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初めは般若心経も読まない浄土真宗なんか仏教でないと思ってました。しかし、京都のとある浄土宗の和尚と話した時に、親鸞様は阿弥陀様ただおひとりでよいとされた。浄土宗の核心部分を残されて、他を除かれた方と仰られて、それを聞いてやっと腑に落ちた。そこから私は、浄土宗に敬意を払いつつ、浄土真宗の門徒ととなりました。お導きに感謝。南無阿弥陀仏。
今日も大変,学び勉強になりました。ありがとうございました。
法然上人と親鸞聖人の違いスッキリと解りました。他力の信心を頂ける様に聴聞します。いつも有難う御座います。
信心は大切ですね。わかりやすかったです。今日もありがとうございます🙏
今日もありがとうございます🙇
今日もありがとうございました🙇
深いお話しでした!
ありがとうございます🙇♀合掌🙏
永久保存の「リピート回」とさせて頂きます。ありがとうございました。
念仏をしていた法然上人を見て、一部の弟子たちは南無阿弥陀仏と唱えれば良いんやな!と勘違いしてしまったんですね。ただ、そこに親鸞聖人が仏法を真剣に聞いた上で阿弥陀仏から頂いた信心を獲得(ぎゃくとく)しているという条件が必要なんだと、つまり信心こそが重要なんだよと教えていただけたということですかね。親鸞聖人が周りの弟子に非難されながらも、法然上人の正しい教えを主張したことに感謝極まりないですね。今日もありがとうございました。
今日はありがとございます🙇
今日もありがとうございました。以前、AIさんに「親鸞聖人はなぜ肉食妻帯をされたのですか?」と聞いたら親鸞会のホームページの解説を踏まえて回答を生成してくれました。親鸞会がネットでがんがん親鸞聖人の教えを記載していけば、AIさんがそれを取り入れてくれることで多くの人に親鸞聖人の教えが広がるのではないかなと思いました。
菊谷先生本日もありがとうございました🙏
今日もありがとうございました🙏🙇(動画視聴メモ)★法然上人と親鸞聖人の教えの特徴、その違いとは1.GoogleのAI(他力の念仏&信心)2.念仏為本と信心為本(為本=往生できる)3.正信偈(疑情、寂静、信心)
自力と他力は全く違うんですね.また法然上人と親鸞聖人は教え方に差があるんですね.財布とお金の違いわかりやすかったです.法然上人の教えは空念仏を唱えるといった落とし穴に落ちるという危険をはらんでいるからこそ親鸞聖人の教えがあるようです.
果たして今回の内容で言いくるめられるほど仏教や浄土真宗に信頼とそれに基づく実績と証明が今まで語られてきたか そこに問題は一向に解決されていないです ありがとうございました
なるほどー😮
七高僧の源信は往生する際に阿弥陀如来像に結んだ糸を手にしながら亡くなったとのことなので信心決定はできていなかったと思われます。他力を重視するようになってきたのが法然上人で、阿弥陀仏を信ずることまでをも他力にしたのが親鸞聖人ということになるのかなと思います。できれば信じていなくても救ってくれるようにして欲しい。
考えてやるようなものでなく、内から湧き出るような信心・念仏でしょうか。そこには永遠に迷いなの無い金剛不動産なる確信とおこないがある。言うは易くです。精進せねば😅
二つの宗派の違い、理化していきます。
人間(形としては)の努力なんて、一切は気晴らしの追求に過ぎない。そんな悪趣な努力なんて報われない。報われない努力をしろと世間に価値観を染み込まされて来た。そうして家畜同然"とさつ"される為だけに生きている様なもんだ。初めから限界を作ってその枠組みで生きる、遊ばされている。そんな思惑には乗らない。結局無と帰する(暫く生じても消える因縁化生なんて、散りやすく割に合わないから殆ど無だ。)なら寝ている方がマシだ。なんでこんな報われないゲームに必死になってるんだ。生きるというくだらないゲーム。僕は報われない世界でも諦めずに生き続ける、それは単純な道徳的な倫理観を守る為じゃない。この世の狂気に対しての恨みだ。別に尊敬するにあたわない存在に常識倫理を押し付けられて、結局彼らも不義を起こす。