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国鉄民営化直前の20系客車だったころ、この「だいせん」に乗って、出雲市まで行ったなぁ✨あの当時、篠山口と福知山駅で、深夜にも関わらず、駅弁売りのオッチャンがデッキまで売りに来てたなぁ😃🍱❗篠山口では当時僅か5分くらいの停車時間なのに昔ながらの立ち売りで、「弁当~❗弁当~❗飯の旨い弁当や~‼️🍱」ってオッチャンがデッキ近くまで売りに来ておられた…☺️そして福知山では、確か20分ほどの停車時間だったので、今では考えられないがホーム上にリヤカーに弁当を山積みにしたオッチャン数人が売っておられたなぁ✨‼️(当時の福知山駅の名物だった)だいせんは、国鉄民営化なる5、6年くらい前までは、出雲市から廃止になった旧国鉄大社線にそのまま乗り入れて、大社駅までが終着駅だった。(出雲大社参拝の便宜のためだろうが旧大社駅から出雲大社まではあまりにも離れ過ぎていた)更に、夜行以外にも、昼間の大阪⇔出雲市間を走るキハ58・28のだいせんもあり、国鉄末期までが「だいせん」の最盛期だったと思う✨
1号車・スハフ12-3005、こちらの同型が奥出雲おろち号として今も走っているのですね…。赤いDD51牽引の客車列車は、かつての山陰の象徴という感じがするし、半音高いセレナーデも初めてです!!
やっぱりこの車両のお仲間でしたか。そして、この時代の山陰の主ですねDD51は。ハイケンスのオリジナルはこんな感じだったかなと思います!
余計な事で失礼しました。ども多分鉄道愛好家は雰囲気も重視する人が大半だと思います。極端に説明すれば音楽はなくとも列車音等で旅行したり色々な気分を味わってると思います。全国全員とはいいませんが、色々な感情味う人がいるので少なくともそんな風情を楽しむ人かいると解釈して頂ければ幸いです。偉そうに言えないですが私なら全国の人を楽しむ事が出来るように心掛けます。
ありがとうございます。今後の参考にさせていただきます。
急行だいせん懐かしいの一20系だいせんに乗るのが憧れていました。
連投失礼します。だいせんって、大阪車掌区でしたかね?朝の報道の車掌さんの声、以前日本海で聞いた方とそっくりです。若い分、少し張りがあるような?^^
列車の受け持ち担当には私、詳しくないのです。動画をご覧になっている方でご存じの方はいらっしゃいませんか?
こんにちは🌝私一度だけ急行だいせんで往復したことがあります。行きは座席車で当時はボックスシート車だったので全然寝れないまま松江まで乗って、近鉄の2610系のボックスシートよりは全然広いなと感激していたが如何せん満員なので横になれなかったので修行でした。😅帰りは出雲市駅から寝台を手配しました。上段で3段式なので着替えができなかったですね。途中で起きて頭をうちました。😅寝起きなので家のベットから起きる要領でおきたので思いっ切り頭をうちました。3段式は危険です。😅それ以降は3段式寝台に乗ったことがないです。
親父の田舎が島根で、ガキの頃、出雲まで行って、そこから乗り換えて浜田に行ってました。30年前位の話ですが、懐かしく感じました。あの固い客車で、一度も寝台を使った事もなく、、、。非常に良い、貴重な映像を見させて頂きありがとうございます
人気にて増える営業には審査にて黒字列車創作に四十万人よりファン様には、機関車型牽引客車と定期型?寝台列車増設は団体型車輌連結を製造に専門型?新規機関車型。
素晴らしいですね!私と同じような事を40年近く前からされていて、敬意を表します。^^(前から後ろまで舐める様に全部撮るw)ホームで見送りの若者は、大阪・名古屋・東京へ向かう同僚、同級生の見送りでしょうか?私もそういうのを少しだけ経験できましたが、とにかく明るい、万歳三唱のケース、惜別感漂う涙涙のケース。ドラマですね・・・。でも、もう一つ悲しいのは、この明るく元気な若手の方々も、既に還暦近いのでは?という衝撃の事実。達者で居て欲しいですね。14系14型の寝台車というのも貴重だと思います。早々に15型になってしまいましたからね。
恐れ入ります。見送りは時期がGW前なので、少し遅い就職か転勤でしょうかね。高校出たてなら50代、転勤の方ならそれ以上の世代なんでしょうね、今は。
1993年4月。2浪が決まったころの時代を思い出します。ちょうど横浜駅19時頃、予備校の講義が終わり帰宅するときに寝台特急の時刻表が駅に表示されていました。このままこの電車に乗って九州にでも旅に出たいと何度思ったことか・・・懐かしいです。
父がよくこれで遠征したと言ってましたがこんな感じなんですね
ありがとうございます。夜汽車の雰囲気がしっかり味わえた列車でした。
スハフの音がたまらない。
20系急行だいせん 自由席の無いオール20系編成時代に乗車してます、オルゴールはハイセンスでは無く気動車と同じで強く印象に残ってます、半自動扉(折戸)で完全に閉めないとロックせず走行中でも開ける事が可能でした、車掌は巡回で完全に閉じて無い扉を押してロックをしてましたが一見完全に閉まっている様に見える絶妙な位置にして車掌の車内巡回後に開けてた事を思い出してます。
16:48 わーい!ファミリーランドだ!
