Размер видео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показать панель управления
Автовоспроизведение
Автоповтор
教育の中で徳川幕府を西洋における封建制度のように捉え、明治維新を日本における民主革命のような表現がありますが、現実はだいぶ違いますよね。議会とまでは言いませんが、必ずしも将軍家の意向だけでは動けない合議制みたいなものがあって、かなり緻密な政治が行われていたようです。明治以降の文明開化の世の中も日本が列強の植民地にならないために徳川幕府が欧州に使節を送り国際法を学ばせたから成し得た事だと思います。徳川慶喜に至るまで国民の安寧を第一とする徳川幕府の精神こそが日本を繁栄せしめたと思っています。
それに比べて今の政治のだらしなさ。自分の自己保身、利権誘導にばかり固執する。これじぁあ、国は遅かれ早かれなくなるよ。
相変わらず無声映画の弁士のごとくリアル感のある話声で感化できます大河ドラマもここら辺の事は話として出すのかな万民のための政治の家康を
小名木先生、今日も素晴らしいお話を有難うございました!学生の頃日本史を取りましたが起きた事象を暗記するばかりでちっとも楽しく有りませんでした。次回のお話も心から楽しみにしております❣️🙇♀️
佐渡金山の世界遺産登録問題が世間をにぎわしていますが、今回の話を聞いて江戸時代の貴重な金山の発掘と江戸の繁栄に使われていたことが分かりました。 家康公の思慮深さがただの戦国武将ではないことがよくわかりました。 戦国時代の終わりに信長・秀吉・家康と3人が出現したことが奇跡ですね。
ぬ
完全に徳川家康公の印象が変わりました。やはり260年もの間戦のない平和な時代が続くという事にはしっかりとした理由があるのですね。今日は目からウロコがボロボロ落ちました!ありがとうございました!
小名木先生 お勤めご苦労様です。私は、家康生誕の地で暮らす者として本当に感動しました。いつも、分りやすい解説で感謝して折ります 誠に有り難う御座いました。🙇🏻😊
徳川家康公がどうやって江戸城を築いたのか初めて知りました。何にもない湿地帯に今の東京の元になる江戸城や町を自前で作ったってすごいなと思います。そしてそれが300年も続いたのですから家康公の太平の世の理念は本物だったと言うことですね。
街を作る・・いわゆる都市整備は 家康は自腹を切らずに ほかの大名にさせた・・この事実を言わないのは なんでやねん?
秩父の豪族を叩いた後、川を利用し、下り江戸に戻るまでは理解しました。しかし、その後船を乗り換えて、坂東市、春日部市の豪族を叩くには川を上るので不可能です。
船で川を登っていくのは不可能だと思います。
小名木先生素晴らしい日本武将の講義をありがとうございます。徳川家康将軍は人、物、金のの良き時代創り同様現代の地球世界宇宙平和になるよう祈ります。🙏⛩😊😃😍🤣
関東の河川に運河を通すという思考が、現代の首都高環状線、外環道、圏央道と同じ発想だなと思いました。しかも現代よりもかなり迅速に開通しています!!話を聞いていて本当に400年以上前の話なのかな?と思ってしまうくらい現代に通ずるなと感じました。やはり根っこの部分は今も昔も変わらないものなのですね。小名木先生、今回もありがとうございました。
霞ヶ関の役人と政治家に聞かせたい。特に財務省。
それこそ「猫に小判」では?🤭
権力に弱いからね。 今は、アメリカ。だから、トランプ大統領になれば言うことを聞いて、善政が行われるかも。
徳川の川を使って地方豪族を叩くに、違和感がありました。秩父の豪族を叩く。川を利用して江戸に戻る。川を下るので、ここまではわかる。そして川を乗り変えて、坂東市、春日部市の豪族を叩くとなれば川を登って行かないといけないので不可能です。
毎回、話が面白く、しかもラジオ的にきけたりするので凄く助かります!今後も配信宜しくお願いします。
小名木先生の教科書的歴史の見直し解釈にいつも感心・感動・納得させてもらっています。私はいつも何故か秀吉勢に感情移入しがちで、家康がいまいましく感じるのですが、家康や江戸幕府が日本にもたらした安定平和文化精神は多大なものがあったのだと改めて勉強させられる日々です。 今回の解説のような家康像を描いた映画やドラマをどこかでやってほしいなと思いました。
黒沢明監督の【影武者】が面白かったです。 西田敏行が好演しています。
船で川を登るのは不可能かと思いますが??
なんでGOODボタンは一回しか押せないんだろ😢800兆回押したい講義でした✌
小名木先生良い話を有り難う御座いました。徳川家康公の考えを初めて知り感動しました。世の中の為、平和な国にするための国造りに国策にお金を使った。この話を聞くのに他の目的で見ていて、感動しました。
家康の旗印は、【遠離穢土、欣求浄土】と聞いたことがあります。 意見が合ったのが光秀なのかな。後の天海僧正が光秀ならぱ、整合性がとれる気がします。
船で川を登るのが不可能だと思いますが?
とても勉強になりました。徳川家康公は大好きで、山岡荘八さんの小説にハマっているのですが、先生のお話はとても分かりやすくて、ありがたいです。徳川家康は偉大な人だったのだなあと、さらに深く感じ入りました。ところで、江戸の町を造り上げて行くに当たっては、きっと大勢の職人さんや人夫さん達が事故で亡くなった事でしょうね・・・😢
むすび大学、大好きです!いつも、勉強させていただき、本当にあありがとうございます
銀座で埋め立てをしてあった事は知っておりました。子供の頃ビルを建て地下2階まで掘ったのですが砂が出てきました。ちょうど電通通りの所で江戸時代は川になっていて虎王丸という船をもち船宿をやっていたそうです。明治生まれの祖父の兄弟が父に話 手紙を下さり私も読みました。子供の時の地下を掘った時 砂の中から銅銭が出てきてもらった覚えがあります。徳川260年前が干潟だったのでしょうが泥沼かは疑問です。ありがとうございます。
面白すぎますね。。小名木さん、ありがとうございました。
小名木先生ありがとう🙏❗徳川家康公を誤解をしていました❗日本人って素敵で格好良い👍ですね。💖先生いつもお話しありがとうございます🙇❗❗❗😄
さすが家康公、さすがですね~まさに江戸時代。佐渡金山の世界遺産登録に俄然興味が沸きました。
これまで戦国武将を武士・戦略家の方向としてしか見ていなかったですが、政治家としてみると大変面白いものですね。いままでの徳川家康のイメージが覆りました。大変興味深いお話ありがとうございます。
大変いいお話ありがとうございました。
日本人であることに感謝と誇りを感じます!(>_
今回の江戸の開拓の話を聞いて、神武天皇から始まる奈良盆地の湿地開拓と、徳川家康による江戸開拓は、その政治的状況、技術的な課題と対処など共通するものがあるように思えました。さらに江戸の開拓を通して、奈良盆地に現れた大和政権の意図や課題、その解決を考えるヒントになりそうだと思いました。たとえば、家康が江戸でやったように、古代では誰も利用していない奈良湖の開拓により、平和的に日本統一のための拠点を作ったのかもしれない。海ではなく内陸の河川を張り巡らせることで、常時周りの地域への軍事的なにらみと通商の確保をすることも、江戸の河川造設と、奈良での直線が多いおそらく人工的に作った河川の利用と類似しています。また、家康により大阪の通商独占を脱したように、大和王権はおそらく当時は北九州にあった通商の拠点を東の近畿に移したこと。また、それぞれの地方を治め、治水や税管理などを行う領主の拠点として、古墳と城も共通点があると思いました。
もっと色々聴きたいですねー楽しみにしてます☺️
歴史は難しくて苦手なんですが、めちゃくちゃ面白くわかりやすいので勉強になります!
三河民として、楽しく拝見させていただきました😁
勉強になりました。国を治めるのは武力ではなくて経済力だと言うことが改めてわかりますね。所で徳川幕府は多くの人材を見いだし、育てていると聞いています。この辺りのお話もしていただけたら幸いです。
勉強になったと同時に、更に家康さんを好きになりました。ありがとうございました。☺️💕
政治、まつりごとは土木が基本ということですよね。最近では田中角栄さんですが、それ以降は霞ヶ関のコンクリートでなにも出来てませんね。
来年の大河ドラマの主人公ですよね!勉強になりました、ありがとうございます‼︎
戦火を渡り歩いた将軍の様な人材が明治まで居てくだされば、国は貧乏になることはなかったでしょう。幸せな江戸時代が長く続き、国民は既に変わっていたのでしょうか。そう思えます。西洋に銀山を掘らせた明治時代等、何を考えていたのか。私達が精神的に戻るべき時代は1600年かも知れません。いつも楽しく拝見しています。素晴らしい配信をありがとうございます❢
永きに渡る平和や安寧は、一朝一夕では出来ないですネ!徳川家康公流石!
沖縄県民としては琉球史もやってほしい
小名木善行先生江戸が成り立った経緯勉強になりました‼️ありがとうございます誇りある国士明るく笑いのある国家を目指そう‼️強い軍事力が平和維持する要です‼️誇りある国士を目指そう‼️
すみませんが金北山から金は採れてません。佐渡金山は相川にあります。
流石徳川家康公!明治以降堕落してきた日本ですが、是非現在の政治屋さんたちも家康公を見習って欲しいものですね!🤩
甲州金(こうしゅうきん)※武田氏滅亡後の甲斐国は徳川氏、豊臣系大名時代を経て再び幕府直轄領となるが、徳川氏時代には大久保長安が金座支配と金山支配を一任され、松木五郎兵衛が金座役人に再任し、長安が佐渡島から招いた金工が甲府へ移住し鋳造が行われ、「松木」の極印が施されていたという。※江戸の治水、江戸、駿府、名古屋、久能山、等々。完成は関ケ原後である。家康が江戸の工事を理由に朝鮮出兵を辞退し、また蓄財をして政治活動に利用し、お金がながれたのは黒田長政、細川忠興、他、著名な大名は多数。蓄財癖と奢侈を嫌う傾向は、家臣団含めてすでに三河の一領主になる前からエピソードが多い。黒川金山の甲州金でつなぎ、佐渡金山で大大的に工事。領地になってのち佐渡から招いた金工との繋がりで佐渡の金山開発を進める。※慶長6年(1601年)徳川家康の所領となる。同年、北山(ほくさん)(金北山)で金脈が発見されて以来、江戸時代を通して江戸幕府の重要な財源となった。江戸時代初期、元和から寛永年間にかけての最盛期には金が1年間に400 kg以上算出されたと推定され[1]、銀は1年間に1万貫(37.5 トン)幕府に納められたとの記録がある。当時としては世界最大級[2]の金山であり、産銀についても日本有数のものであり江戸幕府による慶長金銀の材料を供給する重要な鉱山であった。なかでも相川鉱山は、江戸幕府が直轄地として経営し、大量の金銀を産出した佐渡鉱山の中心であった。※江戸城は1457年に麹町台地の東端に、扇谷上杉家の家臣太田道灌が築いた平山城である。1590年に徳川家康が江戸城に入城した後は徳川家の居城となり、江戸幕府が開幕すると、大規模な拡張工事が、特に慶長期のおよそ10年の間に集中的に行われ、またその後も2度ほど拡張工事が行われ、総構周囲約4里[と、日本最大の面積の城郭になった[5]。およそ260年にわたり、幕府の政庁、15代におよぶ徳川将軍およびその家臣団が政務を行う場所となった。※佐渡金山開発のスピードが速すぎる。調査も含めて内々に意向をうけて進めていたということか。日本で初めて体系的に整備された貨幣制度、およびそれに用いられた金貨である。戦国時代に武田氏の領国甲斐国などで流通していたと言われ、江戸時代の文政年間まで鋳造されていた。近世には武田晴信(信玄)の遺制とされ、大小切税法(だいしょうぎりぜいほう)、甲州枡(こうしゅうます)と併せて甲州三法と呼ばれている。戦国期の甲斐金山と甲州金甲州金の起源は不明であるが、『甲斐国志』に拠れば戦国期に都留郡を除く国中三郡で流通していた領国貨幣で、山下・志村・野中・松木の四氏が金座役人として鋳造を行い、碁石金や露金、太鼓判、板金、蛭藻金などの形態が存在していたという。戦国期の甲斐国・武田領国では黒川金山や湯之奥金山などの金山が存在し、採掘された金が灰吹法により精錬され製造されていたと考えられている。初見史料は三条西実隆『実隆公記』永正3年(1506年)8月22日条で、武田氏と推定される甲斐国某が実隆から源氏物語写本を所望され、黄金5枚を支払っている。以来、信虎・晴信(信玄)・勝頼期に渡り黄金に関する史料が見られ、交換・支払手段、寺社への贈答、軍事目的などの用途で使われている。「開山国師真前奉物子母銭帳」(国文学研究資料館所蔵臨川寺文書)は天文13年(1544年)に恵林寺から京都臨川寺に上納された甲州金と考えられる記述を含む点が注目されている。武田氏滅亡後の甲斐国は徳川氏、豊臣系大名時代を経て再び幕府直轄領となるが、徳川氏時代には大久保長安が金座支配と金山支配を一任され、松木五郎兵衛が金座役人に再任し、長安が佐渡島から招いた金工が甲府へ移住し鋳造が行われ、「松木」の極印が施されていたという。制度としての甲州金戦国期には、各地の大名が金貨を鋳造したが、それらは重さで価値を計る秤量貨幣であった。それに対して甲州金は、金貨に打刻された額面で価値が決まる計数貨幣である。甲州金で用いられた貨幣の単位は以下の通りで、4進法・2進法が採用されていた。両(りょう)分(ぶ、1/4両)朱(しゅ、1/4分)朱中(しゅなか、1/2朱)糸目(いとめ、1/2朱中)小糸目(こいとめ、1/2糸目)小糸目中(こいとめなか、1/2小糸目)この体系のうち、両・分・朱は江戸幕府に引き継がれる。「金に糸目をつけない」の糸目とは、この甲州金の通貨単位に由来する。すなわち僅かなお金は気に留めないということである[要出典]。(通常は、「糸目」とは、凧につける糸のことであり、それを付けないとは、凧の動きを制限しないように、物事に制限をしないことをいうと説明される[7]。)額面は重量に比例するように打刻され、一両(露一両金・駒一両金)・一分金・二朱金・一朱金・朱中金・糸目金など切りの良い単位だけでなく、古甲金では二分一朱金(1/2+1/16=9/16両)・一分朱中糸目金(1/4+1/32+1/64=19/64両)など中途半端な値をそのまま打刻したものもあった。金貨としての甲州金甲州金は、武田氏の作った地方通貨であったが、江戸時代になってからも文政年間まで甲府の金座で鋳造されていた。このため、おおよそ江戸時代以前に鋳造されたものを古甲金と呼び、それ以後のものは新甲金と呼んで区別する。鋳造された金貨の種類は露一両(つゆいちりょう)駒一両(こまいちりょう)甲安金(こうやすきん)甲重金(こうしげきん)甲定金(こうさだきん)甲安今吹金(こうやすいまぶききん)などがある文化7年(1810年)には幕臣の近藤重蔵(守重、正斎)が『金銀図録』を現し、甲州金や越後国で算出された金貨・銀貨543品を図版で紹介している[8]。
大変勉強になりました。😀
常に「日本をかっこよく」というコトをおっしゃっていて、自分の中にある日本人としての誇りみたいなものを思い出させてくれる感じがします自分もかっこいい日本はもっと磨いていき、ここは改善すべきかなという日本はどうしていくのが日本にとって良いのかを考えていくようにしていければと思っており、その助けとなるチャンネルがこちらのむすび大学チャンネルなのではないかと感じていますいつもありがとうございます引き続きよろしくお願いいたします
徳川家が大好きなので、織田、秀吉、浅井三姉妹関連のお話しを聞けてとても勉強になります。
素晴らしい!拍手喝采です。家康公の功績は随一です。東京、関東の誇りです。
素晴らしいお話をありがとうございました😊
徳川家康の財宝 800兆円ビルゲイツの財宝 8兆円
ぐぅの音も出ませんでした。素晴らしい講義をありがとうございました。
講義ありがとうございます。
いつも興味深く視聴させていただいております、ありがとうございます。ところで、佐渡の金山の地名ですが「新穂」は「にほ」ではなく「にいぼ」です。佐渡の地名は読み方が結構難しいものがありますね。
だから 家康様が大好きなんです💖
日本史が大好きになりました!