そんな歪んだ世界に対して恨みというよりも疑問、意味の無い事を強いいる世界の矛盾の証明の為に僕は生き続ける。 でも自業自得の道理は踏まえている。 結局自身に返って来る、壁に投げたボールが跳ねて返ってくる。だからそれから少し俯瞰した境地から、超然と、くだらなげに世間を見下ろしている。人間に対しての猜疑心は、もう随分前からあった。自分は周りとは違うおかしな存在だってね。人の気にならない事が気になる。人とは関わらない。裏切り者とは関わらない。だって、見たところ、自分以上の苦悩を抱えた存在を周りに見ない。自分と同じ様に苦悩を抱えた存在ではなかったら、同じ存在じゃない。戦 争だって、きっと些細な事だろう。遊びみたいなものさ。それを殊更騒いで、大事の様にする。結局人なんて人形同然朽ちて死ぬのに、それを大切に大切にしている。周りの人間がそんな些細な問題に取り組んでいる最中に、年がら年中僕は人間が何故死ななければならないのか、という構造的問題に取り組んでいる。それが解決したなら、もう善も悪も遊びとなる。街中で知らない叔父さんが怒鳴っていたりする、なんのつもりだろう、自分の造った業報で苦しんでいる、怒るに足らない些細な事。人間なんてどうせ死ぬまで自分を持て余して煩い続ける存在だと割り切った無意味感虚無感に対しての怒りの方が深刻じゃないか。怒りでも何に対して怒っているのか若干の違いで意味が全然違う。前者が快楽発散的激怒なら、後者は病理的激怒だ。惑業苦でも、階段の上に登る苦と下に転がる苦とで苦しみの意味が違う。シーシュポスみたいだね。結局どちらも苦しむ。浅はかな者に付き合わせられるのも嫌だ。
念仏を唱えるだけで、誰れも浄土行けると思っていた。
初めは般若心経も読まない浄土真宗なんか仏教でないと思ってました。しかし、京都のとある浄土宗の和尚と話した時に、親鸞様は阿弥陀様ただおひとりでよいとされた。浄土宗の核心部分を残されて、他を除かれた方と仰られて、それを聞いてやっと腑に落ちた。そこから私は、浄土宗に敬意を払いつつ、浄土真宗の門徒ととなりました。お導きに感謝。南無阿弥陀仏。
今日も大変,学び勉強になりました。ありがとうございました。
法然上人と親鸞聖人の違いスッキリと解りました。他力の信心を頂ける様に聴聞します。いつも有難う御座います。
信心は大切ですね。わかりやすかったです。今日もありがとうございます🙏
今日もありがとうございます🙇
今日もありがとうございました🙇
深いお話しでした!
ありがとうございます🙇♀合掌🙏
永久保存の「リピート回」とさせて頂きます。ありがとうございました。
念仏をしていた法然上人を見て、一部の弟子たちは南無阿弥陀仏と唱えれば良いんやな!と勘違いしてしまったんですね。
ただ、そこに親鸞聖人が仏法を真剣に聞いた上で阿弥陀仏から頂いた信心を獲得(ぎゃくとく)しているという条件が必要なんだと、
つまり信心こそが重要なんだよと教えていただけたということですかね。
親鸞聖人が周りの弟子に非難されながらも、法然上人の正しい教えを主張したことに感謝極まりないですね。
今日もありがとうございました。
今日はありがとございます🙇
今日もありがとうございました。
以前、AIさんに「親鸞聖人はなぜ肉食妻帯をされたのですか?」と聞いたら親鸞会のホームページの解説を踏まえて回答を生成してくれました。親鸞会がネットでがんがん親鸞聖人の教えを記載していけば、AIさんがそれを取り入れてくれることで多くの人に親鸞聖人の教えが広がるのではないかなと思いました。
菊谷先生
本日もありがとうございました🙏
今日もありがとうございました🙏🙇
(動画視聴メモ)
★法然上人と親鸞聖人の教えの特徴、その違いとは
1.GoogleのAI(他力の念仏&信心)
2.念仏為本と信心為本(為本=往生できる)
3.正信偈(疑情、寂静、信心)
自力と他力は全く違うんですね.また法然上人と親鸞聖人は教え方に差があるんですね.財布とお金の違いわかりやすかったです.法然上人の教えは空念仏を唱えるといった落とし穴に落ちるという危険をはらんでいるからこそ親鸞聖人の教えがあるようです.