言われてみて初めて気が付きました。宝塚駅を出発して阪急宝塚線の下をくぐったら見えてくる、この場所だったのですね!
当時販売されていた「北近畿ワイド周遊券」を使うと自由席が宿代わりに使えました。当時は夜行折り返しも平気でした。そんなわけで寝台は使ったことはないですが。
コメントありがとうございます。夜行折返し、タフですね☺
😮😅😅😅😅😅
1986年1月、出雲市から大阪まで乗車しました。自由席が満席で奮発して指定席に、ナハ211両貸切状態でした。ロネ譲りのシートはフカフカで熟睡出来たのを覚えています。
コメントありがとうございます。だいせんの20系座席、そういえばA寝台プルマン寝台改造のボックスシートがありましたね!いい思い出ですねぇ。羨ましいです!!
昔乗りました、倉吉-米子間は、快速だったと、思います、そのあとは、急行として運行していました、車両は、短い編成で、2両か、3両だったと、記憶しています、
コメントありがとうございます。2、3両の時もあったのですね。
晩年は、廃止になったエーデルやリゾートのキハ65が、2、3両デフォで走るのが定番で、日によって、元鳥取や北近畿、そして丹後にリゾートと、余剰車両を使っていて車種が固定化されてなかった。「乗る人は勝手に乗ってください…」って言わんばかりの放置プレイ運用だった。
親父と田舎から大阪に行く時に、頼んで乗ったことがある。あと、京都から田舎に帰る時は山陰号。子供だったからあの寝台でもちょうどよかった。懐かしい映像ありがとうございます。しかし、よくこんな綺麗に残っていましたね。
コメントありがとうございます。山陰号はベッド幅52cmでも、子どもにはちょうど良さそうですね。映像元のテープは、物置に置いて保管してましたが意外にちゃんと残ってました。むしろ再生する機械の方が壊れやすかったりします(汗)
なんか出発時のチャイム、音楽を含め癒されました。昔の大阪駅も懐かしい。ありがとうございます😊
電子音ではない機械式オルゴールのハイケンス、最高です。
ちょうど30年前、中学2年の年末に同じ鉄道オタクのクラスメイトと一緒に12系座席車に大阪駅から乗車しました。懐かしい編成ですね。当時は12系もボックス席で、餘部鉄橋見たさにずっと起きていたが、やっぱり中学生の身には眠すぎて気持ち悪かったです。ただ、鳥取県に入る頃、「あと、もう少し。」という気持ちがあり、起きて我慢しましたね。夜行座席車、中学生にとって苦行でした。でも、良い思い出ではなかろうか⁉
コメントありがとうございます。いい思い出は、いつまでも色褪せずに残りますね☺️
高架前の出雲市駅が懐かしいです。出雲市ー倉吉は上下とも快速で、早朝の通勤通学に便利でした。金曜日の仕事終わりにB寝台に寝っ転がって、翌朝には大阪に着けるのでとても便利でした。動画は3段寝台ですが、のちに14系15形の2段寝台になりました。
こんにちは。気軽に乗れて大阪に朝着ける便利さは、代え難い列車でしたね。
12系はリクライニングシートに換装されてた時代ですね。
コメントありがとうございます。動画を見直しました。座席にカバーが付いているのでリクライニングシートになっていますね。
3段寝台だと着替えるのが大変そうですね^^
腰を屈めないと無理ですね😅更衣室もあったと思いますが。
全盛期の九州ブルトレもさくらやみずほは3段寝台でしたね!
