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諸葛亮の評価はいろいろあるようだけど、国力を踏まえた北伐の構想力と情熱には感動させられる。三国志という物語ができる所以はそこにあるとさえ思える。
第一北伐は蜀が魏を脅かす最初で最後のチャンスでしたね。歴戦の勇将である趙雲が存命で陽動の難しい戦いを指揮できる将軍がいた。涼州の豪族達を一時味方に出来そうな所まで行ってた。愚鈍な夏侯楙が方面軍指揮官だった。と街亭の守りを手堅く呉懿か魏延が行っていたら…どうなっていたのでしょうか。孔明の手元で戦える将軍が不足してうまくいかないとかあったかもしれませんがね。
演技のように、山の上に陣取った、おばかさんだー、と一蹴するのではなく、戦術としてなしではないと言ってるのが良いと思いました。
馬良を弟のように可愛がり、その弟をちゃんと育成した。でも戦場から逃げた。そりゃ泣くわ。
三国志はやっぱりおもしろい‥!わかりやすい解説ありがとうございます!
既に知った内容のはずですが、動く図と分かりやすい説明でとても面白かったです。
馬謖は投獄されてるときに逃亡して、捕まって処刑説を見たことが有るが戦場から逃げた話だと、もうどうしようもないな
趙雲降格は多分孔明を含む古参メンバーを罰する事で新参または益州メンバーに対して不満を出させないようにするためでは。趙雲も北伐計画にある程度は関与してるだろうし、「自分はもう歳で先がないから後輩達に迷惑がかからないように信賞必罰を」と趙雲自身が言ったかも。
街亭の戦いの解説動画は多々あるけど、急いでるのにあえて持久戦を選択した張郃が凄いってのは一致してるの、本当に最善の判断だったんだなと思う
張郃はこの判断で涼州を救うのでまさにMVP
できれば「凄い」で片付けずに、何故持久戦を選択したかという考察も見てみたいですけどね。
@@ひょうべえ 普通にこの動画でも言及されてますが、馬謖軍が水を確保できてないのを見抜いたからでしょうね。無論多少は運び込んでるだろうから数日は耐えられても、いつか水が無くなって自壊する。ただ張郃目線だとこれは確定情報ではないし、タイムリミット的にも力攻めで早期決着を狙いたい場面。不確定要素だらけの危機的状況で、一見愚策だが実は最善策だった包囲戦を選んだ張郃の判断は素晴らしいと言えるでしょう。ここらへんの詳しく解説してる動画も多いですよ。
@@ヨーカン-q6c あなたがおっしゃるように水の確保の件は不確定情報であり、それだけで持久戦を選ぶのはかなりリスキーです。他に持久戦を選ばせる情報があったのではないか、その辺りの考察が見てみたいというのが先のコメントの主旨です。ちなみにご存知かもしれませんが、援軍は張郃だけではなく涼州からも除バクが援軍を派遣しています。そして祁山だけではなく隴西も上邽も健在、さらに諸葛亮は相当数の兵を街亭に向けています。張郃はこういった情勢も考慮して馬謖を確実に撃退したほうが有利になると判断した、というのが現時点の自分の仮説です。
@@ひょうべえ まず確認ですが、あなたの意見は「現地の抵抗や涼州方面からの援軍があるので救援のタイムリミットまでは余裕があると張郃は判断した。そこで当面は眼前の馬謖軍の撃滅に注力し、不利な力攻めを避ける為に包囲戦を選択した」という解釈で良いでしょうか?取り敢えず以後はこの解釈が正しいとして私の意見を述べるので、間違っていたら仰ってください。個人的な意見としては、張郃が西方の情勢を正確に把握していたかが不明であり、また現地勢力の抵抗が続くかも不明なため、時間的猶予があるという判断は外亭での持久戦以上にリスキーな判断だと考えています。まず西方の情勢把握に関してですが、馬謖が外亭まで進出してる時点で隴山以西は蜀軍がある程度抑えており、正確な情報を得るのは難しいかなと。それに現地の抵抗がいつまで持つかも大きな不確定要素かと。隴西の游楚のように「1ヶ月援軍が来なければ蜀に降伏する」と判断する危険性もあり、この危険性は日に日に高まりますしね。なので張郃が時間的余裕があると判断した可能性は低いかなと。ここからは張郃が持久戦を選択できた理由の個人的な考察ですが、これは西方に長く赴任していて現地の地理に明るかった、若しくは漢中などでの山岳戦の経験から山地における水の確保の難しさなどを理解していたからだと想像しています。要は経験則ですね。似たような経験を持つ王平も馬謖の布陣に関して張郃同じ分析をしてますし。これだけではただ経験を活かしただけですが、個人的の凄いと思うのは、この分析を時間的余裕はない中で行い、その上で若干時間はかかるがほぼ確実に馬謖を潰せる持久戦を選択したことです。時間だけを考えれば無視して前進か力攻めによる短期決戦って選択もありましたが、それは失敗のリスクが高すぎる。結局持久戦以外もリスクはあるんですよね。敵の布陣の弱点の正確に分析し、そこから各選択肢のリスクを比較し、最適とも言える持久戦を選んだ。この判断力と胆力こそが張郃が名将と評価される点だと考えています。
地図付きだから戦況もわかりやすく内容も濃くて良いですね
第一次北伐は最初で最後のチャンスであり、隴の掌握という目的まで後一歩であったしかし徐邈や張郃、そして游楚ら魏の諸将の勇戦に弾き返されてしまった…
新作ありがとうございます!いま一番楽しみにしてるチャンネルです!!
泣いて馬謖を斬るの解説ありがとうございました!そこまでの経緯などすごくわかりやすかったです。
張郃めちゃくちゃ有能なんですねー武勇も知略も美しいって事か!
