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懐かしく拝見しました。私の母親は明治32年生まれで、102歳まで生きました。ただ、90歳からは寝たきり状態でしたが、床の上で何時も歌っていたのが、この「水師営の会見」でした。私も母親に頬を摺り寄せて、一緒に歌っていたものです。私も84歳,超高齢になってしまいましたが日本人として生まれたことを誇りに思っております。この「竹田学校」を通じて、日本の若い人たちに日本人としての誇り、これからの生き方を伝授していっていただけたtらと思います。ご健勝をお祈りしております。
竹田先生、ありがとうございます。この音楽の授業、泣きながら参加いたしました。
有難うございました〜❣️久しぶりに声を出して歌いました😊88歳のお婆ちゃんです。昔母がよく歌ってました。
僕の婆さんは明治29年生まれです、3歳ぐらいの時だと思いますが、戦後の貧しい時に婆さんが唄ってくれてた乃木大将は........敵の将軍ステッセル、が水師営の会見の歌だとはいい歳になってから知りました、今でも唄えます。小学生の時に明治天皇と日露大戦争??の映画見ました、嵐勘十郎さんの凛々しい髭の明治天皇が印象深かったです。
音丸さんの明日はお立ちかも悲しげな唄ですが妻の思いがつたわる名曲と思います。
ステッセルの家族は特別列車を仕立てられてシベリヤ鉄道でロシアの首都まで無事に送り届けられたまた乃木大将の愛馬をステッセルに贈呈した
竹田さんのお話で ”昨日の敵は今日の友” の意が伝わってきます。S14年(1939)当時5歳、水師営、203高地にも行きました。(追)山口・下関の乃木さんの生家?にも訪れて欲しいです。
涙が出る話です。ありがとうございました。
母の祖父は東郷平八郎と親友でした。加藤から加東に改姓したほどです。母親から幼い頃に何度も聞かされたのが希典少年が梅干しを好きになるまで母親から食べさせられたと何度も聞きました。つまり東郷平八郎が一番心に残っていたことだと判断出来ます。長府の乃木神社で確認すると、母親ではなく父親が刑場に希典少年を連れて行き、晒し首を見せて、その後、梅干しの汁を飲ませたそうです。旅順攻略に際して、現場を知らない上層部の命令が梅干しの汁だと分かりました。無駄に皇軍の兵を沢山死なせなければ、明治天皇崩御の後、割腹自決する事はなかったと感じます。二人が生きていれば陸軍と海軍の太いパイプで、太平洋戦争に突入する事はなかったと感じます。
小学生時謳った「水師営の会見」懐かしく聴きました。水師営には昔行って来ました。日露戦の記念館として保存されていて中の展示品を観察しました。中国政府として観光資源としての復旧保存に感謝しました。203高地もしっかり保存されていました。旅順港は曇って見えませんでした。記念館の管理先輩がナツメの木を示し日本の支配は寛容で法のもと中国人も日本人も平等だったが同胞の支配は厳しく政府批判は厳禁無条件逮捕処罰の対象としみじみ正調日本語での独り言でした。もうとうに亡くなってる方と思います。
うちの婆様が子守歌代わりに歌って聞かせてくれた歌がこれであった。
明治29年生まれの婆ちゃんが教えてくれました、今でも敵の将軍ステッセルと乃木大将は覚えています。
@@pm86ca さん。私の婆ちゃんも明治29年生まれで、能く歌って呉れました。懐かしい歌ですねえ。
軍歌を学べるのは、ここだけですね。ありがとうございます。
乃木将軍はもちろん、ステッセル将軍も大変すばらしい方だと思います。確か敗戦の責任を取らされて戦後軍法会議で死刑判決を受けてしまうんですが、それを知った乃木将軍は、こんな素晴らしい方を死刑にするということは、お国にとって大変有能な人材を失うことになるんですよとロシア側におっしゃって死刑は回避された、つまりそれだけステッセル将軍も素晴らしい方だと思います。
乃木に子供を授けると学習院の院長に任命の所で涙出ました。
旅順会場役なりて敵の将軍ステッセル乃木大将と会見の心は何処帥新鋭
国史の授業で先生歌ってたわ
陸軍の神が乃木希典閣下で海軍の神が東郷平八郎元帥ですね
東郷平八郎に面会したことのある自分の祖父の従弟の言によるとクソ提督だったそうだが。海軍反省会でもこの司令長官の呪縛が帝國海軍をダメにしたとクソミソだったらしい。
自決は知っていましたが、明治天皇によっぽど心酔してたんだなあって程度しか考えていませんでした。心酔とかそんな安いレベルの話じゃなかった・・・。先生の話でやっと納得しました。知ることができて良かったです。泣けた。
この会見の時アメリカ人が動画を撮ろうとしたらしいけど乃木大将は敵にいかなる恥辱を与えてはいけないと言って断って写真を1枚だけ撮ったらしい。
しきしまの 大和心のををしさは ことある時ぞ あらはれにける。明治天皇御製乃木希典将軍は、日本人の中の日本人ですね!
