【悲運】関羽、張飛の3人の息子の生涯と謎!孔明も涙!三国志解説

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  • Опубликовано: 29 сен 2024
  • 蜀を支えた関羽と張飛。そんな二人の息子、関平、関興、張苞。親譲りの武勇を発揮し、大活躍をしました。孔明の元、才能を開花したした3人の息子たちの物語を紹介しましす。
    中国創成期、三国志の世界をお楽しみください。
    ■出演
    ・春来
    三国志が大好き過ぎて、一念発起し、RUclipsで三国志の語り部として活動することを決意。「一人でも多くの皆さんに三国志の世界を楽しんもらう!」も目標にがんばります。スタートしたばかりのチャンネルですので、暖かい目でご覧頂けるとありがたいです。コメントやいいねを頂けると励みになります。誤りや補足もコメントでご指摘頂けると助かります。
    #歴史,#三国志,#張飛

Комментарии • 58

  • @ハービンジャー-w5j
    @ハービンジャー-w5j Год назад +2

    張苞は早死しているから、関興とのコンビは演技の創作
    関興は馬良の後釜ポジションで武将というより参謀系だったかも
    関索は創作かつ三國志のラノベ主人公
    関羽の家計は蜀が滅亡した際に龐徳の息子に根絶やしにされたとされているが娘が生き延びた説あり。
    張飛の家計は次男が劉禅に従い生き延びたし張飛の娘は劉禅の嫁かつ張飛の嫁が夏侯氏の出と
    関羽と張飛、後々差がつく

  • @shionsan2000
    @shionsan2000 Год назад +1

    泣いて張達を切る
    張飛の妻は夏侯家の人だが、花を摘んでいる所を見掛けて連れ去って嫁にしたとか、普通にただの人攫いの下衆エピソードなんだよなぁ。

  • @cocotv-short-or-long
    @cocotv-short-or-long 2 года назад +5

    なぜ関興を除外したの?

    • @本間修-n1c
      @本間修-n1c Год назад

      それを言ったら張紹もです。張飛の子供なのに文官肌で蜀滅亡後は劉禅に従って洛陽に随行した。2人の息子の中で1番活躍した(?)であろう人なのに。

  • @匿名希望-d6r
    @匿名希望-d6r Год назад +1

    張飛の孫(張遵)は黄権の息子(黃崇)と一緒に蜀と共に殉じたとか…。張飛の次男張紹は蜀滅亡後オヤジ譲りの大声で咆哮したとある。関羽の孫は早死なったり龐徳の子龐会によって蜀滅亡の混乱に乗じて関羽の子孫を皆殺しにされたとあるけど一説には(関羽の孫)関彜の庶子が難を逃れたともあった

  • @sangokushich
    @sangokushich  2 года назад +5

    ご視聴、ありがとうございます。英雄二人の息子について解説させて頂きました。
    皆さんは、関平、関索、関興、張苞、どの武将がお気に入りですか??どれも魅力があり、登場すると心躍りますね。
    登録者数も少ない弱小チャンネルを多くの方が見て頂き本当に嬉しいです。皆さんが楽しんで頂けるように動画作りを頑張ります。
    とりえず最後の再見(サイチェン)を恥ずかしがらずにいえるように頑張ります。

