、献金でもしていれば結果は違ったでしょう。
慶喜と容保に対する新政府の方針は斬首ということでしたが、慶喜は江戸城を明け渡し無抵抗(一部、彰義隊の争乱はあったが)で謹慎したので罪一等を減じられました。
会津も高松藩や姫路藩のように無抵抗であれば、あのような悲劇?はありませんでしたね。
会津の人が、新政府を恨むあまり、嘘まで伝わってたという事実もあります。
明治維新を賛美する気はないが、会津をただの悲劇で片づける気もない。
@@銀河-m8w 様
正義と正義の闘い? 守護職の会津桑名兵は長州藩士をムチャクチャ殺しておりますね! 此れも正義を護る為でしたね🤣
新撰組が好きでたどり着いた会津戦争のお話。
そこから八重の桜をみてから会津の歴史を学びました。
とても悲しい歴史ですよね。
先祖は会津藩で実家は青森南部です。ここに言ってませんが会津狩りで殺された死体は普通ならば武士の情けで土に埋めるが死体はさらしカラスとかキツネの餌になってました。地元の百姓が哀れみで土に埋めるとその百姓も打ち首になったそうです。三戸の神社で会津藩の慰霊塔が祀ってます。八戸とか十和田市とかにもうあるみたいです。一番悲惨なのは下北半島みたいです。
斗南藩ですね。
函館出身です。会津と同じで五稜郭で死んだ旧幕軍は放置され、人として厚く葬ることは禁止されました。町中に腐乱死体が溢れそうです。
旧会津の方々は西南戦争の際、会津戦争の怨みで、薩摩への攻撃が凄まじかったようですね。
@@taku3yoshida
五稜郭、行きました。
本当に素晴らしい城跡で美しい。
函館戦争での中島親子の悲劇は有名ですよね。
まだ「ウソ」がすりこまれてて、平気でウソをつく人がいるね。
最近その説を否定する当時の資料が発見されて会津側の遺体もきちんと埋葬されたという事実が判明している
時代の流れとは言え、ただただ涙です。
この会津戦争では、二本松藩の二本松少年隊がさらに涙を誘う。白虎隊士より幼い少年達が藩を守るために命を落としていく。白虎隊は生き残った飯沼貞吉さんの証言で有名になったけど二本松少年隊の事はそれをきちんと証言してくれる人もおらず、この悲劇は近年動画などで知られてきているけど、本当に切ない。
昭和の年末時代劇の白虎隊や五稜郭で悲劇の一端を知ることができて以来、色々と見聞きして会津には何度も訪れた。
西郷家の子女の自刃のようすは武家屋敷に展示されていて、こんなに幼い子供がと涙が止まらなかった。
女子供といえど武家という特権階級に生まれた以上、名誉に殉じる意味もありますが、非戦闘民の犠牲を1人でも出さないためもあったでしょうね
少年隊士、成田才次郎。
少年でありながら官軍指揮官を討ち取ったんだよな。その後銃弾で討ちタヒなったが。
木村銃太郎。少年隊隊長。砲術は凄かったとか。しかし、敵弾に倒れ戦タヒ、少年隊士達が『先生の首を敵に渡してはならぬ』と必死に運んだとか。
大壇口の二勇士。少年隊士達を逃す為、二十代の青年二人が官軍に斬り込むで戦タヒ。
『子ら!逃げろ!』
たった二人で大軍を翻弄させ、少年隊を決タヒで逃す。
頑迷固陋な性格で、周りからチビのヒゲダルマと嫌われまくった、西郷頼母のせいで、城に避難できなかった家族の悲劇。肝心のコイツは徹底抗戦を主張した癖に、戦の最中に国外脱出したもんだから、あまりの変節振りに、松平容保から刺客を差し向けられるカス。最後は会津に戻り、天寿を全うしたが、コイツに振り回された、周りの者達は、たまったものじゃない😡。
😢
@@獅子原鱗 武士に対し、重い年貢にあえぐ百姓は恨みを持っていたそうですよ。
知ってるようでよく知らない。
戊辰戦争聞くと会津戦争の大雑把な経緯と会津藩、白虎隊、什の掟、ならぬことはならぬものです、しか出てこない、愛しき日々が頭の中で再生される。女子供や弱者なりの戦い方なんて悲しすぎます。いつの時代も戦争は憎しみしかうまれない。
鳥羽伏見の戦いでは、淀藩に幕府軍が助けを求めたが、主からの指示がないとのことで門の中に入れてもらえず敗走。納所にあるお寺には、当時の弾痕があるらしい。
時代の変わり目であったとしても会津の人達の生き様や思いは誰も真似できないと思う、会津魂には感服しかありません
今でも立ち上がれないように地震や原発で嫌がらせされてますね😰ラストサムライの会津藩、日本の宝です🙏
日本を羨ましいと記述する朝鮮の歴史本は読むほどに つじつまが合わず創作的とわかる。
日本人に見える彼等は
反日の可能性がある。
秀吉が連れてくるはずがない。
徳川も身分制度を設けたのはそこです。
区別がつかない。
今、政府は帰化を急がせてる。
21世紀の今は
身分制度は皆無となってます、
徳川も倒された。
日本は平和?
牛耳られたのはどちら?
正義の私達の先祖の無念は日本の未来の平和のために命をかけた。先祖達に感謝して
ほころんできてる陰謀者たちは日本を継続的に支配して
日本に住む民の区別は明確に分かれてる。
缶と明
会津藩のことも○○隊も
僅か何代前の事。
戦争も僅か何代前の事
彼らに教育を受けて
忘れさせられてきた。
歴史は他人事では無い
僅か15代程の昔、
日本の池に 外来種が紛れました。
するとどんなことがおきますか。
後数年で戸籍廃止されてしまうニュースは 二度と報道されない。
ヒトとして
扱われないと感じる日本の国民の
財産が詐欺犯罪で奪われても 警察は動かない
弁護士もミカタのふりして
財産を奪う。
日本人の財産を奪うのが現代の統一教会の目的と方途されていました。日本の血は汚い血。絶滅させた方が良い人種とね。
@@アベマリア-w5m様
で、現在長州では、受給金を不正受給して、殆ど全額使い込んだ奴や、あの「迷惑系」が大暴れしてますからね・・・
江戸時代ならどこの藩でも、このような状況になれば同じような行動を取るでしょう
武士階級の婦女子の行動原理は、どの藩も同じです
3:55 3:55
余りにも悲しく、悲惨だ。言葉にもできない。
どうぞこの方々の御霊が安らかでありますように。
ありがとうございます。
明治になって自由民権運動の指導者となった板垣退助は、会津戦争のとき、官軍先方隊の司令官で速攻が得意だった。会津のご城下に入る手前に石の頑丈な橋がある。会津藩はそこを爆破しようとしたが、間に合わず、官軍に先に渡られてしまう。そして一気にご城下になだれ込まれた。そして板垣が会津屋敷に入ると、大勢の家人が自刃しているのを見てショックを受けた。「こういう社会は価値観から変えなければならない」と考えて、後に自由民権運動に身を投じることとなった。
私は会津生まれの会津育ちです!今住んでいる所は会津ではないですが、誇りに思って、生きて生きます。
❤素晴らしく
色んな意味で、、、✨
学習院信悦侍女
山口はすきですか?