わかりやすくてとても聞きやすくて良い勉強にさせてもらってます。
働いた現場の名もない日本人が偉いんやで
素晴らしい‼~厭離穢土・欣求浄土の大願ですね。小山評定や三浦按針大分漂着等も含め、大局的処理が素晴らしいですよね‼~間違った歴史を正し続けて下さい。ありがとうございます。
どうして徳川家康が天下統一できたのか、疑問に思っていたのですがなんとなくわかった気がしますね。ありがとうございます。
今度の内容だけじゃ未だ、どうして天下を取れたのかは解らないと思いますよ、もっと研究を重ねて調べて見て
非常に興味深く視聴させていただきました。ありがとうございます。世界一の大都市東京=江戸の礎を築いたのが家康ですね。もし秀吉の大阪一極集中で続いたら現在の日本の姿は違ったものになったかもしれません。我国の起源から戦国時代まで、一時鎌倉時代がありますがほとんどが関西、九州そして東海地区が中心となっていますが、実際にはもっと関東から東北にもエポックメイキングがあったのではないかと妄想しております。神宮を名乗れるのは伊勢、香取、鹿島の三社であり香取は千葉、鹿島は茨城にあり、一番古い日本人の化石は東北で発見されたと聞きます。古代から戦国時代までの関東から東北の歴史や、明治天皇のすり替えに絡む遷都の話しなど取り上げて頂ければ幸いです。
話し → 話
江戸の町を作った財源がわからなかったのですが、なるほど納得です。
関東入植する家康が、これから、莫大な財源を必要とする、江戸城や江戸の町造り、まさにそのときに、天下一の佐渡金山が発見される、なんというタイミングなんでしょうか、素晴らしすぎますね。家康の天下安寧への思いの深さ、実現へと人生かけてきた行動の結果でしょうか!。為政者はこうあるべしですね。今の日本は国力低下、危機せまる国状、政治家、官僚こそ、眼をあけるべし、心を浄化すべし、家康に学んでください。
いつも楽しく聞いています。信長・秀吉・家康という順番って、日本にとっては非常に重要だったんだなと感じました。
いつー聞いてもーー話はー旨いしーーーよくわかるしーー素晴らしいでーーーすーーー感動していますーー🍁🍁🎉🎉🌸🌸
利根川東遷事業ー1(とねがわとうせんじぎょう)は、江戸時代初期に始められた利根川中下流の付け替えにかかわる河川改修を指す。概要利根川の大規模な河川改修の歴史は、徳川家康江戸入府(天正18年 1590年)後、徳川氏によって始められ現代に至るとされるが、時代によって多種の意図の変遷があった[* 1][* 2]。改修の目的は、水上交通網の整備などの利水面が先んじてあり、その中心は赤堀川の開削である。元和7年(1621年)の新川通開削と赤堀川の開削開始から[3]、承応3年(1654年)の赤堀川通水まで一連の工事が行われ、これにより分水嶺を越えて常陸川へ十分な量の水が流され、太平洋へ注ぐ銚子河口まで繋がる安定した江戸の水運が成立した。このため、江戸時代から大正時代までは、新川通の下流は、権現堂川から江戸川を経て東京湾へ至る流路と、赤堀川から常陸川を経て太平洋へ至る流路が存在していた[* 3]。また、利根川の治水システムは中条堤をその要としていたが、天明3年(1783年)の浅間山大噴火後、この治水システムの機能維持のための河川改修が行われ、江戸川への流量を減少させ赤堀川から常陸川(銚子方向)への流量を増加させた。明治時代に入り足尾鉱毒事件の発生により、さらに銚子方向への流量比を高める大規模改修が始まった[4]。そして、明治43年(1910年)の大水害で中条堤を要とした利根川の治水システムは崩壊、洪水時下流への流量が増加したため江戸川への流入制限が強化され、結果「東遷」が確定、昭和3年(1928年)には権現堂川が廃され、江戸川は赤堀川から常陸川への流路を本流とする利根川の支流となった[5]。これらにより、利根川本流は銚子を通って太平洋に注ぐことになり、関東平野の自然地理的状況は人の手によって大きく変えられた[6]。歴史利根川は現在の荒川の流路を通り東京湾に注いでいたが、およそ3000年前の縄文時代後期に途中の河道を変え、現在の熊谷市・鴻巣市付近から東へ向かい、分流しながら渡良瀬川の流路地帯(加須から越谷)へ向かって流れるようになった[7]。利根川(および荒川)は分合流の変化が激しく、渡良瀬川にも合流した(合の川など)。 江戸時代以前までは、利根川と渡良瀬川とはほぼ平行して南流し東京湾(江戸の内海)へ注ぎ、河口も異なっていた。利根川本流は、一旦、会の川および浅間川の主要分流となり、加須市川口で合流後は、現在の古利根川・中川・隅田川の流路で東京湾に注いだ。ただし武蔵国北部では細かく乱流し、綾瀬川や荒川とも合・分流していた。渡良瀬川の下流部は久喜市栗橋付近は権現堂川、それより下流は太日川(ふといがわ)(ほぼ現在の江戸川の流路)と呼ばれていた。徳川家康江戸入府後、利根川主要分流の河道を付け替える工事が始まった。文禄3年(1594年)に会の川を締め切り、元和7年(1621年)には浅間川を締め切り新川通を開削し、利根川の中流を一本化し加須市旗井(久喜市栗橋の北1キロメートル)で渡良瀬川に接続した。これにより、渡良瀬川は利根川の支流となり、権現堂川・太日川は利根川の下流の位置付けとなった。またそれまでの利根川の下流は、上流から切り離された形となり古利根川と呼ばれ、その河口は中川と呼ばれた。さらに、承応3年(1654年)に古河市中田(栗橋の対岸)付近から分水嶺を越えて赤堀川を開削する工事を行い香取海(銚子河口・太平洋)に通じる河道を開いた。これにより、江戸時代から大正時代までは、利根川の下流は、権現堂川から江戸川を経て東京湾へ至る流路と、赤堀川から常陸川を経て太平洋へ至る流路が存在し、二つの流路は逆川を介して関宿でもつながっていた。そして次第に常陸川への流路の方に比重が移り、昭和3年(1928年)に権現堂川が廃され、赤堀川・常陸川の流路のみ残り、江戸川はその支流となった。江戸時代前期天正18年(1590年)8月朔日徳川家康は江戸に入った、そこには荒れ果てた江戸城があり、茅葺の家が100軒ばかり大手門の北寄りにあった。城の東には低地があり街区の町割をしたならば10町足らず、しかも海水がさしこむ茅原であった。西南の台地はカヤやススキの野原がどこまでも続き武蔵野につらなった。城の南は日比谷の入り江で、沖合に点々と砂州があらわれていた[* 4]。それから20年を経て慶長14年(1609年)に訪れたドン・ロドリゴの記すところによれば、はやくも江戸の人口は15万となり京都の半分くらいであったという[8]。この発展を続ける江戸の町の消費需要をまかなうためには、利根川の水運をはじめとする物流路の整備が不可欠であった。家康は伊奈忠次を関東郡代に任じ、関東周辺の河川改修にあたらせた。以後、忠治、忠克と伊奈氏3代により、利根川の常陸川河道(銚子河口)への通水が行われた。東遷事業の開始近世初頭の利根川の東遷事業は、かつては文禄3年(1594年)に新郷(現・羽生市)で会の川を締め切った工事に始まったといわれていた[3]。しかし、近年の研究では、締め切りは忍領の水害対策であり、東遷事業のはじまりは、27年後の元和7年(1621年)とされている[3]。会の川の締め切り文禄3年(1594年)に羽生領上川俣にて会の川の締め切りがおこなわれた。忍城の城主であった松平忠吉が家来の小笠原三郎左衛門に命じ、工事が行われたといわれるが、関東郡代伊奈忠治との連絡のもと進められたとも推測されている [9]。備前堤(綾瀬川流域)の開発慶長年間(1596年-1615年)には、備前堤が築造され、綾瀬川が荒川から切り離され、綾瀬川流域の低湿地の開発と綾瀬川自身を流域の用水源としたという[10][* 5]。小名木川と新川の開削行徳塩田と隅田川を結ぶため、天正18年(1590年)に小名木川を、寛永6年(1629年)に新川を開削し、江戸川下流部と江戸の町をつなぐ水運路を整備した。利根川と渡良瀬川の河川整理元和7年(1621年)、浅間川の締め切りと、新川通の開削、および権現堂川の拡幅が行われ、同時に赤堀川の掘削が始められた[3]。利根川と渡良瀬川が合流し権現堂川・太日川がその下流となった。なお太日川はほぼ現在の江戸川だが全く同じではない。現在の江戸川の上流部は寛永18年(1641年)に開削した人工河川であり、下流部も人工河川とみる説もある。寛永期の河川整理寛永6年(1629年)、荒川の西遷が行われた。熊谷市久下で荒川を締め切り和田吉野川・市野川を経由し入間川に付け、荒川の下流は隅田川となり旧流路は元荒川となった。同じく寛永6年(1629年)、鬼怒川[* 6]を小貝川と分離し板戸井の台地を4キロメートルにわたって開削し常陸川に合流させ、合流点を約30キロメートル上流に移動した。翌寛永7年(1630年)に、布佐・布川間を開削し、常陸川を南流させ、また戸田井・羽根野を開削し小貝川も南流させ常陸川の狭窄部のすぐ上流に合流点を付け替えた。赤堀川の掘削新川通の開削や権現堂川の拡幅とともに元和7年(1621年)に掘削が始められた赤堀川は、太平洋への分水嶺を越える水路を開削するものであり、その目的は利根川の水を香取海へ注ぐ常陸川へ流し、太平洋へ注ぐ銚子河口まで繋がる水運を整備することだった。しかし、台地を掘削するために難工事となり、寛永12年(1635年)の工事も含めて2度失敗している。承応3年(1654年)、3度目の赤堀川掘削工事により渇水期も常時通水に成功、これにより銚子河口まで繋がる江戸の水運が成立した[11]。この時の赤堀川の川幅は10間(18メートル)程度と狭く、利根川の洪水を流下させる機能はなかった。
疑問点があります。家康の江戸城と太田道灌の江戸城との位置関係はどうなっていますか?双方湿地帯にあったとするなら、道灌も家康と同じ考えて築城したのでしょうか?
太田道灌の江戸城は後の家康の江戸城の本丸の辺りだと思います。しかし、天下人「豊臣秀吉」と同等の力を持って居る「徳川家康」と、関東管領「山内上杉家」の分家的存在となっていた「扇谷(おうぎがやつ)上杉家」の家臣「太田道灌」が、同じ考えて築城していた筈は在りませんよ。
馬鹿に独裁は回せない。結局、ちゃんと回った独裁の実例は、日本にあったということか…。
家康の調整能力は図抜けている。すぐに動くのではなく話し合いを好む。だから長生きした。動かないリーダーの方が、出世するのかもしれない。あの時代は長生きしたもの勝ち。
自分の妄想で申し訳ありません。関東の開発はの軍資金(資本)は秀吉が出してるのではないかと思ってます。もちろん秀吉本人が言い出しっぺだし関東の地質的、立地的状況は知ってると想像出来ます。歴史は秀吉から遠い地へ左遷とい言ってますが、むしろ京や大阪と離れた場所に家康に何かを作って欲しかったのではないかと妄想してます。その自分的根拠は秀吉と家康は実は凄い仲が良く、信頼関係があったという前提なんですけどね(笑)。あ~妄想が膨らむw
ゲームの信長の野望で佐渡ヶ島に金山、銀山出てきますね、そういう事だったとは勉強になりました。ですが、なぜ大坂の陣になったのか気になります。
山岡荘八氏の「徳川家康」を読んで、家康ファンでありましたが、小名木先生のお話を聴いてもっと深く尊敬できるようになりました。でも大量の金、どこに消えたのでしょうか。ハリスですか?