そうですね、ずっと前の九州ブルトレも3段寝台でした。動画を撮る前の頃に1度だけさくらに乗りました(^^)
@@misato1990s 羨ましいです!!さくらと言えば65pfに食堂車付きの編成じゃないと!車両を新製するお金がなかったのか個室無しのモノクラスっぽい編成でしたね( ^_^ ;)
@@sintetu 貫通扉に特急色の65pfいいですね^^カルテットの4人個室だけでモノクラスっぽいのは残念でしたね、さくらは。
@@misato1990s 確かに(´・ω・`)豪華な個室を作る余裕がなかったのでは?
@@sintetu そうですね。国鉄末期で予算を回して貰えなかったんでしょうね💦
この大阪駅懐かしいね 昭和61年1月「雷鳥」をこの駅で見た覚えがある クハ481の0番代(シールドビームではない大目玉の前照灯のボンネット)が雄々しく新潟目指して出発して行ったわ
コメントありがとうございます。ボンネットの雷鳥、懐かしいですね☺️
11:09 普通城崎行!?てことは大阪発ってことかな。平成に入ってもそんな渋い普通があったんだ。笑映像見てたら93年ってすごい前に思えるけど、宝塚の手前で207系っぽいのとすれ違ったり、高架化された阪急宝塚駅があったり、そういうのを見ると変な感じというか時代の変わり目みたいなのを感じました🙂
コメントありがとうございます。大阪から城崎までの普通だとしたら結構長い距離の列車ですね。93年はそろそろJRの新しい223系とか281系が出る直前で新旧入れ替わりのカオスな頃かもしれませんね。
国鉄末期の城崎電化の際に全国からかき集めた485系や113系がばりばり活躍していた時代ですね。急行だいせんは米子と福知山で機関車交換していて、米子では停車中に給水をしていました。
余計なBGMは必要ない、雰囲気を損なうだけ
貴重なご意見ありがとうございます。当時の雰囲気は、(全編に渡って)そのままの音で視聴する方が、より味わい深いですよね。いろいろ他の方の動画を見て、私もそう思うことがあります。
国鉄民営化直前の20系客車だったころ、
この「だいせん」に乗って、出雲市まで行ったなぁ✨
あの当時、篠山口と福知山駅で、深夜にも関わらず、駅弁売りのオッチャンがデッキまで売りに来てたなぁ😃🍱❗
篠山口では当時僅か5分くらいの停車時間なのに昔ながらの立ち売りで、「弁当~❗弁当~❗飯の旨い弁当や~‼️🍱」ってオッチャンがデッキ近くまで売りに来ておられた…☺️
そして福知山では、確か20分ほどの停車時間だったので、今では考えられないがホーム上にリヤカーに弁当を山積みにしたオッチャン数人が売っておられたなぁ✨‼️
(当時の福知山駅の名物だった)
だいせんは、国鉄民営化なる5、6年くらい前までは、出雲市から廃止になった旧国鉄大社線にそのまま乗り入れて、大社駅までが終着駅だった。
(出雲大社参拝の便宜のためだろうが旧大社駅から出雲大社まではあまりにも離れ過ぎていた)
更に、夜行以外にも、昼間の大阪⇔出雲市間を走るキハ58・28のだいせんもあり、国鉄末期までが「だいせん」の最盛期だったと思う✨
1号車・スハフ12-3005、こちらの同型が奥出雲おろち号として今も走っているのですね…。
赤いDD51牽引の客車列車は、かつての山陰の象徴という感じがするし、半音高いセレナーデも初めてです!!
やっぱりこの車両のお仲間でしたか。そして、この時代の山陰の主ですねDD51は。
ハイケンスのオリジナルはこんな感じだったかなと思います!
余計な事で失礼しました。ども多分鉄道愛好家は雰囲気も重視する人が大半だと思います。極端に説明すれば音楽はなくとも列車音等で旅行したり色々な気分を味わってると思います。全国全員とはいいませんが、色々な感情味う人がいるので少なくともそんな風情を楽しむ人かいると解釈して頂ければ幸いです。偉そうに言えないですが私なら全国の人を楽しむ事が出来るように心掛けます。
ありがとうございます。
今後の参考にさせていただきます。
急行だいせん懐かしいの一20系だいせんに乗るのが憧れていました。
連投失礼します。
だいせんって、大阪車掌区でしたかね?
朝の報道の車掌さんの声、以前日本海で聞いた方とそっくりです。
若い分、少し張りがあるような?^^
列車の受け持ち担当には私、詳しくないのです。
動画をご覧になっている方でご存じの方はいらっしゃいませんか?
