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感動の安売りって芸術だけではなくてスポーツの世界にもよく見受けられますよねー💦 とても共感します。
誰もが感じてるのに、誰もが言わないことを言って頂き、スカッとしました。評論やマスコミが【感動】って言葉を、多用し過ぎて。自分の感性に自信を持とう、と思います。
「感動」という言葉がもう既に使い古されてますし、また、範囲が広すぎるようにも思います。音楽を聴けば殆どの場合、大なり小なり何らかの方向に心は動くでしょうけどね。スポーツも含めて考えると「感動」の他に「夢」「勇気」等の言葉が安易に使われますね。「私の演奏で感動を与えたい」「僕のプレーで勇気を与えられれば」坂本龍一氏が「それはある種の驕りだ」と新聞で話してて共感を覚えました。車田さんのお話だと、演奏家は「感動させたい」と矢印が客に向かうのではなく、作曲家、或いは演奏家自身に矢印が向ける事が肝要で、感動するしないは客しだいといった事ですね。おっしゃる通りですね。ロマン・ロラン著「ベートーヴェンの生涯」の中にベートーヴェンの言葉が紹介されてて、「私がなぜ作曲をするのか? 私の中にある物が外に出ないといけないからだ」みたいな彼の言葉がありました。「感動を与えたい」などというのが薄っぺらに感じられます。
車田さんは深いですね感動しました。なんて言ってる場合ではないのですが。感動するとは、自然界や人生や様々な生命や誕生や死に対する畏怖と恐怖と哀しみと、わずかな悦びへの共感ではないかと思います。我々が知らず知らずに音楽に導かれる理由はそこにあるのではないでしょうか。手元の技術や方法や誰かが振りまいた情報でそこに達することは出来ません。演奏する側と聴く側の、互いの想いが深くなった奇跡的なある一点に感動と呼ばれる瞬間があるのでしょう。一人一人の想いであって、売り物には出来ないものだと思います。びっくりした、おどろいた、きれいだった、とは違う感情があると思います。
車田先生、素晴らしいお話をありがとうございます。わたしは20年くらい前に初めてラジオから流れてきたコンテンポラリーなクラシック音楽で運転の手を止めて泣いてから、やっぱり生きよう、と思い直した者です。音楽を聴いて泣くということが、どれだけ個人的に大きなことだったか。それまでは本を読んで感動することは多かったですが、音楽では初めてだったんです。感情に、聴いていた音楽がぴったり重なって、感情が大きく揺れました。素晴らしい経験でした。それからはコンサートのマタイ受難曲のキリストさまが亡くなる直前に酢を差し出されるところで泣いたり、チョン・キョンファのバイオリン演奏で体が震えたり、というのを経験して、感動というのはしたくてできるものでもないと気づきました。わたしは絵を描きますが、先生と同じように人を感動させたくて描くわけではなく、どうしても表現したいものがあるから描くわけです。感動を探すところには感動は見つからないのだと思います。奥の深いお話をありがとうございました。ほとんど哲学の領域だと思いました。
今回の動画は、演奏する上での心構えを改めて確認し学ぶことができました。どこを目指せばよいか迷うところがありましたが、もう迷いません。ありがとうございました。冷静な頭と熱い心、あとは練習ですね!
コロナ禍のさなか、youtubeを見て体操をしていたら偶々出ていた辻井伸行さんの動画を見て、全力投球の演奏が気に入ってCDを買いましたが動画と全然違う。ご自身も丁寧に弾いているそうだけど丁寧すぎて持ち前の奔放さと伸びやかさがなくなってしまい、これはライブを聴かなくちゃと初めてのピアノリサイタルへ。正直寝落ちを心配していましたがとんでもない。最初の曲から自然に涙が出ておしまいまで止まりませんでした、人生後半にして生まれて初めての感動体験。以来ライブに足繁く通っています、人のやることだからいい演奏もイマイチなのもありますがこれからも見守っていきたいと思っています。
昔、作曲をかなり頑張ってやりまして「これは聴いた人が感動してくれるだろう」なんて思って作った曲は大体ダメでしたw その理由がわかった気がします。むしろ、自分の当時の心情を五線紙に殴り書きしたような曲はけっこう喜ばれました。“熱々”だったんでしょうかね?「感動の〇〇」みたいなタイトルの音楽番組は辟易させられるのがわかっているので絶対見ません。感動するかどうかはこっちの問題なので、勝手に決めるなよ、と思っちゃいますね。
薄々感じていることをスパッと言及してくれてありがとうございます😊個人的に、涙を流すほど感動した演奏は、辻井さんの展覧会の絵のピアノ演奏です。オペラ歌手では涙を流すほどの感動は一度もないけど(批判してる訳ではなく)、ボニゾッリの歌声は一度聴いたら沼にハマってしまいます。涙を流す感動は本当に偶発的でしかないから、感動を強要するような雰囲気を作り出さないでほしいとは思います。
ボニソッリはおすすめです😊😊
聴衆として音楽を聴くときは「感動」よりも、「一つの演奏の中で強烈に記憶に残る瞬間」があるかどうかが大切だと思っています。音楽は時間芸術です。演奏家の最も重要な課題の一つは「時間をどう使うか」だと思います。一つの演奏の中で、忘れられない瞬間を作り出せる演奏家は、結果的にそれが「感動」につながるかなと思います。また同時にフルトヴェングラーのこの言葉も思い出しました。「若い指揮者は出し惜しみするというより、出し過ぎて曲を台無しにしています。自分が燃え上がったからといって、音楽も燃え上がるものではありません。そうではなく、音楽の各部分にどれくらいの熱が込められているか、見極めることが大切なのです。」
今日も素敵なお話ありがとうございました。金曜日が楽しみです。いいテーマですね。確かにめったに感動の演奏は聴けません。しかし、車田さんのお話のように、もし感動出来たら本当に素晴らしいと思います。①1989 ベルリンの壁崩壊記念 バーンスタイン バイエルン放送交響楽団 ②ズービンメータ 2011年東日本大震災チャリティーコンサート 第9番 ニ短調 2011年4月10日@東京文化会館 特に日本が打ちひしがれている時に放射能も気にせず単独来日して指揮していただいたメータさんの第9には涙が出ました。日本人にとって生涯の恩人だと思います。
音楽とリズムは魂の一番深いところに至る道を持ってる。。プラトン道があるだけで、深いところに行けるのは、その人次第ですね。いつも、浅いところをうろうろしてる自分を感じます。
今日のお話、ウンウンと頷いてしまいました😊いつも、RUclipsで音楽配信を色々聴いていますが、昨日ルービンシュタインの1964年のショパンオンリーのライブが出現、音声は古い録音で割れていましたが、どの曲もど迫力、もうだいぶ老境に入られていましたが、久しぶりの感動を味わい、ついコメントさせていただきました。特に先日話題の英雄ポロネーズは圧巻、最近やたらに演奏家自身が自分に酔っている風なものが見受けられますが、威風堂々とした演奏スタイルも素敵、聴衆も感動している様子が画面から大いに伝わって来ました❤
感動については、私も車田先生のご意見に共感いたします。感動と同じくらい今、癒される音楽と癒しも良く使われてますが、感動と一緒で、人を癒すということもとても難しいことだと思います。「感動」「癒し」どちらの言葉の重みがわからず、世間では軽く使われているかもしれませんね。車田先生がおっしゃってることは、正しく的を得てると思いました。
