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今から27年前、1997年9月30日に碓氷線が廃止する2ヶ月くらい前に横川から軽井沢へ碓氷線に乗ったことがあった。電車の中は乗客の旅を楽しむ話し声が飛び交っていたが、突如車内放送が流れた。「横川〜軽井沢間は9月をもって廃止されます…」みたいな内容だったがすごく悔しそうな、悲しそうな声だった…その途端、車内がシーン…と静まり返ったのを今でも覚えている…😧
そんな車内放送があったのですね。廃止前の貴重なエピソード、有難うございます。車掌さんの気持ちが伝わります。
素晴らしい映像、完全な記録映像。ノロノロ走る情景、客室からはどんな風に映っていたのだろう?こう言う時代を過ぎて、いつの間にか廃線になり新幹線で あっと言う間に 通り過ぎていく現在。こんな時代があったんだな〜と懐かしむと共に、寂しいさを感じます。素晴らしい映像のUP有難うございます。
ご視聴ありがとうございます!速さと便利さだけでなく、車窓でぼんやりと過ごす時間も大切にしたいと思います。
とても貴重な動画を公開してくださり、ありがとうございます。僕が生まれる4か月前に撮影された動画、興味深く拝見しました。横軽線、在来特急に乗り、何度か北陸へ行きました。
こちらこそ、嬉しいお言葉有難うございます!横軽線に乗られたのですね。楽しい思い出とともにご覧いただければ、とてもうれしいです!
凄い貴重な動画 アップして頂き本当に有り難うございました。
有難うございます!!そんなふうに言って頂けるなんて、うれしくてたまりません!
自分の生まれる前の話なので、映像で残して頂けているというのは、とても嬉しく、そして有り難く思います。廃止迄の新線の映像も有り難いですが、旧線は更に有り難いです。過酷な峠越えだったんですね。先人達の熱意と努力に感心するばかりです。
貴重な8ミリ映像ありがとうございます。こうしてみるといくら電機とはいえアプトのノロさがよく分かりますね。新線化+63化で劇的に輸送力アップできたのが待望だったのも頷けます。とはいえアプト時代も粘着時代も勾配との闘いをこなし続けた乗務員方々、地上設備を支えた保線の方々には感謝しかありません。今夏(2024.08)に久々に旧道を走りに行きましたが、道路の賑わいと横川駅・峠付近の静かさは対照的でしたね。
ご視聴ありがごうございます!碓氷峠の歴史は鉄道マンの挑戦の歴史でもありますね。今も足を運んでくれるファンがいらっしゃることもうれしいです。
10年前に峠のアプト道を全線踏破しました碓氷湖付近の急勾配にビックリしました
アプト道の前線踏破、おめでとうございます!そんなに急勾配でしたか…ちょっとチャレンジをためらいます^^;
同じタイトルの絵本について調べていたら、とんでもない(褒め言葉)動画に辿り着いてしまった…!
そんな絵本があったとは!思わずググらせて頂きました。こちらのタイムトラベルも、いかがでしたでしょうか?
すばらしい記録です。撮影本当にご苦労様でした。感謝申し上げます。
嬉しいお言葉有難うございます!撮影された中島さんのご家族にもお伝えいたします!
ED42が現役時代の貴重な映像をありがとうございます。丸山信号所や熊ノ平等、現在は遺構でしか見られない場所の現役時代が拝見でき、楽しむことができました。青森・上野発大阪行きのキハ82の白鳥が、直江津で併合されることは過去の時刻表からも知ってはいましたが、映像で見たのは初めてでした。解説もわかりやすく、参考になりました。
丁寧に見て下さり、とてもうれしいです。映像を出来るだけ多くの方に見て頂き活かすことが私たちの願いです。
懐かしいですね、子供のころ、夏休みは父の実家に遊びに行くとき、客車の窓から前の機関車を見ると、電気機関車のはずなのにロッドが上下しているのが見えて、あれは何だろうと思っていました。26あるトンネルの数を数えながら窓から乗り出してみていたのを思いだします。
コメント有難うございます!トンネルを数えながら…素敵な思い出ですね。鹿島さんの思い出を通して、映像がさらに鮮明に見えるような気がいたします。貴重な記録として保存させて頂きます。
いい時代だなぁ新幹線で駆け抜けるのもいいけれど、のんびりとしたものにも大事なことが詰まっている気がする
コメントありがとうございます!そう、そうなんですよね。時にはスマホから目をあげて、ゆっくり鉄道の旅をかみしめたいと思います。
失礼します。65才のシニアです。若い頃、スキーのため上野から赤倉まで夜行の急行で行ったり、仕事で長野まで特急で行ったことがありますが、この動画の頃は知りません。しかし、どこか懐かしく旧き良き日本の、ゆったりとした時代を感じます‼️またあのアナログ的な時代に郷愁を感じ戻りたいです😁🎵
素敵な思い出を有難うございます!昔は、長距離で長時間の夜行の旅が、ちょっとした挑戦のようで、わくわくいたしました。不便なことも、不思議といい思い出ですね。
ただただ、素晴らしい映像です!ご苦労された映像です!私には、こんな行動力はありません。
ご視聴頂きありがとうございます!撮影者中島さんの鉄道愛のおかげです。
私が中学2年?(33年前)に従兄と佐渡に向かうときに乗車していました。当時はお盆時期で通路にまで人があふれ、通路の場所を空けたらほかの人に取られると思い、頑なに居座っていましたが、今思えば釜めしが買えたんですよね!情報はすべて紙媒体。何にも知らない小僧でしたが、いい思い出です。
お盆の時混雑は大変なものでした。必死に踏ん張って通路を確保しておられた少年時代も素敵な思い出です!