    • @孝貴
      @孝貴 2 года назад

      張 紹が気になる人物ですね。政治家だったらしく父親とは違う、武勇での活躍ではないとこが気になってます

    • @yugureyamanaka2730
      @yugureyamanaka2730 2 года назад

      張紹は、阿斗柏の話が中国では有名ですね。劉備が蜀を占領した直後に、瓦口関から遠くは閬中までを守備範囲にしていた張飛は、軍道でもある駅道を使って頻繁に兵馬の移動をしていたが、夏の暑さや冬の寒さが身に堪え、病気になる兵が後を絶たなかった。(この当時は、劉備は曹操から漢中を、まだ奪ってはいない。)
      このため、張飛は、別の場所にいた諸葛亮に対策を求めた。諸葛亮の返書には「医学書には、四季気の変化(春温・夏熱・秋涼・冬寒)に対応を怠らないようにし、疾病の予防をしなければならないと記されています。これは兵法にも通じるため、平時より様々な要因への備えを怠らないようにしなければならないのです」と書かれていた。
      張飛は張紹や街人たちと防暑防寒のために、街外れの山林に秦の時代から茂る柏の移植林案を協議して事業を押し進めた。
      時代が流れて、蜀滅亡時に、張紹は魏に投降した劉禅に付き従い、魏の鄧艾の下に降る途上で、劉禅と共に、張飛の植えた「古柏」の下で雨を凌いだ。張紹は柏並樹を見て、父譲りの大声で雷鳴の如く感涙を流し、この並樹を守らせるため植林を手伝った街人たちに、柏街道を守る組織を作らせ護衛させた。また劉禅が雨を凌いだ古柏を『阿斗柏(あとはく)』と名付け、そこにいた全ての文官武官や街人たちの胸を感動させたという。 現在、翠雲廊の北段の入口に張紹の像が建っており、古柏の碑文(父、張飛植林の柏街道で感涙に噎ぶ)が刻まれ、劉禅・張飛・張紹らの思いが偲ばれる。今日でも古柏が鬱蒼と生い繁り、静寂な駅道が断続的に続き、樹齢千年を超す古柏の樹も珍しくない。当時から愛され続け、明の時代までに植林された柏は、8000本にも及ぶといわれている。

  • @あじのひらき-q5c
    @あじのひらき-q5c 2 года назад +5

    関索のハーレムエピソードも聞きたかったw

  • @yak6024
    @yak6024 2 года назад +4

    関平は横山三國志のアニメでは、オヤジと呼び慕っていました。

  • @智広川上-g9v
    @智広川上-g9v Год назад +2

    張飛の子は張苞だけではない。
    張紹に二人の娘がいる。
    二人の娘は劉禅の妃になっている。
    妻が夏候淵の族妹のため、夏候覇が蜀に降ってきたのはその伝手を頼ったためだ。

  • @バルボア-n5k
    @バルボア-n5k 2 года назад +5

    いつも面白いですよ*\(^o^)/*

  • @ドラゴンズ大好き-y5x
    @ドラゴンズ大好き-y5x Год назад +5

    関興は、関羽を殺した呉の馬忠などを討ち取って父の仇を討ちました。張苞も父張飛の仇、ハンキョウ、張達を撃ち取りました。二人とも若くして亡くなったのが残念です。

  • @ティンパオ
    @ティンパオ Год назад +1

    拙者、春来公の志に惚れて、いつの間に幕下にいるてぃんぱおというもの。
    荊州四国志の筆者でもあります。。
    関平殿もそばにおり、なんと周倉殿も立っているとの話があります・・・。ぼそぼそ。
    ついでに申し上げますと、関索殿の夫人はあの孟獲と祝融の娘、花まんであるとのうわさがあります。
    え、すでにご存じであられたか!?ひ、ひーお命だけはゆるされよー!

  • @男北里
    @男北里 Год назад +1

    全然関係ないかもだけど三国無双に関銀屏っていう関羽の娘がいたような…

  • @大石こずえ-f9s
    @大石こずえ-f9s 2 года назад +2

    面白い動画に出会えて大変、嬉しく思います😆今後も、三国志につぃて、深掘りして頂きたいですね

  • @獅子の瞳-d2p
    @獅子の瞳-d2p 2 года назад +2

    水滸伝は関勝の事。⁉️
    (KOEIのゲームで関羽の末裔としてにいた・・・)

    • @hiki-md9ky
      @hiki-md9ky 2 года назад +1

      そうですね。関羽の末裔で偃月青龍刀を持ってましたね‼️因みに病関索という異名もいましたね。楊雄だったかな。

  • @tomoyaokano1081
    @tomoyaokano1081 Год назад

    関羽の息子にはもっと活躍してほしかったと思う趙雲の息子も同じだか。父の輝きが強すぎる。

  • @村山真樹
    @村山真樹 2 года назад +7

    関平と言えば、蒼天航路の(お仕えしよう。私の宝だ!)が泣ける!

