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上に立つ人は民衆から離れたら駄目なんですね。天皇陛下は国会開催時に全議員に「国民の信託に応えて下さい」と仰います。私達に完全に寄り添っていらっしゃいますね。議員達は陛下の御言葉を襟を正して聞いて欲しい。
本当にそう思います。日本の根っこは、此の皇紀しか無いですね‼️天皇は、全ての国民に祈り❗️仁徳天皇におかれましては、竈門の煙が上がって無いことに、心痛め❗️今の税金を無税にした‼️今の国会議員が何人いるか⁉️でも‼️投票するのも❗️国民の此の矛盾‼️
そうですね❗️古来の日本の天皇は、民衆のために祈る❗️其れは、決して政治では無い❗️何と言う❗️祭りごと~と言う‼️其れは、仁徳天皇の竈門の煙でよく分かりますね‼️今の天皇も全て民衆のために祈る‼️~議員は❗️此の民の為に死ねる❗️決して政治では無い❗️日本古来から有る祭りごとですね‼️
小名木さん いつも興味深いお話を有難う御座います。出雲大社の建物は低くなったと言うお話ですが、低くなってはいますがこの写真は神楽殿で、本殿ではありません。歴史上何度か倒壊していますが火災という事があったのでしょうか。本殿前に柱の基礎が発掘されています。
国譲りの神語りを学ばせて頂くと、御先祖の方々が紆余曲折の果てに素晴らしい歴史、在り方を刻んで下さったんだなと思います。スサノオの尊が産土神と一緒にまつられている神社には、スサノオの尊は植林の神様としてまつられ、息子さんのイタケルの尊がその仕事を継いでいる伝承を見かけたことがあります。「あのスサノオが、、」としんみりしてしまいます。日本の神々には血が通っているんだなあと思います。
小名木先生、質問の答えありがとうございます。先日質問した者です。はい、確かにスサノオは「お母さん」についてなんやかんやと言っているので「お母さん?君はイザナギ(男性)から産まれたからパパしかいないよ」って思ってしまっていたのですが、どうしてもスサノオが「お母さん」と言うので疑問に感じたのです。特にイザナミが亡くなる前はイザナミ(女性)から神々が産まれているのが有名でしたのでどんな神様にも「母」がいると感じています。ですからその男性のイザナギが産んだというのはおかしいなと感じたんです。個人的な考察として黄泉の国でイザナギにイザナミの「なにか」が移り「それ」がスサノオ・アマテラス・ツクヨミの誕生に関係していたのではないかと思っていました。そして先生が仰った「側室」。たしかに江戸時代まで1人の偉い人は側室がいるのは当たり前でした。当たり前すぎて日本書紀・古事記を書いた人々も「書くまでもないだろう」と考えてもおかしくありません。とても勉強になりました。仮に「側室の子供」でも「正妻も母である」と考えても不思議ではございませんね。本当にありがとうございました。
確かに、本殿の写真間違ってますね。神楽殿側のしめ縄がメディアでクローズアップされますからね。本殿はもっと厳かでかっこいいですよ
こなきさんは、行った事ないんだよ。。
しめ縄のある写真の建物は神楽殿です。本殿は大社造りの現在でも大きなものです。
こなきさん行った事ないんじゃない?
とても良い話ですね、子供の時から聴かせてあげたいおはなしですよ。
出雲大社の写真は本殿ではなく神楽殿だとおもいますが・・当時ほどではないものの本殿は少し高くなっていると思います。
こなきさん行った事ないんだよ。
@@peyfuru110 とても良い所です。是非一度お立ち寄り下さい。尚、写真ならホームページでも確認できます。
写真は、本殿ではありませんあれは、結婚式場のようです〜^^;今の出雲大社は、明治4年に今の名前になりましたそれまでは、杵築社と言われていました皆さん、ご存知ですか?
本殿は建て替えするから伊勢と同じで定期的に遷宮するんだよな。かつては16丈もあったんですが、江戸時代に低くなってますね。ただ1744年から同じ場所に修繕だけとなるくらい財政難だそうです。
1:29の 写真は神楽殿ですね。まさにイベントホールです。メディアでご本殿のように画像が使われているために、こちらがご本殿だと間違えて本物のご本殿を参拝せずに帰られる参拝者が多くいるようです。この方のお話も神楽殿を出雲大社だと間違っているのを見ると、ただのにわかにしか聞こえません。
先日、参拝してきました。 出雲大社(いずもおおやしろ)って呼ばれ出したのは明治になってから。😮
お疲れ様です。現代の諸問題を解決する足掛かりのひとつが古代日本にあるのですね。
先生のお話は、常に富の流れを掴んでいるので、実感しやすいですね。現代に完全な経済論が無いとされていますが、日本には神代から回答を見出していたと思えます。経済に思想が欠けているので、丸く収まらないいのですね。
お久しぶりです。流石勉強家ですね。みらいの為に、頑張ってください。
いつもありがとうございます😊
出来れば、出雲大社の写真は神楽殿で本殿ではないので変えてほしいと思います。
間違いに気付かずに説明してるのを見るとお話も怪しいですね。
須佐能の尊は鳥取県の日野川で(島根の斐伊川でない)八岐大蛇を退治した説もあります。伯耆風土記に書いてありますが、出雲国風土記に八岐大蛇退治は書いてないそうです。RUclips夢幻樹八岐大蛇出雲神話の謎で知りました。
というか、出雲国風土記にはスサノオ様のエピソードがほとんど無いのです。全体的な雰囲気も土地の名の由来や産業について淡々と記述するだけで、生き生きした物語性を感じるのは冒頭の国引きくらいです。ほかの国の風土記は数年で完成しているのに出雲国風土記は二十年もかかっていて不自然です。執拗に検閲が入ったのかもしれません。
出雲大社としている写真は、千家国造家の管理する結婚式場で、本来の出雲大社本殿とは異なる。小名木さん、大変な間違いです。
出雲大社は大古は高さ96mあったという説もありますね
大変貴重な面白い話をありがとうございました。ワニとウサギの解釈、非常に感銘を受けました!初めて聞く解釈でしたがとても納得してしまいました。一点、最後の質問コーナーについてですが、日本書紀の本文だと、スサノオはイザナミが産んだと記されていますね。イザナギの鼻から生まれたとするのは古事記のみです。その古事記でもスサノオは母のいる根の国に行きたいと泣いた、とあるので、スサノオは側室の子説は意味が通らないように思います。先生が今回話された「古代では側室を持つのが当たり前だった」という考え方自体も、むしろ現代的な偏見から来ているのではないでしょうか。一夫多妻の神も多いですが、一夫一妻の神も少なくない。これもまた、日本の神話の多様性だと思います。オオクニヌシの最初の妻であるヤガミヒメに嫉妬して彼女を追い出した正妻スセリヒメの説話にも、制度としての一夫多妻と、当人たちの心情はまた別だという右か左かでくくれない価値観が見え隠れしているんじゃないでしょうか。
古事記のスセリ姫は素戔嗚命の娘ですよね。大国主命は地下深く根の堅洲の国で素戔嗚に会い頑張って愛娘を命からがら頂戴して地上に帰ったんですよね!
千木の違い、知りませんでした。いつもありがとうございます。
出雲の米は美味しいクシナダヒメの心が込められている
出雲を含む山陰では鮫の事をワニと言います。山陰の山岳地帯は、保存食として鮫を食する文化が有ります。雲南市の須佐神社が有る地域には、夏でも涼しく食物が保存出来る場所が存在します。
出雲大社は明治4年まで杵築大社といわれ、神話の出雲神社は徳島県の出雲神社です。さらに、徳島県の出雲神社が今の島根県の出雲大社の元宮です。
江戸時代まで出雲大社は杵築大社だったはず。京都亀岡の出雲大神宮との関係をもっと調べる必要があるでしょう。
亀岡の出雲大神宮と亀岡出身の出口王仁三郎!
神宮皇學館系の人々は 大本出口王仁三郎をとても嫌っています。
山陰地方ではサメの事をワニと言います。又、山陰山間部ではサメを食べる習慣があります。須佐神社の近くには夏場でも涼しい場所が有ります。
徐 福(じょ ふく、拼音: Xú Fú、生没年不詳)は、秦の方士[注 1]。斉国の琅邪郡(現在の山東省臨沂市周辺)の出身。別名は徐巿[注 2](じょふつ)[1]。日本に渡来したという伝説があるが実証性はない[2]。『史記』巻百十八「淮南衡山列伝」によると、秦の始皇帝に「東方の三神山に長生不老の霊薬がある」と具申し、始皇帝の命を受け、3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、財宝と財産、五穀の種を持って東方に船出したものの三神山には到らず[1]、「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て王となり、秦には戻らなかったとの記述がある。又使徐福入海求神異物、還為偽辭曰:『臣見海中大神、言曰:「汝西皇之使邪?」臣答曰:「然。」「汝何求?」曰:「願請延年益壽藥。」神曰:「汝秦王之禮薄、得觀而不得取。」即從臣東南至蓬萊山、見芝成宮闕、有使者銅色而龍形、光上照天。於是臣再拜問曰:「宜何資以獻?」海神曰:「以令名男子若振女與百工之事、即得之矣。」』秦皇帝大說、遣振男女三千人、資之五穀種種百工而行。徐福得平原廣澤、止王不來。- 司馬遷「淮南衡山列伝」『史記』巻百十八。東方の三神山とは、渤海の先にある神仙が住むとされた島で、蓬莱・方丈・瀛州(東瀛とも)のことであり、蓬壺・方壺(ほうこ)・瀛壺とも称し、あわせて「三壺」という。のち日本でも広く知られ、『竹取物語』でも「東の海に蓬莱という山あるなり」と記されている。[3]。蓬莱や瀛州はのちに日本の呼称となった[3]。魏晋南北朝時代の487年、瀛州は行政区分として制定されている。同じく『史記』巻六「秦始皇本紀」に登場する徐福はこのような逸話とともに描かれる。徐福は始皇帝に不死の薬を献上するという名目で支援を取り付ける。ところが後に始皇帝が現地に行ってみたところ、徐福は出港していなかった。始皇帝は出港を再び命じるも、その帰路で始皇帝は亡くなったという。ここでは、かれは「不死の薬を名目に実際には出立せず、皇帝から金品をせしめた詐欺師[4]」として描かれている。出航地出航地については、紀元前219年の第1回出航は河北省秦皇島市、第2回の紀元前210年の出航では浙江省寧波市慈渓市[注 3]が有力とされる。しかし、すべては淮南衡山列伝に基づいた推測である。淮南衡山列伝は秦の始皇帝を騙した詐欺師の話で昔の中国人によく知られている伝説であった。[要出典]昔の中国人は徐福がどこに逃げたか全く知らなかったが、台湾か日本に辿り着いたのではないかと推測した。そして、徐福が日本にたどり着いたという話が創作されるようになった。[要出典]伝承徐福に関する伝説は、中国から日本や朝鮮半島に伝わって散在し、内容は地域によって様々であるが、いずれもほとんどが「淮南衡山列伝」の記述に基づいたものである[5]。昔の中国人も徐福がどこに逃げたかはっきりしていなかったが、徐福が日本に逃げ出したと推測を記録しており、これが日本に伝わって多くの伝承が創作された。しかし、学者たちは徐福の到来は根拠がなく、虚構であって徐福は実際には日本に渡来していないという。この虚構の伝承は中国と日本に拡散し、徐福が天皇の先祖で大和政権を建設したとか徐福が秦氏の先祖であるという虚構の伝承が作られるようになった。現代の中国にも徐福が天皇の先祖であるという虚構の伝承が広まっている。日本における伝承徐福が日本に渡来したのではないかという中国の伝説は日本にも伝わり、多くの伝承が創作された。徐福が当国に辿り着いた地として熊野(現在の三重県熊野市波田須町)周辺との伝承が残っている。波田須駅付近には徐福ノ宮があり、彼が持参したと伝わるすり鉢をご神体としている。また、同地からは秦代の貨幣である秦半両が出土しており、伝説と関連するのではとも言われている。近隣の和歌山県新宮市には、徐福の墓とされるものが伝わっており、徐福公園が造られている。福岡県八女市山内(童男山古墳)には徐福が渡航後に立ち寄り、体が温まるよう村人が枯れ木や落ち葉を燃やして助けたとの言い伝えが残り、徐福を弔う伝統行事「童男山ふすべ」が残っている[6]。佐賀県佐賀市の伝承では、同市の金立山に徐福が発見したとされる「フロフキ」という植物が自生する。フロフキは、カンアオイ(寒葵)の方言名で、地元では俗に「不老不死」が訛ってフロフキになった等ともいい、金立地区ではその昔、根や葉を咳止めとして利用していたという。京都府伊根町の伝承では、徐福は同町に辿り着いたとしている。町内にある新井崎神社付近は菖蒲や黒節のよもぎなどの薬草が自生しており、徐福はこの地で不老不死の妙薬を探し当てたとされる。高い文化や技術を習得していた徐福は村人に慕われたので、当地に上陸後、故郷に帰ることなく村に滞在したといわれ、近隣で麻疹が流行して多くの村人が亡くなった際に、徐福を新井崎神社に祀ったところ救われたと伝えられる。現在も同社には徐福が祀られており、所蔵する古文書『新大明神口碑記』にも彼の事が記されている[7]。しかし、新大明神口碑記は江戸時代の末期か近代に作られたものと評価されていて、正統の歴史学者たちは認めていない。長野県佐久市の伝承では、徐福は蓼科山に住んでいた時に双子を儲けたとされ、彼らが遊んだ場所を「双子池」や「双子山」と名付けたという[8]。他にも鹿児島県出水市・いちき串木野市、宮崎県延岡市、広島県廿日市市、愛知県一宮市・豊川市、東京都八丈町、秋田県男鹿市、青森県中泊町などに伝承が存在する[9][10]。中国における伝承亶州は秦の徐福が住み着いてその子孫が暮らしているという伝承がある。住民は会稽郡東冶県に時々は交易に来ていたという。夷州は台湾説・沖縄説・日本説があり、亶州は海南島説・ルソン島説・沖縄説・種子島説・日本説・済州島説がある。しかし、徐福が出てくる文献ははすべて淮南衡山列伝を基づいていて、淮南衡山列伝にも徐福はどこにたどり着いたのか書かれていない。亶州に秦の徐福が住み着いたという説や夷州と亶州を海外国とする説など全部歴史的な根拠はなく、淮南衡山列伝からの創作にすぎない。伝承から創作が行われて、後代に作られた釈義楚の義楚六帖には、徐福が富士山に漂着したことが記され、顕徳五年(958年)に弘順大師が「徐福は各五百人の童男童女を連れ、日本の富士山を蓬莱山として永住し」と伝えたという。[11]。北宋の政治家・詩人である欧陽脩は淮南衡山列伝を基づいて、徐福が日本に渡来したと推測し『日本刀歌』を創作した。『日本刀歌』には「其先徐福詐秦民 採藥淹留丱童老 百工五種與之居 至今器玩皆精巧(日本人の祖である徐福は秦を欺き、薬を採取して連れて行った若者たちとその地に長らく留まった。連れて行った者の中には各種の技術者が居たため、日本の道具は全て精巧な出来である)」という内容で日本を説明する部分が存在する。朝鮮における伝承中国から出航した徐福の一行は済州島に到着・上陸した。済州島の漢拏山に登り、不老長寿の薬を探したが見つけることができなかった。漢拏山を南側に下山し、海辺で見つけた滝のそばの岩場に「徐市過之(徐市はここを通過した)」という文字を記した。また、徐福は「西に向かって、いざ帰りなん」という言葉を残して去ったので、その浦の名が「西帰浦(ソギポ)」になり、今も西帰浦の地名が残る。李氏朝鮮の申叔舟が著した『海東諸国紀』には、孝霊天皇の御代に不老不死の薬を求めて日本の紀州に来て、そして崇神天皇の時に死んで神となり、人々に祀られるという伝承が載せられている。この記述は、史記において徐福の記事がある始皇帝28年の翌年に、記紀に書かれる孝霊天皇即位72年を機械的に当てはめて説話を集めたものである。
この人は大学の先生でもなんでもありません。よく勉強されているし、面白いとは思いますが。出雲関係で本当のことを知りたいなら、ぜひ大元出版の本を読むことをお勧めします。
面白い解釈です。大国主は出雲国の最初の統治者であることはそうなのだと思うのだが、出雲は島根なのかな?当の島根の地方の風土記や神社の伝承には大国主は出てこない。出雲の話は島根ではないのではないかということは以前より言われている。ヤマト以前の出雲と崇神天皇以降(あるいはもっとあと?)の出雲は異なっているようにも感じる。神武の東征は古地理より紀元前と考えられるが、荒神谷遺跡などは弥生末期、正に崇神天皇のあたり。だとすれば、島根あたりのヤマトの統治は崇神天皇の四道将軍の遠征のあたりではないか?畿内から大国主と大日孁貴が追い出されたのは崇神天皇の頃。だとすれば、大国主は畿内から島根に放逐されたのは崇神天皇の頃?
古事記などの「おや?」という個所が多いのは、意宇国(出雲国)の後の名前は大国主としたことから話を作り続けた結果。大国主の子孫達がご先祖様の大国主は凄い偉い人だと宣伝しきたので、今のような意味の解らない話になっています。国譲りも間違いで本当はアマテラス大神へ国をお返しした、ということ。出雲大社は今は神社ですが、当初は意宇国主(葦原醜男アシハラシコウと呼ばれた男です。)の幽閉所です。お祭りに残っていますね。
そういえば結構前に海に遺跡が見つかって柱のサイズ間隔から昔の本殿じゃないかって新聞に載ってたな。半信半疑だったんだがあの巨体建造物が実在してたのには驚いたが…色々何かありそう。
小柳ゆきさんが好きで見てるそうですよ。
そそ、そもそも姫巫女(近年卑弥呼と呼ばれる者)もなんだいと受け継がれていく役職だからね。スサオノも同じですよ。
ナショナリストとグローバリストが現在は、覇権争いになってますが、現代の天照大御神様が何時、何処から現れるのでしょうか? 日月神示では、日本人がその役目だと言われてるそうですが、今の日本にそんな力があるのでしょうか?
アークがあるじゃん。いやもうそれしかない。。
出雲立ち 立現れし八雲神 雲さへ立てば出雲なり 出雲八重咲く八雲神 スサノオ
宇佐家の口伝に、宇佐族は元は島根県の隠岐の島の漁師で、和邇族との取引に失敗して土地と財産を失った。それを知った大国主命から因幡国八上(鳥取県八上郡)の土地を授かり開拓して成功し、この地の巫女(八上比売)を娶った。という話があるそうです。また、宇佐族(菟狭族)は天体の動きを観察し、暦を司る仕事をし、月とそこに見える兎を信仰し、その後、宇佐神宮の宮司となり現在に至っているそうです。
出雲大社は716年に創建されたもので、神代ではありません。平安時代から国造の権威を示す為に高層建築が始まった。
阿波風土記の話がネットにもあまり出て来ないので阿波風土記も是非。
某ゲームでスサノオがマガツカミを浄化、祓う役のナホビノとして主役になる設定だったのでナホビノノカミの話を知りました。ナホビノノカミのお話を詳しくお聞きたいです。
これ、これ、出雲大社の拝殿を見せて背の低い?其れは無いだろ。八足門の奥を見せなさい。今日の話は切れが悪いな。茂木さんの話を土台にしては駄目だよ。茂木さんの言うグローバリズムは、意味が少し違う。
国際貿易をすることはグローバリズムと同義ではありません。国際貿易においては、国家を維持しつつ、他国と貿易をすることです。グローバリズムとは、国家をなくして、世界を一つにするという考え方です。全く異なる考え方です。
小名木先生、出雲大社の写真としてアップされているのは「神楽殿」です。できれば、拝殿、御本殿の写真をご使用いただけたらと思いました。
江戸末期から近代まで教えないので、本を読みまくりました。その時の日露戦争の一冊にロシアに捕虜になった兵士の方の手記がありました。捕虜になった時不思議な尋問をされたそうです。ロシア兵が戦った相手の事を聞かれたそうです。その兵隊たちは白い軍服を着た兵隊たちでとても強い兵隊達だったそうです。攻撃しても素早くダメージを与えることは出来なかったと言っていたそうです。白い軍服に記憶が無かった、その兵士達の正体は謎だそうです。他の方の著書にも白い兵士の話が載ってました。
どういう事?
先生こんにちは‼️
神無月は出雲で何をするんでしょう?
出雲地方では「神在月」と言い、出雲大社に八百万の神様がお集まりになります。そこで「神議り」が行われ、いろんなご縁を結ぶ会議をされます。なので地元の方はその邪魔にならないように、神議りが行われている間の1週間は静かに過ごします。
出雲大社は歴史的に見れば少なくとも青銅器の時代に建立されたのですか❓当然縄文時代だと思いますが、縄文土器は出雲大社付近で出土されてますか❓
祭神変遷=大国主(怨霊鎮める為に藤原ふひと及び貴族の意向)⇒スサノオ(中世から江戸初期)⇒大国主(寛文以降から現在)&大国主はBC218年頃死亡、8代出雲王(八千矛・ヤチホコ王)で副王は事代主(八重波津身・ヤエナミツミ)の時代の人物です。
先生のお話の一等最初『なぜ神話を学ぶのか?』・・・・に???自分は『エウヘメリズム』の信奉者なので、神話は過去の日本の歴史に起きたことを教えてくれるものだと考えています。それは、日本人のDNAに刻み込まれた何かを知る事でもあります。と、、、
出雲神族口伝は考慮に入れないのは何故なのか?
巨大な柱の宮殿は鎌倉時代に建てられました。
カタカムナは反発でなく融合 宇宙もマイナスとプラスの融合 17条憲法もしかり
古代から近親婚はタブーだったのでしょうか?子供のころから仲良くしてた兄妹が結婚するのは、タブーがなければ自然の成り行きのような気がします。
全然アリでは?飛鳥時代の皇族は近親婚だらけで、兄妹・姉弟でも母親が違えば別の家で育つので別の家の人という感覚だったようです。また、古代では男子にとって姉や妹は神聖な力を授けてくれる存在だったそうですから。
神在月は、参勤交代みたいなことをしていたのかな?
通称「出雲口伝」と呼ばれている歴史資料について、どう思われますか?
天照大御神と元伊勢と呼ばれる神社が20数箇所とされていたが、現在では60ヶ所以上とされている程多い件。天皇家の祖神とするならば、天皇家がヤマト政権を開かれた地に一番にお祀りするのが当たり前と思うが、何故ここまで多くの場所を長い間転々とさせられたのか?誰も公に言及しているのを聞かない。これを単純に出雲の国譲りの話と結びつけて考えると、中国地方や大和地方を結ぶ大きな勢力が既にあったのではないか?後に東征して来た天皇勢力に奪われたが、(祭司か?=古代、祭司は重要な地位を占めていた)の天照大御神の存在を消す事はタブーである程の大きな存在であったのではと考えられるのでは。最終的に天皇家の祖神とされるに至っているが釈然としない。
島根に住む者としては、ねつ造された勝者の歴史をそのまま用いておられて残念です。
争うことではなく、大国主命は ”国譲り” という平和で仲の良い道を選択されました。世界史における王朝の変更で争いのない交代はとてもめずらしく素晴らしいことです。この大国主命を称える大社が大きいことで、以後の歴史で天皇制を覆そうとする事変が起きなかった。こうやって考えると、大国主命は偉大な方なのだと思います。
質問するには、どうしたら良いですか⁉️
出雲口伝と古事記を比べてください。別の見方もありますよ。須佐能は出雲の鉄を奪いに来たと書かれています。
何故大国主命は西向きに鎮座されているのか解説して頂きたい
国の概念を無くそうというのがグローバリズムですから経済を活性化させて国を統一するのがグローバリストとすると誤解を生むと思います。
「第三文明への通路」ー3三、 精神文明の完成それは長い間の思索研究だった。どれ位長かったと言うと、今日科学文明が此処まで発達するには凡そ三、四千年の歳月を要したが、太古は悠長な時代のことだったからそれ以上に長い年月だったろう。そして遂に人類は自己内面に存在し、絶え間なく変化し活動する心象を言葉として表出することに成功し、その心の体系と展相の原理としての言葉の原理を完成することが出来た。自己として自覚される生命の全貌を識り得たのである。 この事を仏教的に言うならば、それは阿耨多羅三貌三菩薩を成就した最初の仏陀が誕生したと云う事である。この事は恰も今日の科学が究極の原素の展開と、電子と陽子の究明によって物質と云うことの解決が略出来上がった事と比較して考えると理解し易い。丁度この科学の真理と表裏であるところの精神の真理の完成である。この完成された精神原理の名を布斗麻邇(ふとまに)と云う。真奈(まな)とも云う。或いは「言の葉の誠の道」と云い、摩尼宝珠とも Manna とも云う。凡そ一万年前の昔、スメリヤ文明が生まれる以前の事であって、布斗麻邇の完成が人類文明の発祥であり基点である。四、 布斗麻邇の意義物が原子、電子、原子核によって成る如く、心もまたその原子、電子、原子核に相当するものものによって構成されている。斯うした精神の要素を人間の発する音声に結合させ、その変転極まりない心を言語として固定把握し、心の要素を言語の要素として表現したものがアイウエオ五十音である。古代日本語である大和言葉はこの五十音の組合せによって作られてある。五十音を言ことたま霊と云う。霊である心と言である音声とが直截に完全に結合しているものであって、五十音がすなわち布ふとまに斗麻邇である。その布斗麻邇の内容を器物に象徴して皇位継承の儀式に用いたものが三種の神器である。 またこの言葉の原理の全体系を呪文を以て表現し、その展開運行の法を神話体の物語りに脚色編纂してあるのが皇典古事記であり、特にその神代巻である。日本書紀は更にその古事記の註釈書として作られてある。儒佛基三教の世界にあっては、法華経、創世記、黙示録、易経等が同じくこの布斗麻邇を説いたものであるが、その説き方は概論的であって全体系がまとまっているものではない。その中で特に法華経は布斗麻邇を学ぶための人間の心構への修業法を説いている所謂「教菩薩法」であり、易経は言霊を用いずに数を以て体系と展相を示したものであり、その原点は河図と洛書である。 かくして布斗麻邇は神道、仏教、キリスト教、儒教に共通する人類の精神的な哲学宗教の奥義であるが、後述する如く今日まで三千年間の天の岩戸閉鎖、仏陀入涅槃の時代であったため、その実態は人類に顕わには示される事なく秘蔵されていた。 従来の神社神道や儒佛基の三教は、人間の究極の精神的生命原理を体得するための心構えへの修練法である。布斗麻邇を学ぶためには神道で云う鎮みたましずめかみがかり魂 帰 神、仏教で云う禅定、ヨガ、念仏、キリスト教で云う懺悔贖罪を行って、煩悩と云われ顚倒夢想と云われる放たれた自由な立場に立たなければならない、すなわち人類が布斗麻邇を発見し完成したその同じ境涯に立たなければならない。所謂罪汚れであるところの宿業(カルマ)に拘束された自己の状態を以て布斗麻邇を知ろうとしても、思惟が部分に引っかかって四部五裂して、禅で云う「野干脳裂」の状態に陥るから、麻邇の正当な理解と運用が不可能である。儒教的、キリスト教的修練反省、自己浄化、自己解放を経て初めて「佛所護念」である布斗麻邇の門に入るのである。
荒神谷遺跡(こうじんだにいせき)は、島根県出雲市斐川町神庭の小さな谷間にある遺跡。国の史跡に指定されている。概要史跡としての指定名称は「荒神谷遺跡」であるが、地名を冠して「神庭荒神谷遺跡」とも呼ばれる。1983年(昭和58年)広域農道(愛称・出雲ロマン街道)の建設に伴い遺跡調査が行われた。この際に調査員が古墳時代の須恵器の破片を発見したことから発掘調査が開始された。1984年 - 1985年(昭和59-昭和60年)の2か年の発掘調査で、銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本が出土した。銅剣は1985年に国の重要文化財に指定され、銅鐸・銅矛は1987年(昭和62年)に追加指定されていたが、1998年(平成10年)に一括して「島根県荒神谷遺跡出土品」として国宝に指定されている[1]。遺跡自体は1987年に国の史跡に指定された。斐川町(現:出雲市)が中心となり1995年(平成7年)に遺跡一帯に「荒神谷史跡公園」が整備され、2005年(平成17年)には公園内に「荒神谷博物館」が開館した。出土品は国(文化庁)が所有し、2007年(平成19年)3月に出雲市大社町杵築東に開館した「島根県立古代出雲歴史博物館」に常設展示されている。なお、上述の荒神谷博物館においても、特別展などで出土品の展示が行われることがある[2]。銅剣の一箇所からの出土数としては最多であり、この遺跡の発見は日本古代史学・考古学界に大きな衝撃を与えた。これにより、実体の分からない神話の国という古代出雲のイメージは払拭された。その後の加茂岩倉遺跡の発見により、古代出雲の勢力を解明する重要な手がかりとしての重要性はさらに高まった。出土した青銅器の製作年代等については下記の通りであるが、これらが埋納された年代は現在のところ特定できていない。出土した青銅器銅剣丘陵の斜面に作られた上下2段の加工段のうち下段に、刃を起こした状態で4列に並べられて埋められていた。358本の銅剣は、全て中細形c類と呼ばれるもので、長さ50cm前後、重さ500gあまりと大きさもほぼ同じである。弥生時代中期後半に製作されたとみられている。この形式の銅剣の分布状況から出雲で製作された可能性が高いが、鋳型が発見されていないため決定的ではない。いずれにしろ、形式が単一なので同一の地域で作られたことは確かである。また、このうち344本の茎には、鋳造後にタガネ状の工具で×印を刻まれている。このような印は、現在までのところこれらと加茂岩倉遺跡出土銅鐸でしか確認されておらず、両遺跡の関連性がうかがえれます。当時の大和朝廷が「イズモ」を特別な地域であると認識していた事が、記紀の記述にもあり、また神話のなかの三分の一を出雲神話で占める、といったことからも証明される形となっている。更に、時代が下って編纂された「式内宮」として認められた神社の、出雲地方での総数と出土した銅剣の本数との奇妙な一致があげられます。当初は、農道を造るために、神庭と呼ばれる場所であることから、とりあえず発掘調査をすることになり、最初に掘ったトレンチから銅剣が出てきた。担当者は連絡に奔走し、同時に発掘を進めていった。当初は百本位だろうと考えられたが、次々に出土し、最終的に358本という数に達した。それまでに全国で発掘された銅剣の総数を超える数の銅剣が発掘された事は当時のマスコミを興奮のるつぼに放り込んだ形となった。これらの銅剣が発掘された1985年(昭和60年)7月13日の担当者の話では、梅雨のさなか、テントを張って毎日、夜も欠かさず見張りを続け、現場から帰ってきたその日の当直者は顔が変形するほど蚊にさされたというエピソードもあります。出来事島根県立古代出雲歴史博物館に展示していた同遺跡の銅剣類のうちの1本について、展示台にぶつけて刃の中央に約4センチの亀裂が入っていることが判った[1]。銅鐸先年の騒動が静まってから、島根県教育委員会では、周辺に未発掘の遺物、遺跡がある可能性が大として、磁気探査器を使って調査したところ、銅剣出土地より南へ7メートルに反応があり、発掘が始められた。発掘開始まもなく、銅剣出土地点よりも7メートルほど谷奥へ行った場所で銅鐸6口が発見された。埋納坑中央に対して鈕を向かい合わせる形で2列に並べられていた。分類としては、最古の形式であるI式(菱環鈕式)が1つと、それよりやや新しいII式(外縁付鈕式)の形式のものが1個、外縁付鈕1式3個が出土している。製作時期は、弥生時代前期末から中期中頃の間と考えられている。文様に強い独自性がみられる1つを除いては、同形式の銅鐸の鋳型の分布からみて近畿産とする説が有力である。12年後に出土した加茂岩倉遺跡の39口の銅鐸との関連性を考慮すると、一概に畿内製造であるとは言い切れなくなってきている。北部九州製の可能性が高い。三号銅鐸は伝徳島県出土銅鐸と同笵であることが確認されている。二号銅鐸が京都市右京区梅ヶ畑遺跡出土の四号銅鐸と同笵であることが判明した。なお6個の銅鐸の高さが20センチと同じである。地元の研究者である速見保孝によると、近辺に銅鉱山があり、また鋳型を作るための材料となる「来待石(砂岩の一種、細かい細工がしやすく、勾玉などの製造に際して砥石として利用された)」が大量にある事から、出雲で原材料を集め、大量に製造したのではないか、という説もある。更なる研究が待たれる。成分銅を主成分としスズと鉛を含む、青銅である。スズは8.79~17.3%、平均で12.6%。鉛は1.53~7.53%、平均で4.3%含んでいることが分かった。銅とスズの合金である青銅は、スズの配合によって色が変化する。このような成分組織では、銅鐸の地金の色は少し黄色味を帯びた銅色(現在はサビで覆われている)を呈していたと考えられ、中には金色に近い色を呈していたものもあったのではないかとみられている。[3]銅矛矛先を揃えられ、銅鐸と共に出土した銅矛銅矛は銅鐸と同じ埋納坑の東側に、16本とも刃を起こし、矛先が交互になるように揃えて寝かせた状態で埋められていた。横には小ぶりの銅鐸が鰭(ひれ)を立てて寝かせた状態で、同じく交互に並べた状態であった。鰭とは、銅鐸の横側、板状の部分を「鰭」と呼ぶ。古代当時、この青銅器に関わった人が、銅矛の刃と銅鐸の鰭を立てた状態で丁寧に並べて置いた、そのままの状態を保って出土したのである。[4]分類には諸説あるが、大まかに言えば、中広形14本と中細形2本に分けられる。製作時期は、銅剣とほぼ同じか、若干後の時期と考えられている。その形態や北部九州産の青銅器に見られる綾杉状のとぎ分けがあることから、16本とも北部九州で製作されたものとみられる。脚注[脚注の使い方]^ 平成10年6月30日文部省告示第110号^ よくある質問(荒神谷博物館サイト)^ 「金・銀・銅の日本史」p23^ 「金・銀・銅の日本史」p21-22参考文献『古代出雲と風土記世界』瀧音能之 編(河出書房新社)『古代の出雲辞典』瀧音能之(新人物往来社)『荒神谷遺跡』三宅博士、田中義明(読売新聞社)『金・銀・銅の日本史』村上隆 2007年(岩波書店)関連項目関連項目中国地方の史跡一覧弥生時代の遺跡一覧外部リンク ウィキメディア・コモンズには、荒神谷遺跡に関連するカテゴリがあります。荒神谷博物館出雲市ホームページ国宝・荒神谷遺跡国指定文化財等データベース島根県遺跡データベース
四相性、円、カタカムナでいうこの世の法則ですね。
余談にて悪しからず。最近、宮崎正弘さんの高志国について書かれた本を読みました。それによると古事記の記述の中に「高志の八俣の大蛇」と書かれてもあるそうです。彼は古代日本の日本海側の文化圏を考えるとき、高志(古志)国も重要なポイントとだと言っています。参考まで。
ざっくり言うと日本海側が国津神、太平洋側が天津神なのでしょうか?日本の神話は素敵ですね。こんなに魅力的な神話なんですから、大切にしていきたいですね。
@@msyk0602 様まだまだ太古から脈々と続く日本は、我々の心と共に生き続けていますよね😊
中国古代の斎国に徐福と大国主との関係はどうなるの?
