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ご視聴・ご訪問ありがとうございます!東京ど真ん中にある歴史の宝庫、江戸城(現:皇居)を歴史散歩してみました。素晴らしい史跡がたくさんあり、大過激♪しかも最後の紅葉を楽しむことができました。そして、とっても良い運動になります^^ご近所の方、ぜひお天気の良い日にお出かけされてみてください☆ご質問&コメント、高評価👍とチャンネル登録もお待ちしています〜〜
アルマさん、理解しやすい案内が嬉しいです。まさに「再履修科目」のつもりで視聴しております。この動画は二度目になります。
再履修!恐縮です…😂ちょうど1年前くらいにアップした動画なので懐かしいです✨
観てるうちに、主さんの癖にハマって来ました!
うふふ、ありがとうございます!
素敵なご案内ありがとうございました。甲府出身の祖母の大おじが、和宮様御降下の際、信濃と武蔵の国境をお供し、寒い時期でしたので、風邪をこじらせ亡くなったと、よく話しをていました。
す、すごいエピソードをお持ちなんですね!!和宮様のお供をされたとは✨しかし今のように車も鉄道もなかった時代、京都から江戸までの旅は本当に大変だったんだろうとお察しします…💦
@@tokyo_historical_walk さん。その祖母の連れ合い、わたしの祖父は、2.26事件に、北一輝先生の門弟として参加しました。事件後、すがたをくらまし、とても不安だったと、祖母がよく話していました。昭和11年、亡くなった私の父を身ごもっていたときです。
@@soichirosaito296 さま、2.26事件もですか!おばあさまとお話してみたかったです✨今の私たちはもう、歴史の一片として振り返ることしかできませんが、同時代を生きた人にとっては、リアルな記憶なんですよね…
@@tokyo_historical_walk さん!!そうですね!!
@@tokyo_historical_walk さん。もっといろいろ聞いておけばよかったなと思うことばかりです。それから、叔母の嫁いだ先の家に、桜田門外の変を目撃したことを記した手紙が残っています。桜田門そばの大名屋敷に奉公していたそうです。
江戸幕府が所有する軍船で江戸湾を周遊したり、時には江戸城吹上御殿の庭園にある池に小舟を浮かべて宴遊会を催したりするなど、多くの船に関する記録が残されています。そして、船遊びに欠かせない存在だったのが、将軍の正妻である「御台所」をはじめとする、その数百人以上といわれる美しい女性たちでした。女性たちは、江戸城「大奥」に所属する将軍寵愛の者たちです。「大奥」には、さらに大勢の女性が奉公しており、その数は「幕末の最大時には1000人を超える規模だった」ともいわれています。江戸城の中心である「本丸(現在の皇居東御苑)の北側」にありました。本丸御殿の敷地は約1万1000坪で、そのうち「表」と「中奥」が約4700坪なのに対して、「大奥」は約6300坪と、本丸の中で「大奥」が最大の割合を占めていました。そして、大抵の場合、将軍の側室は、この女性たちの中から選ばれました。将軍以外の男性が足を踏み入れることが許されなかった「大奥」では、夜ごとどのような「酒池肉林の世界」が繰り広げられていたのでしょうか。江戸城「大奥」をテーマに、将軍の「大奥」生活における理想と現実について述べます。大奥で働く女性たちは、「御目見(おめみえ)以上」「御目見以下」「部屋方」の3つに大きく分類されます。職掌によって将軍に接触できるのが「御目見以上」、そうでないのが「御目見以下」で、さらにこれらの女性たちが自らのサポート役として私的に雇っている女性が「部屋方」です。「御目見以上」と「御目見以下」は、それぞれの中でもさらに細かく分類され、定員も設けられていたようです。・上臈御年寄〔1人〕:大奥の最高位で将軍・御台所の相談役。名誉職で実権はなかったといわれます。