今は遊歩道になって、あまりの急勾配に歩いて登るにも息が切れるようです。列車が走ってたとは信じられない。
歩いてもつらいほどの急勾配ですか!いつか遊歩道に挑戦して、機関車の苦労を味わってみたいです。まずは体力作りから始めたいと思います…。
7:28 ラックレールエントランス部ではこんなに減速するんですね
丁寧に見てくださりありがとうございます!撮影した中島さんは、そういったポイントを調べつくして、撮影しておられたのだと思います。
アプトの道のために後から作られたものではなく、国道から旧熊ノ平駅に上がる当時の階段の映像はあまり無いので、非常に貴重だと思います。
細かなところまで見て下さり有難うございます!また何か発見ございましたら教えてください!
拝見して感動しました、解説も判り易く素晴しいです。
ありがとうございます!何より撮影・お話をしてくださった中島さんと玉井アナのおかげです。
当時の長野新幹線開業前に、長野への出張で乗りましたが、アプト式から転換する頃の貴重な映像を拝見出来て嬉しいです! 客車列車 気動車も信越本線に入っていたのかと思うと、その頃にタイムスリップしたくなります。また、映像を見ながら対談するスタイルがとても良いですね。
有難うございます。撮影者の中島さんはいつも元気な方でしたが、ほぼノンストップの収録だったので、とても緊張しておられたようです。
有難うございます‼️アブト廃止後の5年後に生まれましたので無念ながら乗車体験はありません。その間中央西線のサヨナラ蒸機の最終臨時旅客列車にも乗り以降国鉄ファンとなりました。子供の時図鑑でアブトのED42や粘着のEF63、62を見て初めてヨコーカル間に乗車したのは粘着運転の1986年10月でした。以降公休の時は碓氷峠通いです。旧国鉄や当時の東日本の職員さんに大変お世話になりました。当時はこの線区に電力を送る電力会社におり、1997年の粘着最終運転時はお世話になった鉄道電力系職員さんのお陰で特別に東日本の軽井沢変電所から最後の上り回送単機を見送り、変電所の受電加圧停止と及びき電停止、高圧配電線の停電作業を見学させて頂きました。
貴重なお話を有難うございます。子供の頃の鉄道愛から、鉄道を支える電力会社にお勤めになられたのですね。中島さんの映像からも鉄道マンとの強い結びつきを感じますが、こうした形で鉄道を支えその終わりをみとどけられたお話、とても感慨深く拝読いたしました。
とても貴重な映像だと思いました。当時の碓氷峠および各駅の細かいところなどがとてもよくわかります。このレトロ感がたまりません。ラックレール時の運転と、その後の粘着運転の時とではやはり速度が違っていますね。EF63重連等による粘着運転の時は確か時速40㎞/hくらいで下っていたような記憶があります。ラックレールの時も同じくらいだったような気もしましたが、やはり実際はもう少しのろかったようです。ラックレールの時の運転では、キハ57の空気バネに空気を注入していました。ラックレールに床下機器を接触させないためです。粘着運転時では、逆に電車の空気バネをパンクさせていた関係で、レールの振動もじかに伝わってきました。25‰くらいで別ルートを建設する話もあったようですが、結局66.7‰での特殊な粘着運転になってしまいました。これがもとで、新幹線開業とともに、信越線のこの区間のみが廃止になってしまいました。25‰別ルート案が採用されていれば、この区間は廃止にならなかった可能性があります。
大変参考になる情報いっぱいのコメント有難うございます!当時もご乗車されたのでしょうか?頂いたコメント、貴重な情報として保存させて頂きます。また他の映像もご覧いただければ幸いです。
@@映像タイムトラベル さん横川⇔軽井沢間は実際に何度も乗車しました。優等列車の場合、各駅で、機関車の連結、解放を4分ぐらいでこなしていました。横川駅では、この間に「峠の釜めし」を買いました。両駅では、列車到着前から、機関車が側線などで待機しており、列車が到着して即座に作業ができるようにシステムが出来上がっていたようです。新幹線ができて、中長距離の旅客は新幹線の方に移行しました。そのため、この区間が廃止されることになるとのことだったので、箱根登山鉄道のような設備機器等を施した、特殊な普通電車を造って走らせれば、機関車連結も省略できるから、廃止まではしなくともいい、などと言っていた人たちもいました。しかし、結局廃止になってしまいました。私もそう言っていたうちの一人です。
横川-軽井沢間、何度も乗車されたんですね。うらやましいです!そして、スムーズな運行ができるように、工夫が施されていたのですね。平衛さんのコメントを拝読し、当時の鉄道マンの熱意や工夫が感じました。改めてまた、映像を見たくなりました。素敵なコメント、有難うございます。
客車列車の白山も乗りました。懐かしい、懐かしい、この時代に戻りたい。
信越本線のキハ82白鳥は、S36/10のタイヤ改正の目玉として、向日町運転所はキハ82の運転所として開所された。中でもこの白鳥が目玉でした。キハ57志賀号は善光寺の観光のためアプト対策のエアサス搭載、ディスクブレーキ搭載キハとして誕生しました。実際の動画を拝見でき感無量です。いろんな意味で信越本線の最も熱い時代、懐かしいです。
貴重な情報たくさんありがとうございます!エアサスペンションや、ディスクブレーキ、見えないところで様々な進化を続けていたのですね。
こんなにもユックリとした時間を過ごす時代って良いなぁ~こらからの子世代はリニアで移り行く街を眺める車窓を楽しむボーっとした時間も無いなんて可哀想です。
コメント有難うございます!車窓からの景色を楽しむ時間は、何にも代えがたい鉄道旅の面白さですよね。スピードと効率だけではない、素晴らしさがこの時代にはあったような気がいたします。
「価値観」ですよね早く駆け抜けることへの価値、旅情を味わう価値、どちらも大切なことだと思います。願わくば、どちらも利用者が選択できる自由がある未来であってほしいと切に思います。
この前行ってきました。鉄道マニアという訳ではありませんが廃線を見ているとタイムスリップした様な不思議な気持ちになるのが大好きなんです。この映像を見た時、自分が歩いた所に列車が走っている!博物館に展示されていた機関車が走っている!モニターを見ながらまたタイムスリップできました!この映像を見たらまた行きたくなりましたよ多分、前とは違った気持ちになれる気がします
