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謎の軍師の話でこの城は興味が湧きますね地形を見てなるほどと思いました👍
城址公園はそれほど広くないのですが、ここで歴史的な戦いがあったと思うと感慨深いものがありました。他に付近の城も回りましたので、近いうちに紹介動画をだします。またよろしくお願いします!
興味深い
@clopogrossoさん、ありがとうございます。小さな城ですが面白い歴史があったことを知るだけで数倍楽しく見学できました!
マニアックな地元の話ありがとうございます。王子台も、王子台砦がきづかれ今も地名ですよね。40年以上前、一夜城公園の所、沢山遺跡、でたよなー。
臼井城は臼井氏時代の推定城域こそ小規模ですが、臼井氏以降の原氏、酒井氏などの治世に拡張され、最終的に1キロ四方に近い巨大城郭になってますね。完存してたらさぞや見応えある城跡だったと思います。現在の残存部分こそ臼井氏時代の城域に近い比較的小規模な遺構のみですが、付近には師戸城や佐倉城など現在でもテクニカルな縄張りを楽しめる城跡がありますので、それらの遺構と臼井城周辺の残存地形を併せて見学しつつ、在りし日の臼井城の姿を想像してみる…というのも、面白いですよ。
ここの城跡公園は整備がされていて羨ましい限りです。市の教育課が重要性を理解して維持できているんだと思います。我が市の松平城跡と比べると悲しくなります。松平氏の居城跡なので歴史的に重要なはずなのですが・・・
実際に行ってみたが、本当に越後から謙信が軍勢率いてここまで城攻めに来たのか想像ができなかったけど、小田原とか鎌倉とか京都とか色々行ってるからやはり来たんでしょうね。謙信率いる越後勢って野戦やってるイメージあったのに、実は意外にも野戦は僅かで殆ど城攻めばかりなんですよね。
謎の軍配者はうちの地元の所縁の人。下総国千葉郡白井郷。この戦いの後、先祖所縁の多部田に城を構えたらしい。
この戦いで上杉に助けを求めてた里見や宇都宮や佐竹等の反北条組はあっさり上杉を見切るという掌返し…。北条は千葉氏を完全に吸収する機会になったり、由良成繁や北条景広の離反で上野ルートが途絶、長野業盛は武田に攻められ自刃。越相同盟のきっかけになり、武田が間接的に大ピンチに陥る機会になったりと物凄い目まぐるしい展開が繰り広げられるから結構ターニングポイントの場所なんだなぁって
地元ですが佐倉周辺の城址巡りは結構面白いです。台地が多いので大小様々な城がありました。現在主に公園として整備されていますが、整備されていない私有地にある小さな城や居館も点在しており地元民でも未だに新たな発見があったりします。しかも当時の街道をそのままアスファルト舗装したりしますので、歩道みたいな細道が多数あったりします。細道散策すると面白い土地柄でもあります。
上杉謙信は意外に城攻めが苦手だったのではないかと。忍城、唐沢山城でも大軍で包囲しながらも大苦戦しています。臼井城は何度か訪れましたが、当時は印旛沼に浮かぶ要塞で、対岸の砦も含めた防戦で攻めあぐねたかと思いました。楽しい動画をありがとうございます。
臼井城は砦も含めるとかなり巨大な城郭ですね。実際歩いてみると、北部には舟着場らしきあとや、犬走でないかと思うような帯曲輪らしきものや、切岸らしき遺構をみつけました。
真下まで印旛沼が広がっていたわけですしね。あのあたりは歩くと楽しいですね
謙信の強さの一因として、常に前線で指揮をとり、軍勢を機敏に動かし、敵を翻弄することにあったそうです。川中島でも、自身が先頭に立ち、信玄のところにカチ込みをかますという、大将らしからぬ人物ですね。つまり、野戦は大変強いが、攻城戦には無効な訳ですね。
忍城の城主って成田長親でしたっけ
城攻めが苦手だったとしても、当時の臼井城は今川氏真でもあっさり攻め落とせそうな状況でしたよw
公園が出来る前は草ボウボウで幽霊が現れる噂もありましたが公園作る時に跡地を整備したら人骨が出た逸話も…他にも太田道灌の墓や家康の飲んだ湧水や雷電の墓など史跡も多数あります。