・御年寄〔4人〕:大奥全体を取り締まる実質的なトップ・御中臈〔7人〕:将軍・御台所の身辺の世話係。通常はこの将軍付中臈から側室が出る などで以下は・御仲居、御火之番、御末などです。ベースとなる基本給のほか、衣装手当、自分が雇った「部屋方」の雇用手当、薪や炭など暖房手当、味噌や塩といった食費補助など、諸手当も充実していました。年金制度(勤続30年)もありました。ちなみに、各役職の年収を現在の貨幣価値に換算すると、「上臈御年寄」で約2700万円、「御年寄」で約1500万円、「御中臈」で約700万円です。また、御年寄になると城下に屋敷がもらえ、それを貸店舗など副業に活用できたりと、「御目見以上」はかなり裕福でした。残念ながら、「御目見以下」の給料はグンと低く、御末で年収約90万円と現代のパートタイマーなみです。それでも、この金額は当時の町家で働く住み込みの女性の倍以上だったといいますから、大奥で働くことは当時の女性たちにとって憧れの的でした。昇進のスピードや狙える地位は、「大奥」内に存在する各派閥のうち、どの派閥に属するかで結果が大きく異なりました😂のためにたびたび倹約令を出しています。「大奥」の維持費は、将軍が代を経るにつれて膨張の一途を続け、幕府の財政を圧迫する要因のひとつでもありました。そこで、8代将軍・徳川吉宗のときには、「大奥」から選りすぐりの美女50人を「嫁のもらい手に困らない」として一斉にリストラしました。また、14代将軍・徳川家茂の時には、彼の妻である和宮の1カ月当たりのたばこ代約105両を10分の1まで減額し、10両2分に抑えるなど、断続的に「大奥」の改革を行いました。しかし、その成果を見ないまま明治維新となり、「大奥」は幕府とともに終焉を迎えます。私たちが時代劇等で目にする「ドラマの中の歴史」は、「史実としての歴史」とは大きく異なっていることが多々あります。基礎に江戸以来住み代々見聞きしていない所以ですね。何も知らずにドラマの世界を「史実」と鵜呑みにして人前で話すと、思わぬ恥をかいてしまうこともあります。江戸以降に住まない事を除き、歴史の知識は、いったん身に付けてしまえば一生、応用が利くものです。ぜひ「大奥」など身近な題材から日本史を学び直し、大人に必要な「知識と教養」をいっきに身に付けて下さい。すると、日頃見るドラマの世界観や誤認識も、もっと楽しめるはずです。例えば、時代劇での「大奥は年間維持費が600億円」でしたが、時代小説や時代劇、チャンバラ映画といっても、伝統的な江戸の生活を活写しているわけではありません。悪代官や悪家老に虐げられた者を救う為に、素浪人が侍や町奉行の捕り方に囲まれながら、彼らをバッタバッタと切り倒します。時代劇の溜飲の下がるカタルシスは、江戸時代にもありそうで、あって欲しいと思うのですが、ほとんど西洋の活劇の流用から発展して今日に至った内容です。それゆえ現実の江戸時代の姿からは、ほど遠いといわざるを得ません。何故に、見識ある歴代の江戸っ子や江戸を知っている人たちによって、時代劇や時代小説は作られなかったのでしょうか。そこで「歴史の見直しが」必要となる所以です。「江戸城の大奥を述べさせて」頂きました。江戸城無血開城では「西郷隆盛と勝海舟で決まった(知らない人達のマニアが掲載する事です)」と言われておりますが、命懸けで「西郷隆盛に山岡鉄舟が会談の殆んどを決断を」させた本当の立役者は「剣禅に長けた山岡鉄舟」です。城下では「無秩序と成って長州や薩摩が江戸庶民に窃盗、強姦、斬殺等々の行為」は何時も取り上げない事は綺麗事で済まされない事を歴史が語っております。「首都遷都は国家の重大事項に於いて大久保利通等々の参議の家臣が決める事では無く、中央集権国家では、当時は天皇が元首(最終判断の権限者です)」で「判断の詔勅は、江戸~東京の地名変更で遷都判断は行って」おりません。従って、未だに、東京田舎です従って、今日迄に勅語や法律制定の可能性が幾度も有って「遷都は国家の重大な事項ですので天皇の判断があって諸手続きを経て執行可能で遷都先の江戸に財政を調査させ計画性があって遷都する事は当然です。