音楽には本当の意味で癒しの力があると思います。しかしご指摘の通り「癒し」も頻繁に使われすぎて、ちょっとセールス文句みたいになってしまっていますね。
ほんとうにおっしゃるとおり😊やむにやまれぬ思い❗️まさに創作の原点はそれ、でしょうね。しかしその心の誠と『売れるのか?』の狭間で創作者は苦しみ続ける、そんな気もしました。歌にしろ楽器にしろ、演奏家が曲をとおして己の真心と向き合うとき、他者にも何かが伝わるのではないかな、などと夢想します。
感動は、私の場合はそう度々ある訳ではありません、まぁ年齢的なものもあるかも知れませんが、最近少なく成りました。音楽の場合、初めて聞く音楽はワクワクします、新しい発見があるからです。しかし繰り返し聞いているうちに飽きてきます。そうなったら、ベートーベンに戻ります、そしたらまた新たな発見があります。同じ曲の別の演奏家を聴いたりしても、ワクワクします。クラシックの深さは限りないですね。もう50年クラシックファンですが、知らないことだらけです。まだまだ楽しみがありますね。
本当にその通りです。文章でも、人を感動させようとか、ほめてもらおうという書き手の裏側の気持ちはよく見えるもので、鼻持ちならない文章になってしまうと思います。自分の思考と感性を研ぎ澄ましたものが、きれいで共感できる文章だと思います。
言い得て妙と思います。ミュンヘンで過ごされていた私のチェロの師匠は感動させてはいけない、聴くほうも感動してはいけないとおっしゃっていました。あざとい表現は問題外。アメリカのショービジネスとは違う世界がヨーロッパにはあるようです。ありがとうございました。
もしかしたら自分に酔ってはいけないという事かもしれませんね😊😊
今回のテーマにはとても共感しました。巷に溢れる「感動」という言葉。「感動させてもらいたい人」と「感動させたい人」の間で「感動」が溺れかかっているかのようです。それは「感動する」という主体性が見落とされているからでしょう。こんな「同調圧力」に惑わされないよう、心を開いて行きたいです。
今日も深く考えさせられるテーマでした。思うに音楽における感動とは作曲家の感情が心にふれ、それに深く共感した状態なのかなと。演奏者は作曲家の思いをいかに聴衆に届けるか、そこに演奏者の恣意的な操作が入ったり、演奏者自身が感動にひたると、とたんにクサイ演奏になってしまうような気がします。私の住むブラジルでは演奏することを Interpretar 直訳すると「翻訳する」という単語を使います。なるほどと思いました。ドイツではどんな単語を使うのでしょうか?私は辻井伸行さんのファンですが、その演奏に何度も「感動」しました。それは彼の演奏が大変自然で彼のエゴが入り込んでいないからだと思います。音楽に純粋なんだろうと。
演奏を表すドイツ語はいろいろありますが、musizieren(音楽をする)という動詞があります。
@@kazuhisakurumada musica のラテン語の紀元を調べてみたらギリシャ神話の女神たちに行き着きました。面白いですね。
先生、おはようございます😃お話しほんと共感いたしました。ちょうど渡辺茂夫さんのヴァイオリンの音色で感動して涙しました🥲先生のお話しよくわかります😮
ありがとうございます😊😊
私は、ベートーベンの曲が好きですが、なぜかというと、彼の曲は、聴いていると、集中してしまい、ほかのことが、頭に入らなくなります。それだけ、彼の音楽は、説得力があるのだと思います。そして、聞いたあと、放心状態になることがよくあります。これも、一種の感動ですね?
すごくわかりやすい解説ありがとうございます。わたしも「感動」「至高」・・・といったことばが世の中であまりにも安易に使われて、ぎゃくに感動ってなに?みたいな気分になってました。「ひとを感動させたい」と思うこと自体、なんだかマインドコントロールしたいと言ってるみたいで違和感感じます。感動するかどうかは100%聴き手・受け手のマターの問題。演奏家は作曲家の思いをできるだけ熱量を維持して聴き手に届ける、それによって聴き手が感動する「こともある」ということだと思います。
「感動を与えようと思って作曲してないだろう」という車田さんのお考えに強く共鳴します。大学の時「音楽史」の授業でロマン・ロランの「ベートーヴェンの生涯」を読みました。その中にベートーヴェンの言葉がありました。「私がなぜ作曲するか。私の内にある物が外に出ないといけないからだ」みたいな物でした。正に車田さんのお話と一致しますね。坂本龍一氏が晩年話してました。「音楽で誰かを感動させようなんて烏滸がましいことだ」みたいな事でした。これにも強く共感しました。またこれは音楽だけでなくスポーツ等でも同じだと思います。 安っぽい感動は要らないですね。仰るようにプロは余計な事を考えずに自分のやるべき事を最大限やってくれれば良い。やる側が感動その他をこちらに届けてくれるのでも手渡してくれるのでもない。彼らが投げ出した何かを聴く側見る側がその気になって立ち上がり、手を延ばして掴みに行こうとした時(そういう精神状態となった時)に感動が生まれる事がある、というような事だと思ってます。
このチャンネルの影響で、ショパンコンクールとか改めて聴いてます。 感動しますね。 感動です🥹
素敵な事を改めて知らされました。ピアノ🎹演奏していますが、演奏しているものの、作曲家の思いを感じ取り、音として届けるようにしています。思いがけずに、感じ取っていただいてると嬉しく思います。❤❤❤
「誠実」「真摯」好きです。この動画自体が、感動だったかも。
自分自身にも、感動したと一言で済ませる安直さがあることに気付かされました。どの部分に自分がどう反応したのか、自分の心を丁寧に観察してみたいと、そう思いました。
😊😊
今回も勉強させていただきました。車田さんがコーヒーあんまりにも美味しく飲まれるので最近僕もコーヒー飲む量が増えました。これからもがんばって下さい。
クッキー🍪☕️美味しそうです❤
ぼんやり思っていたことで興味深く聞けました。若いころは有名な演奏家のコンサートに行ける機会があれば感動して当たり前と思っていたこともありましたが、初めてマタイ受難曲を聴いた時はほんとに感動したんだなと思っています。 確かに最近は演出みたいなものが特にテレビ(ドラマ等)では過度に見られるように思います〜私が歳をとり若者(現在の風潮)についていけないだけかもしれませんが・・・ たとえば以前がら「号泣」はただ涙を流せは号泣と表現する傾向があります。感動も同様に使われる〜感じられるようになってしまったのかなとも思われます。でも音楽ではそうそう感じられるものではない・・のか?本日の話題にはあまり関係ない思いを書いてしまいました。
聞き慣れた曲なのに、先日行ったコンサートで生の演奏を聞いたらすごく感動しました:D
興味深いお話でした。感動するのはいい演奏というより、その時の心の状態に左右されると思います。悩みがある時は、アマチュアの辿々しい音色にも涙したり。名演奏でもピンとこなかったり。作曲家が人を感動させるために作曲した、それはないですよね。面白い視点です。
和やかに核心をつくお言葉とても共感致します。ありがとうございます🎶私もチョコチップクッキー食べよ!