あの会見の写真はスゴい。どちらが敗者かわからない。負けたほうに帯剣を許しているのだ。これぞ武士道の真髄だわ。乃木将軍。でも息子様二人とも二百三高地で失った傷は深かったのでしょうね……。
今日の敵は明日の友✨だから日本が好きです🇯🇵乃木さんは死んで欲しくなかったですね😢💦
この頃のロシア人は正しく騎士道精神に満ち溢れた…しかし日ソ不可侵条約を反故にしたロスケは最低で反吐が出る!
日独伊三国同盟の集団的自衛権条項とナチスドイツが対ソ戦を開始したことによって日ソ不可侵条約はその時点で意味をなさなくなっていることを知らない者がいるとは情けない限り。ロスケが最低なのではなく、こんな当然のことを知らず文句をつける御仁がいることに反吐が出る。まあ、このあたりの歴史的事実を知っている日本人が殆んどいないことが問題なのだが、、、もう少し歴史の事実を勉強されたい。
マッカーサーとはえらい違いやな
奥様もともに自決されたんですね。
音楽の時間についてですが、どなたか、シンセなど鍵盤で伴奏してくれる人はいないのでしょうか。
乃木将軍は、明治天皇が深く信任された通りの至誠の聖人であったと思います。明治天皇の信任に応えるために明治天皇御存命中も、薨去後もお近くで務めを果たそうと自決されたように思えてなりません。
陛下と呼ばれるものは薨去ではなく崩御というのが正当。間違ってはいけない。
『敵将をしてその名誉を保たしめよ。』(敵将に恥をかかせるな)というのが明治天皇の大御心であった。この大御心をもっと拡散していただきたい。殿下の高祖父ではありませんか。
この『水師営の会見』は文部省唱歌であって軍歌ではないはず(文部省唱歌尋常小学校唱歌5年に掲載)。日露戦争の英雄、橘中佐や廣瀬中佐には唱歌版と軍歌版の二つが存在しますが、『水師営の会見』には軍歌版は存在せず、これを軍歌と称するのは少しおかしいと思いますが。
そうですね。♪とどろくつつおと・・・の『広瀬中佐』は文部省唱歌尋常小学校唱歌4年に掲載
明治天皇と乃木大将 ともに大変情愛の深い方ですね
次回は、元寇の解説お願いします。元寇は鎌倉時代、蒙古襲来を描いた歌で、何故軍歌になったのか、気になります。聴けば勇気が湧き、元気が出ます。好きな歌です。
四百〜余州を挙る十万余騎の敵〜
この時日本側はもう弾薬が尽きて、追撃が出来ない状態だったんですよね。そして講和の後もそれを2年間隠し通したという。
乃木大将はさらに、降伏を示す白旗は不要と伝えていたと思うのですが、、、
日本軍も保式機関砲と言う機関銃を持ってたよ。
水師営の会見と童謡大黒さまのメロディーはそっくりです。
乃木大将の自決は我が子に会うためだったのかとふと思った、、、
正しくアニメにしてもらいたいです
もう歌いましょう♫旅順開城やくなりて〜〜敵の将軍スッセル〜〜〜☺️
二人の我が子それぞれに死所を得たるを喜べり、これぞ武門の面目と大将答え力あり 果たして乃木将軍の本心であろうか?自分の曽祖父は聯隊長として乃木大将の部下であったが、ご子息戦死後の将軍は大変憔悴されていたと伝えている。
この方面の戦闘に(せんとうに) 庭に一本(ひともと)棗の木 ここは和語で読んでいるのであるから、戦闘は『せんとう』ではなく『たたかひ』ではないかと思うのですが、もともと漢語読みで『せんとう』となっているものなのでしょうか? ここのところ何となく違和感を感じるのですが、、、殿下の考えをお聞かせいただきたいものです。
