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段ボールの下駄箱、本箱。林檎箱の机。共同の台所、トイレ。今となったら懐かしさと驚きです。とうとう団地は当たりませんでした。逞しく生きることを学びました。
やっぱり団地は、セレブ達がたくさん育った集合住宅なんだよなぁ。出発点は、団地からスタートだ。昔は皆、団地生活に憧れてたのだからね。因みに俺も昔は団地に住んでた。
本当に此の当時は団地暮らしが憧れの時代でしたね♪。わたしの家は農家でしたので、両親は日々一年中働きづくめでしたが・・。やっぱり昭和の時代は世の中が活気に溢れていましたね~♪ありがとうございました👋😊。
私も幼少期に藤沢市の団地に住んでいたので、懐かしいです。当時の団地の写真持ってます。ちなみに昭和38年から43年の3月くらい迄、小学校に入学する少し前まで住んでました😊
アラカン。生まれた時は風呂なしアパート一間。記憶はないけど写真はあります。三歳の時、都内から隣県の団地に引っ越しました。一番古い記憶が引っ越してお風呂を母と見た記憶です。母が大喜びでした。いつでも雨の日でも寒い日でもゆっくりお風呂に入れる。ステンレスキッチンに洋式トイレ、スーパーマーケット。戦前生まれの主婦にしてみれば夢のような生活だったと思います。五年くらいでまた転居したけど、好きな男の子と離れるのが辛かった。もう名前も覚えてないけど。
わが家も 暗いアパートから団地に越して来ました嬉しくてたまりませんでした♪水洗トイレにお風呂家具や家電などを新調してうちはお金持ちだったんだと勘違いしましたね 笑
公団の団地は確かに人気物件ではあるのですが、家賃が意外と高く「中の上」位の人が住むところと母が言っていました。
昭和や古い映像が大好きなので、素晴らしくまとめて頂き大変楽しみました。ただ、大切なことが一つ抜けております。この映像が昭和何年なのか、必ず解説に入れて頂きたいです。素晴らしい映像ありがとうございました。
50年前6畳一間に家族4人で住んでいました。勿論風呂はなく銭湯に通ってその近くのパン屋さんでパンの耳をもらっておやつに食べていた記憶があります。今もパンの耳もらえるのかな?
40年位前に団地の3階に住んでいました。小学校低学年の頃だったか、野良犬が多く3階まで追いかけられ、母親がホッピングで撃退しました。トラウマでしばらくの間外に出るのが怖かったのを思い出しました。それ以外は特に問題なく、楽しく過ごせました。
ご配信されておられる方のお声が、どこかでお聞きしたことのあるような気がしました。古い映像ですね。でも今とは違い、家族の絆も強かったのかもしれません。一間で家族四人、住めていたのがすごいと思いました。収納などはどのようにされていたのでしょう。素晴らしい知恵ですね。
うちの両親はこの映像にもある大井町にあった三畳一間のアパートに生まれたばかりの私と三人で暮らしてました。ちょうど新築された団地に一回の申し込みで抽選にあたり、2DKに引っ越しました。当時は本当に住宅難で2DKが憧れだったんですよね。今思うと凄く狭いんですが。これは昭和40年くらいの映像でしょうか?
懐かしい。この時代で青春時代を過ごしてみたかった❗
確かに私もそう思います本当に古き良き時代でした時代と青春に乾杯!!