廃線には、ここにどんな営みがあったのかと、想像しながら歩く面白さがありますよね。そのワクワクを映像が引き立てることが出来たのでしたら、嬉しい限りです。
レンガアーチ橋を渡るアプト式機関車の映像などは、代表的で見映えもいいので数多く残されていますが、熊ノ平駅の詳細映像が凄いです。当時は「駅鉄」などというジャンルは存在せず(に近い状況)でしたので、「旧道から駅へのアプローチ」「駅舎前景」「ホームの様子」「駅構内の様子」「進入してくる列車の風景」などの記録はほとんど見たことがありませんで、大変貴重だと思います。
大変うれしいお言葉有難うございます。撮影した中島さんが聞かれたらどんなに喜ばれたことか。もう一度、熊ノ平駅をかみしめながら見てみることにいたします。
熊ノ平駅ってすごい手間のかかる行き違いをしてたのですね
そうなんですよ。鉄道を守る人の愛も感じますよね。
『碓氷峠』を『EF63』が走る映像は数多く見ましたが、『ED42』が走る映像をこれだけ見せて貰えて ”感謝・感激” です。自分はやはり「スーツ」君よりこういう ”映像遺産” に興奮してしまいます(笑)。望みは薄い(碓氷?)ですが(笑)、「横-軽」間が ”観光列車” でも良いので、自分が生きている内に ”復活” してほしいと願う、 ”いち鉄道ファン” です。
そんなコメントを頂き、こちらも感謝感激です!最近赤字路線に関する悲しい記事が多く落ち込んでおりましたが、RUclipsで、皆さんの知識量と鉄道愛に元気を頂いております。
+映像タイムトラベル さん 返信有難うございます。私は『国鉄』の ”分割民営化” は、はっきり言って ”失策” だったと思っています。『国鉄』のままだったら少なくともここまでの ”惨状” には、なっていなかったと思います。”緊縮財政” の現在の 「政府」 には殆ど期待出来ませんが、”国土強靭化”・・・の一環としてもこれからは大規模な ”財政出動” をして、その ”目玉” として ”『国鉄』復活 ” をしてほしい・・・というのが、”鉄道ファン” としてそして『日本国民』としての私の願いです。
S44年生まれの横川育ちです。目覚めの(汽笛?)が懐かしい。
近くでお住まいだったとは。いろんな思い出をお持ちなのですね。うらやましいです。
これは最高な映像だな。
お褒めのコメント頂き有難うございます!
碓氷峠に貨物列車が走っているのを初めて見ました、この時代は電気機関車ではなく蒸気機関車でしたね。今は碓氷峠が無くなって北陸新幹線が走ってます。
コメント有難うございます!碓氷峠がなくなってしまったのは寂しい限りですが、皆さんからコメントをいただき、改めて鉄道技術の進化に感心しております。
補足すると、59-2で碓井峠の貨物はなくなりました😉
@@psychedelicraspberry517 さん、こんにちわ!S59(1984)年2月で碓氷線の貨物がなくなったのですね。いつも詳細な情報有難うございます。こういったお話を知ると、貨物史の変遷が気になってまいりました。
@@映像タイムトラベル オッサンだから国鉄末期はそこそこ詳しいですが、逆に最近の情報は疎いですね😁
@@psychedelicraspberry517 すばらしい知識です!これからもよろしくお願いします!
熊野平は、昔を知らない人が行くと、なんでこんなにトンネルがあるのかと思うんでしょうね。
相当貴重な映像ですね。横軽が完全になくなる時の頃のナレーションでしょうか。高校時代はスキーバスに乗って峠を駆け上がってましたが、今となっては特急あさまにも乗ってみたかったです。横川の鉄道文化むらで碓氷峠の歴史の勉強をしながらEF63の運転体験を楽しんでいます。
有難うございます。こちらは1997年の放送でございます。昔はスキーで、今は鉄道文化むらで、碓氷峠の歴史を勉強なさっているとは、すばらしいです。
この当時、未来(つまり1997年以降)には、これらの山を200kphで登り下りするなんて、誰が想像し得ただろうか。安中榛名駅停車状態からの軽井沢方面への出発で、登り勾配の頂上付近地点でさえも、最低130kph以上は出てるっていうし。
鉄道技術の進化もすごいですね。そしてkphが、キロメートル毎時の略と知りました!
いや、ジェットコースターの好きな人は標高1000mから自由落下させたら空気抵抗無しなら140m/s、時速500kmになるんだから、軽井沢通う人で妄想した人は随分多いと思うゾ。瞬時に飛び降りた技師も居るし。
「これを何とかできないのか!」と考え列車に乗った方もいたかもしれませんね。飛び降りた技師さんがお怪我をなさらなかったか心配なところですが^^;
アプト式想像以上に急斜面やな。
そのようです!
貴重な映像をありがとうございます。アプト式時代、横川ー軽井沢間が単線だったとは、知りませんでした。
こちらこそ、コメントありがとございます!この映像を見ると、単線の不便さを、様々な工夫で克服された情熱も伝わってきますね。
アプト式のED42からEF63に変わった時は下りが旧線、上りが新線を使っていたと思います。その後、上り、下りとも新線が完成して、旧線が廃止になりました。
「横川ー軽井沢間が単線」正確に言うと「丸山変電所ー軽井沢間が単線」になりますね。しかも、アプト式区間が「丸山変電所ー軽井沢間」だったのですね。
「丸山変電所ー軽井沢」の中間の「熊ノ平駅」がスイッチバックで「列車交換」をしていたとは。感激です。
碓氷峠の歴史を紐解く貴重な作品と思います ありがとうございます
軌道の近くや碓氷橋の上を、人が歩いている❗のんびりした時代だったんですねー😌
私も、びっくりいたしました。鉄道とファンとの距離がとても近い時代だったようです。
EF63になってからは、横川で機関車をつけると、空気バネの空気が抜かれ、軽井沢までトロッコのようにごとごと振動が伝わってきます。しんかんせんができましたが、手はかかっても残してほしかった線区です。
115系で通った時はエラく静かだった記憶がありますが。キハ57系も空気バネの空気抜いたのでしょうかねぇ。
横川では空気バネの空気を抜いて走ったのですか。そんな変化を感じながら乗るのも楽しいですね。廃線は、そんな知恵を凝らした工夫の歴史も消えてしまうようで、本当に寂しいです。
@@映像タイムトラベル 空気バネの空気を抜くのは、66.7パーミルの勾配で空気バネを使うと、空気バネにずれの力が働いて壊れてしまうためと聞いたことがあります。
あまりの勾配で空気バネが壊れるから、そんな理由があったとは。とても納得いたしました。有難うございます!
