【八甲田雪中行軍遭難事件の問題点とは?】地図がなかった?
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- Опубликовано: 30 ноя 2024
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この事故は当時の時代背景と村人の忠告を聞いていれば起きなかった事故だろうなって思うのと今でもこの八甲田山がこの事故で亡くなった兵士の霊が出る心霊スポットになってる
100メートル歩くのに3時間という表現に言葉が出なかった
小学校の図書室にあった「ほんとうにあったこわいはなし」ってシリーズの本で「八甲田山死の行進」ってタイトルで取り上げられてたのを思い出した。
読んだのはもうだいぶ前のことなのに握り飯が凍り付いて食べられなくなっていたこととか覚えてる。
懐かしい。
八甲田雪中行軍遭難事件はあまりにも悲惨な遭難事故だという話は聞いた事があるが、ここまでひどいとは思わなかった。装備の貧弱さや雪中行軍への備えや危険性の認識が不十分だった事、山中を突破するのに必要な地図が無かった事などは時代背景を考えれば仕方がないとは思うが、現地に土地勘のある人を連れてこなかった事、待機部隊の対応が遅れに遅れた事はまごう事なき人災であり、擁護のしようがない…。
しかし、将校たちが危険性を判断し、訓練を中止しようとしたのを見習士官たちが止めて訓練続行を主張したのは意外だった。将校たちは長年の経験からヤバそうな雰囲気を感じ取っていたのだろうか。
映画「八甲田山」は傑作です。雪山での過酷な撮影が出演者の鬼気迫る演技を引き出したのかもしれません。ただ、原作は新田次郎さんの小説「八甲田山 死の彷徨」であり、史実と違う脚色が少なからずあるので注意が必要です
同じ作者の「聖職の碑」も遭難を扱った凄い作品ですよね。
あまりの酷寒に兵士役のエキストラから脱落者が出たくらい、過酷な撮影現場だったそうです
ああ、こんな役者さんが出てたのか
今更感いっぱいに成れる
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こちらは1913年8月末に長野県上伊那郡中箕輪村立中箕輪尋常高等小学校高等科2年生(現箕輪町立箕輪中学校2年生)が、中央アルプス(木曽山脈)の最高峰木曽駒ヶ岳への修学旅行登山中に、台風による暴風雨に遭遇して起きた「木曽駒ヶ岳大量遭難事故」が題材になっています。
お役所仕事。
軍隊も巨大なお役所で、官尊民卑で硬直きわまりない。
減点主義なので虚勢を張って、しかも無責任。
日本人が作り出す組織が陥りがちな欠点がフルラインナップで出ている。
研究材料としては貴重。
知恵袋で質問見つけたけど当時飛行船で八甲田山を乗り越えて人員輸送する計画があったらしい。
実録小説は100ページほどなのですぐ読める。ここでの教訓は、ゴム長靴最強!ということ。
ウィキペディア(八甲田山雪中行軍遭難事故の項)によると、当時のゴム長靴は舶来品で今でいうファッションブーツ👢みたいなものだったそうで、倉石一(くらいしはしをめ)大尉がこれを履いて参加したのは本当に偶然だったそうですね😅
なんか太平洋戦争の敗因と似通った
理由で遭難しているような気がする。
下調べも準備も大してせずに
楽観的な見通しで物事を実施して
すぐに行き詰まり終いは精神論で
切り抜けようとするが当然上手く行かず
壊滅的な被害を出してしまう。
面子ばかり気にして原因の究明も
やらずになあなあで済ませる。
全く同感です。
これでは天も見放すはず。
近所の神社の忠魂碑に、この行軍で亡くなった方の名前があった。
ド田舎の村なのに途方もない確率を引き当ててしまった方が二名もいたことに大いに驚いた。
忠魂碑は結構あちこち見ているが、このようなケースは他に見た事がない。
この八甲田山雪中行軍遭難事故でもそうですが、同じく新田次郎氏の同名小説を原作にした映画「聖職の碑」(せいしょくのいしぶみ)の題材となった長野県中央アルプス木曽駒ヶ岳大量遭難事故(1913年8月末、修学旅行登山中に台風による暴風雨に遭遇、校長とOB、生徒の計11名が亡くなる)でも予算の関係で案内人を雇えなかった事が大きな要因のひとつとなりました。さらにそのちょうど100年後2013年7月に同じ中央アルプス檜尾岳付近で起きた韓国人登山ツアー遭難事故(4人が亡くなる)も、日本の旅行代理店から再三勧告されていた日本人ガイドを付けなかった事が大きな要因のひとつになったといわれています。やはり地元の人たちの意見に耳を貸したり、案内人(ガイド)を付ける事は大切なのですね。
映画の八甲田山は、カラー映画の意味が最もない映画だったな。ほとんどの場面が白黒と変わらないから。
陸軍というプライドがあったがために八甲田という山の情報が無い状態で入ったのと、大隊長が雪中行軍指揮官の指揮権を奪って勝手な行動をとったがために取り返しのつかない事態になった。
