使徒の宣教28「エルサレム会議」(後編)使
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- Опубликовано: 12 дек 2024
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富山県 高岡市福岡町西川原島51-2
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***説教のエッセンス***
① 聞く耳が備えられた会衆
ペテロの説教が終わると、全会衆は静かになった (12)。彼らは、かつてと同じように(11:18)、神の恵みの前に沈黙した。神の恵みは、人々を黙らせる。そして、神のことばに耳を傾ける準備をさせる。そこで、バルナバとパウロが、再び宣教報告を語り始めると、彼らは、神の恵みを真剣に聞くようになった。
② ヤコブによる解説
最後にヤコブが人々に語りかけた(13-14)。
ヤコブはペテロの説教に同意し、それを旧約聖書の引用によって説明した(15-18)。ヤコブは異邦人の救いに関する多くの預言の代表としてアモス書から引用した。主は、「戻って来て」(16。なぜか未訳)、ダビデの国を建て直す。すなわち、キリストの王国を造られる。主イエス・キリストは十字架と復活によってそのことをされたし、また再臨によってそれを完了される。それは天にあり、また、新天新地として実現する。その王国には、いったい誰がはいるだろうか。それは、ユダヤ人の中の選びの民と(アモス書では、「エドムの残りの者」。イスラエル人もエドム人同様に罪深いことを意味している)、異邦人の中の選びの民である(17)。
そして、これは昔から啓示されていたことであり、主はそのことを行われたし、また、行われるのである(18)。
③ ヤコブの提案
ヤコブは、解説が終わると、ユダヤ人信者と異邦人信者がともに生きるための提案をした。彼らは、主にあって1つの民であるから、ともに教会で神に仕えて行かなくてはならない。
まず、大前提がある(19)。異邦人信者は、偶像礼拝を捨てて、唯一真の神に立ち返った人々である。彼らは、異教の宗教文化と乱れた倫理観から救い出された(ユダヤ人も罪人だが、異邦人のような罪人ではなかった)。従って、異邦人信者にはユダヤ人が体験しない信仰の戦いがある。そんな彼らを意味のないことで悩ませてはいけない。ユダヤ人信者がなすべきことは、彼らの霊的なサポートである。
それは、罪の中から出て来た彼らが、再び罪の中に迷い込まないように教えることと、交わりの躓きになることを取り去ることを要求することによってである。
それからヤコブは、4つのことを避けるように、異邦人信者に伝えることを提案した。すなわち、4つのことから分離して、信仰とその生活を保持するための教えである。最初の2つは、信者として当然してはならないことであり、教会戒規の即時執行にあたる重大な罪についてであった。後半の2つは、相手を躓かせないための配慮であり、互いの交わりのために必要なことであった。
1)「偶像に供えて汚れたものを避ける」。信者が偶像礼拝をしないことは当然であるが、偶像に捧げられた食べ物を食べることによって、偶像礼拝に巻き込まれる危険がある(参照 1コリント10:14、19-21)。霊的な姦淫に気を付けるよう指導がなされなければならない。ハロウィンが近いが偶像に警戒するように。また、食べても問題のないものであっても、他の信者を躓かせないための配慮が必要である。
2)「淫らな行いを避ける」。精神的および肉体的に姦淫状態に入ることなど、様々な性的不道徳から分離しなければならない。以上2つは、異邦人ユダヤ人関係なく信者として守らなければならない、共通の道徳律法である。
3)第3と第4は、食事に関する規定である。ユダヤ人は、血抜きによって屠殺を行った。それは「血は命である」とモーセの書で教えられていたからである。ユダヤ人は、その方法によらない肉を良心的に耐えられなかった。例えば、愛餐や主の晩餐の交わりで、その肉が食卓に並んでいたらどうなるだろうか。互いの交わりが破綻し、また、その食卓を見た未信者のユダヤ人は、教会に来なくなるだろう。
以上の決定から、主イエスにある共同体の行動基準は、律法主義にでも無律法主義にでもなく、神の聖なる倫理観と愛にあると言える(ローマ14:15-18)。