碓氷峠自体もなくなって、さびしくなりましたね。信越線には機関車牽引の急行白山号というのが1972年まで残っていました。
廃線は、歴史も消えてしまうようで本当に寂しいです。白山号は特急しか、知りませんでした。その前から急行として活躍していたのですね!いつも有難うございます!!
私の曾祖母はこの列車で上田から新宿へお嫁に行ったそうです。たった二年ちょっとの生活。夫が他界して生まれた娘を抱いて上田に帰って来ました。行きはよいよい帰りは心ぼそかったと思います。
曾祖母さまの人生の大きな節目とともに、この列車はあったのですね。鉄道は、いろんな方の思いも運んでいるのだな…と思いました。有難うございます。当時をしのぶ貴重な記録として保存させて頂きます。
ここに出てくる白鳥は1965年10月にはくたかとなり上野〜金沢運転となり、さらに1969年10月に上越線経由となり電車化されたのですね。
コメント有難うございます!特急列車にも長い歴史があるのですね。そんな歴史に思いをはせながら映像を見るとまた深みが増しますね。
当時の特急「白鳥」号は、大阪〜直江津間では、キハ82系 : 7両+7両の計14両編成で走っていました。そして、直江津駅で、大阪〜長野〜上野間運転の7両と大阪〜青森間運転の7両とで、分割・併合を行なっていました。面白いのは、上野編成と青森編成の双方の編成に、それぞれ食堂車が1両ずつ連結されていて、日本食堂の上野営業所と青森営業所がそれぞれ担当し、腕を競い合っていた様です。
そんな食堂車対決が!!上野編成の食堂車と青森編成の食堂車を食べ比べてみたかった…。
この峠をいかに越えるか!日本経済を支えた先人の努力を伝える貴重な記録です。鉄道システムが時代のニーズと技術革新によりさまざま更新が行われて現在に至っています。やがて今の景色も間違いなく過去のものとなります。
そうですよね!技術革新は難題に挑戦するから生まれるのですよね!
すごい勾配だな
ですよね~。体感してみたかったです。
8:48 玉屋前かな?
でしょうか?!
1:26 信越線単線だったんだ。上越線と分岐するところの上り線の陸橋がない
丁寧にご視聴いただきありがとうございます!
新津や横川など鉄道町には国鉄幹部を夢見る鉄道職員子弟が多く、横軽増線が必須となった頃には横川出身者の意見が強かったと考えられる。その結果勾配緩和案25‰33‰の案はあくまでも横川駅からの検討案となり66.7‰の腹付け粘着登板特殊路線で決着してしまった。最悪の結果である。当初から信越線輸送力増強問題として置けば現新幹線に近い33.3‰の路線が選定されたかもと思うと非常に残念である。いまに残る25‰案はループ、Ωループを多用した、単純に路線延長を2.6倍した醜いものである。その後昭和30年代後半から50年代までの路線改良工事は再考無用の埋没費用でしか無くなっている。せめてS47年(出来ればS30年)からは全国新幹線網を考慮したもので有って欲しかった。
コメント有難うございます!鉄道職員の方々のお住まい地域もルート採択に関係したのですね。鉄道史の奥深さと皆さんの博識ぶりに感心しきりです。
丸山からアプト式だったのか
そうだったようです!
「急行大和で湊町から」。うちも天王寺だったのでそんな人が居ったわ。府庁の人で自分の金で飛行機で行く人と、送迎が厭で大和で行く人の極端な人が居たな。
寝台列車で行くか、飛行機で行くか、どちらも楽しい選択ですね!
@@映像タイムトラベル 飛行機の人はDC-4,DC-6 、バイカウント、コンベア880とほぼ東阪間機種制覇の上に福岡発札幌行き「ムーンライト」で札幌出張という御仁で三菱が自動車を販売し出したときは最初のロットを予約していた乗り物マニアでしたね。後席リクライニングを自慢されておられました。新幹線開業前は社会人は夜行列車(座席が主)に乗って出張するものでして、夕方からの出張前祝いがうるさかったみたいです。
最高速度18km/hの特急(笑)、のどかな時代でしたね。
ファンが撮影していれば、サービスで煙を多めに出してくれたそうで、こののどかな時代がうらやましくも思います。
一度は峠の釜飯を食べながら乗ってみたかった横軽ですが廃止にならなかったら旧アプトや眼鏡橋は遊歩道になって歩くことは出来ず、丸山変電所の外見は今でも廃墟のままで「文化むら」にある鉄道車両もほとんどが解体されていたのだろう。
廃線になってしまったのは、大変残念ですが、当時の歴史を保管くださっている地元の努力に感謝ですね。
昔、横川にターンテーブルがあったの?
碓氷峠鉄道文化むらには、転車台が残っているようです。
この対話が行われたのはいつ?
返事が遅くなり申し訳ありません。1997年10月放送です。
これいつ放送されたやつ?
「もうすぐ碓氷峠が無くなるので人がたくさん集まっている」と言うコメントがあるので、1997年頃では無いでしょうか。
1996年11月です!
ご指摘の通りです!1996年11月です!
