淡路島の諭鶴羽山

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  • Опубликовано: 16 сен 2024
  • 仁徳天皇は淡路島行幸の時に、現在の大阪市方面を見たという説がありますが、実際に諭鶴羽山頂へ登ってみると、だいぶ違う印象がありました。今回は、ナポ説検証の為に諭鶴羽山へ登ってきましたが、古代も感じたし、江戸時代も感じることができました。撮影は24年2月ごろだったと思います。

Комментарии • 2

  • @森岩光
    @森岩光 22 дня назад

    灘地域は
    【平家の落人村】として
    古来有名な地域。
    (淡路島には他にも
    平家の落人村伝承地域が多数有ります)
    有る意味、陸の孤島で、
    正式に【僻地指定】されている地域でもあります。
    少し昔まで
    果実を頭籠に入れてはるばる険しい山野を越えて
    須本(洲本)の城下町等に
    行商する姿が
    有る意味風物詩でした。

  • @森岩光
    @森岩光 22 дня назад

    地質学的に
    淡路島と沼島の間には
    日本最大の活断層帯の
    日本構造線。
    が走っていて
    意外に海底は深く
    急峻な谷状の地形。
    諭鶴羽山系が海から急峻に立ち上がって
    居るのも
    日本構造線の成せる業。
    当然ながら
    淡路島側と沼島では地質が全く異なります。
    紀元1世紀末に
    徐福の九州の子孫、
    物部王家が大挙して
    内乱に明け暮れ
    ぐちゃぐちゃで
    ダメダメな
    大和王国(海王朝。いわゆる神武~孝霊迄)
    の孝霊朝に進攻した。
    (神武東征神話の緒戦~大和入り。
    崇神の行で疫病蔓延は
    物部が大和入りして宗教戦争となり混迷を究めたのを疫病に誤魔化し化ける等)
    物部の本隊は土佐に一旦駐留して
    事前工作、謀略を巡らせました。
    その撒き餌に
    但馬勢を唆して播磨に進攻させ、
    それを追って出雲王国軍と大和王国孝霊天皇(桃太郎)軍が播磨に進駐して反撃。
    但馬軍は多勢に無勢の劣勢となり
    播磨灘に追い詰められて
    堪らずに人セキ疎らだった淡路島に逃避した事で一応の終結を見た。
    出雲王国軍は戦役を果たして帰国。
    しかし、孝霊天皇軍はPKOを唱えて播磨に張り付き半ば占領状態に置いた。
    主力の孝霊天皇家軍が播磨に張り付いたのを確認した
    物部軍は
    土佐から海路、紀伊水道を北上して
    淡路島南の沼島から東へ転梶して
    (現在より数メートル~十数メートル海面が高かった時代)
    紀ノ川を遡上して
    紀ノ川南岸の橋本市に着陣。
    すると、事前情報から待ち構えていた
    大和王国海王朝の
    大彦(皇太子)が先陣に立った事で
    ぐちゃぐちゃの内乱は一旦お休み~大同団結して
    激しい迎撃をしてきた。
    押し戻された
    物部軍は再び海に浮かび(多分、淡路島(洲本(古くは須本))に上陸して態勢を建て直したか。洲本には物部郷が広がり、最奥の千草(チクサは千軍。大軍の意味))には
    祖の徐福をスサノオと祀る千草神社(式内社)
    この頃から淡路島は物部が橋頭堡(前線基地)化して
    大和~全国制覇の足掛かりにしたのでは?
    鉄器工房の稼働時代と見事にオーバーラップしていますから。
    この記憶から
    淡路島が国生み(全国侵略、制覇へ)の島
    とされたのでは?