徳川埋蔵金の噂が生まれたのも、佐渡金山で得た莫大な富が残っているはずという願望から来てるんだと分かりました。
今回も貴重なお話、、お勉強に成りました、 志村の里の、、、嬬恋次郎
話が上手過ぎて、わかりやすい👌
いつもありがとうございます。日本が長い間平和だったのは家康のおかげですよね!
小名木川。勉強になりましたww
小田原攻めの時に、家康の領国は三河だけではない。駿遠に甲斐も領有する大大名。今の江戸城の大半は、江戸幕府が外様大名の金と労力で作らせた。江戸湾の最奥部の海が荒れるのはめったにないだろう。運河を掘ったには時間と労力の節約。佐渡にも行ったし金北山にも登ったが、金山は海岸べりの相川。金北山ではない。実体験に基づかない間違いをこの御仁は数多くしている。講釈師、見てきたような嘘を言い
関ヶ原の戦いが、楽しく見えてくるお話でした。勉強になります。
素晴らしいお話を聞かせて頂きありがとうございます🍀
佐渡金山は平成元年まで採掘をしていたそうですが、金の総採掘量は約78t 銀 約2300tだったそうです❗️令和4年1月31日現在の金▪銀の販売価格は金1g当たり7348円、銀1g当たり94.71円です❗️それを計算すると、金はおよそ5700億円 銀はおよそ2180億円となり、金銀合わせて7880億円になります😄700兆円と言うのは、桁違いだった様ですね😣でも、どちらにしても多額の資金に違いなく家康様は偉い人に違いない大人物でした🤩今のセコイ野党の政治屋や秋篠宮家の人間とは大違いですね😣
西伊豆の土肥にも土肥金山がありますね。徳川家は金に恵まれていたんですね。
なんだかんだと言って、佐渡金山が家康がとったと仰っていますが、文献はどこにありますか??
独裁者が私利私欲のためにお金を独占していたら、260年も続くわけがない。納得です。
岸田や麻生のような愚物為政者にはとてもじゃないが真似出来ない賜物ですね!
現代に欲しい人物ですね
素晴らしいです。徳川家康のイメージが変わりました。その後の二百三十年ですか代を重ねるごとに平和ボケして最後の方では外国との不平等条約で家康の800兆円もあったと言われる黄金も流出してしまったんですね。今の政権と徳川政権末期の事を思うと日本人の個人資産が中国、アメリカ、ロシア他のくにから同じように狙われていることを思って政治政策をしているのだろうかと心配になります。これだけ民間の企業は業績が良いのにめちゃめちゃ外資ファンドに日本売りを仕掛けられて日本人の富が流出しているのは今となんだか重なります。
利根川東遷事業ー2河川整理と用水路開発とその後さらに、寛文5年(1665年)、権現堂川・江戸川と、赤堀川・常陸川をつなぐ逆川を開削、これにより銚子から常陸川を遡って関宿に至り、逆川から江戸川を下り新川・小名木川を通って江戸を結ぶ、用水路開発が加速した[11]。しかし、強引な水路の変更は様々な問題を引き起こした。水量の増大は皮肉にも利根川の土砂堆積による浅瀬の形成を促し、水量の少ない時期には船の通行を困難にした。特に関宿からの旧常陸川(現在の利根川下流域)では相馬郡小堀村、江戸川では松戸までの区間は浅瀬の被害が深刻で、この両区間では艀下船と呼ばれる小型船が積荷の一部を分載して自船の喫水を小さくすることで浅瀬との衝突を避けた。これにより小堀・松戸の両河岸には艀下船の河岸問屋が栄えた[12]。江戸時代中後期天明3年7月8日(1783年8月5日)に浅間山が大噴火し、火砕流と火砕泥流、および吾妻川と利根川の洪水が発生し死者1,000人超の大災害が起きた。河床は上昇し中条堤を中心とした治水システムは機能しなくなり、当時の土木技術では大規模な浚渫する抜本的な対策を取ることはできなかったため、江戸幕府は当面の対策として、酒巻・瀬戸井狭窄部下流右岸の堤防を徹底強化し赤堀川を拡幅、江戸川の流頭に棒出しと呼ばれる突堤を設け、18間(33メートル)を限度に川幅を狭め流入量の制限を行った。川幅を狭めた分流速が増し船の航行には不便になるが、洪水の流入を抑えるとともに、土砂流入を防ぎ浅瀬の形成を防止し、舟運機能はせめて確保したいという苦肉の策であった[5]。これにより行き場を失った水は、逆川から銚子方面へあふれ出し、現在の利根川下流域の水害を深刻化させることとなった。また、浅瀬の被害は深刻化し、艀下船を用いても通行が困難になる場合もあった[12]。パナマ運河工事の土量を越える、大規模な浚渫が実施され、浅間山大噴火の影響が利根川全域から取り除かれたのは、戦後も高度成長期以降のことである。明治維新後明治初期に至るまで、利根川の本流は確定していなかったという。銚子方面から常陸川を遡り江戸川を下る内川江戸廻りの水運は、鉄道網が整備される以前の物流の大動脈であり、どちらの流路についても十分な水量を確保しなければならず一方を本流とするわけにはいかなかったことと、洪水の際には、なだらかな銚子方面に水を流すよりも、もともとの流路に近く、勾配もきつい江戸川方面に水を流すほうが理にかなっていたからである。しかし、明治10年(1877年)ごろから渡良瀬川流域において足尾鉱毒事件が発生することで状況が変化する。鉱毒事件は被害農民と警官隊による衝突や田中正造による明治天皇への直訴などの激しい抗議行動によって大きな社会問題となった。一方、政府としては日清戦争・日露戦争のさなかであり、銅の産出を止めることはできず、なおかつ江戸川を経由した人口密集地でもある東京や江戸川河口行徳の塩田への被害拡大は避けねばならなかった。そのため、明治31年(1898年)には、天明の浅間山大噴火後に設けた棒出しの幅を僅か9間(16.2メートル)にまで狭め、江戸川への流入制限を強化して銚子方面へと水を流す方針が固まったとされる[2]。また、その頃利根川下流の両岸は千葉県香取郡であったが、当時の千葉県の財政基盤は弱く利根川の治水事業に予算が割けなかった。そのために利根川の洪水が頻発してその水が当時直接利根川に面していなかった茨城県稲敷郡東部地域にも被害を及ぼした。そこで、明治18年(1885年)茨城県の政治家と千葉県でも利根川の恩恵を受けられない房総半島南部の政治家の間で茨城県の治水事業への財政負担と引換に利根川以北の香取郡を茨城県側に譲渡するという計画が立てられた。これには大須賀庸之助(香取郡長・衆議院議員)や地元住民が激しい抵抗を続けたが、明治32年(1899年)に香取郡北部の稲敷郡編入が行われて、国と千葉・茨城両県による改修工事計画が検討され、着手された。だが、明治維新以降、近代的なインフラ整備が進むにつれ、従来の氾濫を前提とした治水は成り立たなくなっていた。明治43年(1910年)の関東大水害の後中条堤を要としたそれまでの治水システムは破綻、すでに着手していた改修工事の改訂が迫られることになり、計画洪水流量の見直しや江戸川への分流量の増加など大きな変更を生んだ。そして江戸川へは棒出し(後・関宿水閘門)によって流入制限されたため、実際には銚子方面へあふれ出し結果「東遷」が確定、大正15年(1926年)には権現堂川が締め切られる。その後は利根川下流の水害激化に対応するため計画上は江戸川への分派率が引き上げられているが、実際には江戸川分派点の利根川本流側には堰や水門のような構造物がなんら造られてこなかったため、結果として洪水時の江戸川の分派率は計画の40パーセントに対し20パーセント程度にすぎない。利根川治水の眼目の一つが江戸川への分派量の問題であるが、その分派量を一方的に決めるとともに決められた分派率が実現されぬまま埼玉県側の堤防だけが強化され、利根川下流域の対策が後回しにされているというのが現状である[5]。1947年(昭和22年)9月、利根川流域をカスリーン台風が襲った。過去に例を見ない記録的な豪雨は戦前・戦中の乱伐による山林荒廃と相まって利根川流域に致命的な被害を与え、現在の埼玉県加須市、旧大利根町付近で堤防が決壊し濁流は埼玉県のみならず東京都足立区・葛飾区・江戸川区にまで達し、烏川流域、渡良瀬川流域はほぼ全域が浸水し利根川中流部はまたもや一面湖となった。死者・行方不明者は利根川流域だけで1,100名が死亡している[13]。カスリーン台風による甚大な被害にあった地域の対策を優先して進め、利根川下流域には田中・管生・稲戸井調整池(掘削し容量拡大工事中[14])の整備という形で、中条堤と同様に洪水を溢れさせる仕組みが設けられた。1987年(昭和62年)に建設省(現国土交通省)が対策事業として高規格堤防の建設を始め、利根川を含む5水系6河川区間約873kmの整備を対象とした[15]。第1号として利根川沿いの千葉県にも栄町に矢口スーパー堤防が完成したが、その後は2004年(平成16年)度より埼玉県と東京都への水害を予防するため首都圏氾濫区域堤防強化対策事業が進められ、海水がさしこむ茅原や海の入り江だった首都を、水害から守るための努力が続けられている[16]。
まさか数年後に、戦争が起こって苦しみ人々がいるなんて思わなかったですよね。時代とともに変わるのですね。日本は、それを学びました。戦後生まれですが。
江戸の発展は〈埋め立て〉抜きには語れない ー「江戸の土木」展②今回のテーマは「埋め立て」。江戸の発展は、常に埋め立てとともにあったと言っても言い過ぎではありません。まず天正18年(1590)の家康江戸入府から間もない時期に行われたのが、日比谷入江の埋め立てです。図のように、家康江戸入府直後の江戸は、「江戸前島」とも呼ばれる半島状の地形でした。ちょうど今の京橋、銀座一帯がその半島部分にあたります。現在の日比谷あたりは、日比谷入江と呼ばれ、内陸まで海が広がっていました(図版データ作成:筆者)。当時は平川が日比谷入江に注いでいたので、その流れを図のように架けかえてから、日比谷入江が埋め立てられたと考えられています。以降、さまざまな地域で海が埋め立てられ、新しい土地が造成されていきました。いくつか例を見てみましょう。築地築地は代表的な埋立地のひとつ。そもそも地名の由来も、「地を築く」というところから来ています。図は築地本願寺を、東の海上から眺めたもの。もともと本願寺は浅草にありましたが、明暦の大火で消失。元の土地には再建がゆるされず、八丁堀沖を埋め立てて土地を造成、延宝7年(1679)に再建されました。埋め立て工事は困難を極めたと言われています。佃島画像8を拡大表示こちらは、佃島を描いた広重「東都名所 佃嶋初郭公」。佃島も江戸初期に埋め立てでできた埋立地でした。本能寺の変の際に、家康を助けた摂津国佃村の漁師の森孫右衛門たちが、徳川幕府の開府後に江戸へと呼ばれます。家康は漁師たちに石川島の南の干潟と、付近での漁業権を与えます。漁師たちは自ら土地を埋め立て、10年以上の歳月をかけ、寛永21年(1644)に佃島が完成したと言われています。切絵図と照合すると、手前側が御用地の石川島、右奥の集落が佃島でしょうか。深川家康が江戸に入った直後、現在の江東区、江戸川区の南側は小島などが浮かぶ湿地帯だったと言われています。まず小名木川、新川という二つの運河が造成され、その南側に向かって埋め立てが進んでいくことになります(図版データ作成:筆者)。代表的な例として、深川八郎右衛門が中心となり、慶長(1596~1615)頃に埋め立てが進んだ深川村があります。上の図は広重「名所江戸百景 深川洲崎十万坪」。洲崎十万坪は深川の東のはずれに位置した埋立地で、享保8年(1723)から湿地を3年かけて埋め立てられました。図からは、広大な埋立地の雰囲気がよく伝わってきます。これは、十万坪のすぐ南西にあった深川木場ではないかと思われます。深川木場は木材の集積場で、元禄14年(1701)、日本橋付近にあった材木河岸を深川に移転して作られました。埋立地の広大な土地を利用し、図のように水路が張り巡らされ、火事になった際に燃え広がらないように工夫されていたようです。埋め立ては400年経った今も進行中天正18年(1590)、家康の江戸入府のすぐ後からはじまった埋め立て。特に江戸前期には、大規模な埋め立てによって、深川のような新興地もでき、江戸の町は大きく発展していきました。そして、家康の江戸入府から400年以上たった現在でも、東京湾の埋め立ては続けられています。近年では、埋め立てによって造成された晴海や豊洲が新興地として注目されるなど、その流れは今に続いているのです。文:渡邉 晃(太田記念美術館上席学芸員)広重も北斎も描いた「橋」第1回は「橋」。歌川広重も、葛飾北斎も、たくさんの橋の絵を残しています。江戸時代には、隅田川や日本橋川をはじめとした、大小さまざまな河川や水路に、高度な土木技術を駆使して、橋が架けられました。上は広重が描いた両国橋。広重は、橋をモチーフにした魅力的な作品を数多く残しています。図は空から眺めたような俯瞰の視点で、両国橋とその周囲の様子を詳細に描いています。拡大した図がこちら。両国橋は寛文2年(1661)隅田川で二番目に架けられた橋(架橋年代には他説あり)。橋の長さは約171メートルでした。ちなみに橋桁と橋桁の間のことを「側(かわ)」と呼びますが、浮世絵では側や橋桁の数を、実際より省略して描くことが多いようです。ゴッホが模写したことで知られる名品「名所江戸百景 大はしあたけの夕立」も、両国橋の少し下流に位置する新大橋がテーマです。人々が行き交う場所である橋を、突然の雨というシチュエーションと結びつけて、印象的な作品に仕上げています。新大橋は元禄6年(1694)、隅田川で三番目に架けられた橋。橋の長さは約197メートルでした。52日の突貫工事で建設されたと伝えられています。こちらは北斎が描いたシリーズ物「諸国名橋奇覧」のうち「かめゐど天神たいこばし」。橋をテーマとしたシリーズ物を出すあたり、北斎は橋の造形に興味があったのかも知れません。亀戸天神の太鼓橋は、図のように急な勾配で有名な橋でした。北斎はその美しいアーチを細部まで写し取っています。027 4847-2葛飾北斎を拡大表示なお北斎は名作「冨嶽三十六景」中でも、「御厩川岸より両国橋夕陽見」「深川万年橋下」「江戸日本橋」という橋を題材にした三点の作品を残しています。橋のうつりかわりを浮世絵で知る009 4497 歌川広重を拡大表示橋の長い歴史と、その移り変わりの様子が、浮世絵からうかがえる場合もあります。ここで紹介するのは、千住大橋を描いた2枚の絵。上は歌川広重「名所江戸百景 千住の大はし」。千住大橋は、家康の江戸入府の4年後にあたる、文禄3年(1594)に架橋された隅田川で最初の橋でした。土木の名手として知られた伊奈忠次が架橋を担当しましたが、その工事は苦難の連続であったそうです。また千住大橋は、江戸から明治に至るまで300年近く、流失がなかった名橋でもありました。しかし、明治18年(1885)、その名橋もついに最期を迎える時がきます。千住大橋を拡大表示図は二代歌川国明「千住大橋吾妻橋 洪水落橋之図」(個人蔵)。明治18年(1885)に起きた台風による洪水で水嵩が増し、上流から流れてきた大筏(おおいかだ)が千住大橋に激突して中央が崩落、そのまま下流の吾妻橋に衝突し、吾妻橋も落橋。さらに、両橋の残骸が図の左端に描かれた厩橋に迫っています。こちらが拡大図。右手の小さな破片に「千住大ハシ」とあります。広重「名所江戸百景 千住の大はし」で描かれていた名橋の面影はありません。左の残骸は「吾妻ハシ」。水防組や消防組が大綱を掛けて懸命に岸から引き、厩橋は危機一髪で流失を免れました。今も昔も人々をひきつける「橋」江戸の浮世絵師や、浮世絵ファンたちに親しまれ、数多くの作品が描かれた橋。実は現代の土木ファンの間でも、橋は人気ジャンルのひとつです。辞書で「土木」という言葉をひもとくと、「道路、鉄道、河川、橋梁、港湾などを作る建設工事のこと」などと出てきます。この中で、純粋なインフラとしての側面が強い道路や鉄道、河川、港湾などと違い、橋はその形状自体に強いデザイン性や美しさを備えた構造物と言えます。交通インフラとして生活に欠かせない存在であるだけでなく、その外観の美しさも相まって、地域のランドマークとしての役割を果たす橋。そうした多面的な魅力に、今も昔も人々はひきつけられるのかもしれません。文:渡邉 晃(太田記念美術館上席学芸員)
ちなみにこの佐渡金山は五代綱吉の頃には枯渇し、そこから江戸幕府は幕末までの170年ほどをひたすら財政難の中で過ごすことになります。江戸の町の造成、主要な寺社仏閣などの建築がこの時代であらかた終わってしまうのは、要するに金が尽きたんですよね。
😊いつも、面白いお話ありがとうございます✨関ケ原の合戦の裏に、そんな金鉱の、話、企みが、あったとは、初めて知りました、。ふとノストラダムスの言葉を思い出しました。日本のことをジバングと呼び、金が、豊富にある国と、千里眼、霊能者には、見えていたのですね😊キリストさんも日本に来て、最後は、日本で死んだと伝えられてますので、金の事を知って、日本に、興味を持ったのでは???個人的意見ですが?😅😅でも家康さんは、とことん、神様に好かれた、賢い人だったと思います😊✨❤
もう、世界遺産登録は要らないんじゃ無いですか。?それよりも、日本の時系列的に縄文時代からの歴史的遺産を統一登録して分かりやすくして欲しい。他国からの干渉に負けない時刻表みたいな歴史的指標。
なるほどこの話は初めて聞いた
是非、神君伊賀越えを詳しくお願い致します!