最初の写真の建物は本殿では無いですよ。
デタラメ 徐福と出雲族の関係を神話化しただけ 素戔嗚尊は徐福
鉄によって形づくられた出雲の風景 奥出雲地方で盛んに行われていた「鉄穴流かんなながし」は、山を切り崩して土砂を流し、それに含まれる砂鉄を採取する方法です。 この鉄穴流しは、山を切り崩すことはもとより、大量の土砂を河川に流すことから、流域の環境に大きな影響を与えました。川底が上がり洪水を起こしやすい「天井川てんじょうがわ」(川底が周囲の平地よりも高くなった川)となることや、流域の農業用水路が埋まることなどは負の側面です。その一方で、先人達は鉄穴流しの跡地を棚田に造成したり、川を流れ下った土砂を利用して新田開発を行うなど、跡地や土砂を有効に利用してきました。 私たちの慣れ親しんだ出雲地方の景観は、たたら製鉄によって育まれたものだったのです。鉄穴流し 再現模型[和鋼博物館 蔵]上流で鉄穴流しが行われた影響で天井川となった斐伊ひい川(島根県東部)奥出雲たたら製鉄及び棚田の文化的景観 奥出雲町には、鉄穴流しの跡地につくられた棚田たなだが広がっています。鉄穴流しの際に削り残された残丘が島のように点在する独特な風景は、「奥出雲たたら製鉄及び棚田の文化的景観」として国の重要文化的景観に選定されています。 その代表的なものとしては、奥出雲町馬木まきの「大原新田おおはらしんでん」が挙げられます。『鐵山記』より描かれた鉄穴流し風景[和鋼博物館 蔵] 鉄穴流しによって拓かれた広大な水田大原新田(奥出雲町馬木) 農林水産省による「日本の棚田百選」にも選ばれた大原新田は、江戸時代の鉄穴流しの跡地を鉄山師である絲原いとはら家が棚田として再生させたものです。 美しく手入れされた大原新田は近年の圃ほ場整備によるもののように見えますが、江戸時代から変わらぬ姿を残す36枚のカンナ田です。あたかも現代の技術で整えたかのように大規模かつ整然と整備された棚田からは、当時の優れた技術が見てとれます。 ブランド米として有名な「仁多にた米」は、奥出雲の棚田で作られています。鉄穴流しが生んだ出雲平野の景観 築地松ついじまつに囲まれた農家が点在する出雲平野、その眺めは出雲の豊かさを感じさせるものですが、この平野の形成には鉄穴流しで流された土砂が関わっています。奥出雲に源を発する斐伊ひい川は、もともと日本海へ注いでいました。江戸時代に入ると、斐伊川は宍道しんじ湖へと流れを変えて流れ下った土砂は湖を埋め、新たに生まれた土地には水田が造られました。鉄穴流しで流され宍道湖を埋めた土砂は、深いところでは6mに達し、土量は2億m²(東京ドーム161個分)に及ぶと試算されています。 出雲を象徴する景観を生んだのも、鉄穴流しでした。
ヤマタノオロチとはなんですか?
木花咲耶姫
争いたくないけど、例えば今の岸田総理の様に周りの反対を押し切って悪い事を立て続けにやる様な話してた聞かれない多数決も無視する独裁、しかも悪い事を進める人にはどうやって和を持てば良いのですか?
オロチー5霊的問題を脳の立場から考えてみよう その2Parole2020年7月25日 19:30執筆:ラボラトリオ研究員 杉山 彰<思い込むための機能>とは、幻影を創り出す機能でもあるのです。 前回は「憑依は、脳が創り出した幻影ではないか?」というお話しをさせていただきました。そこで少し話は変わりますが、人間の最も原始的な感情は「恐怖」です。「恐怖」というものは、人間の脳の中に古くから存在した「喜び」や「悲しみ」よりも起源が古いのです。理由は簡単です。その昔、私たち人間は捕食者をはじめとする危険なものを視覚で捉えたら逃げなければならなかった。それは生死に関わる重要な問題だから、人間は「恐怖」という感情を進化の過程で創りあげてきた。その「恐怖」という感情を生み出すのは、扁桃体という脳の場所である。扁桃体が活動すると、人間は「怖い」と感じる。扁桃体は、危険な行動は避けるという記憶を脳に植え付けるための役割を果たしているのだ。扁桃体そのものには感情はなくて、扁桃体が刺激されて、その情報が大脳に送られると、そこではじめて「怖い」という感情が生まれる。扁桃体は、記憶力を促進したり、記憶力を強化したりするという役割を担っている。だから扁桃体が刺激されると、「怖い」という感情が大脳皮質に送られて回避行動のプログラム、つまり回避行動のパターンが記憶として蓄積されるのだ。なんだかわけがわかりにくくなったかもしれませんが、視覚によって扁桃体が刺激されると、その情報が大脳に送られる。これが3%の情報。3%の情報を受け取った大脳は、過去に蓄積してきた回避行動の記憶パターンを呼び起こして条件反射的に行動を促す。これが97%の内部情報処理のルーティンである。扁桃体が大脳に送り込む情報は、およそ3%である。ときには木陰が揺れただけのわずかな気配を捕食者と誤認して、その情報を大脳に送り込むこともある。大脳は、その情報を捕食者として思い込んで回避行動のパターンをとる。<思い込むための機能>は、ときには幻影を創り出すことにもなるが、危険察知、そして危険回避の側面から考えると、生存のための機能としては最善の手段なのである。ただし、幻影を創り出すことが頻繁化すると、つまり幻影過多に陥り、精神的疲労が積み重なって鬱滞したり、憑依に取り憑かれた幻影を感じたりして、精神異常に悩まされるようになることにもなりかねなくなるのです。
そうですね‼️今の教科書‼️日本の歴史〜古事記・日本書紀~~戦後の歪曲された歴史を教えないですね❗️私も、全てが日本が悪い❗️と教育されました‼️今も~その名残りが多く有りますね‼️
杵築大社=キツキノオオヤシロ
ワニ料理(和邇料理、わにりょうり)とは、広島県のうち三次市や庄原市などの備北地域で食べられる郷土料理である。特徴本稿で述べる「わに」とは、爬虫類のワニではなく、軟骨魚類のサメ(フカ)のことを指す。サメを表す古語で和邇と表記され、『因幡の白兎』伝説で和爾が登場する出雲地方を中心に、現代でもこの呼称が使われている[1]。サメ肉を食べる習慣は世界中で見られるが、一定地域の住民全体が刺身として食べるのは(出雲ではなく)備北地域特有の風習であり、日本国内でも他には宮崎県の一部でしか見られない[1]。サメ肉はトリメチルアミン-N-オキシドおよび尿素の含有量が著しく高いため、食中毒の原因となるヒスタミンの生成が抑制されるうえ、酸化による脂質の変敗も起こりにくい[2]。このため保存性が高く、2週間ほど経過したものでも刺身として食べられており、冷蔵技術が未発達だった頃から山間部で生食できる魚として重宝されていた[3][4]。ただし、河川もあることから、当該地域でも鮎などの淡水魚を食べることはあった。一方、トリメチルアミン-N-オキシドと尿素からそれぞれ生成されるトリメチルアミンとアンモニアに加え、日が経つと肉のpHが上昇して匂いが揮発しやすくなるため、鮮度の低下したサメ肉は強烈な匂いを有する[3]。なお、現代では輸送や保管が低温で行われる事などもあり、アンモニア臭などがない状態で食されている[3]。ただし、「ワニは隣の家まで匂うくらいのものが旨い」、「古くなったワニを味噌漬けにして焼いた時の強烈な匂いが良かった」など、臭気を肯定的にとらえる意見もある[3]。現代では、ネズミザメやアオザメ、シュモクザメ、メジロザメ、オナガザメなど20種類ほどが食べられ、ネズミザメが最も高価となる[5][6]。種類によって肉の色は薄いピンクから紅色までさまざまである[6]。鹿児島県、高知県、静岡県、宮城県、島根県でマグロやカジキとともに水揚げされたものが冷蔵輸送され、年間消費量は150トン余りに達し、その半分が正月と祭りの時期に消費される[7][6]。味については、マグロのトロや甘エビのように甘い、と評される[3]。脂肪が少なくて柔らかく、トリメチルアミン-N-オキシド由来の甘味などが影響しているためと考えられている[3]。歴史天保5年(1834年)に山陰の行商人が三次地方で「ワニの焙り串」を売っていたという記録があるが、江戸時代にはワニの刺身を食べる習慣はなかった[1]。一方、江戸時代から清への輸出のため俵物三品は積極的に漁獲活動が行われ、明治になると1892年頃から石見地方でもふかひれを得るため本格的なサメ漁が始まった[6]。朝鮮半島沿岸などでサメ漁を既に盛んに行っていた山口県や大分県などの漁民はヒレを切った後のサメ肉を海中に投棄していたが、山陰の漁民は近場で操業する事もあってサメ肉を持ち帰り、内陸部に販売するようになった[6]。江戸時代に整備された銀山街道を経て、夜通し荷車を引いて歩く行商人によってサメ肉は五十猛港から中国山地の奥まで輸送された。海産物は干物か塩漬けしか入手できなかった住民に無塩のサメ肉は歓迎されたという[6]。1900年代に入るとトラックも輸送に使われ、この頃から「ワニの刺身」が食べられるようになった[6]。第二次世界大戦前までは、「腹がつべとうなる(冷たくなる)ほど『わに』を食べたい」という言葉があるほど好まれていたという[1]。1950年代にはまだ備北地域では電気冷蔵庫は普及しておらず、安価な事もあってワニの刺身はハレのご馳走として食べられていた[8]。また、鮮度が落ちたものや頭部などは煮こごりにしていたという[8]。電気冷蔵庫が普及し、スーパーマーケットでサメ以外の新鮮な魚介類が販売されるようになると、ワニ料理の地位は相対的に低下した[9]。一方で、1986年には口和町(現・庄原市)にワニ料理の専門店が開店している[9]。現代でも備北地域におけるサメの人気は根強く、「『わに』が無いと祭りも正月も来ん」といわれる[1]。三次市や庄原市等の市内の寿司屋で、メニューに並ぶこともある。調理家庭で作ったワニの刺身刺身現代では、生のまま刺身として食べるのが最もポピュラーである[10]。醤油に加える薬味としてはショウガが最も広く用いられているが、ワサビを使うケースもあり、かつてはアンモニア臭を打ち消す効果が重視されていた[10][8]。なお、1950年代には醤油や砂糖醤油につけて食べるケースもあった[8]。湯引き脂身を薄くそぎ切りにし、湯引き(当該地域では「湯ぶき」と言う)して、酢や味噌、砂糖、ショウガ汁を合わせた酢味噌で和える[10]。煮こごりサメ肉は一般的な魚類より肉基質タンパク質が多いため、煮こごりが作りやすい[11]。頭部を使うものが特に好まれ、かつては大釜で煮て作られた[11]。近年では、刺身を取った後の皮やあらをさっと茹で、熱い内にザラザラの皮を剥がし、ゼラチン状のものを薄く切って醤油で煮る[11]。ワニめし味噌漬けにしたサメ肉を小さく切り、千切りにしたゴボウ、ニンジン、シイタケなどの野菜とともに醤油を加えて炊き込みご飯にする[11]。ワニの巻き寿司サメ肉を鉄火巻風に巻いたもの[11]。サメ肉にガリとマヨネーズを添えて巻く例も報告されている[11]。その他の料理サメを使用した唐揚げ最近では、わにバーガーやワニ丼といったサメを使った商品も販売されるようになってきている。わに茶漬けわにのフライわにの天ぷらわにの南蛮漬けわにカツカレー「わーにんぼ」(鮫のつみれ)わに丼わにバーガーわにまん
私は出雲の出身です。出雲の話を期待して聞きましたが、ガッカリです。今までは面白く聞いていましたが、意外と底の浅い作り話であったと判明しました。一番の間違いは出雲大社と示した建物は神楽殿で、もともとは千家国造の大広間で、大社教の設立に合わせて教団の神楽殿となった物で、出雲大社は国宝で別の場所にあります。大国主の時代背景を現代の社会に想定しての話は論外で、直近の大東亜戦争を現在の時代感覚で解説しているのと同じで、噴飯ものでした。
現代社会も 大東亜戦争も儲かる人は決まってる捉え方によっては 同じじゃん
千木の外そぎ内そぎのお話し男の神様女の神様、例外あります。
現代はアマテラスが居ないからロシアを諭す存在が居ない…
スサノオ(歴史的仮名遣:スサノヲ)は、日本神話に登場する男神。概要『古事記』では建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)、速須佐之男命、須佐之男命、『日本書紀』では素戔男尊、素戔嗚尊等、須佐乃袁尊、『出雲国風土記』では神須佐能袁命(かむすさのおのみこと)、須佐能乎命、神仏習合では牛頭天王などと表記する。罪の観念と関連があるものとされる。神話上、現在の皇室とは、姉弟間のアマテラスとスサノオの誓約でうまれた男神正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命とその子で天孫降臨をした天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命を経て、スサノオは男系上の先祖にあたる[1]。・大国主神(おおくにぬしのかみ)は、日本神話に登場する神。国津神の代表的な神で、国津神の主宰神とされる。出雲大社・大神神社の祭神[1]。神話における記述須佐之男命から大国主神までの系図(『古事記』による)。青は男神、赤は女神『古事記』・『日本書紀』の異伝や『新撰姓氏録』によると、須佐之男命(すさのおのみこと)の六世の孫、また『日本書紀』の別の一書には七世の孫などとされている。父は天之冬衣神(あめのふゆきぬのかみ)、母は刺国若比売(さしくにわかひめ)。また『日本書紀』正伝によると素戔嗚尊(すさのおのみこと)の息子。日本国を創った神とされている。須佐之男命の娘である須勢理毘売命(すせりびめのみこと)との婚姻の後にスクナビコナと協力して天下を経営し、禁厭(まじない)、医薬などの道を教え、大物主神(おおものぬしかみ)を祀ることによって葦原中国(あしはらのなかつくに)の国作りを完成させる。だが、高天原(たかあまのはら)からの天照大御神(あまてらすおおみかみ)の使者に国譲りを要請され、対話と武力を交えた交渉の末に幽冥界の主、幽事の主宰者となった。国譲りの際にかつて須佐之男命から賜って建立した「富足る天の御巣の如き」大きな宮殿(出雲大社)を修復してほしいと条件を出したことに天津神(あまつかみ)が同意したことにより、このときの名を杵築大神(きづきのおおかみ)ともいう。大国主神を扱った話として、因幡の白兎の話、根の国訪問の話、沼河比売への妻問いの話が『古事記』に、国作り、国譲り等の神話が『古事記』と『日本書紀』に記載されている(但し、『日本書紀』では「大国主神」という神名ではない)。『出雲国風土記』においても多くの説話に登場し、例えば意宇郡母里郷(現在の島根県安来市)の条には「越八口」を大穴持命が平定し、その帰りに国譲りの宣言をしたという説話がある。また山陰、四国、近畿、三遠信、北陸、関東など広範囲における地方伝承にも度々登場する。・アメノワカヒコ(天若日子、天稚彦)は、日本神話に登場する神。事績葦原中国を平定するに当たって、遣わされた天之菩卑能命(アメノホヒ)が3年たっても戻って来ないので、次に天若日子が遣わされた。しかし、天若日子は大国主神の娘下照比売(シタテルヒメ)と結婚し、葦原中国を得ようと企んで8年たっても高天原に戻らなかった。そこで天照大御神と高御産巣日神(タカミムスビ)は雉の鳴女(ナキメ)を遣して戻ってこない理由を尋ねさせた。すると、その声を聴いた天佐具売(アメノサグメ)が、不吉な鳥だから射殺すようにと天若日子に勧め、彼は遣わされた時に高皇産霊神から与えられた弓矢(天羽々矢と天之麻迦古弓)で雉を射抜いた。その矢は高天原まで飛んで行った。その矢を手にした高皇産霊神は、「天若日子に邪心があるならばこの矢に当たるように」と誓約をして下界に落とす。すると、その矢は寝所で寝ていた天若日子の胸に刺さり、彼は死んでしまった。天若日子の死を嘆く下照姫の泣き声が天まで届くと、天若日子の父の天津国玉神は下界に降りて葬儀のため喪屋を建て八日八夜の殯をした。下照姫の兄の阿遅鉏高日子根神(アヂスキタカヒコネ)も弔いに訪れたが、彼が天若日子に大変よく似ていたため、天若日子の父と妻が「天若日子は生きていた」と言って抱きついた。すると阿遅鉏高日子根神は「穢らわしい死人と見間違えるな」と怒り、大量を抜いて喪屋を切り倒し、蹴り飛ばしてしまった。喪屋が飛ばされた先は美濃の藍見の喪山だという。
天照大神も七代いたのかな?
先生 日本の本当の神様 古神道では、八百万の神で クニトコダチノミコトじゃないのですかね?明治から 神社庁が天照大神が日本の最高神とされた 話があります。どうなんだろうと⁇謎です
出雲大社教ー1(いずもおおやしろきょう)は、1882年(明治15年)、当時の出雲大社前大宮司・第八十代出雲國造・千家尊福(せんげたかとみ)が創設した教団である。教派神道(神道十三派)の一つ。概要島根県出雲市の出雲大社の境内に本部(教務本庁)があり、出雲大社の職員が出雲大社教の職員を兼務している。ただし、出雲大社が神社本庁に所属するのに対し、出雲大社教は神社本庁には所属していない。法的に言うと、宗教法人出雲大社が宗教法人神社本庁の被包括宗教法人であるのに対し、宗教法人出雲大社教は宗教法人神社本庁の被包括宗教法人ではなく、単立宗教法人となっている。明治時代に、日本の神道諸派を糾合して国家(国家神道)における宗教行政を定めるために設立された神道事務局において、出雲大社系の神官(「出雲派」、または「大社派」)が伊勢神宮系の神官(「伊勢派」、または「神宮派」)と対立した結果、伊勢派が主流を占める国家神道から出雲派が独立する形で設立された物である。宗教としては神道系新宗教(教派神道)に分類される。明治13年に東京都日比谷の神道事務局に設けられた神宮遥拝所において、神造化三神(天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神)および天照大神の四柱を祀ると決定されたことに対して、出雲派は大国主大神も祀るべきだと主張し、伊勢派との間で大きな論争になったが、伊勢派が明治天皇の支持を得たこともあって、出雲派は敗北し、大国主は祀られないことになった(明治13年の祭神論争)。さらに、明治15年1月に明治政府が布告した「神官教導職分離令」によって、神社に奉仕する神官と布教を行う教導職が分離され、これによって出雲大社に勤務する神官が国家とは別に独自に出雲信仰の布教を行うことが禁止された。そのため、当時の出雲派(千家)のトップである千家尊福は、出雲大社大宮司を辞職して自らが教団の開祖となり、信仰組織を出雲大社本体および国家神道から分離させる形で明治15年に設立した。出雲大社教は昭和26年に出雲大社と統合されたが、その後も法人としては出雲大社教と出雲大社は別団体となっている。大国主大神を主神として祀っており、大国主への祭祀を担う出雲国造家の始祖である天穂日命を「教祖」としている。出雲大社教の事実上の創始者である千家尊福は「開祖」とされており、代々の出雲国造は天穂日命の子孫としてその霊魂を継承しているので、出雲国造家第80代の千家尊福もまた天穂日命であるとされる[1]。なお、伊勢派の神道(昭和21年に設立された宗教法人神社本庁を運営している)において祭祀を担っている天皇家は、瓊瓊杵尊を始祖としているが、この瓊瓊杵尊は天穂日命の兄(天忍穂耳尊)の息子と言う位置づけである。なので、天皇は「出雲大社教の教祖の兄の息子の子孫」と言う位置づけになる。明治6年に千家尊福が全国各地の出雲講(出雲大社を宗祠とする組織)を結集して設立した「出雲大社敬神講」を母体とする。布教機関は全国に渡り設けられていて、特に中国地方を中心とした西日本に多くの分祠、教会等がある。これらは神社本庁にも出雲大社にも所属せず、あくまで「出雲大社教の布教機関」であるため、「神社」や「分社」などと名乗ることはない(法的に言うと、宗教法人神社本庁の被包括宗教法人であるところの「神社」でもなく、宗教法人神社本庁の被包括宗教法人である宗教法人出雲大社の被包括宗教法人であるところの「分社」でもなく、あくまで宗教法人出雲大社教の被包括宗教法人である)が、アメリカ占領時代の沖縄に設置された「出雲大社沖縄分社」のみは、当時「教会」の呼称が認められなかったため、例外的に「分社」を名乗っている。有名なところでは、出雲大社教の成立に伴って出雲派の神社であった神田明神から分離する形で設立された出雲大社東京分祠などがある。また、全国に出雲大社を信仰する組織があり、「講」と呼ばれる。出雲大社教は教団としてこれらの講を包括する組織であるが、組織性はあまり強くない。統理者にあたる管長職は千家家が代々世襲している。2014年現在の管長は六代・千家隆比古である[2]。出雲大社附属の神職養成所である大社國學館では、卒業の際、神社本庁の神職の階位のほかに出雲大社教の教師資格も授与される。なお、同じく出雲大社と大国主を祀る出雲教は、南北朝時代に出雲家から分かれた千家とともに出雲国造を担った北島家(北島国造家)が興した神道の一派。北島家は明治時代まで出雲大社の宮司職を千家と分担していたが、明治15年の「神官教導職分離令」に伴い千家が出雲大社教を起こしたのと同様に、北島家も出雲大社から分離して出雲教を結成した。第二次大戦後に出雲大社と出雲大社教が統合され、出雲大社の宮司職は千家が独占するようになったため、北島家は出雲大社の敷地に隣接する北島家の屋敷(北島国造館)にて出雲大社を祀っている。常陸国出雲大社(旧・出雲大社常陸教会)は、出雲大社教からの分派である。2013年、出雲大社常陸教会が永谷園とタイアップしたことに対して、神社本庁の昭和54年通達「神符守札を一般商品の付加品としたり、宣伝の材料にしてはならない」という規定に反するとして出雲大社教が通告文を提出したが、本来なら神社本庁と対立する存在であるはずの出雲大社教が神社本庁の通達を名目に通告文を提出してきたことなどに、出雲大社常陸教会側が不満を募らせ、独立した[3]。なお、出雲大社が常陸教会にたいして千家尊祐(出雲大社宮司で、出雲大社教では「国造様」と呼ばれる)の名前を出して通告した、とフライデーで報道されたことに対しては、出雲大社と出雲大社教は無関係であるのでそのようなことはない、と出雲大社教側ではしている[4](このように、戦後の出雲大社と出雲大社教は実質的に統合されているにもかかわらず、名目上は別団体であり、出雲大社は神社本庁に従属しているのに対して出雲大社教は神社本庁と対立しているという、微妙な関係にある)。
言靈に目覚めよう!
