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自分は義理の父である斎藤道三に対する敬意も含めて岐阜城を豪華に作ったのではと考えています。元々稲葉山城と言われていたのを改名し岐阜としたのは義父とかけて命名したのだと、そして豪華に飾ることで道三の威光をも称える荘厳な作りにして道三の果たせなかった夢や思いを受け継ぐ意志を見せたかったのだと思います。
かいのすけさんお早うございます信長の発想力は素晴らしいですね城下町の説明は初めてですが満足しました👍
ありがとうございます。岐阜をいろいろ回ってこの街が好きになってしまいました!
信忠の離宮?ではないかという場所も最近発見されてますます発掘が楽しみですね。
びっくり…!この動画がアップされたその日、私は子供の時以来、何十年ぶりかに岐阜城を訪れていました(笑)天守からの眺望も心晴れるもので、心機一転なにかを始めようとする時や人生の転機に訪れるとよいと思います。麓の岐阜公園の紅葉も綺麗でしたね。丁度、恒例の菊人形展が開かれていて、今年は50周年だとか。有名観光地のような大混雑もなく、静かに回ることのできる街でした☆
偶然ですね!岐阜城からの眺望は素晴らしかったです。日本の重要な場所を見渡すことができるような、自分が大きくなったような気分がしました。
稲葉山城を取ることが、信長にとってどれほど悲願だったかよく分かる動画ですね。信長にとって城とは、防御のための砦ではなく、自らの館であり、自らがそこに存在を示すシンボルとして、城を人々に見せてるように感じます。不安定な戦国時代に、安寧を求める人々と家臣に天下を取る夢を見させるため、信長は色々工夫を凝らした城を築いたと感じさせますね。
信長は城にいろいろな役割を持たせていたように思えますね
本能寺の変後に、明智光秀が安土城に来ることを見越して、安土城を焼き払おうと言う意見があったみたいですが、蒲生賢秀は「信長公が、精魂込めて創られたこの城を燃やすには惜しい」と言って反対したらしいですからね。信長の持つ城はさぞ立派だったんでしょうね。
信長公は地理的理由から居城を頻繁に移したり、巨大な迎賓館を設置したりと個性が際立っていますね。しかし外征も多い人なのに、城の建築も頻繁に行ってよくも金銭が持ったなと驚かされます。
そうですね、どの時代も資金がないと何もできませんよね。
濃尾平野を流れる木曾三川と伊勢湾を繋ぐ舟運(後には琵琶湖(や若狭湾)の舟運も)、中仙道・北國街道・東海道など街道の結節点の物流、そして楽市・楽座や関所の撤廃などの経済政策、これらから生れる豊かな生産力とで、信長公には巨万の富が集ったと推察されます。負けても莫大な兵力を直ぐ編成できたのも、頷けます。
今晩は✨今度ぜひ高知の方にも来てください‼️
ありがとうございます。以前、高知城行かせていただきました!ちょうどキャンドルで飾られた時だったと思います。次は動画作成のために行きたいですね。四国は現存天守もたくさんあるしきっとお邪魔すると思います!
完成させた安土城は見物料をとって庶民にも見物させた逸話が聞いたことありますが、その安土城の祖形を岐阜城に見るような気がしましたまさに、守る城から、見せる城、魅せる城へ進化させた、信長らしい築城ですね
そうですね、信長は岐阜時代からいろいろやりたいことがあって、最終的に安土城で実施したのだと思いました。信長が生きていれば、どこかにもっとすごい城を築いたのでしょうか・・。
@@kainosuke-rekishi 石山本願寺跡の大坂城でしょうね。瀬戸内海を通じて、一気に海街道が九州まで繋がりますし。
岐阜城は迎賓館として整備され、政治のやり取りの場として使われたようですね。攻め込まれる前に打って出るので、防衛の城というのは関係無いのかもしれませんw。当時、山の木は伐採されていたので迫力がありました。その麓の岩盤も削って感じ良く見せ、巨石を立て並べ、岩の芸術を見せつけるものとなっていました。いくつもの池や庭園も性格を持たせていたんでしょうね。現在整備されてる土塁の折れのある所も半分以上埋められてるので巨石の大きさを感じられないのが残念ですし、土留めに使われている取りあえずの石垣も、当時の物と誤解されてる方も多い様で残念です。これからの整備は、その辺の見せ方も重視される様なので、当時の雰囲気を感じさせる整備がされるみたいです。岐阜公園の中にも巨石が鎮座しているのが見られますが、立て並べた巨石を転用して庭石の様にしているそうで、明治以降に公園化される際に動かされた物の様です。
お詳しいですね。これからもよろしくお願いします。
高松の栗林公園にも人口の滝があるけどこの滝を参考にしたのかな。
現在の天守は戦後に加納城を参考に設計された様だが実際は似ても似つかない建物だ。いつか麓の屋敷共々信長の時代の物に再建されたら良いなあと思う、岐阜生まれ岐阜育ちの岐阜っ子の俺。
岐阜は素晴らしい街でした。うらやましいです。
自分は義理の父である斎藤道三に対する敬意も含めて
岐阜城を豪華に作ったのではと考えています。
元々稲葉山城と言われていたのを改名し岐阜としたのは
義父とかけて命名したのだと、そして豪華に飾ることで
道三の威光をも称える荘厳な作りにして道三の果たせなかった
夢や思いを受け継ぐ意志を見せたかったのだと思います。
かいのすけさんお早うございます信長の発想力は素晴らしいですね城下町の説明は初めてですが満足しました👍
ありがとうございます。岐阜をいろいろ回ってこの街が好きになってしまいました!