そう言えば突然思い出しましたが、オペラ道化師のDVDを何気に聴いていてドミンゴが仮面を付けろを歌い出した途端に耳が釘付けになってそのまま号泣した記憶があります💦後にも先にもあのような体験はあれが初めてでした。レオンカバッロとドミンゴのもの凄い音楽力に魂が反応したらしい❣️びっくりしました😂
ありがとうございます。😮コーラスをやっているものとして、まちがっついないことをおしえていただきました。
感動 同じように思います音楽に限らず 美術 読み物受け取る方の心を開くと 思います演奏する側が感動を与える 又伝えるのでなけ 受け取る方の心の扉を開くきっかけを作るそう思うのです
度々失礼します。2度目のコメントです。「言葉の重みがうしなわれている」こちら、すごく共感します。というのも、別の動画でもコメントで出した某テーマパークでは、最近、やたら「夢」だの「希望」だの「信じる心」だのを乗り物やショー、CMで連発しており、不快に感じていたからです。そのテーマパークは、昔から「夢」というキーワードは出てきてはいましたが、それはあくまでも、元々あるおとぎ話や、クリエイターたちが作り出した世界観のことを指していたように感じます。そして、物語や世界観を細部にこだわって再現することでできた非日常的な空間を「夢の国」と呼んでいたんだと思います。(ここまできたらどのテーマパークかわかっちゃいますね😅)。でも、ここ15年くらい、特に東日本大震災後から今の状況になり、ショーの内容が「夢は必ず叶う!だから諦めないで!」という説教くさい内容のものが増えたり、このアトラクションは夢とか関係なくない?というアトラクションで無理やり「夢」という言葉が連発されるようになりました。また、皮肉にも、ある時からテーマパーク運営の経費削減が始まり、明らかに全体のクオリティが下がって来ていたのですが、その頃のCMのキャッチコピーは「夢が叶う場所」…いや、昔に比べて客の夢は叶わなくなってるのですが?と内心ツッコミを入れてました😅そして、そう言ったコンテンツから感じるのは夢や希望ではなく、「きっとすごくマーケティングしたんだろうなー」という裏事情なんですよね😢そして残念なことに、クオリティが高かった時代よりも、今の方が来園者数も売上も遥かに上なんです…つまり、お客さんの多くは、安っぽかろうがなんだろうが、「夢」「希望」というキラキラワードを求めているということなんですよね。私はこのテーマパークの細部までこだわったエンターテイメント精神が好きだったので、近年の安っぽさが本当に残念に思います。そして、本当の感動がわかる人がもっとたくさん増えればいいと思うのですが、そんなことを言うと「何偉そうなことを言ってるんだ!黙れ!」となってしまうので困ったものです。
ベートーヴェン7番の2楽章はどんなオケでも涙が出てきます。(笑) 演奏する側は好きだからやる=人がどう聴くかは重要ではない。フムフム納得します。ただ、人前で演奏するのが苦手だった私でしたが、音楽は表現するもの=聴き手が必要と思えるようになって来ました。 好きだからこそ表現を学ぶ=作曲家の気持ちや感じた事を可能な限り正しく伝える。という事ですね。ますます納得。このコメント読んでる人は?????かも(笑)表現する事は音楽でも言葉でも難しい‼️
もう「感動」という言葉を使う事がためらわれるほどになってしまってますね。音楽を聴いて心を動かされる経験をたくさんしてきましたが、涙が溢れるほど感動したのは1度きりです。涙をもって感動とするのも拙速ですが、あれはきっと感動したのだと思います。ちなみにその曲は、十数年前のプロムスで聴いたヤナーチェクの『フクヴァルディの歌』という無伴奏合唱曲でした。
先生のお話肝に銘じます。
人々に感動させるような演奏をしたい。と言う演奏者の言葉にずっと疑問を持っていました。自分から言うような言葉ではないですよね。先生のお話しを聞いて、スッキリしました。
先生が😍💓💓になって、ずいぶんと聞いてきました❗これからも聞いて勉強したいと思います。でも、、、なんだか、、、最近はコーヒータイムのお菓子が楽しみで最後までしっかり、、いえ、、最後の方に気合いが入っています(笑)。これからも楽しみにしています。
ありがとうございます!
こちらこそありがとうございます😊😊
感動の押し付け、良く考えてみます。しっかり勉強して、演奏できるように頑張ります。楽しいお話ありがとうございました。
感動はそもそも目的ではなく結果に過ぎない、これに尽きると思います表現を求めそれに共感した側が結果として感動する、そこに芸術としての意味があると思います
そう言えば昔、オーディションで感動したわ! って、すごく良かったわよ。 なんて言ってくれる人がいて、そんな風に言ってくれるとは思ってもいなかったから、声自体は何も出来上がっていなかったけど、そう思ってくれる人がいるんだと思いました。 多分、何度も何度もオーディション受けに行く中で、必死さが伝わったのかなと。😁そこで思い出しました。 昔、小学生の頃、合唱部で一人一人みんなの前で歌う機会があったのですが、私の番になって先生が止めて、「私はこの人の声がいいとか、歌がいいとかではなく、歌う姿がいいと思うんですよ。」なんて、言ってたのを思い出します。 思ってもない感想で、聴き手は何がいいかと受け取るのは、人それぞれなんだと思いました。
👏👏👏👏👏
今回の動画も激しく賛同します!