また、事前訓練の時の天候がよかったがために冬用の生地の厚い軍服で汗をかいたために薄手の小倉の軍服を着用した兵士がいたということ。
兵士でもしっかりと防寒対策をした者は生き残っています。
陸上自衛隊第5普通科連隊では毎年冬になると歩兵第五聯隊が踏破する予定だった八甲田をスキーや雪上車、アキオというソリを引いて行軍する訓練が行われています。
行軍隊の責任は初めから大隊本部で、意思決定権は大隊本部から派遣された山口少佐にある。
神成大尉は山口少佐から行軍指揮を任されただけ。
山口少佐が「行け」と言えば神成大尉は従うしかない。
神成大尉が献策しても受けるかどうかは山口少佐次第。
勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし。
ハインリッヒの法則よろしく、不備に次ぐ不備。起こるべくして起こった惨劇ですね。
ですが、彼らが身を挺して教訓を示してくれたと思わなければ、失われた命が報われないです。
本当にそうですね…
自分自身「なるようになる」と根拠なく楽観的になって、痛い目に遭ったことが何度もあります…
これだけ悲惨な事故が起きている訳ですから、貴重な教訓とさせて頂きたいと思います。
ほぼ同時期に八甲田山雪中行軍をした弘前連隊は計画通りに完了しています。
一言でいうなら、用意周到と杜撰の差でしょうか。
そうですね。事前に現地近くの部落へ行き、地元の古老達から意見を聞いたり、事前準備をシッカリと行って居るんですよね。対して5連体は、31連隊が既に弘前を出発したしたと言う事で、焦りがあり事前準備が疎かになってしまったんでしょうね。指揮系統の混乱もありましたしね。
この行軍にオブザーバーとして、大隊長以下の10数名の将校、下士官らが参加ししてるんですが、指揮権は中隊長なのか?大隊長が指揮する中隊なのか?その辺の曖昧さがあり、当日、余計に混乱する要因になったのでしょうね。
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ちなみにその弘前歩兵第31連隊の雪中行軍隊は福島泰蔵大尉以下37名➕従軍記者1名の計38名という少数精鋭でもあった事や、行軍中は麻縄で全員をつないでいたことなどが、隊の統率を取ることが出来て八甲田山走破に成功(八甲田に入る前に負傷し途中で帰らせた1名を除く)した要因にも繋がったともいわれています。もっとも八甲田山走破の時は、さしもの弘前隊もあわや遭難寸前だったり、案内人として雇ったマタギ8人をメチャクチャ酷使した末に危険地帯を踏破したら「ご苦労さん、ハイさようなら」とサッサと捨てて自分たちだけで行軍を続けたりと、あまり褒められたものではありませんでしたが😅
地元の案内人や村人の言うことは聞いておいて間違いがない。地元の人は住んでいる土地の厳しさを身に染みて知っているから。過酷な土地では時には家族すら失うからね。しかしこの頃から旧日本軍の過剰なまでのプライドの高さが気になる。
生き残った兵士は英雄として讃えられて嫁希望が殺到したそうやね。
手足失ったのに何が幸いするかわからんものですな。
5:48 このbgmの名前教えてください!!心に染みる曲が好きだからすごく気になります
🐜も円を描きながら死ぬまで回るのもあるから恐ろしい
兵隊の装備にスコップは必需品なイメージだが、当時はまだ貴重品だったんだな。
塹壕戦が始まる前、機関銃が登場する前だからかな
それはww1の経験からですよ。コレは日露戦争前の事故ですからね
映画『八甲田山』中々悲惨な映画だった。
撮影も過酷なものだったみたいですね
北大路さんの棺桶話
アタマ下がります
高倉健さんが女性案内人(秋吉久美子さん)と別れる時に「案内人殿に、かしらァ~右ッ‼️」と感謝の敬礼👮を捧げるシーンは、史実どころか原作小説にもなく、あの映画だけのオリジナルシーンだと、最近になって初めて知りました😮😲
青森のJKが、八甲田山も、知事が被害を大きくさせた青森空襲も、洞爺丸台風も知りませんでした。
日本の教育はそんなもんです。
だいたい著名さでは群を抜く新田次郎本が元に解説されることが多くて、その悲惨さが語り継がれているんだが…
平成になって、後継部隊にあたる青森の陸自普通科連隊で勤務された方が、退官後に検証本を出された。
さらに明らかになった実態は、もっと悲惨だった😵
案内人つけなかった❗雪山を嘗めてかかった天罰、その後証人たちは最前線に送られ抹殺されてる
日本人の組織論は、とかく精神論が前に出過ぎて上手く機能しない事が多いが、昔も今も変わらない所に問題があると思う。
やっぱり人災じゃん
1:55もう凍ってるんだけど何これはチョツトマツテ
事故当時にスキー板があれば、少しは違ったかもしれませんね
酷すぎる…ヒューマンエラーが。これは天も見放すレベル。
この頃からもう日本陸軍の問題点(現代のブラック容認?)の萌芽が見られる。
こういう時の為に乾パンとかビスケットとかを糧食にしてるのではないだろうか。
地元住民の道案内は、悪天候で拒否していた住民を軍が無理やり挑発して、住民側も犠牲者が出たって話もあるけど真相はどうなんだろう?
