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原始キリスト教世界でも、アリウス派やネストリウス派は三位一体を否定してますよ
イスラム教は異端ですか?仏教は異端ですか?
私はイスラム教徒でイエスキリスト教(イーサー)ではありませんがエホバ、旧統一教会に関してはイエスキリスト教会とは全く関係がないだろうと見ています。
三野さん、こんばんは。いろんな方からいろんなことを言われ大変ですね。応援しています!😃
こやまかおりさん、ありがとうございます😊
モルモンつまり末日聖徒イエス・キリスト教会は、聖書もそのとおり信じており、プロテスタントが使用している日本聖書協会の聖書、キングジエームズ版の聖書を使用し、その教えを信じている。そしてヨハネが記しているように、イエスは、前世において父なる神(天父)と共におり、天父とともに万物を創造した創造神、神たる御方でもあること信じている。その御方が、肉体に宿り、天父の御心に従い、自分の体と命をを犠牲にして、悔い改め、御子を信じる全ての人々の罪を贖う道を備えられたことを信じている。そして死後の人の霊の存在、霊界の存在、霊界の地獄もパラダイスの存在をも信じている。そしてキリストは全人類に命の復活の恵みを備えられたことを信じている。この動画では、キリストを神として信じていないと説明されていたが、その点の説明が間違っている。イエス・キリストは天地万物の創造神であると信じている。 伝統的な宗派と異なる点は、御父と、御子と、聖霊は別々の御方であるが、御三方は、その御業において、完全に一致された方々である、三位三体であるがその意志は完全に一致している方々と信じている。神は霊の御方ではなく、完全な不死不滅の栄光化された、完全な不死の人と同様の姿・形を有する御方であると信じている。そして神は前世で、我々の霊を生まれた、全人類の父であると信じている。父は子らを愛しておられ、そのために救い主としてのキリストを備えられたことを信じている。 創世記に「我々の形に人を創造しよう」とあるように神は、単一神ではなく、御父と御子つまりキリストとの複数神と理解している。これは、1820年、アメリカの開拓地に住んでいた14歳の少年ジョセフ・スミスが当時多くの教会が開拓地で伝道していて、聖書の同じ聖句を異なって解釈していて、どの教会に加わったらいいのか分からなかったため、新約聖書を読みながら考えていると、ヤコブ1章5節の勧め「あなたがたのうちに知恵に不足している者があれば、その人は、とがめることなく、おしむことなくすべての人に与えてくださる神に願い求めるがよい。そうすれば与えられるであろう。」と言う言葉があることに気がつき、その勧めに霊感され、うながされ、4月の早春美しく晴れた朝、森に入り、心の底から神を呼び求め尋ねたとき起こった驚くべき経験から来ている。心の底からの叫びをし続けたそのとき、天から光の柱が降りてきたのです、その中に太陽の輝きにも増して光輝く、人の姿をした神々しい二人の御方が下って来て、ジョセフの真上の空中に立たれたのです。そして、その中の一人の御方が、ジョセフの名を呼び、右に立っている御方を指さして「これはわたしの愛する子である彼に聞きなさい」と言われたのです。何とジョセフは御父と御子、つまり神とイエス・キリストの来臨を受けたのです。キリストはジョセフの質問に答えられ、彼を通じ御自分の完全な教会を再び地上にもたらすことを告げられたのです。この実際に御父と御子に会い、言葉を交わし、見たその実際の経験から、ジョセフは御二方は別々の独立した存在であることを初めて知ったのです。使徒行伝で、ステパノは殉職する際、御父と御子の御二方を見ています。それが真実であることを改めて知ったのです。これは人の考えた教義ではないのです。イエス・キリストを救い主として信じ、キリストの名により御父に祈り、日曜日には聖餐を行い、水に沈めるバプテスマを行い、キリストが、いにしえの彼の僕、ペテロ・ヤコブ・ヨハネを完全な姿の神々しい天使として遣して、ジョセフとオリバーカウドリーに授けられたキリストの権能、権威メルキゼデク神権による、バプテスを施し、いにしえのキリスト教会が授けることができたと同じ、按手による確かな聖霊の賜物を授けている。 また、主はキリストの教会を回復するための様々な教え、組織、教義の解説等をジョセフ・スミスを通じて示され、近代の新たな啓示の聖典をもたらしている。その教えはみごとなものである。聖書だけではよくわからなかったことをキリストは明らかに教え示されている。伝統的な教派は、啓示は使徒の時代で終わったと信じているが、この教会は神は真の預言者を召され、啓示を与え、聖徒たちを導くことを信じている。その確かな証、証拠がモルモン書であり、近代の啓示「教義と聖約」である。旧約聖書の預言者達は、ユダ族から出る聖文に加えられるヨセフの子孫の記す新たな聖文がユダヤ人が故国に再び集められるその時代、出現することを、そしてそのあらたなしるしが世界中の人々に伝えられることを確かに預言している。私は、徹底的に調べ、このことを知ったのです。