ヨーロッパに20年以上住んでいますが、私も会津生まれの会津育ちです。
時々、自分自身の融通のきかなさに辟易する時がありますが、良くも悪くもそれは会津の血なのかもしれません。
私欲に囚われない誇り高き日本人として生きていく事が現在の目標です。
フグスマ😂
会津藩の心意気を尊敬しています。もっと史実をしらねばならないと思います
有意義な動画!コメント欄まで隅々まで見てとても勉強になりました。
(なぜか返信がで見れないのがいくつもありましたが)
明治以降の歴史を鑑みると余計に悲しくなってきます。
会津人です。
地元で会津の歴史の話をすれば、教科書やテレビでは語られない様なエグい話を聞きます。
動画にするにあたり、これでもマイルドに仕上げて下さっているのでしょうが、正直こんなもんじゃないです。
田舎が嫌で都会に出た身ですが、会津に戻って故郷に貢献するのを目標にあと少し会津魂で都会で頑張ろうと思います。
頑張って👍
会津魂の誇りを持って‼️
都会に出ても、会津魂を忘れない
貴方は、立派な会津人です。
とても、尊敬しますし、同じ東北人として、誇りに思います。
@@二等陸尉伊丹 さん
ありがとうございます。
先人たちが命懸けで守ったものを残し伝えていけるように、一人の力では非力ではありますがやっていきたいです。
私の母は会津出身です。同感です。他コメでもしましたが、長州兵は民度の低い農民兵ばかりです。武士ではありません!それがわかっていたので、あれだけの自害者がいたのです。同じ日本人ではありません!戦死した武士を埋葬して弔わない?あり得ない事です。そんなことないです!許すわけありません。おそらく会津の方達は先の大東亜戦争のアメリカより許さないでしょう。受け入れるとか、そんな事ではありません!人間の魂の根本的なことです。
@@momochau2002
鳥羽伏見の戦いでも、幕軍の御遺体を回収、弔ってはならないと奴らは言っていた。
それを
『哀れで不憫だな。』
と、夜中に部下と共に回収し、寺に秘密裏に運んだ人達が居ました。
それが会津の小鉄です。
今の極道は思うところはありますが、初代会津の小鉄は正に極道と思います。
また、母成峠に『土饅頭』と呼ばれる墓所があります。
彼らも秘密裏に埋葬された人々です。
墓前に手を合わせると、何故か自然に涙が溢れてしまいます。
面白い動画、ではないですが、悲しい歴史です。余り教科書では語られない歴史です。取り上げて下さりありがとうございます。
東京の会社勤めですが、会津に出張商談に行ったとき上司から出身地の話はするな、聞かれたら嘘をつけ、と言われた。山口県出身です。
福島の人は今でも長州憎しでしょうから…
アリもしない長州藩の蛮行を捏造(戦後)し、会津藩士が埋葬された証拠がでてきても、長州には謝罪せず、一方、長州から恩義は無視(山川健次郎、飯沼貞吉他の養育、)した山口県の方に同情です。
しかも、謝罪も恭順もしなかった会津藩は越後や福島中通りの夥しい略奪をしたのに知らん顔、他に例を見ない贋金づくりや北海道をビスマルクに売ろうとしたことや、飯盛山にムッソリーニやヒトラーに贈られた記念碑のあることには触れないようにして、金儲けの観光に勤しむってのはどうなのかな。
銃弾の飛び交う中、「薙刀の婦女隊を送り込む」と言う世紀の虐殺まで、それを決断した容保と萱野を糾弾せずに美談に変えたのだから、その商魂たるや驚く限り。
@@kuchika4502だけど福島ユナイテッドには山口県出身の選手がいましたね、ちなみに一切差別はなかったらしい、マスコミに批判記事もなかった(ガチ調査済み)、ベテランのサポーターのあるおばあさんは『安心してね、サッカーはヤングのスポーツだから、あんな昔のことグジグジいうやつはおらん』と言われた。
ちなみに、山口県の奇兵隊参加者が多かった地域では『攘夷の命令に沿って下関で戦ったのに超敵扱いされ、※嘘つき会津薩摩桑名の鵼公にやられた』と恨む人も多い、孝明天皇は怨霊にやられたと本気で信じる人も多い、朝廷に裏切られた共通点から菅原道真公の天満旗が部隊の旗にもなりました。
ちなみに、某J2️⃣チームは一応、この3地域には勝ちました。よかったね🎉
(どっかの陰謀論者が帝の死因をめちゃくちゃな事に書いてる人がいるが、書いた人に会ったことがあるけどガチ統失なので相手にしてはダメ)
#上からくるぞ気をつけろ 並に気をつけて
※薩英戦争はそもそも武器を持たない一般人を無礼打ちから始まったとこや、上陸戦がなかった事から当時の長州人は冷めた目で見ていた。
なお、晩年を東北地方で過ごした山口の探検家西川一三氏は出身地で揉めると、大声で山口県の民謡を歌い出し相手を黙らせたらしい
長州藩は主力を北越戦争に置いており、会津で残虐なことをした記録は全くと言って良いほどないのに対して、会津藩による蛮行の記録は福島中通りや新潟に数多ある。そもそも幕末最悪の藩主と言われる容保率いる会津藩は徳川慶喜の意向に逆らい、一度も謝罪も謹慎もしなかったうえ、上野や北関東に兵を送っている。さらに仙台藩を戦争に引き込みたい会津藩は長州藩の世良修蔵の手紙の捏造(仙台戊辰史)し、世良を含め、勝見善太郎や松野儀助、従者繁蔵、野村十郎、中村小次郎を死に至らしめた。
さらに長州藩は会津で不忠者のそしりを受けた飯盛山の白虎隊の唯一の生き残り飯沼貞吉を匿って養育し、さらに会津藩士、山川健次郎や小川亮の飛躍の場を提供し、明治になっても平田東介、山下源太郎、日下義雄、柴五郎などを抜擢した。
そんな長州藩を日本最大の捏造、会津観光史学では、こき下ろし、テキトーな小説やエッセイを読んだ会津市民の一部は、未だに、山口県の方を敵視しているらしい。本当に会津の被害者ビジネスには本当に困ったものですね。どうぞお気を付けて。
会津藩のじーちゃん部隊は若松市内で薩長を引き止めてたのです。
(会津では官軍と言ってはいけないのです。)
土方歳三氏が亡くなったあと、榎本武揚が中央に加勢しましたよね。
あと、西郷隆盛を亡くす働きも明治にはあり、結果、西郷氏は亡くなりましたが明治になっても、というか昭和も遺恨があり、会津長州の永きに渡ってのそれぞれの深掘りをしてほしいです。
お話中の柴五郎は後の義和団事件の時、陸軍中佐として清国兵に包囲された北京の西欧列強の公使館でイギリス、フランス、イタリア、ロシアなどの籠城軍を良く指揮して、守り抜きました。その功績によって多くの国から勲章を授与されています。また、日英同盟のきっかけになったとも言われたほど、日本軍兵士の活躍は素晴らしかったそうです。大使館の壁に大穴を開けられ敵兵がなだれ込んで来たところに、援軍の日本軍の兵士がたった8名やって来て、すぐさまサーベルを振りかざし白兵突撃して敵を蹴散らしたそうです。それを見ていた公使館員や家族などが大いに感動して日本兵のファンになりました。(「守城の人」 明治人 柴五郎大将の生涯 村上兵衛 光人社NF文庫より)
戦争の悲惨さはいつの時代も、どの戦も同じなのかもしれません。考えさせられますね。
年末時代劇スペシャル「白虎隊」ですね。
しょこたんのお父さんが沖田総司だったり、坂上忍が白虎隊員でした。
あの時期の年末時代劇スペシャルシリーズはマジで名作揃いでした。
風間杜夫さんが松平容保役でしたね。
娘さんがAKBメンバーだという白虎隊メンバーの役者さんもいらっしゃいます
あのドラマに登場した中川宮が誰なのか説明が無かった。ちなみに孫は昭和天皇の皇后だから上皇様の曾祖父。
萱野権兵衛役の西田敏行さんの切腹する鬼気迫る姿が良かったです。
現青森県のむつ市にはその敗れた会津藩が移住して来たとされています。斗南藩(となみ)と言い廃藩置県で青森県に編入され斗南藩は2年で消滅してしまいましたが、会津の血は青森の地にも少なからず繋がって行ったと聞きます。最北の厳しい土地に開拓をさせられて酷い思いをしたと思うと涙がでます。
斗南へ行くのを選んだのは、会津藩。新政府に斗南か猪苗代にするか、選べと言われた際、猪苗代は戊辰戦争の折、領民の家、屋敷を焼き払って、恨みを買っていたから、選べなかっただけ。
会津藩の悲しみ悔しさは、八重の桜。感動と共に苦しく何て理不尽な結末。それをバネに八重さんは赤十字、新島ジョーと共にしっかり地盤を築いてくれた。素晴らしい日本人のなかの日本人。あのドラマをもう一度観たい。そして有り難うございますと。会津藩のお陰で今の日本の礎が出来たと。この方々の命の上に。
薩長は会津で狼藉の限りを尽くし女を犯し略奪し会津藩士を辺境の地まで追いやりました、抹殺作戦です西郷が英雄などは明治政府が作っただけと思っています、西南戦争で天誅は降りました、安倍晋三にも天誅は降るが積年の恨みは消えません。
八重の兄、山本覚馬は鳥羽伏見以降、薩摩藩や岩倉具視に助けられたが、なんといっても恩人は槇村正直(のち京都府令・知事)。京都府の顧問として府治を指導する。槇村の下で、小中学校・女学校・病院・医学校などの設立に力を尽くした他、大阪と北陸を結ぶ京都鉄道の敷設願書を当局に提出するなど、開明的諸政策を推進できたのです。
ついでに、新島襄は幕末に米国に密航していたが、岩倉使節団に加わっていた木戸孝允と出会い、木戸は専属の通訳として新島を使節団に参加させた。明治8年、新島は大阪で長州藩の木戸孝允に会い、豪商磯野小右衛門から出資の約束を得て大阪での学校設立を目指したが、府知事の渡辺昇のキリスト教反対のため断念し、木戸の勧めにより長州出身の槇村正直が府知事を務める京都を新たな学校の候補地と定めた。そして、槇村は仏教の牙城、京都でキリスト教の学校の設立に向けて剛腕ぶりを発揮したのです。
ところで、その新島襄と八重の縁まで取り持ったのが槇村正直ですよ。世良修蔵がヤバいやつで、会津に戦争をもたらしたというウソを堂々と放映した「八重の桜」では槇村が山本覚馬や新島襄を邪魔したみたいな意地悪な描き方をされていましたが、、、。
今でも会津の人が長州(山口)の人を許せないっていうのもわかる気がします。
許すわけない!長州兵は殆どが民度の低い農民兵ばかりで強姦、殺戮し放題!私の母は会津出身ですが、この事は話として受け継いでおり、長州、山口は決して許さないDNAが染み付いております。まあ、一般的な武士達ではなかったのでしょう!だからこそ自害したのでしょう!