同じ演目を何度観に行っても(オペラ座の怪人🎵✨😅)同じキャストでもキャストのその日の調子や自分の心の状態でも感じ方(感動✨)が変わると実感しています🎵😃💖✨最近詰めて観に行きすぎて心身疲れてしまい😅素晴らしい公演でも心がフリーズみたいになった事がありましたありゃ😅
ちなみに私もコーヒーが大好きなんですが、朝一番のコーヒーには感動❓します。
先生の解説に、感動しましたよ💕
海外のコンサートライブを見た時、よく終わった直後に立ち上がってブラボーと大拍手の嵐、中には歓声と指笛も聞こえます。クラシックのコンサートであの“乗り”は日本人には なかなかできないので素直にうらやましいなぁ‥と思います。感動まではいかなくても、普通に楽曲を生で聴けた喜びはいつも感じているのですけどね😅
@@michioakiyama4046 そうですね、昔からよく目にします。雑に言ってしまえば、まるでロックバンドのコンサートを見たテンションのようなノリと言いたかったので、説明不足でしたね、すみません。
偶然ですが、先週末に日本人とブラボーについての動画を撮影しました😊😊今度話します!
「ブラボー」も一つの音楽ですから、タイミングや音程などが合わないと違和感が残り、会場全体の空気感が気まずくなります。外人の「ブラボー」は、最高のタイミング、音色、音程、音量で感動することがよくあります。
お金が掛かるオペラは感動を与えたいと、高音を出せるようにカストラートを使ったりと、当時から色々と工夫があり、有名なイタリア人のオペラ歌手に従って、モーツアルトも楽譜を変更していたという。そういうのも面白いなあと思います。
自分の演奏で精一杯の感情を表現した時、スルーする人も多い中、歩いていた老夫婦に「感動した」って言ってもらえて、その時に自分の感情が溢れ出して相手の感情を押し動かす、押し動かされる。きっとそうなんだろうなと思いました。「コミュニケーション」と聞いて、説明を聞いてすごく納得でしました。作曲家の曲を借りて自らの感情を表現するとしたらそれはもう別の曲なんでしょうか
神回ってやつかもしれないと思いました。オペラでぐっときたのは、アクナーテン。アンソニーロスコスタンゾ。METオペラの映画館上映でしたが記憶に残る歌唱でした。
感動レベルを1~10に分けると1,2レベルの感動は、よくあります。4,5レベルの感動は、年に数回あります。9,10レベルの感動は、数十年に1度位の感じ。自分の脳や耳の状態、湿度、音量。。。様々な条件が上手く嚙み合わないとトップレベルの感動には至りません。
僕もわりとそんな感じですね。
わたしは、中学の音楽の授業で、月の光で、すごく感動しました!
面白い話でした。聞く方の褒め言葉としても、「感動した」って言っておけばなんとかなるっていうこともありますよね。
感動の原動力の一つに思い込みもある様な気がします。
何に感動しているのか、というのは自覚があった方が良いでしょうね。感動している人が演奏や歌唱に感動しているケースはほんのわずか、という気がします。
作為は伝わるので感動させることは出来ないと思います。演奏者がその音楽に感動しているから、聞き手も感動するのだと思います。・自分が出逢った、感動を与えてくれた人風景小説映画絵画などなどその時の感情や心の動きを演奏するときに再現することで、自身が感動し聴き手も感動すると思います。曲に合った心や感情の動きの流れを創り上げること、それが音楽に命を与えること。表現者にとって、暗闇に灯された小さな明かりが希望となるように、苦難や苦悩を越えた先に出逢えたものが、何よりの財産になります。表現するのは、その感動を色褪せない様に、初心に立ち戻り再生させること。初心忘るべからず
「しあわせとは果たすべき義務を成し遂げたのちに沸き起こる結果にすぎない」Victor Emil Frankl...Trotzdem Ja zum Leben sagen.
仰ることに全く同意します。少し前に【感動ポルノ】って話がありましたね。障碍を持っている方は、別に健常者を感動させたくて何かしてるんじゃねぇよ!っての。『演奏家が(作曲家が)聴衆を感動させる』って、神か貴様は、と思います。『聴き手が、作曲家や演奏家による音楽で、感動すること【も】ある』というだけでしょう。(あくまでも主語は【聴き手】)作曲家や演奏家は、自分のしたいようにやればよろしい。演奏家ってある意味、稲川淳二さんの怪談みたいなもので、人から聞いた話や複数の話を組み合わせたり、時には創作したりして、聴衆を【楽しませる】のだと思います。稲川さんも感動させたくてやってるんじゃなくて、怪談聞いてる女の子を【怖がらせたい】ってのが元々なんじゃあねぇかな、と😅
苦しみ悲しみ絶望の中で創造していく芸術家のエネルギーについて、生きることについていろいろ考えました。
確かに感動ってメディアの宣伝文句で勝手にハードル上がって自滅するのが多い気もしますね。
ヨーヨーマのコンサートには一度も感動しなかった事はありません。本当にあの最後部まで美しく届くピアニシモはホールの音響テストにいいのではないかと思います。😊
電気が走るとか、涙が出る感動とか良く聞きます。自分も何回もあります(音楽に限らず)しかし、自分の肉体や骨が砕け散るような感覚は1度しかありません(61年生きてきて)死の淵を覗く時は、涙も感動もなく、魂が宇宙に飛んでいく感じなんでしょうか?
勉強になったばい。
クラッシック音楽はラフマニノフくらいの時代を最後に大作曲家がいないと思いますが、なぜでしょうか?昔の作曲家は聴衆の感動するかどうかよりも内面の想いを表現せざるを得ない暗いの想いから作曲していたのでしょうか?
11:10~『最近は、至高とか、究極、なんて誰でも使うので』美味しんぼが戦犯ですな!(笑)
ドイツに行った事がなく、どれほど文化が違うか等は解りませんが…今の東京はやっぱり、芸術家も流行らなければ食べられないせいか過度に編集映えとか、インスタ映えとかに縛られて、せっかく音楽を始めても中身に触れたり学んだりできないまま老いる人、多いですね。
よくぞ言ってくれた。音楽家が「感動を与えたい」と言う場面を見たことがありませんが、スポーツ選手が「感動を与えられるように頑張ります」って、インタビューで感動の押し売りしてますね。日本語力の問題でしょうか
最近、ずっと考えていることです。クラシックに興味ない人間が偶然にある演奏家の演奏を聴いて、‘’感動した、泣いた‘’というコメントをたくさん目にした。音楽に‘’感動した、泣いた‘’か、あるいは、演奏家が自分の好みのアイドルだから、‘’感動した、泣いた‘’か、どち?
すみません。一年前と殆ど同じ事をコメントしてしまいました。
ドイツ社会でも、日本と同じように、「感動」症候群が蔓延しているのですか?