モルモン教におけるイエスが被造物という考え方が分からない。何故このような事実で無い事を提示するのか?言い切ってしまうのか?モルモン教に入ったら他の人や社会に迷惑をかける存在になるのでしょうか?自分の生活が悪くなるのでしょうか?モルモン書はエルサレムから一部の人々がアメリカ大陸へ移動した時、移動した後に教えられた物をまとめた物であって、聖書と同じ教えが書かれています。語られた人や場所が違うだけで、バビロン捕囚の前にエルサレミから移動しているので当時あった聖典(聖書)とその後の教えなのでモルモン教は聖書を聖典として使用しているのです。私は聖書が好きなので、モルモン書から引用される方の話は、聖書から引用すれば良いのにって思います。新約聖書の一部はまだ編纂されていない時代、持っていない聖書の部分を伝える部分で聖書と同じ事が書かれています。伝えた対象の人が違うだけです。また聖書はいろんな言語に翻訳され、何度も書き写されて居るので、原典に読めない章や節があって読めない部分は前後から意訳されています。モルモン書は金版から翻訳された物なので聖書と比較すると意訳が少ないと言うだけです。ウリムとトンミムという翻訳機(どんな物なのか分かりません)で翻訳され、学のない13歳の少年が訳し、英語を書き記す学も無いので口述筆記された物です。翻訳しただけなので、元の金版からの翻訳筆記時の祖語が無い限り13歳の少年の作文にしては長文なのに矛盾が無く、金版からの翻訳なのでその教えに於いては聖書の意訳された部分が少ないかも知れません。読めなくて聖書に意訳されて意味の分からない記述があったとしたらモルモン書の同表現部分が参考になります。イエスがキリストであるのは信じていますが、十字架は罪による死の象徴なので用いません。永遠の生命を信じています。聖書以外の聖典(内容は聖書と同じ教え)や神学校を卒業していない、人間が作った資格を持たない指導者がいるのは事実です。その部分が異端と思われるみたいです。昔は重婚が認められていました。結婚して家族を作ることが大事とされていたけれど、迫害が酷くて当時の独身の女性からすれば、自分の父や兄、弟を殺した者の家には嫁ぎたくない。と思うのは当然のことです。迫害する者達は地位があってお金持ちが重婚を強要していたと事実で無い事を言う者も居ます。重婚出来たのは、地位やお金がある人でないと出来なかった(重婚したかった訳では無いのです。家族を作る必要があったのです。)現在は重婚の必要が全く無いので禁止されています。それは天国という死んだ後に生活出来る場所が有って、あなたはこの世で正しい行いをしたから天国に住めます。と神様から言われたとしても、そこに自分の愛する伴侶、家族や親しい友人が1人も居なかったなら、そこは天国なのでしょうか?自分だけが天国に住んでも幸福では無いのです。
モルモン教は神学的にかなり違うところがありますね、 例えば、イエスの 神聖度、人々がうまくいけば神様になれるなどですね。
キリスト教を主軸にするのはおかしいよね。
詩篇82:6に「わたしは言う『あなたがたは神だ、あなたがたは皆いと高き者の子だ』」とあり、人は神の子と告げています。キリストもヨハネ書10章でこのことばを引用しています。ヘブル書12:9には、「私たちはたましいの父に服従して、真に生きるべきではないか・・・」とあります。このことからも、人は神の息子・娘たちであることがわかりますが、近代の啓示では、主は、さらにはっきりと、人は前世で神から生まれた霊の息子、娘達であることを教え示し、イエス・キリストは、前世で神(天父)が生まれた霊の子らの、最初の子、長子であると告げています。そして現世は霊の子らが仮の肉体を得て、さまざまに経験して成長するための場として備えられたこと、そしてこの現世で肉の弱さやサタンの誘惑で犯してしまう罪を贖うために、御父は、世の初めから特別な御方、キリストを備えられていたことを教え示しています(黙示録5:1~13)。 人は死後、主が備えられた霊界に赴きますが、そこが終わりではなく、一定期間のち、全ての人が復活し、不死不滅の霊的な完全体に復活すると告げています。