乃木将軍を辱めたい司馬遼太郎の「殉職」は本当に許せない。司馬の言うように乃木将軍が本当に無能だったら、これほど厚い明治天皇の信任を受けただろうか?確かに乃木将軍は天才的な軍人ではなかっただろうけど、ペトン(コンクリート)で作られた近代的な要塞を相手に戦ったのは、この旅順攻略戦が初めてであり、誰も攻略法を知らなかった。恐らく司馬がベタ褒めしている児玉源太郎でも手こずっただろう。その様な状況で、多大な犠牲を払いながらでも、旅順を陥したのは評価に値すると思うが?敵であったステッセルも、まさか難攻不落の要塞が堕とされるとは夢にも思っていなかっただろう。だからステッセルは日本軍の武勇を褒め称えた訳で…司馬は児玉源太郎が旅順攻略戦の指揮官だったら、楽勝で要塞を墜とせたみたな事を言っているけど、嘘も大概にせぇと言いたい。
児玉では無理であろう。これだけの多くの犠牲を払ったら部下が従わないと思われる。乃木さんの命令に部下が従ったのは跡取り息子を二人とも討ち死にさせたからである。部下はみな、乃木さんは本気だと思って戦ったのである。
明治天皇のご配慮すばらしいです。
あれ?2アメージング?
アニメで良いのでゴールデンタイムに放送しないかね、たまには
懐かしく拝見しました。
私の母親は明治32年生まれで、102歳まで生きました。
ただ、90歳からは寝たきり状態でしたが、
床の上で何時も歌っていたのが、この「水師営の会見」でした。
私も母親に頬を摺り寄せて、一緒に歌っていたものです。
私も84歳,超高齢になってしまいましたが
日本人として生まれたことを誇りに思っております。
この「竹田学校」を通じて、日本の若い人たちに
日本人としての誇り、これからの生き方を
伝授していっていただけたtらと思います。
ご健勝をお祈りしております。
竹田先生、ありがとうございます。この音楽の授業、泣きながら参加いたしました。
有難うございました〜❣️久しぶりに声を出して歌いました😊88歳のお婆ちゃんです。
昔母がよく歌ってました。
僕の婆さんは明治29年生まれです、3歳ぐらいの時だと思いますが、戦後の貧しい時に婆さんが唄ってくれてた
乃木大将は........敵の将軍ステッセル、が水師営の会見の歌だとはいい歳になってから知りました、今でも唄えます。
小学生の時に明治天皇と日露大戦争??の映画見ました、嵐勘十郎さんの凛々しい髭の明治天皇が印象深かったです。
音丸さんの明日はお立ちかも悲しげな唄ですが妻の思いがつたわる名曲と思います。
ステッセルの家族は
特別列車を仕立てられて
シベリヤ鉄道でロシアの首都まで
無事に
送り届けられた
また乃木大将の愛馬を
ステッセルに贈呈した
竹田さんのお話で ”昨日の敵は今日の友” の意が伝わってきます。
S14年(1939)当時5歳、水師営、203高地にも行きました。
(追)山口・下関の乃木さんの生家?にも訪れて欲しいです。
涙が出る話です。
ありがとうございました。
