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古墳の守り人には青山さんという名を与えられていると聞いたことがあります。私の知っている青山さんはご本人曰く気が遠くなるほど古くから続いている家柄で、ご自宅近くの式内社にMy神社があり今でも毎日お参りしているそうです。日蓮上人が産気づいた妻女に安産祈願のご祈祷を行ってくださったことが文献に残っているそうです。ご本人は仰っていませんが、近くに古墳もあることから太古には古墳をお守りしていたのではないかと思っています。切越集落の青山さんもお墓の守り人で、もしかしたら石塔の近くに知られていない古墳があるのかなと想像しています。ロマンですね。
なるほど、「人間至る所に青山あり」の青山ですね。私も古墳に一票。😊
勉強になります。古墳の守り人の一族、青山氏という名を与えられていることがあるのですね。代々主の墳墓を守り続ける一族。全国の青山さんの中には今もお役目を果たしている方も結構ありそうですね。歴史のロマンです。
神社に意外にも日蓮上人がいらっしゃったのですね。日蓮宗の御本尊は天照大御神始め沢山の神様のお名前がありますので、意外でもないのかも知れませんが
日蓮聖人が馬をつないだという「駒つなぎの欅(ケヤキ)」というご霊跡が残っています。@@ichi6868
東京の青山霊園?の青山も関係あるのかな?青山イコール古墳とかお墓とか???単なる感想です
初めて、コメントします。登録はもうすでにしていましたが。桜井寺は、私が育ったところです。同級生が、このお寺の息子でした。もう、半世紀以上昔ですが。空海の井戸も、知っていました。この桜井寺の井戸の水を飲むと頭が良くなるとかの話もありました。でも、切越は、知らなかったです。貴重なお話、ありがとうございます。ただ、今の桜井寺の住職は、私の幼い頃とは、変わってしまったとの話です。これからも、いろいろな地域などの記事のアップを待っています。もう一回感謝の気持ちを、込めて。「ありがとうございます」
楽しく拝見させてもらいました!境目の時代を共に頑張っていきましょー
ご支援ありがとうございます!
埋もれた遺跡等を紹介しています若い人を見ていますと、徳の高い人達だなと感心致します。これからもよろしくね。
オカヤスさんが大地に根付いた姿は何とも微笑ましく、癒しです✨ケガしてなくて何よりです✨
市や教育委員会が勝手に名前を変えるってヤバイな。信仰や風習を勝手に書き換えるなんて許されることではない。historicaさんの動画で後世に真実が残りますね。
何年に名前変更されたか、その時の教育委員長や市長は誰か調べれば、名前やメンバーがでますよね議員さん達も名前は残っています。
今回も興味深い探索、ありがとうございました。元のかたちはなんであれ、集落の方々に守られ受け継がれてきたことは間違いないですね。山中にある石碑などは手入れしないと数年で藪に埋もれます・・・最後の護持者の方のお話を聞けたのは本当に貴重な記録だと思います。
21:20 税金で整備するので"お墓であってはならない"。この理屈で「塔」扱いに変わってしまったやつ、うちの地元にもあります(´・ω・`)お墓っぽいやつが自治体の文化財指定を獲得させるときのあるあるなんだと思います(*_*)砦や城は結局、"地権者が存在する"誰かの所有物""だし、税金で整備したら語弊が出る。なんだかなぁと思います。
33:19 どうかご安全に!
初めて見る八面塔の光景に荘厳さを感じ、釘付けになりました。僅か一軒しか存在しなかった青山家が集落に唯一残り、八面塔を守り継ぐ最後の一族になろうとしているのも感慨深い。地元の人が昔から八面 『塚』 と言われていた所を教育の観点から…と教育委員会が八面 『塔』に名称変更とは驚きです。岡崎観光文化百選の8番目に登録されているので、行政で しっかり敬意を込めて管理していってほしいです。歴史や文化が途絶えてしまう境目の時代に 『historica』 のアンドウさん、オカヤスさんの存在は大きいですね。応援してます♪
histricaのアンドウさん・オカヤスさんこんばんは~この村で生まれ育った方と出会えお話聞けてよかったですね。色々な説があってほんと不思議な石塔群ですね。この石塔の周りでお祭りもされてたんですか~賑やかだったことでしょう。台風でも倒れないって不思議ですよね。拝見していて謎が謎を呼び起こしてしまう不思議な集落でした。コメント書けなかったのですが1度電源落として再稼働させたら書けるようになりました。ホッとしました。今回も素晴らしい取材配信ありがとうございました。猫ちゃん可愛かったです。
今日君達のチャンネルを見て改めて思った事は人の生活により歴史が始まり、生活が終わった瞬間から生活の痕跡が「遺跡」に変化する事かな、悲しい事に日本の過疎地域が「歴史から遺跡」への道を辿っている事だね、今回もありがとう。
お疲れ様です。人が居なくなるとその土地の文化や伝承も消えていき、それをたどることも困難になってゆくということが解る回でした。何気なく通りすぎることを気負いもなく丁寧に拾って追ってゆくお二人の姿勢にいつも楽しませてもらっています。おやつタイム今回は何を召し上がれましたか?(笑)
いつも楽しみにしてます
ありがとうございます!
いつもありがとうございます!!
パッと見た瞬間、アンコールワットのプチバージョンみたいに見えちゃった😮
配信お疲れ様です。八面塚、お墓説の方を支持したいな。今も管理をなさっている青山家のお父さんのお話しは感動的。八面塚と神社を今も守ってらっしゃるのですね。もしこの先市の方に管理が移ったとしても、敬意をもって大切にしていただきたいですね。岡崎市の教育委員会の八面塚を塔と変えた件、意味不明。
ほんとに謎の石塔ですね
29:53 なぜ溝の方角を調べないのだ?!これは磐座信仰の痕跡かも。
陰陽石ぽい石の切れ目の方角知りたかったですねぇ本当に
今回もとても楽しく拝見しました。謎が多いのは、やはり詳しく誰がどうしたこうしたという事を隠しておかければならない理由があったのだと思いました。もしそういう理由が無いなら、明確に名前をどこかに彫ったり、残そうとした形跡が絶対あると思います。本当に今回のヒストリカさんは素敵でした!有難う御座いました。そしてお疲れ様でした!
いったい何度の地震を経験してきたのですかねぇ崩れないのが本当に不思議!凄いなぁ
本当に凄いですよね最近では3•11の地震でもこちらでもかなり揺れたのに 集中豪雨や伊勢湾台風も乗り越えて令和の今でも崩れずにあり続ける
今回も大変興味深い動画ありがとうございます。しかし、不思議ですね・・伝承が多すぎるから余計に謎が深まります。なぜこれだけのものが存在するのに記録に残されたものが何もないのか・・何かを祀る存在なのだろうとはおぼろげに感じますが・・この平たい石は頁岩みたいに割ると薄い板状に割れるタイプの石がこのあたりで採れるのではないでしょうか。毎度アンドウさんの関心の方向性に感心しています。次のアンテナはどちらの方向に向かうのかな、楽しみです😊
アンドウさん、オカヤスさん、こんばんは🌃地元の方にお話を伺えて良かったですね。それにしても不思議な「塚」ですね。最初はお墓かな?と思いましたが、違うような気もします。色々想像するのも良いでしょうね。
今回も素晴らしかったですね〜!巨漢のオカヤスさん、セーフだと思います。猫!!かわいい。それと、ナレーションの女性の方、いつも素晴らしいなと思って聞いています。
たいへん興味深かったです。さまざまな説があり考えさせられますが、八面塚の『八』にヒントが隠されてる気がします。北斗七星の部分で思ったのは、陰陽道で方位の吉凶をつかさどる八神。牛頭天王(ごずてんのう)の八人の王子であり、牛頭天王は神仏習合でスサノヲとも解釈されるそうです。須佐之男神社があるので、八将神に繋がる印象を持ちました。石塔の位置関係、それから近くにあった人工的につくられた空間と中心にある石も、どことなく占いが行われていたような雰囲気がしました。石塔が崩れないのが不思議ですよね!