アプト式蒸気機関車でなく、アプト式電気機関車な!アプト式蒸気の動画はさすがに残ってないか。
ご指摘ありがとうございます。サムネイルのテロップ、間違えておりました。大変失礼いたしました。訂正するようにいたします。
今から27年前、1997年9月30日に碓氷線が廃止する2ヶ月くらい前に横川から軽井沢へ碓氷線に乗ったことがあった。
電車の中は乗客の旅を楽しむ話し声が飛び交っていたが、突如車内放送が流れた。
「横川〜軽井沢間は9月をもって廃止されます…」みたいな内容だったがすごく悔しそうな、悲しそうな声だった…
その途端、車内がシーン…と静まり返ったのを今でも覚えている…😧
そんな車内放送があったのですね。廃止前の貴重なエピソード、有難うございます。車掌さんの気持ちが伝わります。
素晴らしい映像、完全な記録映像。ノロノロ走る情景、客室からはどんな風に映っていたのだろう?こう言う時代を過ぎて、いつの間にか廃線になり新幹線で あっと言う間に 通り過ぎていく現在。こんな時代があったんだな〜と懐かしむと共に、寂しいさを感じます。素晴らしい映像のUP有難うございます。
ご視聴ありがとうございます!速さと便利さだけでなく、車窓でぼんやりと過ごす時間も大切にしたいと思います。
とても貴重な動画を公開してくださり、ありがとうございます。
僕が生まれる4か月前に撮影された動画、興味深く拝見しました。
横軽線、在来特急に乗り、何度か北陸へ行きました。
こちらこそ、嬉しいお言葉有難うございます!横軽線に乗られたのですね。楽しい思い出とともにご覧いただければ、とてもうれしいです!
凄い貴重な動画 アップして頂き本当に有り難うございました。
有難うございます!!そんなふうに言って頂けるなんて、うれしくてたまりません!
自分の生まれる前の話なので、映像で残して頂けているというのは、とても嬉しく、そして有り難く思います。廃止迄の新線の映像も有り難いですが、旧線は更に有り難いです。過酷な峠越えだったんですね。先人達の熱意と努力に感心するばかりです。
貴重な8ミリ映像ありがとうございます。
こうしてみるといくら電機とはいえアプトのノロさがよく分かりますね。
新線化+63化で劇的に輸送力アップできたのが待望だったのも頷けます。
とはいえアプト時代も粘着時代も勾配との闘いをこなし続けた乗務員方々、地上設備を支えた保線の方々には感謝しかありません。
今夏(2024.08)に久々に旧道を走りに行きましたが、道路の賑わいと横川駅・峠付近の静かさは対照的でしたね。
ご視聴ありがごうございます!碓氷峠の歴史は鉄道マンの挑戦の歴史でもありますね。今も足を運んでくれるファンがいらっしゃることもうれしいです。
10年前に峠のアプト道を全線踏破しました
碓氷湖付近の急勾配にビックリしました
アプト道の前線踏破、おめでとうございます!そんなに急勾配でしたか…ちょっとチャレンジをためらいます^^;
同じタイトルの絵本について調べていたら、とんでもない(褒め言葉)動画に辿り着いてしまった…!
そんな絵本があったとは!思わずググらせて頂きました。こちらのタイムトラベルも、いかがでしたでしょうか?
すばらしい記録です。撮影本当にご苦労様でした。感謝申し上げます。
嬉しいお言葉有難うございます!撮影された中島さんのご家族にもお伝えいたします!
ED42が現役時代の貴重な映像をありがとうございます。
丸山信号所や熊ノ平等、現在は遺構でしか見られない場所の現役時代が拝見でき、楽しむことができました。
青森・上野発大阪行きのキハ82の白鳥が、直江津で併合されることは過去の時刻表からも知ってはいましたが、映像で見たのは初めてでした。解説もわかりやすく、参考になりました。
丁寧に見て下さり、とてもうれしいです。映像を出来るだけ多くの方に見て頂き活かすことが私たちの願いです。
懐かしいですね、子供のころ、夏休みは父の実家に遊びに行くとき、客車の窓から前の機関車を見ると、電気機関車のはずなのにロッドが上下しているのが見えて、あれは何だろうと思っていました。26あるトンネルの数を数えながら窓から乗り出してみていたのを思いだします。
コメント有難うございます!トンネルを数えながら…素敵な思い出ですね。鹿島さんの思い出を通して、映像がさらに鮮明に見えるような気がいたします。貴重な記録として保存させて頂きます。
いい時代だなぁ
新幹線で駆け抜けるのもいいけれど、のんびりとしたものにも大事なことが詰まっている気がする
コメントありがとうございます!そう、そうなんですよね。時にはスマホから目をあげて、ゆっくり鉄道の旅をかみしめたいと思います。
失礼します。65才のシニアです。
若い頃、スキーのため上野から赤倉まで夜行の急行で行ったり、仕事で長野まで特急で行ったことがありますが、この動画の頃は知りません。しかし、どこか懐かしく旧き良き日本の、ゆったりとした時代を感じます‼️
またあのアナログ的な時代に郷愁を感じ戻りたいです😁🎵
素敵な思い出を有難うございます!昔は、長距離で長時間の夜行の旅が、ちょっとした挑戦のようで、わくわくいたしました。不便なことも、不思議といい思い出ですね。
ただただ、素晴らしい映像です!ご苦労された映像です!私には、こんな行動力はありません。
ご視聴頂きありがとうございます!撮影者中島さんの鉄道愛のおかげです。
私が中学2年?(33年前)に従兄と佐渡に向かうときに乗車していました。
当時はお盆時期で通路にまで人があふれ、通路の場所を空けたらほかの人に取られると思い、頑なに居座っていましたが、今思えば釜めしが買えたんですよね!
情報はすべて紙媒体。何にも知らない小僧でしたが、いい思い出です。
お盆の時混雑は大変なものでした。必死に踏ん張って通路を確保しておられた少年時代も素敵な思い出です!
今は遊歩道になって、あまりの急勾配に歩いて登るにも息が切れるようです。列車が走ってたとは信じられない。
歩いてもつらいほどの急勾配ですか!いつか遊歩道に挑戦して、機関車の苦労を味わってみたいです。まずは体力作りから始めたいと思います…。
7:28 ラックレールエントランス部ではこんなに減速するんですね
丁寧に見てくださりありがとうございます!撮影した中島さんは、そういったポイントを調べつくして、撮影しておられたのだと思います。
アプトの道のために後から作られたものではなく、国道から旧熊ノ平駅に上がる当時の階段の映像はあまり無いので、非常に貴重だと思います。
細かなところまで見て下さり有難うございます!また何か発見ございましたら教えてください!