財政難は考えられないのです。無けれ後で詔勅して遷都する事です。判断の遣り直しが出来る」仕組みです。判断があって内部手続き及び詔勅を京都、江戸庶民に周知と説得させる事が今後の「政を行う上でスムーズに」行えます。また、戦後が日本国憲法制定下で、「首都建設法で東京を首都とする定めた後で廃案」とし「首都整備法を制定して」今日に至る一連の流れは「憲法上の不備があったので」制定させた後から改めて法律制定したと、誰もが思います。当時や現在も法治国家に於いて遷都の法律の定めは無い(150年も)」のです。何も無い(法律、その後の詔勅を含め)処に「拡大解釈も慣習も奠都もなし崩し論議は」ご座居ません。首都と周知させた現場は学校でした。法治国家の手順を踏んで改めて法律を定める事が肝要です。通常の憲法改正は「時代に見合った内容とは、制度や不具合さ」を考えて、太平洋戦争の遺訓、知覧で検閲され無い遺志は「次の日本人の為に残す、二度と戦争を行わない将来を期す」と言われた言葉が染み渡ります。平和の無い社会に基本的人権や国民主権も無い事は確かです。また、疑問点の内容等の欠礼や行き違い等々の切はご容赦下さいませ。本所亀沢町6代末孫
明暦の大火で焼け落ちた江戸城は、間もなく再建されます。しかし、天守閣だけは失われたままでした。幕府が天守閣を再建しなかった理由を見ていきます。◎城下町の復興を優先当初、江戸城の再建計画には天守閣も含まれていました。皇居東御苑の本丸跡地には、天守閣の土台にするために造った石垣が残っています。◎しかし、天守を建てる段階になって、復興の指揮を執っていた会津藩主の保科正之(ほしなまさゆき)が、工事の中止を進言しました。財源が不足していたことと、天守閣の必要性がなくなったことが理由です。◎そもそも天守閣は、城主の軍事力や権力を象徴するためのものです。しかし、当時の日本は、すでに戦のない世になっており、将軍があえて軍事力を見せつける必要もありませんでした。◎そこで正之は、なくても困らない天守閣の再建は後回しにして、城下町の復興を優先しようと考えたのです。以降も、天守閣の出番はなく、再建計画が浮上することもありませんでした
六代将軍の時に再建計画が持ち上がり図面が作られたが中止されてます。
今回も知らないものがたくさん出てきて、勉強になりました。特に大山巌像は、えっと思いました。戦後すぐに「銅像の戦犯裁判」というのが行われ、有名な広瀬中佐・杉野兵曹長の像(万世橋)、東郷元帥像をはじめ軍人姿の像はすべて撤去されました。一方、西郷隆盛像は浴衣姿だからよい、楠木正成像は芸術品だからよい、とか大村益次郎像などもぎりぎり助かったなど、助けるのに随分苦労したとの話。調べてみると、大山巌像は、戦争中に金属供出で撤去され、戦後になって東京芸大に「横倒しになっている」ところが発見されたとのこと。つまり結果的に隠された形になっていた、ということなのでしょうか。銅像にも歴史があるなあと改めて思いました。
銅像がどうやって現代に存続されたのか、経緯をたどったら、新しい歴史が見えてきそうですね!日本以外においても、宗教改革で聖人像が壊されたり、体制転換で権力者の像が撤去されたりというのは、シンボリックに行われていますし。さりげなく九段に置かれている大山巌像にも、様々か経緯があったんですねぇ…✨貴重な情報をありがとうございます。しかし、浴衣姿だからOKって…😂😂そんな理由で良いのでしょうか(笑)
@@tokyo_historical_walk 実はRUclipsでも「銅像の戦犯裁判」という当時のニュース映画が見られるのですが、その中では、西郷隆盛像は美術的価値があるからOKとされていました。ところが、そのニュースの最後に「山縣元帥と大山元帥の銅像については慎重に検討しています」とあり、あれ、大山元帥の銅像はいくつもあったのか??と謎が新たには発生しているところです。簡単ではありませんね。
びっくりです!!