石垣島では義経と牛若丸の神輿があったと友達が言っていました。が…そんな彼女の旧姓は平…😅歴史の歴に、止まるという字が使われていることも興味深いです。塔❓塚❓混み混みであそこだけ。しかも地震で崩れない。本当に不思議なスポットですね。有難うございました🙏🏼
確かに、なぜ、林、に止まる、なんでしょうね。
ヒストリカさん等の活躍で歴史が後生に残りますね😊住民の方の声も聴けましたし終生埋もれる運命にあった歴史を掘り起こした事は大変な功績ですし子孫がヒストリカさん等の功績を歴史として語るでしょうね😊「塚」と「塔」の話は丁寧に市役所へ問い合わせて下さいね☺️私が思うに恐らく司法に詳しい方が法律を加味し熟慮して判断されたと思いますよ☺️「古墳」「墓地」の違いみたいに😮
全然場所が違いますけど、対馬の禁足地であったオソロシドコロもこのような平らな石を積み上げて作られた塚のようなものです。(墓という言い伝えですが)最初の方に出て来たこの地生まれの女性が「靴を脱いで参拝していた」というようなことを言っていましたが、対馬のオソロシドコロも靴を脱いで参拝するようです。おそらくこの塚は江戸の末期、あの祠が作られた頃に一度改修されているのでしょう。その前はもしかしたら別の形であったのかも知れません。
37:39 良い考察(*゚∀゚)(推定、ここに限らず、様々な場所でお大人の事情で南北朝の南朝方に与するものを取り入れていった、という事情があるのではないかと思っています。)
ドルメン(支石墓)みたいですねー岡山の楯築弥生墳丘墓遺跡みたい。
う〜〜ん 面白くて、ためになった…
オカヤスさん、ご安全に!笑八面塚は謎が多いからこそ、人それぞれ色んな解釈ができて面白いですねえしかし猫の神かわいい〜😺❤
ギョベクリ・テペのミニチュアに見えてくるのは、私だけでしょうか(笑)😮
公的な形でも保存管理続けて欲しいですね。
いやあ〜、面白かったです。やはり塚と呼んでほしいですね。どう見てもお墓のような気がします。今回の動画は「これぞhistorica」という感じたっぷりで、ほのぼのと視聴できました。これからも、なかなか私たちが入り込めないような山中をどんどんご紹介ください。最後に。。。オカヤスさん、、、地質調査には見えませんでした^^;。完全に「アウト」です😆。
石の板は大きな岩を割ったものだと思います。この地の岩は平に割れやすい材質なのではないかと予想します。石塔は長い歴史の中では崩れたのではないかと思います。1800年代に再建されたという伝承からすると南海トラフの大地震に遭っていないのではないかと思います。
桜井寺の横は水子供養でしょうか?
2:52 千と千尋の序盤みたい
8:07 石積みは人の身長的な高さで五臓六腑を五層六層で現した、ご先祖さまの立ち姿そのものかも。戦後、日本人の文化伝承は某超大国の政治的な意向でわざとナイガシロにされてきており、、、無念。だからこそ、まことにタイムリーな良いチャンネルです。
こんばんは🌙😃❗いつも楽しみにしています😊八面塚の下の広いスペースにあった、直線に切れ目の入った石は、古代の儀式にでも使われてた様な🤔…感じに見えました。須佐之男神社も気になります。岡安さん🤣怪我をする前に足腰鍛えて下さ~い🏃♀️🔥💨
旧集落の文化伝統口伝を発掘され保存発信されてたことは遠い昔日に守られるべきものであったと今現在心ある人々に思われています。
こんにちはそしてお疲れ様でした、面白い話がいっぱいでしたが最後に猫に全部持っていかれました😅名前なんて言うんだろうな?なんて…ただ今回の動画を見ながらいわれも起源も忘れ去られてただ大事なものとして守り続けられてきた、そんな場所や物がこの国には沢山あるんだろうなと思いました。そしてやがて村や集落が途絶えてそれ自体も歴史の闇に消えて行く…悲しいですね。
いつもありがとうございます。石の積み方、滋賀県で見た石垣に似ていたような・・・
もしかしたら穴太衆が仕事を請け負ったかもしれませんね😊
はじめてのコメントです。こういった事を出来るなら自分でも調べたいとずっと思っていますが、なかなか出来ることではないですよね。。わたしも参加したいと思えるようなとても興味のあるチャンネルです。是非ともいろんな地域のヒストリーを見せてください!!楽しみにしています。
愛知県西三河の岡崎は、古くから墓石作りが盛んな地域です。花崗岩が豊富で、その加工も盛んです。
個人的に見た感じが和歌山、高野山の昔の時代のお墓に似てると思いました。古い時代の大きなお墓がこんな風でした。
山梨に白旗神社とゆう似た構造のものがありますね
兵藤・・・・。一件だけ知ってる。豊橋にいた。本間はゴルフクラブのイメージが強く多くいたような。
八面塚がもしお墓だったら八つ墓だし、この地域に二大勢力が存在していたことも合わせると横溝作品を彷彿とさせますね。まあ血なまぐさい歴史があったなどという雰囲気は感じられませんでしたが。
鎌倉時代から本間家や兵藤家の名前が伝承されているとすれば、平安時代からの藤原繋がり(藤の文字が入った苗字➞遠藤・近藤・内藤・兵藤など)かもしれないですよね。愛知県で兵藤? 兵藤ゆきさんは愛知県かな?
五重塔も耐震構造になっているし、先人たちは耐震の知恵があったかのようですね。関係ないですが「桜井寺」って「サプライズ」に語呂が似ていますね。
historicaさんの動画を見ていると、日本政府は森林環境税を使ってとっととこの杉の森を伐採してくれっていつも思います。花粉症対策としても、廃村がかつての景観を取り戻すという意味でも。
田舎では大禍にちなんだ風習や伝承がよく言われます。今回の“塔”はそういった抗い難い大きな災いにどうにかして抗いたい住人たちの意思を倒れにくい塔を通して表したもののように感じます。塔の構造自体は、ビルの免震構造に似たものがあるので、倒れにくいのは不思議ではありません。当時の奇術、手品好きの住人や移住者の一部が始めたことに後付けの伝承がくっついたことが見た目の面妖さも相まって情報の錯綜に拍車をかけたのでしょう。しかし、きっかけはやはり戦や天災などの大禍があったと伺われます。それはそれとして、行政が本当かどうかわからない話、確定できない話を真に受けずに塔状の構造に塔の名をつける。そういう客観性は重要だと思います。
補足すると、塔は”構造物“として文化財指定された。塚は地域住民にとっての“場“として呼称された。ということだと思います。
須佐男と8と言えば八王子だけど牛頭天王というか八坂信仰でもしてたのかな
登録しました。今回はとても興味深く拝見しました。交通の手段がない遥か昔に、どうしてこの様な山奥に集落が作られたのだろうといつも思います。隠れるように暮らす事が必要だったのでしょうね。岡山市の管理になると、ちゃんと保存してくれるのか心もとないです。遥か昔の人々が石垣を積んだり塔をつくったりする姿を想像してみました。この動画が後の集落を知るよすがとなるかもしれませんね。寂しいことです。猫の神様がお二人を歓迎しているようでした。
またまたお邪魔します。大阪南部にある南河内に住むおばちゃんです。私の父方は新潟県佐渡市の出ですが(父の母方の筋)祖母が言うには佐渡には本間姓が多く今も能舞台の管理をされているということです。観阿弥が佐渡に流罪になったからか能がさかんだそうで祖母の父親も能面を沢山所有したため能面部屋があったと聞いております。私は二歳の時にそこに行ったことがあるらしく怖いと言いながら能面をずっと見ていたそうです。また父は村の祭りで能舞台にたったこともあるそうです。私の祖父母は残念ながら亡くなりましたがまだ佐渡市浦川には父親の叔母がいます。私も28歳の時に(既に難病を発病していたので歩ける間にと思って)祖母と訪れました。海岸が目の前にあり畑やお墓にお寺が段々にした山手の方にあり素敵な場所ですよ。
んー、修学旅行で京都奈良とか行くと寺社仏閣巡るのに何で塚じゃだめなんだろ?