山田洋次の寅さんで、会津の若い医者が長州の女の子に恋をする!という場面が有りましたね~私は、映画監督やシナリオを書く人間でも、会津戊辰戦争の悔しさがわからないのか!と一気に、寅さんシリーズが馬鹿げていると思いました~
会津の男の子が長州の女の子どの結婚は駄目!と親から言われて、それなら故郷を捨てる、と言ってめでたしめでたし~私は、歴史への無知に腹が立って、山田洋次も駄目だ!と嫌な気分になりました~
本当に歴史認識も何もない陳腐な内容そうですし、私は会津の人ではありませんけど、見たら気分悪くなりそうですね。
@@anpanマン それは知りませんでした。いくら映画の中とはいえ、まず会津の方達は観ないでしょう!維新自体がただの権力奪取であり、天皇を山口の田布施出身の人間にすり替えた茶番劇である事は結構知られております。会津は同時東北の大都市であり、維新以降わざと、主流から外されました。戊辰戦争後敢えて会津の方達は最北の斗南へ自ら向かいました。武士の最期の意地でした。新幕府の温情は受けない!母からは色々教わりました。粛々と受け入れました。こういう歴史は官軍の歴史であり、決して現代の国民にはしらされません!維新以降の戦争、日清、日露、大東亜戦争を見ればわかります。外国の植民地を恐れた?嘘ばかりです。彼らの好戦気質というか、破滅型というか、狂気の歴史です。今の政府を見ればわかります。長々と失礼します。本当の事はご自身のご判断にお任せします。ありがとうございました。
私は生まれが会津です。歴史を紐解いていただきありがとうございます。
私の父方の先祖は戊辰第4の函館先祖はまで会津と共に戦った一族の末裔です。
銀座や六本木のクラブで昔、働いてた時にリアル徳川さんに私のお家の事を教えてもらったから叔父さんから聞いた話は本当だった!って思った。
今、福島県に何故か流れ着いたんだけど…他者扱いされてショックでした。
今はよくしてくれる人も
居ますけど。
父方の先祖は明治前後?
なのかな?函館のちょっと上の江差町(官軍の船が最後に着いた場所)に領地が今もあります。
五稜郭の近くってかほぼ前に親族の家もあったのを
覚えてます。
歴史は大切だけど、戦争は
何も残さないよな…。
福島、特に会津地方の人は、保守的でなかなかよそ者を受け付けません。でも、安心してください。会津の三泣きという言葉がありますが、
会津に来た人は、初めよそ者への厳しさに泣く、次に人情に触れて泣く、最後に会津から離れがたくなって泣く…といいます。
きっとまだ第一段階を過ぎた頃なんですよ😉私も全部味わった一人です。
お返事ありがとうございます!最初に福島県来た時はwelcome!って感じで次によそ者扱いにたまたま同じ飲み屋で呑んでだけなのに…働き先とか調べられて嫌がらせ受けたりと
(誹謗中傷にネットストーカー含む)中々、福島県ではハードな思いをしました。
特に東京から
働きに来てたから震災の影響もあるんだろけど…
都内でたった1人で十代の被災して生活困窮しながら義援金と物資も送って…被災地に炊き出しにも参加したりしてたんですよ。それでもいい顔をされない県民性に一時期は本当に病みました。たった17歳の家庭(お家含む)事情で頼る大人もいなくて頑張って来たし、被災地の片方の為!と、生活費削って頑張ったんだけど…三年後に福島県に来た時は本当に酷い目に会いました。それからたまたま
るろうに剣心の映画のDVDかりて原作見て…ふと、うちの家って福島県に縁あるじゃん!
酷いなぁ…福島の人ら…って
思いながら今日に至りますが、
小4の時にとある、紫の袈裟掛けたお坊さんに家の因縁全て
背負って世の中をよくする為に生まれて来た子供だと
言われたの思い出して
今、こっちでよくしてくれる人達に逢うためにたどり着いたんだな。と思うようにしてます!
歴史は大切だけど戦争は本当に何もいいことは残さないですよね。
凄い方なんですね!
うちは父方が会津で、自分のかみさんの祖母が北海道の江良なんですよ。
結婚後に初めて北海道へ行ってみて、函館〜江良〜江差までずっと道沿いに戦があったと知り、不思議な縁を感じてます。
会津には親族がたくさんおり、いとこなどから色んな話を聞きます。
僕自身も写真をやりますので会津で色んな人に話しかけてましたが…あとから結構嫌がらせされますね(笑)酷いと当日中に車などで追っかけて来てまで嫌がらせされます。
会津人は非常にプライド高いので、こっちが親近感持つとそれだけで舐められてると感じる人が多いんです。
未だ戊辰戦争の影が街じゅうを支配しているようなところですので、自分が時代劇の住人になったような接触の仕方でちょうどいいくらいです。
写真趣味と言いましたが経験上田舎の人に親しくして良い事は一つもなかったです。
どんな時でも『いや私は結構でございます』『いや私などとんでもない』みたいに謙遜しながらも一切プライベート情報を出さないようにしないと必ず失敗すると思います。
向こう側はそれが当たり前なので、こっちが何か自分を知って欲しいとかそういう要素があると酷い目に遭いますよ。
@@310k-md5vl 凄いんですかね?私自身は多分…昔を捨てきれずにいる一族を恥じてます。
年端もいかない子供にお母さんの為に還暦ぐらいの遠縁のおじさんと見合い結婚させようとしたり…父方の祖母(フランス人)
の私が二十歳で相続するはずの財産をすべて家の為だとかって知らぬうちに奪われてたり…
暴力と隠蔽が当たり前でしたよ。血筋だけは叔父と本当に徳川さんに聞いたので世が世なら姫であった件は本当みたいだけど(笑)ちなみに祖母の母もフランス貴族の家柄らしいんで。
血筋だけは本当に姫ですね。
だけど、考え方とかが江戸時代で停止してるんでついていけず
両親の借金返済と両親と兄からの暴力や色々あって12歳で家は出ました。
凄いって言うならリアル徳川さんの方が凄い!って思います。
私がクォーターで幕臣の家で江差辺りに領地あるっていったら
名字や未成年バレました(笑)
とてもいい方でしたよ。
奥様が北海道の江差なんですね!
なんか仲間感ありますね(笑)
私も写真は好きですよ。
田舎が嫌いって言うわけではないんですけど…
フレンドリーに根掘り葉掘り聞いて来ていざまたになるとよそ者暑いやら…変人扱いしてくるとこらは苦手ですね。
見識の違いは100人いたら100あるわけだし。
それを受け入れない姿勢が強いと思います。
まるでよそ者は宇宙人扱い!って感じかな…
まぁそれだけでネットストーカーして誹謗中傷していい理由はないと思うし、いい人もいるけれど、片寄った考え方の人多いのも事実ですよね。
親族全員が悪魔みたいな人間だったわけではないので。
いつか会津に行ってみたいです!と、職場の先輩の仲良しさんがたまたま会津で先日、武家で医者の家系らしかったって
聞いてびっくりしたんですよ。
先祖は間違いなく会津の為(福島県)に一緒に戦ってたはずなんで。と、江戸時代までは有名ではないにせよ日本有数の金持ちだったらしいと叔父とかから聞いてます。父は馬鹿様の二代目と言われてましたけどね!