感動の安売りって芸術だけではなくてスポーツの世界にもよく見受けられますよねー💦 とても共感します。
誰もが感じてるのに、誰もが言わないことを言って頂き、スカッとしました。評論やマスコミが【感動】って言葉を、多用し過ぎて。自分の感性に自信を持とう、と思います。
「感動」という言葉がもう既に使い古されてますし、また、範囲が広すぎるようにも思います。音楽を聴けば殆どの場合、大なり小なり何らかの方向に心は動くでしょうけどね。
スポーツも含めて考えると「感動」の他に「夢」「勇気」等の言葉が安易に使われますね。
「私の演奏で感動を与えたい」
「僕のプレーで勇気を与えられれば」
坂本龍一氏が「それはある種の驕りだ」と新聞で話してて共感を覚えました。
車田さんのお話だと、演奏家は「感動させたい」と矢印が客に向かうのではなく、作曲家、或いは演奏家自身に矢印が向ける事が肝要で、感動するしないは客しだいといった事ですね。おっしゃる通りですね。
ロマン・ロラン著「ベートーヴェンの生涯」の中にベートーヴェンの言葉が紹介されてて、
「私がなぜ作曲をするのか? 私の中にある物が外に出ないといけないからだ」
みたいな彼の言葉がありました。
「感動を与えたい」などというのが薄っぺらに感じられます。
車田さんは深いですね感動しました。なんて言ってる場合ではないのですが。感動するとは、自然界や人生や様々な生命や誕生や死に対する畏怖と恐怖と哀しみと、わずかな悦びへの共感ではないかと思います。
我々が知らず知らずに音楽に導かれる理由はそこにあるのではないでしょうか。手元の技術や方法や誰かが振りまいた情報でそこに達することは出来ません。
演奏する側と聴く側の、互いの想いが深くなった奇跡的なある一点に感動と呼ばれる瞬間があるのでしょう。
一人一人の想いであって、売り物には出来ないものだと思います。
びっくりした、おどろいた、きれいだった、とは違う感情があると思います。
車田先生、素晴らしいお話をありがとうございます。わたしは20年くらい前に初めてラジオから流れてきたコンテンポラリーなクラシック音楽で運転の手を止めて泣いてから、やっぱり生きよう、と思い直した者です。音楽を聴いて泣くということが、どれだけ個人的に大きなことだったか。それまでは本を読んで感動することは多かったですが、音楽では初めてだったんです。感情に、聴いていた音楽がぴったり重なって、感情が大きく揺れました。素晴らしい経験でした。それからはコンサートのマタイ受難曲のキリストさまが亡くなる直前に酢を差し出されるところで泣いたり、チョン・キョンファのバイオリン演奏で体が震えたり、というのを経験して、感動というのはしたくてできるものでもないと気づきました。わたしは絵を描きますが、先生と同じように人を感動させたくて描くわけではなく、どうしても表現したいものがあるから描くわけです。感動を探すところには感動は見つからないのだと思います。奥の深いお話をありがとうございました。ほとんど哲学の領域だと思いました。
今回の動画は、演奏する上での心構えを改めて確認し学ぶことができました。どこを目指せばよいか迷うところがありましたが、もう迷いません。ありがとうございました。
冷静な頭と熱い心、あとは練習ですね!
コロナ禍のさなか、youtubeを見て体操をしていたら偶々出ていた辻井伸行さんの動画を見て、全力投球の演奏が気に入ってCDを買いましたが動画と全然違う。ご自身も丁寧に弾いているそうだけど丁寧すぎて持ち前の奔放さと伸びやかさがなくなってしまい、これはライブを聴かなくちゃと初めてのピアノリサイタルへ。正直寝落ちを心配していましたがとんでもない。最初の曲から自然に涙が出ておしまいまで止まりませんでした、人生後半にして生まれて初めての感動体験。以来ライブに足繁く通っています、人のやることだからいい演奏もイマイチなのもありますがこれからも見守っていきたいと思っています。
昔、作曲をかなり頑張ってやりまして「これは聴いた人が感動してくれるだろう」なんて思って作った曲は大体ダメでしたw その理由がわかった気がします。
むしろ、自分の当時の心情を五線紙に殴り書きしたような曲はけっこう喜ばれました。“熱々”だったんでしょうかね?
「感動の〇〇」みたいなタイトルの音楽番組は辟易させられるのがわかっているので絶対見ません。感動するかどうかはこっちの問題なので、勝手に決めるなよ、と思っちゃいますね。
薄々感じていることをスパッと言及してくれてありがとうございます😊個人的に、涙を流すほど感動した演奏は、辻井さんの展覧会の絵のピアノ演奏です。オペラ歌手では涙を流すほどの感動は一度もないけど(批判してる訳ではなく)、ボニゾッリの歌声は一度聴いたら沼にハマってしまいます。涙を流す感動は本当に偶発的でしかないから、感動を強要するような雰囲気を作り出さないでほしいとは思います。
ボニソッリはおすすめです😊😊
聴衆として音楽を聴くときは「感動」よりも、「一つの演奏の中で強烈に記憶に残る瞬間」があるかどうかが大切だと思っています。
音楽は時間芸術です。演奏家の最も重要な課題の一つは「時間をどう使うか」だと思います。
一つの演奏の中で、忘れられない瞬間を作り出せる演奏家は、結果的にそれが「感動」につながるかなと思います。
また同時にフルトヴェングラーのこの言葉も思い出しました。
「若い指揮者は出し惜しみするというより、出し過ぎて曲を台無しにしています。自分が燃え上がったからといって、音楽も燃え上がるものではありません。そうではなく、音楽の各部分にどれくらいの熱が込められているか、見極めることが大切なのです。」
今日も素敵なお話ありがとうございました。金曜日が楽しみです。いいテーマですね。確かにめったに感動の演奏は聴けません。しかし、車田さんのお話のように、もし感動出来たら本当に素晴らしいと思います。①1989 ベルリンの壁崩壊記念 バーンスタイン バイエルン放送交響楽団 ②ズービンメータ 2011年東日本大震災チャリティーコンサート 第9番 ニ短調 2011年4月10日@東京文化会館 特に日本が打ちひしがれている時に放射能も気にせず単独来日して指揮していただいたメータさんの第9には涙が出ました。日本人にとって生涯の恩人だと思います。
音楽とリズムは魂の一番深いところに至る道を持ってる。。プラトン
道があるだけで、深いところに行けるのは、その人次第ですね。
いつも、浅いところをうろうろしてる自分を感じます。
今日のお話、ウンウンと頷いてしまいました😊いつも、RUclipsで音楽配信を色々聴いていますが、昨日ルービンシュタインの1964年のショパンオンリーのライブが出現、音声は古い録音で割れていましたが、どの曲もど迫力、もうだいぶ老境に入られていましたが、久しぶりの感動を味わい、ついコメントさせていただきました。特に先日話題の英雄ポロネーズは圧巻、最近やたらに演奏家自身が自分に酔っている風なものが見受けられますが、威風堂々とした演奏スタイルも素敵、聴衆も感動している様子が画面から大いに伝わって来ました❤