去年、出雲大社に参拝させて頂いたのですが、この事が関係しているのかも私には分かりませんし、私が感じただけなので確証も無いのですが、出雲大社の本来の神様はいつでも破れるのに誰かに封じられた事を利用して機会が来るまで隠れていて、表面には違うのが居る様な気がしてしまいしょうがないのですが…。
出雲観光マップ二千年の眠りから覚めた出雲王国の証一片の土器からはじまった遺跡調査1983年(昭和58)、広域農道の建設に伴い斐川町神庭西谷周辺で遺跡分布調査を行ったところ、調査員の一人が田んぼの畦で須恵器(古墳時代の後半から日本でつくられた陶質の土器)の破片を拾いました。この谷の南側に「三宝荒神」が祀られていることから遺跡名を「荒神谷遺跡(こうじんだにいせき)」と命名、翌年1984年から始まった本格的な発掘調査により、銅剣358本が発掘されました。それまで全国で出土した銅剣の総数は約300本、荒神谷遺跡はそれを一ヶ所で上回る出土数で、当時の日本古代史学・考古学界を大きく揺るがす大発見となりました。さらに翌年の1985年にはそこから7mほど離れた地点で銅鐸6個、銅矛16本という大量の青銅器が出土。これらは全て1998年に「島根県荒神谷遺跡出土品」として国宝に指定されています。写真1358本の銅剣遺跡の場所は斐川町の仏経山(ぶっきょうざん)から北東3kmの位置にあります。標高22mの小さな谷間の南向きの斜面に上下二段の加工段が作られ、その下段に刃を起こした状態の銅剣が合計358本、4列に整然と並べた形で埋められていました。銅剣は約2200年前の弥生時代前期、朝鮮半島より武器として伝わってきたといわれ、銅に少量のすずや鉛などをまぜた合金で、作られたときは金色の輝きを帯びていたものと思われます。これらはいつどこで作られたものかなど、はっきり分かっていませんが、同じ鋳型で製造されたものが多いことから、同じ時期に同じ場所で作られたものだと考えられています。青銅器につけられた謎の刻印銅剣に刻まれた「×」印加茂岩倉遺跡で発掘された銅鐸にも同じ刻印が出土した358本の銅剣のうち344本に「×」印が刻まれていました。荒神谷遺跡の発見から12年後の1996年、ここから山を隔てた3.4kmの加茂岩倉遺跡(かもいわくらいせき)から39個という大量の銅鐸が発見され、そのうちの14個にも、銅剣と同じ「×」の刻印が見つかっており、二つの遺跡の関係性や刻印の意味などが注目されています。※これら銅鐸も全て国宝に指定され、加茂岩倉遺跡も国の指定史跡となっています。人々の想像をかきたてる古代出雲の真相写真5まさに世紀の大発見といえるこれら青銅器の大量出土ですが、一体いつ誰が、何のために埋めたのかなど、詳しい事はほとんど分かっていません。それまで島根県は青銅器の出土例や遺跡等の発見もほとんどなく、考古学上それほど注目をされていませんでした。日本最古の歴史書である「古事記」などには古代出雲の記述があり、神話の舞台としても数多く登場する地であるにもかかわらず、「出雲王国」を具体的に証明できるものがなかったため、それらは神話の域を脱する事はありませんでした。しかしこの大量の青銅器の発見に「出雲には何かがあった」と出雲王国の存在を誰もが感じ、神話は一気に現実味を帯びることになりました。※実際に出土した青銅器は、現在は文化庁が所蔵し、古代出雲歴史博物館に常設展示されています。また古代出雲歴史博物館においても、修復作業や他県への出品等で、全点展示されていないことがあります。詳しくは古代出雲歴史博物館までお問い合わせください。青銅器の埋納諸説あなたはどれだと思いますか?大量の青銅器の埋納については様々な推測が飛び交い、いまだ多くの謎に包まれています。それゆえに想像やロマンは膨らみ、古代出雲を探求する人は後を絶ちません。だれがいつ、何のために埋めたのか。遺跡を訪ね、その謎を解いてみませんか?1.祭祀説 雨乞い、収穫、地鎮など豊穣の祈りを大地に捧げる祭祀2.保管説 マツリの儀式の時に取り出して使用するため、普段は土中に保管した3.隠匿説 大切な宝である青銅器を、部外者から奪われないように隠した4.廃棄説 時代の変化により青銅器が不要になったため破棄された5.境界埋納説 共同体間の抗争の緊張から生まれた“境界意識”の反映荒神谷博物館展示ガイドブックより引用荒神谷史跡公園写真8毎年たくさんの花を咲かせる古代ハス(正式名称/大賀ハス)荒神谷史跡公園は、荒神谷遺跡を中心とする「出雲の原郷」の歴史景観を守り未来へと伝えることを目的に、平成7年5月にオープンしました。公園中央にある西谷池を中心に、北側に遺跡や博物館、南側にはアスレチックや古代復元住居などがあり、大人から子どもまで楽しめる複合施設になっています。公園の北側と南側の二ヶ所に駐車場があり、遺跡や博物館へは北駐車場が便利です。北駐車場から公園に入ると右手に荒神谷博物館、正面奥には5000㎡の水田があり、6月中旬頃からは約5万本のハスの花が水田一面に咲き誇ります。古代の小径と呼ばれる水田の脇道を進むと遺跡があり、実際に銅剣が出土した場所をご覧いただけます。出土した当時の状況がレプリカで再現され、少し高い場所から遺跡全体を見ることもできます。希望があればボランティアガイドさんが遺跡を案内してくれます。古代の生活を復元した竪穴式住居も。荒神谷博物館荒神谷博物館では、企画展示や大型映像、ジオラマなどで遺跡の謎にせまります!また館内ミュージアムショップでは特産品や遺跡や神話の関連書籍を販売しています。荒神谷遺跡の改修整備工事について国指定史跡荒神谷遺跡の改修整備をおこなうことにより、見学しやすい環境を整える工事が予定されています。工事中は遺跡の見学ができません。荒神谷博物館は通常どおり開館しています。工事の期間につきましては、荒神谷博物館ホームページをご覧いただくか、博物館に直接お問合せください。
水運に関しては、箱庭のような出雲文化圏。なんでいわんのかな。どうしても、天ちゃんに引っかかるからか。そこで完結した、文化圏の、出雲文化圏。地元の伝承などかんがえると。全く違う。古事記自体おかしい。稲佐の決闘は、相撲で言うおっつけが、かかって、つららのように棒立ちになったのが、今の相撲とおなじ、基本。
千家 国麿(せんげ くにまろ、1973年9月2日 - )は、日本の神職。出雲大社権宮司(2014年 - )。経歴1973年(昭和48年)9月2日、島根県出雲市で誕生[1]。父は第84代出雲国造で出雲大社宮司の千家尊祐[2]で、弟に誠比古、徳比古らがいる。島根県立大社高等学校、1996年(平成8年)3月國學院大學文学部神道学科卒業(104期)。大学卒業後の1996年(平成8年)4月から乃木神社、2001年(平成13年)4月から石清水八幡宮、2005年(平成17年)3月から出雲大社で神職を務めている[1]。同年11月から、御遷宮準備室長兼出雲大社御遷宮奉賛会事務局長。その後禰宜(ねぎ)・祭務部長に就任[3][4]。2014年(平成26年)9月7日付で、出雲大社の権宮司に就任した[5]。2014年5月27日午前に、高円宮憲仁親王の第二女子・典子女王との婚約が宮内庁の西ヶ廣渉宮務主管から発表され、同日午後、宮内庁第一会議室で典子女王(当時)とともに記者会見を行った[6]。同年10月5日に出雲大社で結婚式を挙げた[7]。人物千家家は代々出雲国造を務めており、「古事記」、「日本書紀」によると、天照大神、天穂日命、建比良鳥命の家系であると伝えられている。趣味はバードウォッチングとカメラである[4]。義母の高円宮妃は国際環境NGO「バードライフ・インターナショナル」名誉総裁であり、実父の千家尊祐も同団体日本法人の特別顧問を務めていることからバードウォッチングを通しても両家の交流があった[8]。
古事記には出雲風土記との関連性が不足かと? 宮崎県高千穂と出雲では天孫降臨は成立しないかと、出雲大社は明治4年からです 出雲記念館に全国にいずもがありますと記されいます。古事記は出雲大社では無いと思います 大嘗祭が三木家で行われる事から古事記は阿波に地名などが沢山出てきます。ご確認下さい。
松江城(まつえじょう)は、現在の島根県松江市殿町に築かれた江戸時代の日本の城。別名・千鳥城。現存天守は国宝、城跡は国の史跡に指定されている。概要南櫓1本丸 2二の丸上段 2s二の丸下段 3三の丸 H大手門小瀬甫庵の縄張りによる平山城。江戸時代には松江藩の政庁として、出雲地方の政治経済の中心であった。山陰地方で唯一の現存天守であり、国宝指定された5城のうちの一つである(他は犬山城、松本城、彦根城、姫路城)。標高29メートルの亀田山に建つ天守からは宍道湖を眺望することができる。明治時代初頭に廃城令によって松江城は陸軍省所管となり城内の建物は全て解体され売却される予定だったが、地元の有志によって天守閣だけは買い戻されて解体を免れた。近年、二の丸の櫓が復元されるなど往年の姿を取り戻しつつある。昭和初期に城山部分は公園として開放され、現在は指定管理者制度に則り、特定非営利活動法人松江ツーリズム研究会が運営をしている。日本さくら名所100選や都市景観100選に選ばれるなど島根県の主要な観光名所となっている。歴史・沿革前史鎌倉時代から戦国時代かけて、この地に末次城(末次の土居)が置かれた。城下町城下町の模型亀田山は北の奥谷方面から続く丘陵の南端にあたり、現在松江北高校のある赤山との間には宇賀山と呼ばれる丘陵があった。本丸北側の内堀開削は宇賀山を開削する大工事となり、大量に出た土砂は城下の整備に利用された。松江城のある大橋川以北の島根郡側では、殿町、母衣町、田町、内中原町。外中原町などが武家屋敷地、京橋川以南の末次が町人地に割り当てられた。大橋川以南の意宇郡側では、白潟が町人地と寺町に割り当てられ、松平氏時代になると天神川以南の津田街道(山陰道)沿いに足軽町(雑賀町)が建設された。塩見縄手(旧武家町) - 北堀川周辺の、松江藩家老の塩見家の屋敷があった地区。松江市伝統美観指定地区になっているほか、日本の道100選に選ばれている。武家屋敷、明々庵、小泉八雲記念館、小泉八雲旧居、田部美術館など。その他人柱伝説天守台の石垣を築くことができず、何度も崩れ落ちた。人柱がなければ工事は完成しないと、工夫らの間から意見が出た。そこで、盆踊りを開催し、その中で最も美しく、最も踊りの上手な少女が生贄にされた。娘は踊りの最中にさらわれ、事情もわからず埋め殺されたという。石垣は見事にでき上がり城も無事落成したが、城主の父子が急死し改易となった。人々は娘の無念の祟りであると恐れたため、天守は荒れて放置された。その後、松平氏の入城まで天守からはすすり泣きが聞こえたという城の伝説が残る。また、城が揺れるとの言い伝えで城下では盆踊りをしなかった(小泉八雲「人柱にされた娘」など)。天守台下の北東部石垣が何度も崩落するため困っていたところ、堀尾吉晴の旧友という虚無僧が現れて、崩落部分を掘らせたところ槍の刺さった髑髏が出てきたので虚無僧が祈祷したが、まだ危ういところがあるというと虚無僧は「祈祷では無理だ。」というのである。どうすればいいのか尋ねると、「私の息子を仕官させてくるのであれば、私が人柱になろう。」というので、虚無僧に人柱になってもらい工事を再開させることができたが、堀尾家は普請の途中に2代忠晴で絶え改易となった、というものである[12]。これには別に、虚無僧の尺八が聞こえてきたので捕まえて人柱にしたところ、尺八の音が聞こえるようになった、というものもある。[13]
建御雷神(たけみかづち、タケミカヅチノオ)は、日本神話に登場する神。概要「地震のおかげで普請が増え、大工が儲けて大喜びしている」という、地震よけの歌にかこつけた風刺画(安政2年10月の瓦版)。ナマズを抑えるのは鹿島神ことタケミカヅチ[1]『古事記』では建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ)、建御雷神(たけみかづちのかみ)、別名に建布都神(たけふつのかみ)、豊布都神(とよふつのかみ)と記され、『日本書紀』では武甕槌や武甕雷男神などと表記される。単に「建雷命」と書かれることもある[2]。また、鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)の主神として祀られていることから鹿島神(かしまのかみ)とも呼ばれる[3]。雷神、かつ剣の神とされる[2]。後述するように建御名方神と並んで相撲の元祖ともされる神である。また鯰絵では、要石に住まう日本に地震を引き起こす大鯰を御するはずの存在として多くの例で描かれている。古事記・日本書紀における記述神産み神産みにおいて伊邪那岐命(伊弉諾尊・いざなぎ)が火神火之夜芸速男神(カグツチ)の首を切り落とした際、十束剣「天之尾羽張」(アメノオハバリ)の根元についた血が岩に飛び散って生まれた三神の一柱である[4]。剣のまたの名は伊都尾羽張(イツノオハバリ)という[5]。『日本書紀』では、このとき甕速日神(ミカハヤヒノカミ)という建御雷の租が生まれたという伝承と、建御雷も生まれたという伝承を併記している[6]。葦原中国平定「出雲の国譲り」の段においては伊都之尾羽張(イツノオハバリ)の子と記述されるが[7]、前述どおり伊都之尾羽張は天之尾羽張の別名である。天照大御神は、建御雷神かその父伊都之尾羽張を下界の平定に派遣したいと所望したが、建御雷神が天鳥船(アメノトリフネ)とともに降臨する運びとなる[7]。出雲の伊耶佐小浜(いざさのおはま)に降り立った建御雷神は、十掬の剣(とつかのつるぎ)を波の上に逆さに突き立てて、なんとその切っ先の上に胡坐をかいて、大国主神(オオクニヌシノカミ)に対して国譲りの談判をおこなった。大国主神は、国を天津神に譲るか否かを子らに託した。子のひとり事代主神は、すんなり服従した。もう一人、建御名方神(タケミナカタ)(諏訪の[3]諏訪大社上社の祭神[7])は、建御雷神に力比べをもちかけるも、手づかみの試合で手をつららや剣に変身させ、怯んだ建御名方神はその隙に一捻りにされたため、恐懼して遁走し、科野国の洲羽の湖で降伏した。これによって国譲りがなった[2]。このときの建御名方神との戦いは相撲の起源とされている[8]。『日本書紀』では葦原中国平定の段で下界に降される二柱は、武甕槌と経津主神である。(ちなみに、この武甕槌は鹿島神社の主神、経津主神は香取神社の主神となっている[3]。上代において、関東・東北の平定は、この二大軍神の加護に祈祷して行われたので、この地方にはこれらの神の分社が多く建立する[3]。)『日本書紀』によれば、この二柱がやはり出雲の五十田狭小汀(いたさのおはま)に降り立って、十握の剣(とつかのつるぎ)を砂に突き立て、大己貴神(おおあなむち、大国主神のこと)に国譲りをせまる。タケミナカタとの力比べの説話は欠落するが、結局、大己貴神は自分の征服に役立てた広矛を献上して恭順の意を示す[9]。ところが、二神の前で大己貴命がふたたび懐疑心を示した(翻意した?)ため、天津神は、国を皇孫に任せる見返りに、立派な宮を住まいとして建てるとして大己貴命を説得した[10]。また同箇所に、二神が打ち負かすべく相手として天津甕星の名があげられ、これを征した神が、香取に座すると書かれている。ただし、少し前のくだりによれば、この星の神を服従させたのは建葉槌命(たけはづち)であった[11]。神武東征さらに後世の神武東征においては、建御雷の剣が熊野で手こずっていた神武天皇を助けている。熊野で熊が出現したため(『古事記』[12])、あるいは毒気(『日本書紀』[13])によって、神武も全軍も気を失うか力が萎えきってしまったが、高倉下(たかくらじ)が献上した剣を持ち寄ると天皇は目をさまし、振るうまでもなくおのずと熊野の悪神たちをことごとく切り伏せることができた。神武が事情をたずねると高倉下の夢枕に神々があらわれ、アマテラスやタカミムスビ(高木神)が、かつて「葦原中国の平定の経験あるタケミカヅチにいまいちど降臨して手助けせよ」と命じるいきおいだったが、建御雷は「かつて使用した自分の剣をさずければ事は成る」と言い、(高倉下の)倉に穴をあけてねじ込み、神武のところへ運んで貢がせたのだという。その剣は布都御魂(ふつのみたま)のほか、佐士布都神(さじふつのかみ)、甕布都神(みかふつのかみ)の別名でも呼ばれている[12](石上神宮のご神体である)。考証神産み神話(イザナキ・イザナミが生んだ神々) SVGで表示(対応ブラウザのみ)混同されがちな経津主神は別の神で、『日本書紀』では葦原中国平定でタケミカヅチとともに降ったのは経津主神であると記されている。経津主神は香取神宮で祀られている物部氏の神である。名義は甕速日神と共に産まれてきたことから、名義は「甕(ミカ)」、「津(ヅ)」、「霊(チ)」、つまり「カメの神霊」とする説[14]、「建」は「勇猛な」、「御」は「神秘的な」、「雷」は「厳つ霊(雷)」の意で、名義は「勇猛な、神秘的な雷の男」とする説がある[15]。また雷神説に賛同しつつも、「甕」から卜占の神の性格を持つとする説がある[16]。祭祀を司る中臣氏が倭建命の東国征伐と共に鹿島を含む常総地方に定着し、古くから鹿島神ことタケミカヅチを祖神として信奉していたことから、平城京に春日大社(奈良県奈良市)が作られると、中臣氏は鹿島神を勧請し、一族の氏神とした。異説元々は常陸の多氏(おおうじ)が信仰していた鹿島の土着神(国津神)で[17]、海上交通の神として信仰されていたとする説がある[17] 。大和岩雄の考察によれば、もともと「大忌」つまり神事のうえで上位であるはずの多氏の祭神であったのだが、もとは「小忌」であった中臣氏にとってかわられ、氏神ごと乗っ取られてしまったのだという(『神社と古代王権祭祀』)[17]。一方で宝賀寿男は系図、習俗・祭祀、活動地域、他氏族との関わりから、多氏を天孫族、中臣氏を山祇族に位置づけ、建御雷神を最初から中臣氏が祖神として奉斎した氏神(天児屋命の父神)と独自の主張を行った。この説によると、山祇族(紀国造、大伴氏、久米氏、隼人等[要出典][なぜ?])[注釈 1]は月神、火神、雷神、蛇神と縁が深く[要出典][なぜ?]、これらを祖神としてきたため[要出典]、祖系には火神・雷神が複数おり、そこから建御雷神の位置づけを推定したとする。実際に建御雷神と中臣氏の遠祖である天児屋命を繋ぐ系図が存在[要出典]し、中臣氏歴代にも津速産霊命、市千魂命、伊香津臣命、雷大臣命など「雷」に関係した神名・人名が見られ[要出典]、中臣氏と同祖と見られる紀国造にも雷神祭祀(鳴雷神社)や天雷命など雷に関わる神名が見られる[19][20]。さらにはヤマト王権の東国進出の際、鹿島が重要な拠点となったが、東方制覇の成就祈願の対象も鹿島・香取の神であることは葦原中国平定で既に述べた。こうしたことで、タケミカヅチがヤマト王権にとって重要な神とされることになった。信仰鹿島神宮、春日大社および全国の鹿島神社・春日神社で祀られている。
出雲神社は特異な神社。 作法も違う。
たたら製鉄ー2たたらの語源ともなったフイゴにも時代ごとの変遷はあるものの、おおむね箱形炉をはさんで長辺側に2台設置されるのが一般的で、それぞれに約20本ずつ取り付けられた「木呂(きろ)」と呼ばれる送風管によって炉壁の両側下部より空気を送り込む。炉の内部は下に向かって徐々に狭まってゆく構造で、幅が最も小さくなる底部周辺に羽口があり、そこに鉄が生成される。羽口は2段階の太さになっており、先のほうが細い。、これは後述する鉧押し(けらおし)の炉にのみ見られるもので、炉内にケラが出来始めて炉壁を侵食してゆき、それが中程まで進んで羽口の太い所まで来た時には最も火力を上げる時期に差し掛かるため、フイゴの速度を上げてより多くの風を送り込むための工夫である[20]。また、除湿と保温のための地下構造もたたら製鉄の発展に伴ない拡大してきた。近世中期には上部構造物の3倍の規模をもち、炉の火力を落とさないためのさまざまな工夫が見て取れる。まず地下約1.5 - 2メートルにかけて厚い粘土の層を設けてそれより下からの地下水や湿気を遮断する。粘土層の下には木炭や砂利などの層が続き、最下部中心には排水溝を通す。一方、粘土層の上には深さ1.5メートル程の「本床(ほんどこ)」を設け、その中に薪を詰めて蒸し焼きにすることで地下構造全体を十分に乾燥させる。薪は木炭となって残り、それをそのまま突き固めて木炭と灰の層とする。また、本床の両側には「小舟(こぶね)」と呼ばれる熱の遮断と湿気の発散を目的とした小さな空間を設ける。[21][22]規模の変遷こそあるものの、初期を除いてたたら製鉄の基本構造に、時代ごとで根本的と言える程の違いは存在しなかった。なお、古来からある日本独自の溶鉄炉には「こしき炉(甑炉)」と呼ばれる炉もあり、混同されることがあるが両者は構造が全く異なる[23](キューポラを参照)。たたら製鉄の歴史概略広島県立みよし風土記の丘に移築復元された戸の丸山製鉄遺跡(古墳時代後期)の製鉄炉。古代における国内製鉄に関しては未だ詳しくわかっていないことも多い。最古級の遺跡に、弥生時代中期頃の奴国に比定される福岡県の赤井手遺跡があるが、この遺跡は製鉄を行った遺跡ではなく、鉄素材を加工して鉄器を製作した鍛冶遺跡であった。古典的には、弥生時代に、朝鮮半島から持ち込まれた原料を用いた製鉄が始まったと考えられてきた[24]。ただしこの説の根拠とされる遺跡の炭素年代の検討には疑義があり、確たる説と認められるには至っていない[25]。文献学的な見地で見た場合、記紀における内容や「多多良」という姓氏、和名の発生時期などから、すでに5世紀前後には国内製鉄が行われていた可能性も指摘されている[26]。考古学的に信頼できる確かな証拠としては、6世紀半ばの吉備地方に遡る[25]。ここでは、最初期には磁鉄鉱、6世紀後半からは砂鉄を原料として使用していた[25]。国内で調達が容易な砂鉄を原料とすることで、製鉄法は吉備地方から日本各地へ伝播したとみられる[27]。また、日本の製鉄法は、大陸や朝鮮半島、あるいは世界各地の製鉄法と比較して、炉の形状が特異である[27]。大陸や朝鮮半島での製鉄では円筒形で高さのある炉が用いられているのに対し、吉備地方から伝わった製鉄法では箱型で高さの低い炉が用いられた[25]。なぜこのような独特の技法が編み出されたのかは解明されていない[25]。なお、近年の発掘、研究の進展によって、福岡県福岡市の博多遺跡群や、長崎県壱岐のカラカミ遺跡などでは、弥生時代の製鉄遺跡と思われる痕跡が相次いで見つかっている[28]。当初は自然風のみを利用した方法であったため、「鉄滓(のろ)」と呼ばれる不純物を多く含んだスポンジ状の海綿鉄ができ、それを再度加熱した上、ノロと余分な炭素を叩き出すことで錬鉄や鋼に加工した。間もなくしてフイゴが使われるようになると、その後の技術の改良や進歩によってたたら製鉄は徐々に規模を拡大し始める。続く奈良・平安期頃にはどういった鉄が生産されていたのか不明であるが、遺跡の発掘によって中国地方の山陰、東北地方の南部では砂鉄が、山陽では鉄鉱石が多く原料に使われたことが分かっている[29]。すでに初歩的な地下構造が出現し、炉も大型化が進んだ[30]。中世以降のたたら製鉄には間接製鋼法である「銑押し(ずくおし)」と直接製鋼法である「鉧押し(けらおし)」とが存在した。前者は中世から[31]近代の半ばにかけて全国で広く行われた方法であり[32]、対して後者は16世紀初頭になって登場した播磨国の「千種鋼(ちぐさはがね)」を始まりとする[注釈 3]。また年代ごとの方式の変遷として、古代・中世における露天型の「野だたら」から、近世中期以降の屋根を備えた固定型の「永代たたら」への移行といった流れがある。このような長い変遷を経たのち、たたら製鉄が成熟し完成の域に達するのは18世紀に入ってからのことである[34]。
古代環日本海の交通と貿易センタービルー4貿易センターとしての出雲大社の構造平安時代の史料に、日本には三大建築物、三大高層建築物があると、「口ずさみ」と申しまして、人々が歌に歌っていました。それが伝えられております。平安時代の三大建築は、出雲大社と東大寺の大仏殿と平安京の大極殿だそうです。この三つは、私たちも納得できる大きさを、多分、古代の世界では誇っていたであろうことは納得できるわけです。出雲大社の「金輪御造営差図(かなわのごぞうえいさしず)」は、江戸時代に描かれた造営設計図で、本居宣長が引用していますが、それも私たちは信じられないといってきましたが、ご覧のように巫女さんに比べて非常に大きな木組みのもとになった、その出雲大社の設計図まで発見されていることで、信ぴょう性が増しました。出雲大社が今あるよりずっと大きい建物であったことは容易に想定されます。出雲大社と東大寺大仏殿は、今は江戸時代の造営なので非常に小さくなっておりますが、もっと大きいものであったことは分かっています。平安時代に天下無双の大厦と称され、16 丈以上の高さはあったという「金輪御造営差図」は、先ほどお見せした引橋一町の階段を持ったような大きな建物でした。何のために建築物が造られたかというと、貿易センターとしてどこからも見晴るかすことができる大規模建造物でなければならず、その地域の人々が海の彼方から来る人々と貿易、交易を持つためであったのだろうと私は思います。史料⑰出雲大社が非常に大きな建築物であったことには、さまざまに面白い伝承もあります。史料⑰に『懐橘談』を載せております。平安時代の末に、出雲大社は非常に高い建物だったので、しょっちゅう倒壊しました。しょっちゅう地震に遭い、雨風に遭い、倒れます。ところが、倒れても性懲りもなく出雲大社は全て再建されます。再建には大変お金が掛かります。大きな材木も要ります。大きな材木が必要となると、「国司帥中納言藤原家任が日記に云う」という形で書かれているのは、天仁三年、海の彼方から稲佐浦に大木が 100 本流れ着いたと。これは神様の御示現だというわけですが、因幡の上宮の御近辺に長さ 15 丈、直径 1 丈 5 尺の大木が寄ってきた。それを切ろうとしたら、これは出雲大社の造営に使うから切ってはならないと大きなヘビがまといついて言ったとあります。そして、その木が出雲大社の造営に利用されました。この話は、「寄木よ り きの造営ぞ う え い」といわれており、永久三年、天仁三年から間もなくして出雲大社が再建された、これを神の御示現によって 15 丈の長さの木が海から流れ着いたから、それで造営ができたという伝承に結びついていったわけです。それと同じようなことが、東大寺の「大仏縁起」にも、長門国で切り出した木を大和へ持ってこようとするときに龍などが助けて、東大寺大仏殿の材木を調達し、大和へ運んだと書かれております。つまり、東大寺にしても出雲大社にしても、非常に大きな木が利用されて造られた建物でした。それが『日本書紀』の断片的な記述を探っていくと、なんと、今は全く失われている渟足柵、新潟は非常に地盤の悪い所であり、ボーリングして渟足柵の痕跡が出てこないかといわれていますが、そうしたものを幾つ掘っても、なかなか新潟の土壌はすごく軟らかくて分かっていません。しかし、そうした史料から想定されるのは、渟足柵は、平安時代に東大寺、出雲大社、平安京大極殿などの三大大厦と呼ばれた建物に匹敵するような規を持っていたのではないかということです。それが日本海にそびえていました。それは、最初に見た朱鷺メッセの上から見晴らかせるような、非常にランドマーク的な意味合いの強い建物が、『日本書紀』の例を見ても、さまざまな発掘事例を見ても、大概日本海沿岸の河口に造られているか、潟湖という入り込んだ水辺に造られています。それは、出雲大社が潟湖に向かって階段を延ばしているように、防御の砦でも何でもなく、日本海の人々と交易するために造られた建物ではなかったかという壮大な仮説を立ててみるわけです。こういう史料が日本側にあるのですから、環日本海の向こう側に同じような発掘事例はないのか、本当はロシアや朝鮮、中国などの研究者とも検討してみればいいわけですが、残念ながら、今何がこだわられているかというと、まず「日本海」という名称自体が拒否反応を招いてしまい、これがなかなか国際的シンポジウムなどを設定できないジレンマがあります。日本側の発信がなかなか受け入れられないという非常に残念な事態なのです。衣服、建造物の記号的意味私はそもそも衣服関係を研究していますが、民族の違いは衣服の違いであることは、徹底的に中国の考え方です。衣服はその人そのものを表します。ですから、日本人が中国服を着ると中国人になってしまうほど、中国の儒教的観念からは、衣服というのがその人間存在そのものを表すという考え方になってくるわけです。ですから、中国の歴史書には、必ず一番最後に「蛮夷伝(ばんいでん)」という周辺諸民族の記述があります。そこには、必ず衣服の記述があります。ある衣服を着ていた民族が中国と国交関係を結ぶことにより、どのように衣服が変化していったかということを非常に細かく、注意深く描写してあります。
『出雲国風土記』(いずものくにふどき)は、出雲国の風土記。編纂が命じられたのは和銅6年(713年)5月、元明天皇によるが、天平5年(733年)2月30日に完成し、聖武天皇に奏上されたといわれている。「国引き神話」を始めとして出雲に伝わる神話などが記載され、記紀神話とは異なる伝承が残されている。現存する風土記の中で唯一ほぼ完本の状態である。登場する神『古事記』や『日本書紀』に登場する神もいくつか登場するが、当風土記にのみ登場する神も多い。ここでは複数の地名説話で名が挙げられた神とその妻や子らを主に挙げる。(神名の後ろの地名は登場した説話の地名である。神名の漢字表記は最初に登場したものを採用する。読みの「〜のみこと」は省略する。)八束水臣津野命(やつかみずおみつの)「八雲立つ」の言葉を発し、この国を出雲と命名したとされる。国引き神話において遠方の土地を引っ張って出雲国を形成した。『古事記』のスサノヲの系譜に名の見える「淤美豆奴神」と同一神と見られる。妻として以下の神が登場する。天甕津日女命(あめのみかつひめ) - 秋鹿郡伊農郷。子として以下の神が登場する。赤衾伊農意保須美比古佐和気能命(あかぶすまいぬおおすみひこさわけ) - 出雲郡伊努郷。所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)大穴持命(おおなもち)当風土記では最も登場回数が多い神である。「越の八口」を平定して出雲に帰還した後に意宇郡母里郷で国譲りの宣言を発した。神門郡を中心として妻問いの説話が多い。大原郡では八十神を討つために行動を起こしている。妻問いの相手として以下の神が登場する。奴奈宜波比売命(ぬながわひめ) - 島根郡美保郷。『古事記』の沼河比売。綾門日女命(あやとひめ) - 出雲郡宇賀郷。真玉著玉之邑日女命(またまつくたまのむらひめ) - 神門郡朝山郷。八野若日女命(やのわかひめ) - 神門郡八野郷。和加須世理比売命(わかすせりひめ) - 神門郡滑狭郷。子として以下の神が登場する。山代日子命(やましろひこ) - 意宇郡山代郷。阿遅須枳高日子命 (あぢすきたかひこ)- 神門郡高岸郷、仁多郡三沢郷。(後述)御穂須須美命(みほすすみ) - 島根郡美保郷。奴奈宜波比売命との子で、建御名方神と同一視されることもある。和加布都努志能命(わかふつぬし) - 秋鹿郡大野郷、出雲郡美談郷。阿陀加夜努志多伎吉比売命(あだかやぬしたききひめ) - 神門郡多伎郷。意支都久辰為命(おきつくしい)越の奴奈宜波比売命の祖父俾都久辰為命(へつくしい)越の奴奈宜波比売命の父布都努志命(ふつぬし)意宇郡の楯縫郷と山国郷に登場する。神須佐乃烏命(かむすさのお)記紀と異なり自身の登場回数は少なく、大穴持命との血縁関係は伺えない。意宇郡安来郷、飯石郡須佐郷、大原郡佐世郷と御室山に登場する。須佐郷で自らの御魂を鎮めた。子として以下の神が登場する。青幡佐久佐日古命(あおはたさくさひこ) - 意宇郡大草郷、大原郡高麻山。都留支日子命(つるぎひこ) - 島根郡山口郷。難波田使主の系図には神櫛玉命の息子で陶津耳命の兄弟とある。国忍別命(くにおしわけ) - 島根郡方結郷。磐坂日子命(いわさかひこ) - 秋鹿郡恵曇郷。衝桙等乎而留比古命(つきほことおるひこ) - 秋鹿郡多太郷。八野若日女命(前出、大穴持命の妻問いの相手)和加須世理比売命(同上)また飯石郡熊谷郷には記紀で妻となるクシナダヒメと同一神と見られる久志伊奈太美等与麻奴良比売命(くしいなだみとよまぬらひめ)が登場する。伊弉奈枳命(いざなぎ)自身は登場せず、子として以下の神が登場する。熊野加武呂命(くまのかむろ)(熊野大神) - 意宇郡出雲神戸、島根郡朝酌郷。須佐之男命と同一視される。都久豆美命(つくづみ) - 島根郡千酌駅。阿遅須枳高日子命(あぢすきたかひこ)神門郡高岸郷と仁多郡三沢郷において父の大穴持命に養育される様子が描かれており、葛城の賀茂社に鎮座していると記されている。妻として以下の神が登場する。天御梶日女命(あめのみかじひめ) - 楯縫郡神名樋山。子に以下の神が登場する。多伎都比古命(たきつひこ) - 楯縫郡神名樋山。天御梶日女命との子塩冶毘古命(やむやびこ) - 神門郡塩冶郷。神魂命(かみむすび)自身は楯縫郡の郡名の由来において所造天下大神の宮の造営を命ずるのみで、これ以外は以下に挙げる子らの説話のみとなっている。八尋鉾長依日子命(やひろほこながよりひこ) - 島根郡生馬郷。宇武賀比売命(うむかひめ) - 島根郡法吉郷。『古事記』の蛤貝比売。枳佐加比売命(きさかひめ) - 島根郡加賀神埼。『古事記』の𧏛貝比売。天御鳥命(あめのみとり) - 楯縫郡郡名。紀国造系図では彦狭知命の別名とされる。天津枳値可美高日子命(あまつきちかみたかひこ)(薦枕志都治値(こもまくらしつじち)) - 出雲郡漆治郷。綾門日女命(前出、大穴持命の妻問いの相手)真玉著玉之邑日女命(同上)佐太大神(さだのおおかみ)島根郡加賀神埼で枳佐加比売命が産んだ子。秋鹿郡神名火山に鎮座した。宇乃治比古命(うのぢひこ)楯縫郡沼田郷と大原郡海潮郷に登場する。海潮郷では父の須義禰命(すがね)に対して怒り、海水で押し流した。阿波枳閇委奈佐比古命(あはきへわなさひこ)大原郡条に登場する。その名前は「阿波来経和奈佐彦(阿波から来て出雲の和奈佐に祀られたワナサヒコ)」と読むことができ、阿波国(徳島県)にある式内社の和奈佐意富曾神社との関係性が窺える。また、『丹後国風土記』の天女と奈具神社の伝説に現れる「和奈佐老父」と「和奈佐老女」も何らかの関係があると考えられる。阿波国、丹後国、出雲国に「ワナサ」という共通したワードが登場するのは、当時存在した海人集団が広めたからであるとする説が存在する[3]。写本現存する写本は70種程あるが、その中で最も古いと考えられるのは、慶長2年(1597年)に細川幽斎が書写させた「細川家本」と考えられている。そのほか、尾張徳川家に伝わった「徳川家本」や、上賀茂神社に伝わる「万葉緯本」など、近世初期から多くの写本が作られ、各地に広まった。尾張徳川家当主徳川義直により寛永11年(1634年)に寄進されたと伝えられる、日御碕神社所蔵の「日御碕本」は、島根県指定有形文化財に指定されている。なお『出雲国風土記』の引用例としては、文亀2年(1502年)の巻物『灰火山社記』が最古になる[4][5]。研究史江戸時代初期より研究が進められており、多くの注釈書や解説書が出されている。岸崎(佐久次)時照『出雲風土記鈔』(天和3年(1683年))内山真龍『出雲風土記解』(天明7年(1787年))千家俊信『訂正出雲風土記』(文化3年(1806年))横山永福『出雲国風土記考』(弘化3年(1846年)頃)後藤蔵四郎『出雲国風土記考証』(大岡山書店、1931年)加藤義成『出雲国風土記参究』(原書房、1962年)など