小名木先生、いつも楽しい動画をありがとうございます。今回のお話もよく分かりましたが、違う回でお話をされていた内容と違う感じがします。徳川家康が江戸に入った理由は、大地震が起きてもそれを復興するお金がなかった家康が、江戸に行かせてもらったというものでした。毎回、内容のつじつまが合わないのは残念です
信長は戦に勝つこと秀吉は成り上がること「天下を取る」のは本来は目的ではなく手段で、何のための手段かというと太平の世のため。家康はそんな大きなビジョンを持ってくれていたんだと思う。
松平家はそうでも、婿養子になった流れ坊主の’徳阿弥’さんが、実は’宗家:新田源氏の右腕、世良田源氏の名門、得川親氏(ちかうじ)公だったらしいね。三河の人々が大切にしてきたのは、松平家ではなく、得川源氏の血筋だったらしいね。でも、家康公が苗字かえる当時は、足利幕府だったんで、配慮して、徳川にしたそうだね。新田源氏は、嫌がられたからね。ちなみに、平安時代の創設当時は、漢字当て字時代なんで、得でも徳でも、どっちでも良かった時代だったらしいから、めでたく復活の源氏姓になったんだよね。
この話は、為になりました。
今川が尾張に出兵したのは上洛の為ではなく織田に包囲された大高城内の味方を救援に行く為だと言われているのですが実はこれ自体が信長の仕掛けた罠であり彼は義元をおびき出す為に今川勢が立て籠もっている大高城を包囲したと言われています
そこから100年足らずで財政難に陥るってのもすごいな
関西には家康をののしる会というのがあるそうですが、その考えを改める内容でした。
え〜、ほんまかな~。何か違う様な•••「佐渡の金を大阪に持っていけば、金の量が増えて価値が下るので•••••」云々。素人考えで申し訳ございませんが増えた分の金は江戸城建築に使うので、金の価値は下らない様な気がするのですが?とすると理由は他に有ったのではないでしょうか?むしろ「金の価値が下るので」を取ったほうがスーッと聴けるのですが。それでもやっぱり何か違う気がします。もっと他の理由があったのでは?(必ずしも徳川の私益と言っている訳ではありません、国益であったか•も•しれません)
素晴らしい講釈です。
家康が征夷大将軍になったのは1603年ですよ! 他にも間違い及び解釈の飛躍が多過ぎて納得しがたい内容です。
江戸城建設にそのようなことがあったんですね。今の大河ドラマは現在の価値と倫理で作ってしまって、矛盾だからだから困ったものですね。学生時代に聞きたかった
いわゆる戦国三傑は、それぞれ天より与えられた役目を、全うしたのです。家康は、信長と秀吉の遺志を受け継ぎ、実行したのです。大阪の豊臣贔屓は、義経の判官贔屓的なものでした。お餅は、最後に食べられなきゃ、作られた意味ありませんね。いつまでもほおっておいたら、不味くなり食べられなくなります(笑)過去に「徳川家康」を見た私、来年の大河はとても楽しみです‼️
神田川江戸市中の上水整備と平川の改修南小滝橋で撮影(東京都新宿区/中野区)神田川の前身である平川は、台地ハケからの湧水や雨水を多く集め、豊嶋郡と荏原郡との境界をなす大きな川だったが、江戸城を普請する上で深刻だったのは、江戸城内へ飲料水の確保と、武蔵野台地上の洪水だった。江戸名所図会(1836年)に描かれた神田上水の「目白下大洗堰」(現在の文京区関口大滝橋付近)潮汐のため平川は現在の江戸川橋あたりまで海水が遡上して飲料水に適さず、また沿岸の井戸も鹹水が混じった。平川の普請は、まずは江戸市中の飲料水確保のために行われた。1590年(天正18年)、徳川家康が江戸に入府する前後に大久保忠行が小石川上水[注釈 2]を整備して主に江戸城内への用水としていたが、城下を含めより多くの上水を確保する必要から、豊富な真水の水源を有した井の頭池に加え、善福寺池からの善福寺川、妙正寺池からの妙正寺川も平川に集めて神田上水を整備した。目白下(現在の文京区関口大滝橋付近)に、石堰を作って海水の遡上を防ぎ、分水を平川の北側崕に沿って通していた。これは下流への高低差を確保することと、洪水によって水道施設が破壊されてしまうのを防ぐ目的もあった[注釈 3]。川の本流から水戸藩上屋敷(現在の小石川後楽園)を通った後に懸樋(空中を通した水道で、これが水道橋の由来)や伏樋(地中の水道)により現在の本郷、神田から南は京橋付近まで水を供給した。石堰から下流は江戸川(現在の江戸川と区別するため以下この節では「旧・平川」とする)と呼ばれた。次に、江戸城拡張のため、江戸前島の日比谷入江に面していた老月村、桜田村、日比谷村といった漁師町を移転させて入江を埋め立て、江戸前島の尾根道だった小田原道を東海道とし、その西側に旧・平川の河道を導いて隅田川に通じる道三堀とつなぎ、江戸前島を貫通する流路を新たに開削して江戸城の(外濠、外濠川とも)とした[2][3]。これらは家康が将軍を任官する以前の普請であり徳川家のみで行われていた。旧・平川に架けられた橋や河岸、蔵地、埋め立てた日比谷入江に建てられた大名屋敷(大名小路)はたびたび大規模に氾濫して流されていたが、慶長8年(1603年)に江戸幕府を開いてからは大名を集めての天下普請として大規模に行われるようになる。なお、拡大急増した江戸の人口を潤すための上水はこの頃にすでに足りなくなり始めており、1653年(承応2年)に新たに玉川上水が引かれ、主に江戸の西部から南部にかけて供給された。天下普請による瀬替え二代将軍・徳川秀忠の時代には、旧・平川下流域の洪水対策と外濠機能の強化として、神田山(本郷台地)に当って南流していた流路を東に付け替える工事が行われた[2][4][5]。1620年(元和6年)、秀忠の命を受け、仙台藩祖・伊達政宗が現在の飯田橋駅近くの牛込橋付近から秋葉原駅近くの和泉橋までの開削を担当した。小石川見附門(現在の三崎橋付近)から東に神田山を切り通して湯島台と駿河台とに分け、現在の御茶の水に人工の谷(茗渓)を開削した[4][5][2][6][7]。このため、この区間は特に「仙台堀」あるいは「伊達堀」とも呼ばれる[4][5][2][6]。本郷台地の東では旧石神井川の河道を流れる小河川と合流させて真東に向かい、現在の浅草橋や柳橋の東で隅田川に合流させた[2]。開削当初の「仙台堀」は川幅が狭く洪水を解消する機能にも事欠いたが、幕府は舟運に供するため拡幅するよう仙台藩第4代藩主・伊達綱村に命じ、1660年(万治3年)より拡幅工事がなされた[4][注釈 4]。この拡幅された掘割から河口までを神田川と呼んだ[7][注釈 5]。広く開削された旧・平川を舟運が船河原橋[注釈 5][9](ほぼ現在の飯田橋)まで通じるようになった。一方、小石川見附門から南流する旧・平川は現在の九段下付近まで埋め立てられて神田川と切り離され堀留となった(元飯田町堀留)。かつての外濠から内濠となったこの堀留は飯田川とも呼ばれ、道三堀からの舟運を導いて河岸も建っていた。しかしその後も川の氾濫は頻発し、開削した神田川と、谷田川や大川(隅田川)と重なり日本橋地域から江戸城下を氾濫させていたため、筋違橋御門から下流の神田川南岸に築土して(柳原土手)城下を守った。水運の活発化による河川再整備明治に入り、物流の水運利用が活発になり川にはさらに多くの河岸が建った。上流から紅梅河岸、昌平河岸、佐久間河岸、鞍地河岸、柳原河岸、左衛門河岸などがあった。明治16年には浜町川が延伸(岩井川)して神田川と接続、また埋め立てていた飯田川の北側を再開削して再び神田川と結び、これが現在の日本橋川となった。明治23年には日本鉄道の秋葉原貨物駅が開業し、佐久間河岸からの掘割が引かれ、さらにこの地に大正12年の関東大震災後に神田多町から神田青物市場が移転して周辺は物流拠点になっていた。昭和12年には河川改修よって関口の神田上水石堰も取り除かれた。高度経済成長期には生活排水の流入により水質が悪化し「死の川」と呼ばれたが、周辺部に落合水再生センターなどの下水道網、下水道処理施設の整備が進み、元々湧水が多いことなどから近年は水質が大幅に改善し、鯉や鮎、鮒などが生息するようになった。鮎は1993年(平成5年)から毎年確認されている。また、1957年(昭和32年)の台風22号、1966年(昭和41年)の台風6号などにより氾濫を繰り返したため[10]、洪水で有名となる不名誉な肩書きもあったが、80年代以降の川岸整備や放水路の増設によって治水が成された(ただし今でも中野区上高田では危険水位にしばしば達する)。 この際の整備で高戸橋から江戸川橋にかけて植栽された桜が大きく育ち、花見シーズンには多くの人が訪れる。神田川の治水事業江戸時代からの普請にもかかわらず、都市河川となった現在も溢水の危険をはらんでいる[注釈 3]。江戸期にも洪水による橋の流出や水道施設の破壊は頻繁に発生していた。しかし戦後は流域の急激な都市開発に河川改修が追いつかず、保水や遊水の機能が低下していた。昭和33年(1958年)の狩野川台風による大水害は、城東の低地での水害に加えてそれまで認識されなかった「山の手水害」を引き起こした。昭和61年、全国の総合治水対策が必要な17河川の1つに選定され、平成元年に協議会が発足、時間雨量50mmに対応する対策として段階的に分水路や貯水池などが建設された。現在神田川は流域の市街化率が全国でトップの97%(平成21年度現在)にも達し、対策が難しい河川になっている[11]が、対策は一定の効果を上げていた。しかし、平成17年9月の台風14号により活発化した前線から観測史上最多となる時間雨量100mmを超える降雨災害[注釈 6]が発生し、特に支流の妙正寺川は護岸が破壊されるほどの被害が出た。平成19年8月、東京都は「東京都豪雨対策基本方針」を策定[12]し、時間雨量75mmまでの対応強化を目標として整備が続けられている[13]。
やはりほとんどの戦の動機は銭、領地ですね。止むを得ないことです。信長は理念によって戦ったとは思いますが。
教育の中で徳川幕府を西洋における封建制度のように捉え、明治維新を日本における民主革命のような表現がありますが、現実はだいぶ違いますよね。議会とまでは言いませんが、必ずしも将軍家の意向だけでは動けない合議制みたいなものがあって、かなり緻密な政治が行われていたようです。明治以降の文明開化の世の中も日本が列強の植民地にならないために徳川幕府が欧州に使節を送り国際法を学ばせたから成し得た事だと思います。徳川慶喜に至るまで国民の安寧を第一とする徳川幕府の精神こそが日本を繁栄せしめたと思っています。
それに比べて今の政治のだらしなさ。
自分の自己保身、利権誘導にばかり固執する。
これじぁあ、国は遅かれ早かれなくなるよ。
相変わらず無声映画の弁士のごとくリアル感のある話声で感化できます
大河ドラマもここら辺の事は話として出すのかな
万民のための政治の家康を
小名木先生、今日も素晴らしいお話を有難うございました!学生の頃日本史を取りましたが起きた事象を暗記するばかりでちっとも楽しく有りませんでした。次回のお話も心から楽しみにしております❣️🙇♀️
佐渡金山の世界遺産登録問題が世間をにぎわしていますが、今回の話を聞いて江戸時代の貴重な金山の発掘と江戸の繁栄に使われていたことが分かりました。 家康公の思慮深さがただの戦国武将ではないことがよくわかりました。 戦国時代の終わりに信長・秀吉・家康と3人が出現したことが奇跡ですね。
ぬ
完全に徳川家康公の印象が変わりました。
やはり260年もの間戦のない平和な時代が続くという事にはしっかりとした理由があるのですね。
今日は目からウロコがボロボロ落ちました!