感動については、私も車田先生のご意見に共感いたします。感動と同じくらい今、癒される音楽と癒しも良く使われてますが、感動と一緒で、人を癒すということもとても難しいことだと思います。「感動」「癒し」どちらの言葉の重みがわからず、世間では軽く使われているかもしれませんね。車田先生がおっしゃってることは、正しく的を得てると思いました。
音楽には本当の意味で癒しの力があると思います。しかしご指摘の通り「癒し」も頻繁に使われすぎて、ちょっとセールス文句みたいになってしまっていますね。
ほんとうにおっしゃるとおり😊
やむにやまれぬ思い❗️
まさに創作の原点はそれ、でしょうね。
しかしその心の誠と『売れるのか?』の狭間で創作者は苦しみ続ける、そんな気もしました。
歌にしろ楽器にしろ、演奏家が曲をとおして己の真心と向き合うとき、他者にも何かが伝わるのではないかな、などと夢想します。
感動は、私の場合はそう度々ある訳ではありません、まぁ年齢的なものもあるかも知れませんが、最近少なく成りました。
音楽の場合、初めて聞く音楽はワクワクします、新しい発見があるからです。しかし繰り返し聞いているうちに飽きてきます。
そうなったら、ベートーベンに戻ります、そしたらまた新たな発見があります。同じ曲の別の演奏家を聴いたりしても、ワクワクします。
クラシックの深さは限りないですね。もう50年クラシックファンですが、知らないことだらけです。まだまだ楽しみがありますね。
本当にその通りです。文章でも、人を感動させようとか、ほめてもらおうという書き手の裏側の気持ちはよく見えるもので、鼻持ちならない文章になってしまうと思います。自分の思考と感性を研ぎ澄ましたものが、きれいで共感できる文章だと思います。
言い得て妙と思います。ミュンヘンで過ごされていた私のチェロの師匠は感動させてはいけない、聴くほうも感動してはいけないとおっしゃっていました。あざとい表現は問題外。アメリカのショービジネスとは違う世界がヨーロッパにはあるようです。ありがとうございました。
もしかしたら自分に酔ってはいけないという事かもしれませんね😊😊
今回のテーマにはとても共感しました。巷に溢れる「感動」という言葉。「感動させてもらいたい人」と「感動させたい人」の間で「感動」が溺れかかっているかのようです。それは「感動する」という主体性が見落とされているからでしょう。こんな「同調圧力」に惑わされないよう、心を開いて行きたいです。
今日も深く考えさせられるテーマでした。思うに音楽における感動とは作曲家の感情が心にふれ、それに深く共感した状態なのかなと。演奏者は作曲家の思いをいかに聴衆に届けるか、そこに演奏者の恣意的な操作が入ったり、演奏者自身が感動にひたると、とたんにクサイ演奏になってしまうような気がします。
私の住むブラジルでは演奏することを Interpretar 直訳すると「翻訳する」という単語を使います。なるほどと思いました。ドイツではどんな単語を使うのでしょうか?
私は辻井伸行さんのファンですが、その演奏に何度も「感動」しました。それは彼の演奏が大変自然で彼のエゴが入り込んでいないからだと思います。音楽に純粋なんだろうと。
演奏を表すドイツ語はいろいろありますが、musizieren(音楽をする)という動詞があります。
@@kazuhisakurumada musica のラテン語の紀元を調べてみたらギリシャ神話の女神たちに行き着きました。面白いですね。
先生、おはようございます😃
お話しほんと共感いたしました。
ちょうど渡辺茂夫さんの
ヴァイオリンの音色で感動して
涙しました🥲
先生のお話しよくわかります😮
ありがとうございます😊😊
私は、ベートーベンの曲が好きですが、なぜかというと、彼の曲は、聴いていると、集中してしまい、ほかのことが、頭に入らなくなります。それだけ、彼の音楽は、説得力があるのだと思います。そして、聞いたあと、放心状態になることがよくあります。これも、一種の感動ですね?
すごくわかりやすい解説ありがとうございます。わたしも「感動」「至高」・・・といったことばが世の中であまりにも安易に使われて、ぎゃくに感動ってなに?みたいな気分になってました。「ひとを感動させたい」と思うこと自体、なんだかマインドコントロールしたいと言ってるみたいで違和感感じます。感動するかどうかは100%聴き手・受け手のマターの問題。演奏家は作曲家の思いをできるだけ熱量を維持して聴き手に届ける、それによって聴き手が感動する「こともある」ということだと思います。
「感動を与えようと思って作曲してないだろう」という車田さんのお考えに強く共鳴します。
大学の時「音楽史」の授業でロマン・ロランの「ベートーヴェンの生涯」を読みました。その中にベートーヴェンの言葉がありました。
「私がなぜ作曲するか。私の内にある物が外に出ないといけないからだ」
みたいな物でした。正に車田さんのお話と一致しますね。
坂本龍一氏が晩年話してました。
「音楽で誰かを感動させようなんて烏滸がましいことだ」
みたいな事でした。これにも強く共感しました。またこれは音楽だけでなくスポーツ等でも同じだと思います。
安っぽい感動は要らないですね。仰るようにプロは余計な事を考えずに自分のやるべき事を最大限やってくれれば良い。やる側が感動その他をこちらに届けてくれるのでも手渡してくれるのでもない。彼らが投げ出した何かを聴く側見る側がその気になって立ち上がり、手を延ばして掴みに行こうとした時(そういう精神状態となった時)に感動が生まれる事がある、というような事だと思ってます。
このチャンネルの影響で、ショパンコンクールとか改めて聴いてます。 感動しますね。 感動です🥹
素敵な事を改めて知らされました。ピアノ🎹演奏していますが、演奏しているものの、作曲家の思いを感じ取り、音として届けるようにしています。思いがけずに、感じ取っていただいてると嬉しく思います。❤❤❤
「誠実」「真摯」好きです。この動画自体が、感動だったかも。
自分自身にも、感動したと一言で済ませる安直さがあることに気付かされました。どの部分に自分がどう反応したのか、自分の心を丁寧に観察してみたいと、そう思いました。
😊😊
今回も勉強させていただきました。
車田さんがコーヒーあんまりにも美味しく飲まれるので最近僕もコーヒー飲む量が増えました。これからもがんばって下さい。
😊😊
クッキー🍪☕️美味しそうです❤
ぼんやり思っていたことで興味深く聞けました。
若いころは有名な演奏家のコンサートに行ける機会があれば感動して当たり前と思っていたこともありましたが、初めてマタイ受難曲を聴いた時はほんとに感動したんだなと思っています。
確かに最近は演出みたいなものが特にテレビ(ドラマ等)では過度に見られるように思います〜私が歳をとり若者(現在の風潮)についていけないだけかもしれませんが・・・
たとえば以前がら「号泣」はただ涙を流せは号泣と表現する傾向があります。感動も同様に使われる〜感じられるようになってしまったのかなとも思われます。でも音楽ではそうそう感じられるものではない・・のか?