旧額田町に母方の実家がある者です。確かに、歴史の交差点的なものがたくさんあるような気がします。八面塚に関して、単純に、素朴な、この辺りに住んでいた人の感覚から察すれば。祠が雨ざらしになってしまうのはかわいそうだから、屋根を付けてあげよう!屋根も、なんとなく、積み上げた方がいいかも! そんな感じじゃないかなって思いました。南朝との繋がりまでは、私は想像できませんが、奥平徳川・武田あたりの戦乱の時代、東三河には多くの武田側の落ち武者の集落も多くあります。平野や港を目指し戦い、敗れた落ち武者、この今回の地など、数万石の地を攻めて奪えなかった人たちが、ひとまず逃げ隠れるには悪くない場所だったような気がします。捲土重来を胸に秘めつつ、地域の文化と融合しながら、いつの日か、豊かな地域の包容力に、戦いとは違い、その地に根付いていくっていう選択もあった気がします。たぶん、この西三河と東三河の接合地点(ちょっと西三河より)、そこそこ温暖で、収穫量もあり、争わなくても、縄張りさえ出なければ、お互い平和に自分の家を存続できる豊かさが、この土地にあったんじゃないかなって思います。その穏やかさは、その地の言葉にも表れていると思います。弘法様は、私の出身高校の傍にも、弘法山という名前で残っています。
わたしはよくわかんないけど山城好きの友達と自然に埋もれた名もない城跡見にいくんですけど、なんかその感じに似てます。なんなのかわからない石造りのものが本丸跡にあるんですが、なんかそれに似ています。わりと石仏や荒神さんあるのもなんか似てるなあって思います。
平家、南朝、皇族、高僧が由来というものは後付けが多いですし文書は無く口伝もはっきりしないのは土着の信仰だったり古神道の系譜の物であるとか🤔塚全体の物それぞれの年代測定が出来たらいいのですがね
対馬のオソロシドコロと似ていますね。
天岩戸神社の石積みのよう😮一族の祭祀場かと信仰対象だと何がいけないんでしょうね 教育委員会は余計なことをしないで欲しい
板状の岩は 多分片麻岩でこの地方で多く産出するみたい時代は変わると思うけど孫左衛門ていう石積職人がいて 淡渕町男川やなの北側に孫左衛門の石垣とよばれる場所があります板状の岩をメインに使ったちょっと変わった石垣ですちかくの神明神社の石垣もすこし下流の片寄町橋を渡って南側 須佐之男神社も片麻岩の石垣石垣好きのお二人ぜひ見に行ってほしいな
南朝関係、落人など知られてはいけない何らかの理由があったのでしょうか。強い人たちに書き換えられてきた歴史とは別に物語があったのかもしれないですね。
安藤さん、岡安さんに教えていただければうれしいのですが。20:55「三河切越の兵藤」という記述が『吾妻鏡』にある、とのことですが、『吾妻鏡』のどのあたりにあるんでしょうか?『吾妻鏡人名索引』を見ても、「兵藤氏」は出てきません。ぜひ、この件についての情報をいただければありがたいのですが。*後三年の役(1083年)には、「兵藤正経」という武者が源義家の軍で戦功をあげ、それによって、三河国渥美郡一円を賜ったとのこと。そして子孫が代々この地を領して住んだという。*治承4年(1180年)には、「兵藤正経」から5代目に当たる「兵藤正識」(?)は、源頼政の軍にしたがい、平家と戦って戦死。*文治元年(1185年)あるいは寿永3年(1184年)には、「兵藤正識」の孫に当たる「兵藤正之」(?)が、源範頼の軍にしたがい、平家と戦って戦死。そして、子孫は、肥前国に移住したとのこと。*「三河切越の兵藤」氏とは、この渥美郡に居住した「兵藤正経」家の100年後の庶家(傍流)かもしれないのだが。*わたしが、『吾妻鏡』の治承4年、文治元年、寿永3年あたりの記述を、ざっと見たところでは、「三河切越の兵藤」も、また、「兵藤」すらも、見当たりません。ぜひ、情報を教えてください。
石が加工された年代とか測定出来ないんですかね。気になります!
やはり八つ墓村の影響大で落武者伝説ぽさを感じてしまいますし、何も伝承されなかった理由が何かありそうで…。にしても猫が全て持って行ってしまい、謎はどうでもよくなりますね😅
大きな古墳(大きすぎて現在は小高い山のようになってたり、山の一部になっているようなもの)とか、宮島や三輪山のように山そのものが信仰対象の場合裸足でお参りする方もいますよねとても興味深い動画で面白かったです!ありがとうございました
凄いですね〜😊本物を見に行きたいです♪Thank you for sure!
とうとうヒストリカも、心霊や都市伝説系RUclipsrのテイストに傾いて来たっぽい(笑)…と思いきや、お二人のほのぼのなやり取りはご健在で物々しくならないところが、とても良いです(´˘`๑)うんうん!
仏教系の祭壇説が濃厚な気がしました。岡山県赤磐市に熊山遺跡という仏教遺跡があるのですが、それと似たような雰囲気を感じました。形状もやっぱりストゥーパ感があります。
おじいちゃんの創作もあり得そう😸
住民の人と話しをしてるオカヤスくんが長回しで写ってるシーンて多いけど、いつも表情が心許なくて笑える。向いてなさそうこういうの😂
大和南部には、やたらと石層塔があり、バラエティ豊かだ。そのほとんどが「五、七、九、十三」の奇数重となる。そして梵字が彫られ、密教由来と判るのだが。この切越八面石塔は、お墓ではなさそう。配置法や石組構造、偶数層は確かにヘンテコだし。験者が仕掛けた呪術なら面白いかな。
「平地」の真ん中に大きな石があるのは、もしかしたら塔の中心の礎石?塔は不動点を作るために中心に一本の柱を最上層からぶら下げていました。その真下に大きな礎石が置かれていたと思います。・・・おぼつかない記憶ですが。
ナレーションはPCですよね?奥が深い
前回見終わってかわいい猫に全て持っていかれて猫の印象だけが強く残ってしまったので、改めてもう一度見させてもらいました。見終わって思ったのは真言宗という言葉、奥の院と言う言葉から導き出した答えは曼荼羅です。遠い昔にこの地に立体曼荼羅を作り信仰していたものが長い年月を経て崩れたり壊れたりした結果が今日のかたちではないかと言う結論が自分の中ではできました。
形や大きさがバラバラの石の集まりが作る、それでもある形や大きさの範囲?集積?が作るバラバラ感?統一感?・・・ここまでバラバラでも、ある範囲の石が集められているということ?それらが醸す雰囲気。
6メートルの円形台が基本、古墳ではと見ました。❤❤切越の名前から、岩を切り出していたのかと思います。
奈良の頭塔とか思い出した。
神様・この塔の裏あたりに神様を下ろす広場がある。その聖なる地と下界を隔てる結界の印しではないのかと思いました。たわいのない作り話ですが、、、、。
多分供養塔でしょうね。
全国に有る平家の落武者伝説!
三河派❤
25:24 興味深いこと言ったw (体制派=保守派)この戦後保守派めえぇー🐑(天皇陵を古墳と貶めて、発掘調査したがっている人々がいます。歴史解明が目的なのか、権威失墜が目的なのか、保守派の方々、お気をつけくださいませ)
楽しい動画、いつもありがとうございます。歴史的要素の動画もいいですね。また次も楽しみにしてます😊
何だこれミステリーに紹介されていましたが、その管理されている方もお父様や祖父母様もどんなものなのか分からないまま管理されていたと放送されていました📺
八つ墓村みたいやな!