陳寿の父はこの時、馬謖の配下で、連座して髠刑(剃髪の刑)に処された。なんだか陳寿には書きたくないことも有りそうですねえ。
出師表が面白いのは、三顧の礼について言及してることですね。ガセネタではなく当時から有名な事実だったこと、自慢ではなく、そこまでして登用してくれた劉備への恩義だという趣旨で。
三顧の礼は当時、別に珍しい事でも無かったみたいですがサンジの礼、三千人、三千世界、三千年三千歳、中国の方は三が大好き。
他の動画と合わせて何度も見返すと第一次北伐が唯一のチャンスだった気がします。結局第二次以降は持久戦に持ち込まれ国力の差で遺憾ともしなかったと思えます。
クオリティーが凄すぎますよね
敗残兵を副将の王平がまとめていたという話もあるぐらいですから、馬謖達は明らかに敵前逃亡した可能性がありますね。
ぶっちゃけこれが最初で最後のチャンスなんだよな。これ以降、魏は一切の手を抜かなくなってノーチャンスになった
北伐は蜀の最後の足掻きというか、魏に一矢報いる感じがいいですよね。三国志演義の見過ぎかもしれませんが、やっぱり蜀を応援してしまう…
水源を軽視していたのも実戦経験の無さが原因かな?王平とも折り合い悪かったみたいだし実戦は色々と難しいですね
夷陵で負けたことは蜀にとっては大きな痛手だったけど、諸葛亮自身にとっては結果として、後世に名を残すことになったんやね。
政治家やコメンテーターが討論番組なんかで「自分はあの時泣いて馬謖を斬ったんだ」みたいな発言してますが、大抵は斬っただけで任命者、責任者の処分は無くトカゲの尻尾を切っただけなケースが多い様に感じます。自身の処分まで含めて泣いて馬謖を斬るの故事の意味を成すと思うんですよね。
理解が深まりました。ありがとうございます。
普通に張郃が名将すぎる 急がなきゃいけない状況で持久戦に舵を取るとは まあ張郃クラスが来ていることがわかっているならば尚のこと魏延クラスを差し向けるべきだったのかもな
馬謖は、能力自体は高くとも、残念ながら経験が少なく視野が狭かった・・・というところでしょうか。惜しむらくは、街亭へ副将として参加させておけば、将来も含めて違った展開になったでしょうね。呉懿あたりの副将として。王平の副将では言うこと聞かないでしょうから。馬謖はまだ若かったですし、華々しく勝ちたかったんでしょうね。負けないことが求められる戦いで。そう考えると、現代のビジネスでも同じようなことを感じることはままあります。あとは、泣いて馬謖を斬る、という故事成語ですが、すごく悲壮感のある辛い決断、という印象を持っていましたが、敵前逃亡したので切られた、と言うとまあそうなるわな・・・としか感じられなくなりますね。
やはり張郃様は素晴らしい❤
張郃は何度も何度も蘇る
劉備が夏侯淵より彼の首が無いのを気にしていたと言われてるぐらいですからね…。
これは研究された内容ですね。演義の影響を受けた動画は凱亭が捕球線だから守ったといいていますが、動画の通り、戦線の遥か北にあるので、天水を抑えられると岐山の本軍が孤立するからだと私も思いました。
馬謖は敵前逃亡したのではないかと思います 将軍として最低最悪の行為でそれを任じたのが神格化された孔明だったのでもやっとした表現になったのでしょう
結局劉備は簒奪者だったし、荊州名士閥のまとめ役の孔明が蜀の正当性を出師の表で示さないと益州閥に反逆されるだけだったんだよなぁ。荊州があればまだ抑えが効いてただろうけど。そして荊州閥はかなりの数夷陵の戦いで失っていて、なんとか軍事に携わる荊州の名士である馬謖に功績を残さないと益州閥が怖い。益州閥に力を持たせないためにも魏延に任せればまだよかったが、孔明は名士以外をあまりコントロールできずに、嫌っていただろうな。馬謖が本当に悪かったのかは分からない。孔明と考え方の違いで窮地に陥ったのかも。まともに攻める気が馬謖にはあったが孔明にはなかった可能性もある。馬謖も失って、荊州閥の力も孔明頼み。益州閥を抑える為に北伐は必須なのに孔明には軍事の才能がないからのらりくらりの形だけ。とどめに向寵が死んで荊州閥の人材が…ずるずるいって孔明の死後、荊州閥の蔣琬がついだが、求心力の為の北伐も邪魔され派閥争いで費禕に負け、その後は益州閥による政治で利権争いに明け暮れてる内に滅んだイメージ。劉禅が死ななかったのは、益州閥の邪魔にならなかったのと、孔明が死んだときにはある程度体制ができ、壊す方がリスキーだったからだろうな。姜維も益州閥じゃなかったから、役職は高くてももう中央にいってたらいつ命を狙われてたか分からない状態に。三国どこも酷いが蜀が一番戦える状態ではなかった気がする。
魏国躍進の立案者の一人、名将張コウは状態に柔軟で、よく陣営を処置し、戦いの状況や地形を考慮して計略通りにならなかったことがなかった。つまり、彼は変化の法則をよく弁えていた。
真夜中に片田舎の山道を1時間ほど歩いたことがあるが、なかなかしんどく、足場もみえないのですごく危険に感じた。その経験から、「関ケ原の戦い」で徳川秀忠軍が通ったところを調べるとと難所も難所。こんなルートを当時のインフラや靴で通るのはしんどすぎる。それも大軍で。そして、中国の益州方面はもっと険しいと聞きます。険しい地形をインフラ・衣服などなど未発達な(西暦200年程度)技術で、万人の軍が移動したとするなら、そのすべての人が「怪物」としか、私には思えない。
シルクロードまで考えにあったのか、恐ろしい男だな
面白くてついつい全部見てしまう
趙雲も「今回の敗戦の責任は俺にもある」とかなんとか言って、自主的に降格したって可能性はないのかな?