  • @user-tg5su8gp5u
    @user-tg5su8gp5u Год назад +1

    関勝「おれは?」

  • @紅玉-e3l
    @紅玉-e3l 2 года назад +5

    あらま💦 なら ゲームの三國志の ちょうほうの能力は強すぎだなぁ 統率、武力 80ぐらい いつもあるもんなぁ💦 史実にあわせれば おおめにみて60ぐらいあればいいほうかぁ( ̄▽ ̄;)

  • @muradon8150
    @muradon8150 Год назад +1

    孫権の妹が劉備の妻。
    夏候淵の姪が張飛の妻。
    夏候淵の妻は曹操の嫁の妹。
    張飛の孫が劉禅の妃。
    三国志って、壮大な内輪もめ・・・!?ww

    • @正木茂雄
      @正木茂雄 3 месяца назад

      親戚は仲良くしないと‥😅

  • @ストラマさん
    @ストラマさん 2 года назад +4

    一部資料によると関平は呂布と趙雲の子供という噂も

    • @柳谷慈彦
      @柳谷慈彦 2 года назад +5

      それってその二人のどちらかが女性じゃないとそうなりませんよね?まるで女性説がある日本の戦国武将の上杉謙信みたいな話ですな。

  • @toshichika720
    @toshichika720 2 года назад

    張苞

  • @ooamisannmu7690
    @ooamisannmu7690 2 года назад +2

    張飛の娘の方が面白いよ

  • @spacy1257
    @spacy1257 2 года назад +2

    関羽の子供たちは実子ではなく、養子が多かったんだな?

    • @紅玉-e3l
      @紅玉-e3l 2 года назад

      演義では関平は養子。 関興、関策は実子 史実では関平、関興は実子 関策は架空の人かな( ̄▽ ̄;)

  • @arisiasan
    @arisiasan Год назад +1

    確か関平は養子入りじゃなかった?

