社会を生き抜くための「躾」

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  • Опубликовано: 7 ноя 2024

Комментарии • 13

  • @蛇腹-l6q
    @蛇腹-l6q 6 часов назад +6

    発達障害の女性です。私が子どもの頃は発達障害という言葉はなく、私はなんか変な女の子という扱いで、教師のウケも悪く、体罰めいた扱いもありました。つい数年前、自閉スペクトラム症と診断され、二次障害としてPTSDと鬱病があります。仕事も真面目に取り組んでも上手くいかずにすぐにクビになり、もうクビは数えきれないくらいです。
    今は良い主治医の元で少しだけ資格を活かした仕事をしています。
    どうかそのお子様にも幸せが訪れますように。
    そして、雪だるまさんにも道が拓かれますように。
    お祈り致しております。

  • @akirakoike7720
    @akirakoike7720 9 часов назад +11

    学習するということは、変わること。たしかにそうですね。変わらないことも大変ですが、常に学習していくこともまた、大変なことです。

  • @akirakoike7720
    @akirakoike7720 10 часов назад +4

    ありがとうございます。

  • @たけたけ-j1l
    @たけたけ-j1l 6 часов назад +4

    人間と動物は、思った以上に遺伝子的にも似ていいます。たとえば、『人とチンパンジーの遺伝子は99%同じ』という話を聞いたことがあるかもしれませんが、マウスとも約85%が共通してるそうです。
    ちなみにきゅうり🥒とも60%近く一緒だそうです。

  • @handle_K.T.
    @handle_K.T. 5 часов назад +2

    子育て論等の一般化された議論になると、どうしても「これはダメだ」「こんな問題がある」等、「直すべき事柄」がクローズアップされがちです。
    もちろん、「こうしたらこんな効果があった」等の「強化すべき事柄」もあり、同じ手法でも「良い面」と「悪い面」があるなんて当然のこと。
    では、「良い面」と「悪い面」が両方あったら、どっちが勝つのか? 総論で言えば「悪い面の是正」のほうが勝ってしまうように思えます。
    たとえば、昭和からの学校教育の変化が分かりやすいかと。 (いや、当時の経験者にしか分からんなw)
    当時は今と比べると、「なんでもアリ」な一面があったのは事実だった。
    まぁ、なんと言うか、「良し悪しは先生が決める」的な空気と言うか、「ある程度までは容認されて、限度を超えるとゲンコツが飛んでくる」的な感じ。
    (『感じ』と言っても、実際に飛んできましたよ。 ゲンコツ落とされるなんて普通にやられてましたからね。 まぁ大したことではないけど。 40cm定規で手のひらをピシャリとやられるほうが遥かに痛かったw)
    そうやって、「この程度まではOK」とか「これ以上は流石にヤバくね?」とか、そんな「感覚」を自然と学んだ。 それはそれで「広い意味での教育」としては理にかなっていたように思える。
    そんな環境が許されていたのは、「追いつけ、追い越せ」と社会全体がガムシャラに前進していたからなのかもしれません。
    「良くも悪くも勢いだけで突き進んでいた」という表現が、当たらずしも遠からずってところかと。
    ところが、経済が成熟し、頭打ちになり、社会全体が余裕を持つようになった結果、、、
    「いき過ぎた体罰」が問題視されたり等、個別の「事件」が起きる度に、再発防止という名の部分最適を目指した局所的対応により、社会全体が(直接的にも暗黙的にも)規制されていった。
    小中学校で勝手気ままに振る舞う一方、限度を超えたらこっぴどい目にあわされる。 そういう理不尽な扱いを受けながら、「自分で判断する」という機会を日常的に経験する。
    だからこそ、この理不尽の塊のような世界で挫けることなく前を向いて生きてけるようになる。 (無数の「個」が共存したら、そりゃ自分目線では「理不尽の塊」になるなんて当然のことだ。)
    一方で、いき過ぎた体罰が許されるのか? と言われれば、「そりゃダメに決まってるよね」って話になる。
    そうやって、「体罰は許されない」という流れになり、それに合わせて(誰かが指示したわけでもないが)「教師は勉強だけ教えていればいい」という流れに変わっていった。
    眼の前の状況を自分でよく考えて理解しようとし、世にはびこる表面的な綺麗事を鵜呑みにすることなく、自分で考え自分で決断し、どのように行動するかを定める。
    そこに絶対的な正解なんてあり得ないからこそ、その都度判断を繰り返すトレーニングを行い、判断能力を鍛えていくしかない。
    ステレオタイプな判断ではなく、状況に合わせた判断が的確に行えるようになりたいな、と思いました。

  • @user-hf7su
    @user-hf7su 8 часов назад +5

    子供の頃から私にとって自然は先生であり神だと思っています

  • @user-hf7su
    @user-hf7su 8 часов назад +6

    自分を大切にするために他人の不幸を願ったりする自分にだけは落ちぶれたくありません

  • @yay52656
    @yay52656 8 часов назад +5

    今の世の中、子供への躾がホントに難しいですね😢
    手を挙げると暴力とみなされ、泣かすと虐待してるのではないかと疑われ💦
    どう育て、躾て行けばいいか分からない人が増えて、
    その事が少子化の原因にも含まれているのではないでしょうか?

  • @THEdashimaki
    @THEdashimaki 8 часов назад +3

    躾という漢字を見て、日本語ってよくできてるな。って思います。容子が美しいではなく、身が美しいと書いて、躾ですよね。剣道してたらから、思うのかもしれないけど、日本社会というのは型を大切にしますね。私、年寄りにそだてられたから、幼少期薪割りしてたら実際指飛ばしたけど、それでも、今より昔危ないとか言わなかったですから。こう聞いたら、おじぃはやりたいようにさせてくれたのが宝かも。死んでは元も子もないながら、ぐちゃぐちゃになった指を押さえて、病院に連れてってくれたけど。振り返り、任せる行為をしてきた、おじぃのなにげない恩恵、幼少期の体験や身体機能は器用になる種かもしれないですね。かわいい子には旅をさせよ。が、説明にできなく複雑でうそではないながら、現代は深みがなく分からない人は多いんではないかと。なりつつあります。

  • @ねちねちねち男ネットコメンテーター-l4l

    声がいつもと違う

  • @誠道郁善
    @誠道郁善 9 часов назад +5

    The history and tradition of Buddhism are not about material forms
    but about the passing of teachings from master to disciple.
    Amidst a vast amount of information,
    the "confusion" arises about which path is correct and shortest.
    Scriptures are memorized through physical practice,
    learning by repeatedly observing and imitating the actions of predecessors.
    Even when harshly criticized by others, one must guide people with unwavering conviction.
    仏教の歴史伝統は物のカタチではなく、師から弟子へ教えを相承する歴史であった。
    沢山の情報があるなかで、どれが正しく最短であるかの「迷い」が出てくる。
    経本は体で暗記し、先人の行動を繰り返し観察して真似て学習する。
    周りからフルボッコにされながらも、信念をもって人を導けということね。
    佛教歴史非物形,
    師徒相承是其伝。
    多訊淆惑正途求,
    経本記憶習真似。
    行動観察如先人,
    持信導人堅決心。
    忍受四方試煉難,
    勇進道途無疑問。
    合掌。

  • @nano-eb3zy
    @nano-eb3zy 9 часов назад +10

    今日は和尚様、元気がないですね

    • @奈良のマリリン
      @奈良のマリリン 7 часов назад +3

      ほんとですね、和尚様お疲れなのでしょうか …