臼井城跡の近くで働いてるので今度行ってみようかな
いいですね!是非お願いします。
大変分かりやすい解説ですね…また宜しくお願い致します。
小説『最低の軍師』(簑輪諒)で知りました。
ありがとうございます。小説でも最後は豊臣家に仕えたのでしょうか。
私も小説で知りました
BGMがどこかでよく聞くものがつかわれてる。
新潟から千葉県の佐倉まで遠征してるってとんでもない距離ですね(笑)これに付き合わされる家臣たちは大変だったでしょうねぇ・・・
越後兵のスタミナ恐ろしいですね
近所の人間ですが、よくこんな所まで来たよなぁ、、と驚きました戦とはいえ、謙信公が来てくれたのが何だか嬉しいです
乱取り出来るから喜んで来たんでしょ。まるでイナゴの大群
対岸の師戸にも小城があって印旛沼(香取の湖)の瀬戸に兵船を出して商船輸送船相手に関銭を取る事もしてた説もある
謙信は糾合した軍勢で寄せたのが敗因だったかもな。多勢で押しつぶせというのは小城を攻めるのも味方になって間もない部隊へに出す指示としても自然なもの。それを読んで待ち構えるのもまたあり得る。2回目の攻撃で一度に数百の死傷者を出せば指揮に疑いがもたれるため、それ以上の損害を出させないために撤退を命令するのも道理。
籠城側が勝てた主要因は北条氏政の後詰だった気がする 白井入道も勝因の一つだとは思うけど。
謙信は、野戦が1番強かったけど、城攻めの実績もありますからねー。七尾城は調略で落としてるし、いくつもの城を落としています。
ウィキペディアによると、豊臣秀頼に使えた軍師がこの白井胤治の子孫の可能性があるらしいです。本当なら、白井胤治はいろいろあり、大阪に出たんですね
誤字を訂正します豊臣秀頼に使えた↓豊臣秀頼に仕えた
鬼孫太郎が援軍で来ていたというのも運が良かった。
謙信の最大の弱点は兵站維持と豪雪ですかね。経済圏の中心が領地だったらもっと領土拡大したのかな。
素手で首をねじ切るって…松田の赤鬼が思ってたより鬼だったw
中々ここまで知ってる人は少ないよね。確か僧形の軍師だったかな。
謙信一夜城には行かれましたか?ただの公園で碑文しかないですが駅を挟んですぐあるので臼井城とセットで行って欲しいですw
臼井に来られたんですね。隣の国立歴史民俗博物館には行かれましたか?
閉館日でした、残念です。でも佐倉城は見学してきました!
@@kainosuke-rekishi それはそれは。でも正直1日で全部見られないくらいの情報量ありますので、是非ご覧になることをお勧めします。
千葉の佐倉では知る人ぞ知る人ですよ(超限定的)
この戦いは、主力は里見軍ですし、川中島の戦いが前後にあった時期です。臼井城側の軍師も、実在が疑問視されています。諸説あって、根拠が薄い戦いですからねー。
謙信は義に生きた人軍神でわあるが、信長に比べたら構想が低い。天下は信長がとつていたら貿易大国日本になっていた。経済は栄えていた。
この、印旛沼・手賀沼・霞ヶ浦・利根川の水運利権は、三大神宮のうちの香取神宮・鹿島神宮の利権でもあり、鎌倉時代から千葉氏に保護されてきました。後に千葉氏が後北条氏の軍門に下ると千葉氏・後北条氏の保護を受けるようになります。太日川(江戸川)、荒川、東京湾北部の制海権は後北条氏が完全に握っており、利根川へも太日川(江戸川)を通じてアクセス出来たので千葉氏は優位に立てたと思われます。関東に後北条氏の水上戦力を上回る、織田・豊臣・毛利でも来ない限り関東の制海権は奪えないと思われます。佐倉市どころか銚子市まで千葉氏は城を築いて利根川下流域の利権と制海権を握っております。他にも神仏への信仰心がある上杉謙信だと、香取神宮・鹿島神宮の機嫌を損ねるコトは出来なかったのだと思います。
この城主の親戚が武田の二十四将で5名臣の1人鬼美濃こと原虎胤
江戸時代になって書かれた軍談が元ならうーん、ってなる。逆に謙信最強!の根拠も江戸期に書かれたものがほとんど、とゆうかすべてやからそれもうーんなんやけど
過去何回か臼井城に行ったことがあります。数年前にベストセラーになった最低の軍師という本の舞台ですよね。
コメントありがとうございます。そうですね、本があります!