果たして今回の内容で言いくるめられるほど仏教や浄土真宗に信頼とそれに基づく実績と証明が今まで語られてきたか そこに問題は一向に解決されていないです ありがとうございました
なるほどー😮
七高僧の源信は往生する際に阿弥陀如来像に結んだ糸を手にしながら亡くなったとのことなので信心決定はできていなかったと思われます。他力を重視するようになってきたのが法然上人で、阿弥陀仏を信ずることまでをも他力にしたのが親鸞聖人ということになるのかなと思います。できれば信じていなくても救ってくれるようにして欲しい。
考えてやるようなものでなく、内から湧き出るような信心・念仏でしょうか。そこには永遠に迷いなの無い金剛不動産なる確信とおこないがある。言うは易くです。精進せねば😅
二つの宗派の違い、理化していきます。
人間(形としては)の努力なんて、
一切は気晴らしの追求に過ぎない。
そんな悪趣な努力なんて報われない。報われない努力をしろと世間に価値観を染み込まされて来た。
そうして家畜同然"とさつ"される為だけに生きている様なもんだ。
初めから限界を作ってその枠組みで生きる、遊ばされている。
そんな思惑には乗らない。
結局無と帰する(暫く生じても消える因縁化生なんて、散りやすく割に合わないから殆ど無だ。)なら
寝ている方がマシだ。
なんでこんな報われないゲームに必死になってるんだ。生きるというくだらないゲーム。
僕は報われない世界でも諦めずに生き続ける、それは単純な道徳的な倫理観を守る為じゃない。この世の狂気に対しての恨みだ。
別に尊敬するにあたわない存在に常識倫理を押し付けられて、結局彼らも不義を起こす。そんな歪んだ世界に対して恨みというよりも疑問、意味の無い事を強いいる世界の矛盾の証明の為に僕は生き続ける。 でも自業自得の道理は踏まえている。 結局自身に返って来る、壁に投げたボールが跳ねて返ってくる。
だからそれから少し俯瞰した境地から、超然と、くだらなげに世間を見下ろしている。
人間に対しての猜疑心は、もう随分前からあった。自分は周りとは違うおかしな存在だってね。
人の気にならない事が気になる。
人とは関わらない。裏切り者とは関わらない。
だって、見たところ、自分以上の苦悩を抱えた存在を周りに見ない。
自分と同じ様に苦悩を抱えた存在ではなかったら、同じ存在じゃない。
戦 争だって、きっと些細な事だろう。
遊びみたいなものさ。
それを殊更騒いで、大事の様にする。結局人なんて人形同然朽ちて
死ぬのに、それを大切に大切にしている。
周りの人間がそんな些細な問題に取り組んでいる最中に、年がら年中僕は人間が何故死ななければならないのか、という構造的問題に取り組んでいる。
それが解決したなら、もう
善も悪も遊びとなる。
街中で知らない叔父さんが怒鳴っていたりする、なんのつもりだろう、自分の造った業報で苦しんでいる、怒るに足らない些細な事。
人間なんてどうせ死ぬまで自分を持て余して煩い続ける存在だと割り切った無意味感虚無感に対しての怒りの方が深刻じゃないか。
怒りでも何に対して怒っているのか
若干の違いで意味が全然違う。
前者が快楽発散的激怒なら、
後者は病理的激怒だ。
惑業苦でも、階段の上に登る苦と下に転がる苦とで苦しみの意味が違う。シーシュポスみたいだね。
結局どちらも苦しむ。
浅はかな者に付き合わせられるのも嫌だ。
念仏を唱えるだけで、誰れも浄土行けると思っていた。