パウロは現世のそれぞれの人生の選択、成長度合いにより、その霊的な性質の復活体の栄光の状態が異なると告げています。日の栄光の体、月の栄光の体、星の栄光の体、星の栄光にも違いがあることをも告げています。日の栄光の体とは、福音を受け入れ、その聖約と戒めを守り、キリストの贖いの恵みにより清められた人たちの復活の状態であり、神はキリストと同様の栄光の復活体の状態の恵みをそれにふさわしい人たちに備えられているのです。 主はマタイ5:48で「あなたがたの天の父が完全であられるようにあなたかたも完全な者となりなさい」と告げていますが、これは不可能なことを言っているのではなく御父は、御自分の子らが、御父のような完全な者、親のような完全な者になるように計画されているのです。モルモン書では、復活したキリストは古代アメリカ大陸の人たちに「わたしや天におられるあなたがたの父が完全であるように、あなたがたも完全になることを、わたしは望んでいる」と告げています。主は、死して復活されたのち、初めて自分も完全な者と言われているのです。私たちは不完全なものですが、キリストの教えとその聖約と戒めを守る人たちは、キリストの贖いの恵みにより、御父の前にでられるように、御父と同様の、完全な者、永遠の命を有する者としてくださるのです。これが主が教え示されている確かなイエス・キリストの福音なのです。 地上の生きとし生けるものは、親は子を産み、育て、子は親のようにになり、また子を産み・・・と言う営みを太古の時代から続けています。神も同じことをしておられるのです。子らが成長し、自分と同じような完全な不死の霊的な体(霊性体)となり、霊の子らを産む力、永遠の命を獲得し、限りなく増え広がる力を持つ者となれるように備えられているのです。詩篇の113:5~8でダビデは主に従った義人たちの復活の恵みの後のこのことを先見し、次のように告げています。「われらの主にくらぶべき者はだれか、主は高きところに座し、遠く天と地を見おろされる。主は貧しい者をちりからあげ、乏しい者をあくたからあげて、もろもろの君たちと共に座らせ、その民の君たちとともにすわらせられる。また子を産まぬ女に家庭を与え、多くの子供たちの喜ばしい母とされる。主をほめたたえよ」 これは福音の奥義です。近代の新たな啓示て主はこのことを更に明らかに示されています。人は神の息子娘達なのです。神の戒めを守り、順調に成長すれば、その行く末は親のような神となるのです。このことは何ら不思議ではありません。自然なことなのです。神は永遠の目で、神の子らの子育てをしておられるのです。 私には、このことは、目からうろこの教えでした。 それは聖書の教えと全く一致しているのです。 不思議なことに、日本の神道では、人は死ねば神としてまっつていますよね。天皇や、有名な人物を神として待っている神社が相当ありますね。私見ですが、これらは霊感ある教えと思います。
私が 異端とかカルト だったら コメント 下さい私の教えとは 「イエスキリストが神を創造した」と言うものです
学術領域学研究所様ご視聴&コメントありがとうございます😊一般論としてですが、キリスト教は「三位一体の神」を信じており、「神」と「イエス」という存在を完全に切り離して考えることはしません。その上で「三位(父、子、聖霊)」の関係性を表現する上で「子なる神(イエス)は父なる神のひとり子である」ということを示す記述が聖書にはございますが、その逆である「イエスが(父なる)神」を創造した」という考えの根拠となる聖書箇所は存在しないかと存じます。
@@JapanMissionChannel コロナ急増で焦っている コメントは控えたい
@@学術領域学研究所 なんだコイツ
エホバの証人は最悪です
キリスト教会において、中世もしくは近世までは、「正統」と「異端」とを区別して、後者を断罪し排除する意義があったのだとは思いますが、すくなくとも現代の福音主義教会においては、もはやこの区別を厳格にやることが何らかの積極的な意味を持つのか?と大いに疑問です。もし、「異端」をさばき排除することに意味があるなら、現代でも異端審問のようなことが行われているはずですが、すくなくともプロテスタント教会の主流教会ではそんなことはありません。そんなことはないどころか、リベラル派の教会の中では、厳密には「異端」にあたるようなことも言われることはあります。だからこそ信仰基準を用いる意義もあるのでしょうが、現代のキリスト教会では、「異端」ではなく「カルト」の方を排除すべき必要があります。