拝見して感動しました、解説も判り易く素晴しいです。
ありがとうございます!何より撮影・お話をしてくださった中島さんと玉井アナのおかげです。
当時の長野新幹線開業前に、長野への出張で乗りましたが、アプト式から転換する頃の貴重な映像を拝見出来て嬉しいです! 客車列車 気動車も信越本線に入っていたのかと思うと、その頃にタイムスリップしたくなります。
また、映像を見ながら対談するスタイルがとても良いですね。
有難うございます。撮影者の中島さんはいつも元気な方でしたが、ほぼノンストップの収録だったので、とても緊張しておられたようです。
有難うございます‼️アブト廃止後の5年後に生まれましたので無念ながら乗車体験はありません。その間中央西線のサヨナラ蒸機の最終臨時旅客列車にも乗り以降国鉄ファンとなりました。子供の時図鑑でアブトのED42や粘着のEF63、62を見て初めてヨコーカル間に乗車したのは粘着運転の1986年10月でした。以降公休の時は碓氷峠通いです。旧国鉄や当時の東日本の職員さんに大変お世話になりました。当時はこの線区に電力を送る電力会社におり、1997年の粘着最終運転時はお世話になった鉄道電力系職員さんのお陰で特別に東日本の軽井沢変電所から最後の上り回送単機を見送り、変電所の受電加圧停止と及びき電停止、高圧配電線の停電作業を見学させて頂きました。
貴重なお話を有難うございます。子供の頃の鉄道愛から、鉄道を支える電力会社にお勤めになられたのですね。中島さんの映像からも鉄道マンとの強い結びつきを感じますが、こうした形で鉄道を支えその終わりをみとどけられたお話、とても感慨深く拝読いたしました。
とても貴重な映像だと思いました。当時の碓氷峠および各駅の細かいところなどがとてもよくわかります。このレトロ感がたまりません。
ラックレール時の運転と、その後の粘着運転の時とではやはり速度が違っていますね。EF63重連等による粘着運転の時は確か時速40㎞/hくらいで下っていたような記憶があります。ラックレールの時も同じくらいだったような気もしましたが、やはり実際はもう少しのろかったようです。
ラックレールの時の運転では、キハ57の空気バネに空気を注入していました。ラックレールに床下機器を接触させないためです。粘着運転時では、逆に電車の空気バネをパンクさせていた関係で、レールの振動もじかに伝わってきました。
25‰くらいで別ルートを建設する話もあったようですが、結局66.7‰での特殊な粘着運転になってしまいました。これがもとで、新幹線開業とともに、信越線のこの区間のみが廃止になってしまいました。
25‰別ルート案が採用されていれば、この区間は廃止にならなかった可能性があります。
大変参考になる情報いっぱいのコメント有難うございます!当時もご乗車されたのでしょうか?頂いたコメント、貴重な情報として保存させて頂きます。また他の映像もご覧いただければ幸いです。
@@映像タイムトラベル さん
横川⇔軽井沢間は実際に何度も乗車しました。
優等列車の場合、各駅で、機関車の連結、解放を4分ぐらいでこなしていました。横川駅では、この間に「峠の釜めし」を買いました。
両駅では、列車到着前から、機関車が側線などで待機しており、列車が到着して即座に作業ができるようにシステムが出来上がっていたようです。
新幹線ができて、中長距離の旅客は新幹線の方に移行しました。
そのため、この区間が廃止されることになるとのことだったので、箱根登山鉄道のような設備機器等を施した、特殊な普通電車を造って走らせれば、機関車連結も省略できるから、廃止まではしなくともいい、などと言っていた人たちもいました。
しかし、結局廃止になってしまいました。私もそう言っていたうちの一人です。
横川-軽井沢間、何度も乗車されたんですね。うらやましいです!そして、スムーズな運行ができるように、工夫が施されていたのですね。平衛さんのコメントを拝読し、当時の鉄道マンの熱意や工夫が感じました。改めてまた、映像を見たくなりました。素敵なコメント、有難うございます。
客車列車の白山も乗りました。懐かしい、懐かしい、この時代に戻りたい。
信越本線のキハ82白鳥は、S36/10のタイヤ改正の目玉として、向日町運転所はキハ82の運転所として開所された。中でもこの白鳥が目玉でした。キハ57志賀号は善光寺の観光のためアプト対策のエアサス搭載、ディスクブレーキ搭載キハとして誕生しました。実際の動画を拝見でき感無量です。いろんな意味で信越本線の最も熱い時代、懐かしいです。
貴重な情報たくさんありがとうございます!エアサスペンションや、ディスクブレーキ、見えないところで様々な進化を続けていたのですね。
こんなにもユックリとした時間を過ごす時代って良いなぁ~
こらからの子世代はリニアで移り行く街を眺める車窓を楽しむボーっとした時間も無いなんて可哀想です。
コメント有難うございます!車窓からの景色を楽しむ時間は、何にも代えがたい鉄道旅の面白さですよね。スピードと効率だけではない、素晴らしさがこの時代にはあったような気がいたします。
「価値観」ですよね
早く駆け抜けることへの価値、旅情を味わう価値、どちらも大切なことだと思います。
願わくば、どちらも利用者が選択できる自由がある未来であってほしいと切に思います。
この前行ってきました。
鉄道マニアという訳ではありませんが
廃線を見ているとタイムスリップした様な
不思議な気持ちになるのが大好きなんです。
この映像を見た時、
自分が歩いた所に列車が走っている!
博物館に展示されていた機関車が走っている!
モニターを見ながらまたタイムスリップできました!