失策があったのはほぼ間違いないと思ってる。正史諸葛亮伝「趙雲、馬謖による迂闊さ、命令違反により作戦が失敗したのは両名を選んだ私の見る目が無かったから」と名指され、随分と手厳しい。失策とは恐らく趙雲軍が少数で有ることが早々に看破され、曹真に大軍を率いて隴西に向かわせてしまった事と推測される。諸葛亮の感覚では陽動は失敗してたんだろう。ただし撤退戦は見事に指揮した点に対しては称賛してる。が、それはそれ。
孔明先生に誰も及ばぬ蜀の人員不足が垣間見える。龐統さんとか徐庶さんとか法正さんが居て、荊州もとい髭殿がいればどういう世界だったのか見てみたい。
諸説色々ありますが、敵前逃亡しなければ、処刑はされずに次の機会に汚名返上をしたはず。逃げたらだめですよ。新野の戦いの夏侯淳、石亭の戦いの曹休いずれも大敗しましたけど、最期までやりきりました。その違いですよね。
水源を確保していないとは…美しくありませんねえ
趙雲って演義では名将扱いだけど正史では将軍としての活躍はほぼ書かれてないですよね。動画内で陽動と書かれていますけど、史料には「兵数多かったのに寡兵にボコられた」って書かれてるらしいし、本当に陽動だったのかな。
司馬懿はこの時は、荊州担当で主敵は陸遜諸葛亮とは第四次北伐まで戦っておらず、しかも初対戦で渋る張郃に蜀軍の撤退を追撃させて死なせるという大チョンボを犯した三國志演義の羅貫中は、反蒙古の儒者マンセーなので、名士で無い曹真や張郃や魏延を、ひたすら作中で貶めた馬謖ですら、あの描写でもかなりよく脚色されてる可能性が高い
正史は結果しか残しませんから、個々の思惑が全く削ぎ落とされてしまうので、当時の交通網や道路整備事情を加味して考える必要があります。それと、正史の記述のほか、状況からの補完も重要ですね。① 秦嶺山脈の中には道とも言えぬ道もあれど、幾筋も選択肢がある以上、どこから魏軍が来るかは一切の情報はない。命令内容も魏軍を岐山に入れるなというもので、会敵地まで指定があった訳ではない。戦場の選択はあくまで現場の裁量であるから。派遣された馬謖としては、続報あるまで動かず、機動防御を取るのが最適であると考えた。② 張郃としては岐山の陥落までに駆け付けねばならぬ時間的制約もあり、また兵站や登山の危険を顧みると、最短で動ける常道を取る必要があり、①の事由もあって、道中にある街亭が会敵地になることが必定になった。③街亭には南山があるほかは高地がなく、開けていることから、展開が容易であり、道を塞げば、張郃が岐山へ赴くことは不能になるという王平の進言は的確であったが、馬謖が欲を出したというか、幼児のようにごね出した。張郃を派手に叩き潰せば、己の地位が磐石になるという一点に囚われたせいで。④張郃もさすがに蜀軍が先に街亭に入り、布陣したことを知った際は、死地に入ることを悟って撤兵しようと思ったが、その布陣内容を知るに奇天烈すぎて、かえって何か仕掛けがあるか知りたくなった。⑤隈なく探りを入れると、馬謖が水の手の有利も捨てていることを知り、王平の副軍ほか、柳亭城などの後詰めが如何にあろうと、本軍が干物になっては、各個撃破も容易であると考え、南山の包囲を決行した。岐山の戦況も気にはなるが、蜀軍の本陣も兵站の難を抱えているから、ここで馬謖が大敗して、涼雍との連絡が断たれては戦線を維持できぬことを鑑みて、優先順位を明確に馬謖退治に切り替えた。⑥山上から逆落としで一撃を加えて、張郃に目にもの見せるなどと大口叩いたものの、いざ水が切れると丸で動けず、現実に逆落としなんて真似ができる訳がないことを悟るや、失敗の露見を恐れて、馬謖らの本営は敵前逃亡し、本軍組織は壊滅した。⑦散々な体たらくの友軍を纏めつつ、王平は事後処理という名の追撃阻止と戦場離脱に明け暮れ、満身創痍で漢中に逃げ帰った。⑧さしもの諸葛孔明も戦後の調査で、本営の幕僚連中に戦死者がおらず、傷一つ負わず漢中に落ち延び、しかも余人に匿われていた事実を知るや、小人に大事を託した己の不明に加え、クズどもの行動で大勢の士卒が犠牲になった怒りで涙を禁じえず、如何に可愛がってきた弟子でも軍法に照らして処断した。王平の満身創痍の姿見ただけで、概ねを察していたが、ここまで酷いと諸将に示しがつかない。「泣いて馬謖を切る」の本義は、信じて疑わなかった者に途轍もない裏切りかまされて、「ろくなもんじゃねえ。」と叫ぶことなんでしょう。これから、その意味でこの言葉使います。
凄い諸葛亮の計画を見事に看破した不屈の司馬徽 天才が天才を呼んだのか!(◎_◎;)
・本当に「長安制圧よりも涼州をおさえることを重要視していた」ならば、非常に消極的な作戦。個人的には、涼州は長安制圧のための布石であり、交易路の確保など結果として付いてくるとしても、第一次北伐の目的は飽くまで長安制圧だったと考える。・街亭の戦い時点で蜀軍が岐山を攻略できていなかったというのは驚き。第一次北伐の時点で岐山の重要性が魏軍に知られていたとは思えないし、何よりも天水・南安・安定が蜀軍に呼応していた時点で、岐山の魏軍は退路が断たれるのを恐れ後方に撤退するのが戦略的に妥当。
張郃はほんと名将だね。それを破った張飛の将としても凄い。張飛が生きてたらなあ。
最後射殺される名将
生前 劉備が諸葛亮に 馬謖は戦実戦経験したこと無い身の程知らず 口だけ達者だから重要視するなと言われたわな
趙雲は撤退時に橋を焼いてしまったことが降格の原因と聞いたことがあるのですが、正史に記述が無いんですね・・・
張郃「敵の陣形は美しかったですか?」を思い出す
わかる。クソワロタよね。
益州制圧で大規模軍事行動の司令官として活躍してますよ
この時期なら馬超よりも馬岱のつてを使って異民族と連携だと思うな
正史の記録では諸葛亮が箕谷における趙雲軍は「不戒の失」を犯したと言及してますね馬謖同様、将の人選を誤ったとも。ならば、それを理由に降格されたと解釈するのが自然なのでは?
趙雲を「歴戦の将」「実績ある名将」と紹介しているけど、実際は趙雲がまともに大軍を指揮した記録ってここまでほぼ無かったですよね、確か本当に実力のある将軍だったんでしょうか。
張郃がもう少し並みの武将であれば、馬謖を無視して先を急ぐ、と馬謖にとって理想的な展開になったかもしれないんですよねそれが水を軽視したことの理由だと思うのです、戦術って一手でも相手を上回っていればそれが結果に直結する、逆に結果だけ見て評価するのは危険なんですちなみに王平は馬謖配下に複数いた将軍たちの、さらに下の立場ですから、そもそも発言力が(ほぼ)ないんですよね兵を1000程度しか率いることができなかったのも、立場が低かったことの証左だと思いますね。
荊州があればどんな北伐になっていたのか
三国無双のゲームであらすじ大方分かっていたはずだったけど面白いなぁ
すごいわかりやすいから時系列にそって動画にしてほしい。 有名どころだけスポットにされても三国志ビギナーとしては前後関係がわからん
張遵は張飛の長男、張苞の子で孫にあたりますよ。ちなみに次男、張紹の方は生存しており、晋に降伏し、列侯に封じられています。
ちょっと前のガンダムで同じような事があったな「〇〇は使うなよ」「了解、○○」みたいなやつ
登山で検索して来ました
30年近く三国志ファンだったけど、こんなに質の高い動画が無料とは....