ところが「異端」と「カルト」との区別をきちっとできない教会が圧倒的に多いのです。明らかな反社会的団体とそうでない団体とを峻別せねばなりません。むしろそうしないのは、一部の自称牧師兼脱カルト救出活動家の人たちのビジネス的理由にも関係するからでしょう。すくなくとも「(旧)統一教会」と、「エホバの証人」ましてや「モルモン教」を同一レベルで扱うことは誤りです。前二者を比較してみても、その反社会性の度合いがまったく異なります。最近は、(旧)統一教会の「被害者」(…「宗教二世」という言い方は不適切であり「(旧)統一教会信者二世」と訂正すべし!)問題をメディアが取り上げて社会問題となり法律も出来たので、それを見たエホバの証人の「被害者」がカミングアウトし、メディアがこれを取り上げてはいますが、質的にも量的にも規模が違いすぎます。私は「(旧)統一教会」はカルト、「エホバの証人」と「モルモン教」は異端、というふうに区別しています。ただし中立公平的立場の専門家の所見では「エホバの証人」にも児童虐待的な点で反社会的要素が認められる可能性があり、そうなればカルトと異端との両要素を認めなければならないとは思います。しかし「異端」には、反社会的要素は無いのであり教義的な面での違いなので、もはや排除するような時代ではなく、同じキリスト教内の多様性のひとつとして受け入れて然りです。
プロテスタントの私から見れば、自由主義神学やマリア崇拝するカトリックは異端だと思っています。
進化論的創造論もそうですよね? 新使徒改革運動はどうですか? 予定論を信じないのは、カルトだと思いますが。
@@andrewgd1858私は進化論的創造論、新使徒改革運動を支持していません。また、広い意味で予定説を支持しています。
無宗教からしたら今のカトリックもプロテスタントも異端だと思うがw何で神に祈ったり、信仰するのに金がいるんだよ。あんな荘厳な建物はいらないし、寄付やお布施なんかも必要ないだろ。それがキリストや神の教えとは思えない。キリストや神が巨大な建物を建ててお布施を集めさいって言ったのか?キリストの像と聖書だけあればいいだろ。仏教や神道もいっしょ。
@user-vo7wv8sl5f さん、ご視聴とコメントありがとうございます。献金には「神への感謝の捧げ物」という側面と「教会というコミュニティを維持するための費用」という二つの側面があります。まともな教会であればカルト宗教や新興宗教が行なうような「寄付」や「お布施」の強要などはございません。プロテスタントの私からすると「あんな荘厳な建物はいらない」というご指摘はごもっともだと思いますし、そもそもプロテスタントが誕生した理由の一つには「当時(16世紀前半)の教会(カトリック)が豪華な教会を建築するために聖書の教えを捻じ曲げてお布施(贖宥状/免罪符)を集めたことに対する反発」という点があります。
@@JapanMissionChannel その協会が無ければ維持する必要もないし、神がキリストに感謝のためにお布施を集めなさいとお告げをだしたとは思えない。日々神に祈り(イスラムのように場所は選らばない)、感謝して、聖書を読んで、聖書に書いてあることを遵守することがキリストや神が求めてることだと思います。祈るために協会何て必要ないし、大聖堂なんてもってのほか。それは宗教関係無いと思います。
プロテスタントの方々の意見も分かりますが、カトリックの私が十字架やマリアを身に付けるのは信仰告白であり荘厳な教会は読み書きが出来ない人でも神の存在を分かりやすくしている部分もあるのです。
@@roc_rbo ちゃんと読めるかなw?読解力無いの?『カトリックもプロテスタントも』他の宗教に献金が無いとは言ってない。カトリックもプロテスタントも献金してるから異端だって理解できないのか?カトリックもプロテスタントも献金してるよね?他のキリスト教系も献金してるかよね?だから一緒だよね?って言ってるんだが俺は神に祈るのに教会も必要なければ、聖書も必要ないと思ってる。キリストが聖書売り歩いてたの??でっかい建物建てて献金しなさいって言ってたの??カトリックもプロテスタントもキリスト死後にできた宗教でしょ。新約聖書も死後。あと宗教信じてるやつが上で無宗教が下みたいな考えやめたらw?
@@酒呑童子-m6g まあ、理想的なのは そのような教会などの組織はないことでしょうが、もし、カトリックなどの組織がなかったら、今まで聖書などの書物は伝わっていない可能性があるでしょうね。
原始キリスト教世界でも、アリウス派やネストリウス派は三位一体を否定してますよ
イスラム教は異端ですか?仏教は異端ですか?