川崎市宮前区で幼少時代を過ごして小学校は横浜市鶴見区、それから港北区に引っ越しました。子供の頃は平屋で、ボットンでした。3畳2間でしたね。
団地は狭いが水洗便所。戸建てやアパートは、汲み取り便所。てイメージだね。
ある企業の社宅に住んでましたが、ほぼこの映像の団地と同じ感じでした。5階、エレベーター無し。風呂有り、水洗トイレ有り。社宅なので家賃は格安だったそうです。
私も湘南の団地育ちです この映像の団地は大庭かな? 皆さん5階でエレベーターなしはキツすぎと書いてますが、入居者の大半は若いファミリーだったから、みんな元気に階段登ってました 子供には階段はむしろ楽しいものでした 手すりを滑り降りたり、階段全段飛びとかしてました ありあまるグルコサミンコンドロイチンでしたね(笑) 我が家は私が成人した頃に近隣のマンションに引っ越しました いま50代ですが、いまあの団地の5階に住めと言われたらムリだと思います…
今まで団地住まいがどうして当時の人の夢だったのか理解できなかったのですがこの動画で理由を知ることが出来ました。
昭和48年東京都府中市北山町で6畳1間で9000円でした 風呂なしでした
当時、2DKは皆さん「ニーデーケー」と発音していましたね。(笑)
友人が大森海岸の都営団地に住んでました。友人のお父さんが定年退職を期に横浜郊外に家を建てたのですが大森のほうが便利なのでそのまま団地で暮らしてました。息子さんだけが勿体ないといつて新築の家にさんでましたね😮
中野区川添町は今の東中野辺りのようですね。公団は収入証明を出す必要があり、それなりの収入は必要だったみたいですね。
こんな時代もあったんですね。持ち家が当たり前の今からは考えられませんね。🏠
階段5階の登り降りは、辛いでしょうね自分も昔エレベーター付いてたけど、築年数50年オーバーの古いURの団地物件に住んでました。家賃は民営化して、近隣の民間賃貸よりは割高でしたけどね
自分も昭和史が好きでよく見ています。サザエさんの原作漫画版の方は、よく戦後〜高度経済成長期の舞台背景や風習、当時の日常生活、時事ニュース、流行等のネタも多いので楽しんだりしています。こういった当時のフィルはとても貴重ですね。とても興味深いです✨✨そう言われれば、自分も5歳まで長屋に住んでいました。普通に白黒TV、茶の間で家族5人川の字、練炭室があったり…(昭和40年代後半)団地ではなく中古の一軒家に引っ越して、やはり洋式水洗トイレで逆さまに座って失敗したり、新しい色んな家電におののいて「うちは無理してこんな買って大丈夫なのかね」と家計を心配して、幼い姉妹で会話したのが懐かしい(笑)
時代は巡って今もワンルームと言う一間暮らしも数多。今はその狭い一間に風呂便所台所詰め込んでるから生活空間犠牲になっている
田舎だから団地住みの同級生もいなかった。映画などに出てくる鍵っ子ってどんなものなんだろうと子供の頃思っていた
貴重な映像ありがとうございます。この時代狭いアパートから団地への引っ越しは皆んなの憧れだったんですね。因みにアパートにはお風呂はあったのでしょうか。
銭湯だと思います。祖母が最初に住んでいた団地はお風呂なかったです。
当時の金額が現在の金額でいくらかわからん
新築なのにめっちゃ古く見える。人間のイメージは怖いわ
今の日本じゃ考えられないけど、当時は高度成長期に差し掛かっていたとはいえ戦後時間が経っていないから住宅事情はよくなかったんですね。東京は特に集中的に爆撃を受けてほぼ焼け野原になりましたからね…今の経済的に安定した時代がどれだけありがたいか考えさせられますね
銀河鉄道999「第49話 これからの星」みたいな、希望に溢れた感じが素敵ですね。(*^_^*)
家族団らんは必要だよね。
ウルトラセブンの撮影地にもなりました。
今なら藤沢の団地(エレベーターなし5階)より、大井町のアパートのほうが人気そう。
なんか希望があるのがいいなあ。
おっしゃる通りです。人生は希望が一番です。
公団?今でいうところのUR ?現代だと普通の家、マンション暮らしから高級タワマンに転居って感じですかね?それにしても四人家族で六畳一間とはひどすぎる。当時、日本人の住まいがうさぎ小屋と揶揄されたのはこういうことだったのね。
五階に住んでも、エレベーターは無かったのですね😱
「ツー・ディ・ーケー」とは現代でも言わないですね。「にー・ディー・ケー」です。
ツーDKに違和感 にDK
しかしワンDKは許される不思議
今で言うタワマンみたいなもんですね
地元の団地やんけ、少し面影あるな
エレベーターが無い。当時は1番高いのは3階である。今は2階。
俺は昭和時代、4階建てで1階には複数の商業施設(新聞屋・増改築屋・市民食堂・食料品店・薬局・喫茶店等)は個別で入ってたよ。
何故エレベーター付けなかった?。年寄りにはキツイですね。
この時代ってまだエレベーターって普及してないんじゃないかな?自分の小学校の時(昭和62年頃)の友達の家の団地がけっこう古く2個あるエレベーターは何度も止まる言うてて、5階に呼びに行くのに必ず階段使ってた(笑)子供ながら怖過ぎて無理やった
平ボディにあんな甘い積みで60キロも移動したのか🚚?!しかも、入れ先がベーター無しの5階って、最高〜!?じゃん!!(笑)
エレベーターがなかった時代ですね😅💦引っ越トラックが荷物丸出しですね😅💦
今は少子化問題で、昔からの団地の入居者は老人ばかりになった。とあるニュータウンも高齢化が進んでおり、オールドタウンと言えよう。
URと言うか旧公団系はあんま金もってなさそうな外人も多いね
戦前の映像なのかな?