本当にこのときだけわんちゃん勝てそうだったんだよな登山家お前は許さない
北伐キターーー
どすこいキタキタ
放置少女と並行して、確認プレーで、歴史勉強になりますね。
蜀の軍団が仮に4000人(通常3000)だとしても最大16000これだと人口90万の実働にかなう全軍で60000いたら、5000の馬謖、王平が負けても作戦続行してたかと
天才軍師がぁぁ
そんなごちゃごちゃ考えるまでもなく、馬謖の作戦の狙いは凄く良かったから張郃は急いで正面から戦ったら地の利で不利だし、迂回したら後ろから襲われるから困ったなと思ったら、水源を抑えてないというとんでもない間抜けな事してたから、張郃としたらそれしか勝つ手段が無いからそうしただけでしょ。水源を抑えてみたら水源を取り返しに来たんだから、水が無いというのが分かるし、捕らえた兵士達が「みんな喉カラカラっす」って言ってたらもう水が無いのは確定だから勝ち決定。諸葛亮の指示も道に陣取れというのは山頂に陣取ったらもし水源を奪われたら詰むから下に陣取れって事なのに 山頂に陣取った上に水源すら抑えていないってアホ過ぎてそりゃ切るしかないわ
まぁ、北伐は本当に意味があった上に諸葛亮が如何に天才だったかよくわかる。諸葛亮が動く度に魏は本当焦っただろうな、呉も同時に攻めてくるから、両方に支援を送るのは大変だっただろう。魏延については、諸葛亮の言った通りの結果になったな。元から、味方の将から信頼が無かったんだろう。本当、馬謖の件が惜しまれる。
自分は魏延には同情を禁じ得ない。
諸葛亮は劉備と違い人を見る目が無かったと誰か、そんな事言ってたなぁー。
陳寿が言っているように戦争指揮能力はちょっとアレだけど、政治力と文章力は凄まじかった…あとは優秀な戦闘指揮官がいれば…
そうではない「應變將略,非其所長歟?」(臨機応変な軍略は彼の得意分野ではない)実は諸葛亮の軍事的評価は非常に高い太宗李世民「陳寿は軍事を理解していない」
@@千羽無貌 最も重要な「結果」を出してないのになぜ評価が高いといえるのか謎です。
@@NY-cz5to 例えば曹操は天下を統一できなかったが、その評価は未だに司馬炎の100倍である。蜀と魏の力の差は元々10倍以上あった大きな差がある弱国が強国に対して長年攻勢を続けるのは中国史上稀な現象である唐の軍神李靖は司馬懿と諸葛亮を廉頗と白起と比較した。「廉頗之拒白起,守而不戰;宣王之抗武侯,抑而不進。」(廉頗は白起と戦うが、防御を維持することしかできなかった。司馬宣王と諸葛武侯の対決は、孔明の攻勢を抑えることしかできない)三国時代、武廟十哲の殿堂に入ったのは諸葛亮だけ
陳寿は軍隊の指揮は優れていたが、(演義諸葛亮みたいな)戦場で奇策を思いつき実行出来るタイプじゃなかったって評価じゃなかったっけ?だからこそ劉備は自分が軍の指揮を取る以上参謀に法正を用いて諸葛亮には蕭何の役割を任せたって事で蕭何の役割をこなせるだけで化物ではあるけど、それで斜陽の蜀で最低限戦闘出来ただけで充分かと侵攻戦の結果だけで言うなら魏の防衛した面々も呉への侵攻で諸葛亮以上に失敗してますし
@@nomoney8296 諸葛亮の軍事的能力を評価する上で一番重要なのは「自ら計画立案した軍事作戦を実行した結果、5回とも失敗して最後に戦場で死亡した」という結果だと思う。陳寿はそこを能力不足と評価したら後の世でめっちゃ叩かれたみたいだけど。それに「魏の防衛した面々」と「諸葛亮以上の失敗」とあるけど、戦場で丞相が死ぬ以上の失敗ってある…?
ば(か)…しょっく…!?
結果としては関羽、張飛がいた時代に天下を取れなかった不運と、諸葛亮の人を見る目がなかった事が蜀の終わりに繋がった。
登山家に潰された
馬謖=仙石かな
魏延ここまで居たんだ・・・そりゃ逃げたくなるわ
山登り失敗
出師表で泣くヤツ涙腺ユルユルやろw
無能な馬謖しか印象が無かったけどこう見ると違和感がありますね。水源確保の凡ミスもあまりにも感が凄い普通に考えたら兵力差が想像以上大きかったくらいが妥当なのかな
諸葛亮は初めての戦いになるのかな。それで作戦は司馬懿に見破られ北伐も初陣の馬謖を大事なところに配置して失敗。こう考えると孔明先生が全然すごくないになってしまう。
今回の敵は司馬懿じゃなくて相手は曹真と張郃になるんですわ
自身で立案・指揮した戦いは北伐の前にいちおう南蛮征伐があるね。
その凄くない孔明に直接対決でフルボッコにされる司馬懿さんw
@@ベンジャミンメンタルヘルス フルボッコにしてるのに蜀側が撤退してるのをおかしいと思わないのが孔明ファンのクオリティだよね…
@@NY-cz5to蜀軍の撤退は食糧不足によるものだった実際、司馬懿はその数倍の資力と力を持っているのに、正面から戦って勝てないのが無念だ。以上は私の意見ではなく、東吳張儼の評価です。(彼はその戦いを観察していた同時代人だった
趙雲の降格は、降格に値する何かをしでかしたのでは。孔明は、理由なく降格しないと思う。
一度蜀を滅亡寸前までの衰退に誘い込んだのは呂蒙や孫権等が悪い
なら益州取ったら荊州返す→涼州取ったら(ryと言って孫権をキレさせた劉備が悪い
蜀の滅亡原因 パート2①劉備を含む多くの人材の損失②街亭での大敗水筒を忘れて登山して現場放棄した自称優等生
馬謖ぅ
三國志タイトルがおかしい。ほとんど全て魏の領土だった。
諸葛亮の評価はいろいろあるようだけど、国力を踏まえた北伐の構想力と情熱には感動させられる。
三国志という物語ができる所以はそこにあるとさえ思える。
第一北伐は蜀が魏を脅かす最初で最後のチャンスでしたね。
歴戦の勇将である趙雲が存命で陽動の難しい戦いを指揮できる将軍がいた。涼州の豪族達を一時味方に出来そうな所まで行ってた。愚鈍な夏侯楙が方面軍指揮官だった。と
街亭の守りを手堅く呉懿か魏延が行っていたら…どうなっていたのでしょうか。孔明の手元で戦える将軍が不足してうまくいかないとかあったかもしれませんがね。
演技のように、山の上に陣取った、おばかさんだー、と一蹴するのではなく、戦術としてなしではないと言ってるのが良いと思いました。
馬良を弟のように可愛がり、その弟をちゃんと育成した。でも戦場から逃げた。そりゃ泣くわ。
三国志はやっぱりおもしろい‥!