私はイスラム教徒でイエスキリスト教(イーサー)ではありませんがエホバ、旧統一教会に関してはイエスキリスト教会とは全く関係がないだろうと見ています。
三野さん、こんばんは。
いろんな方からいろんなことを言われ大変ですね。
応援しています!😃
こやまかおりさん、ありがとうございます😊
モルモンつまり末日聖徒イエス・キリスト教会は、聖書もそのとおり信じており、プロテスタントが使用している日本聖書協会の聖書、キングジエームズ版の聖書を使用し、その教えを信じている。そしてヨハネが記しているように、イエスは、前世において父なる神(天父)と共におり、天父とともに万物を創造した創造神、神たる御方でもあること信じている。その御方が、肉体に宿り、天父の御心に従い、自分の体と命をを犠牲にして、悔い改め、御子を信じる全ての人々の罪を贖う道を備えられたことを信じている。そして死後の人の霊の存在、霊界の存在、霊界の地獄もパラダイスの存在をも信じている。そしてキリストは全人類に命の復活の恵みを備えられたことを信じている。
この動画では、キリストを神として信じていないと説明されていたが、その点の説明が間違っている。イエス・キリストは天地万物の創造神であると信じている。
伝統的な宗派と異なる点は、御父と、御子と、聖霊は別々の御方であるが、御三方は、その御業において、完全に一致された方々である、三位三体であるがその意志は完全に一致している方々と信じている。神は霊の御方ではなく、完全な不死不滅の栄光化された、完全な不死の人と同様の姿・形を有する御方であると信じている。そして神は前世で、我々の霊を生まれた、全人類の父であると信じている。父は子らを愛しておられ、そのために救い主としてのキリストを備えられたことを信じている。
創世記に「我々の形に人を創造しよう」とあるように神は、単一神ではなく、御父と御子つまりキリストとの複数神と理解している。これは、1820年、アメリカの開拓地に住んでいた14歳の少年ジョセフ・スミスが当時多くの教会が開拓地で伝道していて、聖書の同じ聖句を異なって解釈していて、どの教会に加わったらいいのか分からなかったため、新約聖書を読みながら考えていると、ヤコブ1章5節の勧め「あなたがたのうちに知恵に不足している者があれば、その人は、とがめることなく、おしむことなくすべての人に与えてくださる神に願い求めるがよい。そうすれば与えられるであろう。」と言う言葉があることに気がつき、その勧めに霊感され、うながされ、4月の早春美しく晴れた朝、森に入り、心の底から神を呼び求め尋ねたとき起こった驚くべき経験から来ている。心の底からの叫びをし続けたそのとき、天から光の柱が降りてきたのです、その中に太陽の輝きにも増して光輝く、人の姿をした神々しい二人の御方が下って来て、ジョセフの真上の空中に立たれたのです。そして、その中の一人の御方が、ジョセフの名を呼び、右に立っている御方を指さして「これはわたしの愛する子である彼に聞きなさい」と言われたのです。何とジョセフは御父と御子、つまり神とイエス・キリストの来臨を受けたのです。キリストはジョセフの質問に答えられ、彼を通じ御自分の完全な教会を再び地上にもたらすことを告げられたのです。この実際に御父と御子に会い、言葉を交わし、見たその実際の経験から、ジョセフは御二方は別々の独立した存在であることを初めて知ったのです。使徒行伝で、ステパノは殉職する際、御父と御子の御二方を見ています。それが真実であることを改めて知ったのです。これは人の考えた教義ではないのです。
イエス・キリストを救い主として信じ、キリストの名により御父に祈り、日曜日には聖餐を行い、水に沈めるバプテスマを行い、キリストが、いにしえの彼の僕、ペテロ・ヤコブ・ヨハネを完全な姿の神々しい天使として遣して、ジョセフとオリバーカウドリーに授けられたキリストの権能、権威メルキゼデク神権による、バプテスを施し、いにしえのキリスト教会が授けることができたと同じ、按手による確かな聖霊の賜物を授けている。
また、主はキリストの教会を回復するための様々な教え、組織、教義の解説等をジョセフ・スミスを通じて示され、近代の新たな啓示の聖典をもたらしている。その教えはみごとなものである。聖書だけではよくわからなかったことをキリストは明らかに教え示されている。伝統的な教派は、啓示は使徒の時代で終わったと信じているが、この教会は神は真の預言者を召され、啓示を与え、聖徒たちを導くことを信じている。その確かな証、証拠がモルモン書であり、近代の啓示「教義と聖約」である。旧約聖書の預言者達は、ユダ族から出る聖文に加えられるヨセフの子孫の記す新たな聖文がユダヤ人が故国に再び集められるその時代、出現することを、そしてそのあらたなしるしが世界中の人々に伝えられることを確かに預言している。
私は、徹底的に調べ、このことを知ったのです。
モルモン教におけるイエスが被造物という考え方が分からない。何故このような事実で無い事を提示するのか?言い切ってしまうのか?