母の祖父は東郷平八郎と親友でした。加藤から加東に改姓したほどです。母親から幼い頃に何度も聞かされたのが希典少年が梅干しを好きになるまで母親から食べさせられたと何度も聞きました。つまり東郷平八郎が一番心に残っていたことだと判断出来ます。長府の乃木神社で確認すると、母親ではなく父親が刑場に希典少年を連れて行き、晒し首を見せて、その後、梅干しの汁を飲ませたそうです。旅順攻略に際して、現場を知らない上層部の命令が梅干しの汁だと分かりました。無駄に皇軍の兵を沢山死なせなければ、明治天皇崩御の後、割腹自決する事はなかったと感じます。二人が生きていれば陸軍と海軍の太いパイプで、太平洋戦争に突入する事はなかったと感じます。
小学生時謳った「水師営の会見」懐かしく聴きました。水師営には昔行って来ました。日露戦の記念館として保存されていて中の展示品を観察しました。中国政府として観光資源としての復旧保存に感謝しました。203高地もしっかり保存されていました。旅順港は曇って見えませんでした。記念館の管理先輩がナツメの木を示し日本の支配は寛容で法のもと中国人も日本人も平等だったが同胞の支配は厳しく政府批判は厳禁無条件逮捕処罰の対象としみじみ正調日本語での独り言でした。もうとうに亡くなってる方と思います。
うちの婆様が子守歌代わりに歌って聞かせてくれた歌がこれであった。
明治29年生まれの婆ちゃんが教えてくれました、今でも敵の将軍ステッセルと乃木大将は覚えています。
@@pm86ca さん。
私の婆ちゃんも明治29年生まれで、
能く歌って呉れました。
懐かしい歌ですねえ。
軍歌を学べるのは、ここだけですね。ありがとうございます。
乃木将軍はもちろん、ステッセル将軍も大変すばらしい方だと思います。確か敗戦の責任を取らされて戦後軍法会議で死刑判決を受けてしまうんですが、それを知った乃木将軍は、こんな素晴らしい方を死刑にするということは、お国にとって大変有能な人材を失うことになるんですよとロシア側におっしゃって死刑は回避された、つまりそれだけステッセル将軍も素晴らしい方だと思います。
乃木に子供を授けると学習院の院長に任命の所で涙出ました。
旅順会場役なりて敵の将軍ステッセル乃木大将と会見の心は何処帥新鋭
国史の授業で先生歌ってたわ
陸軍の神が乃木希典閣下で海軍の神が東郷平八郎元帥ですね
東郷平八郎に面会したことのある自分の祖父の従弟の言によるとクソ提督だったそうだが。海軍反省会でもこの司令長官の呪縛が帝國海軍をダメにしたとクソミソだったらしい。
自決は知っていましたが、明治天皇によっぽど心酔してたんだなあって程度しか考えていませんでした。
心酔とかそんな安いレベルの話じゃなかった・・・。
先生の話でやっと納得しました。知ることができて良かったです。泣けた。
この会見の時アメリカ人が動画を撮ろうとしたらしいけど乃木大将は敵にいかなる恥辱を与えてはいけないと言って断って写真を1枚だけ撮ったらしい。
しきしまの 大和心のををしさは ことある時ぞ あらはれにける。
明治天皇御製
乃木希典将軍は、日本人の中の日本人ですね!
あの会見の写真はスゴい。どちらが敗者かわからない。負けたほうに帯剣を許しているのだ。これぞ武士道の真髄だわ。乃木将軍。でも息子様二人とも二百三高地で失った傷は深かったのでしょうね……。
今日の敵は明日の友✨だから日本が好きです🇯🇵乃木さんは死んで欲しくなかったですね😢💦
この頃のロシア人は正しく騎士道精神に満ち溢れた…しかし日ソ不可侵条約を反故にしたロスケは最低で反吐が出る!