こちらの動画に出てきた場所ではありませんが似たような造りの石を見た事があります。個人的には神仏混淆に見えました。市や教育委員会が塔に変えるとはどんな理由であれ自分達の都合の良いように改名して失礼な事をしていますね。教育とは改名された名前で教えることではないと思います。教育委員会の質が見えてきますね。
教育委員会の闇 だねー色んなとこで名前変えられてるよね。教育委員会闇ー😂
教育的に塚で良いんですよ!文化の破壊はここでも起きていますね(#^ω^)政府の人達も全てを破壊の方向へ持って行ってる現在、大事な番組ですね(笑)有難うございます。
塚は塚ですよね。宗教がどうのこうのではないと思う。八面塚でいいと思います(^^♪。
保守なら住民側ですよ。
本間家 うちは武士の家系で、本間です。
はじめのお二人のご婦人は、おいくつぐらいだろう?70歳くらいなら、わたしの同級生かもしれない。そこで生まれたというから、かなりの年輩のかただと思われるが。65歳くらいならば、同級生の妹さんたちかも。いや、「上の代のひとがいらっしゃる」ということは、このお二人は45歳くらいなのかな。「息子さんが私たちと同世代」ということは、やはり、45歳くらいなのか。ということは、まさに、わたしの同級生のお子さんたちかな。*「平家の落ち武者のお墓」。「祖母が裸足で上がってよくお参りしていた」。「八面さん、八つ神さんと呼んどった」。「神様」。*切越に9軒もあったのは、いつ頃までだろう。わたしの同級生は高校生のときぐらいに、すでに切越から離れたと記憶しているが。*岡﨑市史では、佐渡の国の住人、本間三郎左衛門尉平朝臣重行の系譜にまで遡らせている。順徳天皇の息女のお悩みが、陰陽博士の占いによれば、三河国菅生郷の白狐の祟りによるものであるから、[順徳天皇が(?)]本間重行を佐渡から三河国にのぼらせ、この妖狐を、本間重行に退治させた。―(A)この功績によって、本間重行は建保2年(1214)に三河国菅生郷を賜った。その後、順徳上皇が承久の乱(1221年)によって佐渡に配流され、本間重行も佐渡に帰国し、上皇を守護した。上皇は仁治三年(1242年)は崩御される。―(B)*上記の(A)の部分で、なぜ、わざわざ、佐渡の国にいる本間重行を、三河の国にのぼらせたかが、やや不自然な印象。これは、すでに佐渡の国司かその部下であった本間重行が、当時、京で順徳天皇の朝廷に仕えていたから、その本間重行に、京の朝廷から三河の国へ行くことを命じたのではなかろうか。つまり、佐渡の国から、ではなくて、京の朝廷から、三河の国へ行ったのではなかろうか。*上記の(B)の部分で、本間重行が佐渡に帰国したとしたら、その庶家(分家)が三河に残った、ということか。それならば、なぜ、その本間氏の庶家がわざわざ、切越に居住したのか?*わたしは、この岡﨑市史の説を参考にしつつ、むしろ地元の伝承をもとに、この謎の歴史を、ほかの時に再考したい。*ただ、いまのわたしの最も大きな関心は、切越のひとが、八面「塔」を、ほんとうは「八つ神さん」と呼び、「裸足になってお参りをしたいた」ということだ。「神」とは、本居宣長によれば、「人間には不可能なわざをする力をもつもの」である。だから、「神」は「人間以上のことをなした人間」であり、また「人間にはできないことをする自然物(狐やタヌキや雷や大樹や山など畏怖すべきものすべて)」である。「八つ神さん」とは、切越のひとにとって、「畏怖すべき人々、先祖」ではないかと思うのだが。
陰陽師にみてもらいたい
大変に興味深く拝聴しました。番組を観ながら感じたことをグダグダと…。調査には方位磁針を持参してください。できれば異なる方位磁針を2種類ほどです。配置図?それぞれの石塔の四面方位からの図。門柱らしい石柱の上部の括れはしめ縄を止める為でしょうか。積み上げられた石の多層化、意味深ですね。最上部に積み上げ石とは形状の異なる石塊が…、これの意味は判りましたでしょうか?下部の祠には祠と人型を思わせる彫像っぼいものがある。11又は16基ですか…。9月には"祀り"何処の教育委員会も時代の中にあってロクナ仕事はしませんね。由縁・伝承を内包する町村地区名称の保存に失敗していますし。郵便番号を蔓延らせたし…。「塚」のお話を直接拝聴できたのはラッキーでしたね!!■大宝年間が正しいのかも知れません。この時代の年代(古文書の記録にも混乱した年号があります)の混乱が記録されて居ますが…石塔を積み上げる考えたかに、河原の三途の考えとは異なり、指し示す創作者(製作者・発案者)の意志(示唆)が見て取れませんか。教育的観点から教育委員会ごときが勝手に名称・呼称等を変える…、最悪ですね。今に始まった事ではありませんが。そうですね、"八面塚"祠の中を見たことがありますか?私は小学生の時に、あの扉を開けたことがあます。その時は祠の左右に榊が奉じられていましたが…。祠の中には陶器の"白蛇"がドグロを巻き、蛇はこちら(トビラ方向)を向いて居ました。本件の祠の中、ご覧になりましたか?たとえば、仏像等や釈迦の遺物(骨)と言われるものは100%水晶(クリスタル)片です。これはその筋の確かな情報です。26:16ここに民俗学的なヒントが写り込んで居ます。言うならば、それは"一面塚"です。この組み合わが意識的であるかは判りませんが、結果として示唆すべきそれが構成させています。これらの基壇の下には、茶碗などの生活用具か人骨が隠れている可能性があります。骨はすでに消滅していると思います。かと言ってココを掘り返す訳にも…。観音と地蔵は深いですよ。特に地蔵には地蔵歌というのがあります。29:52 平らな石 =ナイスな発見綺麗に溝が刻まれて居ます。ほら、でかすから方位磁針が必要なのです。34:43 平らな石がバンをする画面の左に積まれてありますが。平家の落人話は村の数ほどありますが、その"愚説"の背景は何でしょうか?教育委員会に就職できると、人間が芯から腐ります。が経済的には愚民の"献金"で、老後も優雅な暮らしできます。36:55 確かに太いですね。左右にありますが、実際は横並びではない?風習でも文化でもありません。遺言または警告と言ったほうが近いと思います。北斗星のお話をされていたので、申し上げます。冒頭の"石の塔"は天体と関わりますが、教養では推し量れず・届きません。能舞台の平面構造は"北斗星"を模して居ます。能舞台で演じられ演目の「太郎なんとか…」は本件の石積みと間接的に関わります。南朝の…などは無関係です。創建に関係したかも知れませんが、それが判明しても大きな価値・意味はありません。大事なのはこれらが何を意味しているのかですからね。813年は時代モノです。空海を教養で理解しているとダメです。行き止まりです。41:40この建物は鐘楼のようですね。石仏(イシボトケ)と言われましたが、地蔵でもあると思います。空海はそこいらに出没しいます。伊豆の川床に"独鈷の湯"というのがありますが、これは空海が独鈷で突いたら温泉が出たと…。示唆に富んで居ますね。
八面塚に1票👍
おかやすさんアウトーw
石材に関しては、大きな石を割って加工したんだと思います。映像を見る限り山中に石材が豊富なのは間違いなさそうですしね。
古墳の守り人には青山さんという名を与えられていると聞いたことがあります。私の知っている青山さんはご本人曰く気が遠くなるほど古くから続いている家柄で、ご自宅近くの式内社にMy神社があり今でも毎日お参りしているそうです。日蓮上人が産気づいた妻女に安産祈願のご祈祷を行ってくださったことが文献に残っているそうです。ご本人は仰っていませんが、近くに古墳もあることから太古には古墳をお守りしていたのではないかと思っています。切越集落の青山さんもお墓の守り人で、もしかしたら石塔の近くに知られていない古墳があるのかなと想像しています。ロマンですね。
なるほど、「人間至る所に青山あり」の青山ですね。
私も古墳に一票。😊
勉強になります。
古墳の守り人の一族、青山氏という名を与えられていることがあるのですね。
代々主の墳墓を守り続ける一族。
全国の青山さんの中には今もお役目を果たしている方も結構ありそうですね。歴史のロマンです。
神社に意外にも日蓮上人がいらっしゃったのですね。日蓮宗の御本尊は天照大御神始め沢山の神様のお名前がありますので、意外でもないのかも知れませんが
日蓮聖人が馬をつないだという「駒つなぎの欅(ケヤキ)」というご霊跡が残っています。@@ichi6868
東京の青山霊園?の青山も関係あるのかな?青山イコール古墳とかお墓とか???単なる感想です
初めて、コメントします。登録はもうすでにしていましたが。
桜井寺は、私が育ったところです。同級生が、このお寺の息子でした。もう、半世紀以上昔ですが。空海の井戸も、知っていました。この桜井寺の井戸の水を飲むと頭が良くなるとかの話もありました。
でも、切越は、知らなかったです。貴重なお話、ありがとうございます。
ただ、今の桜井寺の住職は、私の幼い頃とは、変わってしまったとの話です。
これからも、いろいろな地域などの記事のアップを待っています。
もう一回感謝の気持ちを、込めて。「ありがとうございます」
楽しく拝見させてもらいました!