  • @山田太郎-i7z8u
    @山田太郎-i7z8u 2 года назад +2

    関平はゲーム等の能力が低い。
    関羽とほぼ一緒に旅して武力90くらいはあるだろう。

    • @神宮寺茂登子
      @神宮寺茂登子 Год назад

      っていうか龐徳と徐晃とすら互角の一騎打ちを演じてるぞ関平

  • @yugureyamanaka2730
    @yugureyamanaka2730 2 года назад +3

    リクエストで、曹操を苦しめた甘寧の活躍と、甘寧の子孫の悲しい結末(甘寧の曾孫である甘卓(かん たく)の最期を、お願いします。
    孫権は「曹操には張遼がおり、余には甘寧がいる。これでちょうど釣り合いが取れているのだ。」と、語っていました。
    甘 卓(かん たく)は、呉に仕えていましたが、呉が西暦280年に滅亡すると自宅に蟄居していました。しかし、中国を統一した司馬炎の時代にも、再び司馬氏が支配する新王朝の西晋に出仕するように、しつこく勧誘されたので嫌々ながら出仕しています。その後、司馬氏が身内で争う『八王の乱』が発生すると、危険察知能力の高い甘卓(かん たく)は、官職を捨てて、出身地の南方の呉に帰国しました。しかし異民族に中国の中心部を奪われた、司馬氏の一族である「司馬睿」が滅亡した元の呉の領土に移住してきて、亡命政権の東晋王朝を建国すると、甘卓はその部下となって、前鋒都督・揚威将軍・歴陽国内史に任じられました。ややこしいのは、東晋王朝では、北方から移住してきた人間も多くて、元々南方にいた人間たちと協力関係が上手に機能していなかったことです。西暦316年に異民族の激しい、攻撃で、西晋の最後の皇帝が捕まえられて拉致されると西晋は滅亡した。翌年の西暦317に、呉の領土だった南方で司馬睿(しばえい)が正式に即位して、西晋の意思を引き継ぐ継承国として東晋王朝が建国されました。東晋王朝は、建国されると、すぐに何度も内部での反乱が起きています。(西暦322年)に、大将軍の王敦が反乱を起こすと、王敦は、司馬睿(しばえい)の側近や重臣を殺害しました。甘寧の曾孫である甘卓(かん たく)は、王敦(おうとん)の勢力の大きさにびびっていました。その為に、数人の部下の忠言や諫言のアドバイスも無視してしまい悲惨な最期を迎えました。さかのぼると西暦322年)、王敦が武昌という都市で起兵するにあたって、使者を派遣して甘卓に反乱に協力するように知らせた。甘卓は心ならずも、恐怖心から反乱に同意の返事をしたが、王敦が船で東下するにあたっても、全然、反乱軍に合流しようとせず、部下であった「孫双」を武昌に派遣して王敦を説得させ、反乱を取りやめさせようとした。王敦は「孫双」の言葉を聞いて、甘卓が前言(約束)を破った(ひるがえした)ことに驚き、皇帝の側近の「劉隗」らを排除する起兵の大義を強調して、反乱の成功後には「甘卓」を出世させて身分も公の爵位にまですると約束した。孫双が甘卓の本拠地の襄陽に帰って、王敦(おうとん)の返事を甘卓に報告すると、甘卓は迷いに迷い、逡巡して決断を下せなかった。その後に、いつまでたっても、甘卓がやって来ないことから、それを憂慮した王敦が部下の「楽道融」を甘卓のもとに派遣した。しかし「楽道融」は王敦の意に反して、甘卓に東晋王朝の皇帝の本体の官軍と協力して、挟み撃ち作戦で王敦の背後を襲うよう説得した。そこで甘卓はようやく王敦を討つことを決断し、名将の「陶侃」(とう かん)らとも連絡を取った。