信忠の離宮?ではないかという場所も最近発見されてますます発掘が楽しみですね。
びっくり…!この動画がアップされたその日、私は子供の時以来、何十年ぶりかに岐阜城を訪れていました(笑)天守からの眺望も心晴れるもので、心機一転なにかを始めようとする時や人生の転機に訪れるとよいと思います。麓の岐阜公園の紅葉も綺麗でしたね。丁度、恒例の菊人形展が開かれていて、今年は50周年だとか。有名観光地のような大混雑もなく、静かに回ることのできる街でした☆
偶然ですね!岐阜城からの眺望は素晴らしかったです。日本の重要な場所を見渡すことができるような、自分が大きくなったような気分がしました。
稲葉山城を取ることが、信長にとってどれほど悲願だったかよく分かる動画ですね。
信長にとって城とは、防御のための砦ではなく、自らの館であり、自らがそこに存在を示すシンボルとして、城を人々に見せてるように感じます。
不安定な戦国時代に、安寧を求める人々と家臣に天下を取る夢を見させるため、信長は色々工夫を凝らした城を築いたと感じさせますね。
信長は城にいろいろな役割を持たせていたように思えますね
本能寺の変後に、明智光秀が安土城に来ることを見越して、安土城を焼き払おうと言う意見があったみたいですが、蒲生賢秀は「信長公が、精魂込めて創られたこの城を燃やすには惜しい」と言って反対したらしいですからね。
信長の持つ城はさぞ立派だったんでしょうね。
信長公は地理的理由から居城を頻繁に移したり、巨大な迎賓館を設置したりと個性が際立っていますね。しかし外征も多い人なのに、城の建築も頻繁に行ってよくも金銭が持ったなと驚かされます。
そうですね、どの時代も資金がないと何もできませんよね。
濃尾平野を流れる木曾三川と伊勢湾を繋ぐ舟運(後には琵琶湖(や若狭湾)の舟運も)、中仙道・北國街道・東海道など街道の結節点の物流、そして楽市・楽座や関所の撤廃などの経済政策、これらから生れる豊かな生産力とで、信長公には巨万の富が集ったと推察されます。負けても莫大な兵力を直ぐ編成できたのも、頷けます。
今晩は✨今度ぜひ高知の方にも来てください‼️
ありがとうございます。以前、高知城行かせていただきました!ちょうどキャンドルで飾られた時だったと思います。次は動画作成のために行きたいですね。四国は現存天守もたくさんあるしきっとお邪魔すると思います!
完成させた安土城は見物料をとって庶民にも見物させた逸話が聞いたことありますが、その安土城の祖形を岐阜城に見るような気がしました
まさに、守る城から、見せる城、魅せる城へ進化させた、信長らしい築城ですね
そうですね、信長は岐阜時代からいろいろやりたいことがあって、最終的に安土城で実施したのだと思いました。信長が生きていれば、どこかにもっとすごい城を築いたのでしょうか・・。
@@kainosuke-rekishi 石山本願寺跡の大坂城でしょうね。瀬戸内海を通じて、一気に海街道が九州まで繋がりますし。
岐阜城は迎賓館として整備され、政治のやり取りの場として使われたようですね。攻め込まれる前に打って出るので、防衛の城というのは関係無いのかもしれませんw。当時、山の木は伐採されていたので迫力がありました。その麓の岩盤も削って感じ良く見せ、巨石を立て並べ、岩の芸術を見せつけるものとなっていました。いくつもの池や庭園も性格を持たせていたんでしょうね。現在整備されてる土塁の折れのある所も半分以上埋められてるので巨石の大きさを感じられないのが残念ですし、土留めに使われている取りあえずの石垣も、当時の物と誤解されてる方も多い様で残念です。これからの整備は、その辺の見せ方も重視される様なので、当時の雰囲気を感じさせる整備がされるみたいです。岐阜公園の中にも巨石が鎮座しているのが見られますが、立て並べた巨石を転用して庭石の様にしているそうで、明治以降に公園化される際に動かされた物の様です。
お詳しいですね。これからもよろしくお願いします。
高松の栗林公園にも人口の滝があるけどこの滝を参考にしたのかな。
現在の天守は戦後に加納城を参考に設計された様だが実際は似ても似つかない建物だ。いつか麓の屋敷共々信長の時代の物に再建されたら良いなあと思う、岐阜生まれ岐阜育ちの岐阜っ子の俺。
岐阜は素晴らしい街でした。うらやましいです。