日独伊三国同盟の集団的自衛権条項とナチスドイツが対ソ戦を開始したことによって日ソ不可侵条約はその時点で意味をなさなくなっていることを知らない者がいるとは情けない限り。ロスケが最低なのではなく、こんな当然のことを知らず文句をつける御仁がいることに反吐が出る。まあ、このあたりの歴史的事実を知っている日本人が殆んどいないことが問題なのだが、、、もう少し歴史の事実を勉強されたい。
マッカーサーとはえらい違いやな
奥様もともに自決されたんですね。
音楽の時間についてですが、
どなたか、シンセなど
鍵盤で伴奏してくれる人は
いないのでしょうか。
乃木将軍は、明治天皇が深く信任された通りの至誠の聖人であったと思います。明治天皇の信任に応えるために明治天皇御存命中も、薨去後もお近くで務めを果たそうと自決されたように思えてなりません。
陛下と呼ばれるものは薨去ではなく崩御というのが正当。間違ってはいけない。
『敵将をしてその名誉を保たしめよ。』(敵将に恥をかかせるな)というのが明治天皇の大御心であった。この大御心をもっと拡散していただきたい。殿下の高祖父ではありませんか。
この『水師営の会見』は文部省唱歌であって軍歌ではないはず(文部省唱歌尋常小学校唱歌5年に掲載)。日露戦争の英雄、橘中佐や廣瀬中佐には唱歌版と軍歌版の二つが存在しますが、『水師営の会見』には軍歌版は存在せず、これを軍歌と称するのは少しおかしいと思いますが。
そうですね。♪とどろくつつおと・・・の『広瀬中佐』は文部省唱歌尋常小学校唱歌4年に掲載
明治天皇と乃木大将 ともに大変情愛の深い方ですね
次回は、元寇の解説お願いします。元寇は鎌倉時代、蒙古襲来を描いた歌で、何故軍歌になったのか、気になります。聴けば勇気が湧き、元気が出ます。好きな歌です。
四百〜余州を挙る十万余騎の敵〜
この時日本側はもう弾薬が尽きて、追撃が出来ない状態だったんですよね。そして講和の後もそれを2年間隠し通したという。
乃木大将はさらに、降伏を示す白旗は不要と伝えていたと思うのですが、、、
日本軍も保式機関砲と言う機関銃を持ってたよ。
水師営の会見と童謡大黒さまのメロディーはそっくりです。
乃木大将の自決は我が子に会うためだったのかとふと思った、、、
正しくアニメにしてもらいたいです
もう歌いましょう♫
旅順開城やくなりて〜〜
敵の将軍スッセル〜〜〜☺️
二人の我が子それぞれに死所を得たるを喜べり、これぞ武門の面目と大将答え力あり 果たして乃木将軍の本心であろうか?自分の曽祖父は聯隊長として乃木大将の部下であったが、ご子息戦死後の将軍は大変憔悴されていたと伝えている。
この方面の戦闘に(せんとうに) 庭に一本(ひともと)棗の木 ここは和語で読んでいるのであるから、戦闘は『せんとう』ではなく『たたかひ』ではないかと思うのですが、もともと漢語読みで『せんとう』となっているものなのでしょうか? ここのところ何となく違和感を感じるのですが、、、殿下の考えをお聞かせいただきたいものです。
乃木将軍を辱めたい司馬遼太郎の「殉職」は本当に許せない。
司馬の言うように乃木将軍が本当に無能だったら、これほど厚い明治天皇の信任を受けただろうか?
確かに乃木将軍は天才的な軍人ではなかっただろうけど、ペトン(コンクリート)で作られた近代的な要塞を相手に戦ったのは、この旅順攻略戦が初めてであり、誰も攻略法を知らなかった。
恐らく司馬がベタ褒めしている児玉源太郎でも手こずっただろう。
その様な状況で、多大な犠牲を払いながらでも、旅順を陥したのは評価に値すると思うが?
敵であったステッセルも、まさか難攻不落の要塞が堕とされるとは夢にも思っていなかっただろう。
だからステッセルは日本軍の武勇を褒め称えた訳で…
司馬は児玉源太郎が旅順攻略戦の指揮官だったら、楽勝で要塞を墜とせたみたな事を言っているけど、嘘も大概にせぇと言いたい。
児玉では無理であろう。これだけの多くの犠牲を払ったら部下が従わないと思われる。乃木さんの命令に部下が従ったのは跡取り息子を二人とも討ち死にさせたからである。部下はみな、乃木さんは本気だと思って戦ったのである。
明治天皇のご配慮すばらしいです。
あれ?2アメージング?
アニメで良いのでゴールデンタイムに放送しないかね、たまには