境目の時代を共に頑張っていきましょー
ご支援ありがとうございます!
埋もれた遺跡等を紹介しています若い人を見ていますと、徳の高い人達だなと感心致します。これからもよろしくね。
オカヤスさんが大地に根付いた姿は何とも微笑ましく、癒しです✨ケガしてなくて何よりです✨
市や教育委員会が勝手に名前を変えるってヤバイな。信仰や風習を勝手に書き換えるなんて許されることではない。
historicaさんの動画で後世に真実が残りますね。
何年に名前変更されたか、その時の教育委員長や市長は誰か調べれば、名前やメンバーがでますよね
議員さん達も名前は残っています。
今回も興味深い探索、ありがとうございました。元のかたちはなんであれ、集落の方々に守られ受け継がれてきたことは間違いないですね。山中にある石碑などは手入れしないと数年で藪に埋もれます・・・最後の護持者の方のお話を聞けたのは本当に貴重な記録だと思います。
21:20 税金で整備するので"お墓であってはならない"。この理屈で「塔」扱いに変わってしまったやつ、うちの地元にもあります(´・ω・`)
お墓っぽいやつが自治体の文化財指定を獲得させるときのあるあるなんだと思います(*_*)
砦や城は結局、"地権者が存在する"誰かの所有物""だし、税金で整備したら語弊が出る。なんだかなぁと思います。
33:19 どうかご安全に!
初めて見る八面塔の光景に荘厳さを感じ、釘付けになりました。僅か一軒しか存在しなかった青山家が集落に唯一残り、八面塔を守り継ぐ最後の一族になろうとしているのも感慨深い。
地元の人が昔から八面 『塚』 と言われていた所を教育の観点から…と教育委員会が八面 『塔』に名称変更とは驚きです。岡崎観光文化百選の8番目に登録されているので、行政で しっかり敬意を込めて管理していってほしいです。
歴史や文化が途絶えてしまう境目の時代に 『historica』 のアンドウさん、オカヤスさんの存在は大きいですね。応援してます♪
histricaのアンドウさん・オカヤスさんこんばんは~
この村で生まれ育った方と出会えお話聞けてよかったですね。
色々な説があってほんと不思議な石塔群ですね。
この石塔の周りでお祭りもされてたんですか~賑やかだったことでしょう。
台風でも倒れないって不思議ですよね。
拝見していて謎が謎を呼び起こしてしまう不思議な集落でした。
コメント書けなかったのですが1度電源落として再稼働させたら書けるようになりました。
ホッとしました。今回も素晴らしい取材配信ありがとうございました。
猫ちゃん可愛かったです。
今日君達のチャンネルを見て改めて思った事は人の生活により歴史が始まり、生活が終わった瞬間から生活の痕跡が「遺跡」に変化する事かな、悲しい事に日本の過疎地域が「歴史から遺跡」への道を辿っている事だね、今回もありがとう。
お疲れ様です。人が居なくなるとその土地の文化や伝承も消えていき、それをたどることも困難になってゆくということが解る回でした。何気なく通りすぎることを気負いもなく丁寧に拾って追ってゆくお二人の姿勢にいつも楽しませてもらっています。おやつタイム今回は何を召し上がれましたか?(笑)
いつも楽しみにしてます
ありがとうございます!
いつもありがとうございます!!
パッと見た瞬間、アンコールワットのプチバージョンみたいに見えちゃった😮
配信お疲れ様です。
八面塚、お墓説の方を支持したいな。今も管理をなさっている青山家のお父さんのお話しは感動的。八面塚と神社を今も守ってらっしゃるのですね。
もしこの先市の方に管理が移ったとしても、敬意をもって大切にしていただきたいですね。
岡崎市の教育委員会の八面塚を塔と変えた件、意味不明。
ほんとに謎の石塔ですね
29:53 なぜ溝の方角を調べないのだ?!
これは磐座信仰の痕跡かも。
陰陽石ぽい石の切れ目の方角知りたかったですねぇ
本当に
今回もとても楽しく拝見しました。謎が多いのは、やはり詳しく誰がどうしたこうしたという事を隠しておかければならない理由があったのだと思いました。もしそういう理由が無いなら、明確に名前をどこかに彫ったり、残そうとした形跡が絶対あると思います。本当に今回のヒストリカさんは素敵でした!有難う御座いました。そしてお疲れ様でした!
いったい何度の地震を経験してきたのですかねぇ
崩れないのが本当に不思議!
凄いなぁ
本当に凄いですよね最近では3•11の地震でもこちらでもかなり揺れたのに 集中豪雨や伊勢湾台風も乗り越えて令和の今でも崩れずにあり続ける
今回も大変興味深い動画ありがとうございます。
しかし、不思議ですね・・伝承が多すぎるから余計に謎が深まります。
なぜこれだけのものが存在するのに記録に残されたものが何もないのか・・
何かを祀る存在なのだろうとはおぼろげに感じますが・・
この平たい石は頁岩みたいに割ると薄い板状に割れるタイプの石がこのあたりで採れるのではないでしょうか。
毎度アンドウさんの関心の方向性に感心しています。次のアンテナはどちらの方向に向かうのかな、楽しみです😊
アンドウさん、オカヤスさん、こんばんは🌃
地元の方にお話を伺えて良かったですね。それにしても不思議な「塚」ですね。最初はお墓かな?と思いましたが、違うような気もします。色々想像するのも良いでしょうね。
今回も素晴らしかったですね〜!巨漢のオカヤスさん、セーフだと思います。猫!!かわいい。それと、ナレーションの女性の方、いつも素晴らしいなと思って聞いています。
たいへん興味深かったです。さまざまな説があり考えさせられますが、八面塚の『八』にヒントが隠されてる気がします。北斗七星の部分で思ったのは、陰陽道で方位の吉凶をつかさどる八神。牛頭天王(ごずてんのう)の八人の王子であり、牛頭天王は神仏習合でスサノヲとも解釈されるそうです。須佐之男神社があるので、八将神に繋がる印象を持ちました。石塔の位置関係、それから近くにあった人工的につくられた空間と中心にある石も、どことなく占いが行われていたような雰囲気がしました。石塔が崩れないのが不思議ですよね!