本日の話題にはあまり関係ない思いを書いてしまいました。
聞き慣れた曲なのに、先日行ったコンサートで生の演奏を聞いたらすごく感動しました:D
興味深いお話でした。感動するのはいい演奏というより、その時の心の状態に左右されると思います。悩みがある時は、アマチュアの辿々しい音色にも涙したり。
名演奏でもピンとこなかったり。
作曲家が人を感動させるために作曲した、それはないですよね。面白い視点です。
和やかに核心をつくお言葉とても共感致します。ありがとうございます🎶私もチョコチップクッキー食べよ!
そう言えば突然思い出しましたが、オペラ道化師のDVDを何気に聴いていてドミンゴが仮面を付けろを歌い出した途端に耳が釘付けになってそのまま号泣した記憶があります💦
後にも先にもあのような体験はあれが初めてでした。
レオンカバッロとドミンゴのもの凄い音楽力に魂が反応したらしい❣️
びっくりしました😂
ありがとうございます。😮コーラスをやっているものとして、まちがっついないことをおしえていただきました。
感動 同じように思います
音楽に限らず 美術 読み物
受け取る方の心を開く
と 思います
演奏する側が感動を与える 又伝えるのでなけ 受け取る方の心の扉を開くきっかけを作る
そう思うのです
度々失礼します。
2度目のコメントです。
「言葉の重みがうしなわれている」こちら、すごく共感します。
というのも、別の動画でもコメントで出した某テーマパークでは、最近、やたら「夢」だの「希望」だの「信じる心」だのを乗り物やショー、CMで連発しており、不快に感じていたからです。
そのテーマパークは、昔から「夢」というキーワードは出てきてはいましたが、それはあくまでも、元々あるおとぎ話や、クリエイターたちが作り出した世界観のことを指していたように感じます。
そして、物語や世界観を細部にこだわって再現することでできた非日常的な空間を「夢の国」と呼んでいたんだと思います。(ここまできたらどのテーマパークかわかっちゃいますね😅)。
でも、ここ15年くらい、特に東日本大震災後から今の状況になり、ショーの内容が「夢は必ず叶う!だから諦めないで!」という説教くさい内容のものが増えたり、このアトラクションは夢とか関係なくない?というアトラクションで無理やり「夢」という言葉が連発されるようになりました。
また、皮肉にも、ある時からテーマパーク運営の経費削減が始まり、明らかに全体のクオリティが下がって来ていたのですが、その頃のCMのキャッチコピーは「夢が叶う場所」…
いや、昔に比べて客の夢は叶わなくなってるのですが?と内心ツッコミを入れてました😅
そして、そう言ったコンテンツから感じるのは夢や希望ではなく、「きっとすごくマーケティングしたんだろうなー」という裏事情なんですよね😢
そして残念なことに、クオリティが高かった時代よりも、今の方が来園者数も売上も遥かに上なんです…
つまり、お客さんの多くは、安っぽかろうがなんだろうが、「夢」「希望」というキラキラワードを求めているということなんですよね。
私はこのテーマパークの細部までこだわったエンターテイメント精神が好きだったので、近年の安っぽさが本当に残念に思います。
そして、本当の感動がわかる人がもっとたくさん増えればいいと思うのですが、そんなことを言うと「何偉そうなことを言ってるんだ!黙れ!」となってしまうので困ったものです。
ベートーヴェン7番の2楽章はどんなオケでも涙が出てきます。(笑) 演奏する側は好きだからやる=人がどう聴くかは重要ではない。フムフム納得します。ただ、人前で演奏するのが苦手だった私でしたが、音楽は表現するもの=聴き手が必要と思えるようになって来ました。 好きだからこそ表現を学ぶ=作曲家の気持ちや感じた事を可能な限り正しく伝える。という事ですね。ますます納得。このコメント読んでる人は?????かも(笑)表現する事は音楽でも言葉でも難しい‼️
もう「感動」という言葉を使う事がためらわれるほどになってしまってますね。
音楽を聴いて心を動かされる経験をたくさんしてきましたが、涙が溢れるほど感動したのは1度きりです。涙をもって感動とするのも拙速ですが、あれはきっと感動したのだと思います。
ちなみにその曲は、十数年前のプロムスで聴いたヤナーチェクの『フクヴァルディの歌』という無伴奏合唱曲でした。
先生のお話肝に銘じます。
😊😊
人々に感動させるような演奏をしたい。と言う演奏者の言葉にずっと疑問を持っていました。
自分から言うような言葉ではないですよね。
先生のお話しを聞いて、スッキリしました。
先生が😍💓💓になって、ずいぶんと聞いてきました❗これからも聞いて勉強したいと思います。でも、、、なんだか、、、最近はコーヒータイムのお菓子が楽しみで最後までしっかり、、いえ、、最後の方に気合いが入っています(笑)。これからも楽しみにしています。
ありがとうございます!
こちらこそありがとうございます😊😊
感動の押し付け、良く考えてみます。しっかり勉強して、演奏できるように頑張ります。楽しいお話ありがとうございました。
感動はそもそも目的ではなく結果に過ぎない、これに尽きると思います
表現を求めそれに共感した側が結果として感動する、そこに芸術としての意味があると思います
そう言えば昔、オーディションで感動したわ! って、すごく良かったわよ。 なんて言ってくれる人がいて、そんな風に言ってくれるとは思ってもいなかったから、声自体は何も出来上がっていなかったけど、そう思ってくれる人がいるんだと思いました。 多分、何度も何度もオーディション受けに行く中で、必死さが伝わったのかなと。😁
そこで思い出しました。 昔、小学生の頃、合唱部で一人一人みんなの前で歌う機会があったのですが、私の番になって先生が止めて、「私はこの人の声がいいとか、歌がいいとかではなく、歌う姿がいいと思うんですよ。」なんて、言ってたのを思い出します。 思ってもない感想で、聴き手は何がいいかと受け取るのは、人それぞれなんだと思いました。
👏👏👏👏👏
今回の動画も激しく賛同します!