出雲伝承と、石見の伝承かんがえると、スサノオと、オオクニヌシまったく関係ないのでは?多分交易の、関係から、侵略されたのでは。新羅の海賊が、スサノオでないのか?いい加減だけど?出雲と石見では、違いすぎる。多分、いつの世の中でも、人のいい、ヤマトの王ロチ?出雲の王さまはだまし討ちにあったのでは。地元伝承とオオクニヌシの城といわれるものみると、そう思うよ。
出雲大社(いずもおおやしろ[1]、正仮名遣いでは「いづもおほやしろ」/ いずもたいしゃ)は、島根県出雲市大社町杵築東にある神社。祭神は大国主大神[2]。式内社(名神大)、出雲国一宮で旧社格は官幣大社[1]。神社本庁の別表神社[1]。宗教法人出雲大社教の宗祠。二拝四拍手一拝の作法で拝礼する[3]。明治維新に伴う近代社格制度下において唯一「大社」を名乗る神社であった。名称古代より杵築大社(きずきたいしゃ、きずきのおおやしろ)と呼ばれていたが、1871年(明治4年)に出雲大社と改称した。正式名称は出雲大社サイトには「いづもおおやしろ」[4]、出雲大社東京分祠サイトには「いずもおおやしろ」とある[5](前者は新旧仮名遣いが混在、後者は新仮名遣い)。一般的には「いづもたいしゃ」と読まれており[4]、複数の辞書・事典でも見出しの読みを「いずもたいしゃ」としている[6]。島根県大百科事典編集委員会『島根県大百科事典』では出雲大社の項目は正式名称の「いずもおおやしろ」として掲載する一方[1]、出雲大社本殿(いずもたいしゃほんでん)など登録文化財の項目については登録名に従った読みで掲載している[7]。古文書に見える社名は次のとおり。天日隅宮(『日本書紀』)杵築宮(『釈日本記』)出雲宮(『八雲御抄』)厳神之宮(『日本書紀』)出雲大神宮(『日本書紀』)[8]杵築大神宮(『和漢三才図会』)所造天下大神宮(『出雲国風土記』)大社杵築大神宮(『国花万葉記』)杵築大社(『延喜式』)出雲国大社(『享保集成総論』)日本大社(真言宗正林寺蔵版木)天日栖宮(『出雲国風土記』)出雲石(石同)之曽宮(『古事記』)[9]。歴史出雲大社はいわゆる国譲りの事情のもとで創建された[1]。867年(貞観9年)には正二位に叙せられ熊野大社とは別に出雲国一宮と称せられるようになった[1]。中世には12郷7浦を領したが、豊臣秀吉により減じられ5郷2浦となった[1]。1871年(明治4年)に官幣大社に列格の後、大正時代に勅祭社となった。創建出雲大社の創建については、日本神話などにその伝承が語られている。以下はその主なものである。大国主神は国譲りに応じる条件として「我が住処を、皇孫の住処の様に太く深い柱で、千木が空高くまで届く立派な宮を造っていただければ、そこに隠れておりましょう」と述べ、これに従って出雲の「多芸志(たぎし)の浜」に「天之御舎(あめのみあらか)」を造った。(『古事記』)高皇産霊尊は国譲りに応じた大己貴命に、「汝の住処となる「天日隅宮(あめのひすみのみや)」を、千尋もある縄を使い、柱を高く太く、板を厚く広くして造り、天穂日命に祀らせよう」と述べた。(『日本書紀』)所造天下大神(=大国主神)の宮を奉る為、皇神らが集って宮を築いた。(『出雲国風土記』出雲郡杵築郷)神魂命が「天日栖宮(あめのひすみのみや)」を高天原の宮の尺度をもって、所造天下大神の宮として造れ」と述べた。(『出雲国風土記』楯縫郡)崇神天皇60年7月、天皇が「武日照命(『日本書紀』による。『古事記』では建比良鳥命(天穂日命の子)とされる)が天から持って来た神宝が出雲大社に納められているから、それを見たい」と言って献上を命じ、武諸隅(タケモロスミ)を遣わしたところ、飯入根(いいいりね)が、当時の当主で兄の出雲振根に無断で出雲の神宝を献上。出雲振根は飯入根を謀殺するが、朝廷に誅殺されている。(『日本書紀』)垂仁天皇の皇子本牟智和気(ほむちわけ)は生まれながらに唖であった。占いによってそれは出雲の大神の祟りであることが分かり、曙立王と菟上王を連れて出雲に遣わして大神を拝ませると、本牟智和気はしゃべれるようになった。奏上をうけた天皇は大変喜び、菟上王を再び出雲に遣わして、「神宮」を造らせた。(『古事記』)659年(斉明天皇5年)、出雲国造に命じて「神之宮」を修造させた。(『日本書紀』)[注 1]以上のように、伝承の内容や大社の呼び名は様々である。共通して言えることは、天津神(または天皇)の命によって、国津神である大国主神の宮が建てられたということであり、その創建が単なる在地の信仰によるものではなく、古代における国家的な事業として行われたものであることがうかがえる。また、出雲大社の社伝においては、垂仁天皇の時が第1回、斉明天皇の時が第2回の造営とされている。祭神の変化出雲国造新任時に朝廷で奏上する出雲国造神賀詞では「大穴持命(大国主大神)」「杵築宮(出雲大社)に静まり坐しき」と記載があるので、この儀式を行っていた平安時代前期までの祭神は大国主神であった[10]。やがて、神仏習合の影響下で鎌倉時代から天台宗の鰐淵寺と関係が深まり、鰐淵寺は杵築大社(出雲大社)の神宮寺も兼ねた。鰐淵寺を中心とした縁起(中世出雲神話)では、出雲の国引き・国作りの神を素戔嗚尊としていた[10][11](本来国引きは八束水臣津野命)ことから、中世のある時期から17世紀まで祭神が素戔嗚尊[注 2]であった。14世紀「当社大明神は天照大御神之弟、素戔嗚尊也。八又の大蛇を割き、凶徒を射ち国域の太平を築く。」と杵築大社(出雲大社)の由来が記され、1666年(寛文6年)毛利綱広が寄進した銅鳥居に刻まれた銘文には「素戔嗚尊者雲陽大社神也」と記された。さらには、鰐淵寺の僧侶が経所で大般若経転読を行い、社殿では読経もした[12]。また、江戸時代初期には社僧が寺社奉行と杵築大社(出雲大社)の運営管理に関する交渉を実施していた。ところが、杵築大社(出雲大社)内は仏堂や仏塔が立ち並んで神事が衰微した。このため1667年(寛文7年)の遷宮に伴う大造営の時、出雲国造家が神仏分離・廃仏毀釈を主張して寺社奉行に認められた。仏堂や仏塔は移築・撤去され、経蔵は破却された[12]。これに併せて祭神は須佐之男命から、『古事記』『日本書紀』などの記述に沿って大国主大神に復した。
天孫系概要『日本書紀』によれば、天穂日命は高天原より国譲りの使者として遣わされたが、逆に出雲の大己貴神に従ってしまい、役目を果たさなかった。のちに国譲りが行われると、天穂日命は高天原の高皇産霊尊より大己貴神の祭祀をつかさどる者として認められ、その子孫は出雲氏(出雲国造の氏族)・土師氏となったとされる。構成神血縁関係(「子」など)は天穂日命から見た関係を示す。天穂日命(あめのほひ の みこと/あまのほひ の みこと、『古事記』では天之菩卑能命。その他、天穂比命、穂日命、依野城大神、伊毘志都弊命、熊野大隅命、天熊人命) - 『日本書紀』、出雲国造神賀詞、「西角井從五位物部忠正家系」[7]『古事記』、『日本書紀』によれば、アマテラスとスサノオの誓約の時に天照大御神の子として生まれた。『古事記』では出雲の国譲りの際に、天忍穂耳命に次いで第二の使者として高天原より遣わされたが、大国主神に媚びへつらい三年も復命しなかったため、第三の使者である天若日子が遣わされることとなる。一方『日本書紀』では「神の傑」であるとされて高天原側の使者として出雲に遣わされた。しかし大己貴神に佞媚してしまい3年におよんだので、高天原は天穂日命の子の大背飯三熊の大人を遣わすことを決定した。天穂日命への処分の有無は不明。また、出雲国造神賀詞によれば、天穂比命は天下を見廻ったのちに高天原側に報告を行ったという。また、『日本書紀』第九段第二の一書によると、のちに国譲りが行われたときに高天原の高皇産霊尊は大己貴神への神勅のなかで天穂日命に大己貴神への祭祀を行う役目を認めたという。(子)大背飯三熊の大人(おおせいいのみくまのうし、大背飯熊大人、武三熊の大人、天夷鳥命、天夷鳥、武日照命、武夷鳥命、武夷鳥、稲背脛命) - 『日本書紀』、出雲国造神賀詞、「西角井從五位物部忠正家系」[7]、『古代豪族系図集覧』『日本書紀』によれば、その父天穂日命が3年間高天原への報告を行わなかったために、高天原より代わりの使者として大背飯三熊の大人が遣わされたが、その父にしたがってしまいやはり報告をしなかったという。また同書崇神天皇段には、武日照命が天より神宝(かむたから)を将来したことが記されている。また、出雲国造神賀詞によれば、父である天穂比命は高天原に報告をした後、天夷鳥命に布都怒志命をそえて降し、地上を平定させたという。また、「西角井從五位物部忠正家系」[7]によれば、その父天穂日命にひきいられて出雲国に降臨したという。(孫)櫛瓊命(くしに の みこと、櫛玉命、櫛八玉神、五十坂三磯命、伊佐我命、出雲建子命、伊勢都彦命、神伊勢都彦命、伊勢津彦) - 「西角井從五位物部忠正家系」[7]、『古代豪族系図集覧』、『先代旧事本紀』、『伊勢風土記』「西角井從五位物部忠正家系」[7]によれば、はじめは伊勢国度会県に住んだが、神武天皇(初代天皇)の時代に東国に移ったという。『伊勢風土記』によれば、神武東征の際に天皇に従っていた天日別命は伊勢津彦の支配地におもむき、国を天皇に献上するか問うたところ、伊勢津彦は命令に従わなかった。そこで天日別命は伊勢津彦をころそうとしたところ、伊勢津彦は降伏して国土を献上し、夜中に風を起こして波に乗り東方に去った。のちに伊勢津彦の名からとって献上された国の名を伊勢としたという。(曾孫)津狭命(つさ の みこと、神狭命、二井の宇迦諸忍の神狭命、諸忍毘古命、都我利命) - 「西角井從五位物部忠正家系」[7]、『古代豪族系図集覧』、『先代旧事本紀』(玄孫)櫛瓺前命(久志和都命) - 『古代豪族系図集覧』出雲氏(出雲国造の氏族)・土師氏・菅原氏・大江氏の祖。(玄孫)身狭耳命(見狭耳命) - 「西角井從五位物部忠正家系」[7]、『古代豪族系図集覧』武蔵国造・上海上国造・下海上国造・相武国造・千葉国造・伊甚国造・菊麻国造・安房国造・新治国造・高国造の祖[8]で、いずれも東国の国造である。これらは相模国・武蔵国・総国・常陸国の四国に分布している。諸説出雲族は鉄器文明を持つツングースであるとする説がある[9]。天孫族に屈しまいとした出雲族の一部は東北に逃れ蝦夷となって最後まで戦ったとする説[10]がある。出雲方言と東北方言が同じズーズー弁であるのも、その証左であるとされることが多い[11]。
継体天皇ー8今城塚古墳(大阪府高槻市)陵(みささぎ)は、宮内庁により大阪府茨木市太田3丁目にある三嶋藍野陵(みしまのあいののみささぎ:三島藍野陵)に治定されている。宮内庁上の形式は前方後円。遺跡名は「太田茶臼山古墳」で、墳丘長227メートルの前方後円墳である。しかし、本古墳の築造時期は5世紀の中頃とみられている。一方、大阪府高槻市郡家新町の今城塚古墳(前方後円墳、墳丘長190m)は6世紀前半の築造と考えられることから、歴史学界では同古墳を真の継体天皇陵とするのが定説となっている。この古墳は被葬者の生前から造られ始めた寿陵であると考えられている[71]。この古墳は宮内庁による治定の変更が行われていないために立ち入りが認められ、1997年からは発掘調査も行われている。2011年4月1日には高槻市教育委員会にて史跡公園として整備され、埴輪祭祀場等には埴輪がレプリカで復元された。隣接する今城塚古代歴史館では、日本最大級の家型埴輪等が復元展示されている。同古墳ではこれまで家型石棺の破片と見られる石片が三種類確認されている。その内訳は、熊本県宇土市近辺の阿蘇溶結凝灰岩のピンク石、奈良県と大阪府の境に位置する二上山の溶結凝灰岩の白石、兵庫県高砂市の竜山石で、少なくとも三基の石棺が安置されていたことが推測できる。このうち、竜山石は大王家の棺材として多く用いられたものである[72]。これらの石棺は、16世紀末の伏見大地震により破壊されたと見られる[73]。2016年には、過去に付近で石橋に使われていた石材が今城塚古墳の石棺の一部であった可能性が発表された[74]。推定石棺片また、皇居の皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに御霊が祀られている。日本書紀と古事記における継体天皇の記事の相違記事の共通点共通点はおおよそ次の通りである。武烈天皇が崩御し、天皇の跡継ぎが居なくなった。継体天皇は、遠くの地方(畿外の北東部)からやってきた。継体天皇は、遠い傍系の血筋である。(応神の五世孫)応神天皇から継体天皇までの系譜は不明である。[注釈 8]手白香皇女と婚姻関係を結んだ。[注釈 9]記事の相違点武烈天皇について『日本書紀』では武烈は悪行が数多く詳細に記され、暴君として書かれ、継体は立派な名君として書かれている。『古事記』では武烈の悪行の記事は無く、武烈が行政を行なった記事なども無い。系図について『日本書紀』には継体の詳しい系図は記されていないものの、黛弘道が指摘しているように、『日本書紀』には天皇の系図一巻が添えられていたため、編纂者が天皇の系図を知らなかったということはあり得ない。『古事記』には継体の系図は記されていないため、編纂者が継体の系図を認知していたかは不明である。出身地について『日本書紀』では生誕地は近江だが、幼い頃に父親の彦主人王が亡くなったので、母親の振媛の実家である越前で育ち、所在も越前である。『古事記』では生誕地、所在は近江である(越前は出てこない)。後継候補者について『日本書紀』では継体天皇よりも有力な候補者、第14代仲哀天皇の五世孫、倭彦王が登場するが、迎えに来た軍隊を見て、逃げ出して行方不明になる。『古事記』では倭彦王自体の記事も、他の候補者の記事も無い。天皇即位について『日本書紀』では、最初は天皇の即位を拒否し、諸豪族や河内馬飼首荒籠が何度も説得し、止む無く即位に応じている。『古事記』では、即位を拒否した記事も河内馬飼首荒籠の記事も無い。宮の位置『日本書紀』では樟葉宮、筒城宮、弟国宮、磐余玉穂宮の4箇所が記されている。『古事記』では磐余玉穂宮で天下を治めたという記事のみ。磐井の乱について『日本書紀』では、新羅が筑紫の磐井に賄賂を贈り、大和朝廷に反旗を翻している。『古事記』では、磐井が天皇の命に従わないので殺した。誕生年、崩年、没年齢の違い『日本書紀』では、生年は450年、崩年は531年、没年齢は82歳とされる。『古事記』では、生年は485年、崩年は527年、没年齢は43歳とされる。継体天皇の実在性について第26代継体天皇は、前代の第25代武烈天皇など実在が疑われる人物とは違い、実在が間違いないとされる天皇である。これ以降の天皇の系譜では、実在性が疑われる人物がおらず、継体天皇からほぼ間違いなく現天皇家まで繋がっているとされている。石碑1847年、飛騨高山の国学者・田中大秀の起案を受けて門弟・橘曙覧、池田武万侶、山口春村、足羽神社神主・馬来田善包らにより継体天皇御世系碑が足羽神社境内に建立されている。この碑文には、大秀の研究による応神天皇から継体天皇までの系図が彫り込まれている。これには「玉穂宮天皇大御世系」とあり、その下に「品陀和気命(御諡 応人天皇) ─ 若沼毛二俣王 ─ 大郎子(亦名 意本杼王) ─ 宇斐王 ─ 汙斯王(書記云 彦主人王)─ 袁本杼命(書記云 更名 彦太尊 御諡 継体天皇)」と彫り込まれている。また足羽神社の近くにある足羽山公園には継体天皇を模した巨大な石像が坂井市を見下ろすように建っており、観光スポットとなっている。在位年と西暦との対照表在位年と西暦との対照表[表示]継体天皇を題材にした作品能『花筐』『北風に起つ 継体戦争と蘇我稲目』 (1988年、中央公論社) 黒岩重吾『継体天皇、空を飛ぶ』(2007年、小学館)赤石路代
出雲を造ったのは越 出雲国風土記には、古志(高志・越:北陸地方)の記述が随所に見られます。それほど、出雲と古志の関係は深かったのでしょう。 まず、出雲国風土記の冒頭に、『国引き神話』があります。これは、八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)という神が、出雲を小さく作ってしまったと後悔し、遠くの四つの国々の余った土地を引っ張ってきて、つなぎ合わせたという神話です。 あくまでも神話ですので、土地を引っ張って来るのは不可能ですが、四つの国々から人材を集めて国造りを行った事を示唆しているものと思われます。それらの国の一つが、古志(高志・越)の国です。国引き1国引き神話の四つの国 この神様が引っ張ってきた土地とは、「志羅紀」「北門佐岐」(きたどのさき)「北門農波」(きたどのぬなみ)「古志」という四つの国の余った土地です。 この中で、「志羅紀」は朝鮮半島南部の新羅、「古志」は北陸地方を意味する「高志」であると、容易に推測されます。「北門佐岐」(きたどのさき)「北門農波」(きたどのぬなみ)については、諸説ありますが、出雲に鉄器をもたらした朝鮮北東部の国々だったのではないでしょうか? 西暦一世紀から四世紀の間、朝鮮半島南部では、百済と新羅の間で戦いがあり、新羅のボートピープルが発生しています。また、北部では、高句麗の朝鮮半島南下政策により、朝鮮北東部のボートピープルが発生した時代です。彼らは、リマン海流と対馬海流に流されて、出雲にたどり着いたのでしょう。 一方、高志の国は、当時の日本の、最大の農耕地があり、翡翠という高級宝石の加工地でもあったので、余力があったはずです。国土拡大の為に、出雲に進出して行ったのではないでしょうか? これらの四つの国々の人材によって、出雲の国が造られた事を『国引き神話』は物語っています。国引き2四つの国の内、三つは朝鮮半島から。高志(越)のみが日本国内 ちなみに、古志の余った土地とは都都乃三埼(つつのみさき)と記されています。これは、能登半島の事だろうと推察されます。能登半島は、古志の中では農耕地が最も少なく、失礼ながら窓際族のような場所です。まさに古志の余った土地に住んでいた住民を、国土拡大の為に出雲に移住させたのでしょう。 なお、古志の余った土地は、美保郷(現在の松江市美保関町)という場所にくっ付けられたと記されています。この地域に、能登半島の人々が移り住んで来たという事です。国引き3越の能登から出雲へ移住。移住地は美保郷 出雲国風土記の古志に関する記述はこれだけではありません。その中の一つに、治水工事に関する古志との関係があります。【古志郷 伝承】 現在の出雲市に、古志町という地名があります。ここは、近世までは「古志郷」と呼ばれていた地域で、出雲市の大部分を占めていました。その地名の通り、大昔に古志の国の人達がやって来て堤を築いた、という伝承が残っています。この治水工事が終わった後もそこに留まり、居住するようになったので、古志郷という名の地名となりました。【狹結驛(さゆふのうまや) 伝承】 また現在の、出雲市下古志地域で、狭結郷(さゆふごう)と呼ばれていた地域があります。ここは、古志の国の佐與布(さよふ)という人がやって来て住み着いた土地です。古志の佐與布(さよふ)とその一族の人達が、日淵川(ひふちがわ)に堤を築いて堰き止め、池を造って住み着いた、という具体的な伝承が残っています。出雲01出雲国風土記に詳細に記載された越(古志)との関係。 これらのように、出雲の国は、古志(高志・越)の国の先進的な治水技術で開拓された国のようです。出雲平野が小さいながらも、淡水湖跡の水田稲作に適した土地である事は、以前にも述べた通りです。また、越の国、越前・福井平野が、日本一の巨大淡水湖跡で、これを水田地帯に干拓して巨大国家となったのも事実です。越(高志・古志)の国は、この治水技術を、出雲の地でもふんだんに発揮して、出雲の国を造り上げたのです。 出雲の国は、いわば、高志(越)の国を大企業と例えれば、その子会社とも言える国なのです。高志の国にとっては、朝鮮からの鉄の輸入や、九州からの物品輸送の中継地として、出雲は重要な役割を担う拠点でした。出雲02出雲は越の子会社 なお、これらの地域以外にも、・松江市古志町・松江市古志原という、高志(越)にちなんだ地名が、出雲には多数残されています。出雲03越(古志)ゆかりの地は、出雲に多い。 出雲国風土記は、記紀と同じ八世紀初頭の書物です。邪馬台国の卑弥呼の時代からは、500年も後に書かれたものです。これを邪馬台国・越前説に当てはめる事は、いささか早計です。しかしながら、これらの伝承は、イザナミノミコトという記紀の国生み神話時代の事としていますので、相当古い時代から出雲地方と「古志国(越国)」との間に、多くの交流があったのは間違いありません。 この出雲神話や伝承をもって、越前が邪馬台国だったと断言するつもりは、毛頭ありません。但し、多くの神話が残る出雲の国が、越前をはじめとする高志の国によって造られた事は、容易に想像できます。越前説注目されない理由謎を解く鍵は巨大淡水湖超大国は意外な場所翡翠の生産翡翠の最先端工場鉄の最多出土地行路の一致①出雲を造ったのは越出雲は越の植民地安曇一族
出雲王国8代主王大国主の7代前の王とすると、富家の初代主王菅之八耳王が素戔嗚尊ということですね。『古事記』にはこんなことが書いてありますよ。ならば、なるほど分かりやすいです。と素直に思いますが、あたかも本当の歴史であるかのようにお話しされるのは、いかがなものでしょうか?
神武天皇がと言うと、
弁証法の思考ね‼️😊中庸‼️GOOD balance‼️民第一思考ね‼️
出雲族(いずもぞく)は、古代の出雲地方に存在したという説のある種族[1]。出雲神話の担い手として想定されている[1]。出雲地域からは大量の銅鐸や銅剣などが出土した遺跡もあり、実際に古代に何らかの勢力が存在したとされている。概要出雲族と呼称される著名な家系としては、須佐之男命の子孫(十七世神)で地祇系に属する一族と、天之菩卑能命の子孫で天神系・天孫族に属する一族の2つがある。前者は出雲の国譲りを行った一族で、後者は熊野大社と杵築大社の祭祀をつかさどった出雲国造の家系とする。しかし、龍蛇信仰民の海神族に属する系統[なぜ?][要出典]と熊鳥信仰の天孫族に属する系統[なぜ?][要出典]の氏族を共に出雲族と呼称することには疑問が大きく、宝賀寿男は「出雲族」、「出雲神族」という呼称に対しても、その行動範囲や居住地(九州→出雲→播磨→大和)から適切な呼び方ではないとしている[2]。また須佐之男命の実態は天孫族の始祖的な位置にあり、これを海神族の始祖とするのは種族的、系図的[注釈 1]、神話的[注釈 2]に不可能であるとする[3]。地祇系概要『古事記』によれば、高天原より追放(神逐)されて出雲に降りた(『日本書紀』では朝鮮半島の新羅の曽尸茂梨に降臨して、土船で出雲国に渡ったとする説がある。)須佐之男命(素戔嗚尊)は、八俣遠呂智(八岐大蛇)に食べられそうになっていた櫛名田比売命(奇稲田姫)を助け、結婚して子の八島士奴美神(八嶋篠、八嶋手)を生んだ(『日本書紀』には八嶋篠を生んだとする説と、大己貴神を生んだとする説がある)。その子孫(または御子神)の大国主神は少名毘古那神や大物主神と共に葦原中国の国造り・平定を(大国主の国づくり)したが、のちに高天原の天津神達(天照大御神)に国を譲って(出雲の国譲り)隠れたとされる。 なお『古事記』には童話などで有名な因幡の白兎や、須佐之男命の試練(大国主神の神話)などの物語が収録されているが、『日本書紀』にこれらの物語は収録されていない。構成神特記以外は『日本書紀』による。血縁関係(「父」、「子」など)は大己貴神から見た関係を示す。ただし『出雲国風土記』にのみ記載される神名もあるため、詳細は大国主を参照。(父)素戔嗚尊(すさのお の みこと、『古事記』では須佐之男命)天照大神の弟だが、高天原より追放されて出雲に降臨し、八岐大蛇を退治した。のちに根国へ行った。(母)奇稲田姫(くしなだひめ、『古事記』では櫛名田比売)脚摩乳(『古事記』では足名椎)の娘。八岐大蛇に食べられそうになっていたが素戔嗚尊に助けられ、その妻となった。大己貴神(おおなむち の かみ、『古事記』では大穴牟遅神、大国主神、八千矛神、宇都志国玉神、葦原醜男)上の二神の間に生まれた子。『日本書紀』第八段第六の一書によれば、大国主神(おおくにぬし の かみ)・大物主神(おおものぬし の かみ)という名も持つ。大己貴神は大国主神の別名であり、また大国主神の旧名でもあった。国を平定したが、のちに高天原の神に国を譲って(出雲の国譲り)隠れた。『日本書紀』第九段第二の一書には、大己貴神が住むための宮として天日隅宮がみえる。大神神社祭神。(嫡后)須勢理姫神(すせりびめ の かみ、須勢理姫命、『古事記』では須勢理毘売命) - 『先代旧事本紀』素戔嗚尊の娘。(妻)田心姫命(たごりひめ の みこと、『古事記』では多紀理毘売命) - 『先代旧事本紀』素戔嗚尊の娘。宗像の奥都島(おきつしま)に鎮座。(子)味耜高彦根神(あじすきたかひこね の かみ、『古事記』では阿遅鉏高日子根神、迦毛大御神) - 『日本書紀』、『先代旧事本紀』天稚彦と容姿が酷似する。高鴨神社祭神。(娘)下照姫命(したでるひめ の みこと、高姫命、稚国玉、『古事記』では下照比売) - 『日本書紀』、『先代旧事本紀』天稚彦の妻。大倉比売神社祭神。(妻)高津姫神(たかつひめ の かみ、高降姫神、神屋楯比売命) - 『先代旧事本紀』、『古事記』辺都宮(へつみや)に鎮座。(子)事代主神(ことしろぬし の かみ、都味歯八重事代主神) - 『古事記』、『日本書紀』、『先代旧事本紀』鴨都波神社・天高市神社・飛鳥坐神社祭神。(孫)鴨王(かも の おおきみ/かも の きみ、天日方奇日方命、阿田都久志尼命、『古事記』では櫛御方命) - 『日本書紀』、『先代旧事本紀』神武天皇の時代の人。(曾孫)健飯勝命(たけいいかつ の みこと、『古事記』では飯肩巣見命) - 『先代旧事本紀』子孫の大田田根子命は賀茂氏・大神氏の祖。(曾孫)渟名底仲媛命(ぬなそこなかつひめ の みこと、渟中底姫命) - 『日本書紀』、『先代旧事本紀』安寧天皇の皇后。(孫)媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめ の みこと、『古事記』では比売多多良伊須気余理比売)神武天皇の皇后。ただし比売多多良伊須気余理比売は『古事記』において大物主神と勢夜陀多良比売との子とされる。(孫)五十鈴依姫命(いすずよりひめ の みこと)綏靖天皇の皇后。(娘)高照光姫大神命(たかでるひめ の おおかみ の みこと) - 『先代旧事本紀』御歳神社祭神。(妻)八上比売(やがみひめ、『先代旧事本紀』では稲羽八上姫) - 『古事記』因幡の白兎の原因。(子)木俣神(きのまた の かみ、御井神) - 『古事記』、『先代旧古本紀』木俣に刺し挟まれたことからの名。(妻)沼河比売(ぬなかわひめ、『先代旧事本紀』では高志沼河姫) - 『古事記』奴奈川神社祭神。八千矛神の妻問いの相手で、神語が有名。(子)建御名方神(たけみなかた の かみ) - 『古事記』、『先代旧事本紀』諏訪大社祭神、またはその社家(諏訪氏、矢島氏、守矢氏など)の祖であるという。『出雲国風土記』の御穂須須美命はその別名ともされる。なお、『古事記』における大国主の系譜には見られず、国譲り神話の場面に唐突に登場している。このことから、本来は出雲と無関係な諏訪地方の神とする説もある。(妻)鳥取神(ととり の かみ) - 『古事記』八島牟遅能神の娘。(子)鳥鳴海神(とりなるみ の かみ) - 『古事記』この神を含む系譜は十七世神と称される。(孫)国忍富神(くにおしとみ の かみ) - 『古事記』一説に須佐神社社家須佐氏の祖[4]ともいう。大国主命の子ともいう[4]。大己貴神にはほかに沼河比売の子に建沼河男命(越氏の祖)という子がいたとする系図[4]もある。
タケミナカタ(ミナカタトミ、タケミナカタトミ)は、『古事記』等に伝わる日本神話の神。『古事記』と『先代旧事本紀』では建御名方神(たけみなかたのかみ)、『日本書紀』以外の国史では南方刀美神(みなかたとみのかみ)、御名方富命神、建御名方富命(たけみなかたとみのみこと)、健御名方富命等とも表記される[1]。建御名方命(たけみなかたのみこと)、武御名方命、健御名方刀美神、武南方富命、武南方神、武御名方主命、御名方刀美命等という表記を用いる文献や神社もみられる。諏訪大社(長野県諏訪市ほか)の祭神として祀られていることから、諏訪神、諏訪明神、諏訪大明神、諏訪南宮法性上下大明神、お諏訪さま等とも呼ばれる。・諏訪大社(すわたいしゃ)は、長野県の諏訪湖周辺4か所にある神社。式内社(名神大社)、信濃国一宮。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。神紋は「梶の葉」。全国に約25,000社ある諏訪神社の総本社である。旧称は「諏訪神社」。通称として「お諏訪さま」「諏訪大明神」等とも。『古事記』においては事代主神(コトシロヌシ)と同様に大国主神(オオクニヌシ)の御子神とされている[2]。しかし大国主の系譜を記した箇所にはタケミナカタの記載がないため[2]、母は明らかでない。『先代旧事本紀』「地祇本紀(地神本紀)」では大己貴神(大国主)と高志沼河姫(コシノヌナカワヒメ)の御子神とされており[3][1]、「天神本紀」の国譲りの段ではタケミナカタが事代主神のことを「兄」と呼んでいる[4]。なお『古事記』においては大国主は事代主神を生む神屋楯比売命より先に沼河比売を娶っており(『旧事本紀』ではその母が高津姫神とされている)、事代主神はタケミナカタの兄に当たると明記されていない。神話千引石を持ち上げるタケミナカタ国譲りタケミナカタが登場する場面(真福寺本『古事記』より)タケミナカタは『古事記』では葦原中国平定(国譲り)の場面で記述されている。これによると、天照大御神・高御産巣日神(タカミムスビ)らによって派遣された建御雷神(タケミカヅチ)と天鳥船神(アメノトリフネ)が大国主神に葦原中国の国譲りを迫った際、大国主神は御子神である事代主神が答えると言った。事代主神が承諾して隠れると、大国主神は次に建御名方神(タケミナカタ)が答えると言った[2]。タケミナカタは千引の石(千人もの大勢の力を必要とするような巨大な岩)を手先で差し上げながら現れ、タケミカヅチに力競べを申し出た。そしてタケミカヅチの手を掴むと、タケミカヅチの手は氷や剣に変化した。タケミナカタがこれを恐れて下がると、タケミカヅチはタケミナカタの手を若葦のように握りつぶして、放り投げた(詳細は後述)。タケミナカタは逃げ出したが、タケミカヅチがこれを追い、ついに科野国の州羽海(すわのうみ)まで追いつめてタケミナカタを殺そうとした。その時に、タケミナカタはその地から出ない旨と、大国主神・事代主神に背かない旨、葦原中国を天津神の御子に奉る旨を約束したという[2]。一方『日本書紀』ではタケミナカタが登場せず、大己貴神(大国主)は事代主神の意向を聞いた後に国譲りを承諾する。ここでは高皇産霊尊(タカミムスビ)に遣わされた神々は武甕槌神(タケミカヅチ)と経津主神(フツヌシ)である。『先代旧事本紀』「天神本紀」では『古事記』と『日本書紀』の記述が組み合わされたものが書かれており、使者は『書紀』と同様に武甕槌神と経津主神となっている[4][5]。明神入諏守屋山『古事記』と『旧事本紀』では征服される神として描かれるタケミナカタは、諏訪地方に伝わる伝承では現地の神々を征服する神として登場する。いわゆる明神入諏神話を記録した現存する最古の文献は、宝治3年(1249年)に上社大祝(おおほうり)の諏訪信重から鎌倉幕府に提出されたといわれている『諏訪信重解状』(『大祝信重解状』、『大祝信重申状』とも)である[24][25]。これによると、神宝(鏡・鈴・唐鞍・轡)を持参して守屋山に天降った諏訪明神は、「守屋大臣」(守矢氏の遠祖とされる洩矢神)と争論・合戦・力競べをして、その領地を手に入れた[25][26][27]。明神と大祝諏訪大明神(『仏像図彙』より)諏訪上社の祭神であるタケミナカタは神氏(じんし・みわし)の祖神とされ、神氏の後裔である諏訪氏はじめ他田氏や保科氏など諏訪神党の氏神としても信仰された。明治の初め頃まで、諏訪上社には大祝(おおほうり)という職位があり、これをつとめる諏訪氏氏身の者(主に童男)は諏訪明神(タケミナカタ)の身代わり、すなわち神体ないし生き神として信仰の対象であった。伝承によると、諏訪明神が8歳の童男に自分の装束を着せて、自分の「御正体」として定めたことにより大祝職が成立した。このことから大祝は代々、御衣着祝(みそぎほうり)とも呼ばれ、「神」という姓を名乗り、即位式を行い職を相次いできた[48]。『信重解状』では、天降った後の諏訪明神のあり方としてこの伝承が語られているが、時代も初代大祝の名前が書かれていない。
上に立つ人は民衆から離れたら駄目なんですね。天皇陛下は国会開催時に全議員に「国民の信託に応えて下さい」と仰います。私達に完全に寄り添っていらっしゃいますね。議員達は陛下の御言葉を襟を正して聞いて欲しい。
本当にそう思います。日本の根っこは、此の皇紀しか無いですね‼️天皇は、全ての国民に祈り❗️仁徳天皇におかれましては、竈門の煙が上がって無いことに、心痛め❗️今の税金を無税にした‼️今の国会議員が何人いるか⁉️でも‼️投票するのも❗️国民の此の矛盾‼️
そうですね❗️古来の日本の天皇は、民衆のために祈る❗️其れは、決して政治では無い❗️何と言う❗️祭りごと~と言う‼️其れは、仁徳天皇の竈門の煙でよく分かりますね‼️今の天皇も全て民衆のために祈る‼️~議員は❗️此の民の為に死ねる❗️決して政治では無い❗️日本古来から有る祭りごとですね‼️
小名木さん いつも興味深いお話を有難う御座います。出雲大社の建物は低くなったと言うお話ですが、低くなってはいますがこの写真は神楽殿で、本殿ではありません。歴史上何度か倒壊していますが火災という事があったのでしょうか。本殿前に柱の基礎が発掘されています。
国譲りの神語りを学ばせて頂くと、御先祖の方々が紆余曲折の果てに素晴らしい歴史、在り方を刻んで下さったんだなと思います。
スサノオの尊が産土神と一緒にまつられている神社には、スサノオの尊は植林の神様としてまつられ、息子さんのイタケルの尊がその仕事を継いでいる伝承を見かけたことがあります。
「あのスサノオが、、」としんみりしてしまいます。日本の神々には血が通っているんだなあと思います。
小名木先生、質問の答えありがとうございます。先日質問した者です。
はい、確かにスサノオは「お母さん」についてなんやかんやと言っているので
「お母さん?君はイザナギ(男性)から産まれたからパパしかいないよ」
って思ってしまっていたのですが、どうしてもスサノオが「お母さん」と言うので疑問に感じたのです。
特にイザナミが亡くなる前はイザナミ(女性)から神々が産まれているのが有名でしたので
どんな神様にも「母」がいると感じています。
ですからその男性のイザナギが産んだというのはおかしいなと感じたんです。
個人的な考察として黄泉の国でイザナギにイザナミの「なにか」が移り「それ」がスサノオ・アマテラス・ツクヨミの誕生に関係していたのではないかと思っていました。
そして先生が仰った「側室」。たしかに江戸時代まで1人の偉い人は側室がいるのは当たり前でした。
当たり前すぎて日本書紀・古事記を書いた人々も「書くまでもないだろう」と考えてもおかしくありません。
とても勉強になりました。
仮に「側室の子供」でも「正妻も母である」と考えても不思議ではございませんね。
本当にありがとうございました。
確かに、本殿の写真間違ってますね。神楽殿側のしめ縄がメディアでクローズアップされますからね。本殿はもっと厳かでかっこいいですよ
こなきさんは、
行った事ないんだよ。。
しめ縄のある写真の建物は神楽殿です。本殿は大社造りの現在でも大きなものです。
こなきさん
行った事ないんじゃない?