下総国古河を拠点にしてた足利公方にたいして上杉謙信はどのような態度だったのだろう🤔
諸葛孔明といえば、赤壁の戦い....
長尾氏は同族の平氏、どちらかっていうと千葉氏系の方が本流に近い。根底には上杉名乗ってるけどね〜って考えてあったのでは?
白井胤治は「転生者」だった・・・?
「日本万歳」歴史好きが・寝落ちして目覚めたら・・・
ゲーム信長の野望でもそうですが、謙信の野望値は基本低い。上洛や領土拡大の野望は無いというのを、ドラマや映画で散々に聞いてきたので違和感ですよね。小田原まで足伸ばしての遠征など、甲斐や信濃が自領では無く上野ルートだったけど無謀な浪費にしか思えないです。実際、越相甲は目まぐるしく同盟や敵対を繰り返してて、桶狭間の年には関東を蹂躙しまくったとは余り有名ではないです。対して武田は知略の高い家臣が豊富、よくもまぁ脳キン軍団で均衡を保てたのは、謙信のチート級の武力頼りなのでしょうかね。今年も宜しくお願いします。
コメントありがとうございます。確かに無駄な浪費に思えますね!家臣たちも大変だったのだろうと思います。
日本に軍師などという役職は無かったような
確かにです!
2000vs1万5000人か〜でもさ、上杉軍は完全防御された城を攻め落とさないといけないわけでしょ?そうするとナチスのクリンゲンベル大尉って、ナチすが150万人の兵と航空機1000機使っても占領できなかった完全防御された敵の首都を、自分の部隊から特に精鋭というわけでもないバイク兵6人を引き抜いて占領に成功したってすごいよね。
謙信は野戦だけ?と言い切っても差し支えないでしょう。政戦両略的に一般方向が完全に間違っている人です。確か出兵回数では関東方面6割、信濃方面3割、富山方面1割ぐらいでしたっけ。なのでせっかく戦場で勝っても戦域を維持できなかったりします。どっち方向に出るかだけでも決まっていれば日本の歴史は全く違ったものになっていたと思います。副将軍になりたかったのか、関東管領になりたかったのか、戦国大名として大きくなりたかかったのか?全く不明です。信玄も何したかったのかわかりませんけど、それ以上です。
謙信は野戦だけではありません。この戦いは、主力は里見軍であって、上杉は同盟していたから行ったわけだし、この戦いの前後は武田と川中島の戦いがあった時期だし。小田原城攻めに関してだって、時期を同じくして武田が北信濃に攻めてきたから、そうなると本国が危険だから、引き返しただけです。城攻めに関しては、七尾城は調略で落としているし、実績はあります。まあ、謙信が野戦が1番強かったのは事実ですが。
謙信は、そもそも天下なんて目指していません。政治に関しては、金山や青苧を売ったりして、経済センスはあったし、結構お金を稼いで、蓄財していました。経済的な才能もあった人です。
謙信は、頼ってきた人(村上義清や上杉憲政)のことはその後も大事にしていますから、その点は一貫しています。越後を守る戦いは全力でやっていること(武田や織田との戦い)も、一貫しています。そもそも、戦国武将が皆んな天下を目指していたわけではない。天下を目指していたのは、織田信長と後半の武田信玄だけ。
清水ひろゆきさんに対しては、日本の歴史を動かすとか、天下を取るとか、そういう尺度だけで見てほしくないですね。
謙信は、絶対に間違ってはいません。日本の歴史を動かすとか、天下を取る、という尺度でしか見れない人からすると、間違っているように見えるのかもしれませんが、本国を守る戦いは全力で行っている、頼ってきた人(村上義清や上杉憲政)のことはその後も大事にしている、ことを見ると、絶対に間違っているとは思えません。
個人的には謙信は攻略しても大したうまみもない当時の関東に、国力の疲弊も考えず恒例行事のように攻め込んでは冬になったら帰っていく、ただの間抜けな戦闘ジャンキーで、軍神というのは江戸の庶民が付け足したキャラ付けだと思ってます。後継者問題もしっかりしてない故に次の代であっさり没落する原因を作っちゃいますし、後先考えられない、まじめ版呂布って印象です。
まじめ版呂布!すごく伝わります!