大村益次郎はさっさと鋳つぶしてしまって欲しかったですね。上野戦争で寛永寺に掲げられていた東山天皇の勅額を灰にした国賊ですからね。
駿府城にも遊びに来てください。
駿府城や久能山東照宮など、静岡の家康ゆかりの地行ってみたいです〜〜✨
ここら辺の風景は10年前とほとんど変わってませんねぇ。😁東京都内でも皇居周りは本当に時間が止まっているように感じますね。
夜の清水門付近なんて、本当にタイムスリップしてしまったのかと思うほどです!ガッツリ入り込んでみたいものです…(きっと許可されないでしょうけれど、、、😂)
北の丸公園を歩きましたら東京には似つかわしくない緑の自然がありました。
北の丸公園、びっくりするほど自然豊かですよね〜〜!吹上御苑はどうなっているんだろう…と、いつも妄想しております(笑)
焼失前の天守、本丸御殿図面が有るのに木造復元しないのは勿体無い。
皇居を歩くといつも思うのが、城内の建物、例えば本丸御殿や大奥など、明治になってどのように消えていったのか、です。櫓や門は残っているのに。建物の遺構は取り壊され、何処にも残っていないのかなぁとか思います。北の丸は今でもよく散歩します。
皇居の建物は実は、明治にたどり着くまえに焼失しているケースが多いんですよね…。本丸御殿(大奥を含む)は1863年に焼失、その後は本丸機能を西の丸に移したそうです。ちなみに城郭御殿は全国でも4カ所(川越・高知・二条城・掛川)しか残ってないので、なかなか希少ですよ〜〜
@@tokyo_historical_walk ありがとうございます。川越、高知、二条城は行きましたので掛川に今度行ってきます!
@@コタロウ犬の主人 さま、フットワーク軽くてうらやましいですーー🥰私も掛川だけ行ったことないので、お出かけになられたらぜひ感想聞かせてくださいませ🙏
@@tokyo_historical_walk 承知しました!いま伝通院に行ってきました。浪士組がここに集まっていたと思うとグッときました。
@@コタロウ犬の主人 さま、ありがとうございます🙏今日は雨は大丈夫でしたか??伝通院、なんだか妄想のふくらむ場所ですよね〜〜✨
靖国神社の大鳥居と大村像の辺りに一時期競馬場だった写真を観た事があります詳細はわかりませんが気になったのでご存知でしたら教えて下さい
コメントありがとうございます。靖国神社の競馬場は1869年、奉納競馬を開催するために、日本初の西洋式の競馬場として設けられたものです。(1898年まで存続)大村益次郎像が設置されて以降は、その周囲を回るようなコースだったそうですよ!ちなみにですが同じ時期、上野の不忍池の周囲や、皇居の吹上御苑内にも競馬のコースがありました。今とは全然違う使われ方で、びっくりしますよね〜!
ご視聴・ご訪問ありがとうございます!
東京ど真ん中にある歴史の宝庫、江戸城(現:皇居)を歴史散歩してみました。
素晴らしい史跡がたくさんあり、大過激♪しかも最後の紅葉を楽しむことができました。
そして、とっても良い運動になります^^ご近所の方、ぜひお天気の良い日にお出かけされてみてください☆
ご質問&コメント、高評価👍とチャンネル登録もお待ちしています〜〜
アルマさん、理解しやすい案内が嬉しいです。
まさに「再履修科目」のつもりで視聴しております。この動画は二度目になります。
再履修!恐縮です…😂ちょうど1年前くらいにアップした動画なので懐かしいです✨
観てるうちに、主さんの癖にハマって来ました!
うふふ、ありがとうございます!
素敵なご案内ありがとうございました。甲府出身の祖母の大おじが、和宮様御降下の際、信濃と武蔵の国境をお供し、寒い時期でしたので、風邪をこじらせ亡くなったと、よく話しをていました。
す、すごいエピソードをお持ちなんですね!!和宮様のお供をされたとは✨
しかし今のように車も鉄道もなかった時代、京都から江戸までの旅は本当に大変だったんだろうとお察しします…💦
@@tokyo_historical_walk さん。その祖母の連れ合い、わたしの祖父は、2.26事件に、北一輝先生の門弟として参加しました。事件後、すがたをくらまし、とても不安だったと、祖母がよく話していました。昭和11年、亡くなった私の父を身ごもっていたときです。
@@soichirosaito296 さま、2.26事件もですか!おばあさまとお話してみたかったです✨
今の私たちはもう、歴史の一片として振り返ることしかできませんが、同時代を生きた人にとっては、リアルな記憶なんですよね…
@@tokyo_historical_walk さん!!そうですね!!