ありがとうございました!
小名木先生 お勤めご苦労様です。
私は、家康生誕の地で暮らす者として本当に感動しました。
いつも、分りやすい解説で感謝して折ります 誠に有り難う御座いました。🙇🏻😊
徳川家康公がどうやって江戸城を築いたのか初めて知りました。何にもない湿地帯に今の東京の元になる江戸城や町を自前で作ったってすごいなと思います。そしてそれが300年も続いたのですから家康公の太平の世の理念は本物だったと言うことですね。
街を作る・・いわゆる都市整備は 家康は自腹を切らずに ほかの大名にさせた
・・この事実を言わないのは なんでやねん?
秩父の豪族を叩いた後、川を利用し、下り江戸に戻るまでは理解しました。しかし、その後船を乗り換えて、坂東市、春日部市の豪族を叩くには川を上るので不可能です。
船で川を登っていくのは不可能だと思います。
小名木先生素晴らしい日本武将の講義をありがとうございます。徳川家康将軍は人、物、金のの良き時代創り同様現代の地球世界宇宙平和になるよう祈ります。🙏⛩😊😃😍🤣
関東の河川に運河を通すという思考が、現代の首都高環状線、外環道、圏央道と同じ発想だなと思いました。
しかも現代よりもかなり迅速に開通しています!!
話を聞いていて本当に400年以上前の話なのかな?と思ってしまうくらい現代に通ずるなと感じました。
やはり根っこの部分は今も昔も変わらないものなのですね。
小名木先生、今回もありがとうございました。
霞ヶ関の役人と政治家に聞かせたい。特に財務省。
それこそ「猫に小判」では?🤭
権力に弱いからね。
今は、アメリカ。だから、トランプ大統領になれば言うことを聞いて、善政が行われるかも。
徳川の川を使って地方豪族を叩くに、違和感がありました。
秩父の豪族を叩く。川を利用して江戸に戻る。川を下るので、ここまではわかる。
そして川を乗り変えて、坂東市、春日部市の豪族を叩くとなれば川を登って行かないといけないので不可能です。
毎回、話が面白く、しかもラジオ的にきけたりするので凄く助かります!
今後も配信宜しくお願いします。
小名木先生の教科書的歴史の見直し解釈にいつも感心・感動・納得させてもらっています。私はいつも何故か秀吉勢に感情移入しがちで、家康がいまいましく感じるのですが、家康や江戸幕府が日本にもたらした安定平和文化精神は多大なものがあったのだと改めて勉強させられる日々です。 今回の解説のような家康像を描いた映画やドラマをどこかでやってほしいなと思いました。
黒沢明監督の【影武者】が面白かったです。
西田敏行が好演しています。
船で川を登るのは不可能かと思いますが??
なんでGOODボタンは一回しか押せないんだろ😢
800兆回押したい講義でした✌
小名木先生良い話を有り難う御座いました。徳川家康公の考えを初めて知り感動しました。
世の中の為、平和な国にするための国造りに国策にお金を使った。この話を聞くのに他の目的で見ていて、感動しました。
家康の旗印は、【遠離穢土、欣求浄土】と聞いたことがあります。
意見が合ったのが光秀なのかな。後の天海僧正が光秀ならぱ、整合性がとれる気がします。
船で川を登るのが不可能だと思いますが?
とても勉強になりました。
徳川家康公は大好きで、山岡荘八さんの小説にハマっているのですが、先生のお話はとても分かりやすくて、ありがたいです。
徳川家康は偉大な人だったのだなあと、さらに深く感じ入りました。
ところで、江戸の町を造り上げて行くに当たっては、きっと大勢の職人さんや人夫さん達が事故で亡くなった事でしょうね・・・😢
むすび大学、大好きです!いつも、勉強させていただき、本当にあありがとうございます
銀座で埋め立てをしてあった事は知っておりました。子供の頃ビルを建て地下2階まで掘ったのですが砂が出てきました。ちょうど電通通りの所で江戸時代は川になっていて虎王丸という船をもち船宿をやっていたそうです。明治生まれの祖父の兄弟が父に話 手紙を下さり私も読みました。子供の時の地下を掘った時 砂の中から銅銭が出てきてもらった覚えがあります。徳川260年前が干潟だったのでしょうが泥沼かは疑問です。ありがとうございます。
面白すぎますね。。
小名木さん、ありがとうございました。
小名木先生ありがとう🙏❗徳川家康公を誤解をしていました❗日本人って素敵で格好良い👍ですね。💖先生いつもお話しありがとうございます🙇❗❗❗😄
さすが家康公、さすがですね~まさに江戸時代。佐渡金山の世界遺産登録に俄然興味が沸きました。
これまで戦国武将を武士・戦略家の方向としてしか見ていなかったですが、
政治家としてみると大変面白いものですね。
いままでの徳川家康のイメージが覆りました。
大変興味深いお話ありがとうございます。
大変いいお話ありがとうございました。
日本人であることに感謝と誇りを感じます!(>_
今回の江戸の開拓の話を聞いて、神武天皇から始まる奈良盆地の湿地開拓と、徳川家康による江戸開拓は、その政治的状況、技術的な課題と対処など共通するものがあるように思えました。
さらに江戸の開拓を通して、奈良盆地に現れた大和政権の意図や課題、その解決を考えるヒントになりそうだと思いました。
たとえば、家康が江戸でやったように、古代では誰も利用していない奈良湖の開拓により、平和的に日本統一のための拠点を作ったのかもしれない。
海ではなく内陸の河川を張り巡らせることで、常時周りの地域への軍事的なにらみと通商の確保をすることも、江戸の河川造設と、奈良での直線が多いおそらく人工的に作った河川の利用と類似しています。
また、家康により大阪の通商独占を脱したように、大和王権はおそらく当時は北九州にあった通商の拠点を東の近畿に移したこと。
また、それぞれの地方を治め、治水や税管理などを行う領主の拠点として、古墳と城も共通点があると思いました。
もっと色々聴きたいですねー
楽しみにしてます☺️
歴史は難しくて苦手なんですが、めちゃくちゃ面白くわかりやすいので勉強になります!
三河民として、楽しく拝見させていただきました😁
勉強になりました。国を治めるのは武力ではなくて経済力だと言うことが改めてわかりますね。所で徳川幕府は多くの人材を見いだし、育てていると聞いています。この辺りのお話もしていただけたら幸いです。
勉強になったと同時に、更に家康さんを好きになりました。
ありがとうございました。☺️💕
政治、まつりごとは土木が基本ということですよね。最近では田中角栄さんですが、それ以降は霞ヶ関のコンクリートでなにも出来てませんね。
来年の大河ドラマの主人公ですよね!
勉強になりました、ありがとうございます‼︎
戦火を渡り歩いた将軍の様な人材が明治まで居てくだされば、国は貧乏になることはなかったでしょう。幸せな江戸時代が長く続き、国民は既に変わっていたのでしょうか。そう思えます。西洋に銀山を掘らせた明治時代等、何を考えていたのか。私達が精神的に戻るべき時代は1600年かも知れません。いつも楽しく拝見しています。素晴らしい配信をありがとうございます❢
永きに渡る平和や安寧は、一朝一夕では出来ないですネ!
徳川家康公流石!
沖縄県民としては琉球史もやってほしい
小名木善行先生江戸が成り立った経緯勉強になりました‼️ありがとうございます誇りある国士明るく笑いのある国家を目指そう‼️強い軍事力が平和維持する要です‼️誇りある国士を目指そう‼️
すみませんが金北山から金は採れてません。佐渡金山は相川にあります。
流石徳川家康公!明治以降堕落してきた日本ですが、是非現在の政治屋さんたちも家康公を見習って欲しいものですね!🤩
甲州金(こうしゅうきん)
※武田氏滅亡後の甲斐国は徳川氏、豊臣系大名時代を経て再び幕府直轄領となるが、徳川氏時代には大久保長安が金座支配と金山支配を一任され、松木五郎兵衛が金座役人に再任し、長安が佐渡島から招いた金工が甲府へ移住し鋳造が行われ、「松木」の極印が施されていたという。
※江戸の治水、江戸、駿府、名古屋、久能山、等々。完成は関ケ原後である。家康が江戸の工事を理由に朝鮮出兵を辞退し、また蓄財をして政治活動に利用し、お金がながれたのは黒田長政、細川忠興、他、著名な大名は多数。蓄財癖と奢侈を嫌う傾向は、家臣団含めてすでに三河の一領主になる前からエピソードが多い。黒川金山の甲州金でつなぎ、佐渡金山で大大的に工事。領地になってのち佐渡から招いた金工との繋がりで佐渡の金山開発を進める。
※慶長6年(1601年)徳川家康の所領となる。同年、北山(ほくさん)(金北山)で金脈が発見されて以来、江戸時代を通して江戸幕府の重要な財源となった。
江戸時代初期、元和から寛永年間にかけての最盛期には金が1年間に400 kg以上算出されたと推定され[1]、銀は1年間に1万貫(37.5 トン)幕府に納められたとの記録がある。当時としては世界最大級[2]の金山であり、産銀についても日本有数のものであり江戸幕府による慶長金銀の材料を供給する重要な鉱山であった。なかでも相川鉱山は、江戸幕府が直轄地として経営し、大量の金銀を産出した佐渡鉱山の中心であった。
※
江戸城は1457年に麹町台地の東端に、扇谷上杉家の家臣太田道灌が築いた平山城である。1590年に徳川家康が江戸城に入城した後は徳川家の居城となり、江戸幕府が開幕すると、大規模な拡張工事が、特に慶長期のおよそ10年の間に集中的に行われ、またその後も2度ほど拡張工事が行われ、総構周囲約4里[と、日本最大の面積の城郭になった[5]。およそ260年にわたり、幕府の政庁、15代におよぶ徳川将軍およびその家臣団が政務を行う場所となった。
※佐渡金山開発のスピードが速すぎる。調査も含めて内々に意向をうけて進めていたということか。
日本で初めて体系的に整備された貨幣制度、およびそれに用いられた金貨である。
戦国時代に武田氏の領国甲斐国などで流通していたと言われ、江戸時代の文政年間まで鋳造されていた。近世には武田晴信(信玄)の遺制とされ、大小切税法(だいしょうぎりぜいほう)、甲州枡(こうしゅうます)と併せて甲州三法と呼ばれている。
戦国期の甲斐金山と甲州金
甲州金の起源は不明であるが、『甲斐国志』に拠れば戦国期に都留郡を除く国中三郡で流通していた領国貨幣で、山下・志村・野中・松木の四氏が金座役人として鋳造を行い、碁石金や露金、太鼓判、板金、蛭藻金などの形態が存在していたという。
戦国期の甲斐国・武田領国では黒川金山や湯之奥金山などの金山が存在し、採掘された金が灰吹法により精錬され製造されていたと考えられている。
初見史料は三条西実隆『実隆公記』永正3年(1506年)8月22日条で、武田氏と推定される甲斐国某が実隆から源氏物語写本を所望され、黄金5枚を支払っている。以来、信虎・晴信(信玄)・勝頼期に渡り黄金に関する史料が見られ、交換・支払手段、寺社への贈答、軍事目的などの用途で使われている。「開山国師真前奉物子母銭帳」(国文学研究資料館所蔵臨川寺文書)は天文13年(1544年)に恵林寺から京都臨川寺に上納された甲州金と考えられる記述を含む点が注目されている。
武田氏滅亡後の甲斐国は徳川氏、豊臣系大名時代を経て再び幕府直轄領となるが、徳川氏時代には大久保長安が金座支配と金山支配を一任され、松木五郎兵衛が金座役人に再任し、長安が佐渡島から招いた金工が甲府へ移住し鋳造が行われ、「松木」の極印が施されていたという。
制度としての甲州金
戦国期には、各地の大名が金貨を鋳造したが、それらは重さで価値を計る秤量貨幣であった。それに対して甲州金は、金貨に打刻された額面で価値が決まる計数貨幣である。
甲州金で用いられた貨幣の単位は以下の通りで、4進法・2進法が採用されていた。
両(りょう)
分(ぶ、1/4両)
朱(しゅ、1/4分)
朱中(しゅなか、1/2朱)
糸目(いとめ、1/2朱中)
小糸目(こいとめ、1/2糸目)
小糸目中(こいとめなか、1/2小糸目)
この体系のうち、両・分・朱は江戸幕府に引き継がれる。
「金に糸目をつけない」の糸目とは、この甲州金の通貨単位に由来する。すなわち僅かなお金は気に留めないということである[要出典]。(通常は、「糸目」とは、凧につける糸のことであり、それを付けないとは、凧の動きを制限しないように、物事に制限をしないことをいうと説明される[7]。)
額面は重量に比例するように打刻され、一両(露一両金・駒一両金)・一分金・二朱金・一朱金・朱中金・糸目金など切りの良い単位だけでなく、古甲金では二分一朱金(1/2+1/16=9/16両)・一分朱中糸目金(1/4+1/32+1/64=19/64両)など中途半端な値をそのまま打刻したものもあった。
金貨としての甲州金
甲州金は、武田氏の作った地方通貨であったが、江戸時代になってからも文政年間まで甲府の金座で鋳造されていた。
このため、おおよそ江戸時代以前に鋳造されたものを古甲金と呼び、それ以後のものは新甲金と呼んで区別する。
鋳造された金貨の種類は
露一両(つゆいちりょう)
駒一両(こまいちりょう)
甲安金(こうやすきん)
甲重金(こうしげきん)
甲定金(こうさだきん)
甲安今吹金(こうやすいまぶききん)
などがある
文化7年(1810年)には幕臣の近藤重蔵(守重、正斎)が『金銀図録』を現し、甲州金や越後国で算出された金貨・銀貨543品を図版で紹介している[8]。
大変勉強になりました。😀
常に「日本をかっこよく」というコトをおっしゃっていて、自分の中にある日本人としての誇りみたいなものを思い出させてくれる感じがします
自分もかっこいい日本はもっと磨いていき、ここは改善すべきかなという日本はどうしていくのが日本にとって良いのかを考えていくようにしていければと思っており、その助けとなるチャンネルがこちらのむすび大学チャンネルなのではないかと感じています
いつもありがとうございます
引き続きよろしくお願いいたします
徳川家が大好きなので、織田、秀吉、浅井三姉妹関連のお話しを聞けてとても勉強になります。
素晴らしい!拍手喝采です。
家康公の功績は随一です。
東京、関東の誇りです。
素晴らしいお話をありがとうございました😊
徳川家康の財宝 800兆円
ビルゲイツの財宝 8兆円
ぐぅの音も出ませんでした。
素晴らしい講義をありがとうございました。
講義ありがとうございます。
いつも興味深く視聴させていただいております、ありがとうございます。
ところで、佐渡の金山の地名ですが「新穂」は「にほ」ではなく「にいぼ」です。
佐渡の地名は読み方が結構難しいものがありますね。
だから 家康様が大好きなんです💖
日本史が大好きになりました!