その他の詳しい事は知りませんが会津に資金力で後方支援してたみたいですね。
函館戦争まで供に戦ってたって言ってましたから。
以前福島県白河市で仕事をしていた時、当時のお客様から、白河市が戊辰戦争の激戦地だった話を聞いたことがある。新政府軍(主に長州)に負けた後、当時の白河の女性達が新政府軍に酷いことをされたとか。これは当時勤めていた会社の社長もそうだったが、50〜60代以降の良い大人達も知らない人間が多い。
明治以降も、ひとたび戦争ともなれば、長州出身の人間はたとえ無能であっても重要なポストに就くことができ、白河を含めた東北人はどんなに有能であっても出世が難しく、なおかつ危険な戦場へ回された。
地元の人間はおろか、どの位の日本人がこの事実を知っているだろうか(もっとも、戦後マッカーサーにより日本の真実の歴史を尽く消されたので知らない人間が多いだろうが)❓TV放送や教科書に書いてある、耳障りの良い話ばかりを鵜呑みにせず、歴史を真実に迫らない限り、日本は危ない。
詳細は解らないでしたが、友人のルーツは白河の武家の分家で戦争があったという事は聞いてました。
そういう悲劇があったんですね。
因に前総理の安倍さんは、長州ですが母系だったかな。ルーツは青森の安倍氏族と言われてます。
蝦夷の血が流れてますよね。
長州の一部のルーツは東日本にあっても平安時代以降の乱世の時代に移住しまくって幕末そこに定住してれば長州藩士ですからね。
長州と薩摩どちらと絡んだかで明暗が分かれた戦争だったかな。。。
長岡藩では西郷さんの評価は高かったよね。
薩摩藩より長州藩への恨みが強い様に感じます。人道的にかなり酷かったらしい。
中学生時に新撰組を好きになり、それから大人になり京都や福島県へ歴史探索へ行きました。その後偶然祖先が会津若松の偉い百姓だったという事を知り、より縁を感じました。
ただ仰る様に、司馬遼太郎によってだいぶ美談化され脚色されています。日本人は情弱により、彼の話がノンフィクションだと思ってる方々が多いです。Wikipediaでもノンフィクションと書かれてしまっている。でも彼は一番大事な真核には触れていないと思います。
苫米地博士の「明治維新の洗脳」を多くの方に読んで頂きたいと思っています。
@@Mizugameza-s 禁門の変で会津と共に長州を撃退した薩摩が手のひら返しで長州と結んだってことで、当初は長州より薩摩に対する怒りの方が強かったらしいですが、西南戦争の際、会津士族出身の方が抜刀隊としてかなり参戦され、薩摩に対してはある程度の仕返しが出来たんで、仕返しが出来ていない長州に対しての恨みの方が残ったって聞いたことがありますけどどうなんでしょうね。
話を聞いていると、喉が詰まってくる。
だいたい歴史の裏では女性達が悲惨な目にあっているんですよね。
子供も老人もね。
百姓の男も撫で切りにされてるんですが
会津戦争は「八重の桜」で知りましたが、この悲劇を歴史の授業で教えるべきだと思います。
教える側の教育意識が低いからね
東北・関東大震災後に会津若松に行き、白虎隊の自刃の地も訪れて密かに涙しました。鶴ヶ城も訪問して、大河ドラマ「八重の桜」にちなんだ展示会も見学してきましたが…恥ずかしながら二本松少年隊の話はコメント欄で初めて知りました。元服前の少年たち…今ならまだ小学校高学年とか中学校に入ったばかりな少年たちが文字通り玉砕覚悟で戦ってたとは…。
亡くなった方々の冥福を祈ります。
会津藩に隣接していたことが、二本松の悲劇の元凶。
会津藩兵が二本松藩の安積郡の村々が略奪・焼き討ちなどの威嚇行動を行い、小藩、二本松藩を戦争にひきずりこみました。
そして、二本松藩は会津の要請で、白河に戦力の大半を置いたので、二本松城を護衛するのは老人子供となってしまった。これが二本松少年隊の命を奪った原因。
彦根市が戦後井伊直弼の子孫が市長の時に水戸市と友好都市となるまで雪融けしたのに会津若松市は(令和になっても)未だに萩市からの友好都市の申し出を拒絶しているくらい未だに根深い恨み。
やらかした人間が
『水に流せ』
と言ってもやられた人間は納得出来ません。
やられた人間から
『水に流しましょう』
と言って初めて和解となる。
それだけ会津が、愚鈍だということ
それだけ会津が実直だと言うこと。
それは拒絶するでしょ
ていうか萩市から友好都市の申し出なんてしているんだ、傷口にわざわざ塩を塗る行いにしか思えない
実際会津の三泣きという言葉があり、余所から来た人には最初は心を開かないが、許すと大変仲良くしてくれる。萩の人間には閉ざしているのかなぁ
このサムネ釣りは冒涜にならないの?
徳川慶喜に 徳川家康並みの 胆力があれば。鳥羽伏見の戦いなんて 負けるはずない戦いだった。大将が 大阪城に引きこもっていたんじゃ、幕府軍も士気が上がらんよ。かわいそうに。しかし 会津戦争は 本当に悲惨だな。女性や子供たちの犠牲者には 同情します。
当時最新最強だったフランス軍直伝の幕府伝習隊のポテンシャル等、幕府軍のアドバンテージを考えれば、慶喜の振る舞い一つで歴史は変わってた
第二次長州戦争でも、幕府軍10万に対し長州軍5千であっても、長州が勝利しています
なので、負けるはずがないとは言えないですが
鳥羽伏見の敗戦の責任の第一が指揮官の無能であるのは確かです
鳥羽伏見は完敗してるよ。
旧幕府軍の本陣であった京都奉行所が陥落して、京都から追い出されてるんだから鳥羽伏見は負け。
大将の慶喜が大坂城から出陣しなかったのも、慶喜の京都への出陣は朝廷への謀反と捉えられて政治的に危険すぎたから。そんなことは現場も分かっている。
大坂城から逃げたのは仕方ない。薩長が官軍になったので日和見の藩がこぞって薩長側につきはじめたし、津藩・淀藩・彦根藩などの裏切りも発生して、形勢逆転どころか籠城戦では一番まずい疑心暗鬼の状態になっていた。事実、大坂城内は混乱状態で、指揮官の竹中重固が匙を投げたと記録に残ってる。
神君様だって形勢不利と見たら逃亡した戦はあったのだから、慶喜が逃げて悪いわけじゃない。
ただ慶喜には運と、人を見る目がなかった。
徳川慶喜の明治後の振る舞いを見れば、上に立つような人間でないことは明白だわな
会津の人間は梯子を外した徳川を恨んだ方がいいんじゃないか
第2次長州戦争で負け本陣が陥落し、錦の御旗を取られた時点で終わりだよ。
あれで前に出た所で首が増えるだけ。
今の日本もこういう時期にきていると思う。新しい政府が必要だ。
政府のレベルも下がったが
国民のレベルも下がったから無理やろな
きれい事言いすぎ、官軍戦勝したことで、婦女子と子供まで性犯罪を正当化したこと書かれていない。
母親が会津出身。爺ちゃん婆ちゃん世代の薩摩長州嫌いは凄まじかった😂
うん、知れば嫌いになるよなぁ。普通。
会津藩のその後(下北半島に島流し)というのもまた悲惨なんですけど知られてませんね
むつ市の少し北、国道添いに旧会津藩の史跡が在りますよ
知られていますよ
生きていたら凌辱されて辱めを受けますからね。下級兵士だらけの官軍、娘子軍では凌辱の辱めを受けたものもいると言う。
動画を見て大変勉強になりましたが、同時に辛くなりました。いつの世も犠牲になるのは老人、女性や子供たちなんですよね
余談ですけどこんな歴史があったのに、よく捨松さんと大山巌さんの縁談まとまったな…(2人は戊辰戦争で敵同士だった)
😊😊
百姓は眼中にないんですね。
なお、捨松さんは後妻だから、若い愛人感覚だったんでしょう
いやいや
男もたくさん殺されましたよ
小学5年生の時に宿泊学習で福島に行って白虎隊の寸劇を演じて卒業文集に写真が残っています。もう50年近く前の話だけど…
大河ドラマ、八重の桜の始まりの時代。
何となくは知っていたけど詳しく解説されると苛烈な時代背景と改めて思いますね😢
おれが25年前くらいに福島に赴任したけど、九州出身ていうのは隠したほうがいいと言われた。特に年配の人には。
自分も幕末史を勉強しています。学んでいるうちに、会津の苦悩と悲劇、そして薩摩や長州との関係性など、色々なことを知ることができました。
会津若松の郷土史に関する本も読みました。
会津藩の様々な苦悩が垣間見えますね。
二本松藩領の石筵村の農民たちによる母成峠の道案内、西蒲原で農民たちも新政府軍に対しゲリラ攻撃で抗ったこと。
戦後、亡くなった会津藩士たちは罪人塚に埋葬されてしまったこと。
そして彼岸獅子入城作戦。
歴史とは平等な目線で見て、どちらにも正義がある。それを学ぶことができました。
長州出身の身として戊辰戦争にまつわる悲惨な事情については以前より申し訳なさが少なからずありました。知っていたとはいえ涙が止まりませんでした。江戸無血開城で終わらなかったのが残念です。いつか会津をおとづれたときは深くお詫びと犠牲者の方々のご冥福をお祈り申し上げたいと思うばかりです。
救われます。
この動画の内容は間違ってる部分があります。専門家に聞いてもすべてが正しい内容という人はいないです。
会津藩が攻められたのは会津藩が頑なに恭順や謝罪をせずに最後まで抵抗したのが原因。
その会津藩はなんと現在の北海道の一部を外国に売る代わりに武器や軍資金を得ようとしていました。
新聞にも載りましたし、NHKでも放送されました。
@@なや-m6l
榎本武揚か関わっていたやつかな?