この映像を見たらまた行きたくなりましたよ
多分、前とは違った気持ちになれる気がします
廃線には、ここにどんな営みがあったのかと、想像しながら歩く面白さがありますよね。そのワクワクを映像が引き立てることが出来たのでしたら、嬉しい限りです。
レンガアーチ橋を渡るアプト式機関車の映像などは、代表的で見映えもいいので数多く残されていますが、
熊ノ平駅の詳細映像が凄いです。当時は「駅鉄」などというジャンルは存在せず(に近い状況)でしたので、「旧道から駅へのアプローチ」「駅舎前景」「ホームの様子」「駅構内の様子」「進入してくる列車の風景」などの記録はほとんど見たことがありませんで、大変貴重だと思います。
大変うれしいお言葉有難うございます。撮影した中島さんが聞かれたらどんなに喜ばれたことか。もう一度、熊ノ平駅をかみしめながら見てみることにいたします。
熊ノ平駅ってすごい手間のかかる行き違いをしてたのですね
そうなんですよ。鉄道を守る人の愛も感じますよね。
『碓氷峠』を『EF63』が走る映像は数多く見ましたが、
『ED42』が走る映像をこれだけ見せて貰えて ”感謝・感激” です。
自分はやはり「スーツ」君よりこういう ”映像遺産” に興奮してしまいます(笑)。
望みは薄い(碓氷?)ですが(笑)、「横-軽」間が ”観光列車” でも良いので、
自分が生きている内に ”復活” してほしいと願う、 ”いち鉄道ファン” です。
そんなコメントを頂き、こちらも感謝感激です!
最近赤字路線に関する悲しい記事が多く落ち込んでおりましたが、RUclipsで、皆さんの知識量と鉄道愛に元気を頂いております。
+映像タイムトラベル さん 返信有難うございます。
私は『国鉄』の ”分割民営化” は、はっきり言って ”失策” だったと思っています。
『国鉄』のままだったら少なくともここまでの ”惨状” には、
なっていなかったと思います。
”緊縮財政” の現在の 「政府」 には殆ど期待出来ませんが、
”国土強靭化”・・・の一環としてもこれからは大規模な ”財政出動” をして、
その ”目玉” として ”『国鉄』復活 ” をしてほしい・・・というのが、
”鉄道ファン” としてそして『日本国民』としての私の願いです。
S
44年生まれの横川育ちです。目覚めの(汽笛?)が懐かしい。
近くでお住まいだったとは。いろんな思い出をお持ちなのですね。うらやましいです。
これは最高な映像だな。
お褒めのコメント頂き有難うございます!
碓氷峠に貨物列車が走っているのを初めて見ました、この時代は電気機関車ではなく蒸気機関車でしたね。今は碓氷峠が無くなって北陸新幹線が走ってます。
コメント有難うございます!碓氷峠がなくなってしまったのは寂しい限りですが、皆さんからコメントをいただき、改めて鉄道技術の進化に感心しております。
補足すると、59-2で碓井峠の貨物はなくなりました😉
@@psychedelicraspberry517 さん、こんにちわ!S59(1984)年2月で碓氷線の貨物がなくなったのですね。いつも詳細な情報有難うございます。こういったお話を知ると、貨物史の変遷が気になってまいりました。
@@映像タイムトラベル オッサンだから国鉄末期はそこそこ詳しいですが、逆に最近の情報は疎いですね😁
@@psychedelicraspberry517 すばらしい知識です!これからもよろしくお願いします!
熊野平は、昔を知らない人が行くと、なんでこんなにトンネルがあるのかと思うんでしょうね。
相当貴重な映像ですね。
横軽が完全になくなる時の頃のナレーションでしょうか。
高校時代はスキーバスに乗って峠を駆け上がってましたが、今となっては特急あさまにも乗ってみたかったです。
横川の鉄道文化むらで碓氷峠の歴史の勉強をしながらEF63の運転体験を楽しんでいます。
有難うございます。こちらは1997年の放送でございます。
昔はスキーで、今は鉄道文化むらで、碓氷峠の歴史を勉強なさっているとは、すばらしいです。
この当時、未来(つまり1997年以降)には、これらの山を200kphで登り下りするなんて、誰が想像し得ただろうか。
安中榛名駅停車状態からの軽井沢方面への出発で、登り勾配の頂上付近地点でさえも、最低130kph以上は出てるっていうし。
鉄道技術の進化もすごいですね。そしてkphが、キロメートル毎時の略と知りました!
いや、ジェットコースターの好きな人は標高1000mから自由落下させたら空気抵抗無しなら140m/s、時速500kmになるんだから、軽井沢通う人で妄想した人は随分多いと思うゾ。瞬時に飛び降りた技師も居るし。
「これを何とかできないのか!」と考え列車に乗った方もいたかもしれませんね。飛び降りた技師さんがお怪我をなさらなかったか心配なところですが^^;
アプト式想像以上に急斜面やな。
そのようです!
貴重な映像をありがとうございます。
アプト式時代、
横川ー軽井沢間が単線だったとは、知りませんでした。
こちらこそ、コメントありがとございます!この映像を見ると、単線の不便さを、様々な工夫で克服された情熱も伝わってきますね。
アプト式のED42からEF63に変わった時は下りが旧線、上りが新線を使っていたと思います。その後、上り、下りとも新線が完成して、旧線が廃止になりました。
「横川ー軽井沢間が単線」
正確に言うと「丸山変電所ー軽井沢間が単線」になりますね。
しかも、アプト式区間が「丸山変電所ー軽井沢間」だったのですね。
「丸山変電所ー軽井沢」の中間の「熊ノ平駅」がスイッチバックで「列車交換」をしていたとは。
感激です。
碓氷峠の歴史を紐解く貴重な作品と思います ありがとうございます
軌道の近くや碓氷橋の上を、人が歩いている❗のんびりした時代だったんですねー😌
私も、びっくりいたしました。鉄道とファンとの距離がとても近い時代だったようです。
EF63になってからは、横川で機関車をつけると、空気バネの空気が抜かれ、軽井沢までトロッコのようにごとごと振動が伝わってきます。しんかんせんができましたが、手はかかっても残してほしかった線区です。
115系で通った時はエラく静かだった記憶がありますが。
キハ57系も空気バネの空気抜いたのでしょうかねぇ。
横川では空気バネの空気を抜いて走ったのですか。そんな変化を感じながら乗るのも楽しいですね。廃線は、そんな知恵を凝らした工夫の歴史も消えてしまうようで、本当に寂しいです。
@@映像タイムトラベル 空気バネの空気を抜くのは、66.7パーミルの勾配で空気バネを使うと、空気バネにずれの力が働いて壊れてしまうためと聞いたことがあります。
あまりの勾配で空気バネが壊れるから、そんな理由があったとは。とても納得いたしました。有難うございます!