    こうして、甘卓は、反乱軍の王敦(おうとん)討伐を決定はしたが、甘卓は軍を少し進めると停止させて、なおも思い悩んでしまった。そして、それ以上は兵を前進させようとしなかった。驚いた王敦は、挟み撃ちになることを恐れて、甘卓の兄の子の「甘仰」を派遣して講和を求めさせた。甘卓の進軍が遅滞しているうちに、王敦は、皇帝の命令を受けた官軍の主力を撃破してしまう。そして、皇帝が信頼していた忠臣の「周顗」や「戴淵」らを殺害した。皇帝軍の敗北を知った甘卓は本拠地の襄陽に帰還することとした。そして、これに、反対する部下の「秦康」の帰還に反対の意見を聞き入れなかった。(無視した)また、それから、本拠地に帰還後も、物騒だから警備を固めるよう主張する家臣の「何無忌」や「栄建固」の意見も退けた。反乱に勝利した王敦(おうとん)は、裏切った甘卓の殺害を計画します。そして、命令を受けた「周慮」らが王敦の意を受けて甘卓を襲撃して、甘卓は寝ている寝所で殺害されました。その首は王敦のもとに送られました。甘卓の息子で四男の散騎郎甘蕃らもまた殺害されました。。王敦は、皇帝軍の重要拠点である「石頭城」を守備していた皇帝軍の「周札」を裏切らせて反乱軍に引き入れることに成功して、皇帝軍を破り、大勝利を収めています。事態を重く見た「司馬睿」(即位後は元帝と名乗っていた)は、王敦に対し共に天下を治めていくことを誓約して和議を願った。反乱軍の王敦もこれに応じて、最高権力者の丞相に上りつめた。そして、自分にとって邪魔な、戴淵・周顗・甘卓ら敵対した者たちに無実の罪をかぶせて謀反人として殺害した。同年の内に、心身疲労で元帝が崩御し、息子の皇太子が明帝として即位した。名将の「陶侃」(とう かん)は、甘卓が軍隊を途中で引き返したので上手に連携が出来ませんでした。しかし、それが運命の分かれ道となって、王敦からは刺客が送られることはなくて命拾いしました。大悪人の王敦の1回目の謀反は、丞相という地位を得ることで成功しました。しかし、王敦は、皇帝の地位が欲しくて、数年後に2度目の謀反を起こして失敗しました。
    極悪人の王敦の死んだ後には、名将の「陶侃」(とう かん)が、東晋王朝を支えることになります。太寧3年(325年)に、「陶侃」は、、荊州刺史に転任しました。陶侃は荊州統治において、社会秩序の安定と農業生産の発展を重視した。王敦の乱平定後に、荊州は大飢饉となり、庶民の多くは餓死した。陶侃は秋の収穫の時期に米を買い込み、凶作になると値引きして売り出して民を救済した。官民は大いに悦び、みな彼に頼って命を繋いだ。羊祜・劉弘も荊州統治時代は農耕の発展に努めて大いに人心を得ていた。陶侃が大いに慕われたのは、彼らの影響も大きかった。その他にも、地盤の強化に努め、需要の増加に応じて荊州は大いに発展を遂げた。 「陶侃」(とう かん)は、東晋初期を代表する名将であり、多くの戦いで勝利を重ねて武廟六十四将にも選出されている。