石垣島では義経と牛若丸の神輿があったと友達が言っていました。が…そんな彼女の旧姓は平…😅
歴史の歴に、止まるという字が使われていることも興味深いです。
塔❓塚❓混み混みであそこだけ。しかも地震で崩れない。本当に不思議なスポットですね。有難うございました🙏🏼
確かに、なぜ、林、に止まる、なんでしょうね。
ヒストリカさん等の活躍で歴史が後生に残りますね😊
住民の方の声も聴けましたし終生埋もれる運命にあった歴史を掘り起こした事は大変な功績ですし子孫がヒストリカさん等の功績を歴史として語るでしょうね😊
「塚」と「塔」の話は丁寧に市役所へ問い合わせて下さいね☺️
私が思うに恐らく司法に詳しい方が法律を加味し熟慮して判断されたと思いますよ☺️
「古墳」「墓地」の違いみたいに😮
全然場所が違いますけど、対馬の禁足地であったオソロシドコロもこのような平らな石を積み上げて作られた塚のようなものです。(墓という言い伝えですが)
最初の方に出て来たこの地生まれの女性が「靴を脱いで参拝していた」というようなことを言っていましたが、対馬のオソロシドコロも靴を脱いで参拝するようです。
おそらくこの塚は江戸の末期、あの祠が作られた頃に一度改修されているのでしょう。
その前はもしかしたら別の形であったのかも知れません。
37:39 良い考察(*゚∀゚)
(推定、ここに限らず、様々な場所でお大人の事情で南北朝の南朝方に与するものを取り入れていった、という事情があるのではないかと思っています。)
ドルメン(支石墓)みたいですねー
岡山の楯築弥生墳丘墓遺跡みたい。
う〜〜ん 面白くて、ためになった…
オカヤスさん、ご安全に!笑
八面塚は謎が多いからこそ、人それぞれ色んな解釈ができて面白いですねえ
しかし猫の神かわいい〜😺❤
ギョベクリ・テペのミニチュアに見えてくるのは、私だけでしょうか(笑)😮
公的な形でも保存管理続けて欲しいですね。
いやあ〜、面白かったです。やはり塚と呼んでほしいですね。どう見てもお墓のような気がします。今回の動画は「これぞhistorica」という感じたっぷりで、ほのぼのと視聴できました。これからも、なかなか私たちが入り込めないような山中をどんどんご紹介ください。
最後に。。。オカヤスさん、、、地質調査には見えませんでした^^;。完全に「アウト」です😆。
石の板は大きな岩を割ったものだと思います。この地の岩は平に割れやすい材質なのではないかと予想します。
石塔は長い歴史の中では崩れたのではないかと思います。1800年代に再建されたという伝承からすると南海トラフの大地震に遭っていないのではないかと思います。
桜井寺の横は水子供養でしょうか?
2:52
千と千尋の序盤みたい
8:07 石積みは人の身長的な高さで五臓六腑を五層六層で現した、ご先祖さまの立ち姿そのものかも。戦後、日本人の文化伝承は某超大国の政治的な意向でわざとナイガシロにされてきており、、、無念。だからこそ、まことにタイムリーな良いチャンネルです。
こんばんは🌙😃❗
いつも楽しみにしています😊
八面塚の下の広いスペースにあった、直線に切れ目の入った石は、古代の儀式にでも使われてた様な🤔…感じに見えました。
須佐之男神社も気になります。
岡安さん🤣怪我をする前に足腰鍛えて下さ~い🏃♀️🔥💨
旧集落の文化伝統口伝を発掘され保存発信されてたことは
遠い昔日に守られるべきものであったと今現在心ある人々に思われています。
こんにちはそしてお疲れ様でした、面白い話がいっぱいでしたが最後に猫に全部持っていかれました😅名前なんて言うんだろうな?なんて…ただ今回の動画を見ながらいわれも起源も忘れ去られてただ大事なものとして守り続けられてきた、そんな場所や物がこの国には沢山あるんだろうなと思いました。そしてやがて村や集落が途絶えてそれ自体も歴史の闇に消えて行く…悲しいですね。
いつもありがとうございます。
石の積み方、滋賀県で見た石垣に似ていたような・・・
もしかしたら穴太衆が仕事を請け負ったかもしれませんね😊
はじめてのコメントです。こういった事を出来るなら自分でも調べたいとずっと思っていますが、なかなか出来ることではないですよね。。
わたしも参加したいと思えるようなとても興味のあるチャンネルです。
是非ともいろんな地域のヒストリーを見せてください!!
楽しみにしています。
愛知県西三河の岡崎は、古くから墓石作りが盛んな地域です。花崗岩が豊富で、その加工も盛んです。
個人的に見た感じが和歌山、高野山の昔の時代のお墓に似てると思いました。古い時代の大きなお墓がこんな風でした。
山梨に白旗神社とゆう似た構造のものがありますね
兵藤・・・・。一件だけ知ってる。豊橋にいた。本間はゴルフクラブのイメージが強く多くいたような。
八面塚がもしお墓だったら八つ墓だし、この地域に二大勢力が存在していたことも合わせると横溝作品を
彷彿とさせますね。まあ血なまぐさい歴史があったなどという雰囲気は感じられませんでしたが。
鎌倉時代から本間家や兵藤家の名前が伝承されているとすれば、平安時代からの藤原繋がり(藤の文字が入った苗字➞遠藤・近藤・内藤・兵藤など)かもしれないですよね。愛知県で兵藤? 兵藤ゆきさんは愛知県かな?
五重塔も耐震構造になっているし、先人たちは耐震の知恵があったかのようですね。
関係ないですが「桜井寺」って「サプライズ」に語呂が似ていますね。
historicaさんの動画を見ていると、日本政府は森林環境税を使って
とっととこの杉の森を伐採してくれっていつも思います。
花粉症対策としても、廃村がかつての景観を取り戻すという意味でも。
田舎では大禍にちなんだ風習や伝承がよく言われます。
今回の“塔”はそういった抗い難い大きな災いにどうにかして抗いたい住人たちの意思を倒れにくい塔を通して表したもののように感じます。
塔の構造自体は、ビルの免震構造に似たものがあるので、倒れにくいのは不思議ではありません。
当時の奇術、手品好きの住人や移住者の一部が始めたことに後付けの伝承がくっついたことが見た目の面妖さも相まって情報の錯綜に拍車をかけたのでしょう。
しかし、きっかけはやはり戦や天災などの大禍があったと伺われます。
それはそれとして、行政が本当かどうかわからない話、確定できない話を真に受けずに塔状の構造に塔の名をつける。
そういう客観性は重要だと思います。
補足すると、塔は”構造物“として文化財指定された。
塚は地域住民にとっての“場“として呼称された。
ということだと思います。
須佐男と8と言えば八王子だけど牛頭天王というか八坂信仰でもしてたのかな
登録しました。今回はとても興味深く拝見しました。交通の手段がない遥か昔に、どうしてこの様な山奥に集落が作られたのだろうといつも思います。隠れるように暮らす事が必要だったのでしょうね。岡山市の管理になると、ちゃんと保存してくれるのか心もとないです。遥か昔の人々が石垣を積んだり塔をつくったりする姿を想像してみました。この動画が後の集落を知るよすがとなるかもしれませんね。寂しいことです。猫の神様がお二人を歓迎しているようでした。
またまたお邪魔します。大阪南部にある南河内に住むおばちゃんです。私の父方は新潟県佐渡市の出ですが(父の母方の筋)祖母が言うには佐渡には本間姓が多く今も能舞台の管理をされているということです。観阿弥が佐渡に流罪になったからか能がさかんだそうで祖母の父親も能面を沢山所有したため能面部屋があったと聞いております。私は二歳の時にそこに行ったことがあるらしく怖いと言いながら能面をずっと見ていたそうです。また父は村の祭りで能舞台にたったこともあるそうです。私の祖父母は残念ながら亡くなりましたがまだ佐渡市浦川には父親の叔母がいます。私も28歳の時に(既に難病を発病していたので歩ける間にと思って)祖母と訪れました。海岸が目の前にあり畑やお墓にお寺が段々にした山手の方にあり素敵な場所ですよ。
んー、修学旅行で京都奈良とか行くと寺社仏閣巡るのに何で塚じゃだめなんだろ?