長州への遺恨が語られているが、これは「会津観光史学」という日本最大級の歴史捏造の結果である。長州の残虐行為の裏付けるものはない。会津若松市の商工観光部長であった宮崎十三八氏や白虎隊記念館長 早川喜代治氏、さらに、早乙女貢・星亮一などの小説家による捏造、誇張によって分断が生まれたことは大変残念。
よく言われる世良修蔵が東北を蔑んだと言われる手紙も、後に、会津が作成した偽物のであることをが「仙台戊辰史」ほかの資料から明らかになっている。長州軍のトップ、大村益次郎は戦意の無い仙台藩を叩く方が合理的だと主張したが、薩摩と土佐の会津攻撃(※)が通り、大山巌をトップに板垣退助、伊地知正治が指揮を執ったのだが、長州藩の主力は北越、特に長岡で戦っており、会津に合流する頃には、会津の降伏間近(山縣有朋が会津に入ったのは降伏の4日前)であった。
会津戦争後、長州藩士の奥平謙輔は会津の秋月悌次郎に素晴らしい手紙を送り、秋月もそんな奥平に、後に東大総長になる山川健次郎他、会津の若者を託した。さらに、最近になって白虎隊の唯一の生き残り飯沼定吉が故郷に入ることを憚られ、長州藩に匿われ養育を受けたことが判明している。さらに、会津藩士永岡久茂は、先述の奥平謙輔が盟友、前原一誠と萩の乱を起こしたとき、それに呼応、千葉県庁を襲撃しようとして捕縛され獄死した。会津と長州は今よりも近かったのである。
※会津攻撃は結果論から言えば、会津と庄内藩が画策した、プロイセンへの北海道の譲渡を止めた(会津の早期降伏)と言う意味で正解だった?勿論、会津が戦場となり悲劇を生んだのだが、、、。
そのお気持ちに感謝です。
会津はいい所です。
是非遊びにいらして下さい。
思わず見入ってしまいました。分かり易い解説に、制作者様の凄い事に驚いております。
制作者の方が私の通っていた学校の先生でしたら、どれだけ勉強が夢中になれた事でしょうに、と思わずに要られませんでした。
同じ熾烈な市街戦となった北越戦争や西南戦争で城下の女性たちまでが戦い、或いは自害した、という話はあまりないんですよね。
同様に大勢が決し、結果城下が占領されても、ここまで悲惨な逸話があちこちにある話は少ないですよね。
本当はあったかも知れませんが。
会津が悲惨過ぎるんですよね。
保科正之公の家訓が厳しく、またそれを大事に守った容保公故の悲劇なんでしょうかね?
娘子隊の薙刀の威力は凄まじかったそうです。
薙刀は刀より強いので、だから女性が持っていたのです。
山口出身ですが大学入試時に友人で、予備校からは難易度と傾向で福島大学が選ばれて本人もその気になってたけど、
担任から、福島は辛い目に遭う可能性が高く勧められないと言われ山口大学を受験し落ちて関西の私大に行った奴がいました。
いまいち意味が分かりませんでしたが、納得しました。
西郷頼母っていう家老の一家女性が子供皆心中したんだよね。新島襄の妻新島八重さんも会津藩の人間なんだよね。松平容保の代わりに切腹したのは、日テレの年末時代劇では西田敏行さんが演じてたんだよね。西郷頼母の妻を演じたのは野川由美さんだったんだよね。雪子さんを演じたのは池上季実子さんで、中野竹子を演じたのは岩崎良美さんだったね。
安倍晋三が総理大臣時代、会津にて地元の名士やら大勢の前で演説する冒頭
ジョークのつもりで「未だに会津にはフグやがありません」と言ったら会場が静まり返ったらしいね。
こうやって亡くなっていった女性達がいる一方、同じ会津で同時期に城の中で飛んできた砲弾に座布団や水をかけて鎮火させていた山川浩の妹、山川捨松が、津田梅子らと共にアメリカ留学した後に、会津の敵「薩摩の敵将」だった大山巌(西郷隆盛の親族)と結婚して「鹿鳴館の華」と蝶よ花よと持て囃され生涯楽しく幸せに暮らしたことを鑑みると非常に複雑な気がします。
それと、箱館戦争について、特に榎本武揚の解釈について間違っている部分があります。なお埋葬禁止令は箱館では実際にあり碧血碑の記録や柳川熊吉翁の生涯を見れば判りますし、その一連の記録が函館市の博物館に展示されております。会津はどうなのでしょうか?もしそういった記録が残っているのならば観に行きたいです。
津田梅子は恵まれてるように聞こえるけど、実際は結婚適齢期だった10代を留学で犠牲にさせられたばかりか才女は当時結婚相手として人気がなく、海外帰りの女は鼻つまみ者として扱われ、身の置き場がないと憂いていたところを不憫に思った巖が嫁に貰ってあげたんやで。
今の平和は亡くなられた多くの犠牲の上に私たちは今を生きている事を感じます
貴重なお話しをありがとうございます感謝します❤😂🎉
動画ありがとうございます、福島市出身です。神保雪子がここだとあっさり自害していますが、吉松速之助が自害する脇差を渡してあげるほどの酷い凌辱だったと聞いた事があります。会津に行くと文字以上のリアルな戦争の跡が見れるので是非!
旦那様の神保しゅりも可哀想だ。もう悲しみしかありません。会津魂なんですね。皆さん福島の方は粘り強くて辛抱強くて自然の厳しさもなく温暖なフワァっとした処に住む私などはリスペクトしかないです。
新保雪子の凌辱は会津観光のための捏造ですね。岐阜県・大垣に対する侮辱だと思いますよ。
土佐藩士吉松速之助(のちに西南戦争で乃木希典の命を救ったと言うのは事実で正義の人なのだろう)を登場させ、長命寺で大垣藩兵が暴行したという小説が元になっていることが多いが本当に正しいのか?それを扱った阿達義雄氏や会津観光史学の中心的な小説家、中村彰彦氏の著作には本当に根拠があるのか?
一方では元白虎隊士で東大総長にまでなった山川健次郎が新保雪子に関して調べ直したところ、中野竹子戦死地と同じ涙橋で雪子が戦死したとしている。
カネの為なら嘘をつく隣国顔負けの悪名高き観光史学、しかも、福島出身でもない小説家と代々会津藩家老の出身で学者のトップオブトップとして活躍された山川氏の調査とどちらが正しいのだろう。
東大総長だった山川健次郎の調査とは違い、小説では凌辱と言ういい加減なことが書かれていますが、小説とかエッセイとか講演とか適当な作り話に基づくコメントは如何なものでしょうか?