政治の貧困 貧困内容は変わっても都市部は貧困だね
段ボールの下駄箱、本箱。林檎箱の机。共同の台所、トイレ。今となったら懐かしさと驚きです。とうとう団地は当たりませんでした。
逞しく生きることを学びました。
やっぱり団地は、セレブ達がたくさん育った集合住宅なんだよなぁ。
出発点は、団地からスタートだ。
昔は皆、団地生活に憧れてたのだからね。
因みに俺も昔は団地に住んでた。
本当に此の当時は
団地暮らしが
憧れの時代でしたね
♪。わたしの家は農家でしたので、両親は日々一年中働きづくめでしたが・・。やっぱり昭和の時代は世の中が活気に溢れていましたね~♪
ありがとうございました👋😊。
私も幼少期に藤沢市の団地に住んでいたので、懐かしいです。当時の団地の写真持ってます。ちなみに昭和38年から43年の3月くらい迄、小学校に入学する少し前まで住んでました😊
アラカン。生まれた時は風呂なしアパート一間。記憶はないけど写真はあります。
三歳の時、都内から隣県の団地に引っ越しました。一番古い記憶が引っ越してお風呂を母と見た記憶です。
母が大喜びでした。いつでも雨の日でも寒い日でもゆっくりお風呂に入れる。ステンレスキッチンに洋式トイレ、スーパーマーケット。戦前生まれの主婦にしてみれば夢のような生活だったと思います。
五年くらいでまた転居したけど、好きな男の子と離れるのが辛かった。もう名前も覚えてないけど。
わが家も 暗いアパートから団地に越して来ました
嬉しくてたまりませんでした♪
水洗トイレにお風呂
家具や家電などを新調して
うちはお金持ちだったんだと勘違いしましたね 笑
公団の団地は確かに人気物件ではあるのですが、家賃が意外と高く「中の上」位の人が住むところと母が言っていました。
昭和や古い映像が大好きなので、素晴らしくまとめて頂き大変楽しみました。ただ、大切なことが一つ抜けております。この映像が昭和何年なのか、必ず解説に入れて頂きたいです。素晴らしい映像ありがとうございました。
50年前6畳一間に家族4人で住んでいました。勿論風呂はなく銭湯に通ってその近くのパン屋さんでパンの耳をもらっておやつに食べていた記憶があります。今もパンの耳もらえるのかな?
40年位前に団地の3階に住んでいました。
小学校低学年の頃だったか、野良犬が多く3階まで追いかけられ、母親がホッピングで撃退しました。
トラウマでしばらくの間外に出るのが怖かったのを思い出しました。
それ以外は特に問題なく、楽しく過ごせました。
ご配信されておられる方のお声が、どこかでお聞きしたことのあるような気がしました。古い映像ですね。でも今とは違い、家族の絆も強かったのかもしれません。一間で家族四人、住めていたのがすごいと思いました。収納などはどのようにされていたのでしょう。素晴らしい知恵ですね。
うちの両親はこの映像にもある大井町にあった三畳一間のアパートに生まれたばかりの私と三人で暮らしてました。ちょうど新築された団地に一回の申し込みで抽選にあたり、2DKに引っ越しました。当時は本当に住宅難で2DKが憧れだったんですよね。今思うと凄く狭いんですが。これは昭和40年くらいの映像でしょうか?
懐かしい。この時代で青春時代を過ごしてみたかった❗
確かに私もそう思います
本当に古き良き時代でした
時代と青春に乾杯!!
