年間第15主日「神のことばの一節を持ち帰り、杖一本とする」【こうじ神父・取って食べなさい】

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  • Опубликовано: 11 янв 2025
  • 年間第15主日(マルコ6:7-13)「神のことばの一節を持ち帰り、杖一本とする」【こうじ神父・取って食べなさい】
    「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず・・・」(6・7)八年前、2016年の1月下旬に、まれに見る大雪が降りました。私は上五島の浜串小教区にいましたが、本教会の浜串で7時のミサをした後、9時に巡回の福見教会でミサをしなければなりませんでした。
    しかしすでに相当の雪が積もっており、車を出して山道を登るのは不可能でした。このままでは巡回教会のミサが出来なくなります。考えた挙げ句、ミサの時間を一時間遅らせて、歩いて巡回教会に向かうことにしました。この時、竹を切った杖を手に持って、片道一時間半歩いて出かけたのです。
    浜串教会から峠を登り、いったん峠を降ります。そしてもう一つ峠を登って降ったところに福見教会があります。汗びっしょりになりながら司祭館で全身を拭き、身を整えてからミサをしました。
    現代ですから、説教の原稿はスマホがあれば話すことは出来ます。文字通りの杖一本ではありませんでしたが、車に乗らず、ほとんど何も持たず、待っている信者のもとにミサをしに行ったのは忘れられない思い出です。
    杖一本を持って出かける。イエス様時代のパレスチナで杖を持ち歩く人とは、旅をする人の姿だけでなく、一般的には羊飼いの姿なのでしょう。出かけた先に、杖を使って案内し、導く羊たちがいる。旅の途中に出会う危険な動物を追い払うだけでなく、その杖によって養う羊たちが目的地で待っています。そう考えて道を進むとき、たとえそれが困難な道であっても元気が出ます。
    「杖」は、「あなたにわたしの羊を任せる」そのしるしとなります。食べ物や、施しを受ける袋や金銭は、イエスから派遣されたしるしにはなり得ません。待ち受ける人々は弟子たちの宣教する姿を自然と見極めます。神の国を告げ知らせる人がパンや袋や金銭を頼りにしていたら、人々から見切られてしまうでしょう。弟子たちは、羊を導くための「杖」に寄り頼んで宣教するので信頼されるのです。
    弟子たちは、はっきりと「杖一本」持っていくように指示を受けました。皆さんはどうでしょうか。「杖一本」は難しいかも知れませんが、イエスから派遣された「しるし」これを拠り所に生活を組み立てることは可能です。特に、日曜日毎に朗読される聖書の一節を、今週の拠り所に持ち帰ろう。この積み重ねをしていけば、皆さんの生活も杖一本を手に、ミサから派遣されて生活に戻る人になれます。
    場合によっては、福音朗読の一節ではなく、第一朗読や、第二朗読の一節が心に残って、一週間を組み立てる土台にできるかも知れません。13日土曜日の朝、第一朗読はイザヤ書でした。最後の部分で「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」わたしは言った。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」という対話がありました。とても印象に残りました。第一朗読、第二朗読は、皆さんが読むわけですから、心に残る可能性は十分あります。
    神のことばの一節を、生活に派遣される者として持ち帰りましょう。あなたの生活で信仰を表していく頼みの道具として、ミサで「行きましょう」と派遣された「しるし」として、神のことばはふさわしいと思います。今週は、どの一節を持ち帰りますか?どの一節が、あなたの一週間を助けてくれると感じるでしょうか。

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