とても良い話ですね、子供の時から聴かせてあげたいおはなしですよ。
出雲大社の写真は本殿ではなく神楽殿だとおもいますが・・当時ほどではないものの本殿は少し高くなっていると思います。
こなきさん
行った事ないんだよ。
@@peyfuru110 とても良い所です。是非一度お立ち寄り下さい。尚、写真ならホームページでも確認できます。
写真は、本殿ではありません
あれは、結婚式場のようです〜^^;
今の出雲大社は、明治4年に今の名前になりました
それまでは、杵築社と言われていました
皆さん、ご存知ですか?
本殿は建て替えするから伊勢と同じで定期的に遷宮するんだよな。
かつては16丈もあったんですが、江戸時代に低くなってますね。
ただ1744年から同じ場所に修繕だけとなるくらい財政難だそうです。
1:29の 写真は神楽殿ですね。まさにイベントホールです。メディアでご本殿のように画像が使われているために、こちらがご本殿だと間違えて本物のご本殿を参拝せずに帰られる参拝者が多くいるようです。この方のお話も神楽殿を出雲大社だと間違っているのを見ると、ただのにわかにしか聞こえません。
先日、参拝してきました。
出雲大社(いずもおおやしろ)って呼ばれ出したのは
明治になってから。😮
お疲れ様です。
現代の諸問題を解決する足掛かりのひとつが古代日本にあるのですね。
先生のお話は、常に富の流れを掴んでいるので、実感しやすいですね。
現代に完全な経済論が無いとされていますが、日本には神代から回答を見出していたと思えます。
経済に思想が欠けているので、丸く収まらないいのですね。
お久しぶりです。流石勉強家ですね。みらいの為に、頑張ってください。
いつもありがとうございます😊
出来れば、出雲大社の写真は神楽殿で本殿ではないので変えてほしいと思います。
間違いに気付かずに説明してるのを見るとお話も怪しいですね。
須佐能の尊は鳥取県の日野川で(島根の斐伊川でない)八岐大蛇を退治した説もあります。伯耆風土記に書いてありますが、出雲国風土記に八岐大蛇退治は書いてないそうです。RUclips夢幻樹八岐大蛇出雲神話の謎で知りました。
というか、出雲国風土記にはスサノオ様のエピソードがほとんど無いのです。全体的な雰囲気も土地の名の由来や産業について淡々と記述するだけで、生き生きした物語性を感じるのは冒頭の国引きくらいです。ほかの国の風土記は数年で完成しているのに出雲国風土記は二十年もかかっていて不自然です。執拗に検閲が入ったのかもしれません。
出雲大社としている写真は、千家国造家の管理する結婚式場で、本来の出雲大社本殿とは異なる。小名木さん、大変な間違いです。
出雲大社は大古は高さ96mあったという説もありますね
大変貴重な面白い話をありがとうございました。ワニとウサギの解釈、非常に感銘を受けました!初めて聞く解釈でしたがとても納得してしまいました。
一点、最後の質問コーナーについてですが、日本書紀の本文だと、スサノオはイザナミが産んだと記されていますね。
イザナギの鼻から生まれたとするのは古事記のみです。
その古事記でもスサノオは母のいる根の国に行きたいと泣いた、とあるので、スサノオは側室の子説は意味が通らないように思います。
先生が今回話された「古代では側室を持つのが当たり前だった」という考え方自体も、むしろ現代的な偏見から来ているのではないでしょうか。
一夫多妻の神も多いですが、一夫一妻の神も少なくない。
これもまた、日本の神話の多様性だと思います。
オオクニヌシの最初の妻であるヤガミヒメに嫉妬して彼女を追い出した正妻スセリヒメの説話にも、制度としての一夫多妻と、当人たちの心情はまた別だという右か左かでくくれない価値観が見え隠れしているんじゃないでしょうか。
古事記のスセリ姫は素戔嗚命の娘ですよね。大国主命は地下深く根の堅洲の国で素戔嗚に会い頑張って愛娘を命からがら頂戴して地上に帰ったんですよね!
千木の違い、知りませんでした。いつもありがとうございます。
出雲の米は美味しいクシナダヒメの心が込められている
出雲を含む山陰では鮫の事をワニと言います。山陰の山岳地帯は、保存食として鮫を食する文化が有ります。雲南市の須佐神社が有る地域には、夏でも涼しく食物が保存出来る場所が存在します。
出雲大社は明治4年まで杵築大社といわれ、神話の出雲神社は徳島県の出雲神社です。
さらに、徳島県の出雲神社が今の島根県の出雲大社の元宮です。
江戸時代まで出雲大社は杵築大社だったはず。京都亀岡の出雲大神宮との関係をもっと調べる必要があるでしょう。
亀岡の出雲大神宮と亀岡出身の出口王仁三郎!
神宮皇學館系の人々は 大本出口王仁三郎をとても嫌っています。
山陰地方ではサメの事をワニと言います。又、山陰山間部ではサメを食べる習慣があります。須佐神社の近くには夏場でも涼しい場所が有ります。
徐 福(じょ ふく、拼音: Xú Fú、生没年不詳)は、秦の方士[注 1]。斉国の琅邪郡(現在の山東省臨沂市周辺)の出身。別名は徐巿[注 2](じょふつ)[1]。日本に渡来したという伝説があるが実証性はない[2]。
『史記』巻百十八「淮南衡山列伝」によると、秦の始皇帝に「東方の三神山に長生不老の霊薬がある」と具申し、始皇帝の命を受け、3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、財宝と財産、五穀の種を持って東方に船出したものの三神山には到らず[1]、「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て王となり、秦には戻らなかったとの記述がある。
又使徐福入海求神異物、還為偽辭曰:『臣見海中大神、言曰:「汝西皇之使邪?」臣答曰:「然。」「汝何求?」曰:「願請延年益壽藥。」神曰:「汝秦王之禮薄、得觀而不得取。」即從臣東南至蓬萊山、見芝成宮闕、有使者銅色而龍形、光上照天。於是臣再拜問曰:「宜何資以獻?」海神曰:「以令名男子若振女與百工之事、即得之矣。」』秦皇帝大說、遣振男女三千人、資之五穀種種百工而行。徐福得平原廣澤、止王不來。
- 司馬遷「淮南衡山列伝」『史記』巻百十八。
東方の三神山とは、渤海の先にある神仙が住むとされた島で、蓬莱・方丈・瀛州(東瀛とも)のことであり、蓬壺・方壺(ほうこ)・瀛壺とも称し、あわせて「三壺」という。のち日本でも広く知られ、『竹取物語』でも「東の海に蓬莱という山あるなり」と記されている。[3]。蓬莱や瀛州はのちに日本の呼称となった[3]。魏晋南北朝時代の487年、瀛州は行政区分として制定されている。
同じく『史記』巻六「秦始皇本紀」に登場する徐福はこのような逸話とともに描かれる。徐福は始皇帝に不死の薬を献上するという名目で支援を取り付ける。ところが後に始皇帝が現地に行ってみたところ、徐福は出港していなかった。始皇帝は出港を再び命じるも、その帰路で始皇帝は亡くなったという。ここでは、かれは「不死の薬を名目に実際には出立せず、皇帝から金品をせしめた詐欺師[4]」として描かれている。
出航地
出航地については、紀元前219年の第1回出航は河北省秦皇島市、第2回の紀元前210年の出航では浙江省寧波市慈渓市[注 3]が有力とされる。しかし、すべては淮南衡山列伝に基づいた推測である。淮南衡山列伝は秦の始皇帝を騙した詐欺師の話で昔の中国人によく知られている伝説であった。[要出典]昔の中国人は徐福がどこに逃げたか全く知らなかったが、台湾か日本に辿り着いたのではないかと推測した。そして、徐福が日本にたどり着いたという話が創作されるようになった。[要出典]
伝承
徐福に関する伝説は、中国から日本や朝鮮半島に伝わって散在し、内容は地域によって様々であるが、いずれもほとんどが「淮南衡山列伝」の記述に基づいたものである[5]。昔の中国人も徐福がどこに逃げたかはっきりしていなかったが、徐福が日本に逃げ出したと推測を記録しており、これが日本に伝わって多くの伝承が創作された。しかし、学者たちは徐福の到来は根拠がなく、虚構であって徐福は実際には日本に渡来していないという。この虚構の伝承は中国と日本に拡散し、徐福が天皇の先祖で大和政権を建設したとか徐福が秦氏の先祖であるという虚構の伝承が作られるようになった。現代の中国にも徐福が天皇の先祖であるという虚構の伝承が広まっている。
日本における伝承
徐福が日本に渡来したのではないかという中国の伝説は日本にも伝わり、多くの伝承が創作された。徐福が当国に辿り着いた地として熊野(現在の三重県熊野市波田須町)周辺との伝承が残っている。波田須駅付近には徐福ノ宮があり、彼が持参したと伝わるすり鉢をご神体としている。また、同地からは秦代の貨幣である秦半両が出土しており、伝説と関連するのではとも言われている。近隣の和歌山県新宮市には、徐福の墓とされるものが伝わっており、徐福公園が造られている。
福岡県八女市山内(童男山古墳)には徐福が渡航後に立ち寄り、体が温まるよう村人が枯れ木や落ち葉を燃やして助けたとの言い伝えが残り、徐福を弔う伝統行事「童男山ふすべ」が残っている[6]。
佐賀県佐賀市の伝承では、同市の金立山に徐福が発見したとされる「フロフキ」という植物が自生する。フロフキは、カンアオイ(寒葵)の方言名で、地元では俗に「不老不死」が訛ってフロフキになった等ともいい、金立地区ではその昔、根や葉を咳止めとして利用していたという。
京都府伊根町の伝承では、徐福は同町に辿り着いたとしている。町内にある新井崎神社付近は菖蒲や黒節のよもぎなどの薬草が自生しており、徐福はこの地で不老不死の妙薬を探し当てたとされる。高い文化や技術を習得していた徐福は村人に慕われたので、当地に上陸後、故郷に帰ることなく村に滞在したといわれ、近隣で麻疹が流行して多くの村人が亡くなった際に、徐福を新井崎神社に祀ったところ救われたと伝えられる。現在も同社には徐福が祀られており、所蔵する古文書『新大明神口碑記』にも彼の事が記されている[7]。しかし、新大明神口碑記は江戸時代の末期か近代に作られたものと評価されていて、正統の歴史学者たちは認めていない。
長野県佐久市の伝承では、徐福は蓼科山に住んでいた時に双子を儲けたとされ、彼らが遊んだ場所を「双子池」や「双子山」と名付けたという[8]。
他にも鹿児島県出水市・いちき串木野市、宮崎県延岡市、広島県廿日市市、愛知県一宮市・豊川市、東京都八丈町、秋田県男鹿市、青森県中泊町などに伝承が存在する[9][10]。
中国における伝承
亶州は秦の徐福が住み着いてその子孫が暮らしているという伝承がある。住民は会稽郡東冶県に時々は交易に来ていたという。夷州は台湾説・沖縄説・日本説があり、亶州は海南島説・ルソン島説・沖縄説・種子島説・日本説・済州島説がある。しかし、徐福が出てくる文献ははすべて淮南衡山列伝を基づいていて、淮南衡山列伝にも徐福はどこにたどり着いたのか書かれていない。亶州に秦の徐福が住み着いたという説や夷州と亶州を海外国とする説など全部歴史的な根拠はなく、淮南衡山列伝からの創作にすぎない。
伝承から創作が行われて、後代に作られた釈義楚の義楚六帖には、徐福が富士山に漂着したことが記され、顕徳五年(958年)に弘順大師が「徐福は各五百人の童男童女を連れ、日本の富士山を蓬莱山として永住し」と伝えたという。[11]。
北宋の政治家・詩人である欧陽脩は淮南衡山列伝を基づいて、徐福が日本に渡来したと推測し『日本刀歌』を創作した。『日本刀歌』には「其先徐福詐秦民 採藥淹留丱童老 百工五種與之居 至今器玩皆精巧(日本人の祖である徐福は秦を欺き、薬を採取して連れて行った若者たちとその地に長らく留まった。連れて行った者の中には各種の技術者が居たため、日本の道具は全て精巧な出来である)」という内容で日本を説明する部分が存在する。
朝鮮における伝承
中国から出航した徐福の一行は済州島に到着・上陸した。済州島の漢拏山に登り、不老長寿の薬を探したが見つけることができなかった。漢拏山を南側に下山し、海辺で見つけた滝のそばの岩場に「徐市過之(徐市はここを通過した)」という文字を記した。また、徐福は「西に向かって、いざ帰りなん」という言葉を残して去ったので、その浦の名が「西帰浦(ソギポ)」になり、今も西帰浦の地名が残る。
李氏朝鮮の申叔舟が著した『海東諸国紀』には、孝霊天皇の御代に不老不死の薬を求めて日本の紀州に来て、そして崇神天皇の時に死んで神となり、人々に祀られるという伝承が載せられている。この記述は、史記において徐福の記事がある始皇帝28年の翌年に、記紀に書かれる孝霊天皇即位72年を機械的に当てはめて説話を集めたものである。
この人は大学の先生でもなんでもありません。よく勉強されているし、面白いとは思いますが。出雲関係で本当のことを知りたいなら、ぜひ大元出版の本を読むことをお勧めします。
面白い解釈です。
大国主は出雲国の最初の統治者であることはそうなのだと思うのだが、出雲は島根なのかな?
当の島根の地方の風土記や神社の伝承には大国主は出てこない。
出雲の話は島根ではないのではないかということは以前より言われている。ヤマト以前の出雲と崇神天皇以降(あるいはもっとあと?)の出雲は異なっているようにも感じる。
神武の東征は古地理より紀元前と考えられるが、荒神谷遺跡などは弥生末期、正に崇神天皇のあたり。
だとすれば、島根あたりのヤマトの統治は崇神天皇の四道将軍の遠征のあたりではないか?
畿内から大国主と大日孁貴が追い出されたのは崇神天皇の頃。
だとすれば、大国主は畿内から島根に放逐されたのは崇神天皇の頃?
古事記などの「おや?」という個所が多いのは、意宇国(出雲国)の後の名前は大国主としたことから話を作り続けた結果。大国主の子孫達がご先祖様の大国主は凄い偉い人だと宣伝しきたので、今のような意味の解らない話になっています。国譲りも間違いで本当はアマテラス大神へ国をお返しした、ということ。出雲大社は今は神社ですが、当初は意宇国主(葦原醜男アシハラシコウと呼ばれた男です。)の幽閉所です。お祭りに残っていますね。
そういえば結構前に海に遺跡が見つかって柱のサイズ間隔から昔の本殿じゃないかって新聞に載ってたな。半信半疑だったんだがあの巨体建造物が実在してたのには驚いたが…色々何かありそう。
小柳ゆきさんが好きで見てるそうですよ。
そそ、そもそも姫巫女(近年卑弥呼と呼ばれる者)も
なんだいと受け継がれていく役職だからね。
スサオノも同じですよ。
ナショナリストとグローバリストが現在は、覇権争いになってますが、現代の天照大御神様が何時、何処から現れるのでしょうか?
日月神示では、日本人がその役目だと言われてるそうですが、今の日本にそんな力があるのでしょうか?
アークがあるじゃん。
いやもうそれしかない。。
出雲立ち 立現れし八雲神 雲さへ立てば出雲なり 出雲八重咲く八雲神 スサノオ
宇佐家の口伝に、宇佐族は元は島根県の隠岐の島の漁師で、和邇族との取引に失敗して土地と財産を失った。それを知った大国主命から因幡国八上(鳥取県八上郡)の土地を授かり開拓して成功し、この地の巫女(八上比売)を娶った。という話があるそうです。
また、宇佐族(菟狭族)は天体の動きを観察し、暦を司る仕事をし、月とそこに見える兎を信仰し、その後、宇佐神宮の宮司となり現在に至っているそうです。
出雲大社は716年に創建されたもので、神代ではありません。平安時代から国造の権威を示す為に高層建築が始まった。
阿波風土記の話がネットにもあまり出て来ないので阿波風土記も是非。
某ゲームでスサノオがマガツカミを浄化、祓う役のナホビノとして主役になる設定だったのでナホビノノカミの話を知りました。ナホビノノカミのお話を詳しくお聞きたいです。
これ、これ、出雲大社の拝殿を見せて背の低い?其れは無いだろ。八足門の奥を見せなさい。今日の話は切れが悪いな。茂木さんの話を土台にしては駄目だよ。茂木さんの言うグローバリズムは、意味が少し違う。
国際貿易をすることはグローバリズムと同義ではありません。国際貿易においては、国家を維持しつつ、他国と貿易をすることです。グローバリズムとは、国家をなくして、世界を一つにするという考え方です。全く異なる考え方です。
小名木先生、出雲大社の写真としてアップされているのは「神楽殿」です。できれば、拝殿、御本殿の写真をご使用いただけたらと思いました。
江戸末期から近代まで教えないので、本を読みまくりました。
その時の日露戦争の一冊にロシアに捕虜になった兵士の方の手記がありました。
捕虜になった時不思議な尋問をされたそうです。
ロシア兵が戦った相手の事を聞かれたそうです。
その兵隊たちは白い軍服を着た兵隊たちでとても強い兵隊達だったそうです。
攻撃しても素早くダメージを与えることは出来なかったと言っていたそうです。
白い軍服に記憶が無かった、その兵士達の正体は謎だそうです。
他の方の著書にも白い兵士の話が載ってました。
どういう事?
先生こんにちは‼️
神無月は出雲で何をするんでしょう?
出雲地方では「神在月」と言い、出雲大社に八百万の神様がお集まりになります。そこで「神議り」が行われ、いろんなご縁を結ぶ会議をされます。なので地元の方はその邪魔にならないように、神議りが行われている間の1週間は静かに過ごします。
出雲大社は歴史的に見れば
少なくとも青銅器の時代に建立されたのですか❓
当然縄文時代だと思いますが、縄文土器は出雲大社付近で出土されてますか❓
祭神変遷=大国主(怨霊鎮める為に藤原ふひと及び貴族の意向)⇒スサノオ(中世から江戸初期)⇒大国主(寛文以降から現在)&大国主はBC218年頃死亡、8代出雲王(八千矛・ヤチホコ王)で副王は事代主(八重波津身・ヤエナミツミ)の時代の人物です。
先生のお話の一等最初『なぜ神話を学ぶのか?』・・・・に???
自分は『エウヘメリズム』の信奉者なので、
神話は過去の日本の歴史に起きたことを教えてくれるものだと考えています。
それは、日本人のDNAに刻み込まれた何かを知る事でもあります。
と、、、
出雲神族口伝は考慮に入れないのは何故なのか?
巨大な柱の宮殿は鎌倉時代に建てられました。
カタカムナは反発でなく融合 宇宙もマイナスとプラスの融合 17条憲法もしかり
古代から近親婚はタブーだったのでしょうか?子供のころから仲良くしてた兄妹が結婚するのは、タブーがなければ自然の成り行きのような気がします。
全然アリでは?飛鳥時代の皇族は近親婚だらけで、兄妹・姉弟でも母親が違えば別の家で育つので別の家の人という感覚だったようです。
また、古代では男子にとって姉や妹は神聖な力を授けてくれる存在だったそうですから。
神在月は、参勤交代みたいなことをしていたのかな?
通称「出雲口伝」と呼ばれている歴史資料について、どう思われますか?
天照大御神と元伊勢と呼ばれる神社が20数箇所とされていたが、現在では60ヶ所以上とされている程多い件。
天皇家の祖神とするならば、天皇家がヤマト政権を開かれた地に一番にお祀りするのが当たり前と思うが、何故ここまで多くの場所を長い間転々とさせられたのか?
誰も公に言及しているのを聞かない。
これを単純に出雲の国譲りの話と結びつけて考えると、中国地方や大和地方を結ぶ大きな勢力が既にあったのではないか?
後に東征して来た天皇勢力に奪われたが、(祭司か?=古代、祭司は重要な地位を占めていた)の天照大御神の存在を消す事はタブーである程の大きな存在であったのではと考えられるのでは。
最終的に天皇家の祖神とされるに至っているが釈然としない。
島根に住む者としては、ねつ造された勝者の歴史をそのまま用いておられて残念です。
争うことではなく、大国主命は ”国譲り” という平和で仲の良い道を選択されました。世界史における王朝の変更で争いのない交代はとてもめずらしく素晴らしいことです。この大国主命を称える大社が大きいことで、以後の歴史で天皇制を覆そうとする事変が起きなかった。こうやって考えると、大国主命は偉大な方なのだと思います。
質問するには、どうしたら良いですか⁉️
出雲口伝と古事記を比べてください。別の見方もありますよ。
須佐能は出雲の鉄を奪いに来たと書かれています。
何故大国主命は西向きに鎮座されているのか解説して頂きたい
国の概念を無くそうというのがグローバリズムですから経済を活性化させて国を統一するのがグローバリストとすると誤解を生むと思います。
「第三文明への通路」ー3
三、 精神文明の完成
それは長い間の思索研究だった。どれ位長かったと言うと、今日科学文明が此処まで発達するには凡そ三、
四千年の歳月を要したが、太古は悠長な時代のことだったからそれ以上に長い年月だったろう。そして遂に人類は自己内面に存在し、絶え間なく変化し活動する心象を言葉として表出することに成功し、その心の体系と展相の原理としての言葉の原理を完成することが出来た。自己として自覚される生命の全貌を識り得たのである。
この事を仏教的に言うならば、それは阿耨多羅三貌三菩薩を成就した最初の仏陀が誕生したと云う事である。この事は恰も今日の科学が究極の原素の展開と、電子と陽子の究明によって物質と云うことの解決が略出来上がった事と比較して考えると理解し易い。丁度この科学の真理と表裏であるところの精神の真理の完成である。この完成された精神原理の名を布斗麻邇(ふとまに)と云う。真奈(まな)とも云う。或いは「言の葉の誠の道」と云い、摩尼宝珠とも Manna とも云う。凡そ一万年前の昔、スメリヤ文明が生まれる以前の事であって、布斗麻邇の完成が人類文明の発祥であり基点である。
四、 布斗麻邇の意義
物が原子、電子、原子核によって成る如く、心もまたその原子、電子、原子核に相当するものものによって構成されている。斯うした精神の要素を人間の発する音声に結合させ、その変転極まりない心を言語として固定把握し、心の要素を言語の要素として表現したものがアイウエオ五十音である。古代日本語である大和言葉はこの五十音の組合せによって作られてある。五十音を言ことたま霊と云う。霊である心と言である音声とが直截に完全に結合しているものであって、五十音がすなわち布ふとまに斗麻邇であ
る。その布斗麻邇の内容を器物に象徴して皇位継承の儀式に用いたものが三種の神器である。
またこの言葉の原理の全体系を呪文を以て表現し、その展開運行の法を神話体の物語りに脚色編纂してあるのが皇典古事記であり、特にその神代巻である。日本書紀は更にその古事記の註釈書として作られてある。儒佛基三教の世界にあっては、法華経、創世記、黙示録、易経等が同じくこの布斗麻邇を説いたものであるが、その説き方は概論的であって全体系がまとまっているものではない。
その中で特に法華経は布斗麻邇を学ぶための人間の心構への修業法を説いている所謂「教菩薩法」であり、
易経は言霊を用いずに数を以て体系と展相を示したものであり、その原点は河図と洛書である。
かくして布斗麻邇は神道、仏教、キリスト教、儒教に共通する人類の精神的な哲学宗教の奥義であるが、後述する如く今日まで三千年間の天の岩戸閉鎖、仏陀入涅槃の時代であったため、その実態は人類に顕わには示される事なく秘蔵されていた。
従来の神社神道や儒佛基の三教は、人間の究極の精神的生命原理を体得するための心構えへの修練法である。布斗麻邇を学ぶためには神道で云う鎮みたましずめかみがかり魂 帰 神、仏教で
云う禅定、ヨガ、念仏、キリスト教で云う懺悔贖罪を行って、煩悩と云われ顚倒夢想と云われる放たれた自由な立場に立たなければならない、すなわち人類が布斗麻邇を発見し完成したその同じ境涯に立たなければならない。所謂罪汚れであるところの宿業(カルマ)に拘束された自己の状態を以て布斗麻邇を知ろうとしても、思惟が部分に引っかかって四部五裂して、禅で云う「野干脳裂」の状態に陥るから、麻邇の正当な理解と運用が不可能である。儒教的、キリスト教的修練反省、自己浄化、自己解放を経て初めて「佛所護念」である布斗麻邇の門に入
るのである。
荒神谷遺跡
(こうじんだにいせき)は、島根県出雲市斐川町神庭の小さな谷間にある遺跡。国の史跡に指定されている。
概要
史跡としての指定名称は「荒神谷遺跡」であるが、地名を冠して「神庭荒神谷遺跡」とも呼ばれる。
1983年(昭和58年)広域農道(愛称・出雲ロマン街道)の建設に伴い遺跡調査が行われた。この際に調査員が古墳時代の須恵器の破片を発見したことから発掘調査が開始された。1984年 - 1985年(昭和59-昭和60年)の2か年の発掘調査で、銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本が出土した。銅剣は1985年に国の重要文化財に指定され、銅鐸・銅矛は1987年(昭和62年)に追加指定されていたが、1998年(平成10年)に一括して「島根県荒神谷遺跡出土品」として国宝に指定されている[1]。遺跡自体は1987年に国の史跡に指定された。斐川町(現:出雲市)が中心となり1995年(平成7年)に遺跡一帯に「荒神谷史跡公園」が整備され、2005年(平成17年)には公園内に「荒神谷博物館」が開館した。出土品は国(文化庁)が所有し、2007年(平成19年)3月に出雲市大社町杵築東に開館した「島根県立古代出雲歴史博物館」に常設展示されている。なお、上述の荒神谷博物館においても、特別展などで出土品の展示が行われることがある[2]。
銅剣の一箇所からの出土数としては最多であり、この遺跡の発見は日本古代史学・考古学界に大きな衝撃を与えた。これにより、実体の分からない神話の国という古代出雲のイメージは払拭された。その後の加茂岩倉遺跡の発見により、古代出雲の勢力を解明する重要な手がかりとしての重要性はさらに高まった。出土した青銅器の製作年代等については下記の通りであるが、これらが埋納された年代は現在のところ特定できていない。
出土した青銅器
銅剣
丘陵の斜面に作られた上下2段の加工段のうち下段に、刃を起こした状態で4列に並べられて埋められていた。358本の銅剣は、全て中細形c類と呼ばれるもので、長さ50cm前後、重さ500gあまりと大きさもほぼ同じである。弥生時代中期後半に製作されたとみられている。この形式の銅剣の分布状況から出雲で製作された可能性が高いが、鋳型が発見されていないため決定的ではない。いずれにしろ、形式が単一なので同一の地域で作られたことは確かである。また、このうち344本の茎には、鋳造後にタガネ状の工具で×印を刻まれている。このような印は、現在までのところこれらと加茂岩倉遺跡出土銅鐸でしか確認されておらず、両遺跡の関連性がうかがえれます。
当時の大和朝廷が「イズモ」を特別な地域であると認識していた事が、記紀の記述にもあり、また神話のなかの三分の一を出雲神話で占める、といったことからも証明される形となっている。更に、時代が下って編纂された「式内宮」として認められた神社の、出雲地方での総数と出土した銅剣の本数との奇妙な一致があげられます。
当初は、農道を造るために、神庭と呼ばれる場所であることから、とりあえず発掘調査をすることになり、最初に掘ったトレンチから銅剣が出てきた。担当者は連絡に奔走し、同時に発掘を進めていった。当初は百本位だろうと考えられたが、次々に出土し、最終的に358本という数に達した。それまでに全国で発掘された銅剣の総数を超える数の銅剣が発掘された事は当時のマスコミを興奮のるつぼに放り込んだ形となった。
これらの銅剣が発掘された1985年(昭和60年)7月13日の担当者の話では、梅雨のさなか、テントを張って毎日、夜も欠かさず見張りを続け、現場から帰ってきたその日の当直者は顔が変形するほど蚊にさされたというエピソードもあります。
出来事
島根県立古代出雲歴史博物館に展示していた同遺跡の銅剣類のうちの1本について、展示台にぶつけて刃の中央に約4センチの亀裂が入っていることが判った[1]。
銅鐸
先年の騒動が静まってから、島根県教育委員会では、周辺に未発掘の遺物、遺跡がある可能性が大として、磁気探査器を使って調査したところ、銅剣出土地より南へ7メートルに反応があり、発掘が始められた。発掘開始まもなく、銅剣出土地点よりも7メートルほど谷奥へ行った場所で銅鐸6口が発見された。埋納坑中央に対して鈕を向かい合わせる形で2列に並べられていた。分類としては、最古の形式であるI式(菱環鈕式)が1つと、それよりやや新しいII式(外縁付鈕式)の形式のものが1個、外縁付鈕1式3個が出土している。製作時期は、弥生時代前期末から中期中頃の間と考えられている。文様に強い独自性がみられる1つを除いては、同形式の銅鐸の鋳型の分布からみて近畿産とする説が有力である。12年後に出土した加茂岩倉遺跡の39口の銅鐸との関連性を考慮すると、一概に畿内製造であるとは言い切れなくなってきている。北部九州製の可能性が高い。三号銅鐸は伝徳島県出土銅鐸と同笵であることが確認されている。二号銅鐸が京都市右京区梅ヶ畑遺跡出土の四号銅鐸と同笵であることが判明した。なお6個の銅鐸の高さが20センチと同じである。
地元の研究者である速見保孝によると、近辺に銅鉱山があり、また鋳型を作るための材料となる「来待石(砂岩の一種、細かい細工がしやすく、勾玉などの製造に際して砥石として利用された)」が大量にある事から、出雲で原材料を集め、大量に製造したのではないか、という説もある。更なる研究が待たれる。
成分
銅を主成分としスズと鉛を含む、青銅である。
スズは8.79~17.3%、平均で12.6%。鉛は1.53~7.53%、平均で4.3%含んでいることが分かった。銅とスズの合金である青銅は、スズの配合によって色が変化する。このような成分組織では、銅鐸の地金の色は少し黄色味を帯びた銅色(現在はサビで覆われている)を呈していたと考えられ、中には金色に近い色を呈していたものもあったのではないかとみられている。[3]
銅矛
矛先を揃えられ、銅鐸と共に出土した銅矛
銅矛は銅鐸と同じ埋納坑の東側に、16本とも刃を起こし、矛先が交互になるように揃えて寝かせた状態で埋められていた。横には小ぶりの銅鐸が鰭(ひれ)を立てて寝かせた状態で、同じく交互に並べた状態であった。鰭とは、銅鐸の横側、板状の部分を「鰭」と呼ぶ。古代当時、この青銅器に関わった人が、銅矛の刃と銅鐸の鰭を立てた状態で丁寧に並べて置いた、そのままの状態を保って出土したのである。[4]
分類には諸説あるが、大まかに言えば、中広形14本と中細形2本に分けられる。製作時期は、銅剣とほぼ同じか、若干後の時期と考えられている。その形態や北部九州産の青銅器に見られる綾杉状のとぎ分けがあることから、16本とも北部九州で製作されたものとみられる。
脚注
[脚注の使い方]
^ 平成10年6月30日文部省告示第110号
^ よくある質問(荒神谷博物館サイト)
^ 「金・銀・銅の日本史」p23
^ 「金・銀・銅の日本史」p21-22
参考文献
『古代出雲と風土記世界』瀧音能之 編(河出書房新社)
『古代の出雲辞典』瀧音能之(新人物往来社)
『荒神谷遺跡』三宅博士、田中義明(読売新聞社)
『金・銀・銅の日本史』村上隆 2007年(岩波書店)
関連項目
関連項目
中国地方の史跡一覧
弥生時代の遺跡一覧
外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、荒神谷遺跡に関連するカテゴリがあります。
荒神谷博物館
出雲市ホームページ
国宝・荒神谷遺跡
国指定文化財等データベース
島根県遺跡データベース
四相性、円、カタカムナでいうこの世の法則ですね。
余談にて悪しからず。最近、宮崎正弘さんの高志国について書かれた本を読みました。
それによると古事記の記述の中に「高志の八俣の大蛇」と書かれてもあるそうです。
彼は古代日本の日本海側の文化圏を考えるとき、高志(古志)国も重要なポイントとだと言っています。参考まで。
ざっくり言うと日本海側が国津神、太平洋側が天津神なのでしょうか?日本の神話は素敵ですね。こんなに魅力的な神話なんですから、大切にしていきたいですね。
@@msyk0602 様
まだまだ太古から脈々と続く日本は、我々の心と共に生き続けていますよね😊
中国古代の斎国に徐福と大国主との関係はどうなるの?