旧額田町に母方の実家がある者です。
確かに、歴史の交差点的なものがたくさんあるような気がします。
八面塚に関して、単純に、素朴な、この辺りに住んでいた人の感覚から察すれば。
祠が雨ざらしになってしまうのはかわいそうだから、屋根を付けてあげよう!
屋根も、なんとなく、積み上げた方がいいかも! そんな感じじゃないかなって思いました。
南朝との繋がりまでは、私は想像できませんが、奥平徳川・武田あたりの戦乱の時代、東三河には多くの武田側の落ち武者の集落も多くあります。
平野や港を目指し戦い、敗れた落ち武者、この今回の地など、数万石の地を攻めて奪えなかった人たちが、ひとまず逃げ隠れるには悪くない場所だったような気がします。
捲土重来を胸に秘めつつ、地域の文化と融合しながら、いつの日か、豊かな地域の包容力に、戦いとは違い、その地に根付いていくっていう選択もあった気がします。
たぶん、この西三河と東三河の接合地点(ちょっと西三河より)、そこそこ温暖で、収穫量もあり、争わなくても、縄張りさえ出なければ、お互い平和に自分の家を存続できる豊かさが、この土地にあったんじゃないかなって思います。
その穏やかさは、その地の言葉にも表れていると思います。
弘法様は、私の出身高校の傍にも、弘法山という名前で残っています。
わたしはよくわかんないけど山城好きの友達と自然に埋もれた名もない城跡見にいくんですけど、なんかその感じに似てます。なんなのかわからない石造りのものが本丸跡にあるんですが、なんかそれに似ています。わりと石仏や荒神さんあるのもなんか似てるなあって思います。
平家、南朝、皇族、高僧が由来というものは後付けが多いですし文書は無く口伝もはっきりしないのは土着の信仰だったり古神道の系譜の物であるとか🤔
塚全体の物それぞれの年代測定が出来たらいいのですがね
対馬のオソロシドコロと似ていますね。
天岩戸神社の石積みのよう😮
一族の祭祀場かと
信仰対象だと何がいけないんでしょうね 教育委員会は余計なことをしないで欲しい
板状の岩は 多分片麻岩でこの地方で多く産出するみたい
時代は変わると思うけど孫左衛門ていう石積職人がいて 淡渕町男川やなの北側に孫左衛門の石垣とよばれる場所があります
板状の岩をメインに使ったちょっと変わった石垣です
ちかくの神明神社の石垣も
すこし下流の片寄町橋を渡って南側 須佐之男神社も片麻岩の石垣
石垣好きのお二人ぜひ見に行ってほしいな
南朝関係、落人など知られてはいけない何らかの理由があったのでしょうか。
強い人たちに書き換えられてきた歴史とは別に物語があったのかもしれないですね。
安藤さん、岡安さんに教えていただければうれしいのですが。
20:55「三河切越の兵藤」という記述が『吾妻鏡』にある、とのことですが、『吾妻鏡』のどのあたりにあるんでしょうか?
『吾妻鏡人名索引』を見ても、「兵藤氏」は出てきません。
ぜひ、この件についての情報をいただければありがたいのですが。
*
後三年の役(1083年)には、「兵藤正経」という武者が源義家の軍で戦功をあげ、それによって、三河国渥美郡一円を賜ったとのこと。そして子孫が代々この地を領して住んだという。
*
治承4年(1180年)には、「兵藤正経」から5代目に当たる「兵藤正識」(?)は、源頼政の軍にしたがい、平家と戦って戦死。
*
文治元年(1185年)あるいは寿永3年(1184年)には、「兵藤正識」の孫に当たる「兵藤正之」(?)が、源範頼の軍にしたがい、平家と戦って戦死。
そして、子孫は、肥前国に移住したとのこと。
*
「三河切越の兵藤」氏とは、この渥美郡に居住した「兵藤正経」家の100年後の庶家(傍流)かもしれないのだが。
*
わたしが、『吾妻鏡』の治承4年、文治元年、寿永3年あたりの記述を、ざっと見たところでは、「三河切越の兵藤」も、また、「兵藤」すらも、見当たりません。
ぜひ、情報を教えてください。
石が加工された年代とか測定出来ないんですかね。
気になります!
やはり八つ墓村の影響大で落武者伝説ぽさを感じてしまいますし、何も伝承されなかった理由が何かありそうで…。にしても猫が全て持って行ってしまい、謎はどうでもよくなりますね😅
大きな古墳(大きすぎて現在は小高い山のようになってたり、山の一部になっているようなもの)とか、宮島や三輪山のように山そのものが信仰対象の場合裸足でお参りする方もいますよね
とても興味深い動画で面白かったです!ありがとうございました
凄いですね〜😊
本物を見に行きたいです♪
Thank you for sure!
とうとうヒストリカも、心霊や都市伝説系RUclipsrのテイストに傾いて来たっぽい(笑)…と思いきや、お二人のほのぼのなやり取りはご健在で物々しくならないところが、とても良いです(´˘`๑)うんうん!
仏教系の祭壇説が濃厚な気がしました。岡山県赤磐市に熊山遺跡という仏教遺跡があるのですが、それと似たような雰囲気を感じました。形状もやっぱりストゥーパ感があります。
おじいちゃんの創作もあり得そう😸
住民の人と話しをしてるオカヤスくんが長回しで写ってるシーンて多いけど、いつも表情が心許なくて笑える。向いてなさそうこういうの😂
大和南部には、やたらと石層塔があり、バラエティ豊かだ。そのほとんどが「五、七、九、十三」の奇数重となる。そして梵字が彫られ、密教由来と判るのだが。この切越八面石塔は、お墓ではなさそう。配置法や石組構造、偶数層は確かにヘンテコだし。験者が仕掛けた呪術なら面白いかな。
「平地」の真ん中に大きな石があるのは、もしかしたら塔の中心の礎石?塔は不動点を作るために中心に一本の柱を最上層からぶら下げていました。その真下に大きな礎石が置かれていたと思います。・・・おぼつかない記憶ですが。
ナレーションはPCですよね?
奥が深い
前回見終わってかわいい猫に全て持っていかれて猫の印象だけが強く残ってしまったので、改めてもう一度見させてもらいました。見終わって思ったのは真言宗という言葉、奥の院と言う言葉から導き出した答えは曼荼羅です。遠い昔にこの地に立体曼荼羅を作り信仰していたものが長い年月を経て崩れたり壊れたりした結果が今日のかたちではないかと言う結論が自分の中ではできました。
形や大きさがバラバラの石の集まりが作る、それでもある形や大きさの範囲?集積?が作るバラバラ感?統一感?・・・ここまでバラバラでも、ある範囲の石が集められているということ?それらが醸す雰囲気。
6メートルの円形台が基本、古墳ではと見ました。❤❤切越の名前から、岩を切り出していたのかと思います。
奈良の頭塔とか思い出した。
神様・この塔の裏あたりに神様を下ろす広場がある。その聖なる地と下界を隔てる結界の印しではないのかと思いました。
たわいのない作り話ですが、、、、。
多分供養塔でしょうね。
全国に有る平家の落武者伝説!