数日間凌辱され続けてたらしいね
やったのは今の岐阜県の大垣藩の兵士達。
土佐藩兵が止めるのも聞かずに嬲り続けたらしい。
@@小栗上野介-c8v実際に見た市民が日記に纏めとるから読むとええで。
総長なんて上のもんが恥部を赤裸々に残すわけないやん。
大阪夏の陣では、多くの婦女が暴行されたというし、結局弱い者が犠牲になる。
この頃までは、日本人同士の戦だけど、この後は海外との戦になるが、結局いつも弱い者が犠牲になる。
大阪夏の陣は婦女暴行というレベルじゃなくて、奴隷や婦女が売られたりもあったらしいですよ。
戊辰戦争での婦女暴行って婦女を編成した部隊に大垣藩が苦しめられてそれで
追い回したということくらい。会津では根拠のないデマが多くて参考にならないですよ。
史料とかきちんとしたものがないと。会津藩は世良修三の手紙も捏造してたくらいですし、
埋葬が半年くらい禁止されていたといわれていましたが、それも福島県出身の
歴史家さんが言うには埋葬が禁止されたというきちんとした証拠はないみたいです。
エッセーや小説で埋葬が禁止されたというのが使われるようになりそれが
広まっただけのようですから。星亮一という自称歴史家さんのような過激派の人は
証拠もないのに、婦女暴行やレイプなど虐殺されたと本に書いています。
婦女暴行はあったのでしょうが、戊辰戦争においての
性奴隷や拷問や虐殺については嘘だと思ったほうがいいです。
自刃に失敗した西郷細布子のトドメを刺したのは、坂本龍馬・陸奥宗光率いる「海援隊」の元メンバーで土佐藩士の中島作太郎信行です
柴五郎と言えば義和団事変で居留区合同守備隊の指揮を取った
不屈の闘志あふれる軍人ですね。
事変後各国から勲章を一杯授与されています。
相当古い映画でチャールトン・ヘストン主演の「北京の55日」って映画がありまして
その映画にも柴中佐が出演されています。
ちなみに役者は当時はまだ俳優で80年代から90年代に映画監督で数々の作品(マルサの女、ミンボーの女)
を手掛けた伊丹十三が演じております。
白河城攻防戦で新選組を率いたのは土方歳三ではなく斎藤一です😢土方さんはこの頃東山温泉でケガの療養中でした。
中野竹子さん、姉妹のこと、時代劇で知りました。
本当に残念でなりません。
男性は戦争が起こると命の危険を感じるだけだが、女性には別の恐怖があるんだな、と改めて認識した。ロシアのウクライナ侵攻でも、こう言った事が起こっていると聞いた。
朝からいろいろと考えさせられた。
会津の年配の方にはまだ薩長によくない心情を持っている人がいるくらいです。どんな戦争でも回避するべきなんだと思いました。
そもそも当時の会津藩は殆どは降伏する気がなかったので戦争回避は無理だったと思います。
旧幕府に味方した藩の中で会津藩は謝罪しませんでした。
あまり薩摩藩を恨んでないのは西南戦争で元会津藩士達は新政府軍側として参加して
薩摩藩に復讐できたからだと思います。人によっては長州より薩摩のほうが憎いと言う人もいるかもしれませんが。
逆に鹿児島の人の中には会津藩である福島県をよく
おもっていない方がいるようですね。新婚さんいらっしゃいでは鹿児島の女性と福島の男性が新婚夫婦がいて
福島の男性が鹿児島の女性の実家にきて結婚の許可を貰おうとしたら、鹿児島の女性の父親から
大反対があったらしいです。会津だからダメだと断ったらしいです。その後父親が亡くなり
反対する人がいなかったので結婚したようです。
これは本当に悲しいです。忘れてはいけないと定期的に観るのですが、もうつらいっ。そりゃ、会津の方は薩摩の人、嫌いになるわよ。
嫌いなのは薩摩より長州。
長州は東北で酷かったらしい。
俺にとってはドングリの背比べだな。
薩長土肥、全部嫌い。
会津に攻め込んで来なければ、列藩同盟も無かったし、会津以外の藩の犠牲者も出さずに済んだ。
テーブルに付かせるより、新しいおもちゃ(兵器)を使って遊びたかったんだろ。
歪曲された事実とかけ離れた歴史観を信じ込んでいつまでも怨念を募らせる人が絶えないから世界は平和にならない
@uknrfc
歪曲された事実とは何を?
この動画の話は嘘という事ですか?
@@m7ocean
嫌いというわりには萩の乱には多くの会津藩士が長州に加担してますし、松平容保の息子が長州藩士の婿養子になったりと、むしろ憎いと思い込んでる現代人よりも当時の人間のほうが友好的じゃないかと思うんですが
確か、西郷頼母のご子息が西郷四郎。この人が、姿三四郎のモデルになったと言う記憶が、、
その通りだと思います。
養子ね
86年年末時代劇スペシャル「白虎隊」でもこの自害の場面はありましたね。
放送当時は単純に悲劇と思いましたが、今見るともっと悲劇!
「なんで!ウチの娘と同じくらいの娘が死ななきゃいけないんだ!」って。
岩崎良美さん演じた中野竹子最期も悲しい。
一番かわいそうなのは農民よな。城にも入れてもらえず食い物取られ犯され、、、
「八重の桜」で主人公新島八重(綾瀬はるか)の活躍がカッコ良かったけど
その裏ではそんな凄惨な実情があったとは、、
今更ながら戦士や自刃された会津の皆様に
哀悼の意を表明します。
自決の大半は土佐藩軍の進撃が急すぎて城に入れなかったからです
というか会津藩が弱すぎで国境の防衛線を突破されるや新政府軍が無人の野を行くごとくで城下にせまったため入城できなかったのです。会津藩首脳の観測も甘く、城への退避命令も遅すぎました。容保を含む会津藩首脳に一番の責任があるでしょう。
集団自決については会津藩だけに特殊なものではなく
第二次世界大戦でもサイパン(バンザイクリフ)や沖縄では米軍の捕虜になると強姦された上に殺されると信じていた住民は集団自決しました
ドラマでも西郷頼母一族の凄惨な集団自決の場面や、
中野竹子の最期の場面、しっかりと演出されていましたよ。
江戸文化のホ〜リ〜様🍒 御一新は間違いでしたね? 上野の西郷どんの銅像を撤去するように小池都知事に請願してくださいませ🙇
会津女の怨霊😡
@@中野善行-h6t 会津の百姓は、おなじ百姓の長州兵を歓迎したそうな
@@田中一郎-v7g
創作は歴史小説で。 長州軍は会津戦争に参戦しておりませんね🫵
何故か。 禁門の変で敗戦した長州兵の多数が薩摩藩と会津藩の捕虜になりましたね。 薩摩藩は捕虜の長州兵を薩摩藩邸で客人として処遇して長州征伐後の講和で変換しています! 会津藩は捕虜を江戸の小伝馬牢にすし詰め放り込んで半数は餓死病死でした。 江戸無血開城後にそれらの事実を知った長州軍は復讐の会津殲滅戦争を誓いました。 官軍大将の西郷どんは凄惨復讐戦を回避すべく会津戦争から長州軍を外しておりましたね🙇
新兵器の価値を知っていた薩摩等が作った新政府軍はやがては新兵器マシマシの昭和の帝国陸海軍になったんだろうが、最終的には精神主義に陥った。日本の栄光も悲劇も、だいたい根っこは同じなんだなあ。。。
色々と日本人が忘れがちの心を思い涙しました。
会津にはまた行って今の
日本の人の心を思いたいと思います😢😢
新政府に1番抵抗した藩は会津藩と長岡藩と庄内藩でした でも戦争後の処分にはかなりの差が有りました
現東北地域の中心であった仙台藩は62万石から28万石 長岡藩7.4万石から2.4万石
会津藩は23万石から 下北半島の斗南藩3万石へ移封と1番厳しい対応がなされています
それに対して 会津藩 長岡藩 と共に同盟の中心的存在だった庄内藩は17万石から12万石へと軽い減封で済んでいます これは誰もが不思議がっていました 何故 薩摩藩江戸屋敷を焼きはらった事が有るのに おかしいと思ったはず でも西郷隆盛言った(庄内藩を潰すならおいどんを殺してくれ)の一言で庄内藩は他の列藩同盟とは違う処遇を受けたという事です
これは 元々庄内藩の処遇について話し合いの席で 薩摩藩江戸屋敷を焼きはらったことも有り
取りつぶしの話が出た際に西郷隆盛の一言で処遇が変わってしまったそうです
これは薩摩藩と庄内藩の繋がりからくるそうです 明治維新の100年前 薩摩藩藩は九州の南端で幕府の目が届かない事を良いことに盛んに密貿易を行っていたとのことです
藩主が密輸品も含めた特産品の販売に力を注いでいましたので優秀な商人が必要になり日本中に募集したそうです そこで応募して来たのが庄内生まれの岩本源右衛門でしたこの人の活躍で薩摩藩は豊かな藩になったそうです つまり 薩摩藩はこの人に恩が有り庄内出身の為 強く反対したのではと思われます 店は今でも在り山形屋(やまかたや)鹿児島では有名なデパートです。
山形屋はそういうことだったのですね
あなたは賢いお人だ
なるほど😂
わかった。
領主が早々に、自らの首を差し出してれば、違った結末になってただろう。
全く違いますね
西郷は何の関係もありません
庄内藩や盛岡藩など(会津藩含め)も、改易の上、大幅減封というのが新政府の方針でしたが、庄内藩などは本間家を中心に30万両という献金を新政府にしたので処分が軽くなりました。盛岡藩も庄内藩には及びませんが10万両以上の献金をしています。
会津も献金するだけの金があれば、なんとかなったかもしれませんが.....