わかりやすくてとても聞きやすくて良い勉強にさせてもらってます。
働いた現場の名もない日本人が偉いんやで
素晴らしい‼~厭離穢土・欣求浄土の大願ですね。小山評定や三浦按針大分漂着等も含め、大局的処理が素晴らしいですよね‼~間違った歴史を正し続けて下さい。ありがとうございます。
どうして徳川家康が天下統一できたのか、疑問に思っていたのですがなんとなくわかった気がしますね。ありがとうございます。
今度の内容だけじゃ未だ、どうして天下を取れたのかは解らないと思いますよ、もっと研究を重ねて調べて見て
非常に興味深く視聴させていただきました。ありがとうございます。
世界一の大都市東京=江戸の礎を築いたのが家康ですね。
もし秀吉の大阪一極集中で続いたら現在の日本の姿は違ったものになったかもしれません。
我国の起源から戦国時代まで、一時鎌倉時代がありますがほとんどが関西、九州そして東海地区が中心となっていますが、実際にはもっと関東から東北にもエポックメイキングがあったのではないかと妄想しております。
神宮を名乗れるのは伊勢、香取、鹿島の三社であり香取は千葉、鹿島は茨城にあり、一番古い日本人の化石は東北で発見されたと聞きます。
古代から戦国時代までの関東から東北の歴史や、明治天皇のすり替えに絡む遷都の話しなど
取り上げて頂ければ幸いです。
話し → 話
江戸の町を作った財源がわからなかったのですが、なるほど納得です。
関東入植する家康が、これから、莫大な財源を必要とする、江戸城や江戸の町造り、まさにそのときに、天下一の佐渡金山が発見される、なんというタイミングなんでしょうか、素晴らしすぎますね。家康の天下安寧への
思いの深さ、実現へと人生かけてきた行動の結果でしょうか!。
為政者はこうあるべしですね。
今の日本は国力低下、危機せまる国状、
政治家、官僚こそ、眼をあけるべし、心を浄化すべし、家康に学んでください。
いつも楽しく聞いています。
信長・秀吉・家康という順番って、日本にとっては非常に重要だったんだなと感じました。
いつー聞いてもーー話はー旨いしーーーよくわかるしーー素晴らしいでーーーすーーー感動していますーー🍁🍁🎉🎉🌸🌸
利根川東遷事業ー1
(とねがわとうせんじぎょう)は、江戸時代初期に始められた利根川中下流の付け替えにかかわる河川改修を指す。
概要
利根川の大規模な河川改修の歴史は、徳川家康江戸入府(天正18年 1590年)後、徳川氏によって始められ現代に至るとされるが、時代によって多種の意図の変遷があった[* 1][* 2]。
改修の目的は、水上交通網の整備などの利水面が先んじてあり、その中心は赤堀川の開削である。元和7年(1621年)の新川通開削と赤堀川の開削開始から[3]、承応3年(1654年)の赤堀川通水まで一連の工事が行われ、これにより分水嶺を越えて常陸川へ十分な量の水が流され、太平洋へ注ぐ銚子河口まで繋がる安定した江戸の水運が成立した。このため、江戸時代から大正時代までは、新川通の下流は、権現堂川から江戸川を経て東京湾へ至る流路と、赤堀川から常陸川を経て太平洋へ至る流路が存在していた[* 3]。
また、利根川の治水システムは中条堤をその要としていたが、天明3年(1783年)の浅間山大噴火後、この治水システムの機能維持のための河川改修が行われ、江戸川への流量を減少させ赤堀川から常陸川(銚子方向)への流量を増加させた。明治時代に入り足尾鉱毒事件の発生により、さらに銚子方向への流量比を高める大規模改修が始まった[4]。そして、明治43年(1910年)の大水害で中条堤を要とした利根川の治水システムは崩壊、洪水時下流への流量が増加したため江戸川への流入制限が強化され、結果「東遷」が確定、昭和3年(1928年)には権現堂川が廃され、江戸川は赤堀川から常陸川への流路を本流とする利根川の支流となった[5]。これらにより、利根川本流は銚子を通って太平洋に注ぐことになり、関東平野の自然地理的状況は人の手によって大きく変えられた[6]。
歴史
利根川は現在の荒川の流路を通り東京湾に注いでいたが、およそ3000年前の縄文時代後期に途中の河道を変え、現在の熊谷市・鴻巣市付近から東へ向かい、分流しながら渡良瀬川の流路地帯(加須から越谷)へ向かって流れるようになった[7]。利根川(および荒川)は分合流の変化が激しく、渡良瀬川にも合流した(合の川など)。
江戸時代以前までは、利根川と渡良瀬川とはほぼ平行して南流し東京湾(江戸の内海)へ注ぎ、河口も異なっていた。利根川本流は、一旦、会の川および浅間川の主要分流となり、加須市川口で合流後は、現在の古利根川・中川・隅田川の流路で東京湾に注いだ。ただし武蔵国北部では細かく乱流し、綾瀬川や荒川とも合・分流していた。渡良瀬川の下流部は久喜市栗橋付近は権現堂川、それより下流は太日川(ふといがわ)(ほぼ現在の江戸川の流路)と呼ばれていた。
徳川家康江戸入府後、利根川主要分流の河道を付け替える工事が始まった。文禄3年(1594年)に会の川を締め切り、元和7年(1621年)には浅間川を締め切り新川通を開削し、利根川の中流を一本化し加須市旗井(久喜市栗橋の北1キロメートル)で渡良瀬川に接続した。これにより、渡良瀬川は利根川の支流となり、権現堂川・太日川は利根川の下流の位置付けとなった。またそれまでの利根川の下流は、上流から切り離された形となり古利根川と呼ばれ、その河口は中川と呼ばれた。
さらに、承応3年(1654年)に古河市中田(栗橋の対岸)付近から分水嶺を越えて赤堀川を開削する工事を行い香取海(銚子河口・太平洋)に通じる河道を開いた。これにより、江戸時代から大正時代までは、利根川の下流は、権現堂川から江戸川を経て東京湾へ至る流路と、赤堀川から常陸川を経て太平洋へ至る流路が存在し、二つの流路は逆川を介して関宿でもつながっていた。そして次第に常陸川への流路の方に比重が移り、昭和3年(1928年)に権現堂川が廃され、赤堀川・常陸川の流路のみ残り、江戸川はその支流となった。
江戸時代前期
天正18年(1590年)8月朔日徳川家康は江戸に入った、そこには荒れ果てた江戸城があり、茅葺の家が100軒ばかり大手門の北寄りにあった。城の東には低地があり街区の町割をしたならば10町足らず、しかも海水がさしこむ茅原であった。西南の台地はカヤやススキの野原がどこまでも続き武蔵野につらなった。城の南は日比谷の入り江で、沖合に点々と砂州があらわれていた[* 4]。それから20年を経て慶長14年(1609年)に訪れたドン・ロドリゴの記すところによれば、はやくも江戸の人口は15万となり京都の半分くらいであったという[8]。この発展を続ける江戸の町の消費需要をまかなうためには、利根川の水運をはじめとする物流路の整備が不可欠であった。
家康は伊奈忠次を関東郡代に任じ、関東周辺の河川改修にあたらせた。以後、忠治、忠克と伊奈氏3代により、利根川の常陸川河道(銚子河口)への通水が行われた。
東遷事業の開始
近世初頭の利根川の東遷事業は、かつては文禄3年(1594年)に新郷(現・羽生市)で会の川を締め切った工事に始まったといわれていた[3]。しかし、近年の研究では、締め切りは忍領の水害対策であり、東遷事業のはじまりは、27年後の元和7年(1621年)とされている[3]。
会の川の締め切り
文禄3年(1594年)に羽生領上川俣にて会の川の締め切りがおこなわれた。忍城の城主であった松平忠吉が家来の小笠原三郎左衛門に命じ、工事が行われたといわれるが、関東郡代伊奈忠治との連絡のもと進められたとも推測されている [9]。
備前堤(綾瀬川流域)の開発
慶長年間(1596年-1615年)には、備前堤が築造され、綾瀬川が荒川から切り離され、綾瀬川流域の低湿地の開発と綾瀬川自身を流域の用水源としたという[10][* 5]。
小名木川と新川の開削
行徳塩田と隅田川を結ぶため、天正18年(1590年)に小名木川を、寛永6年(1629年)に新川を開削し、江戸川下流部と江戸の町をつなぐ水運路を整備した。
利根川と渡良瀬川の河川整理
元和7年(1621年)、浅間川の締め切りと、新川通の開削、および権現堂川の拡幅が行われ、同時に赤堀川の掘削が始められた[3]。利根川と渡良瀬川が合流し権現堂川・太日川がその下流となった。なお太日川はほぼ現在の江戸川だが全く同じではない。現在の江戸川の上流部は寛永18年(1641年)に開削した人工河川であり、下流部も人工河川とみる説もある。
寛永期の河川整理
寛永6年(1629年)、荒川の西遷が行われた。熊谷市久下で荒川を締め切り和田吉野川・市野川を経由し入間川に付け、荒川の下流は隅田川となり旧流路は元荒川となった。
同じく寛永6年(1629年)、鬼怒川[* 6]を小貝川と分離し板戸井の台地を4キロメートルにわたって開削し常陸川に合流させ、合流点を約30キロメートル上流に移動した。翌寛永7年(1630年)に、布佐・布川間を開削し、常陸川を南流させ、また戸田井・羽根野を開削し小貝川も南流させ常陸川の狭窄部のすぐ上流に合流点を付け替えた。
赤堀川の掘削
新川通の開削や権現堂川の拡幅とともに元和7年(1621年)に掘削が始められた赤堀川は、太平洋への分水嶺を越える水路を開削するものであり、その目的は利根川の水を香取海へ注ぐ常陸川へ流し、太平洋へ注ぐ銚子河口まで繋がる水運を整備することだった。しかし、台地を掘削するために難工事となり、寛永12年(1635年)の工事も含めて2度失敗している。承応3年(1654年)、3度目の赤堀川掘削工事により渇水期も常時通水に成功、これにより銚子河口まで繋がる江戸の水運が成立した[11]。この時の赤堀川の川幅は10間(18メートル)程度と狭く、利根川の洪水を流下させる機能はなかった。
疑問点があります。家康の江戸城と太田道灌の江戸城との位置関係はどうなっていますか?双方湿地帯にあったとするなら、道灌も家康と同じ考えて築城したのでしょうか?
太田道灌の江戸城は後の家康の江戸城の本丸の辺りだと思います。
しかし、天下人「豊臣秀吉」と同等の力を持って居る「徳川家康」と、関東管領「山内上杉家」の分家的存在となっていた「扇谷(おうぎがやつ)上杉家」の家臣「太田道灌」が、同じ考えて築城していた筈は在りませんよ。
馬鹿に独裁は回せない。
結局、ちゃんと回った独裁の実例は、日本にあったということか…。
家康の調整能力は図抜けている。すぐに動くのではなく話し合いを好む。だから長生きした。動かないリーダーの方が、出世するのかもしれない。あの時代は長生きしたもの勝ち。
自分の妄想で申し訳ありません。
関東の開発はの軍資金(資本)は秀吉が出してるのではないかと思ってます。もちろん秀吉本人が言い出しっぺだし関東の地質的、立地的状況は知ってると想像出来ます。
歴史は秀吉から遠い地へ左遷とい言ってますが、むしろ京や大阪と離れた場所に家康に何かを作って欲しかったのではないかと妄想してます。
その自分的根拠は秀吉と家康は実は凄い仲が良く、信頼関係があったという前提なんですけどね(笑)。
あ~妄想が膨らむw
ゲームの信長の野望で佐渡ヶ島に金山、銀山出てきますね、そういう事だったとは勉強になりました。
ですが、なぜ大坂の陣になったのか気になります。
山岡荘八氏の「徳川家康」を読んで、家康ファンでありましたが、小名木先生のお話を聴いてもっと深く尊敬できるようになりました。
でも大量の金、どこに消えたのでしょうか。ハリスですか?