@@tokyo_historical_walk さん。もっといろいろ聞いておけばよかったなと思うことばかりです。それから、叔母の嫁いだ先の家に、桜田門外の変を目撃したことを記した手紙が残っています。桜田門そばの大名屋敷に奉公していたそうです。
江戸幕府が所有する軍船で江戸湾を周遊したり、時には江戸城吹上御殿の庭園にある池に小舟を浮かべて宴遊会を催したりするなど、多くの船に関する記録が残されています。そして、船遊びに欠かせない存在だったのが、将軍の正妻である「御台所」をはじめとする、その数百人以上といわれる美しい女性たちでした。
女性たちは、江戸城「大奥」に所属する将軍寵愛の者たちです。「大奥」には、さらに大勢の女性が奉公しており、その数は「幕末の最大時には1000人を超える規模だった」ともいわれています。
江戸城の中心である「本丸(現在の皇居東御苑)の北側」にありました。本丸御殿の敷地は約1万1000坪で、そのうち「表」と「中奥」が約4700坪なのに対して、「大奥」は約6300坪と、本丸の中で「大奥」が最大の割合を占めていました。そして、大抵の場合、将軍の側室は、この女性たちの中から選ばれました。将軍以外の男性が足を踏み入れることが許されなかった「大奥」では、夜ごとどのような「酒池肉林の世界」が繰り広げられていたのでしょうか。江戸城「大奥」をテーマに、将軍の「大奥」生活における理想と現実について述べます。
大奥で働く女性たちは、「御目見(おめみえ)以上」「御目見以下」「部屋方」の3つに大きく分類されます。職掌によって将軍に接触できるのが「御目見以上」、そうでないのが「御目見以下」で、さらにこれらの女性たちが自らのサポート役として私的に雇っている女性が「部屋方」です。
「御目見以上」と「御目見以下」は、それぞれの中でもさらに細かく分類され、定員も設けられていたようです。・上臈御年寄〔1人〕:大奥の最高位で将軍・御台所の相談役。名誉職で実権はなかったといわれます。・御年寄〔4人〕:大奥全体を取り締まる実質的なトップ・御中臈〔7人〕:将軍・御台所の身辺の世話係。通常はこの将軍付中臈から側室が出る などで以下は・御仲居、御火之番、御末などです。
ベースとなる基本給のほか、衣装手当、自分が雇った「部屋方」の雇用手当、薪や炭など暖房手当、味噌や塩といった食費補助など、諸手当も充実していました。年金制度(勤続30年)もありました。
ちなみに、各役職の年収を現在の貨幣価値に換算すると、「上臈御年寄」で約2700万円、「御年寄」で約1500万円、「御中臈」で約700万円です。また、御年寄になると城下に屋敷がもらえ、それを貸店舗など副業に活用できたりと、「御目見以上」はかなり裕福でした。残念ながら、「御目見以下」の給料はグンと低く、御末で年収約90万円と現代のパートタイマーなみです。それでも、この金額は当時の町家で働く住み込みの女性の倍以上だったといいますから、大奥で働くことは当時の女性たちにとって憧れの的でした。昇進のスピードや狙える地位は、「大奥」内に存在する各派閥のうち、どの派閥に属するかで結果が大きく異なりました😂のためにたびたび倹約令を出しています。「大奥」の維持費は、将軍が代を経るにつれて膨張の一途を続け、幕府の財政を圧迫する要因のひとつでもありました。そこで、8代将軍・徳川吉宗のときには、「大奥」から選りすぐりの美女50人を「嫁のもらい手に困らない」として一斉にリストラしました。
また、14代将軍・徳川家茂の時には、彼の妻である和宮の1カ月当たりのたばこ代約105両を10分の1まで減額し、10両2分に抑えるなど、断続的に「大奥」の改革を行いました。しかし、その成果を見ないまま明治維新となり、「大奥」は幕府とともに終焉を迎えます。
私たちが時代劇等で目にする「ドラマの中の歴史」は、「史実としての歴史」とは大きく異なっていることが多々あります。基礎に
江戸以来住み代々見聞きしていない所以ですね。
何も知らずにドラマの世界を「史実」と鵜呑みにして人前で話すと、思わぬ恥をかいてしまうこともあります。江戸以降に住まない事を除き、歴史の知識は、いったん身に付けてしまえば一生、応用が利くものです。ぜひ「大奥」など身近な題材から日本史を学び直し、大人に必要な「知識と教養」をいっきに身に付けて下さい。すると、日頃見るドラマの世界観や誤認識も、もっと楽しめるはずです。