最初の写真の建物は本殿では無いですよ。
デタラメ 徐福と出雲族の関係を神話化しただけ 素戔嗚尊は徐福
鉄によって形づくられた出雲の風景
奥出雲地方で盛んに行われていた「鉄穴流かんなながし」は、山を切り崩して土砂を流し、それに含まれる砂鉄を採取する方法です。
この鉄穴流しは、山を切り崩すことはもとより、大量の土砂を河川に流すことから、流域の環境に大きな影響を与えました。川底が上がり洪水を起こしやすい「天井川てんじょうがわ」(川底が周囲の平地よりも高くなった川)となることや、流域の農業用水路が埋まることなどは負の側面です。その一方で、先人達は鉄穴流しの跡地を棚田に造成したり、川を流れ下った土砂を利用して新田開発を行うなど、跡地や土砂を有効に利用してきました。
私たちの慣れ親しんだ出雲地方の景観は、たたら製鉄によって育まれたものだったのです。
鉄穴流し 再現模型[和鋼博物館 蔵]
上流で鉄穴流しが行われた影響で天井川となった斐伊ひい川(島根県東部)
奥出雲たたら製鉄及び棚田の文化的景観
奥出雲町には、鉄穴流しの跡地につくられた棚田たなだが広がっています。鉄穴流しの際に削り残された残丘が島のように点在する独特な風景は、「奥出雲たたら製鉄及び棚田の文化的景観」として国の重要文化的景観に選定されています。
その代表的なものとしては、奥出雲町馬木まきの「大原新田おおはらしんでん」が挙げられます。
『鐵山記』より描かれた鉄穴流し風景[和鋼博物館 蔵]
鉄穴流しによって拓かれた広大な水田
大原新田(奥出雲町馬木)
農林水産省による「日本の棚田百選」にも選ばれた大原新田は、江戸時代の鉄穴流しの跡地を鉄山師である絲原いとはら家が棚田として再生させたものです。
美しく手入れされた大原新田は近年の圃ほ場整備によるもののように見えますが、江戸時代から変わらぬ姿を残す36枚のカンナ田です。あたかも現代の技術で整えたかのように大規模かつ整然と整備された棚田からは、当時の優れた技術が見てとれます。
ブランド米として有名な「仁多にた米」は、奥出雲の棚田で作られています。
鉄穴流しが生んだ出雲平野の景観
築地松ついじまつに囲まれた農家が点在する出雲平野、その眺めは出雲の豊かさを感じさせるものですが、この平野の形成には鉄穴流しで流された土砂が関わっています。奥出雲に源を発する斐伊ひい川は、もともと日本海へ注いでいました。江戸時代に入ると、斐伊川は宍道しんじ湖へと流れを変えて流れ下った土砂は湖を埋め、新たに生まれた土地には水田が造られました。鉄穴流しで流され宍道湖を埋めた土砂は、深いところでは6mに達し、土量は2億m²(東京ドーム161個分)に及ぶと試算されています。
出雲を象徴する景観を生んだのも、鉄穴流しでした。
ヤマタノオロチとはなんですか?
木花咲耶姫
争いたくないけど、例えば今の岸田総理の様に周りの反対を押し切って悪い事を立て続けにやる様な
話してた聞かれない
多数決も無視する独裁、しかも悪い事を進める人にはどうやって和を持てば良いのですか?
オロチー5
霊的問題を脳の立場から考えてみよう その2
Parole
2020年7月25日 19:30
執筆:ラボラトリオ研究員 杉山 彰
<思い込むための機能>とは、幻影を創り出す機能でもあるのです。
前回は「憑依は、脳が創り出した幻影ではないか?」というお話しをさせていただきました。
そこで少し話は変わりますが、人間の最も原始的な感情は「恐怖」です。「恐怖」というものは、人間の脳の中に古くから存在した「喜び」や「悲しみ」よりも起源が古いのです。理由は簡単です。その昔、私たち人間は捕食者をはじめとする危険なものを視覚で捉えたら逃げなければならなかった。それは生死に関わる重要な問題だから、人間は「恐怖」という感情を進化の過程で創りあげてきた。その「恐怖」という感情を生み出すのは、扁桃体という脳の場所である。扁桃体が活動すると、人間は「怖い」と感じる。扁桃体は、危険な行動は避けるという記憶を脳に植え付けるための役割を果たしているのだ。扁桃体そのものには感情はなくて、扁桃体が刺激されて、その情報が大脳に送られると、そこではじめて「怖い」という感情が生まれる。扁桃体は、記憶力を促進したり、記憶力を強化したりするという役割を担っている。だから扁桃体が刺激されると、「怖い」という感情が大脳皮質に送られて回避行動のプログラム、つまり回避行動のパターンが記憶として蓄積されるのだ。
なんだかわけがわかりにくくなったかもしれませんが、視覚によって扁桃体が刺激されると、その情報が大脳に送られる。これが3%の情報。3%の情報を受け取った大脳は、過去に蓄積してきた回避行動の記憶パターンを呼び起こして条件反射的に行動を促す。これが97%の内部情報処理のルーティンである。扁桃体が大脳に送り込む情報は、およそ3%である。ときには木陰が揺れただけのわずかな気配を捕食者と誤認して、その情報を大脳に送り込むこともある。
大脳は、その情報を捕食者として思い込んで回避行動のパターンをとる。
<思い込むための機能>は、ときには幻影を創り出すことにもなるが、危険察知、そして危険回避の側面から考えると、生存のための機能としては最善の手段なのである。ただし、幻影を創り出すことが頻繁化すると、つまり幻影過多に陥り、精神的疲労が積み重なって鬱滞したり、憑依に取り憑かれた幻影を感じたりして、精神異常に悩まされるようになることにもなりかねなくなるのです。
そうですね‼️今の教科書‼️日本の歴史〜古事記・日本書紀~~戦後の歪曲された歴史を教えないですね❗️私も、全てが日本が悪い❗️と教育されました‼️今も~その名残りが多く有りますね‼️
杵築大社=キツキノオオヤシロ
ワニ料理
(和邇料理、わにりょうり)とは、広島県のうち三次市や庄原市などの備北地域で食べられる郷土料理である。
特徴
本稿で述べる「わに」とは、爬虫類のワニではなく、軟骨魚類のサメ(フカ)のことを指す。サメを表す古語で和邇と表記され、『因幡の白兎』伝説で和爾が登場する出雲地方を中心に、現代でもこの呼称が使われている[1]。サメ肉を食べる習慣は世界中で見られるが、一定地域の住民全体が刺身として食べるのは(出雲ではなく)備北地域特有の風習であり、日本国内でも他には宮崎県の一部でしか見られない[1]。
サメ肉はトリメチルアミン-N-オキシドおよび尿素の含有量が著しく高いため、食中毒の原因となるヒスタミンの生成が抑制されるうえ、酸化による脂質の変敗も起こりにくい[2]。このため保存性が高く、2週間ほど経過したものでも刺身として食べられており、冷蔵技術が未発達だった頃から山間部で生食できる魚として重宝されていた[3][4]。ただし、河川もあることから、当該地域でも鮎などの淡水魚を食べることはあった。
一方、トリメチルアミン-N-オキシドと尿素からそれぞれ生成されるトリメチルアミンとアンモニアに加え、日が経つと肉のpHが上昇して匂いが揮発しやすくなるため、鮮度の低下したサメ肉は強烈な匂いを有する[3]。なお、現代では輸送や保管が低温で行われる事などもあり、アンモニア臭などがない状態で食されている[3]。ただし、「ワニは隣の家まで匂うくらいのものが旨い」、「古くなったワニを味噌漬けにして焼いた時の強烈な匂いが良かった」など、臭気を肯定的にとらえる意見もある[3]。
現代では、ネズミザメやアオザメ、シュモクザメ、メジロザメ、オナガザメなど20種類ほどが食べられ、ネズミザメが最も高価となる[5][6]。種類によって肉の色は薄いピンクから紅色までさまざまである[6]。鹿児島県、高知県、静岡県、宮城県、島根県でマグロやカジキとともに水揚げされたものが冷蔵輸送され、年間消費量は150トン余りに達し、その半分が正月と祭りの時期に消費される[7][6]。味については、マグロのトロや甘エビのように甘い、と評される[3]。脂肪が少なくて柔らかく、トリメチルアミン-N-オキシド由来の甘味などが影響しているためと考えられている[3]。
歴史
天保5年(1834年)に山陰の行商人が三次地方で「ワニの焙り串」を売っていたという記録があるが、江戸時代にはワニの刺身を食べる習慣はなかった[1]。一方、江戸時代から清への輸出のため俵物三品は積極的に漁獲活動が行われ、明治になると1892年頃から石見地方でもふかひれを得るため本格的なサメ漁が始まった[6]。朝鮮半島沿岸などでサメ漁を既に盛んに行っていた山口県や大分県などの漁民はヒレを切った後のサメ肉を海中に投棄していたが、山陰の漁民は近場で操業する事もあってサメ肉を持ち帰り、内陸部に販売するようになった[6]。
江戸時代に整備された銀山街道を経て、夜通し荷車を引いて歩く行商人によってサメ肉は五十猛港から中国山地の奥まで輸送された。海産物は干物か塩漬けしか入手できなかった住民に無塩のサメ肉は歓迎されたという[6]。1900年代に入るとトラックも輸送に使われ、この頃から「ワニの刺身」が食べられるようになった[6]。第二次世界大戦前までは、「腹がつべとうなる(冷たくなる)ほど『わに』を食べたい」という言葉があるほど好まれていたという[1]。
1950年代にはまだ備北地域では電気冷蔵庫は普及しておらず、安価な事もあってワニの刺身はハレのご馳走として食べられていた[8]。また、鮮度が落ちたものや頭部などは煮こごりにしていたという[8]。電気冷蔵庫が普及し、スーパーマーケットでサメ以外の新鮮な魚介類が販売されるようになると、ワニ料理の地位は相対的に低下した[9]。一方で、1986年には口和町(現・庄原市)にワニ料理の専門店が開店している[9]。
現代でも備北地域におけるサメの人気は根強く、「『わに』が無いと祭りも正月も来ん」といわれる[1]。三次市や庄原市等の市内の寿司屋で、メニューに並ぶこともある。
調理
家庭で作ったワニの刺身
刺身
現代では、生のまま刺身として食べるのが最もポピュラーである[10]。醤油に加える薬味としてはショウガが最も広く用いられているが、ワサビを使うケースもあり、かつてはアンモニア臭を打ち消す効果が重視されていた[10][8]。なお、1950年代には醤油や砂糖醤油につけて食べるケースもあった[8]。
湯引き
脂身を薄くそぎ切りにし、湯引き(当該地域では「湯ぶき」と言う)して、酢や味噌、砂糖、ショウガ汁を合わせた酢味噌で和える[10]。
煮こごり
サメ肉は一般的な魚類より肉基質タンパク質が多いため、煮こごりが作りやすい[11]。頭部を使うものが特に好まれ、かつては大釜で煮て作られた[11]。近年では、刺身を取った後の皮やあらをさっと茹で、熱い内にザラザラの皮を剥がし、ゼラチン状のものを薄く切って醤油で煮る[11]。
ワニめし
味噌漬けにしたサメ肉を小さく切り、千切りにしたゴボウ、ニンジン、シイタケなどの野菜とともに醤油を加えて炊き込みご飯にする[11]。
ワニの巻き寿司
サメ肉を鉄火巻風に巻いたもの[11]。サメ肉にガリとマヨネーズを添えて巻く例も報告されている[11]。
その他の料理
サメを使用した唐揚げ
最近では、わにバーガーやワニ丼といったサメを使った商品も販売されるようになってきている。
わに茶漬け
わにのフライ
わにの天ぷら
わにの南蛮漬け
わにカツカレー
「わーにんぼ」(鮫のつみれ)
わに丼
わにバーガー
わにまん
私は出雲の出身です。出雲の話を期待して聞きましたが、ガッカリです。今までは面白く聞いていましたが、意外と底の浅い作り話であったと判明しました。一番の間違いは出雲大社と示した建物は神楽殿で、もともとは千家国造の大広間で、大社教の設立に合わせて教団の神楽殿となった物で、出雲大社は国宝で別の場所にあります。大国主の時代背景を現代の社会に想定しての話は論外で、直近の大東亜戦争を現在の時代感覚で解説しているのと同じで、噴飯ものでした。
現代社会も 大東亜戦争も
儲かる人は決まってる
捉え方によっては 同じじゃん
千木の外そぎ内そぎのお話し男の神様女の神様、例外あります。
現代はアマテラスが居ないからロシアを諭す存在が居ない…
スサノオ
(歴史的仮名遣:スサノヲ)は、日本神話に登場する男神。
概要
『古事記』では建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)、速須佐之男命、須佐之男命、『日本書紀』では素戔男尊、素戔嗚尊等、須佐乃袁尊、『出雲国風土記』では神須佐能袁命(かむすさのおのみこと)、須佐能乎命、神仏習合では牛頭天王などと表記する。罪の観念と関連があるものとされる。
神話上、現在の皇室とは、姉弟間のアマテラスとスサノオの誓約でうまれた男神正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命とその子で天孫降臨をした天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命を経て、スサノオは男系上の先祖にあたる[1]。
・大国主神
(おおくにぬしのかみ)は、日本神話に登場する神。国津神の代表的な神で、国津神の主宰神とされる。出雲大社・大神神社の祭神[1]。
神話における記述
須佐之男命から大国主神までの系図(『古事記』による)。青は男神、赤は女神
『古事記』・『日本書紀』の異伝や『新撰姓氏録』によると、須佐之男命(すさのおのみこと)の六世の孫、また『日本書紀』の別の一書には七世の孫などとされている。父は天之冬衣神(あめのふゆきぬのかみ)、母は刺国若比売(さしくにわかひめ)。また『日本書紀』正伝によると素戔嗚尊(すさのおのみこと)の息子。日本国を創った神とされている。
須佐之男命の娘である須勢理毘売命(すせりびめのみこと)との婚姻の後にスクナビコナと協力して天下を経営し、禁厭(まじない)、医薬などの道を教え、大物主神(おおものぬしかみ)を祀ることによって葦原中国(あしはらのなかつくに)の国作りを完成させる。だが、高天原(たかあまのはら)からの天照大御神(あまてらすおおみかみ)の使者に国譲りを要請され、対話と武力を交えた交渉の末に幽冥界の主、幽事の主宰者となった。国譲りの際にかつて須佐之男命から賜って建立した「富足る天の御巣の如き」大きな宮殿(出雲大社)を修復してほしいと条件を出したことに天津神(あまつかみ)が同意したことにより、このときの名を杵築大神(きづきのおおかみ)ともいう。
大国主神を扱った話として、因幡の白兎の話、根の国訪問の話、沼河比売への妻問いの話が『古事記』に、国作り、国譲り等の神話が『古事記』と『日本書紀』に記載されている(但し、『日本書紀』では「大国主神」という神名ではない)。『出雲国風土記』においても多くの説話に登場し、例えば意宇郡母里郷(現在の島根県安来市)の条には「越八口」を大穴持命が平定し、その帰りに国譲りの宣言をしたという説話がある。また山陰、四国、近畿、三遠信、北陸、関東など広範囲における地方伝承にも度々登場する。
・アメノワカヒコ
(天若日子、天稚彦)は、日本神話に登場する神。
事績
葦原中国を平定するに当たって、遣わされた天之菩卑能命(アメノホヒ)が3年たっても戻って来ないので、次に天若日子が遣わされた。
しかし、天若日子は大国主神の娘下照比売(シタテルヒメ)と結婚し、葦原中国を得ようと企んで8年たっても高天原に戻らなかった。そこで天照大御神と高御産巣日神(タカミムスビ)は雉の鳴女(ナキメ)を遣して戻ってこない理由を尋ねさせた。すると、その声を聴いた天佐具売(アメノサグメ)が、不吉な鳥だから射殺すようにと天若日子に勧め、彼は遣わされた時に高皇産霊神から与えられた弓矢(天羽々矢と天之麻迦古弓)で雉を射抜いた。
その矢は高天原まで飛んで行った。その矢を手にした高皇産霊神は、「天若日子に邪心があるならばこの矢に当たるように」と誓約をして下界に落とす。すると、その矢は寝所で寝ていた天若日子の胸に刺さり、彼は死んでしまった。
天若日子の死を嘆く下照姫の泣き声が天まで届くと、天若日子の父の天津国玉神は下界に降りて葬儀のため喪屋を建て八日八夜の殯をした。下照姫の兄の阿遅鉏高日子根神(アヂスキタカヒコネ)も弔いに訪れたが、彼が天若日子に大変よく似ていたため、天若日子の父と妻が「天若日子は生きていた」と言って抱きついた。すると阿遅鉏高日子根神は「穢らわしい死人と見間違えるな」と怒り、大量を抜いて喪屋を切り倒し、蹴り飛ばしてしまった。喪屋が飛ばされた先は美濃の藍見の喪山だという。
天照大神も七代いたのかな?
先生 日本の本当の神様 古神道では、八百万の神で クニトコダチノミコトじゃないのですかね?
明治から 神社庁が天照大神が日本の最高神とされた 話があります。
どうなんだろうと⁇謎です
出雲大社教ー1
(いずもおおやしろきょう)は、1882年(明治15年)、当時の出雲大社前大宮司・第八十代出雲國造・千家尊福(せんげたかとみ)が創設した教団である。教派神道(神道十三派)の一つ。
概要
島根県出雲市の出雲大社の境内に本部(教務本庁)があり、出雲大社の職員が出雲大社教の職員を兼務している。ただし、出雲大社が神社本庁に所属するのに対し、出雲大社教は神社本庁には所属していない。法的に言うと、宗教法人出雲大社が宗教法人神社本庁の被包括宗教法人であるのに対し、宗教法人出雲大社教は宗教法人神社本庁の被包括宗教法人ではなく、単立宗教法人となっている。
明治時代に、日本の神道諸派を糾合して国家(国家神道)における宗教行政を定めるために設立された神道事務局において、出雲大社系の神官(「出雲派」、または「大社派」)が伊勢神宮系の神官(「伊勢派」、または「神宮派」)と対立した結果、伊勢派が主流を占める国家神道から出雲派が独立する形で設立された物である。宗教としては神道系新宗教(教派神道)に分類される。
明治13年に東京都日比谷の神道事務局に設けられた神宮遥拝所において、神造化三神(天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神)および天照大神の四柱を祀ると決定されたことに対して、出雲派は大国主大神も祀るべきだと主張し、伊勢派との間で大きな論争になったが、伊勢派が明治天皇の支持を得たこともあって、出雲派は敗北し、大国主は祀られないことになった(明治13年の祭神論争)。さらに、明治15年1月に明治政府が布告した「神官教導職分離令」によって、神社に奉仕する神官と布教を行う教導職が分離され、これによって出雲大社に勤務する神官が国家とは別に独自に出雲信仰の布教を行うことが禁止された。そのため、当時の出雲派(千家)のトップである千家尊福は、出雲大社大宮司を辞職して自らが教団の開祖となり、信仰組織を出雲大社本体および国家神道から分離させる形で明治15年に設立した。出雲大社教は昭和26年に出雲大社と統合されたが、その後も法人としては出雲大社教と出雲大社は別団体となっている。
大国主大神を主神として祀っており、大国主への祭祀を担う出雲国造家の始祖である天穂日命を「教祖」としている。出雲大社教の事実上の創始者である千家尊福は「開祖」とされており、代々の出雲国造は天穂日命の子孫としてその霊魂を継承しているので、出雲国造家第80代の千家尊福もまた天穂日命であるとされる[1]。なお、伊勢派の神道(昭和21年に設立された宗教法人神社本庁を運営している)において祭祀を担っている天皇家は、瓊瓊杵尊を始祖としているが、この瓊瓊杵尊は天穂日命の兄(天忍穂耳尊)の息子と言う位置づけである。なので、天皇は「出雲大社教の教祖の兄の息子の子孫」と言う位置づけになる。
明治6年に千家尊福が全国各地の出雲講(出雲大社を宗祠とする組織)を結集して設立した「出雲大社敬神講」を母体とする。布教機関は全国に渡り設けられていて、特に中国地方を中心とした西日本に多くの分祠、教会等がある。これらは神社本庁にも出雲大社にも所属せず、あくまで「出雲大社教の布教機関」であるため、「神社」や「分社」などと名乗ることはない(法的に言うと、宗教法人神社本庁の被包括宗教法人であるところの「神社」でもなく、宗教法人神社本庁の被包括宗教法人である宗教法人出雲大社の被包括宗教法人であるところの「分社」でもなく、あくまで宗教法人出雲大社教の被包括宗教法人である)が、アメリカ占領時代の沖縄に設置された「出雲大社沖縄分社」のみは、当時「教会」の呼称が認められなかったため、例外的に「分社」を名乗っている。有名なところでは、出雲大社教の成立に伴って出雲派の神社であった神田明神から分離する形で設立された出雲大社東京分祠などがある。
また、全国に出雲大社を信仰する組織があり、「講」と呼ばれる。出雲大社教は教団としてこれらの講を包括する組織であるが、組織性はあまり強くない。
統理者にあたる管長職は千家家が代々世襲している。2014年現在の管長は六代・千家隆比古である[2]。
出雲大社附属の神職養成所である大社國學館では、卒業の際、神社本庁の神職の階位のほかに出雲大社教の教師資格も授与される。
なお、同じく出雲大社と大国主を祀る出雲教は、南北朝時代に出雲家から分かれた千家とともに出雲国造を担った北島家(北島国造家)が興した神道の一派。北島家は明治時代まで出雲大社の宮司職を千家と分担していたが、明治15年の「神官教導職分離令」に伴い千家が出雲大社教を起こしたのと同様に、北島家も出雲大社から分離して出雲教を結成した。第二次大戦後に出雲大社と出雲大社教が統合され、出雲大社の宮司職は千家が独占するようになったため、北島家は出雲大社の敷地に隣接する北島家の屋敷(北島国造館)にて出雲大社を祀っている。
常陸国出雲大社(旧・出雲大社常陸教会)は、出雲大社教からの分派である。2013年、出雲大社常陸教会が永谷園とタイアップしたことに対して、神社本庁の昭和54年通達「神符守札を一般商品の付加品としたり、宣伝の材料にしてはならない」という規定に反するとして出雲大社教が通告文を提出したが、本来なら神社本庁と対立する存在であるはずの出雲大社教が神社本庁の通達を名目に通告文を提出してきたことなどに、出雲大社常陸教会側が不満を募らせ、独立した[3]。なお、出雲大社が常陸教会にたいして千家尊祐(出雲大社宮司で、出雲大社教では「国造様」と呼ばれる)の名前を出して通告した、とフライデーで報道されたことに対しては、出雲大社と出雲大社教は無関係であるのでそのようなことはない、と出雲大社教側ではしている[4](このように、戦後の出雲大社と出雲大社教は実質的に統合されているにもかかわらず、名目上は別団体であり、出雲大社は神社本庁に従属しているのに対して出雲大社教は神社本庁と対立しているという、微妙な関係にある)。
言靈に目覚めよう!
去年、出雲大社に参拝させて頂いたのですが、この事が関係しているのかも私には分かりませんし、私が感じただけなので確証も無いのですが、出雲大社の本来の神様はいつでも破れるのに誰かに封じられた事を利用して機会が来るまで隠れていて、表面には違うのが居る様な気がしてしまいしょうがないのですが…。
出雲観光マップ
二千年の眠りから覚めた出雲王国の証
一片の土器からはじまった遺跡調査
1983年(昭和58)、広域農道の建設に伴い斐川町神庭西谷周辺で遺跡分布調査を行ったところ、調査員の一人が田んぼの畦で須恵器(古墳時代の後半から日本でつくられた陶質の土器)の破片を拾いました。この谷の南側に「三宝荒神」が祀られていることから遺跡名を「荒神谷遺跡(こうじんだにいせき)」と命名、翌年1984年から始まった本格的な発掘調査により、銅剣358本が発掘されました。
それまで全国で出土した銅剣の総数は約300本、荒神谷遺跡はそれを一ヶ所で上回る出土数で、当時の日本古代史学・考古学界を大きく揺るがす大発見となりました。
さらに翌年の1985年にはそこから7mほど離れた地点で銅鐸6個、銅矛16本という大量の青銅器が出土。これらは全て1998年に「島根県荒神谷遺跡出土品」として国宝に指定されています。
写真1
358本の銅剣
遺跡の場所は斐川町の仏経山(ぶっきょうざん)から北東3kmの位置にあります。
標高22mの小さな谷間の南向きの斜面に上下二段の加工段が作られ、その下段に刃を起こした状態の銅剣が合計358本、4列に整然と並べた形で埋められていました。
銅剣は約2200年前の弥生時代前期、朝鮮半島より武器として伝わってきたといわれ、銅に少量のすずや鉛などをまぜた合金で、作られたときは金色の輝きを帯びていたものと思われます。
これらはいつどこで作られたものかなど、はっきり分かっていませんが、同じ鋳型で製造されたものが多いことから、同じ時期に同じ場所で作られたものだと考えられています。
青銅器につけられた謎の刻印
銅剣に刻まれた「×」印
加茂岩倉遺跡で発掘された銅鐸にも同じ刻印が
出土した358本の銅剣のうち344本に「×」印が刻まれていました。
荒神谷遺跡の発見から12年後の1996年、ここから山を隔てた3.4kmの加茂岩倉遺跡(かもいわくらいせき)から39個という大量の銅鐸が発見され、そのうちの14個にも、銅剣と同じ「×」の刻印が見つかっており、二つの遺跡の関係性や刻印の意味などが注目されています。
※これら銅鐸も全て国宝に指定され、加茂岩倉遺跡も国の指定史跡となっています。
人々の想像をかきたてる古代出雲の真相
写真5
まさに世紀の大発見といえるこれら青銅器の大量出土ですが、一体いつ誰が、何のために埋めたのかなど、詳しい事はほとんど分かっていません。
それまで島根県は青銅器の出土例や遺跡等の発見もほとんどなく、考古学上それほど注目をされていませんでした。
日本最古の歴史書である「古事記」などには古代出雲の記述があり、神話の舞台としても数多く登場する地であるにもかかわらず、「出雲王国」を具体的に証明できるものがなかったため、それらは神話の域を脱する事はありませんでした。しかしこの大量の青銅器の発見に「出雲には何かがあった」と出雲王国の存在を誰もが感じ、神話は一気に現実味を帯びることになりました。
※実際に出土した青銅器は、現在は文化庁が所蔵し、古代出雲歴史博物館に常設展示されています。
また古代出雲歴史博物館においても、修復作業や他県への出品等で、全点展示されていないことがあります。詳しくは古代出雲歴史博物館までお問い合わせください。
青銅器の埋納諸説
あなたはどれだと思いますか?
大量の青銅器の埋納については様々な推測が飛び交い、いまだ多くの謎に包まれています。それゆえに想像やロマンは膨らみ、古代出雲を探求する人は後を絶ちません。
だれがいつ、何のために埋めたのか。遺跡を訪ね、その謎を解いてみませんか?
1.祭祀説 雨乞い、収穫、地鎮など豊穣の祈りを大地に捧げる祭祀
2.保管説 マツリの儀式の時に取り出して使用するため、普段は土中に保管した
3.隠匿説 大切な宝である青銅器を、部外者から奪われないように隠した
4.廃棄説 時代の変化により青銅器が不要になったため破棄された
5.境界埋納説 共同体間の抗争の緊張から生まれた“境界意識”の反映
荒神谷博物館展示ガイドブックより引用
荒神谷史跡公園
写真8
毎年たくさんの花を咲かせる古代ハス(正式名称/大賀ハス)
荒神谷史跡公園は、荒神谷遺跡を中心とする「出雲の原郷」の歴史景観を守り未来へと伝えることを目的に、平成7年5月にオープンしました。
公園中央にある西谷池を中心に、北側に遺跡や博物館、南側にはアスレチックや古代復元住居などがあり、大人から子どもまで楽しめる複合施設になっています。
公園の北側と南側の二ヶ所に駐車場があり、遺跡や博物館へは北駐車場が便利です。北駐車場から公園に入ると右手に荒神谷博物館、正面奥には5000㎡の水田があり、6月中旬頃からは約5万本のハスの花が水田一面に咲き誇ります。
古代の小径と呼ばれる水田の脇道を進むと遺跡があり、実際に銅剣が出土した場所をご覧いただけます。出土した当時の状況がレプリカで再現され、少し高い場所から遺跡全体を見ることもできます。
希望があればボランティアガイドさんが遺跡を案内してくれます。
古代の生活を復元した竪穴式住居も。
荒神谷博物館
荒神谷博物館では、企画展示や大型映像、ジオラマなどで遺跡の謎にせまります!