庄内藩に関しては、磐城平へも転封命令は、6月16日。転封取り消しと献金は、7月22日です。
@@miyakoshim.4443 さん色々な指摘有難うございます
山形県に有った庄内藩の場所に南洲神社が有りますその神社は西郷隆盛と関係のある神社です 神社のすぐ側にある史料館の中には西郷隆盛の書いた本物の書が4まいとコピーした物が有ります 南洲神社は鹿児島県にも有る神社です
戊辰戦争も終わり庄内藩の処遇が言い渡された時 庄内藩は重い処罰を覚悟していました その時薩摩藩の黒田清隆に言い渡された処遇が甘いものでしたその時庄内藩の人が黒田にお礼を言うとこれは私ではなく 西郷さんのお考えだと言われたそうです 確かに財政的に豊かだったため武器も新しく戊辰戦争では勝ち続けています 但し中心的な会津が降伏したのでこれまでと降伏しました そういうことも有り庄内藩から何人も西郷さんへお礼を言いに鹿児島の薩摩藩へ行きましたその時の銅像が有ります 徳の交わりと言います 西郷隆盛と庄内藩の家老の二人です ですのでかなり信頼され続けて西郷隆盛を慕っていたはずです 西郷隆盛の書いた物を後に庄内藩で書にして藩に配布しています
会津城(鶴ヶ城)が目の前にある小学校に通ってました。4年生になる頃には動画で紹介された内容を授業で教わった記憶があります。
福島はいつも時代の犠牲になるって..いつか聞いた事がある
原発しかり。
大東亜戦争の会津連隊の事も忘れてはならない。
会津だけ東電から金が出ない
勘違いしてはいけない。
長州藩はこの時武士らしき武士は居ない。既に長州藩は内乱の末、下級武士や商人農民の烏合の衆。
最早、武士の礼儀作法すら知らない輩で卑怯なやり方を横行。
元々、長州藩は会津藩とは比較にならない程の下級藩。
端から相手にはしてないのですよ。
恨むべきは裏切り者の薩摩藩ですよ。
九州男児と聞こえは良いが、九州男児は絶対信用してはいけない。
平気で人を裏切りますからね。
それを戊辰戦争がさらけ出してくれた。
子供と言えども官軍は慰み物にしたり殺したりする。それならば先に潔く死を選んで来世でまた家族で暮らそうということでしょう。辱めを受けたと受けないで死を選ぶのは天と地との差があります。
柴五郎氏は部下であった俺のひいじーちゃんが運営する旅館に泊まった時(当時は職業軍人も副業OK)旅館の前で閲兵式やってくれたんだべした。
会津藩士の忠誠心は素晴らしいものだと感心しますが、この人達を指導した幹部たちにもっと先を見る目が有ったなら、こんな悲壮な死を遂げる事は無かったと思い残念です。会津魂に感服しかないと言うのは美しいですが、もっと選ぶべき道が有ったように思いますが、皆さん如何考えますか ?
私もそう思います。しかし戦争によらず外交によって会津藩の人々を味方として生かせなかった新政府にも無能のそしりは逃れられないとおもいます。
戦わずして勝つという孫子の言葉を忘れてはなりません。
おっしゃる通りですが、もともと会津藩の首脳部はそんな指導をしていたから、そうなったのです。もっともっと広い目で世の中を見て指導すべきだったと思います。私ならそうします。@@シロハル-s2m
鳥羽の戦で幕府に味方した藩はみんな恭順したのに会津藩だけは謝罪なし恭順もなし、不審な行動ばかりとる、
会津藩は他の藩に嘆願運動を頼んでおきながら裏ではこっそり庄内藩と軍事同盟を結ぶ。
新政府軍側は会津藩討伐命令を出すも会津藩に対して今からでも恭順すれば寛大な処置にするという通達を仙台藩を通じて通達します。しかし
会津藩は返事を何日も放置したあげくに拒否(会津藩側の資料に拒否したという証拠があります)
新政府軍側は戦力的に余裕なんてなかったですから、なるべく戦わずに解決したいのに、会津藩側が戦を続けようとする以上はどうしようもなかったとおもいます。
会津藩討伐においては、東北の藩をあてにしていたくらいです。会津戦争は実は会津藩と旧幕府の残党と一緒に新政府軍の占領地に攻め込みその地を占領してることで始まる。当時の会津藩は戦争派の人間が多数を占めていたので家老の西郷のような降伏派が多かったら会津戦争はおきてなかったでしょうね。
また会津藩は軍資金や武器を得るためにドイツに対して蝦夷地売却の交渉もしています。
新政府軍に勝利すれば、東北側が政権を握れていたでしょうから東北側もそれを狙って
奥羽越列藩同盟を結成しています。会津藩を助けるためというのはあくまで表向きです。
東北側は輪王寺宮を天皇に即位することを強要してバックに天皇をつけていました。
つまり当時、天皇が2人いたということですね。新政府軍 VS 会津藩含む奥羽越列藩同盟の戦は
言い換えたら政権争いとも言えます。
さすがに深堀されてますね。大変勉強になりました。ありがとうございました。@@なや-m6l
会津藩は「将軍家がどんなに衰退しようともですから」先を見ちゃダメな家訓でした。
その家訓は藩主のみならず藩士にも徹底して教え込まれていましたから。
西郷頼母が暗殺されそうになり出奔したのも「恭順を称えろ」と進言をしたのが原因です。
徳川家の力を削ぐ戦争をしない限り徳川慶喜が新政府の議長でしたので外交でどうこうは無理かと思います。
薩長は徳川慶喜の討伐を公言してしまっていたので「薩長の中心人物の切腹」になるでしょう。
なので戦ありきです。
ここで悲惨だったのは「忠誠を貫いたのに将軍徳川慶喜から見捨てられた」こと。
会津藩士の軽輩の末裔です。
会津戦争のターニングポイントは白河口の戦いと母成峠の戦いの2つがありました。
薩長軍の侵攻は兵站供給路封鎖で東の海路常陸国からと西の海路越後国(長岡藩)から、陸路は下野国(宇都宮、今市)からの3方攻めだったと聞いています。そのうちの奥羽列藩同盟の中核をなす会津藩、関連する白河、二本松などの壊滅が目的だったようです。
その中で陸路の要衝のひとつは「白河口の戦い」で、現在の福島県白河市小峰城への攻防戦ですが、南湖公園西側の小丸山から稲荷山一帯での惨状は非戦闘員の男子、女子供もことごとく惨殺の上、田畑路上に放置。引き取ることも埋葬することも許されなかったそうで、季節が真夏に差し掛かる白河の地に放置された亡骸は腐るに任せて異様な臭気が漂っていたそうです。
この戦争でも殺戮、窃盗、強姦の類では筆舌に尽くしがたい様だったと聞いています。
要因としてもっとも挙げられるのが農民兵の薩長軍の規律と武士道を規範とした会津藩士の規律の違いだったと言われています。
大先輩で3年前に亡くなった山内日出夫さんとは会津戦争の話もよくいたしましたが、会津藩士の規律を重んじる勤勉実直さは誇りだと述べておられました。
小峰城か。
滝川本陣でもそうだったが、柱に弾跡があったなぁ。
農民?薩摩は士族主体だけど?