ほぼ同時に実施した弘前31連隊の方ね。映画で高倉健がいた方。映画では美化されているが(案内人に一同敬礼して別れたんだっけ?)、実際はかなり酷い扱いだったみたいだし。
冬山に対する知識不足、準備不足、楽観視、そして固執的な思考による悲劇。この計画の目的は田代温泉に行くことではなく、冬の八甲田を越えて八戸方面へ進軍できるかどうかの検証。結果論でしかないが、大部隊の移動も物資輸送も不可能とわかった時点で速やかに帰営すれば大惨事にはならなかっただろう。忍耐は必要としてもこれは戦闘ではなく訓練なのだから。当時の道具で雪山を歩くのであれば、ワラ製の深靴にかんじきとスカル(かんじきの大きいもの)を履き、先頭が交代しながらスコップ(蝋を塗って。木製でもいい)で雪をかき分けて進むしかないが、胸まで埋まるようではムリだろう。履いたらものは濡れるし凍るから火で乾かさないといけないし、視界不良で帰路がわからなくなる前に帰営する以外に選択肢はないようだ。
こんな出来事
印象に残らないわけない
山麓の高原地帯の渓谷で遭難したんで、八甲田山に登ったわけじゃないよ。山岳遭難というのは間違いだって、雪中行軍資料館も言ってるよ。
そもそも「勇ましいイベント」やりたかっただけでしょ。事故にならなくても天候の当たり外れで意味が薄いような。真面目に山地の極寒豪雪の研究なら各集落・山小屋に兵士を少数づつ駐屯させて春までずっと毎日担当拠点間の行軍・観測した方がいろんな知識・ノウハウを得られると思うが。
これ、用意の杜撰さとか、情報の欠如とか、いろいろな問題点が指摘されているものの、いずれも現在の視点であって、しかも普通の山登りの感覚で語られている。
あと、八甲田山麓の物資の運搬経路の探索を目的とされているけど、私が聞いている目的は大陸での戦闘を見据えた実験的なものということであった。
もしそれが本来の目的であれば、現代のようにだれでも行けるようなところまで準備を万端整えていたら、実験にも訓練にもならないだろう。
今のような天気予報があるわけでもないし。
この試みが現代的感覚から無謀だったとしても、当時のロシアとの戦争を控えた切迫した状態を思えば、指揮官とか組織をそこまで中傷すべきもなのだろうか、と思う。
この試みからいくつも教訓が得られたからこそ日露戦争に活かされ、勝利することができた、と思いたい。
まさに白い地獄です。
いつも下士官兵卒が無駄死にするのは、将官士官の保身や出世や先入観のため。
ワラの深靴にカンジキとスカルを履けば多少は
吹雪には、負けます😂
それに比べ、弘前連隊は準備していたため、遭難しなかった。
そもそも青森連隊の方は人数が多すぎた。なので準備もよりお粗末になった、と思う。
🧊🥶🧊
私がびっくりしたのは、確かに帝国陸軍が吹雪なんかに負けてはいけないという考えはもっともだけれど、案内人を断ったことですね。雪道をなめていたというのが真相でしょうかね?この事件から、長岡外史中将は、オーストリアから教官を招いて、スキーを採用したようですが、役に立ったんでしょうか?地図がないということは、陸地測量部の怠慢だったともいえる話ですね。おそらく、準備不足があったことは、大いなる失態でしたね。連帯本部も怠慢でしたね。簡単な訓練という認識があったんでしょうね。
アベノミクスと維持現緩和。
遭難は今も続いている。
だいたい著名さでは群を抜く新田次郎本が元に解説されることが多くて、その悲惨さが語り継がれているんだが…
平成になって、後継部隊にあたる青森の陸自普通科連隊で勤務された方が、退官後に検証本を出された。
さらに明らかになった実態は、もっと悲惨だった😵