同じ演目を何度観に行っても(オペラ座の怪人🎵✨😅)同じキャストでもキャストのその日の調子や自分の心の状態でも感じ方(感動✨)が変わると実感しています🎵😃💖✨最近詰めて観に行きすぎて心身疲れてしまい😅素晴らしい公演でも心がフリーズみたいになった事がありましたありゃ😅
ちなみに私もコーヒーが大好きなんですが、朝一番のコーヒーには感動❓します。
先生の解説に、感動しましたよ💕
海外のコンサートライブを見た時、よく終わった直後に立ち上がってブラボーと大拍手の嵐、中には歓声と指笛も聞こえます。
クラシックのコンサートであの“乗り”は日本人には なかなかできないので素直にうらやましいなぁ‥と思います。感動まではいかなくても、普通に楽曲を生で聴けた喜びはいつも感じているのですけどね😅
@@michioakiyama4046 そうですね、昔からよく目にします。
雑に言ってしまえば、まるでロックバンドのコンサートを見たテンションのようなノリと言いたかったので、説明不足でしたね、すみません。
偶然ですが、先週末に日本人とブラボーについての動画を撮影しました😊😊今度話します!
「ブラボー」も一つの音楽ですから、タイミングや音程などが合わないと違和感が残り、会場全体の空気感が気まずくなります。
外人の「ブラボー」は、最高のタイミング、音色、音程、音量で感動することがよくあります。
お金が掛かるオペラは感動を与えたいと、高音を出せるようにカストラートを使ったりと、当時から色々と工夫があり、
有名なイタリア人のオペラ歌手に従って、モーツアルトも楽譜を変更していたという。
そういうのも面白いなあと思います。
自分の演奏で精一杯の感情を表現した時、スルーする人も多い中、歩いていた老夫婦に「感動した」って言ってもらえて、
その時に自分の感情が溢れ出して相手の感情を押し動かす、押し動かされる。きっとそうなんだろうなと思いました。
「コミュニケーション」と聞いて、説明を聞いてすごく納得でしました。
作曲家の曲を借りて自らの感情を表現するとしたらそれはもう別の曲なんでしょうか
神回ってやつかもしれないと思いました。
オペラでぐっときたのは、アクナーテン。アンソニーロスコスタンゾ。
METオペラの映画館上映でしたが記憶に残る歌唱でした。
感動レベルを1~10に分けると
1,2レベルの感動は、よくあります。
4,5レベルの感動は、年に数回あります。
9,10レベルの感動は、数十年に1度位の感じ。
自分の脳や耳の状態、湿度、音量。。。様々な条件が上手く嚙み合わないとトップレベルの感動には至りません。
僕もわりとそんな感じですね。
わたしは、中学の音楽の授業で、月の光で、すごく感動しました!
面白い話でした。聞く方の褒め言葉としても、「感動した」って言っておけばなんとかなるっていうこともありますよね。
感動の原動力の一つに思い込みもある様な気がします。
何に感動しているのか、というのは自覚があった方が良いでしょうね。
感動している人が演奏や歌唱に感動しているケースはほんのわずか、という気がします。
作為は伝わるので感動させることは出来ないと思います。
演奏者がその音楽に感動しているから、聞き手も感動するのだと思います。
・
自分が出逢った、感動を与えてくれた
人
風景
小説
映画
絵画
などなど
その時の感情や心の動きを演奏するときに再現することで、自身が感動し聴き手も感動すると思います。
曲に合った心や感情の動きの流れを創り上げること、それが音楽に命を与えること。
表現者にとって、暗闇に灯された小さな明かりが希望となるように、苦難や苦悩を越えた先に出逢えたものが、何よりの財産になります。
表現するのは、その感動を色褪せない様に、初心に立ち戻り再生させること。
初心忘るべからず
「しあわせとは果たすべき義務を成し遂げたのちに沸き起こる結果にすぎない」
Victor Emil Frankl...Trotzdem Ja zum Leben sagen.
仰ることに全く同意します。
少し前に【感動ポルノ】って話がありましたね。
障碍を持っている方は、別に健常者を感動させたくて何かしてるんじゃねぇよ!っての。
『演奏家が(作曲家が)聴衆を感動させる』って、神か貴様は、と思います。
『聴き手が、作曲家や演奏家による音楽で、感動すること【も】ある』というだけでしょう。(あくまでも主語は【聴き手】)
作曲家や演奏家は、自分のしたいようにやればよろしい。
演奏家ってある意味、稲川淳二さんの怪談みたいなもので、人から聞いた話や複数の話を組み合わせたり、時には創作したりして、聴衆を【楽しませる】のだと思います。
稲川さんも感動させたくてやってるんじゃなくて、怪談聞いてる女の子を【怖がらせたい】ってのが元々なんじゃあねぇかな、と😅
苦しみ悲しみ絶望の中で創造していく芸術家のエネルギーについて、生きることについていろいろ考えました。
確かに感動ってメディアの宣伝文句で勝手にハードル上がって自滅するのが多い気もしますね。
ヨーヨーマのコンサートには一度も感動しなかった事はありません。本当にあの最後部まで美しく届くピアニシモはホールの音響テストにいいのではないかと思います。😊
電気が走るとか、涙が出る感動とか良く聞きます。
自分も何回もあります(音楽に限らず)
しかし、自分の肉体や骨が砕け散るような感覚は1度しかありません(61年生きてきて)
死の淵を覗く時は、涙も感動もなく、魂が宇宙に飛んでいく感じなんでしょうか?
勉強になったばい。
クラッシック音楽はラフマニノフくらいの時代を最後に大作曲家がいないと思いますが、なぜでしょうか?昔の作曲家は聴衆の感動するかどうかよりも内面の想いを表現せざるを得ない暗いの想いから作曲していたのでしょうか?
11:10~
『最近は、至高とか、究極、なんて誰でも使うので』
美味しんぼが戦犯ですな!(笑)
ドイツに行った事がなく、どれほど文化が違うか等は解りませんが…今の東京はやっぱり、芸術家も流行らなければ食べられないせいか過度に編集映えとか、インスタ映えとかに縛られて、せっかく音楽を始めても中身に触れたり学んだりできないまま老いる人、多いですね。
よくぞ言ってくれた。音楽家が「感動を与えたい」と言う場面を見たことがありませんが、スポーツ選手が「感動を与えられるように頑張ります」って、インタビューで感動の押し売りしてますね。日本語力の問題でしょうか
最近、ずっと考えていることです。
クラシックに興味ない人間が偶然にある演奏家の演奏を聴いて、‘’感動した、泣いた‘’というコメントをたくさん目にした。
音楽に‘’感動した、泣いた‘’か、あるいは、演奏家が自分の好みのアイドルだから、‘’感動した、泣いた‘’か、
どち?
すみません。一年前と殆ど同じ事をコメントしてしまいました。
ドイツ社会でも、日本と同じように、「感動」症候群が蔓延しているのですか?