兄晴景は上杉家と復縁+謙信は上杉憲政の養子になって山内上杉家の家督・関東管領を継承することで4男が継いだという弱い基盤が補強され、官職に沿って関東復帰を…という命題がありました後継者問題は生前弾正小弼という謙信の持ってた官位を景勝に譲ってる(義昭の謙信宛の手紙名義が官位名から法名に変わってる)から最初から景勝のつもりだったのではと近年いわれてますね対照的に官位を受け継がれなかったせいで何の基盤も得られず無位無官の男で4男で一度他所の養子入りからの復帰という弱すぎる基盤からスタートしてしまったのが武田勝頼…
謙信がよく関東に出陣していたのは、上杉憲政が謙信に頼ってきたからだと思います。北条への牽制の目的もあったと思います。謙信の、戦場での、特に判断力は、ずば抜けていましたよ。情報戦も駆使していたし、地理や天候も味方につけながら戦っていました。それが、軍神と呼ばれる所以だと思います。謙信は、頼ってきた人(上杉憲政や村上義清)のことは、その後も大事にしているので、義の武将という評価はやっぱり正しいと思います。越後を守るための戦は全力で行ったけど、私利私欲や侵略のための戦は行いませんでしたし。
もっとよく勉強してほしいですね。K.O.B.さんの言っていることは、表面的なところしか見ないでの言葉に見えて仕方ないので。
@@九条菊華 個人的には、関東管領だとか、足利家の上洛の要請だとかは、大義名分に過ぎないと思いますね。ご存知の通り戦国時代とて大義なしの侵略は朝敵認定ものなんで(大国武田もそれで滅んでますしね)。私が述べたいのは上杉軍の戦闘力の話ではなく、戦略的なビジョンの弱さです。結局、統治できる基盤も国力もなく、(結果)関東を荒らしただけなのは、歴史的事実だと思います。お金も無いのにバーゲンや初売りと聞いたら出向いて、金欠になったのでメルカリに全部出品してトントンにする主婦は、果たして買い物上手でしょうか。もちろん、関東管領としての役目を果たさなくてはならないと言う使命感はあったと思いますね。でもその真面目さと言うのがむしろ厄介だと思いませんか?戦闘ジャンキーで血の臭いがするところに全て足を突っ込んで来たやつが、自分は上のため、神のために戦ってるんだと思っている事が一番危ないと思うんですよね〜。
他の人も言っているが 上杉謙信は攻城戦が得意ではない特に関東に於いてはね😅当然 新潟から出張してくるのだから大変な浪費になるからね当時の物流はうp主が言っているように 水運が主体 関越か磐越かわからないが 補給線は果てしなく長い😝 また雪が降れば 撤退以外の選択肢はほぼない考察するなら何時から何時までを明確にしたいところまぁ 真面目なうp主みたいだから登録させていただきます😃ww
い
うーん。。。何となく中途半端な説明だなぁ。。城の俯瞰図や、戦の期間、当時の時代背景、謙信に船を使わせなかった方法(沼からの攻撃を防ぐ方法)などを突っ込めば良かったのに。「臼井城に行くのは簡単」「臼井城に行ってみよう」と"丸投げ"している感が強い。w
何かあったんでしょう外来種のカミツキガメが苦手だったとかみんな腹減って帰りたくなったとか(兵士が疫病にかかったとか、兵糧が絶えたの意ですw)
謎の軍師の話でこの城は興味が湧きますね地形を見てなるほどと思いました👍
城址公園はそれほど広くないのですが、ここで歴史的な戦いがあったと思うと感慨深いものがありました。他に付近の城も回りましたので、近いうちに紹介動画をだします。またよろしくお願いします!