例えば、時代劇での「大奥は年間維持費が600億円」でしたが、時代小説や時代劇、チャンバラ映画といっても、伝統的な江戸の生活を活写しているわけではありません。悪代官や悪家老に虐げられた者を救う為に、素浪人が侍や町奉行の捕り方に囲まれながら、彼らをバッタバッタと切り倒します。時代劇の溜飲の下がるカタルシスは、江戸時代にもありそうで、あって欲しいと思うのですが、ほとんど西洋の活劇の流用から発展して今日に至った内容です。
それゆえ現実の江戸時代の姿からは、ほど遠いといわざるを得ません。何故に、見識ある歴代の江戸っ子や江戸を知っている人たちによって、時代劇や時代小説は作られなかったのでしょうか。そこで「歴史の見直しが」必要となる所以です。「江戸城の大奥を述べさせて」頂きました。
江戸城無血開城では「西郷隆盛と勝海舟で決まった(知らない人達のマニアが掲載する事です)」と言われておりますが、命懸けで「西郷隆盛に山岡鉄舟が会談の殆んどを決断を」させた本当の立役者は「剣禅に長けた山岡鉄舟」です。城下では「無秩序と成って長州や薩摩が江戸庶民に窃盗、強姦、斬殺等々の行為」は何時も取り上げない事は綺麗事で済まされない事を歴史が語っております。
「首都遷都は国家の重大事項に於いて大久保利通等々の参議の家臣が決める事では無く、中央集権国家では、当時は天皇が元首(最終判断の権限者です)」で「判断の詔勅は、江戸~東京の地名変更で遷都判断は行って」おりません。従って、未だに、東京田舎です
従って、今日迄に勅語や法律制定の可能性が幾度も有って「遷都は国家の重大な事項ですので天皇の判断があって諸手続きを経て執行可能で遷都先の江戸に財政を調査させ計画性があって遷都する事は当然です。財政難は考えられないのです。無けれ後で詔勅して遷都する事です。判断の遣り直しが出来る」仕組みです。
判断があって内部手続き及び詔勅を京都、江戸庶民に周知と説得させる事が今後の「政を行う上でスムーズに」行えます。また、戦後が日本国憲法制定下で、「首都建設法で東京を首都とする定めた後で廃案」とし「首都整備法を制定して」今日に至る一連の流れは「憲法上の不備があったので」制定させた後から改めて法律制定したと、誰もが思います。当時や現在も法治国家に於いて遷都の法律の定めは無い(150年も)」のです。何も無い(法律、その後の詔勅を含め)処に「拡大解釈も慣習も奠都もなし崩し論議は」ご座居ません。首都と周知させた現場は学校でした。
法治国家の手順を踏んで改めて法律を定める事が肝要です。通常の憲法改正は「時代に見合った内容とは、制度や不具合さ」を考えて、太平洋戦争の遺訓、知覧で検閲され無い遺志は「次の日本人の為に残す、二度と戦争を行わない将来を期す」と言われた言葉が染み渡ります。平和の無い社会に基本的人権や国民主権も無い事は確かです。
また、疑問点の内容等の欠礼や行き違い等々の切はご容赦下さいませ。本所亀沢町6代末孫
明暦の大火で焼け落ちた江戸城は、間もなく再建されます。しかし、天守閣だけは失われたままでした。幕府が天守閣を再建しなかった理由を見ていきます。
◎城下町の復興を優先
当初、江戸城の再建計画には天守閣も含まれていました。皇居東御苑の本丸跡地には、天守閣の土台にするために造った石垣が残っています。
◎しかし、天守を建てる段階になって、復興の指揮を執っていた会津藩主の保科正之(ほしなまさゆき)が、工事の中止を進言しました。財源が不足していたことと、天守閣の必要性がなくなったことが理由です。
◎そもそも天守閣は、城主の軍事力や権力を象徴するためのものです。しかし、当時の日本は、すでに戦のない世になっており、将軍があえて軍事力を見せつける必要もありませんでした。
◎そこで正之は、なくても困らない天守閣の再建は後回しにして、城下町の復興を優先しようと考えたのです。以降も、天守閣の出番はなく、再建計画が浮上することもありませんでした
六代将軍の時に再建計画が持ち上がり図面が作られたが中止されてます。
今回も知らないものがたくさん出てきて、勉強になりました。特に大山巌像は、えっと思いました。戦後すぐに「銅像の戦犯裁判」というのが行われ、有名な広瀬中佐・杉野兵曹長の像(万世橋)、東郷元帥像をはじめ軍人姿の像はすべて撤去されました。一方、西郷隆盛像は浴衣姿だからよい、楠木正成像は芸術品だからよい、とか大村益次郎像などもぎりぎり助かったなど、助けるのに随分苦労したとの話。調べてみると、大山巌像は、戦争中に金属供出で撤去され、戦後になって東京芸大に「横倒しになっている」ところが発見されたとのこと。つまり結果的に隠された形になっていた、ということなのでしょうか。銅像にも歴史があるなあと改めて思いました。
銅像がどうやって現代に存続されたのか、経緯をたどったら、新しい歴史が見えてきそうですね!