わかりやすい解説ありがとうございます!
既に知った内容のはずですが、動く図と分かりやすい説明でとても面白かったです。
馬謖は投獄されてるときに逃亡して、捕まって処刑説を見たことが有るが
戦場から逃げた話だと、もうどうしようもないな
趙雲降格は多分孔明を含む古参メンバーを罰する事で新参または益州メンバーに対して不満を出させないようにするためでは。趙雲も北伐計画にある程度は関与してるだろうし、「自分はもう歳で先がないから後輩達に迷惑がかからないように信賞必罰を」と趙雲自身が言ったかも。
街亭の戦いの解説動画は多々あるけど、急いでるのにあえて持久戦を選択した張郃が凄いってのは一致してるの、本当に最善の判断だったんだなと思う
張郃はこの判断で涼州を救うのでまさにMVP
できれば「凄い」で片付けずに、何故持久戦を選択したかという考察も見てみたいですけどね。
@@ひょうべえ
普通にこの動画でも言及されてますが、馬謖軍が水を確保できてないのを見抜いたからでしょうね。無論多少は運び込んでるだろうから数日は耐えられても、いつか水が無くなって自壊する。
ただ張郃目線だとこれは確定情報ではないし、タイムリミット的にも力攻めで早期決着を狙いたい場面。不確定要素だらけの危機的状況で、一見愚策だが実は最善策だった包囲戦を選んだ張郃の判断は素晴らしいと言えるでしょう。ここらへんの詳しく解説してる動画も多いですよ。
@@ヨーカン-q6c あなたがおっしゃるように水の確保の件は不確定情報であり、それだけで持久戦を選ぶのはかなりリスキーです。他に持久戦を選ばせる情報があったのではないか、その辺りの考察が見てみたいというのが先のコメントの主旨です。ちなみにご存知かもしれませんが、援軍は張郃だけではなく涼州からも除バクが援軍を派遣しています。そして祁山だけではなく隴西も上邽も健在、さらに諸葛亮は相当数の兵を街亭に向けています。張郃はこういった情勢も考慮して馬謖を確実に撃退したほうが有利になると判断した、というのが現時点の自分の仮説です。
@@ひょうべえ
まず確認ですが、あなたの意見は「現地の抵抗や涼州方面からの援軍があるので救援のタイムリミットまでは余裕があると張郃は判断した。そこで当面は眼前の馬謖軍の撃滅に注力し、不利な力攻めを避ける為に包囲戦を選択した」という解釈で良いでしょうか?取り敢えず以後はこの解釈が正しいとして私の意見を述べるので、間違っていたら仰ってください。
個人的な意見としては、張郃が西方の情勢を正確に把握していたかが不明であり、また現地勢力の抵抗が続くかも不明なため、時間的猶予があるという判断は外亭での持久戦以上にリスキーな判断だと考えています。
まず西方の情勢把握に関してですが、馬謖が外亭まで進出してる時点で隴山以西は蜀軍がある程度抑えており、正確な情報を得るのは難しいかなと。
それに現地の抵抗がいつまで持つかも大きな不確定要素かと。隴西の游楚のように「1ヶ月援軍が来なければ蜀に降伏する」と判断する危険性もあり、この危険性は日に日に高まりますしね。
なので張郃が時間的余裕があると判断した可能性は低いかなと。
ここからは張郃が持久戦を選択できた理由の個人的な考察ですが、これは西方に長く赴任していて現地の地理に明るかった、若しくは漢中などでの山岳戦の経験から山地における水の確保の難しさなどを理解していたからだと想像しています。要は経験則ですね。似たような経験を持つ王平も馬謖の布陣に関して張郃同じ分析をしてますし。
これだけではただ経験を活かしただけですが、個人的の凄いと思うのは、この分析を時間的余裕はない中で行い、その上で若干時間はかかるがほぼ確実に馬謖を潰せる持久戦を選択したことです。時間だけを考えれば無視して前進か力攻めによる短期決戦って選択もありましたが、それは失敗のリスクが高すぎる。結局持久戦以外もリスクはあるんですよね。
敵の布陣の弱点の正確に分析し、そこから各選択肢のリスクを比較し、最適とも言える持久戦を選んだ。この判断力と胆力こそが張郃が名将と評価される点だと考えています。
地図付きだから戦況もわかりやすく内容も濃くて良いですね
第一次北伐は最初で最後のチャンスであり、隴の掌握という目的まで後一歩であった
しかし徐邈や張郃、そして游楚ら魏の諸将の勇戦に弾き返されてしまった…
新作ありがとうございます!
いま一番楽しみにしてるチャンネルです!!
泣いて馬謖を斬るの解説ありがとうございました!
そこまでの経緯などすごくわかりやすかったです。
張郃めちゃくちゃ有能なんですねー
武勇も知略も美しいって事か!