興味深い
@clopogrossoさん、ありがとうございます。小さな城ですが面白い歴史があったことを知るだけで数倍楽しく見学できました!
マニアックな地元の話ありがとうございます。王子台も、王子台砦がきづかれ今も地名ですよね。40年以上前、一夜城公園の所、沢山遺跡、でたよなー。
臼井城は臼井氏時代の推定城域
こそ小規模ですが、臼井氏以降の原氏、
酒井氏などの治世に拡張され、
最終的に1キロ四方に近い巨大城郭
になってますね。
完存してたらさぞや見応えある城跡
だったと思います。現在の残存部分こそ
臼井氏時代の城域に近い比較的小規模な
遺構のみですが、付近には師戸城や佐倉城
など現在でもテクニカルな縄張りを
楽しめる城跡がありますので、
それらの遺構と臼井城周辺の残存地形を
併せて見学しつつ、在りし日の臼井城の
姿を想像してみる…というのも、
面白いですよ。
ここの城跡公園は整備がされていて羨ましい限りです。市の教育課が重要性を理解して維持できているんだと思います。
我が市の松平城跡と比べると悲しくなります。松平氏の居城跡なので歴史的に重要なはずなのですが・・・
実際に行ってみたが、本当に越後から謙信が軍勢率いてここまで城攻めに来たのか想像ができなかったけど、小田原とか鎌倉とか京都とか色々行ってるからやはり来たんでしょうね。謙信率いる越後勢って野戦やってるイメージあったのに、実は意外にも野戦は僅かで殆ど城攻めばかりなんですよね。
謎の軍配者はうちの地元の所縁の人。下総国千葉郡白井郷。この戦いの後、先祖所縁の多部田に城を構えたらしい。
この戦いで上杉に助けを求めてた里見や宇都宮や佐竹等の反北条組はあっさり上杉を見切るという掌返し…。北条は千葉氏を完全に吸収する機会になったり、由良成繁や北条景広の離反で上野ルートが途絶、長野業盛は武田に攻められ自刃。越相同盟のきっかけになり、武田が間接的に大ピンチに陥る機会になったりと物凄い目まぐるしい展開が繰り広げられるから結構ターニングポイントの場所なんだなぁって
地元ですが佐倉周辺の城址巡りは結構面白いです。台地が多いので大小様々な城がありました。現在主に公園として整備されていますが、整備されていない私有地にある小さな城や居館も点在しており地元民でも未だに新たな発見があったりします。しかも当時の街道をそのままアスファルト舗装したりしますので、歩道みたいな細道が多数あったりします。細道散策すると面白い土地柄でもあります。
上杉謙信は意外に城攻めが苦手だったのではないかと。忍城、唐沢山城でも大軍で包囲しながらも大苦戦しています。
臼井城は何度か訪れましたが、当時は印旛沼に浮かぶ要塞で、対岸の砦も含めた防戦で攻めあぐねたかと思いました。楽しい動画をありがとうございます。
臼井城は砦も含めるとかなり巨大な城郭ですね。実際歩いてみると、北部には舟着場らしきあとや、犬走でないかと思うような帯曲輪らしきものや、切岸らしき遺構をみつけました。
真下まで印旛沼が広がっていたわけですしね。あのあたりは歩くと楽しいですね
謙信の強さの一因として、常に前線で指揮をとり、
軍勢を機敏に動かし、敵を翻弄することにあったそうです。
川中島でも、自身が先頭に立ち、信玄のところにカチ込みをかますという、大将らしからぬ人物ですね。
つまり、野戦は大変強いが、攻城戦には無効な訳ですね。
忍城の城主って成田長親でしたっけ
城攻めが苦手だったとしても、当時の臼井城は今川氏真でもあっさり攻め落とせそうな状況でしたよw
公園が出来る前は草ボウボウで幽霊が現れる噂もありましたが公園作る時に跡地を整備したら人骨が出た逸話も…他にも太田道灌の墓や家康の飲んだ湧水や雷電の墓など史跡も多数あります。
臼井城跡の近くで働いてるので今度行ってみようかな
いいですね!是非お願いします。
大変分かりやすい解説ですね…また宜しくお願い致します。
小説『最低の軍師』(簑輪諒)で知りました。