    • @yugureyamanaka2730
      @yugureyamanaka2730 2 года назад +1

      補足になりますが、油断して異民族に中国の中心部を奪われた、三国志の勝者の司馬一族の生き残りが、南方に逃れて建国したのが東晋です。元帝(げんてい)が、東晋の初代皇帝です。即位前の名前は司馬睿(しばえい)です。家系図では、司馬懿の第四子の琅邪武王「司馬伷」(しば ちゅう)の孫になります。司馬伷の長男が司馬 覲(しば きん)です。彼は(283年)に父が急死したために王位を継承する。この際に父の遺命に従って3名の弟に領土を分封してそれぞれを王とした。冗従僕射に任命されるが、太熙元年(290年)に35歳で急逝した。長男の司馬睿が後を継いだ。 長男の司馬睿は司馬覲の死後まもなく勃発した八王の乱・永嘉の乱により西晋王朝が身内同士で殺し合いながら混乱すると、それを避けて南方に逃れ、西晋王朝の崩壊後に自ら皇帝に即位した。それを(東晋の元帝)といいます。

    • @yugureyamanaka2730
      @yugureyamanaka2730 2 года назад +1

      前述した劉 隗(りゅう かい)は、東晋の初代皇帝の司馬睿(しばえい)の側近でした。劉隗(りゅう かい)は司馬睿と同じ時期に南方に渡りました。戦乱を避けて長江を渡り、東晋王朝では従事中郎になった。間もなくして昇進して侍中に抜擢された。 そして、さらに、御史中丞(ぎょしちゅうじょう)に昇進した。御史中丞は刺史や太守よりも官品が上である。
      御史中丞は、刺史を督察し、侍御史を統領した。公卿の朝廷に対する上奏を受領し、内容を調べて、嘘や間違いがあれば弾劾した。劉 隗(りゅう かい)は、西暦321年に、大都市の武昌で不穏な動きを見せている王敦(おうとん)の謀反に対する備えのために、皇帝の勅命で再び軍隊を直接指揮する鎮北将軍として、重要拠点の淮陰に駐屯した。
      皇帝の仕打ちに激怒した王敦はついに322年、「劉隗・刁協ら君主の傍らにいる佞臣を誅せん」という大義名分で武昌で謀反を起こした。この報に驚愕した司馬睿(しばえい)即位後の名前は元帝は、直ちに劉隗と刁協を呼び戻して、都の防衛を命じた。だが王敦率いる大軍に敵わず敗退し、劉隗と刁協は逃亡したが、刁協は部下に殺され、その首級は王敦に差し出された。一方の、劉隗は子の劉綏とともに北方の異民族が建国した後趙国の「石勒」を頼って、無事に逃亡した。
      ●●刁 協(ちょう きょう、没年は 322年)は、東晋時代の政治家です。前述したように皇帝の側近でした。若くして司馬睿(後の元帝)の側近として仕えた。匈奴・鮮卑など北方異民族の南下で中原が戦乱に陥ると(永嘉の乱)、司馬睿とともに江南に難を逃れ、その幕僚として活躍する。大興元年(318年)、司馬睿が皇帝に即位し東晋を建国すると、刁協は尚書左僕射に任命され、朝廷の典章制度の制定に携わった。大興初年に尚書令に昇進し、数年後に紫金光禄大夫を加えられた。元帝は即位すると、王導・王敦ら琅邪王氏の勢力が強大になりすぎたことを警戒し、刁協・劉隗を側近として親任し、王氏の勢力を削ぐことを画策した。刁協は奴隷を解放して近衛兵を組織するなど、皇帝権力の強化を進めようとした。しかし刁協は傲慢な性格で、上司に媚び部下に厳しい態度で接し、さらに酒に酔ってほしいままに振る舞うことがあったという。このため朝廷での刁協への反発は激しいものがあった。永昌元年(322年)、大将軍として大軍を指揮しながら武昌にいた王敦は、劉隗・刁協ら君側の奸を打倒するという名目で謀反を起こした。元帝は、刁協に六軍(皇帝直属の軍)を率いて迎撃することを命じたが、王敦率いる大軍に大敗した。劉隗と刁協は、彼らの身を案じた元帝の意を受け、都の建康を脱出した。だが、刁協は逃亡する途中で、部下によって殺害され、その首級は王敦に差し出された。

    • @yugureyamanaka2730
      @yugureyamanaka2730 2 года назад +1

      前述した「戴淵」(たいえん)は、若き少年時代は三国志の呉国の家臣でした。陸遜の孫の陸機との運命的な友情物語のエピソードが残されています。「戴淵」(たいえん)は、若い頃は遊侠を好んで、品行にこだわらなかった。西暦280年の呉の滅亡後に、陸機が、西晋の都の洛陽に赴く際に、戴淵(たいえん)は仲間とともに陸機の船を襲撃した。戴淵は岸に登り、あぐらをかいて集団を指図した。その指揮はみな的確であった。陸機はこれを見て感心して、小船の屋上に上がり、「卿の才器はかくの如し。すなわちまた劫(こう)をなすか」と叫んだ。戴淵は感激して剣を投げ捨て、陸機と語り合い、交友するようになった。 劫(こう)は仏教などインド哲学の用語で、極めて長い宇宙論的な時間の単位です。 この場合の陸機は、戴淵(たいえん)に対して、君は、悪ふざけをしているけど、歴史に名前を残すつもりはないのかい?と、問いかけた感じになります。

    • @taro-wk2hy
      @taro-wk2hy 2 года назад +2

      そんなに詳しいならリクエストする必要無いじゃん(笑)

    • @yugureyamanaka2730
      @yugureyamanaka2730 2 года назад

      @@taro-wk2hy さん、僕は、三国志の英雄の孫や曾孫が、全部どうなったか知りたいのですが、戦乱で資料が少ないのが残念だと思っているのです。特に、司馬一族が内部分裂で殺し合っている時に、やばいなと思って南方に逃げた甘卓(かん たく)は、逃げたことで、歴史に足跡が残りました。今回のコメントは、三国志と、東晋との関係リンク動画が少ないので、
      理解しやすい甘卓(かん たく)を、ヒントにして、そういう動画が増えていただければと思ってコメントしました。
      あっ、それから自分は、動画作成能力は高くありません。もっと多くの東晋の動画を見たいと思っています。

  • @香川島-h1y
    @香川島-h1y 4 месяца назад

    おいオバサン高い声だなぁ、前置きが長い😅