川崎市宮前区で幼少時代を過ごして小学校は横浜市鶴見区、それから港北区に引っ越しました。子供の頃は平屋で、ボットンでした。3畳2間でしたね。
団地は狭いが水洗便所。
戸建てやアパートは、汲み取り便所。
てイメージだね。
ある企業の社宅に住んでましたが、ほぼこの映像の団地と同じ感じでした。5階、エレベーター無し。風呂有り、水洗トイレ有り。社宅なので家賃は格安だったそうです。
私も湘南の団地育ちです この映像の団地は大庭かな? 皆さん5階でエレベーターなしはキツすぎと書いてますが、入居者の大半は若いファミリーだったから、みんな元気に階段登ってました 子供には階段はむしろ楽しいものでした 手すりを滑り降りたり、階段全段飛びとかしてました ありあまるグルコサミンコンドロイチンでしたね(笑) 我が家は私が成人した頃に近隣のマンションに引っ越しました いま50代ですが、いまあの団地の5階に住めと言われたらムリだと思います…
今まで団地住まいがどうして
当時の人の夢だったのか理解できなかったのですが
この動画で理由を知ることが出来ました。
昭和48年東京都府中市北山町で6畳1間で9000円でした 風呂なしでした
当時、2DKは皆さん「ニーデーケー」と発音していましたね。(笑)
友人が大森海岸の都営団地に住んでました。友人のお父さんが定年退職を期に横浜郊外に家を建てたのですが大森のほうが便利なのでそのまま団地で暮らしてました。息子さんだけが勿体ないといつて新築の家にさんでましたね😮
中野区川添町は今の東中野辺りのようですね。
公団は収入証明を出す必要があり、それなりの収入は必要だったみたいですね。
こんな時代もあったんですね。
持ち家が当たり前の今からは考えられませんね。🏠
階段5階の登り降りは、辛いでしょうね
自分も昔エレベーター付いてたけど、築年数50年オーバーの古いURの団地物件に住んでました。家賃は民営化して、近隣の民間賃貸よりは割高でしたけどね
自分も昭和史が好きでよく見ています。
サザエさんの原作漫画版の方は、よく戦後〜高度経済成長期の舞台背景や風習、当時の日常生活、時事ニュース、流行等のネタも多いので楽しんだりしています。
こういった当時のフィルはとても貴重ですね。とても興味深いです✨✨
そう言われれば、自分も5歳まで長屋に住んでいました。
普通に白黒TV、茶の間で家族5人川の字、練炭室があったり…(昭和40年代後半)
団地ではなく中古の一軒家に引っ越して、やはり洋式水洗トイレで逆さまに座って失敗したり、新しい色んな家電におののいて「うちは無理してこんな買って大丈夫なのかね」と家計を心配して、幼い姉妹で会話したのが懐かしい(笑)
時代は巡って今もワンルームと言う一間暮らしも数多。今はその狭い一間に風呂便所台所詰め込んでるから生活空間犠牲になっている
田舎だから団地住みの同級生もいなかった。映画などに出てくる鍵っ子ってどんなものなんだろうと子供の頃思っていた
貴重な映像ありがとうございます。
この時代狭いアパートから団地への引っ越しは皆んなの憧れだったんですね。
因みにアパートにはお風呂はあったのでしょうか。
銭湯だと思います。祖母が最初に住んでいた団地はお風呂なかったです。
当時の金額が現在の金額でいくらかわからん
新築なのにめっちゃ古く見える。人間のイメージは怖いわ
今の日本じゃ考えられないけど、当時は高度成長期に差し掛かっていたとはいえ戦後時間が経っていないから住宅事情はよくなかったんですね。東京は特に集中的に爆撃を受けてほぼ焼け野原になりましたからね…
今の経済的に安定した時代がどれだけありがたいか考えさせられますね
銀河鉄道999「第49話 これからの星」みたいな、希望に溢れた感じが素敵ですね。(*^_^*)
家族団らんは必要だよね。
ウルトラセブンの撮影地にもなりました。
今なら藤沢の団地(エレベーターなし5階)より、大井町のアパートのほうが人気そう。
なんか希望があるのがいいなあ。
おっしゃる通りです。人生は希望が一番です。
公団?今でいうところのUR ?
現代だと普通の家、マンション暮らしから高級タワマンに転居って感じですかね?
それにしても四人家族で六畳一間とはひどすぎる。
当時、日本人の住まいがうさぎ小屋と揶揄されたのはこういうことだったのね。
五階に住んでも、エレベーターは無かったのですね😱
「ツー・ディ・ーケー」とは現代でも言わないですね。
「にー・ディー・ケー」です。
ツーDKに違和感 にDK
しかしワンDKは許される不思議
今で言うタワマンみたいなもんですね
地元の団地やんけ、少し面影あるな
エレベーターが無い。当時は1番高いのは3階である。今は2階。
俺は昭和時代、4階建てで1階には複数の商業施設(新聞屋・増改築屋・市民食堂・食料品店・薬局・喫茶店等)は個別で入ってたよ。
何故エレベーター付けなかった?。年寄りにはキツイですね。
この時代ってまだエレベーターって普及してないんじゃないかな?自分の小学校の時(昭和62年頃)の友達の家の団地がけっこう古く2個あるエレベーターは何度も止まる言うてて、5階に呼びに行くのに必ず階段使ってた(笑)
子供ながら怖過ぎて無理やった
平ボディにあんな甘い積みで60キロも移動したのか🚚?!しかも、入れ先がベーター無しの5階って、最高〜!?じゃん!!(笑)
エレベーターがなかった
時代ですね😅💦
引っ越トラックが
荷物丸出しですね😅💦
今は少子化問題で、昔からの団地の入居者は老人ばかりになった。
とあるニュータウンも高齢化が進んでおり、オールドタウンと言えよう。
URと言うか旧公団系はあんま金もってなさそうな外人も多いね
戦前の映像なのかな?
政治の貧困 貧困内容は変わっても都市部は貧困だね