ありがとうございます。小説でも最後は豊臣家に仕えたのでしょうか。
私も小説で知りました
BGMがどこかでよく聞くものがつかわれてる。
新潟から千葉県の佐倉まで遠征してるってとんでもない距離ですね(笑)
これに付き合わされる家臣たちは大変だったでしょうねぇ・・・
越後兵のスタミナ恐ろしいですね
近所の人間ですが、よくこんな所まで来たよなぁ、、と驚きました
戦とはいえ、謙信公が来てくれたのが何だか嬉しいです
乱取り出来るから喜んで来たんでしょ。まるでイナゴの大群
対岸の師戸にも小城があって印旛沼(香取の湖)の瀬戸に兵船を出して商船輸送船相手に関銭を取る事もしてた説もある
謙信は糾合した軍勢で寄せたのが敗因だったかもな。多勢で押しつぶせというのは小城を攻めるのも味方になって間もない部隊へに出す指示としても自然なもの。
それを読んで待ち構えるのもまたあり得る。
2回目の攻撃で一度に数百の死傷者を出せば指揮に疑いがもたれるため、それ以上の損害を出させないために撤退を命令するのも道理。
籠城側が勝てた主要因は北条氏政の後詰だった気がする 白井入道も勝因の一つだとは思うけど。
謙信は、野戦が1番強かったけど、城攻めの実績もありますからねー。
七尾城は調略で落としてるし、いくつもの城を落としています。
ウィキペディアによると、豊臣秀頼に使えた軍師がこの白井胤治の子孫の可能性があるらしいです。
本当なら、白井胤治はいろいろあり、大阪に出たんですね
誤字を訂正します
豊臣秀頼に使えた
↓
豊臣秀頼に仕えた
鬼孫太郎が援軍で来ていたというのも運が良かった。
謙信の最大の弱点は兵站維持と豪雪ですかね。経済圏の中心が領地だったらもっと領土拡大したのかな。
素手で首をねじ切るって…
松田の赤鬼が思ってたより鬼だったw
中々ここまで知ってる人は少ないよね。確か
僧形の軍師だったかな。
謙信一夜城には行かれましたか?
ただの公園で碑文しかないですが
駅を挟んですぐあるので臼井城とセットで行って欲しいですw
臼井に来られたんですね。隣の国立歴史民俗博物館には行かれましたか?
閉館日でした、残念です。でも佐倉城は見学してきました!
@@kainosuke-rekishi それはそれは。でも正直1日で全部見られないくらいの情報量ありますので、是非ご覧になることをお勧めします。
千葉の佐倉では知る人ぞ知る人ですよ(超限定的)
この戦いは、主力は里見軍ですし、川中島の戦いが前後にあった時期です。臼井城側の軍師も、実在が疑問視されています。諸説あって、根拠が薄い戦いですからねー。
謙信は義に生きた人軍神でわあるが、信長に比べたら構想が低い。
天下は信長がとつていたら貿易大国日本になっていた。経済は栄えていた。
この、印旛沼・手賀沼・霞ヶ浦・利根川の水運利権は、三大神宮のうちの香取神宮・鹿島神宮の利権でもあり、鎌倉時代から千葉氏に保護されてきました。後に千葉氏が後北条氏の軍門に下ると千葉氏・後北条氏の保護を受けるようになります。
太日川(江戸川)、荒川、東京湾北部の制海権は後北条氏が完全に握っており、利根川へも太日川(江戸川)を通じてアクセス出来たので千葉氏は優位に立てたと思われます。関東に後北条氏の水上戦力を上回る、織田・豊臣・毛利でも来ない限り関東の制海権は奪えないと思われます。
佐倉市どころか銚子市まで千葉氏は城を築いて利根川下流域の利権と制海権を握っております。
他にも神仏への信仰心がある上杉謙信だと、香取神宮・鹿島神宮の機嫌を損ねるコトは出来なかったのだと思います。
この城主の親戚が武田の二十四将で5名臣の1人鬼美濃こと原虎胤
江戸時代になって書かれた軍談が元ならうーん、ってなる。逆に謙信最強!の根拠も江戸期に書かれたものがほとんど、とゆうかすべてやからそれもうーんなんやけど
過去何回か臼井城に行ったことがあります。数年前にベストセラーになった最低の軍師という本の舞台ですよね。
コメントありがとうございます。そうですね、本があります!