モルモン教に入ったら他の人や社会に迷惑をかける存在になるのでしょうか?自分の生活が悪くなるのでしょうか?
モルモン書はエルサレムから一部の人々がアメリカ大陸へ移動した時、移動した後に教えられた物をまとめた物であって、聖書と同じ教えが書かれています。
語られた人や場所が違うだけで、バビロン捕囚の前にエルサレミから移動しているので当時あった聖典(聖書)とその後の教えなので
モルモン教は聖書を聖典として使用しているのです。私は聖書が好きなので、モルモン書から引用される方の話は、聖書から引用すれば良いのにって思います。
新約聖書の一部はまだ編纂されていない時代、持っていない聖書の部分を伝える部分で聖書と同じ事が書かれています。伝えた対象の人が違うだけです。
また聖書はいろんな言語に翻訳され、何度も書き写されて居るので、原典に読めない章や節があって読めない部分は前後から意訳されています。
モルモン書は金版から翻訳された物なので聖書と比較すると意訳が少ないと言うだけです。ウリムとトンミムという翻訳機(どんな物なのか分かりません)で
翻訳され、学のない13歳の少年が訳し、英語を書き記す学も無いので口述筆記された物です。翻訳しただけなので、元の金版からの翻訳筆記時の祖語が無い限り
13歳の少年の作文にしては長文なのに矛盾が無く、金版からの翻訳なのでその教えに於いては聖書の意訳された部分が少ないかも知れません。
読めなくて聖書に意訳されて意味の分からない記述があったとしたらモルモン書の同表現部分が参考になります。
イエスがキリストであるのは信じていますが、十字架は罪による死の象徴なので用いません。永遠の生命を信じています。
聖書以外の聖典(内容は聖書と同じ教え)や神学校を卒業していない、人間が作った資格を持たない指導者がいるのは事実です。その部分が異端と思われるみたいです。
昔は重婚が認められていました。結婚して家族を作ることが大事とされていたけれど、
迫害が酷くて当時の独身の女性からすれば、自分の父や兄、弟を殺した者の家には嫁ぎたくない。と思うのは当然のことです。
迫害する者達は地位があってお金持ちが重婚を強要していたと事実で無い事を言う者も居ます。
重婚出来たのは、地位やお金がある人でないと出来なかった(重婚したかった訳では無いのです。家族を作る必要があったのです。)
現在は重婚の必要が全く無いので禁止されています。
それは天国という死んだ後に生活出来る場所が有って、あなたはこの世で正しい行いをしたから天国に住めます。と神様から言われたとしても、
そこに自分の愛する伴侶、家族や親しい友人が1人も居なかったなら、そこは天国なのでしょうか?自分だけが天国に住んでも幸福では無いのです。
モルモン教は神学的にかなり違うところがありますね、 例えば、イエスの 神聖度、人々がうまくいけば神様になれるなどですね。
キリスト教を主軸にするのはおかしいよね。
詩篇82:6に「わたしは言う『あなたがたは神だ、あなたがたは皆いと高き者の子だ』」とあり、人は神の子と告げています。キリストもヨハネ書10章でこのことばを引用しています。ヘブル書12:9には、「私たちはたましいの父に服従して、真に生きるべきではないか・・・」とあります。このことからも、人は神の息子・娘たちであることがわかりますが、近代の啓示では、主は、さらにはっきりと、人は前世で神から生まれた霊の息子、娘達であることを教え示し、イエス・キリストは、前世で神(天父)が生まれた霊の子らの、最初の子、長子であると告げています。そして現世は霊の子らが仮の肉体を得て、さまざまに経験して成長するための場として備えられたこと、そしてこの現世で肉の弱さやサタンの誘惑で犯してしまう罪を贖うために、御父は、世の初めから特別な御方、キリストを備えられていたことを教え示しています(黙示録5:1~13)。 人は死後、主が備えられた霊界に赴きますが、そこが終わりではなく、一定期間のち、全ての人が復活し、不死不滅の霊的な完全体に復活すると告げています。パウロは現世のそれぞれの人生の選択、成長度合いにより、その霊的な性質の復活体の栄光の状態が異なると告げています。日の栄光の体、月の栄光の体、星の栄光の体、星の栄光にも違いがあることをも告げています。日の栄光の体とは、福音を受け入れ、その聖約と戒めを守り、キリストの贖いの恵みにより清められた人たちの復活の状態であり、神はキリストと同様の栄光の復活体の状態の恵みをそれにふさわしい人たちに備えられているのです。