日本以外においても、宗教改革で聖人像が壊されたり、体制転換で権力者の像が撤去されたりというのは、シンボリックに行われていますし。
さりげなく九段に置かれている大山巌像にも、様々か経緯があったんですねぇ…✨貴重な情報をありがとうございます。
しかし、浴衣姿だからOKって…😂😂そんな理由で良いのでしょうか(笑)
@@tokyo_historical_walk 実はRUclipsでも「銅像の戦犯裁判」という当時のニュース映画が見られるのですが、その中では、西郷隆盛像は美術的価値があるからOKとされていました。ところが、そのニュースの最後に「山縣元帥と大山元帥の銅像については慎重に検討しています」とあり、あれ、大山元帥の銅像はいくつもあったのか??と謎が新たには発生しているところです。簡単ではありませんね。
びっくりです!!
大村益次郎はさっさと鋳つぶしてしまって欲しかったですね。上野戦争で寛永寺に掲げられていた東山天皇の勅額を灰にした国賊ですからね。
駿府城にも遊びに来てください。
駿府城や久能山東照宮など、静岡の家康ゆかりの地行ってみたいです〜〜✨
ここら辺の風景は10年前とほとんど変わってませんねぇ。😁
東京都内でも皇居周りは本当に時間が止まっているように感じますね。
夜の清水門付近なんて、本当にタイムスリップしてしまったのかと思うほどです!ガッツリ入り込んでみたいものです…(きっと許可されないでしょうけれど、、、😂)
北の丸公園を歩きましたら東京には似つかわしくない緑の自然がありました。
北の丸公園、びっくりするほど自然豊かですよね〜〜!吹上御苑はどうなっているんだろう…と、いつも妄想しております(笑)
焼失前の天守、本丸御殿図面が有るのに木造復元しないのは勿体無い。
皇居を歩くといつも思うのが、城内の建物、例えば本丸御殿や大奥など、明治になってどのように消えていったのか、です。櫓や門は残っているのに。建物の遺構は取り壊され、何処にも残っていないのかなぁとか思います。
北の丸は今でもよく散歩します。
皇居の建物は実は、明治にたどり着くまえに焼失しているケースが多いんですよね…。本丸御殿(大奥を含む)は1863年に焼失、その後は本丸機能を西の丸に移したそうです。
ちなみに城郭御殿は全国でも4カ所(川越・高知・二条城・掛川)しか残ってないので、なかなか希少ですよ〜〜
@@tokyo_historical_walk ありがとうございます。川越、高知、二条城は行きましたので掛川に今度行ってきます!
@@コタロウ犬の主人 さま、フットワーク軽くてうらやましいですーー🥰私も掛川だけ行ったことないので、お出かけになられたらぜひ感想聞かせてくださいませ🙏
@@tokyo_historical_walk 承知しました!いま伝通院に行ってきました。浪士組がここに集まっていたと思うとグッときました。
@@コタロウ犬の主人 さま、ありがとうございます🙏
今日は雨は大丈夫でしたか??
伝通院、なんだか妄想のふくらむ場所ですよね〜〜✨
靖国神社の大鳥居と大村像の辺りに一時期競馬場だった写真を観た事があります
詳細はわかりませんが気になったのでご存知でしたら教えて下さい
コメントありがとうございます。
靖国神社の競馬場は1869年、奉納競馬を開催するために、日本初の西洋式の競馬場として設けられたものです。(1898年まで存続)
大村益次郎像が設置されて以降は、その周囲を回るようなコースだったそうですよ!
ちなみにですが同じ時期、上野の不忍池の周囲や、皇居の吹上御苑内にも競馬のコースがありました。
今とは全然違う使われ方で、びっくりしますよね〜!