陳寿の父はこの時、馬謖の配下で、連座して髠刑(剃髪の刑)に処された。
なんだか陳寿には書きたくないことも有りそうですねえ。
出師表が面白いのは、三顧の礼について言及してることですね。ガセネタではなく当時から有名な事実だったこと、自慢ではなく、そこまでして登用してくれた劉備への恩義だという趣旨で。
三顧の礼は当時、別に
珍しい事でも無かったみたいですが
サンジの礼、三千人、三千世界、三千年
三千歳、中国の方は三が大好き。
他の動画と合わせて何度も見返すと第一次北伐が唯一のチャンスだった気がします。
結局第二次以降は持久戦に持ち込まれ国力の差で遺憾ともしなかったと思えます。
クオリティーが凄すぎますよね
敗残兵を副将の王平がまとめていたという話もあるぐらいですから、馬謖達は明らかに敵前逃亡した可能性がありますね。
ぶっちゃけこれが最初で最後のチャンスなんだよな。
これ以降、魏は一切の手を抜かなくなってノーチャンスになった
北伐は蜀の最後の足掻きというか、魏に一矢報いる感じがいいですよね。三国志演義の見過ぎかもしれませんが、やっぱり蜀を応援してしまう…
水源を軽視していたのも実戦経験の無さが原因かな?王平とも折り合い悪かった
みたいだし実戦は色々と難しいですね
夷陵で負けたことは蜀にとっては大きな痛手だったけど、諸葛亮自身にとっては結果として、後世に名を残すことになったんやね。
政治家やコメンテーターが討論番組なんかで「自分はあの時泣いて馬謖を斬ったんだ」みたいな発言してますが、大抵は斬っただけで任命者、責任者の処分は無くトカゲの尻尾を切っただけなケースが多い様に感じます。
自身の処分まで含めて泣いて馬謖を斬るの故事の意味を成すと思うんですよね。
理解が深まりました。ありがとうございます。
普通に張郃が名将すぎる 急がなきゃいけない状況で持久戦に舵を取るとは
まあ張郃クラスが来ていることがわかっているならば尚のこと魏延クラスを差し向けるべきだったのかもな
馬謖は、能力自体は高くとも、残念ながら経験が少なく視野が狭かった・・・というところでしょうか。
惜しむらくは、街亭へ副将として参加させておけば、将来も含めて違った展開になったでしょうね。呉懿あたりの副将として。王平の副将では言うこと聞かないでしょうから。
馬謖はまだ若かったですし、華々しく勝ちたかったんでしょうね。負けないことが求められる戦いで。そう考えると、現代のビジネスでも同じようなことを感じることはままあります。
あとは、泣いて馬謖を斬る、という故事成語ですが、すごく悲壮感のある辛い決断、という印象を持っていましたが、敵前逃亡したので切られた、と言うとまあそうなるわな・・・としか感じられなくなりますね。
やはり張郃様は素晴らしい❤
張郃は何度も何度も蘇る
劉備が夏侯淵より彼の首が無いのを気にしていたと言われてるぐらいですからね…。
これは研究された内容ですね。演義の影響を受けた動画は凱亭が捕球線だから守ったといいていますが、動画の通り、戦線の遥か北にあるので、天水を抑えられると岐山の本軍が孤立するからだと私も思いました。
馬謖は敵前逃亡したのではないかと思います 将軍として最低最悪の行為でそれを任じたのが神格化された孔明だったのでもやっとした表現になったのでしょう
結局劉備は簒奪者だったし、荊州名士閥のまとめ役の孔明が蜀の正当性を出師の表で示さないと益州閥に反逆されるだけだったんだよなぁ。荊州があればまだ抑えが効いてただろうけど。
そして荊州閥はかなりの数夷陵の戦いで失っていて、なんとか軍事に携わる荊州の名士である馬謖に功績を残さないと益州閥が怖い。
益州閥に力を持たせないためにも魏延に任せればまだよかったが、孔明は名士以外をあまりコントロールできずに、嫌っていただろうな。
馬謖が本当に悪かったのかは分からない。孔明と考え方の違いで窮地に陥ったのかも。まともに攻める気が馬謖にはあったが孔明にはなかった可能性もある。
馬謖も失って、荊州閥の力も孔明頼み。益州閥を抑える為に北伐は必須なのに孔明には軍事の才能がないからのらりくらりの形だけ。とどめに向寵が死んで荊州閥の人材が…
ずるずるいって孔明の死後、荊州閥の蔣琬がついだが、求心力の為の北伐も邪魔され派閥争いで費禕に負け、その後は益州閥による政治で利権争いに明け暮れてる内に滅んだイメージ。
劉禅が死ななかったのは、益州閥の邪魔にならなかったのと、孔明が死んだときにはある程度体制ができ、壊す方がリスキーだったからだろうな。
姜維も益州閥じゃなかったから、役職は高くてももう中央にいってたらいつ命を狙われてたか分からない状態に。
三国どこも酷いが蜀が一番戦える状態ではなかった気がする。
魏国躍進の立案者の一人、名将張コウは状態に柔軟で、よく陣営を処置し、戦いの状況や地形を考慮して計略通りにならなかったことがなかった。つまり、彼は変化の法則をよく弁えていた。
真夜中に片田舎の山道を1時間ほど歩いたことがあるが、なかなかしんどく、足場もみえないのですごく危険に感じた。
その経験から、「関ケ原の戦い」で徳川秀忠軍が通ったところを調べるとと難所も難所。こんなルートを当時のインフラや靴で通るのはしんどすぎる。それも大軍で。
そして、中国の益州方面はもっと険しいと聞きます。
険しい地形をインフラ・衣服などなど未発達な(西暦200年程度)技術で、万人の軍が移動したとするなら、そのすべての人が「怪物」としか、私には思えない。
シルクロードまで考えにあったのか、恐ろしい男だな
面白くてついつい全部見てしまう
趙雲も「今回の敗戦の責任は俺にもある」とかなんとか言って、自主的に降格したって可能性はないのかな?