主はマタイ5:48で「あなたがたの天の父が完全であられるようにあなたかたも完全な者となりなさい」と告げていますが、これは不可能なことを言っているのではなく御父は、御自分の子らが、御父のような完全な者、親のような完全な者になるように計画されているのです。モルモン書では、復活したキリストは古代アメリカ大陸の人たちに「わたしや天におられるあなたがたの父が完全であるように、あなたがたも完全になることを、わたしは望んでいる」と告げています。主は、死して復活されたのち、初めて自分も完全な者と言われているのです。
私たちは不完全なものですが、キリストの教えとその聖約と戒めを守る人たちは、キリストの贖いの恵みにより、御父の前にでられるように、御父と同様の、完全な者、永遠の命を有する者としてくださるのです。これが主が教え示されている確かなイエス・キリストの福音なのです。
地上の生きとし生けるものは、親は子を産み、育て、子は親のようにになり、また子を産み・・・と言う営みを太古の時代から続けています。神も同じことをしておられるのです。子らが成長し、自分と同じような完全な不死の霊的な体(霊性体)となり、霊の子らを産む力、永遠の命を獲得し、限りなく増え広がる力を持つ者となれるように備えられているのです。詩篇の113:5~8でダビデは主に従った義人たちの復活の恵みの後のこのことを先見し、次のように告げています。
「われらの主にくらぶべき者はだれか、主は高きところに座し、遠く天と地を見おろされる。主は貧しい者をちりからあげ、乏しい者をあくたからあげて、もろもろの君たちと共に座らせ、その民の君たちとともにすわらせられる。また子を産まぬ女に家庭を与え、多くの子供たちの喜ばしい母とされる。主をほめたたえよ」
これは福音の奥義です。近代の新たな啓示て主はこのことを更に明らかに示されています。人は神の息子娘達なのです。神の戒めを守り、順調に成長すれば、その行く末は親のような神となるのです。このことは何ら不思議ではありません。自然なことなのです。神は永遠の目で、神の子らの子育てをしておられるのです。 私には、このことは、目からうろこの教えでした。
それは聖書の教えと全く一致しているのです。
不思議なことに、日本の神道では、人は死ねば神としてまっつていますよね。天皇や、有名な人物を神として待っている神社が相当ありますね。私見ですが、これらは霊感ある教えと思います。
私が 異端とかカルト だったら コメント 下さい
私の教えとは 「イエスキリストが神を創造した」と言うものです
学術領域学研究所様
ご視聴&コメントありがとうございます😊一般論としてですが、キリスト教は「三位一体の神」を信じており、「神」と「イエス」という存在を完全に切り離して考えることはしません。その上で「三位(父、子、聖霊)」の関係性を表現する上で「子なる神(イエス)は父なる神のひとり子である」ということを示す記述が聖書にはございますが、その逆である「イエスが(父なる)神」を創造した」という考えの根拠となる聖書箇所は存在しないかと存じます。
@@JapanMissionChannel
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@@学術領域学研究所 なんだコイツ
エホバの証人は最悪です
キリスト教会において、中世もしくは近世までは、「正統」と「異端」とを区別して、後者を断罪し排除する意義があったのだとは思いますが、すくなくとも現代の福音主義教会においては、もはやこの区別を厳格にやることが何らかの積極的な意味を持つのか?と大いに疑問です。もし、「異端」をさばき排除することに意味があるなら、現代でも異端審問のようなことが行われているはずですが、すくなくともプロテスタント教会の主流教会ではそんなことはありません。そんなことはないどころか、リベラル派の教会の中では、厳密には「異端」にあたるようなことも言われることはあります。だからこそ信仰基準を用いる意義もあるのでしょうが、現代のキリスト教会では、「異端」ではなく「カルト」の方を排除すべき必要があります。ところが「異端」と「カルト」との区別をきちっとできない教会が圧倒的に多いのです。明らかな反社会的団体とそうでない団体とを峻別せねばなりません。