徳川埋蔵金の噂が生まれたのも、佐渡金山で得た莫大な富が残っているはずという願望から来てるんだと分かりました。
今回も貴重なお話、、
お勉強に成りました、
志村の里の、、、嬬恋次郎
話が上手過ぎて、わかりやすい👌
いつもありがとうございます。日本が長い間平和だったのは家康のおかげですよね!
小名木川。勉強になりましたww
小田原攻めの時に、家康の領国は三河だけではない。駿遠に甲斐も領有する大大名。
今の江戸城の大半は、江戸幕府が外様大名の金と労力で作らせた。
江戸湾の最奥部の海が荒れるのはめったにないだろう。運河を掘ったには時間と労力の節約。
佐渡にも行ったし金北山にも登ったが、金山は海岸べりの相川。金北山ではない。
実体験に基づかない間違いをこの御仁は数多くしている。
講釈師、見てきたような嘘を言い
関ヶ原の戦いが、楽しく見えてくるお話でした。勉強になります。
素晴らしいお話を聞かせて頂きありがとうございます🍀
佐渡金山は平成元年まで採掘をしていたそうですが、金の総採掘量は約78t 銀 約2300tだったそうです❗️
令和4年1月31日現在の金▪銀の販売価格は金1g当たり7348円、銀1g当たり94.71円です❗️
それを計算すると、金はおよそ5700億円 銀はおよそ2180億円となり、金銀合わせて7880億円になります😄
700兆円と言うのは、桁違いだった様ですね😣
でも、どちらにしても多額の資金に違いなく家康様は偉い人に違いない大人物でした🤩
今のセコイ野党の政治屋や秋篠宮家の人間とは大違いですね😣
西伊豆の土肥にも土肥金山がありますね。徳川家は金に恵まれていたんですね。
なんだかんだと言って、佐渡金山が家康がとったと仰っていますが、
文献はどこにありますか??
独裁者が私利私欲のためにお金を独占していたら、260年も続くわけがない。納得です。
岸田や麻生のような愚物為政者にはとてもじゃないが真似出来ない賜物ですね!
現代に欲しい人物ですね
素晴らしいです。徳川家康のイメージが変わりました。その後の二百三十年ですか代を重ねるごとに平和ボケして最後の方では外国との不平等条約で家康の800兆円もあったと言われる黄金も流出してしまったんですね。
今の政権と徳川政権末期の事を思うと日本人の個人資産が中国、アメリカ、ロシア他のくにから同じように狙われていることを思って政治政策をしているのだろうかと心配になります。これだけ民間の企業は業績が良いのにめちゃめちゃ外資ファンドに日本売りを仕掛けられて日本人の富が流出しているのは今となんだか重なります。
利根川東遷事業ー2
河川整理と用水路開発とその後
さらに、寛文5年(1665年)、権現堂川・江戸川と、赤堀川・常陸川をつなぐ逆川を開削、これにより銚子から常陸川を遡って関宿に至り、逆川から江戸川を下り新川・小名木川を通って江戸を結ぶ、用水路開発が加速した[11]。しかし、強引な水路の変更は様々な問題を引き起こした。水量の増大は皮肉にも利根川の土砂堆積による浅瀬の形成を促し、水量の少ない時期には船の通行を困難にした。特に関宿からの旧常陸川(現在の利根川下流域)では相馬郡小堀村、江戸川では松戸までの区間は浅瀬の被害が深刻で、この両区間では艀下船と呼ばれる小型船が積荷の一部を分載して自船の喫水を小さくすることで浅瀬との衝突を避けた。これにより小堀・松戸の両河岸には艀下船の河岸問屋が栄えた[12]。
江戸時代中後期
天明3年7月8日(1783年8月5日)に浅間山が大噴火し、火砕流と火砕泥流、および吾妻川と利根川の洪水が発生し死者1,000人超の大災害が起きた。河床は上昇し中条堤を中心とした治水システムは機能しなくなり、当時の土木技術では大規模な浚渫する抜本的な対策を取ることはできなかったため、江戸幕府は当面の対策として、酒巻・瀬戸井狭窄部下流右岸の堤防を徹底強化し赤堀川を拡幅、江戸川の流頭に棒出しと呼ばれる突堤を設け、18間(33メートル)を限度に川幅を狭め流入量の制限を行った。川幅を狭めた分流速が増し船の航行には不便になるが、洪水の流入を抑えるとともに、土砂流入を防ぎ浅瀬の形成を防止し、舟運機能はせめて確保したいという苦肉の策であった[5]。
これにより行き場を失った水は、逆川から銚子方面へあふれ出し、現在の利根川下流域の水害を深刻化させることとなった。また、浅瀬の被害は深刻化し、艀下船を用いても通行が困難になる場合もあった[12]。パナマ運河工事の土量を越える、大規模な浚渫が実施され、浅間山大噴火の影響が利根川全域から取り除かれたのは、戦後も高度成長期以降のことである。
明治維新後
明治初期に至るまで、利根川の本流は確定していなかったという。銚子方面から常陸川を遡り江戸川を下る内川江戸廻りの水運は、鉄道網が整備される以前の物流の大動脈であり、どちらの流路についても十分な水量を確保しなければならず一方を本流とするわけにはいかなかったことと、洪水の際には、なだらかな銚子方面に水を流すよりも、もともとの流路に近く、勾配もきつい江戸川方面に水を流すほうが理にかなっていたからである。
しかし、明治10年(1877年)ごろから渡良瀬川流域において足尾鉱毒事件が発生することで状況が変化する。鉱毒事件は被害農民と警官隊による衝突や田中正造による明治天皇への直訴などの激しい抗議行動によって大きな社会問題となった。一方、政府としては日清戦争・日露戦争のさなかであり、銅の産出を止めることはできず、なおかつ江戸川を経由した人口密集地でもある東京や江戸川河口行徳の塩田への被害拡大は避けねばならなかった。そのため、明治31年(1898年)には、天明の浅間山大噴火後に設けた棒出しの幅を僅か9間(16.2メートル)にまで狭め、江戸川への流入制限を強化して銚子方面へと水を流す方針が固まったとされる[2]。
また、その頃利根川下流の両岸は千葉県香取郡であったが、当時の千葉県の財政基盤は弱く利根川の治水事業に予算が割けなかった。そのために利根川の洪水が頻発してその水が当時直接利根川に面していなかった茨城県稲敷郡東部地域にも被害を及ぼした。そこで、明治18年(1885年)茨城県の政治家と千葉県でも利根川の恩恵を受けられない房総半島南部の政治家の間で茨城県の治水事業への財政負担と引換に利根川以北の香取郡を茨城県側に譲渡するという計画が立てられた。これには大須賀庸之助(香取郡長・衆議院議員)や地元住民が激しい抵抗を続けたが、明治32年(1899年)に香取郡北部の稲敷郡編入が行われて、国と千葉・茨城両県による改修工事計画が検討され、着手された。
だが、明治維新以降、近代的なインフラ整備が進むにつれ、従来の氾濫を前提とした治水は成り立たなくなっていた。明治43年(1910年)の関東大水害の後中条堤を要としたそれまでの治水システムは破綻、すでに着手していた改修工事の改訂が迫られることになり、計画洪水流量の見直しや江戸川への分流量の増加など大きな変更を生んだ。そして江戸川へは棒出し(後・関宿水閘門)によって流入制限されたため、実際には銚子方面へあふれ出し結果「東遷」が確定、大正15年(1926年)には権現堂川が締め切られる。
その後は利根川下流の水害激化に対応するため計画上は江戸川への分派率が引き上げられているが、実際には江戸川分派点の利根川本流側には堰や水門のような構造物がなんら造られてこなかったため、結果として洪水時の江戸川の分派率は計画の40パーセントに対し20パーセント程度にすぎない。利根川治水の眼目の一つが江戸川への分派量の問題であるが、その分派量を一方的に決めるとともに決められた分派率が実現されぬまま埼玉県側の堤防だけが強化され、利根川下流域の対策が後回しにされているというのが現状である[5]。
1947年(昭和22年)9月、利根川流域をカスリーン台風が襲った。過去に例を見ない記録的な豪雨は戦前・戦中の乱伐による山林荒廃と相まって利根川流域に致命的な被害を与え、現在の埼玉県加須市、旧大利根町付近で堤防が決壊し濁流は埼玉県のみならず東京都足立区・葛飾区・江戸川区にまで達し、烏川流域、渡良瀬川流域はほぼ全域が浸水し利根川中流部はまたもや一面湖となった。死者・行方不明者は利根川流域だけで1,100名が死亡している[13]。カスリーン台風による甚大な被害にあった地域の対策を優先して進め、利根川下流域には田中・管生・稲戸井調整池(掘削し容量拡大工事中[14])の整備という形で、中条堤と同様に洪水を溢れさせる仕組みが設けられた。
1987年(昭和62年)に建設省(現国土交通省)が対策事業として高規格堤防の建設を始め、利根川を含む5水系6河川区間約873kmの整備を対象とした[15]。第1号として利根川沿いの千葉県にも栄町に矢口スーパー堤防が完成したが、その後は2004年(平成16年)度より埼玉県と東京都への水害を予防するため首都圏氾濫区域堤防強化対策事業が進められ、海水がさしこむ茅原や海の入り江だった首都を、水害から守るための努力が続けられている[16]。
まさか数年後に、戦争が起こって苦しみ人々がいるなんて思わなかったですよね。時代とともに変わるのですね。日本は、それを学びました。戦後生まれですが。
江戸の発展は〈埋め立て〉抜きには語れない ー「江戸の土木」展②
今回のテーマは「埋め立て」。江戸の発展は、常に埋め立てとともにあったと言っても言い過ぎではありません。まず天正18年(1590)の家康江戸入府から間もない時期に行われたのが、日比谷入江の埋め立てです。
図のように、家康江戸入府直後の江戸は、「江戸前島」とも呼ばれる半島状の地形でした。ちょうど今の京橋、銀座一帯がその半島部分にあたります。現在の日比谷あたりは、日比谷入江と呼ばれ、内陸まで海が広がっていました(図版データ作成:筆者)。
当時は平川が日比谷入江に注いでいたので、その流れを図のように架けかえてから、日比谷入江が埋め立てられたと考えられています。以降、さまざまな地域で海が埋め立てられ、新しい土地が造成されていきました。いくつか例を見てみましょう。
築地
築地は代表的な埋立地のひとつ。そもそも地名の由来も、「地を築く」というところから来ています。図は築地本願寺を、東の海上から眺めたもの。もともと本願寺は浅草にありましたが、明暦の大火で消失。元の土地には再建がゆるされず、八丁堀沖を埋め立てて土地を造成、延宝7年(1679)に再建されました。埋め立て工事は困難を極めたと言われています。
佃島
画像8を拡大表示
こちらは、佃島を描いた広重「東都名所 佃嶋初郭公」。佃島も江戸初期に埋め立てでできた埋立地でした。本能寺の変の際に、家康を助けた摂津国佃村の漁師の森孫右衛門たちが、徳川幕府の開府後に江戸へと呼ばれます。家康は漁師たちに石川島の南の干潟と、付近での漁業権を与えます。漁師たちは自ら土地を埋め立て、10年以上の歳月をかけ、寛永21年(1644)に佃島が完成したと言われています。切絵図と照合すると、手前側が御用地の石川島、右奥の集落が佃島でしょうか。
深川
家康が江戸に入った直後、現在の江東区、江戸川区の南側は小島などが浮かぶ湿地帯だったと言われています。まず小名木川、新川という二つの運河が造成され、その南側に向かって埋め立てが進んでいくことになります(図版データ作成:筆者)。
代表的な例として、深川八郎右衛門が中心となり、慶長(1596~1615)頃に埋め立てが進んだ深川村があります。上の図は広重「名所江戸百景 深川洲崎十万坪」。洲崎十万坪は深川の東のはずれに位置した埋立地で、享保8年(1723)から湿地を3年かけて埋め立てられました。図からは、広大な埋立地の雰囲気がよく伝わってきます。
これは、十万坪のすぐ南西にあった深川木場ではないかと思われます。深川木場は木材の集積場で、元禄14年(1701)、日本橋付近にあった材木河岸を深川に移転して作られました。埋立地の広大な土地を利用し、図のように水路が張り巡らされ、火事になった際に燃え広がらないように工夫されていたようです。
埋め立ては400年経った今も進行中
天正18年(1590)、家康の江戸入府のすぐ後からはじまった埋め立て。特に江戸前期には、大規模な埋め立てによって、深川のような新興地もでき、江戸の町は大きく発展していきました。
そして、家康の江戸入府から400年以上たった現在でも、東京湾の埋め立ては続けられています。近年では、埋め立てによって造成された晴海や豊洲が新興地として注目されるなど、その流れは今に続いているのです。
文:渡邉 晃(太田記念美術館上席学芸員)
広重も北斎も描いた「橋」
第1回は「橋」。歌川広重も、葛飾北斎も、たくさんの橋の絵を残しています。江戸時代には、隅田川や日本橋川をはじめとした、大小さまざまな河川や水路に、高度な土木技術を駆使して、橋が架けられました。
上は広重が描いた両国橋。広重は、橋をモチーフにした魅力的な作品を数多く残しています。図は空から眺めたような俯瞰の視点で、両国橋とその周囲の様子を詳細に描いています。
拡大した図がこちら。両国橋は寛文2年(1661)隅田川で二番目に架けられた橋(架橋年代には他説あり)。橋の長さは約171メートルでした。ちなみに橋桁と橋桁の間のことを「側(かわ)」と呼びますが、浮世絵では側や橋桁の数を、実際より省略して描くことが多いようです。
ゴッホが模写したことで知られる名品「名所江戸百景 大はしあたけの夕立」も、両国橋の少し下流に位置する新大橋がテーマです。人々が行き交う場所である橋を、突然の雨というシチュエーションと結びつけて、印象的な作品に仕上げています。
新大橋は元禄6年(1694)、隅田川で三番目に架けられた橋。橋の長さは約197メートルでした。52日の突貫工事で建設されたと伝えられています。
こちらは北斎が描いたシリーズ物「諸国名橋奇覧」のうち「かめゐど天神たいこばし」。橋をテーマとしたシリーズ物を出すあたり、北斎は橋の造形に興味があったのかも知れません。亀戸天神の太鼓橋は、図のように急な勾配で有名な橋でした。北斎はその美しいアーチを細部まで写し取っています。
027 4847-2葛飾北斎を拡大表示
なお北斎は名作「冨嶽三十六景」中でも、「御厩川岸より両国橋夕陽見」「深川万年橋下」「江戸日本橋」という橋を題材にした三点の作品を残しています。
橋のうつりかわりを浮世絵で知る
009 4497 歌川広重を拡大表示
橋の長い歴史と、その移り変わりの様子が、浮世絵からうかがえる場合もあります。ここで紹介するのは、千住大橋を描いた2枚の絵。
上は歌川広重「名所江戸百景 千住の大はし」。千住大橋は、家康の江戸入府の4年後にあたる、文禄3年(1594)に架橋された隅田川で最初の橋でした。土木の名手として知られた伊奈忠次が架橋を担当しましたが、その工事は苦難の連続であったそうです。
また千住大橋は、江戸から明治に至るまで300年近く、流失がなかった名橋でもありました。しかし、明治18年(1885)、その名橋もついに最期を迎える時がきます。
千住大橋を拡大表示
図は二代歌川国明「千住大橋吾妻橋 洪水落橋之図」(個人蔵)。明治18年(1885)に起きた台風による洪水で水嵩が増し、上流から流れてきた大筏(おおいかだ)が千住大橋に激突して中央が崩落、そのまま下流の吾妻橋に衝突し、吾妻橋も落橋。さらに、両橋の残骸が図の左端に描かれた厩橋に迫っています。
こちらが拡大図。右手の小さな破片に「千住大ハシ」とあります。広重「名所江戸百景 千住の大はし」で描かれていた名橋の面影はありません。左の残骸は「吾妻ハシ」。
水防組や消防組が大綱を掛けて懸命に岸から引き、厩橋は危機一髪で流失を免れました。
今も昔も人々をひきつける「橋」
江戸の浮世絵師や、浮世絵ファンたちに親しまれ、数多くの作品が描かれた橋。実は現代の土木ファンの間でも、橋は人気ジャンルのひとつです。辞書で「土木」という言葉をひもとくと、「道路、鉄道、河川、橋梁、港湾などを作る建設工事のこと」などと出てきます。この中で、純粋なインフラとしての側面が強い道路や鉄道、河川、港湾などと違い、橋はその形状自体に強いデザイン性や美しさを備えた構造物と言えます。交通インフラとして生活に欠かせない存在であるだけでなく、その外観の美しさも相まって、地域のランドマークとしての役割を果たす橋。そうした多面的な魅力に、今も昔も人々はひきつけられるのかもしれません。
文:渡邉 晃(太田記念美術館上席学芸員)
ちなみにこの佐渡金山は五代綱吉の頃には枯渇し、そこから江戸幕府は幕末までの170年ほどをひたすら財政難の中で過ごすことになります。
江戸の町の造成、主要な寺社仏閣などの建築がこの時代であらかた終わってしまうのは、要するに金が尽きたんですよね。
😊いつも、面白いお話ありがとうございます✨関ケ原の合戦の裏に、そんな金鉱の、話、企みが、あったとは、初めて知りました、。ふとノストラダムスの言葉を思い出しました。日本のことをジバングと呼び、金が、豊富にある国と、千里眼、霊能者には、見えていたのですね😊キリストさんも日本に来て、最後は、日本で死んだと伝えられてますので、金の事を知って、日本に、興味を持ったのでは???個人的意見ですが?😅😅でも家康さんは、とことん、神様に好かれた、賢い人だったと思います😊✨❤
もう、世界遺産登録は要らないんじゃ無いですか。?それよりも、日本の時系列的に縄文時代からの歴史的遺産を統一登録して分かりやすくして欲しい。他国からの干渉に負けない時刻表みたいな歴史的指標。
なるほど
この話は初めて聞いた
是非、神君伊賀越えを詳しくお願い致します!