三河派❤
25:24 興味深いこと言ったw (体制派=保守派)
この戦後保守派めえぇー🐑
(天皇陵を古墳と貶めて、発掘調査したがっている人々がいます。歴史解明が目的なのか、権威失墜が目的なのか、保守派の方々、お気をつけくださいませ)
楽しい動画、いつもありがとうございます。歴史的要素の動画もいいですね。また次も楽しみにしてます😊
何だこれミステリーに紹介されていましたが、その管理されている方もお父様や祖父母様もどんなものなのか分からないまま管理されていたと放送されていました📺
八つ墓村みたいやな!
こちらの動画に出てきた場所ではありませんが似たような造りの石を見た事があります。
個人的には神仏混淆に見えました。
市や教育委員会が塔に変えるとはどんな理由で
あれ自分達の都合の良いように改名して失礼な事をしていますね。
教育とは改名された名前で教えることではないと思います。
教育委員会の質が見えてきますね。
教育委員会の闇 だねー色んなとこで名前変えられてるよね。教育委員会闇ー😂
教育的に塚で良いんですよ!文化の破壊はここでも起きていますね(#^ω^)
政府の人達も全てを破壊の方向へ持って行ってる現在、大事な番組ですね(笑)
有難うございます。
塚は塚ですよね。宗教がどうのこうのではないと思う。八面塚でいいと思います(^^♪。
保守なら住民側ですよ。
本間家 うちは武士の家系で、本間です。
はじめのお二人のご婦人は、おいくつぐらいだろう?
70歳くらいなら、わたしの同級生かもしれない。そこで生まれたというから、かなりの年輩のかただと思われるが。65歳くらいならば、同級生の妹さんたちかも。
いや、「上の代のひとがいらっしゃる」ということは、このお二人は45歳くらいなのかな。「息子さんが私たちと同世代」ということは、やはり、45歳くらいなのか。
ということは、まさに、わたしの同級生のお子さんたちかな。
*
「平家の落ち武者のお墓」。
「祖母が裸足で上がってよくお参りしていた」。
「八面さん、八つ神さんと呼んどった」。
「神様」。
*
切越に9軒もあったのは、いつ頃までだろう。
わたしの同級生は高校生のときぐらいに、すでに切越から離れたと記憶しているが。
*
岡﨑市史では、佐渡の国の住人、本間三郎左衛門尉平朝臣重行の系譜にまで遡らせている。
順徳天皇の息女のお悩みが、陰陽博士の占いによれば、三河国菅生郷の白狐の祟りによるものであるから、[順徳天皇が(?)]本間重行を佐渡から三河国にのぼらせ、この妖狐を、本間重行に退治させた。―(A)
この功績によって、本間重行は建保2年(1214)に三河国菅生郷を賜った。
その後、順徳上皇が承久の乱(1221年)によって佐渡に配流され、本間重行も佐渡に帰国し、上皇を守護した。上皇は仁治三年(1242年)は崩御される。―(B)
*
上記の(A)の部分で、なぜ、わざわざ、佐渡の国にいる本間重行を、三河の国にのぼらせたかが、やや不自然な印象。
これは、すでに佐渡の国司かその部下であった本間重行が、当時、京で順徳天皇の朝廷に仕えていたから、その本間重行に、京の朝廷から三河の国へ行くことを命じたのではなかろうか。つまり、佐渡の国から、ではなくて、京の朝廷から、三河の国へ行ったのではなかろうか。
*
上記の(B)の部分で、本間重行が佐渡に帰国したとしたら、その庶家(分家)が三河に残った、ということか。
それならば、なぜ、その本間氏の庶家がわざわざ、切越に居住したのか?
*
わたしは、この岡﨑市史の説を参考にしつつ、むしろ地元の伝承をもとに、この謎の歴史を、ほかの時に再考したい。
*
ただ、いまのわたしの最も大きな関心は、切越のひとが、八面「塔」を、ほんとうは「八つ神さん」と呼び、「裸足になってお参りをしたいた」ということだ。
「神」とは、本居宣長によれば、「人間には不可能なわざをする力をもつもの」である。だから、「神」は「人間以上のことをなした人間」であり、また「人間にはできないことをする自然物(狐やタヌキや雷や大樹や山など畏怖すべきものすべて)」である。
「八つ神さん」とは、切越のひとにとって、「畏怖すべき人々、先祖」ではないかと思うのだが。
陰陽師にみてもらいたい
大変に興味深く拝聴しました。
番組を観ながら感じたことをグダグダと…。
調査には方位磁針を持参してください。できれば異なる方位磁針を2種類ほどです。
配置図?
それぞれの石塔の四面方位からの図。
門柱らしい石柱の上部の括れはしめ縄を止める為でしょうか。
積み上げられた石の多層化、意味深ですね。
最上部に積み上げ石とは形状の異なる石塊が…、これの意味は判りましたでしょうか?
下部の祠には祠と人型を思わせる彫像っぼいものがある。
11又は16基ですか…。9月には"祀り"
何処の教育委員会も時代の中にあってロクナ仕事はしませんね。由縁・伝承を内包する町村地区名称の保存に失敗していますし。郵便番号を蔓延らせたし…。
「塚」のお話を直接拝聴できたのはラッキーでしたね!!
■大宝年間が正しいのかも知れません。この時代の年代(古文書の記録にも混乱した年号があります)の混乱が記録されて居ますが…
石塔を積み上げる考えたかに、河原の三途の考えとは異なり、指し示す創作者(製作者・発案者)の意志(示唆)が見て取れませんか。
教育的観点から教育委員会ごときが勝手に名称・呼称等を変える…、最悪ですね。今に始まった事ではありませんが。
そうですね、"八面塚"
祠の中を見たことがありますか?
私は小学生の時に、あの扉を開けたことがあます。その時は祠の左右に榊が奉じられていましたが…。
祠の中には陶器の"白蛇"がドグロを巻き、蛇はこちら(トビラ方向)を向いて居ました。
本件の祠の中、ご覧になりましたか?
たとえば、仏像等や釈迦の遺物(骨)と言われるものは100%水晶(クリスタル)片です。これはその筋の確かな情報です。
26:16
ここに民俗学的なヒントが写り込んで居ます。言うならば、それは"一面塚"です。この組み合わが意識的であるかは判りませんが、結果として示唆すべきそれが構成させています。これらの基壇の下には、茶碗などの生活用具か人骨が隠れている可能性があります。骨はすでに消滅していると思います。かと言ってココを掘り返す訳にも…。
観音と地蔵は深いですよ。特に地蔵には地蔵歌というのがあります。
29:52 平らな石 =ナイスな発見
綺麗に溝が刻まれて居ます。ほら、でかすから方位磁針が必要なのです。
34:43 平らな石がバンをする画面の左に積まれてありますが。
平家の落人話は村の数ほどありますが、その"愚説"の背景は何でしょうか?
教育委員会に就職できると、人間が芯から腐ります。が経済的には愚民の"献金"で、老後も優雅な暮らしできます。
36:55 確かに太いですね。左右にありますが、実際は横並びではない?
風習でも文化でもありません。遺言または警告と言ったほうが近いと思います。
北斗星のお話をされていたので、申し上げます。冒頭の"石の塔"は天体と関わりますが、教養では推し量れず・届きません。
能舞台の平面構造は"北斗星"を模して居ます。能舞台で演じられ演目の「太郎なんとか…」は本件の石積みと間接的に関わります。南朝の…などは無関係です。創建に関係したかも知れませんが、それが判明しても大きな価値・意味はありません。大事なのはこれらが何を意味しているのかですからね。
813年は時代モノです。空海を教養で理解しているとダメです。行き止まりです。
41:40
この建物は鐘楼のようですね。石仏(イシボトケ)と言われましたが、地蔵でもあると思います。空海はそこいらに出没しいます。伊豆の川床に"独鈷の湯"というのがありますが、これは空海が独鈷で突いたら温泉が出たと…。示唆に富んで居ますね。
八面塚に1票👍
おかやすさんアウトーw
石材に関しては、大きな石を割って加工したんだと思います。映像を見る限り山中に石材が豊富なのは間違いなさそうですしね。