失策があったのはほぼ間違いないと思ってる。
正史諸葛亮伝「趙雲、馬謖による迂闊さ、命令違反により作戦が失敗したのは両名を選んだ私の見る目が無かったから」と名指され、随分と手厳しい。
失策とは恐らく趙雲軍が少数で有ることが早々に看破され、曹真に大軍を率いて隴西に向かわせてしまった事と推測される。諸葛亮の感覚では陽動は失敗してたんだろう。
ただし撤退戦は見事に指揮した点に対しては称賛してる。
が、それはそれ。
孔明先生に誰も及ばぬ蜀の人員不足が垣間見える。
龐統さんとか徐庶さんとか法正さんが居て、荊州もとい髭殿がいればどういう世界だったのか見てみたい。
諸説色々ありますが、敵前逃亡しなければ、処刑はされずに次の機会に汚名返上をしたはず。
逃げたらだめですよ。新野の戦いの夏侯淳、石亭の戦いの曹休
いずれも大敗しましたけど、最期までやりきりました。その違いですよね。
水源を確保していないとは…美しくありませんねえ
趙雲って演義では名将扱いだけど正史では将軍としての活躍はほぼ書かれてないですよね。
動画内で陽動と書かれていますけど、史料には「兵数多かったのに寡兵にボコられた」って書かれてるらしいし、本当に陽動だったのかな。
司馬懿はこの時は、荊州担当で主敵は陸遜
諸葛亮とは第四次北伐まで戦っておらず、しかも初対戦で渋る張郃に蜀軍の撤退を追撃させて死なせるという大チョンボを犯した
三國志演義の羅貫中は、反蒙古の儒者マンセーなので、名士で無い曹真や張郃や魏延を、ひたすら作中で貶めた
馬謖ですら、あの描写でもかなりよく脚色されてる可能性が高い
正史は結果しか残しませんから、個々の思惑が全く削ぎ落とされてしまうので、当時の交通網や道路整備事情を加味して考える必要があります。それと、正史の記述のほか、状況からの補完も重要ですね。
① 秦嶺山脈の中には道とも言えぬ道もあれど、幾筋も選択肢がある以上、どこから魏軍が来るかは一切の情報はない。命令内容も魏軍を岐山に入れるなというもので、会敵地まで指定があった訳ではない。戦場の選択はあくまで現場の裁量であるから。派遣された馬謖としては、続報あるまで動かず、機動防御を取るのが最適であると考えた。
② 張郃としては岐山の陥落までに駆け付けねばならぬ時間的制約もあり、また兵站や登山の危険を顧みると、最短で動ける常道を取る必要があり、①の事由もあって、道中にある街亭が会敵地になることが必定になった。
③街亭には南山があるほかは高地がなく、開けていることから、展開が容易であり、道を塞げば、張郃が岐山へ赴くことは不能になるという王平の進言は的確であったが、馬謖が欲を出したというか、幼児のようにごね出した。張郃を派手に叩き潰せば、己の地位が磐石になるという一点に囚われたせいで。
④張郃もさすがに蜀軍が先に街亭に入り、布陣したことを知った際は、死地に入ることを悟って撤兵しようと思ったが、その布陣内容を知るに奇天烈すぎて、かえって何か仕掛けがあるか知りたくなった。
⑤隈なく探りを入れると、馬謖が水の手の有利も捨てていることを知り、王平の副軍ほか、柳亭城などの後詰めが如何にあろうと、本軍が干物になっては、各個撃破も容易であると考え、南山の包囲を決行した。
岐山の戦況も気にはなるが、蜀軍の本陣も兵站の難を抱えているから、ここで馬謖が大敗して、涼雍との連絡が断たれては戦線を維持できぬことを鑑みて、優先順位を明確に馬謖退治に切り替えた。
⑥山上から逆落としで一撃を加えて、張郃に目にもの見せるなどと大口叩いたものの、いざ水が切れると丸で動けず、現実に逆落としなんて真似ができる訳がないことを悟るや、
失敗の露見を恐れて、馬謖らの本営は敵前逃亡し、本軍組織は壊滅した。
⑦散々な体たらくの友軍を纏めつつ、王平は事後処理という名の追撃阻止と戦場離脱に明け暮れ、満身創痍で漢中に逃げ帰った。
⑧さしもの諸葛孔明も戦後の調査で、本営の幕僚連中に戦死者がおらず、傷一つ負わず漢中に落ち延び、しかも余人に匿われていた事実を知るや、
小人に大事を託した己の不明に加え、クズどもの行動で大勢の士卒が犠牲になった怒りで涙を禁じえず、如何に可愛がってきた弟子でも軍法に照らして処断した。王平の満身創痍の姿見ただけで、概ねを察していたが、ここまで酷いと諸将に示しがつかない。
「泣いて馬謖を切る」の本義は、信じて疑わなかった者に途轍もない裏切りかまされて、「ろくなもんじゃねえ。」と叫ぶことなんでしょう。これから、その意味でこの言葉使います。
凄い諸葛亮の計画を見事に看破した不屈の司馬徽 天才が天才を呼んだのか!(◎_◎;)
・本当に「長安制圧よりも涼州をおさえることを重要視していた」ならば、非常に消極的な作戦。個人的には、涼州は長安制圧のための布石であり、交易路の確保など結果として付いてくるとしても、第一次北伐の目的は飽くまで長安制圧だったと考える。
・街亭の戦い時点で蜀軍が岐山を攻略できていなかったというのは驚き。第一次北伐の時点で岐山の重要性が魏軍に知られていたとは思えないし、何よりも天水・南安・安定が蜀軍に呼応していた時点で、岐山の魏軍は退路が断たれるのを恐れ後方に撤退するのが戦略的に妥当。
張郃はほんと名将だね。
それを破った張飛の将としても凄い。
張飛が生きてたらなあ。
最後射殺される名将
生前 劉備が諸葛亮に 馬謖は戦実戦経験したこと無い身の程知らず 口だけ達者だから重要視するなと言われたわな
趙雲は撤退時に橋を焼いてしまったことが降格の原因と聞いたことがあるのですが、正史に記述が無いんですね・・・
張郃「敵の陣形は美しかったですか?」
を思い出す
わかる。クソワロタよね。
益州制圧で大規模軍事行動の司令官として活躍してますよ
この時期なら馬超よりも馬岱のつてを使って異民族と連携だと思うな
正史の記録では諸葛亮が箕谷における趙雲軍は「不戒の失」を犯したと言及してますね
馬謖同様、将の人選を誤ったとも。
ならば、それを理由に降格されたと解釈するのが自然なのでは?
趙雲を「歴戦の将」「実績ある名将」と紹介しているけど、実際は趙雲がまともに大軍を指揮した記録ってここまでほぼ無かったですよね、確か
本当に実力のある将軍だったんでしょうか。
張郃がもう少し並みの武将であれば、馬謖を無視して先を急ぐ、と馬謖にとって理想的な展開になったかもしれないんですよね
それが水を軽視したことの理由だと思うのです、戦術って一手でも相手を上回っていればそれが結果に直結する、逆に結果だけ見て評価するのは危険なんです
ちなみに王平は馬謖配下に複数いた将軍たちの、さらに下の立場ですから、そもそも発言力が(ほぼ)ないんですよね
兵を1000程度しか率いることができなかったのも、立場が低かったことの証左だと思いますね。
荊州があればどんな北伐になっていたのか
三国無双のゲームであらすじ大方分かっていたはずだったけど面白いなぁ
すごいわかりやすいから時系列にそって動画にしてほしい。 有名どころだけスポットにされても三国志ビギナーとしては前後関係がわからん
張遵は張飛の長男、張苞の子で孫にあたりますよ。
ちなみに次男、張紹の方は生存しており、晋に降伏し、列侯に封じられています。
ちょっと前のガンダムで同じような事があったな
「〇〇は使うなよ」「了解、○○」みたいなやつ
登山で検索して来ました
30年近く三国志ファンだったけど、こんなに質の高い動画が無料とは....