小名木先生、いつも楽しい動画をありがとうございます。今回のお話もよく分かりましたが、違う回でお話をされていた内容と違う感じがします。徳川家康が江戸に入った理由は、大地震が起きてもそれを復興するお金がなかった家康が、江戸に行かせてもらったというものでした。毎回、内容のつじつまが合わないのは残念です
信長は戦に勝つこと
秀吉は成り上がること
「天下を取る」のは本来は目的ではなく手段で、何のための手段かというと太平の世のため。
家康はそんな大きなビジョンを持ってくれていたんだと思う。
松平家はそうでも、婿養子になった流れ坊主の’徳阿弥’さんが、実は’宗家:新田源氏の右腕、世良田源氏の名門、得川親氏(ちかうじ)公だったらしいね。三河の人々が大切にしてきたのは、松平家ではなく、得川源氏の血筋だったらしいね。でも、家康公が苗字かえる当時は、足利幕府だったんで、配慮して、徳川にしたそうだね。新田源氏は、嫌がられたからね。ちなみに、平安時代の創設当時は、漢字当て字時代なんで、得でも徳でも、どっちでも良かった時代だったらしいから、めでたく復活の源氏姓になったんだよね。
この話は、為になりました。
今川が尾張に出兵したのは上洛の為ではなく織田に包囲された大高城内の味方を救援に行く為だと言われているのですが実はこれ自体が信長の仕掛けた罠であり彼は義元をおびき出す為に今川勢が立て籠もっている大高城を包囲したと言われています
そこから100年足らずで財政難に陥るってのもすごいな
関西には家康をののしる会というのがあるそうですが、その考えを改める内容でした。
え〜、ほんまかな~。何か違う様な•••「佐渡の金を大阪に持っていけば、金の量が増えて価値が下るので•••••」云々。素人考えで申し訳ございませんが増えた分の金は江戸城建築に使うので、金の価値は下らない様な気がするのですが?とすると理由は他に有ったのではないでしょうか?むしろ「金の価値が下るので」を取ったほうがスーッと聴けるのですが。それでもやっぱり何か違う気がします。もっと他の理由があったのでは?(必ずしも徳川の私益と言っている訳ではありません、国益であったか•も•しれません)
素晴らしい講釈です。
家康が征夷大将軍になったのは1603年ですよ! 他にも間違い及び解釈の飛躍が多過ぎて納得しがたい内容です。
江戸城建設にそのようなことがあったんですね。今の大河ドラマは現在の価値と倫理で作ってしまって、矛盾だからだから困ったものですね。学生時代に聞きたかった
いわゆる戦国三傑は、それぞれ天より与えられた役目を、全うしたのです。
家康は、信長と秀吉の遺志を受け継ぎ、実行したのです。
大阪の豊臣贔屓は、義経の判官贔屓的なものでした。
お餅は、最後に食べられなきゃ、作られた意味ありませんね。いつまでもほおっておいたら、不味くなり食べられなくなります(笑)
過去に「徳川家康」を見た私、来年の大河はとても楽しみです‼️
神田川
江戸市中の上水整備と平川の改修
南小滝橋で撮影(東京都新宿区/中野区)神田川の前身である平川は、台地ハケからの湧水や雨水を多く集め、豊嶋郡と荏原郡との境界をなす大きな川だったが、江戸城を普請する上で深刻だったのは、江戸城内へ飲料水の確保と、武蔵野台地上の洪水だった。
江戸名所図会(1836年)に描かれた神田上水の「目白下大洗堰」(現在の文京区関口大滝橋付近)
潮汐のため平川は現在の江戸川橋あたりまで海水が遡上して飲料水に適さず、また沿岸の井戸も鹹水が混じった。平川の普請は、まずは江戸市中の飲料水確保のために行われた。
1590年(天正18年)、徳川家康が江戸に入府する前後に大久保忠行が小石川上水[注釈 2]を整備して主に江戸城内への用水としていたが、城下を含めより多くの上水を確保する必要から、豊富な真水の水源を有した井の頭池に加え、善福寺池からの善福寺川、妙正寺池からの妙正寺川も平川に集めて神田上水を整備した。目白下(現在の文京区関口大滝橋付近)に、石堰を作って海水の遡上を防ぎ、分水を平川の北側崕に沿って通していた。これは下流への高低差を確保することと、洪水によって水道施設が破壊されてしまうのを防ぐ目的もあった[注釈 3]。川の本流から水戸藩上屋敷(現在の小石川後楽園)を通った後に懸樋(空中を通した水道で、これが水道橋の由来)や伏樋(地中の水道)により現在の本郷、神田から南は京橋付近まで水を供給した。石堰から下流は江戸川(現在の江戸川と区別するため以下この節では「旧・平川」とする)と呼ばれた。
次に、江戸城拡張のため、江戸前島の日比谷入江に面していた老月村、桜田村、日比谷村といった漁師町を移転させて入江を埋め立て、江戸前島の尾根道だった小田原道を東海道とし、その西側に旧・平川の河道を導いて隅田川に通じる道三堀とつなぎ、江戸前島を貫通する流路を新たに開削して江戸城の(外濠、外濠川とも)とした[2][3]。
これらは家康が将軍を任官する以前の普請であり徳川家のみで行われていた。旧・平川に架けられた橋や河岸、蔵地、埋め立てた日比谷入江に建てられた大名屋敷(大名小路)はたびたび大規模に氾濫して流されていたが、慶長8年(1603年)に江戸幕府を開いてからは大名を集めての天下普請として大規模に行われるようになる。
なお、拡大急増した江戸の人口を潤すための上水はこの頃にすでに足りなくなり始めており、1653年(承応2年)に新たに玉川上水が引かれ、主に江戸の西部から南部にかけて供給された。
天下普請による瀬替え
二代将軍・徳川秀忠の時代には、旧・平川下流域の洪水対策と外濠機能の強化として、神田山(本郷台地)に当って南流していた流路を東に付け替える工事が行われた[2][4][5]。1620年(元和6年)、秀忠の命を受け、仙台藩祖・伊達政宗が現在の飯田橋駅近くの牛込橋付近から秋葉原駅近くの和泉橋までの開削を担当した。小石川見附門(現在の三崎橋付近)から東に神田山を切り通して湯島台と駿河台とに分け、現在の御茶の水に人工の谷(茗渓)を開削した[4][5][2][6][7]。このため、この区間は特に「仙台堀」あるいは「伊達堀」とも呼ばれる[4][5][2][6]。本郷台地の東では旧石神井川の河道を流れる小河川と合流させて真東に向かい、現在の浅草橋や柳橋の東で隅田川に合流させた[2]。開削当初の「仙台堀」は川幅が狭く洪水を解消する機能にも事欠いたが、幕府は舟運に供するため拡幅するよう仙台藩第4代藩主・伊達綱村に命じ、1660年(万治3年)より拡幅工事がなされた[4][注釈 4]。この拡幅された掘割から河口までを神田川と呼んだ[7][注釈 5]。広く開削された旧・平川を舟運が船河原橋[注釈 5][9](ほぼ現在の飯田橋)まで通じるようになった。
一方、小石川見附門から南流する旧・平川は現在の九段下付近まで埋め立てられて神田川と切り離され堀留となった(元飯田町堀留)。かつての外濠から内濠となったこの堀留は飯田川とも呼ばれ、道三堀からの舟運を導いて河岸も建っていた。しかしその後も川の氾濫は頻発し、開削した神田川と、谷田川や大川(隅田川)と重なり日本橋地域から江戸城下を氾濫させていたため、筋違橋御門から下流の神田川南岸に築土して(柳原土手)城下を守った。
水運の活発化による河川再整備
明治に入り、物流の水運利用が活発になり川にはさらに多くの河岸が建った。上流から紅梅河岸、昌平河岸、佐久間河岸、鞍地河岸、柳原河岸、左衛門河岸などがあった。明治16年には浜町川が延伸(岩井川)して神田川と接続、また埋め立てていた飯田川の北側を再開削して再び神田川と結び、これが現在の日本橋川となった。明治23年には日本鉄道の秋葉原貨物駅が開業し、佐久間河岸からの掘割が引かれ、さらにこの地に大正12年の関東大震災後に神田多町から神田青物市場が移転して周辺は物流拠点になっていた。昭和12年には河川改修よって関口の神田上水石堰も取り除かれた。
高度経済成長期には生活排水の流入により水質が悪化し「死の川」と呼ばれたが、周辺部に落合水再生センターなどの下水道網、下水道処理施設の整備が進み、元々湧水が多いことなどから近年は水質が大幅に改善し、鯉や鮎、鮒などが生息するようになった。鮎は1993年(平成5年)から毎年確認されている。
また、1957年(昭和32年)の台風22号、1966年(昭和41年)の台風6号などにより氾濫を繰り返したため[10]、洪水で有名となる不名誉な肩書きもあったが、80年代以降の川岸整備や放水路の増設によって治水が成された(ただし今でも中野区上高田では危険水位にしばしば達する)。 この際の整備で高戸橋から江戸川橋にかけて植栽された桜が大きく育ち、花見シーズンには多くの人が訪れる。
神田川の治水事業
江戸時代からの普請にもかかわらず、都市河川となった現在も溢水の危険をはらんでいる[注釈 3]。江戸期にも洪水による橋の流出や水道施設の破壊は頻繁に発生していた。しかし戦後は流域の急激な都市開発に河川改修が追いつかず、保水や遊水の機能が低下していた。昭和33年(1958年)の狩野川台風による大水害は、城東の低地での水害に加えてそれまで認識されなかった「山の手水害」を引き起こした。昭和61年、全国の総合治水対策が必要な17河川の1つに選定され、平成元年に協議会が発足、時間雨量50mmに対応する対策として段階的に分水路や貯水池などが建設された。現在神田川は流域の市街化率が全国でトップの97%(平成21年度現在)にも達し、対策が難しい河川になっている[11]が、対策は一定の効果を上げていた。しかし、平成17年9月の台風14号により活発化した前線から観測史上最多となる時間雨量100mmを超える降雨災害[注釈 6]が発生し、特に支流の妙正寺川は護岸が破壊されるほどの被害が出た。平成19年8月、東京都は「東京都豪雨対策基本方針」を策定[12]し、時間雨量75mmまでの対応強化を目標として整備が続けられている[13]。
やはりほとんどの戦の動機は銭、領地ですね。止むを得ないことです。信長は理念によって戦ったとは思いますが。