また館内ミュージアムショップでは特産品や遺跡や神話の関連書籍を販売しています。
荒神谷遺跡の改修整備工事について国指定史跡荒神谷遺跡の改修整備をおこなうことにより、見学しやすい環境を整える工事が予定されています。工事中は遺跡の見学ができません。荒神谷博物館は通常どおり開館しています。工事の期間につきましては、荒神谷博物館ホームページをご覧いただくか、博物館に直接お問合せください。
水運に関しては、箱庭のような出雲文化圏。なんでいわんのかな。どうしても、天ちゃんに引っかかるからか。そこで完結した、文化圏の、出雲文化圏。地元の伝承などかんがえると。全く違う。古事記自体おかしい。稲佐の決闘は、相撲で言うおっつけが、かかって、つららのように棒立ちになったのが、今の相撲とおなじ、基本。
千家 国麿
(せんげ くにまろ、1973年9月2日 - )は、日本の神職。出雲大社権宮司(2014年 - )。
経歴
1973年(昭和48年)9月2日、島根県出雲市で誕生[1]。父は第84代出雲国造で出雲大社宮司の千家尊祐[2]で、弟に誠比古、徳比古らがいる。島根県立大社高等学校、1996年(平成8年)3月國學院大學文学部神道学科卒業(104期)。
大学卒業後の1996年(平成8年)4月から乃木神社、2001年(平成13年)4月から石清水八幡宮、2005年(平成17年)3月から出雲大社で神職を務めている[1]。同年11月から、御遷宮準備室長兼出雲大社御遷宮奉賛会事務局長。その後禰宜(ねぎ)・祭務部長に就任[3][4]。2014年(平成26年)9月7日付で、出雲大社の権宮司に就任した[5]。
2014年5月27日午前に、高円宮憲仁親王の第二女子・典子女王との婚約が宮内庁の西ヶ廣渉宮務主管から発表され、同日午後、宮内庁第一会議室で典子女王(当時)とともに記者会見を行った[6]。同年10月5日に出雲大社で結婚式を挙げた[7]。
人物
千家家は代々出雲国造を務めており、「古事記」、「日本書紀」によると、天照大神、天穂日命、建比良鳥命の家系であると伝えられている。
趣味はバードウォッチングとカメラである[4]。義母の高円宮妃は国際環境NGO「バードライフ・インターナショナル」名誉総裁であり、実父の千家尊祐も同団体日本法人の特別顧問を務めていることからバードウォッチングを通しても両家の交流があった[8]。
古事記には出雲風土記との関連性が不足かと? 宮崎県高千穂と出雲では天孫降臨は成立しないかと、出雲大社は明治4年からです 出雲記念館に全国にいずもがありますと記されいます。古事記は出雲大社では無いと思います 大嘗祭が三木家で行われる事から古事記は阿波に地名などが沢山出てきます。ご確認下さい。
松江城
(まつえじょう)は、現在の島根県松江市殿町に築かれた江戸時代の日本の城。別名・千鳥城。現存天守は国宝、城跡は国の史跡に指定されている。
概要
南櫓
1本丸 2二の丸上段 2s二の丸下段 3三の丸 H大手門
小瀬甫庵の縄張りによる平山城。江戸時代には松江藩の政庁として、出雲地方の政治経済の中心であった。山陰地方で唯一の現存天守であり、国宝指定された5城のうちの一つである(他は犬山城、松本城、彦根城、姫路城)。標高29メートルの亀田山に建つ天守からは宍道湖を眺望することができる。
明治時代初頭に廃城令によって松江城は陸軍省所管となり城内の建物は全て解体され売却される予定だったが、地元の有志によって天守閣だけは買い戻されて解体を免れた。近年、二の丸の櫓が復元されるなど往年の姿を取り戻しつつある。
昭和初期に城山部分は公園として開放され、現在は指定管理者制度に則り、特定非営利活動法人松江ツーリズム研究会が運営をしている。日本さくら名所100選や都市景観100選に選ばれるなど島根県の主要な観光名所となっている。
歴史・沿革
前史
鎌倉時代から戦国時代かけて、この地に末次城(末次の土居)が置かれた。
城下町
城下町の模型
亀田山は北の奥谷方面から続く丘陵の南端にあたり、現在松江北高校のある赤山との間には宇賀山と呼ばれる丘陵があった。本丸北側の内堀開削は宇賀山を開削する大工事となり、大量に出た土砂は城下の整備に利用された。
松江城のある大橋川以北の島根郡側では、殿町、母衣町、田町、内中原町。外中原町などが武家屋敷地、京橋川以南の末次が町人地に割り当てられた。大橋川以南の意宇郡側では、白潟が町人地と寺町に割り当てられ、松平氏時代になると天神川以南の津田街道(山陰道)沿いに足軽町(雑賀町)が建設された。
塩見縄手(旧武家町) - 北堀川周辺の、松江藩家老の塩見家の屋敷があった地区。松江市伝統美観指定地区になっているほか、日本の道100選に選ばれている。武家屋敷、明々庵、小泉八雲記念館、小泉八雲旧居、田部美術館など。
その他
人柱伝説
天守台の石垣を築くことができず、何度も崩れ落ちた。人柱がなければ工事は完成しないと、工夫らの間から意見が出た。そこで、盆踊りを開催し、その中で最も美しく、最も踊りの上手な少女が生贄にされた。娘は踊りの最中にさらわれ、事情もわからず埋め殺されたという。石垣は見事にでき上がり城も無事落成したが、城主の父子が急死し改易となった。人々は娘の無念の祟りであると恐れたため、天守は荒れて放置された。その後、松平氏の入城まで天守からはすすり泣きが聞こえたという城の伝説が残る。また、城が揺れるとの言い伝えで城下では盆踊りをしなかった(小泉八雲「人柱にされた娘」など)。
天守台下の北東部石垣が何度も崩落するため困っていたところ、堀尾吉晴の旧友という虚無僧が現れて、崩落部分を掘らせたところ槍の刺さった髑髏が出てきたので虚無僧が祈祷したが、まだ危ういところがあるというと虚無僧は「祈祷では無理だ。」というのである。どうすればいいのか尋ねると、「私の息子を仕官させてくるのであれば、私が人柱になろう。」というので、虚無僧に人柱になってもらい工事を再開させることができたが、堀尾家は普請の途中に2代忠晴で絶え改易となった、というものである[12]。
これには別に、虚無僧の尺八が聞こえてきたので捕まえて人柱にしたところ、尺八の音が聞こえるようになった、というものもある。[13]
建御雷神
(たけみかづち、タケミカヅチノオ)は、日本神話に登場する神。
概要
「地震のおかげで普請が増え、大工が儲けて大喜びしている」という、地震よけの歌にかこつけた風刺画(安政2年10月の瓦版)。ナマズを抑えるのは鹿島神ことタケミカヅチ[1]
『古事記』では建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ)、建御雷神(たけみかづちのかみ)、別名に建布都神(たけふつのかみ)、豊布都神(とよふつのかみ)と記され、『日本書紀』では武甕槌や武甕雷男神などと表記される。単に「建雷命」と書かれることもある[2]。
また、鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)の主神として祀られていることから鹿島神(かしまのかみ)とも呼ばれる[3]。
雷神、かつ剣の神とされる[2]。後述するように建御名方神と並んで相撲の元祖ともされる神である。また鯰絵では、要石に住まう日本に地震を引き起こす大鯰を御するはずの存在として多くの例で描かれている。
古事記・日本書紀における記述
神産み
神産みにおいて伊邪那岐命(伊弉諾尊・いざなぎ)が火神火之夜芸速男神(カグツチ)の首を切り落とした際、十束剣「天之尾羽張」(アメノオハバリ)の根元についた血が岩に飛び散って生まれた三神の一柱である[4]。剣のまたの名は伊都尾羽張(イツノオハバリ)という[5]。『日本書紀』では、このとき甕速日神(ミカハヤヒノカミ)という建御雷の租が生まれたという伝承と、建御雷も生まれたという伝承を併記している[6]。
葦原中国平定
「出雲の国譲り」の段においては伊都之尾羽張(イツノオハバリ)の子と記述されるが[7]、前述どおり伊都之尾羽張は天之尾羽張の別名である。天照大御神は、建御雷神かその父伊都之尾羽張を下界の平定に派遣したいと所望したが、建御雷神が天鳥船(アメノトリフネ)とともに降臨する運びとなる[7]。出雲の伊耶佐小浜(いざさのおはま)に降り立った建御雷神は、十掬の剣(とつかのつるぎ)を波の上に逆さに突き立てて、なんとその切っ先の上に胡坐をかいて、大国主神(オオクニヌシノカミ)に対して国譲りの談判をおこなった。大国主神は、国を天津神に譲るか否かを子らに託した。子のひとり事代主神は、すんなり服従した。もう一人、建御名方神(タケミナカタ)(諏訪の[3]諏訪大社上社の祭神[7])は、建御雷神に力比べをもちかけるも、手づかみの試合で手をつららや剣に変身させ、怯んだ建御名方神はその隙に一捻りにされたため、恐懼して遁走し、科野国の洲羽の湖で降伏した。これによって国譲りがなった[2]。このときの建御名方神との戦いは相撲の起源とされている[8]。
『日本書紀』では葦原中国平定の段で下界に降される二柱は、武甕槌と経津主神である。(ちなみに、この武甕槌は鹿島神社の主神、経津主神は香取神社の主神となっている[3]。上代において、関東・東北の平定は、この二大軍神の加護に祈祷して行われたので、この地方にはこれらの神の分社が多く建立する[3]。)『日本書紀』によれば、この二柱がやはり出雲の五十田狭小汀(いたさのおはま)に降り立って、十握の剣(とつかのつるぎ)を砂に突き立て、大己貴神(おおあなむち、大国主神のこと)に国譲りをせまる。タケミナカタとの力比べの説話は欠落するが、結局、大己貴神は自分の征服に役立てた広矛を献上して恭順の意を示す[9]。ところが、二神の前で大己貴命がふたたび懐疑心を示した(翻意した?)ため、天津神は、国を皇孫に任せる見返りに、立派な宮を住まいとして建てるとして大己貴命を説得した[10]。
また同箇所に、二神が打ち負かすべく相手として天津甕星の名があげられ、これを征した神が、香取に座すると書かれている。ただし、少し前のくだりによれば、この星の神を服従させたのは建葉槌命(たけはづち)であった[11]。
神武東征
さらに後世の神武東征においては、建御雷の剣が熊野で手こずっていた神武天皇を助けている。熊野で熊が出現したため(『古事記』[12])、あるいは毒気(『日本書紀』[13])によって、神武も全軍も気を失うか力が萎えきってしまったが、高倉下(たかくらじ)が献上した剣を持ち寄ると天皇は目をさまし、振るうまでもなくおのずと熊野の悪神たちをことごとく切り伏せることができた。神武が事情をたずねると高倉下の夢枕に神々があらわれ、アマテラスやタカミムスビ(高木神)が、かつて「葦原中国の平定の経験あるタケミカヅチにいまいちど降臨して手助けせよ」と命じるいきおいだったが、建御雷は「かつて使用した自分の剣をさずければ事は成る」と言い、(高倉下の)倉に穴をあけてねじ込み、神武のところへ運んで貢がせたのだという。その剣は布都御魂(ふつのみたま)のほか、佐士布都神(さじふつのかみ)、甕布都神(みかふつのかみ)の別名でも呼ばれている[12](石上神宮のご神体である)。
考証
神産み神話(イザナキ・イザナミが生んだ神々) SVGで表示(対応ブラウザのみ)
混同されがちな経津主神は別の神で、『日本書紀』では葦原中国平定でタケミカヅチとともに降ったのは経津主神であると記されている。経津主神は香取神宮で祀られている物部氏の神である。
名義は甕速日神と共に産まれてきたことから、名義は「甕(ミカ)」、「津(ヅ)」、「霊(チ)」、つまり「カメの神霊」とする説[14]、「建」は「勇猛な」、「御」は「神秘的な」、「雷」は「厳つ霊(雷)」の意で、名義は「勇猛な、神秘的な雷の男」とする説がある[15]。また雷神説に賛同しつつも、「甕」から卜占の神の性格を持つとする説がある[16]。
祭祀を司る中臣氏が倭建命の東国征伐と共に鹿島を含む常総地方に定着し、古くから鹿島神ことタケミカヅチを祖神として信奉していたことから、平城京に春日大社(奈良県奈良市)が作られると、中臣氏は鹿島神を勧請し、一族の氏神とした。
異説
元々は常陸の多氏(おおうじ)が信仰していた鹿島の土着神(国津神)で[17]、海上交通の神として信仰されていたとする説がある[17] 。大和岩雄の考察によれば、もともと「大忌」つまり神事のうえで上位であるはずの多氏の祭神であったのだが、もとは「小忌」であった中臣氏にとってかわられ、氏神ごと乗っ取られてしまったのだという(『神社と古代王権祭祀』)[17]。
一方で宝賀寿男は系図、習俗・祭祀、活動地域、他氏族との関わりから、多氏を天孫族、中臣氏を山祇族に位置づけ、建御雷神を最初から中臣氏が祖神として奉斎した氏神(天児屋命の父神)と独自の主張を行った。この説によると、山祇族(紀国造、大伴氏、久米氏、隼人等[要出典][なぜ?])[注釈 1]は月神、火神、雷神、蛇神と縁が深く[要出典][なぜ?]、これらを祖神としてきたため[要出典]、祖系には火神・雷神が複数おり、そこから建御雷神の位置づけを推定したとする。実際に建御雷神と中臣氏の遠祖である天児屋命を繋ぐ系図が存在[要出典]し、中臣氏歴代にも津速産霊命、市千魂命、伊香津臣命、雷大臣命など「雷」に関係した神名・人名が見られ[要出典]、中臣氏と同祖と見られる紀国造にも雷神祭祀(鳴雷神社)や天雷命など雷に関わる神名が見られる[19][20]。
さらにはヤマト王権の東国進出の際、鹿島が重要な拠点となったが、東方制覇の成就祈願の対象も鹿島・香取の神であることは葦原中国平定で既に述べた。こうしたことで、タケミカヅチがヤマト王権にとって重要な神とされることになった。
信仰
鹿島神宮、春日大社および全国の鹿島神社・春日神社で祀られている。
出雲神社は特異な神社。 作法も違う。
たたら製鉄ー2
たたらの語源ともなったフイゴにも時代ごとの変遷はあるものの、おおむね箱形炉をはさんで長辺側に2台設置されるのが一般的で、それぞれに約20本ずつ取り付けられた「木呂(きろ)」と呼ばれる送風管によって炉壁の両側下部より空気を送り込む。炉の内部は下に向かって徐々に狭まってゆく構造で、幅が最も小さくなる底部周辺に羽口があり、そこに鉄が生成される。羽口は2段階の太さになっており、先のほうが細い。、これは後述する鉧押し(けらおし)の炉にのみ見られるもので、炉内にケラが出来始めて炉壁を侵食してゆき、それが中程まで進んで羽口の太い所まで来た時には最も火力を上げる時期に差し掛かるため、フイゴの速度を上げてより多くの風を送り込むための工夫である[20]。
また、除湿と保温のための地下構造もたたら製鉄の発展に伴ない拡大してきた。近世中期には上部構造物の3倍の規模をもち、炉の火力を落とさないためのさまざまな工夫が見て取れる。まず地下約1.5 - 2メートルにかけて厚い粘土の層を設けてそれより下からの地下水や湿気を遮断する。粘土層の下には木炭や砂利などの層が続き、最下部中心には排水溝を通す。一方、粘土層の上には深さ1.5メートル程の「本床(ほんどこ)」を設け、その中に薪を詰めて蒸し焼きにすることで地下構造全体を十分に乾燥させる。薪は木炭となって残り、それをそのまま突き固めて木炭と灰の層とする。また、本床の両側には「小舟(こぶね)」と呼ばれる熱の遮断と湿気の発散を目的とした小さな空間を設ける。[21][22]
規模の変遷こそあるものの、初期を除いてたたら製鉄の基本構造に、時代ごとで根本的と言える程の違いは存在しなかった。
なお、古来からある日本独自の溶鉄炉には「こしき炉(甑炉)」と呼ばれる炉もあり、混同されることがあるが両者は構造が全く異なる[23](キューポラを参照)。
たたら製鉄の歴史
概略
広島県立みよし風土記の丘に移築復元された戸の丸山製鉄遺跡(古墳時代後期)の製鉄炉。
古代における国内製鉄に関しては未だ詳しくわかっていないことも多い。
最古級の遺跡に、弥生時代中期頃の奴国に比定される福岡県の赤井手遺跡があるが、この遺跡は製鉄を行った遺跡ではなく、鉄素材を加工して鉄器を製作した鍛冶遺跡であった。
古典的には、弥生時代に、朝鮮半島から持ち込まれた原料を用いた製鉄が始まったと考えられてきた[24]。ただしこの説の根拠とされる遺跡の炭素年代の検討には疑義があり、確たる説と認められるには至っていない[25]。文献学的な見地で見た場合、記紀における内容や「多多良」という姓氏、和名の発生時期などから、すでに5世紀前後には国内製鉄が行われていた可能性も指摘されている[26]。
考古学的に信頼できる確かな証拠としては、6世紀半ばの吉備地方に遡る[25]。ここでは、最初期には磁鉄鉱、6世紀後半からは砂鉄を原料として使用していた[25]。国内で調達が容易な砂鉄を原料とすることで、製鉄法は吉備地方から日本各地へ伝播したとみられる[27]。また、日本の製鉄法は、大陸や朝鮮半島、あるいは世界各地の製鉄法と比較して、炉の形状が特異である[27]。大陸や朝鮮半島での製鉄では円筒形で高さのある炉が用いられているのに対し、吉備地方から伝わった製鉄法では箱型で高さの低い炉が用いられた[25]。なぜこのような独特の技法が編み出されたのかは解明されていない[25]。
なお、近年の発掘、研究の進展によって、福岡県福岡市の博多遺跡群や、長崎県壱岐のカラカミ遺跡などでは、弥生時代の製鉄遺跡と思われる痕跡が相次いで見つかっている[28]。
当初は自然風のみを利用した方法であったため、「鉄滓(のろ)」と呼ばれる不純物を多く含んだスポンジ状の海綿鉄ができ、それを再度加熱した上、ノロと余分な炭素を叩き出すことで錬鉄や鋼に加工した。間もなくしてフイゴが使われるようになると、その後の技術の改良や進歩によってたたら製鉄は徐々に規模を拡大し始める。
続く奈良・平安期頃にはどういった鉄が生産されていたのか不明であるが、遺跡の発掘によって中国地方の山陰、東北地方の南部では砂鉄が、山陽では鉄鉱石が多く原料に使われたことが分かっている[29]。すでに初歩的な地下構造が出現し、炉も大型化が進んだ[30]。
中世以降のたたら製鉄には間接製鋼法である「銑押し(ずくおし)」と直接製鋼法である「鉧押し(けらおし)」とが存在した。前者は中世から[31]近代の半ばにかけて全国で広く行われた方法であり[32]、対して後者は16世紀初頭になって登場した播磨国の「千種鋼(ちぐさはがね)」を始まりとする[注釈 3]。
また年代ごとの方式の変遷として、古代・中世における露天型の「野だたら」から、近世中期以降の屋根を備えた固定型の「永代たたら」への移行といった流れがある。
このような長い変遷を経たのち、たたら製鉄が成熟し完成の域に達するのは18世紀に入ってからのことである[34]。
古代環日本海の交通と貿易センタービルー4
貿易センターとしての出雲大社の構造平安時代の史料に、日本には三大建築物、三大高層建築物があると、「口ずさみ」と申しまして、人々が歌に歌っていました。それが伝えられております。平安時代の三大建築は、出雲大社と東大寺の大仏殿と平安京の大極殿だそうです。この三つは、私たちも納得できる大きさを、多分、古代の世界では誇っていたであろうことは納得できるわけです。出雲大社の「金輪御造営差図(かなわのごぞうえいさしず)」は、江戸時代に描かれた造営設計図で、本居宣長が引用していますが、それも私たちは信じられないといってきましたが、ご覧のように巫女さんに比べて非常に大きな木組みのもとになった、その出雲大社の設計図まで発見されていることで、信ぴょう性が増しました。出雲大社が今あるよりずっと大きい建物であったことは容易に想定されます。
出雲大社と東大寺大仏殿は、今は江戸時代の造営なので非常に小さくなっておりますが、もっと大きいものであったことは分かっています。平安時代に天下無双の大厦と称され、16 丈以上の高さはあったという「金輪御造営差図」は、先ほどお見せした引橋一町の階段を持ったような大きな建物でした。何のために建築物が造られたかというと、貿易センターとしてどこからも見晴るかすことができる大規模建造物でなければならず、その地域の人々が海の彼方から来る人々と貿易、交易を持つためであったのだろうと私は思います。史料⑰出雲大社が非常に大きな建築物であったことには、さまざまに面白い伝承もあります。史料⑰に『懐橘談』を載せております。平安時代の末に、出雲大社は非常に高い建物だったので、しょっちゅう倒壊しました。しょっちゅう地震に遭い、雨風に遭い、倒れます。ところが、倒れても性懲りもなく出雲大社は全て再建されます。再建には大変お金が掛かります。大きな材木も要ります。
大きな材木が必要となると、「国司帥中納言藤原家任が日記に云う」という形で書かれているのは、天仁三年、海の彼方から稲佐浦に大木が 100 本流れ着いたと。これは神様の御示現だというわけですが、因幡の上宮の御近辺に長さ 15 丈、直径 1 丈 5 尺の大木が寄ってきた。それを切ろうとしたら、これは出雲大社の造営に使うから切ってはならないと大きなヘビがまといついて言ったとあります。そして、その木が出雲大社の造営に利用されました。この話は、「寄木よ り きの造営ぞ う え い」といわれており、永久三年、天仁三年から間もなくして出雲大社が再建された、これを神の御示現によって 15 丈の長さの木が海から流れ着いたから、それで造営ができたという伝承に結びついていったわけです。それと同じようなことが、東大寺の「大仏縁起」にも、長門国で切り出した木を大和へ持ってこようとするときに龍などが助けて、東大寺大仏殿の材木を調達し、大和へ運んだと書かれております。
つまり、東大寺にしても出雲大社にしても、非常に大きな木が利用されて造られた建物でした。それが『日本書紀』の断片的な記述を探っていくと、なんと、今は全く失われている渟足柵、新潟は非常に地盤の悪い所であり、ボーリングして渟足柵の痕跡が出てこないかといわれていますが、そうしたものを幾つ掘っても、なかなか新潟の土壌はすごく軟らかくて分かっていません。しかし、そうした史料から想定されるのは、渟足柵は、平安時代に東大寺、出雲大社、平安京大極殿などの三大大厦と呼ばれた建物に匹敵するような規を持っていたのではないかということです。それが日本海にそびえていました。
それは、最初に見た朱鷺メッセの上から見晴らかせるような、非常にランドマーク的な意味合いの強い建物が、『日本書紀』の例を見ても、さまざまな発掘事例を見ても、大概日本海沿岸の河口に造られているか、潟湖という入り込んだ水辺に造られています。それは、出雲大社が潟湖に向かって階段を延ばしているように、防御の砦でも何でもなく、日本海の人々と交易するために造られた建物ではなかったかという壮大な仮説を立ててみるわけです。
こういう史料が日本側にあるのですから、環日本海の向こう側に同じような発掘事例はないのか、本当はロシアや朝鮮、中国などの研究者とも検討してみればいいわけですが、残念ながら、今何がこだわられているかというと、まず「日本海」という名称自体が拒否反応を招いてしまい、これがなかなか国際的シンポジウムなどを設定できないジレンマがあります。
日本側の発信がなかなか受け入れられないという非常に残念な事態なのです。衣服、建造物の記号的意味私はそもそも衣服関係を研究していますが、民族の違いは衣服の違いであることは、徹底的に中国の考え方です。衣服はその人そのものを表します。
ですから、日本人が中国服を着ると中国人になってしまうほど、中国の儒教的観念からは、衣服というのがその人間存在そのものを表すという考え方になってくるわけです。ですから、中国の歴史書には、必ず一番最後に「蛮夷伝(ばんいでん)」という周辺諸民族の記述があります。そこには、必ず衣服の記述があります。ある衣服を着ていた民族が中国と国交関係を結ぶことにより、どのように衣服が変化していったかということを非常に細かく、注意深く描写してあります。
『出雲国風土記』
(いずものくにふどき)は、出雲国の風土記。編纂が命じられたのは和銅6年(713年)5月、元明天皇によるが、天平5年(733年)2月30日に完成し、聖武天皇に奏上されたといわれている。「国引き神話」を始めとして出雲に伝わる神話などが記載され、記紀神話とは異なる伝承が残されている。現存する風土記の中で唯一ほぼ完本の状態である。
登場する神
『古事記』や『日本書紀』に登場する神もいくつか登場するが、当風土記にのみ登場する神も多い。ここでは複数の地名説話で名が挙げられた神とその妻や子らを主に挙げる。(神名の後ろの地名は登場した説話の地名である。神名の漢字表記は最初に登場したものを採用する。読みの「〜のみこと」は省略する。)
八束水臣津野命(やつかみずおみつの)
「八雲立つ」の言葉を発し、この国を出雲と命名したとされる。国引き神話において遠方の土地を引っ張って出雲国を形成した。『古事記』のスサノヲの系譜に名の見える「淤美豆奴神」と同一神と見られる。
妻として以下の神が登場する。
天甕津日女命(あめのみかつひめ) - 秋鹿郡伊農郷。
子として以下の神が登場する。
赤衾伊農意保須美比古佐和気能命(あかぶすまいぬおおすみひこさわけ) - 出雲郡伊努郷。
所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)大穴持命(おおなもち)
当風土記では最も登場回数が多い神である。「越の八口」を平定して出雲に帰還した後に意宇郡母里郷で国譲りの宣言を発した。神門郡を中心として妻問いの説話が多い。大原郡では八十神を討つために行動を起こしている。
妻問いの相手として以下の神が登場する。
奴奈宜波比売命(ぬながわひめ) - 島根郡美保郷。『古事記』の沼河比売。
綾門日女命(あやとひめ) - 出雲郡宇賀郷。
真玉著玉之邑日女命(またまつくたまのむらひめ) - 神門郡朝山郷。
八野若日女命(やのわかひめ) - 神門郡八野郷。
和加須世理比売命(わかすせりひめ) - 神門郡滑狭郷。
子として以下の神が登場する。
山代日子命(やましろひこ) - 意宇郡山代郷。
阿遅須枳高日子命 (あぢすきたかひこ)- 神門郡高岸郷、仁多郡三沢郷。(後述)
御穂須須美命(みほすすみ) - 島根郡美保郷。奴奈宜波比売命との子で、建御名方神と同一視されることもある。
和加布都努志能命(わかふつぬし) - 秋鹿郡大野郷、出雲郡美談郷。
阿陀加夜努志多伎吉比売命(あだかやぬしたききひめ) - 神門郡多伎郷。
意支都久辰為命(おきつくしい)
越の奴奈宜波比売命の祖父
俾都久辰為命(へつくしい)
越の奴奈宜波比売命の父
布都努志命(ふつぬし)
意宇郡の楯縫郷と山国郷に登場する。
神須佐乃烏命(かむすさのお)
記紀と異なり自身の登場回数は少なく、大穴持命との血縁関係は伺えない。意宇郡安来郷、飯石郡須佐郷、大原郡佐世郷と御室山に登場する。須佐郷で自らの御魂を鎮めた。
子として以下の神が登場する。
青幡佐久佐日古命(あおはたさくさひこ) - 意宇郡大草郷、大原郡高麻山。
都留支日子命(つるぎひこ) - 島根郡山口郷。難波田使主の系図には神櫛玉命の息子で陶津耳命の兄弟とある。
国忍別命(くにおしわけ) - 島根郡方結郷。
磐坂日子命(いわさかひこ) - 秋鹿郡恵曇郷。
衝桙等乎而留比古命(つきほことおるひこ) - 秋鹿郡多太郷。
八野若日女命(前出、大穴持命の妻問いの相手)
和加須世理比売命(同上)
また飯石郡熊谷郷には記紀で妻となるクシナダヒメと同一神と見られる久志伊奈太美等与麻奴良比売命(くしいなだみとよまぬらひめ)が登場する。
伊弉奈枳命(いざなぎ)
自身は登場せず、子として以下の神が登場する。
熊野加武呂命(くまのかむろ)(熊野大神) - 意宇郡出雲神戸、島根郡朝酌郷。須佐之男命と同一視される。
都久豆美命(つくづみ) - 島根郡千酌駅。
阿遅須枳高日子命(あぢすきたかひこ)
神門郡高岸郷と仁多郡三沢郷において父の大穴持命に養育される様子が描かれており、葛城の賀茂社に鎮座していると記されている。
妻として以下の神が登場する。
天御梶日女命(あめのみかじひめ) - 楯縫郡神名樋山。
子に以下の神が登場する。
多伎都比古命(たきつひこ) - 楯縫郡神名樋山。天御梶日女命との子
塩冶毘古命(やむやびこ) - 神門郡塩冶郷。
神魂命(かみむすび)
自身は楯縫郡の郡名の由来において所造天下大神の宮の造営を命ずるのみで、これ以外は以下に挙げる子らの説話のみとなっている。
八尋鉾長依日子命(やひろほこながよりひこ) - 島根郡生馬郷。
宇武賀比売命(うむかひめ) - 島根郡法吉郷。『古事記』の蛤貝比売。
枳佐加比売命(きさかひめ) - 島根郡加賀神埼。『古事記』の𧏛貝比売。
天御鳥命(あめのみとり) - 楯縫郡郡名。紀国造系図では彦狭知命の別名とされる。
天津枳値可美高日子命(あまつきちかみたかひこ)(薦枕志都治値(こもまくらしつじち)) - 出雲郡漆治郷。
綾門日女命(前出、大穴持命の妻問いの相手)
真玉著玉之邑日女命(同上)
佐太大神(さだのおおかみ)
島根郡加賀神埼で枳佐加比売命が産んだ子。秋鹿郡神名火山に鎮座した。
宇乃治比古命(うのぢひこ)
楯縫郡沼田郷と大原郡海潮郷に登場する。海潮郷では父の須義禰命(すがね)に対して怒り、海水で押し流した。
阿波枳閇委奈佐比古命(あはきへわなさひこ)
大原郡条に登場する。その名前は「阿波来経和奈佐彦(阿波から来て出雲の和奈佐に祀られたワナサヒコ)」と読むことができ、阿波国(徳島県)にある式内社の和奈佐意富曾神社との関係性が窺える。また、『丹後国風土記』の天女と奈具神社の伝説に現れる「和奈佐老父」と「和奈佐老女」も何らかの関係があると考えられる。阿波国、丹後国、出雲国に「ワナサ」という共通したワードが登場するのは、当時存在した海人集団が広めたからであるとする説が存在する[3]。
写本
現存する写本は70種程あるが、その中で最も古いと考えられるのは、慶長2年(1597年)に細川幽斎が書写させた「細川家本」と考えられている。
そのほか、尾張徳川家に伝わった「徳川家本」や、上賀茂神社に伝わる「万葉緯本」など、近世初期から多くの写本が作られ、各地に広まった。尾張徳川家当主徳川義直により寛永11年(1634年)に寄進されたと伝えられる、日御碕神社所蔵の「日御碕本」は、島根県指定有形文化財に指定されている。
なお『出雲国風土記』の引用例としては、文亀2年(1502年)の巻物『灰火山社記』が最古になる[4][5]。
研究史
江戸時代初期より研究が進められており、多くの注釈書や解説書が出されている。
岸崎(佐久次)時照『出雲風土記鈔』(天和3年(1683年))
内山真龍『出雲風土記解』(天明7年(1787年))
千家俊信『訂正出雲風土記』(文化3年(1806年))
横山永福『出雲国風土記考』(弘化3年(1846年)頃)
後藤蔵四郎『出雲国風土記考証』(大岡山書店、1931年)
加藤義成『出雲国風土記参究』(原書房、1962年)
など
出雲伝承と、石見の伝承かんがえると、スサノオと、オオクニヌシまったく関係ないのでは?多分交易の、関係から、侵略されたのでは。新羅の海賊が、スサノオでないのか?いい加減だけど?出雲と石見では、違いすぎる。多分、いつの世の中でも、人のいい、ヤマトの王ロチ?出雲の王さまはだまし討ちにあったのでは。地元伝承とオオクニヌシの城といわれるものみると、そう思うよ。
出雲大社
(いずもおおやしろ[1]、正仮名遣いでは「いづもおほやしろ」/ いずもたいしゃ)は、島根県出雲市大社町杵築東にある神社。祭神は大国主大神[2]。式内社(名神大)、出雲国一宮で旧社格は官幣大社[1]。神社本庁の別表神社[1]。宗教法人出雲大社教の宗祠。
二拝四拍手一拝の作法で拝礼する[3]。明治維新に伴う近代社格制度下において唯一「大社」を名乗る神社であった。
名称
古代より杵築大社(きずきたいしゃ、きずきのおおやしろ)と呼ばれていたが、1871年(明治4年)に出雲大社と改称した。正式名称は出雲大社サイトには「いづもおおやしろ」[4]、出雲大社東京分祠サイトには「いずもおおやしろ」とある[5](前者は新旧仮名遣いが混在、後者は新仮名遣い)。