本当にこのときだけわんちゃん勝てそうだったんだよな
登山家お前は許さない
北伐キターーー
どすこいキタキタ
放置少女と並行して、確認プレーで、歴史勉強になりますね。
蜀の軍団が仮に4000人(通常3000)だとしても最大16000
これだと人口90万の実働にかなう
全軍で60000いたら、5000の馬謖、王平が負けても作戦続行してたかと
天才軍師がぁぁ
そんなごちゃごちゃ考えるまでもなく、馬謖の作戦の狙いは凄く良かったから張郃は急いで正面から戦ったら地の利で不利だし、迂回したら後ろから襲われるから困ったなと思ったら、水源を抑えてないというとんでもない間抜けな事してたから、張郃としたらそれしか勝つ手段が無いからそうしただけでしょ。
水源を抑えてみたら水源を取り返しに来たんだから、水が無いというのが分かるし、捕らえた兵士達が「みんな喉カラカラっす」って言ってたらもう水が無いのは確定だから勝ち決定。
諸葛亮の指示も道に陣取れというのは山頂に陣取ったらもし水源を奪われたら詰むから下に陣取れって事なのに 山頂に陣取った上に水源すら抑えていないってアホ過ぎてそりゃ切るしかないわ
まぁ、北伐は本当に意味があった上に諸葛亮が如何に天才だったかよくわかる。諸葛亮が動く度に魏は本当焦っただろうな、呉も同時に攻めてくるから、両方に支援を送るのは大変だっただろう。
魏延については、諸葛亮の言った通りの結果になったな。元から、味方の将から信頼が無かったんだろう。
本当、馬謖の件が惜しまれる。
自分は魏延には同情を禁じ得ない。
諸葛亮は劉備と違い
人を見る目が無かったと
誰か、そんな事言ってたなぁー。
陳寿が言っているように戦争指揮能力はちょっとアレだけど、
政治力と文章力は凄まじかった…あとは優秀な戦闘指揮官がいれば…
そうではない
「應變將略,非其所長歟?」(臨機応変な軍略は彼の得意分野ではない)
実は諸葛亮の軍事的評価は非常に高い
太宗李世民「陳寿は軍事を理解していない」
@@千羽無貌 最も重要な「結果」を出してないのになぜ評価が高いといえるのか謎です。
@@NY-cz5to 例えば曹操は天下を統一できなかったが、その評価は未だに司馬炎の100倍である。
蜀と魏の力の差は元々10倍以上あった
大きな差がある弱国が強国に対して長年攻勢を続けるのは中国史上稀な現象である
唐の軍神李靖は司馬懿と諸葛亮を廉頗と白起と比較した。
「廉頗之拒白起,守而不戰;宣王之抗武侯,抑而不進。」(廉頗は白起と戦うが、防御を維持することしかできなかった。司馬宣王と諸葛武侯の対決は、孔明の攻勢を抑えることしかできない)
三国時代、武廟十哲の殿堂に入ったのは諸葛亮だけ
陳寿は軍隊の指揮は優れていたが、(演義諸葛亮みたいな)戦場で奇策を思いつき実行出来るタイプじゃなかったって評価じゃなかったっけ?
だからこそ劉備は自分が軍の指揮を取る以上参謀に法正を用いて諸葛亮には蕭何の役割を任せたって事で蕭何の役割をこなせるだけで化物ではあるけど、それで斜陽の蜀で最低限戦闘出来ただけで充分かと
侵攻戦の結果だけで言うなら魏の防衛した面々も呉への侵攻で諸葛亮以上に失敗してますし
@@nomoney8296 諸葛亮の軍事的能力を評価する上で一番重要なのは「自ら計画立案した軍事作戦を実行した結果、5回とも失敗して最後に戦場で死亡した」という結果だと思う。
陳寿はそこを能力不足と評価したら後の世でめっちゃ叩かれたみたいだけど。
それに「魏の防衛した面々」と「諸葛亮以上の失敗」とあるけど、戦場で丞相が死ぬ以上の失敗ってある…?
ば(か)…しょっく…!?
結果としては関羽、張飛がいた時代に天下を取れなかった不運と、諸葛亮の人を見る目がなかった事が蜀の終わりに繋がった。
登山家に潰された
馬謖=仙石かな
魏延ここまで居たんだ・・・そりゃ逃げたくなるわ
山登り失敗
出師表で泣くヤツ涙腺ユルユルやろw
無能な馬謖しか印象が無かったけどこう見ると違和感がありますね。
水源確保の凡ミスもあまりにも感が凄い
普通に考えたら兵力差が想像以上大きかったくらいが妥当なのかな
諸葛亮は初めての戦いになるのかな。
それで作戦は司馬懿に見破られ北伐も初陣の馬謖を大事なところに配置して失敗。
こう考えると孔明先生が全然すごくないになってしまう。
今回の敵は司馬懿じゃなくて相手は曹真と張郃になるんですわ
自身で立案・指揮した戦いは北伐の前にいちおう南蛮征伐があるね。
その凄くない孔明に直接対決でフルボッコにされる司馬懿さんw
@@ベンジャミンメンタルヘルス
フルボッコにしてるのに蜀側が撤退してるのをおかしいと思わないのが孔明ファンのクオリティだよね…
@@NY-cz5to蜀軍の撤退は食糧不足によるものだった
実際、司馬懿はその数倍の資力と力を持っているのに、正面から戦って勝てないのが無念だ。
以上は私の意見ではなく、東吳張儼の評価です。(彼はその戦いを観察していた同時代人だった
趙雲の降格は、降格に値する何かをしでかしたのでは。
孔明は、理由なく降格しないと思う。
一度蜀を滅亡寸前までの衰退に誘い込んだのは呂蒙や孫権等が悪い
なら益州取ったら荊州返す→涼州取ったら(ry
と言って孫権をキレさせた劉備が悪い
蜀の滅亡原因 パート2
①劉備を含む多くの人材の損失
②街亭での大敗
水筒を忘れて登山して現場放棄した自称優等生
馬謖ぅ
三國志
タイトルがおかしい。ほとんど全て魏の領土だった。