下総国古河を拠点にしてた足利公方にたいして上杉謙信はどのような態度だったのだろう🤔
諸葛孔明といえば、赤壁の戦い....
長尾氏は同族の平氏、どちらかっていうと千葉氏系の方が本流に近い。根底には上杉名乗ってるけどね〜って考えてあったのでは?
白井胤治は「転生者」だった・・・?
「日本万歳」
歴史好きが・寝落ちして目覚めたら・・・
ゲーム信長の野望でもそうですが、謙信の野望値は基本低い。
上洛や領土拡大の野望は無いというのを、ドラマや映画で散々に聞いてきたので
違和感ですよね。
小田原まで足伸ばしての遠征など、甲斐や信濃が自領では無く上野ルートだったけど無謀な浪費にしか思えないです。
実際、越相甲は目まぐるしく同盟や敵対を繰り返してて、桶狭間の年には関東を蹂躙しまくったとは余り有名ではないです。
対して武田は知略の高い家臣が豊富、よくもまぁ脳キン軍団で均衡を保てたのは、謙信のチート級の武力頼りなのでしょうかね。
今年も宜しくお願いします。
コメントありがとうございます。確かに無駄な浪費に思えますね!家臣たちも大変だったのだろうと思います。
日本に軍師などという役職は無かったような
確かにです!
2000vs1万5000人か〜
でもさ、上杉軍は完全防御された城を攻め落とさないといけないわけでしょ?
そうするとナチスのクリンゲンベル大尉って、ナチすが150万人の兵と航空機1000機使っても占領できなかった完全防御された敵の首都を、自分の部隊から特に精鋭というわけでもないバイク兵6人を引き抜いて占領に成功したってすごいよね。
謙信は野戦だけ?と言い切っても差し支えないでしょう。
政戦両略的に一般方向が完全に間違っている人です。
確か出兵回数では関東方面6割、信濃方面3割、富山方面1割ぐらいでしたっけ。
なのでせっかく戦場で勝っても戦域を維持できなかったりします。
どっち方向に出るかだけでも決まっていれば日本の歴史は全く違ったものになっていたと思います。
副将軍になりたかったのか、関東管領になりたかったのか、戦国大名として大きくなりたかかったのか?全く不明です。
信玄も何したかったのかわかりませんけど、それ以上です。
謙信は野戦だけではありません。
この戦いは、主力は里見軍であって、上杉は同盟していたから行ったわけだし、この戦いの前後は武田と川中島の戦いがあった時期だし。
小田原城攻めに関してだって、時期を同じくして武田が北信濃に攻めてきたから、そうなると本国が危険だから、引き返しただけです。
城攻めに関しては、七尾城は調略で落としているし、実績はあります。
まあ、謙信が野戦が1番強かったのは事実ですが。
謙信は、そもそも天下なんて目指していません。
政治に関しては、金山や青苧を売ったりして、経済センスはあったし、結構お金を稼いで、蓄財していました。
経済的な才能もあった人です。
謙信は、頼ってきた人(村上義清や上杉憲政)のことはその後も大事にしていますから、その点は一貫しています。
越後を守る戦いは全力でやっていること(武田や織田との戦い)も、一貫しています。
そもそも、戦国武将が皆んな天下を目指していたわけではない。
天下を目指していたのは、織田信長と後半の武田信玄だけ。
清水ひろゆきさんに対しては、
日本の歴史を動かすとか、天下を取るとか、そういう尺度だけで見てほしくないですね。
謙信は、絶対に間違ってはいません。
日本の歴史を動かすとか、天下を取る、という尺度でしか見れない人からすると、間違っているように見えるのかもしれませんが、
本国を守る戦いは全力で行っている、頼ってきた人(村上義清や上杉憲政)のことはその後も大事にしている、
ことを見ると、絶対に間違っているとは思えません。
個人的には謙信は攻略しても大したうまみもない当時の関東に、国力の疲弊も考えず恒例行事のように攻め込んでは冬になったら帰っていく、ただの間抜けな戦闘ジャンキーで、軍神というのは江戸の庶民が付け足したキャラ付けだと思ってます。後継者問題もしっかりしてない故に次の代であっさり没落する原因を作っちゃいますし、後先考えられない、まじめ版呂布って印象です。
まじめ版呂布!すごく伝わります!