むしろそうしないのは、一部の自称牧師兼脱カルト救出活動家の人たちのビジネス的理由にも関係するからでしょう。すくなくとも「(旧)統一教会」と、「エホバの証人」ましてや「モルモン教」を同一レベルで扱うことは誤りです。前二者を比較してみても、その反社会性の度合いがまったく異なります。最近は、(旧)統一教会の「被害者」(…「宗教二世」という言い方は不適切であり「(旧)統一教会信者二世」と訂正すべし!)問題をメディアが取り上げて社会問題となり法律も出来たので、それを見たエホバの証人の「被害者」がカミングアウトし、メディアがこれを取り上げてはいますが、質的にも量的にも規模が違いすぎます。私は「(旧)統一教会」はカルト、「エホバの証人」と「モルモン教」は異端、というふうに区別しています。ただし中立公平的立場の専門家の所見では「エホバの証人」にも児童虐待的な点で反社会的要素が認められる可能性があり、そうなればカルトと異端との両要素を認めなければならないとは思います。しかし「異端」には、反社会的要素は無いのであり教義的な面での違いなので、もはや排除するような時代ではなく、同じキリスト教内の多様性のひとつとして受け入れて然りです。
プロテスタントの私から見れば、自由主義神学やマリア崇拝するカトリックは異端だと思っています。
進化論的創造論もそうですよね? 新使徒改革運動はどうですか? 予定論を信じないのは、カルトだと思いますが。
@@andrewgd1858
私は進化論的創造論、新使徒改革運動を支持していません。
また、広い意味で予定説を支持しています。
無宗教からしたら今のカトリックもプロテスタントも異端だと思うがw
何で神に祈ったり、信仰するのに金がいるんだよ。あんな荘厳な建物はいらないし、寄付やお布施なんかも必要ないだろ。それがキリストや神の教えとは思えない。キリストや神が巨大な建物を建ててお布施を集めさいって言ったのか?
キリストの像と聖書だけあればいいだろ。
仏教や神道もいっしょ。
@user-vo7wv8sl5f さん、ご視聴とコメントありがとうございます。献金には「神への感謝の捧げ物」という側面と「教会というコミュニティを維持するための費用」という二つの側面があります。まともな教会であればカルト宗教や新興宗教が行なうような「寄付」や「お布施」の強要などはございません。
プロテスタントの私からすると「あんな荘厳な建物はいらない」というご指摘はごもっともだと思いますし、そもそもプロテスタントが誕生した理由の一つには「当時(16世紀前半)の教会(カトリック)が豪華な教会を建築するために聖書の教えを捻じ曲げてお布施(贖宥状/免罪符)を集めたことに対する反発」という点があります。
@@JapanMissionChannel
その協会が無ければ維持する必要もないし、神がキリストに感謝のためにお布施を集めなさいとお告げをだしたとは思えない。
日々神に祈り(イスラムのように場所は選らばない)、感謝して、聖書を読んで、聖書に書いてあることを遵守することがキリストや神が求めてることだと思います。祈るために協会何て必要ないし、大聖堂なんてもってのほか。
それは宗教関係無いと思います。
プロテスタントの方々の意見も分かりますが、カトリックの私が十字架やマリアを身に付けるのは信仰告白であり荘厳な教会は読み書きが出来ない人でも神の存在を分かりやすくしている部分もあるのです。
@@roc_rbo
ちゃんと読めるかなw?読解力無いの?
『カトリックもプロテスタントも』他の宗教に献金が無いとは言ってない。カトリックもプロテスタントも献金してるから異端だって理解できないのか?
カトリックもプロテスタントも献金してるよね?他のキリスト教系も献金してるかよね?だから一緒だよね?って言ってるんだが
俺は神に祈るのに教会も必要なければ、聖書も必要ないと思ってる。キリストが聖書売り歩いてたの??でっかい建物建てて献金しなさいって言ってたの??カトリックもプロテスタントもキリスト死後にできた宗教でしょ。新約聖書も死後。
あと宗教信じてるやつが上で無宗教が下みたいな考えやめたらw?
@@酒呑童子-m6g まあ、理想的なのは そのような教会などの組織はないことでしょうが、もし、カトリックなどの組織がなかったら、今まで聖書などの書物は伝わっていない可能性があるでしょうね。