こんにちは🌝
私一度だけ急行だいせんで往復したことがあります。
行きは座席車で当時はボックスシート車だったので全然寝れないまま松江まで乗って、近鉄の2610系のボックスシートよりは全然広いなと感激していたが如何せん満員なので横になれなかったので修行でした。😅
帰りは出雲市駅から寝台を手配しました。
上段で3段式なので着替えができなかったですね。
途中で起きて頭をうちました。😅
寝起きなので家のベットから起きる要領でおきたので思いっ切り頭をうちました。
3段式は危険です。😅
それ以降は3段式寝台に乗ったことがないです。
親父の田舎が島根で、ガキの頃、出雲まで行って、そこから乗り換えて浜田に行ってました。30年前位の話ですが、懐かしく感じました。あの固い客車で、一度も寝台を使った事もなく、、、。非常に良い、貴重な映像を見させて頂きありがとうございます
人気にて増える営業には審査にて黒字列車創作に四十万人よりファン様には、機関車型牽引客車と定期型?寝台列車増設は団体型車輌連結を製造に専門型?新規機関車型。
素晴らしいですね!私と同じような事を40年近く前からされていて、敬意を表します。^^(前から後ろまで舐める様に全部撮るw)
ホームで見送りの若者は、大阪・名古屋・東京へ向かう同僚、同級生の見送りでしょうか?
私もそういうのを少しだけ経験できましたが、とにかく明るい、万歳三唱のケース、惜別感漂う涙涙のケース。ドラマですね・・・。
でも、もう一つ悲しいのは、この明るく元気な若手の方々も、既に還暦近いのでは?という衝撃の事実。達者で居て欲しいですね。
14系14型の寝台車というのも貴重だと思います。早々に15型になってしまいましたからね。
恐れ入ります。
見送りは時期がGW前なので、少し遅い就職か転勤でしょうかね。
高校出たてなら50代、転勤の方ならそれ以上の世代なんでしょうね、今は。
1993年4月。2浪が決まったころの時代を思い出します。
ちょうど横浜駅19時頃、予備校の講義が終わり帰宅するときに寝台特急の時刻表が駅に表示されていました。
このままこの電車に乗って九州にでも旅に出たいと何度思ったことか・・・
懐かしいです。
父がよくこれで遠征したと言ってましたがこんな感じなんですね
ありがとうございます。夜汽車の雰囲気がしっかり味わえた列車でした。
スハフの音がたまらない。
20系急行だいせん 自由席の無い
オール20系編成時代に乗車してます、オルゴールはハイセンスでは無く気動車と同じで強く印象に残ってます、半自動扉(折戸)で完全に閉めないとロックせず走行中でも開ける事が可能でした、車掌は巡回で完全に閉じて無い扉を押してロックをしてましたが一見完全に閉まっている様に見える絶妙な位置にして車掌の車内巡回後に開けてた事を思い出してます。
16:48 わーい!ファミリーランドだ!
言われてみて初めて気が付きました。
宝塚駅を出発して阪急宝塚線の下をくぐったら見えてくる、この場所だったのですね!
当時販売されていた「北近畿ワイド周遊券」を使うと自由席が宿代わりに使えました。当時は夜行折り返しも平気でした。そんなわけで寝台は使ったことはないですが。
コメントありがとうございます。
夜行折返し、タフですね☺
😮😅😅😅😅😅
1986年1月、出雲市から大阪まで乗車しました。自由席が満席で
奮発して指定席に、ナハ211両貸切状態でした。ロネ譲りの
シートはフカフカで熟睡出来たのを覚えています。
コメントありがとうございます。
だいせんの20系座席、そういえばA寝台プルマン寝台改造のボックスシートがありましたね!
いい思い出ですねぇ。羨ましいです!!