碓氷峠自体もなくなって、さびしくなりましたね。信越線には機関車牽引の急行白山号というのが1972年まで残っていました。
廃線は、歴史も消えてしまうようで本当に寂しいです。白山号は特急しか、知りませんでした。その前から急行として活躍していたのですね!いつも有難うございます!!
私の曾祖母はこの列車で上田から新宿へお嫁に行ったそうです。たった二年ちょっとの生活。夫が他界して生まれた娘を抱いて上田に帰って来ました。行きはよいよい帰りは心ぼそかったと思います。
曾祖母さまの人生の大きな節目とともに、この列車はあったのですね。鉄道は、いろんな方の思いも運んでいるのだな…と思いました。有難うございます。当時をしのぶ貴重な記録として保存させて頂きます。
ここに出てくる白鳥は1965年10月にはくたかとなり上野〜金沢運転となり、さらに1969年10月に上越線経由となり電車化されたのですね。
コメント有難うございます!特急列車にも長い歴史があるのですね。そんな歴史に思いをはせながら映像を見るとまた深みが増しますね。
当時の特急「白鳥」号は、大阪〜直江津間では、キハ82系 : 7両+7両の計14両編成で走っていました。
そして、直江津駅で、大阪〜長野〜上野間運転の7両と大阪〜青森間運転の7両とで、分割・併合を行なっていました。
面白いのは、上野編成と青森編成の双方の編成に、それぞれ食堂車が1両ずつ連結されていて、日本食堂の上野営業所と青森営業所がそれぞれ担当し、腕を競い合っていた様です。
そんな食堂車対決が!!上野編成の食堂車と青森編成の食堂車を食べ比べてみたかった…。
この峠をいかに越えるか!
日本経済を支えた先人の努力を伝える貴重な記録です。
鉄道システムが時代のニーズと技術革新によりさまざま更新が行われて現在に至っています。
やがて今の景色も間違いなく過去のものとなります。
そうですよね!技術革新は難題に挑戦するから生まれるのですよね!
すごい勾配だな
ですよね~。体感してみたかったです。
8:48 玉屋前かな?
でしょうか?!
1:26 信越線単線だったんだ。上越線と分岐するところの上り線の陸橋がない
丁寧にご視聴いただきありがとうございます!
新津や横川など鉄道町には国鉄幹部を夢見る鉄道職員子弟が多く、横軽増線が必須となった頃には横川出身者の意見が強かったと考えられる。その結果勾配緩和案25‰33‰の案はあくまでも横川駅からの検討案となり66.7‰の腹付け粘着登板特殊路線で決着してしまった。最悪の結果である。当初から信越線輸送力増強問題として置けば現新幹線に近い33.3‰の路線が選定されたかもと思うと非常に残念である。いまに残る25‰案はループ、Ωループを多用した、単純に路線延長を2.6倍した醜いものである。その後昭和30年代後半から50年代までの路線改良工事は再考無用の埋没費用でしか無くなっている。せめてS47年(出来ればS30年)からは全国新幹線網を考慮したもので有って欲しかった。
コメント有難うございます!鉄道職員の方々のお住まい地域もルート採択に関係したのですね。鉄道史の奥深さと皆さんの博識ぶりに感心しきりです。
丸山からアプト式だったのか
そうだったようです!
「急行大和で湊町から」。うちも天王寺だったのでそんな人が居ったわ。府庁の人で自分の金で飛行機で行く人と、送迎が厭で大和で行く人の極端な人が居たな。
寝台列車で行くか、飛行機で行くか、どちらも楽しい選択ですね!
@@映像タイムトラベル 飛行機の人はDC-4,DC-6 、バイカウント、コンベア880とほぼ東阪間機種制覇の上に福岡発札幌行き「ムーンライト」で札幌出張という御仁で三菱が自動車を販売し出したときは最初のロットを予約していた乗り物マニアでしたね。後席リクライニングを自慢されておられました。新幹線開業前は社会人は夜行列車(座席が主)に乗って出張するものでして、夕方からの出張前祝いがうるさかったみたいです。
最高速度18km/hの特急(笑)、のどかな時代でしたね。
ファンが撮影していれば、サービスで煙を多めに出してくれたそうで、こののどかな時代がうらやましくも思います。
一度は峠の釜飯を食べながら乗ってみたかった横軽ですが廃止にならなかったら旧アプトや眼鏡橋は遊歩道になって歩くことは出来ず、丸山変電所の外見は今でも廃墟のままで「文化むら」にある鉄道車両もほとんどが解体されていたのだろう。
廃線になってしまったのは、大変残念ですが、当時の歴史を保管くださっている地元の努力に感謝ですね。
昔、横川にターンテーブルがあったの?
碓氷峠鉄道文化むらには、転車台が残っているようです。
この対話が行われたのはいつ?
返事が遅くなり申し訳ありません。1997年10月放送です。
これいつ放送されたやつ?
「もうすぐ碓氷峠が無くなるので人がたくさん集まっている」と言うコメントがあるので、1997年頃では無いでしょうか。
1996年11月です!
ご指摘の通りです!1996年11月です!
アプト式蒸気機関車でなく、アプト式電気機関車な!
アプト式蒸気の動画はさすがに残ってないか。
ご指摘ありがとうございます。サムネイルのテロップ、間違えておりました。大変失礼いたしました。訂正するようにいたします。