兄晴景は上杉家と復縁+謙信は上杉憲政の養子になって山内上杉家の家督・関東管領を継承することで4男が継いだという弱い基盤が補強され、官職に沿って関東復帰を…という命題がありました
後継者問題は生前弾正小弼という謙信の持ってた官位を景勝に譲ってる(義昭の謙信宛の手紙名義が官位名から法名に変わってる)から最初から景勝のつもりだったのではと近年いわれてますね
対照的に官位を受け継がれなかったせいで何の基盤も得られず無位無官の男で4男で一度他所の養子入りからの復帰という弱すぎる基盤からスタートしてしまったのが武田勝頼…
謙信がよく関東に出陣していたのは、上杉憲政が謙信に頼ってきたからだと思います。北条への牽制の目的もあったと思います。
謙信の、戦場での、特に判断力は、ずば抜けていましたよ。情報戦も駆使していたし、地理や天候も味方につけながら戦っていました。それが、軍神と呼ばれる所以だと思います。
謙信は、頼ってきた人(上杉憲政や村上義清)のことは、その後も大事にしているので、義の武将という評価はやっぱり正しいと思います。
越後を守るための戦は全力で行ったけど、私利私欲や侵略のための戦は行いませんでしたし。
もっとよく勉強してほしいですね。
K.O.B.さんの言っていることは、表面的なところしか見ないでの言葉に見えて仕方ないので。
@@九条菊華 個人的には、関東管領だとか、足利家の上洛の要請だとかは、大義名分に過ぎないと思いますね。ご存知の通り戦国時代とて大義なしの侵略は朝敵認定ものなんで(大国武田もそれで滅んでますしね)。
私が述べたいのは上杉軍の戦闘力の話ではなく、戦略的なビジョンの弱さです。結局、統治できる基盤も国力もなく、(結果)関東を荒らしただけなのは、歴史的事実だと思います。
お金も無いのにバーゲンや初売りと聞いたら出向いて、金欠になったのでメルカリに全部出品してトントンにする主婦は、果たして買い物上手でしょうか。
もちろん、関東管領としての役目を果たさなくてはならないと言う使命感はあったと思いますね。でもその真面目さと言うのがむしろ厄介だと思いませんか?戦闘ジャンキーで血の臭いがするところに全て足を突っ込んで来たやつが、自分は上のため、神のために戦ってるんだと思っている事が一番危ないと思うんですよね〜。
他の人も言っているが 上杉謙信は攻城戦が得意ではない
特に関東に於いてはね😅
当然 新潟から出張してくるのだから
大変な浪費になるからね
当時の物流はうp主が言っているように 水運が主体 関越か磐越かわからないが 補給線は果てしなく長い😝 また雪が降れば 撤退以外の選択肢はほぼない
考察するなら何時から何時までを明確にしたいところ
まぁ 真面目なうp主みたいだから
登録させていただきます😃ww
い
うーん。。。何となく中途半端な説明だなぁ。。
城の俯瞰図や、戦の期間、当時の時代背景、謙信に船を使わせなかった方法(沼からの攻撃を防ぐ方法)などを突っ込めば良かったのに。
「臼井城に行くのは簡単」「臼井城に行ってみよう」と"丸投げ"している感が強い。w
何かあったんでしょう
外来種のカミツキガメが苦手だったとか
みんな腹減って帰りたくなったとか
(兵士が疫病にかかったとか、兵糧が絶えたの意ですw)