一般的には「いづもたいしゃ」と読まれており[4]、複数の辞書・事典でも見出しの読みを「いずもたいしゃ」としている[6]。島根県大百科事典編集委員会『島根県大百科事典』では出雲大社の項目は正式名称の「いずもおおやしろ」として掲載する一方[1]、出雲大社本殿(いずもたいしゃほんでん)など登録文化財の項目については登録名に従った読みで掲載している[7]。
古文書に見える社名は次のとおり。
天日隅宮(『日本書紀』)
杵築宮(『釈日本記』)
出雲宮(『八雲御抄』)
厳神之宮(『日本書紀』)
出雲大神宮(『日本書紀』)[8]
杵築大神宮(『和漢三才図会』)
所造天下大神宮(『出雲国風土記』)
大社杵築大神宮(『国花万葉記』)
杵築大社(『延喜式』)
出雲国大社(『享保集成総論』)
日本大社(真言宗正林寺蔵版木)
天日栖宮(『出雲国風土記』)
出雲石(石同)之曽宮(『古事記』)[9]。
歴史
出雲大社はいわゆる国譲りの事情のもとで創建された[1]。867年(貞観9年)には正二位に叙せられ熊野大社とは別に出雲国一宮と称せられるようになった[1]。中世には12郷7浦を領したが、豊臣秀吉により減じられ5郷2浦となった[1]。1871年(明治4年)に官幣大社に列格の後、大正時代に勅祭社となった。
創建
出雲大社の創建については、日本神話などにその伝承が語られている。以下はその主なものである。
大国主神は国譲りに応じる条件として「我が住処を、皇孫の住処の様に太く深い柱で、千木が空高くまで届く立派な宮を造っていただければ、そこに隠れておりましょう」と述べ、これに従って出雲の「多芸志(たぎし)の浜」に「天之御舎(あめのみあらか)」を造った。(『古事記』)
高皇産霊尊は国譲りに応じた大己貴命に、「汝の住処となる「天日隅宮(あめのひすみのみや)」を、千尋もある縄を使い、柱を高く太く、板を厚く広くして造り、天穂日命に祀らせよう」と述べた。(『日本書紀』)
所造天下大神(=大国主神)の宮を奉る為、皇神らが集って宮を築いた。(『出雲国風土記』出雲郡杵築郷)
神魂命が「天日栖宮(あめのひすみのみや)」を高天原の宮の尺度をもって、所造天下大神の宮として造れ」と述べた。(『出雲国風土記』楯縫郡)
崇神天皇60年7月、天皇が「武日照命(『日本書紀』による。『古事記』では建比良鳥命(天穂日命の子)とされる)が天から持って来た神宝が出雲大社に納められているから、それを見たい」と言って献上を命じ、武諸隅(タケモロスミ)を遣わしたところ、飯入根(いいいりね)が、当時の当主で兄の出雲振根に無断で出雲の神宝を献上。出雲振根は飯入根を謀殺するが、朝廷に誅殺されている。(『日本書紀』)
垂仁天皇の皇子本牟智和気(ほむちわけ)は生まれながらに唖であった。占いによってそれは出雲の大神の祟りであることが分かり、曙立王と菟上王を連れて出雲に遣わして大神を拝ませると、本牟智和気はしゃべれるようになった。奏上をうけた天皇は大変喜び、菟上王を再び出雲に遣わして、「神宮」を造らせた。(『古事記』)
659年(斉明天皇5年)、出雲国造に命じて「神之宮」を修造させた。(『日本書紀』)[注 1]
以上のように、伝承の内容や大社の呼び名は様々である。共通して言えることは、天津神(または天皇)の命によって、国津神である大国主神の宮が建てられたということであり、その創建が単なる在地の信仰によるものではなく、古代における国家的な事業として行われたものであることがうかがえる。
また、出雲大社の社伝においては、垂仁天皇の時が第1回、斉明天皇の時が第2回の造営とされている。
祭神の変化
出雲国造新任時に朝廷で奏上する出雲国造神賀詞では「大穴持命(大国主大神)」「杵築宮(出雲大社)に静まり坐しき」と記載があるので、この儀式を行っていた平安時代前期までの祭神は大国主神であった[10]。
やがて、神仏習合の影響下で鎌倉時代から天台宗の鰐淵寺と関係が深まり、鰐淵寺は杵築大社(出雲大社)の神宮寺も兼ねた。鰐淵寺を中心とした縁起(中世出雲神話)では、出雲の国引き・国作りの神を素戔嗚尊としていた[10][11](本来国引きは八束水臣津野命)ことから、中世のある時期から17世紀まで祭神が素戔嗚尊[注 2]であった。14世紀「当社大明神は天照大御神之弟、素戔嗚尊也。八又の大蛇を割き、凶徒を射ち国域の太平を築く。」と杵築大社(出雲大社)の由来が記され、1666年(寛文6年)毛利綱広が寄進した銅鳥居に刻まれた銘文には「素戔嗚尊者雲陽大社神也」と記された。
さらには、鰐淵寺の僧侶が経所で大般若経転読を行い、社殿では読経もした[12]。また、江戸時代初期には社僧が寺社奉行と杵築大社(出雲大社)の運営管理に関する交渉を実施していた。
ところが、杵築大社(出雲大社)内は仏堂や仏塔が立ち並んで神事が衰微した。このため1667年(寛文7年)の遷宮に伴う大造営の時、出雲国造家が神仏分離・廃仏毀釈を主張して寺社奉行に認められた。仏堂や仏塔は移築・撤去され、経蔵は破却された[12]。これに併せて祭神は須佐之男命から、『古事記』『日本書紀』などの記述に沿って大国主大神に復した。
天孫系
概要
『日本書紀』によれば、天穂日命は高天原より国譲りの使者として遣わされたが、逆に出雲の大己貴神に従ってしまい、役目を果たさなかった。のちに国譲りが行われると、天穂日命は高天原の高皇産霊尊より大己貴神の祭祀をつかさどる者として認められ、その子孫は出雲氏(出雲国造の氏族)・土師氏となったとされる。
構成神
血縁関係(「子」など)は天穂日命から見た関係を示す。
天穂日命(あめのほひ の みこと/あまのほひ の みこと、『古事記』では天之菩卑能命。その他、天穂比命、穂日命、依野城大神、伊毘志都弊命、熊野大隅命、天熊人命) - 『日本書紀』、出雲国造神賀詞、「西角井從五位物部忠正家系」[7]
『古事記』、『日本書紀』によれば、アマテラスとスサノオの誓約の時に天照大御神の子として生まれた。『古事記』では出雲の国譲りの際に、天忍穂耳命に次いで第二の使者として高天原より遣わされたが、大国主神に媚びへつらい三年も復命しなかったため、第三の使者である天若日子が遣わされることとなる。一方『日本書紀』では「神の傑」であるとされて高天原側の使者として出雲に遣わされた。しかし大己貴神に佞媚してしまい3年におよんだので、高天原は天穂日命の子の大背飯三熊の大人を遣わすことを決定した。天穂日命への処分の有無は不明。
また、出雲国造神賀詞によれば、天穂比命は天下を見廻ったのちに高天原側に報告を行ったという。
また、『日本書紀』第九段第二の一書によると、のちに国譲りが行われたときに高天原の高皇産霊尊は大己貴神への神勅のなかで天穂日命に大己貴神への祭祀を行う役目を認めたという。
(子)大背飯三熊の大人(おおせいいのみくまのうし、大背飯熊大人、武三熊の大人、天夷鳥命、天夷鳥、武日照命、武夷鳥命、武夷鳥、稲背脛命) - 『日本書紀』、出雲国造神賀詞、「西角井從五位物部忠正家系」[7]、『古代豪族系図集覧』
『日本書紀』によれば、その父天穂日命が3年間高天原への報告を行わなかったために、高天原より代わりの使者として大背飯三熊の大人が遣わされたが、その父にしたがってしまいやはり報告をしなかったという。また同書崇神天皇段には、武日照命が天より神宝(かむたから)を将来したことが記されている。
また、出雲国造神賀詞によれば、父である天穂比命は高天原に報告をした後、天夷鳥命に布都怒志命をそえて降し、地上を平定させたという。
また、「西角井從五位物部忠正家系」[7]によれば、その父天穂日命にひきいられて出雲国に降臨したという。
(孫)櫛瓊命(くしに の みこと、櫛玉命、櫛八玉神、五十坂三磯命、伊佐我命、出雲建子命、伊勢都彦命、神伊勢都彦命、伊勢津彦) - 「西角井從五位物部忠正家系」[7]、『古代豪族系図集覧』、『先代旧事本紀』、『伊勢風土記』
「西角井從五位物部忠正家系」[7]によれば、はじめは伊勢国度会県に住んだが、神武天皇(初代天皇)の時代に東国に移ったという。
『伊勢風土記』によれば、神武東征の際に天皇に従っていた天日別命は伊勢津彦の支配地におもむき、国を天皇に献上するか問うたところ、伊勢津彦は命令に従わなかった。そこで天日別命は伊勢津彦をころそうとしたところ、伊勢津彦は降伏して国土を献上し、夜中に風を起こして波に乗り東方に去った。のちに伊勢津彦の名からとって献上された国の名を伊勢としたという。
(曾孫)津狭命(つさ の みこと、神狭命、二井の宇迦諸忍の神狭命、諸忍毘古命、都我利命) - 「西角井從五位物部忠正家系」[7]、『古代豪族系図集覧』、『先代旧事本紀』
(玄孫)櫛瓺前命(久志和都命) - 『古代豪族系図集覧』
出雲氏(出雲国造の氏族)・土師氏・菅原氏・大江氏の祖。
(玄孫)身狭耳命(見狭耳命) - 「西角井從五位物部忠正家系」[7]、『古代豪族系図集覧』
武蔵国造・上海上国造・下海上国造・相武国造・千葉国造・伊甚国造・菊麻国造・安房国造・新治国造・高国造の祖[8]で、いずれも東国の国造である。これらは相模国・武蔵国・総国・常陸国の四国に分布している。
諸説
出雲族は鉄器文明を持つツングースであるとする説がある[9]。
天孫族に屈しまいとした出雲族の一部は東北に逃れ蝦夷となって最後まで戦ったとする説[10]がある。出雲方言と東北方言が同じズーズー弁であるのも、その証左であるとされることが多い[11]。
継体天皇ー8
今城塚古墳(大阪府高槻市)
陵(みささぎ)は、宮内庁により大阪府茨木市太田3丁目にある三嶋藍野陵(みしまのあいののみささぎ:三島藍野陵)に治定されている。宮内庁上の形式は前方後円。遺跡名は「太田茶臼山古墳」で、墳丘長227メートルの前方後円墳である。しかし、本古墳の築造時期は5世紀の中頃とみられている。
一方、大阪府高槻市郡家新町の今城塚古墳(前方後円墳、墳丘長190m)は6世紀前半の築造と考えられることから、歴史学界では同古墳を真の継体天皇陵とするのが定説となっている。この古墳は被葬者の生前から造られ始めた寿陵であると考えられている[71]。この古墳は宮内庁による治定の変更が行われていないために立ち入りが認められ、1997年からは発掘調査も行われている。2011年4月1日には高槻市教育委員会にて史跡公園として整備され、埴輪祭祀場等には埴輪がレプリカで復元された。隣接する今城塚古代歴史館では、日本最大級の家型埴輪等が復元展示されている。
同古墳ではこれまで家型石棺の破片と見られる石片が三種類確認されている。その内訳は、熊本県宇土市近辺の阿蘇溶結凝灰岩のピンク石、奈良県と大阪府の境に位置する二上山の溶結凝灰岩の白石、兵庫県高砂市の竜山石で、少なくとも三基の石棺が安置されていたことが推測できる。このうち、竜山石は大王家の棺材として多く用いられたものである[72]。これらの石棺は、16世紀末の伏見大地震により破壊されたと見られる[73]。2016年には、過去に付近で石橋に使われていた石材が今城塚古墳の石棺の一部であった可能性が発表された[74]。
推定石棺片
また、皇居の皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに御霊が祀られている。
日本書紀と古事記における継体天皇の記事の相違
記事の共通点
共通点はおおよそ次の通りである。
武烈天皇が崩御し、天皇の跡継ぎが居なくなった。
継体天皇は、遠くの地方(畿外の北東部)からやってきた。
継体天皇は、遠い傍系の血筋である。(応神の五世孫)
応神天皇から継体天皇までの系譜は不明である。[注釈 8]
手白香皇女と婚姻関係を結んだ。[注釈 9]
記事の相違点
武烈天皇について
『日本書紀』では武烈は悪行が数多く詳細に記され、暴君として書かれ、継体は立派な名君として書かれている。
『古事記』では武烈の悪行の記事は無く、武烈が行政を行なった記事なども無い。
系図について
『日本書紀』には継体の詳しい系図は記されていないものの、黛弘道が指摘しているように、『日本書紀』には天皇の系図一巻が添えられていたため、編纂者が天皇の系図を知らなかったということはあり得ない。
『古事記』には継体の系図は記されていないため、編纂者が継体の系図を認知していたかは不明である。
出身地について
『日本書紀』では生誕地は近江だが、幼い頃に父親の彦主人王が亡くなったので、母親の振媛の実家である越前で育ち、所在も越前である。
『古事記』では生誕地、所在は近江である(越前は出てこない)。
後継候補者について
『日本書紀』では継体天皇よりも有力な候補者、第14代仲哀天皇の五世孫、倭彦王が登場するが、迎えに来た軍隊を見て、逃げ出して行方不明になる。
『古事記』では倭彦王自体の記事も、他の候補者の記事も無い。
天皇即位について
『日本書紀』では、最初は天皇の即位を拒否し、諸豪族や河内馬飼首荒籠が何度も説得し、止む無く即位に応じている。
『古事記』では、即位を拒否した記事も河内馬飼首荒籠の記事も無い。
宮の位置
『日本書紀』では樟葉宮、筒城宮、弟国宮、磐余玉穂宮の4箇所が記されている。
『古事記』では磐余玉穂宮で天下を治めたという記事のみ。
磐井の乱について
『日本書紀』では、新羅が筑紫の磐井に賄賂を贈り、大和朝廷に反旗を翻している。
『古事記』では、磐井が天皇の命に従わないので殺した。
誕生年、崩年、没年齢の違い
『日本書紀』では、生年は450年、崩年は531年、没年齢は82歳とされる。
『古事記』では、生年は485年、崩年は527年、没年齢は43歳とされる。
継体天皇の実在性について
第26代継体天皇は、前代の第25代武烈天皇など実在が疑われる人物とは違い、実在が間違いないとされる天皇である。
これ以降の天皇の系譜では、実在性が疑われる人物がおらず、継体天皇からほぼ間違いなく現天皇家まで繋がっているとされている。
石碑
1847年、飛騨高山の国学者・田中大秀の起案を受けて門弟・橘曙覧、池田武万侶、山口春村、足羽神社神主・馬来田善包らにより継体天皇御世系碑が足羽神社境内に建立されている。この碑文には、大秀の研究による応神天皇から継体天皇までの系図が彫り込まれている。
これには「玉穂宮天皇大御世系」とあり、その下に「品陀和気命(御諡 応人天皇) ─ 若沼毛二俣王 ─ 大郎子(亦名 意本杼王) ─ 宇斐王 ─ 汙斯王(書記云 彦主人王)─ 袁本杼命(書記云 更名 彦太尊 御諡 継体天皇)」と彫り込まれている。
また足羽神社の近くにある足羽山公園には継体天皇を模した巨大な石像が坂井市を見下ろすように建っており、観光スポットとなっている。
在位年と西暦との対照表
在位年と西暦との対照表[表示]
継体天皇を題材にした作品
能『花筐』
『北風に起つ 継体戦争と蘇我稲目』 (1988年、中央公論社) 黒岩重吾
『継体天皇、空を飛ぶ』(2007年、小学館)赤石路代
出雲を造ったのは越
出雲国風土記には、古志(高志・越:北陸地方)の記述が随所に見られます。それほど、出雲と古志の関係は深かったのでしょう。
まず、出雲国風土記の冒頭に、『国引き神話』があります。
これは、八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)という神が、出雲を小さく作ってしまったと後悔し、遠くの四つの国々の余った土地を引っ張ってきて、つなぎ合わせたという神話です。
あくまでも神話ですので、土地を引っ張って来るのは不可能ですが、四つの国々から人材を集めて国造りを行った事を示唆しているものと思われます。それらの国の一つが、古志(高志・越)の国です。
国引き1
国引き神話の四つの国
この神様が引っ張ってきた土地とは、「志羅紀」「北門佐岐」(きたどのさき)「北門農波」(きたどのぬなみ)「古志」という四つの国の余った土地です。
この中で、「志羅紀」は朝鮮半島南部の新羅、「古志」は北陸地方を意味する「高志」であると、容易に推測されます。
「北門佐岐」(きたどのさき)「北門農波」(きたどのぬなみ)については、諸説ありますが、出雲に鉄器をもたらした朝鮮北東部の国々だったのではないでしょうか?
西暦一世紀から四世紀の間、朝鮮半島南部では、百済と新羅の間で戦いがあり、新羅のボートピープルが発生しています。また、北部では、高句麗の朝鮮半島南下政策により、朝鮮北東部のボートピープルが発生した時代です。彼らは、リマン海流と対馬海流に流されて、出雲にたどり着いたのでしょう。
一方、高志の国は、当時の日本の、最大の農耕地があり、翡翠という高級宝石の加工地でもあったので、余力があったはずです。国土拡大の為に、出雲に進出して行ったのではないでしょうか?
これらの四つの国々の人材によって、出雲の国が造られた事を『国引き神話』は物語っています。
国引き2
四つの国の内、三つは朝鮮半島から。高志(越)のみが日本国内
ちなみに、古志の余った土地とは都都乃三埼(つつのみさき)と記されています。これは、能登半島の事だろうと推察されます。能登半島は、古志の中では農耕地が最も少なく、失礼ながら窓際族のような場所です。まさに古志の余った土地に住んでいた住民を、国土拡大の為に出雲に移住させたのでしょう。
なお、古志の余った土地は、美保郷(現在の松江市美保関町)という場所にくっ付けられたと記されています。この地域に、能登半島の人々が移り住んで来たという事です。
国引き3
越の能登から出雲へ移住。移住地は美保郷
出雲国風土記の古志に関する記述はこれだけではありません。その中の一つに、治水工事に関する古志との関係があります。
【古志郷 伝承】
現在の出雲市に、古志町という地名があります。ここは、近世までは「古志郷」と呼ばれていた地域で、出雲市の大部分を占めていました。
その地名の通り、大昔に古志の国の人達がやって来て堤を築いた、という伝承が残っています。この治水工事が終わった後もそこに留まり、居住するようになったので、古志郷という名の地名となりました。
【狹結驛(さゆふのうまや) 伝承】
また現在の、出雲市下古志地域で、狭結郷(さゆふごう)と呼ばれていた地域があります。ここは、古志の国の佐與布(さよふ)という人がやって来て住み着いた土地です。古志の佐與布(さよふ)とその一族の人達が、日淵川(ひふちがわ)に堤を築いて堰き止め、池を造って住み着いた、という具体的な伝承が残っています。
出雲01
出雲国風土記に詳細に記載された越(古志)との関係。
これらのように、出雲の国は、古志(高志・越)の国の先進的な治水技術で開拓された国のようです。出雲平野が小さいながらも、淡水湖跡の水田稲作に適した土地である事は、以前にも述べた通りです。また、越の国、越前・福井平野が、日本一の巨大淡水湖跡で、これを水田地帯に干拓して巨大国家となったのも事実です。越(高志・古志)の国は、この治水技術を、出雲の地でもふんだんに発揮して、出雲の国を造り上げたのです。
出雲の国は、いわば、高志(越)の国を大企業と例えれば、その子会社とも言える国なのです。高志の国にとっては、朝鮮からの鉄の輸入や、九州からの物品輸送の中継地として、出雲は重要な役割を担う拠点でした。
出雲02
出雲は越の子会社
なお、これらの地域以外にも、
・松江市古志町
・松江市古志原
という、高志(越)にちなんだ地名が、出雲には多数残されています。
出雲03
越(古志)ゆかりの地は、出雲に多い。
出雲国風土記は、記紀と同じ八世紀初頭の書物です。邪馬台国の卑弥呼の時代からは、500年も後に書かれたものです。これを邪馬台国・越前説に当てはめる事は、いささか早計です。しかしながら、これらの伝承は、イザナミノミコトという記紀の国生み神話時代の事としていますので、相当古い時代から出雲地方と「古志国(越国)」との間に、多くの交流があったのは間違いありません。
この出雲神話や伝承をもって、越前が邪馬台国だったと断言するつもりは、毛頭ありません。但し、多くの神話が残る出雲の国が、越前をはじめとする高志の国によって造られた事は、容易に想像できます。
越前説
注目されない理由
謎を解く鍵は巨大淡水湖
超大国は意外な場所
翡翠の生産
翡翠の最先端工場
鉄の最多出土地
行路の一致①
出雲を造ったのは越
出雲は越の植民地
安曇一族
出雲王国8代主王大国主の7代前の王とすると、富家の初代主王菅之八耳王が素戔嗚尊ということですね。『古事記』にはこんなことが書いてありますよ。ならば、なるほど分かりやすいです。と素直に思いますが、あたかも本当の歴史であるかのようにお話しされるのは、いかがなものでしょうか?
神武天皇がと言うと、
弁証法の思考ね‼️😊中庸‼️GOOD balance‼️民第一思考ね‼️
出雲族
(いずもぞく)は、古代の出雲地方に存在したという説のある種族[1]。出雲神話の担い手として想定されている[1]。出雲地域からは大量の銅鐸や銅剣などが出土した遺跡もあり、実際に古代に何らかの勢力が存在したとされている。
概要
出雲族と呼称される著名な家系としては、須佐之男命の子孫(十七世神)で地祇系に属する一族と、天之菩卑能命の子孫で天神系・天孫族に属する一族の2つがある。前者は出雲の国譲りを行った一族で、後者は熊野大社と杵築大社の祭祀をつかさどった出雲国造の家系とする。しかし、龍蛇信仰民の海神族に属する系統[なぜ?][要出典]と熊鳥信仰の天孫族に属する系統[なぜ?][要出典]の氏族を共に出雲族と呼称することには疑問が大きく、宝賀寿男は「出雲族」、「出雲神族」という呼称に対しても、その行動範囲や居住地(九州→出雲→播磨→大和)から適切な呼び方ではないとしている[2]。また須佐之男命の実態は天孫族の始祖的な位置にあり、これを海神族の始祖とするのは種族的、系図的[注釈 1]、神話的[注釈 2]に不可能であるとする[3]。
地祇系
概要
『古事記』によれば、高天原より追放(神逐)されて出雲に降りた(『日本書紀』では朝鮮半島の新羅の曽尸茂梨に降臨して、土船で出雲国に渡ったとする説がある。)須佐之男命(素戔嗚尊)は、八俣遠呂智(八岐大蛇)に食べられそうになっていた櫛名田比売命(奇稲田姫)を助け、結婚して子の八島士奴美神(八嶋篠、八嶋手)を生んだ(『日本書紀』には八嶋篠を生んだとする説と、大己貴神を生んだとする説がある)。その子孫(または御子神)の大国主神は少名毘古那神や大物主神と共に葦原中国の国造り・平定を(大国主の国づくり)したが、のちに高天原の天津神達(天照大御神)に国を譲って(出雲の国譲り)隠れたとされる。 なお『古事記』には童話などで有名な因幡の白兎や、須佐之男命の試練(大国主神の神話)などの物語が収録されているが、『日本書紀』にこれらの物語は収録されていない。
構成神
特記以外は『日本書紀』による。血縁関係(「父」、「子」など)は大己貴神から見た関係を示す。ただし『出雲国風土記』にのみ記載される神名もあるため、詳細は大国主を参照。
(父)素戔嗚尊(すさのお の みこと、『古事記』では須佐之男命)
天照大神の弟だが、高天原より追放されて出雲に降臨し、八岐大蛇を退治した。のちに根国へ行った。
(母)奇稲田姫(くしなだひめ、『古事記』では櫛名田比売)
脚摩乳(『古事記』では足名椎)の娘。八岐大蛇に食べられそうになっていたが素戔嗚尊に助けられ、その妻となった。
大己貴神(おおなむち の かみ、『古事記』では大穴牟遅神、大国主神、八千矛神、宇都志国玉神、葦原醜男)
上の二神の間に生まれた子。『日本書紀』第八段第六の一書によれば、大国主神(おおくにぬし の かみ)・大物主神(おおものぬし の かみ)という名も持つ。大己貴神は大国主神の別名であり、また大国主神の旧名でもあった。国を平定したが、のちに高天原の神に国を譲って(出雲の国譲り)隠れた。『日本書紀』第九段第二の一書には、大己貴神が住むための宮として天日隅宮がみえる。大神神社祭神。
(嫡后)須勢理姫神(すせりびめ の かみ、須勢理姫命、『古事記』では須勢理毘売命) - 『先代旧事本紀』
素戔嗚尊の娘。
(妻)田心姫命(たごりひめ の みこと、『古事記』では多紀理毘売命) - 『先代旧事本紀』
素戔嗚尊の娘。宗像の奥都島(おきつしま)に鎮座。
(子)味耜高彦根神(あじすきたかひこね の かみ、『古事記』では阿遅鉏高日子根神、迦毛大御神) - 『日本書紀』、『先代旧事本紀』
天稚彦と容姿が酷似する。高鴨神社祭神。
(娘)下照姫命(したでるひめ の みこと、高姫命、稚国玉、『古事記』では下照比売) - 『日本書紀』、『先代旧事本紀』
天稚彦の妻。大倉比売神社祭神。
(妻)高津姫神(たかつひめ の かみ、高降姫神、神屋楯比売命) - 『先代旧事本紀』、『古事記』
辺都宮(へつみや)に鎮座。
(子)事代主神(ことしろぬし の かみ、都味歯八重事代主神) - 『古事記』、『日本書紀』、『先代旧事本紀』
鴨都波神社・天高市神社・飛鳥坐神社祭神。
(孫)鴨王(かも の おおきみ/かも の きみ、天日方奇日方命、阿田都久志尼命、『古事記』では櫛御方命) - 『日本書紀』、『先代旧事本紀』
神武天皇の時代の人。
(曾孫)健飯勝命(たけいいかつ の みこと、『古事記』では飯肩巣見命) - 『先代旧事本紀』
子孫の大田田根子命は賀茂氏・大神氏の祖。
(曾孫)渟名底仲媛命(ぬなそこなかつひめ の みこと、渟中底姫命) - 『日本書紀』、『先代旧事本紀』
安寧天皇の皇后。
(孫)媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめ の みこと、『古事記』では比売多多良伊須気余理比売)
神武天皇の皇后。ただし比売多多良伊須気余理比売は『古事記』において大物主神と勢夜陀多良比売との子とされる。
(孫)五十鈴依姫命(いすずよりひめ の みこと)
綏靖天皇の皇后。
(娘)高照光姫大神命(たかでるひめ の おおかみ の みこと) - 『先代旧事本紀』
御歳神社祭神。
(妻)八上比売(やがみひめ、『先代旧事本紀』では稲羽八上姫) - 『古事記』
因幡の白兎の原因。
(子)木俣神(きのまた の かみ、御井神) - 『古事記』、『先代旧古本紀』
木俣に刺し挟まれたことからの名。
(妻)沼河比売(ぬなかわひめ、『先代旧事本紀』では高志沼河姫) - 『古事記』
奴奈川神社祭神。八千矛神の妻問いの相手で、神語が有名。
(子)建御名方神(たけみなかた の かみ) - 『古事記』、『先代旧事本紀』
諏訪大社祭神、またはその社家(諏訪氏、矢島氏、守矢氏など)の祖であるという。『出雲国風土記』の御穂須須美命はその別名ともされる。なお、『古事記』における大国主の系譜には見られず、国譲り神話の場面に唐突に登場している。このことから、本来は出雲と無関係な諏訪地方の神とする説もある。
(妻)鳥取神(ととり の かみ) - 『古事記』
八島牟遅能神の娘。
(子)鳥鳴海神(とりなるみ の かみ) - 『古事記』
この神を含む系譜は十七世神と称される。
(孫)国忍富神(くにおしとみ の かみ) - 『古事記』
一説に須佐神社社家須佐氏の祖[4]ともいう。大国主命の子ともいう[4]。
大己貴神にはほかに沼河比売の子に建沼河男命(越氏の祖)という子がいたとする系図[4]もある。
タケミナカタ
(ミナカタトミ、タケミナカタトミ)は、『古事記』等に伝わる日本神話の神。『古事記』と『先代旧事本紀』では建御名方神(たけみなかたのかみ)、『日本書紀』以外の国史では南方刀美神(みなかたとみのかみ)、御名方富命神、建御名方富命(たけみなかたとみのみこと)、健御名方富命等とも表記される[1]。建御名方命(たけみなかたのみこと)、武御名方命、健御名方刀美神、武南方富命、武南方神、武御名方主命、御名方刀美命等という表記を用いる文献や神社もみられる。
諏訪大社(長野県諏訪市ほか)の祭神として祀られていることから、諏訪神、諏訪明神、諏訪大明神、諏訪南宮法性上下大明神、お諏訪さま等とも呼ばれる。
・諏訪大社
(すわたいしゃ)は、長野県の諏訪湖周辺4か所にある神社。式内社(名神大社)、信濃国一宮。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。神紋は「梶の葉」。全国に約25,000社ある諏訪神社の総本社である。旧称は「諏訪神社」。通称として「お諏訪さま」「諏訪大明神」等とも。
『古事記』においては事代主神(コトシロヌシ)と同様に大国主神(オオクニヌシ)の御子神とされている[2]。しかし大国主の系譜を記した箇所にはタケミナカタの記載がないため[2]、母は明らかでない。
『先代旧事本紀』「地祇本紀(地神本紀)」では大己貴神(大国主)と高志沼河姫(コシノヌナカワヒメ)の御子神とされており[3][1]、「天神本紀」の国譲りの段ではタケミナカタが事代主神のことを「兄」と呼んでいる[4]。なお『古事記』においては大国主は事代主神を生む神屋楯比売命より先に沼河比売を娶っており(『旧事本紀』ではその母が高津姫神とされている)、事代主神はタケミナカタの兄に当たると明記されていない。
神話
千引石を持ち上げるタケミナカタ
国譲り
タケミナカタが登場する場面
(真福寺本『古事記』より)
タケミナカタは『古事記』では葦原中国平定(国譲り)の場面で記述されている。これによると、天照大御神・高御産巣日神(タカミムスビ)らによって派遣された建御雷神(タケミカヅチ)と天鳥船神(アメノトリフネ)が大国主神に葦原中国の国譲りを迫った際、大国主神は御子神である事代主神が答えると言った。事代主神が承諾して隠れると、大国主神は次に建御名方神(タケミナカタ)が答えると言った[2]。タケミナカタは千引の石(千人もの大勢の力を必要とするような巨大な岩)を手先で差し上げながら現れ、タケミカヅチに力競べを申し出た。そしてタケミカヅチの手を掴むと、タケミカヅチの手は氷や剣に変化した。タケミナカタがこれを恐れて下がると、タケミカヅチはタケミナカタの手を若葦のように握りつぶして、放り投げた(詳細は後述)。タケミナカタは逃げ出したが、タケミカヅチがこれを追い、ついに科野国の州羽海(すわのうみ)まで追いつめてタケミナカタを殺そうとした。その時に、タケミナカタはその地から出ない旨と、大国主神・事代主神に背かない旨、葦原中国を天津神の御子に奉る旨を約束したという[2]。
一方『日本書紀』ではタケミナカタが登場せず、大己貴神(大国主)は事代主神の意向を聞いた後に国譲りを承諾する。ここでは高皇産霊尊(タカミムスビ)に遣わされた神々は武甕槌神(タケミカヅチ)と経津主神(フツヌシ)である。
『先代旧事本紀』「天神本紀」では『古事記』と『日本書紀』の記述が組み合わされたものが書かれており、使者は『書紀』と同様に武甕槌神と経津主神となっている[4][5]。
明神入諏
守屋山
『古事記』と『旧事本紀』では征服される神として描かれるタケミナカタは、諏訪地方に伝わる伝承では現地の神々を征服する神として登場する。
いわゆる明神入諏神話を記録した現存する最古の文献は、宝治3年(1249年)に上社大祝(おおほうり)の諏訪信重から鎌倉幕府に提出されたといわれている『諏訪信重解状』(『大祝信重解状』、『大祝信重申状』とも)である[24][25]。これによると、神宝(鏡・鈴・唐鞍・轡)を持参して守屋山に天降った諏訪明神は、「守屋大臣」(守矢氏の遠祖とされる洩矢神)と争論・合戦・力競べをして、その領地を手に入れた[25][26][27]。
明神と大祝
諏訪大明神
(『仏像図彙』より)
諏訪上社の祭神であるタケミナカタは神氏(じんし・みわし)の祖神とされ、神氏の後裔である諏訪氏はじめ他田氏や保科氏など諏訪神党の氏神としても信仰された。
明治の初め頃まで、諏訪上社には大祝(おおほうり)という職位があり、これをつとめる諏訪氏氏身の者(主に童男)は諏訪明神(タケミナカタ)の身代わり、すなわち神体ないし生き神として信仰の対象であった。
伝承によると、諏訪明神が8歳の童男に自分の装束を着せて、自分の「御正体」として定めたことにより大祝職が成立した。このことから大祝は代々、御衣着祝(みそぎほうり)とも呼ばれ、「神」という姓を名乗り、即位式を行い職を相次いできた[48]。
『信重解状』では、天降った後の諏訪明神のあり方としてこの伝承が語られているが、時代も初代大祝の名前が書かれていない。