昔乗りました、倉吉-米子間は、快速だったと、思います、そのあとは、急行として運行していました、車両は、短い編成で、2両か、3両だったと、記憶しています、
コメントありがとうございます。
2、3両の時もあったのですね。
晩年は、廃止になったエーデルやリゾートのキハ65が、2、3両デフォで走るのが定番で、日によって、元鳥取や北近畿、そして丹後にリゾートと、余剰車両を使っていて車種が固定化されてなかった。
「乗る人は勝手に乗ってください…」って言わんばかりの放置プレイ運用だった。
親父と田舎から大阪に行く時に、頼んで乗ったことがある。あと、京都から田舎に帰る時は山陰号。子供だったからあの寝台でもちょうどよかった。懐かしい映像ありがとうございます。しかし、よくこんな綺麗に残っていましたね。
コメントありがとうございます。
山陰号はベッド幅52cmでも、子どもにはちょうど良さそうですね。
映像元のテープは、物置に置いて保管してましたが意外にちゃんと残ってました。むしろ再生する機械の方が壊れやすかったりします(汗)
なんか出発時のチャイム、音楽を含め癒されました。昔の大阪駅も懐かしい。ありがとうございます😊
電子音ではない機械式オルゴールのハイケンス、最高です。
ちょうど30年前、中学2年の年末に同じ鉄道オタクのクラスメイトと一緒に12系座席車に大阪駅から乗車しました。懐かしい編成ですね。当時は12系もボックス席で、餘部鉄橋見たさにずっと起きていたが、やっぱり中学生の身には眠すぎて気持ち悪かったです。ただ、鳥取県に入る頃、「あと、もう少し。」という気持ちがあり、起きて我慢しましたね。夜行座席車、中学生にとって苦行でした。でも、良い思い出ではなかろうか⁉
コメントありがとうございます。
いい思い出は、いつまでも色褪せずに残りますね☺️
高架前の出雲市駅が懐かしいです。出雲市ー倉吉は上下とも快速で、早朝の通勤通学に便利でした。金曜日の仕事終わりにB寝台に寝っ転がって、翌朝には大阪に着けるのでとても便利でした。動画は3段寝台ですが、のちに14系15形の2段寝台になりました。
こんにちは。気軽に乗れて大阪に朝着ける便利さは、代え難い列車でしたね。
人気にて増える営業には審査にて黒字列車創作に四十万人よりファン様には、機関車型牽引客車と定期型?寝台列車増設は団体型車輌連結を製造に専門型?新規機関車型。
12系はリクライニングシートに換装されてた時代ですね。
コメントありがとうございます。
動画を見直しました。座席にカバーが付いているのでリクライニングシートになっていますね。
3段寝台だと着替えるのが大変そうですね^^
腰を屈めないと無理ですね😅
更衣室もあったと思いますが。
人気にて増える営業には審査にて黒字列車創作に四十万人よりファン様には、機関車型牽引客車と定期型?寝台列車増設は団体型車輌連結を製造に専門型?新規機関車型。
全盛期の九州ブルトレもさくらやみずほは3段寝台でしたね!
そうですね、ずっと前の九州ブルトレも3段寝台でした。
動画を撮る前の頃に1度だけさくらに乗りました(^^)
@@misato1990s 羨ましいです!!さくらと言えば65pfに食堂車付きの編成じゃないと!車両を新製するお金がなかったのか個室無しのモノクラスっぽい編成でしたね( ^_^ ;)
@@sintetu 貫通扉に特急色の65pfいいですね^^
カルテットの4人個室だけでモノクラスっぽいのは残念でしたね、さくらは。
@@misato1990s 確かに(´・ω・`)豪華な個室を作る余裕がなかったのでは?
@@sintetu そうですね。国鉄末期で予算を回して貰えなかったんでしょうね💦
この大阪駅懐かしいね 昭和61年1月「雷鳥」をこの駅で見た覚えがある クハ481の0番代(シールドビームではない大目玉の前照灯のボンネット)が雄々しく新潟目指して出発して行ったわ
コメントありがとうございます。
ボンネットの雷鳥、懐かしいですね☺️
11:09 普通城崎行!?てことは大阪発ってことかな。平成に入ってもそんな渋い普通があったんだ。笑
映像見てたら93年ってすごい前に思えるけど、宝塚の手前で207系っぽいのとすれ違ったり、高架化された阪急宝塚駅があったり、そういうのを見ると変な感じというか時代の変わり目みたいなのを感じました🙂
コメントありがとうございます。
大阪から城崎までの普通だとしたら結構長い距離の列車ですね。
93年はそろそろJRの新しい223系とか281系が出る直前で新旧入れ替わりのカオスな頃かもしれませんね。
国鉄末期の城崎電化の際に全国からかき集めた485系や113系がばりばり活躍していた時代ですね。
急行だいせんは米子と福知山で機関車交換していて、米子では停車中に給水をしていました。
余計なBGMは必要ない、雰囲気を損なうだけ
貴重なご意見ありがとうございます。
当時の雰囲気は、(全編に渡って)そのままの音で視聴する方が、より味わい深いですよね。
いろいろ他の方の動画を見て、私もそう思うことがあります。