日本最大級の捏造、カネの為なら何でもアリの志津観光史学のロジックですね。「殺戮、窃盗、強姦の類では筆舌に尽くしがたい様だった」と聞いていますと言う言葉で逃げてはダメですよ。テキトーな小説家の悲劇・美談やそれを読んだ高齢者の証言と言うのが多く、歴史学上の一次資料は示せない。どこぞの国の慰安婦20万人の強制連行と基本的同じ構図。
最初と最後に使用されているBGMは何という曲なのでしょうか?
250年間江戸時代は戦争もなく人々は平和に暮らしていた。
明治新政府になってから1945年まで戦争に明け暮れどれほどの国民が亡くなったのだろうか。
それは徳川家の権威が保たれていたからですよ。桜田門外の変とか
習いませんでしたか?そういうのが起きてる時点で幕府の権威が失われつつありいう事を聞かない
藩も出てきてたんですが。要するに幕府の崩壊は時間の問題だったわけです。
@@machimachio ????
会津の人達は皆さん勇ましい、これぞ、ラストサムライ。
よく言われがちな「会津藩は農民たちに恨まれていたから新政府軍の道案内をした」についてなんですけど、僕もそれなりに会津若松の郷土史には詳しいので。
恐らく母成峠でのことでしょうが、石筵村の農民たちが新政府軍を道案内したのは確かです。でも石筵村は二本松藩領なんですよ。
ここよく「会津藩領の農民」と勘違いされがちなんですが。
石筵村の農民たちは新政府軍から褒美をもらって、帰りに猪苗代(会津藩領)の農民たちに「裏切り者」として○されています。
会津藩領の農民たちは割と容保公には好意的だったようです。まあ確かに会津藩は善政とは言い難かったかもしれませんが、民衆全員が満足する政治なんて到底無理ですからね。
こんな話もあります。
若松城下の飯寺村の若者たちは、新政府軍に包囲されている時に「お殿様たちもこったことに(こんなことに)なっちまってさぞ参ってんベ!
何か美味いもんを差し入れてやんべ!」と言って容保公に餅を届けています。
それに山川大蔵による彼岸獅子入城作戦にも、会津の農民が協力しています。
戦後、容保公の助命にも農民たちが奔走していた、という資料が2018年に見つかっています。
以上のことから、少なくとも容保公は「近年言われるほどバカ殿というわけではない」ことが分かります。
あくまで参考として。
長文失礼しました。
太平洋戦争の沖縄戦を思い起こさせるな。当時の軍部も戊辰戦争の時の会津藩も、降伏のタイミングを誤って多くの犠牲者を出す結果になってしまったのは非常に哀しい事だ。
早乙女貢著の「会津士魂」を読んで欲しい。克明に会津の人々の動きが分かる。「続会津士魂」では戦争に負け、政府から会津の土地から奥州の土地で苦しみながらも生き抜く藩の人々の様子が描かれている。電子書籍もあります。
柴五郎、この人の活躍を是非ググって見るべきです。大雑把ではアメリカ映画『北京の55日』。残念ながら、日本人の本当の活躍などは描かれませんでしたが、ネットではその当時の活躍がアップされ、この活躍で日英同盟の締結の一役買いました。
会津に旅行に行く機会があり
女も武家であり侍であり誇りがあり 命を賭している(、いた) というのが衝撃的に記憶に残った
会津は、八重さん新島襄さんと有名な日本のクリスチャンが沢山います。千利休もクリスチャン、茶道も聖書を元に作られたものだとか、鶴ヶ城の麟閣も千利休との縁もあるとか、野口英世もそうですね。なぜ会津のクリスチャン文化が盛んになったのでしょうか 会津は今キリシタン文化の歴史について力を入れているようです。とても興味深いです。会津の女性の清い潔さにも何か関わりがあるのかも知れませんね
こりゃ今でも会津の人が薩摩・長州の人を良く思わないのは納得だわ
会津では、けっこう最近まで長州藩への怨みから、会津の人と山口の人が結婚することをしなかったらしいですね。
嘘で塗り固めた会津観光史学の面々の書いたエッセイ・小説が婚姻を妨げたとしたら、人権問題では?いや、憲法違反ですよ。
捨松は薩摩の大山様と結婚されたが‼️
会津若松城に行ったとき白虎隊の遺影を見てまだ若い少年なのに早すぎる死に同情しました。
更に若くして亡くなったのが二本松少年隊だよ。
12〜13歳の元服前の子供達だった。
刀を振り回す事だって出来ないから、抜刀したら
『突け』
と教えられたそうだ。
つまり、捨て身で体当たりしろとの事だった。
@@二等陸尉伊丹 知らなかったです。知っているのは城が焼け落ちているのを見て多くの白虎隊の子供たちが割腹自殺したが、命が助かった子もいてその出来事が後世に語り継がれているってことぐらいでした。
いつか福島に行き手を合わせたいと素直に思える動画でした。ありがとうございます
いまでも会津の方は他より団結力が強いと思います。魂は残ってますよ。
うううっ、辛くて最後まで観れない‼️ごめんなさい‼️😭
会津戦争は八重の桜で知った。
戊辰戦争の会津藩の悲劇は、涙が出る思いです。丁寧な解説ありがとうございます。
しかし、かつて薩摩藩(島津氏)や長州藩(毛利氏)も関ケ原の戦いで西軍やその後の幕府の政策に
より徳川家康に苦渋を舐めさせられ、藩民が犠牲を強いられた事をご存じでしょうか。
江戸時代を通して、それを供養する祭りや、藩の年頭所感として語り継がれ、幕末の原動力となった根底は、そもそもそこにあったという事実を。
朝鮮についても同じことだと思います。秀吉の朝鮮出兵、明治時代の朝鮮併合も
元を辿れば、文永・弘安の役(元寇)襲来時の高麗の蛮行への反発として、倭寇から
発展したものであると。
歴史は繰り返されるのです。
(客観的に見て)朝鮮併合は間違いだったと思う
※結果的に火に油を注ぐことになった
タイムマシーンがあったら日本人同士で戦争するなと言いたい。
同意します。それと人間同士で戦争するなと言いたい。
それだと日本が2つに別れたかも知れないし
幕府崩壊しなかったら身分制度が今でも続いてたかも知れない
内容は素晴らしくこれからも引き続き同チャンネルを見ていきたいが、今回のサムネは直した方が良いと思う。
誇り高き『会津魂』に敬服致しました。
どうか未来永劫、語り継いで頂きたいです。
当時の人達の精神状況、環境下…今の時代でこのときに比べて緩く生きている私達のものさしではかれるほど、簡単なことではないし、語ってはいけないと思う。どっちが…ではなく、こういった人達が実際にいて、出来事があったという事実を忘れないことですよね😢
生まれも育ちも会津若松の父親は何よりも「賊軍」と呼ばれることを嫌ってましたね。
作家の今東光:大僧正が 生前仰言ってました。会津の 女性達が 官軍に蹂○サレタと…。西南戦争が勃発💥嘗ての会津の御侍達が 次々と鎮圧部隊へ 巡査抜刀隊を組織💥強敵の西郷軍=薩摩示現流と激闘を重ねたそうです。母や妻・姉・妹達の 仇を撃つために…🙏
長らく西南戦争での抜刀隊の異様な士気の高さが謎だったんだけど、そんな因縁があったのか
そりゃあ復讐の鬼と化すわなあ・・・・・・出来れば相手は薩摩ではなく長州だったら良かったんだろうけど
薩長は会津松平家預かりの新撰組を憎んでいたからね…
今思えば憎まれ役を無理矢理押しつけられたのかも…
徳川慶喜が恭順した以上戦う大義名分は無かったと思う。
どの藩もやりたくない京都守護職をお上から言われ、什の教えにより断れないが故に引き受けざるを得なかったんだよな。
しかも、新撰組も無法となりつつあった京都をテロや恐喝から守ってただけなのに。
自分達のやった事を棚にあげて官軍を名乗るのは、大丈夫か?と思う。