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素晴らしく傷んだ気持ちに心が癒され暖かな涙が、寂しかった空っぽだった心を満たしてくれました。素敵な聖歌に出会い感謝します。
元気をもらいました。ありがとうございます。
「神(創造主)はイエス・キリストを賜わったほどに、この世を愛して下さった。それはイエスを信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」ヨハネ3-16
宗教家が愛情深くなることが何よりの。愛を説かれたイエス・キリスト救世主と呼ばれたのもそれが全てでしょう。
天(てん)のきさき という歌も同じメロディーですね
難しい事は全然分かりませんが、私は12年前にカトリック教会で洗礼を受けた者です。実は、何と12年かかって、キリスト教が大嫌いになりました。教会での差別的仕打ち、イジメ、そしてクソ真面目に聖書の教えを守ろうと必死にがんばって、ハッキリ言って人生酷い目に会いました。神父からも「ストレス発散の対象」ばりに冷たくされ、シスターからは「離婚経験者」ということで、ゴミクズのように言われました。何か「福祉的」な活動にやたら駆り出された挙げ句、「あんたはこれやっててね、私はミサに出てくるから」と、教会の建物の外でミサの間中雑用。そんな事がしょっちゅうでした。さらに、散々お世話した「代母さん」が、老人施設に入ってしまったので、お見舞に行こうと思って施設に念のため電話したら、「教会関係の人だからって、別に来ていいわけじゃありませんけど?」・・・他の信者さんは行ってるのに。しかも、散々お世話したはずの自分が、「余計者」扱い。馬鹿馬鹿しくて、ついにキレました。キリスト教関係のもの(ロザリオ、絵、ミニチュアイコンなど)全て段ボールにしまって、今後一切キリスト教には関わりたくありません。何か愚痴になってしまいました、ごめんなさい。とにかく腹立つ。教えも、今となっては「きれいごと言ってんじゃね~よ、偽善者の集まり!!」としか思えない。
私は30年以上、カトリック教会に行っているけど、あなたがされた経験は相当にレアなケースです。にわかには信じられませんが、そうであるのなら、心中お察しします。しかし、キリスト教徒とは、イエス・キリストと結ばれることが本質です。周囲の人間のことなんて二次的なこと。仏教の場合でも、自分が悟るか否かが問題であって、お坊さんがどういう人だったかとか、教団が意地悪だったかなどは、本質的な問題ではない。嫌なら、他教団に行って悟りを開けばいい。それと同じで、カトリックがダメだったら、プロテスタントに行けばいいんじゃないの?あなたが洗礼を受けたことが真実の気持ちからなのであれば、何で神父やシスターが偽善者だからといって、自分の救い主から離れる必要があるのでしょうか。その辺がわかりません。馬鹿なアメリカ人たちに意地悪されたから、英語やアメリカ文化が嫌いになったというのは理解できるけど、魂の救いのことは別次元なんじゃないのでしょうか。しかし、あなたが受けた12年分の傷については、申しわけなく思います。残った者たちで、そういった問題をなくすようにするしかないですね。しかし、歌には罪はないですからね。わざわざご覧になるのであれば、素直に聞いてあげればいいのでは?
私は洗礼もずっと待たされ、悪魔にそそのかされ、理解できずに教会に行かなくなりました。私の知人は別のカトリック教会で外人の副司祭にお尻を触られて教会に行くのをやめたと言っていました。中国共産党と日本共産党の在り方が違うようにイタリアのバチカンと日本のカトリック教会は霊性が違うのでしょう。動画で観ましたがバチカンのミサでの合唱は芸術ですね。教会にはヒエラルキー、上下関係があるから、やっぱりバチカンが上で宣教地の日本は下だし、教皇、司祭、修道士の順で、信徒は一番下。役に就いている信徒は上で、平信徒はその下。それに対して、プロテスタントは牧師さんが信者さんの足を洗ってくれるように対等に接してくれたり、自由で寛容ですよね。カトリック教会ではカトリックの学校の卒業生だというと通りがいいみたいですね。教会での迫害に耐えていたら、病院行きでしょう。
私は信者ではありませんし、洗礼を受けたいとも思いませんが、キリストの考え方は好きです。どこに居るかや誰と居るかという問題より、自分の信じることが大切なのではないかなと思いました。大きな独り言です^^*
そうですね。救世主と呼ばれた意味がなかったらだめだよ。
まあ教会は、そもそも実社会と変わらないね・・・社会で傷ついた不器用な人は、教会に行っても傷つきます。逆にコミュ力高い人は、教会でも楽しくやっている。
感謝します
素晴らしく
傷んだ気持ちに
心が癒され
暖かな涙が、寂しかった空っぽだった心を満たしてくれました。
素敵な聖歌に出会い感謝します。
元気をもらいました。ありがとうございます。
「神(創造主)はイエス・キリストを賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは
イエスを信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」ヨハネ3-16
宗教家が愛情深くなることが何よりの。愛を説かれたイエス・キリスト救世主と呼ばれたのもそれが全てでしょう。
天(てん)のきさき という歌も同じメロディーですね
難しい事は全然分かりませんが、私は12年前にカトリック教会で洗礼を受けた者です。
実は、何と12年かかって、キリスト教が大嫌いになりました。
教会での差別的仕打ち、イジメ、そしてクソ真面目に聖書の教えを守ろうと必死にがんばって、
ハッキリ言って人生酷い目に会いました。
神父からも「ストレス発散の対象」ばりに冷たくされ、シスターからは「離婚経験者」ということで、ゴミクズのように言われました。
何か「福祉的」な活動にやたら駆り出された挙げ句、「あんたはこれやっててね、私はミサに出てくるから」と、教会の建物の外でミサの間中雑用。
そんな事がしょっちゅうでした。
さらに、散々お世話した「代母さん」が、老人施設に入ってしまったので、お見舞に行こうと思って施設に念のため電話したら、
「教会関係の人だからって、別に来ていいわけじゃありませんけど?」
・・・他の信者さんは行ってるのに。
しかも、散々お世話したはずの自分が、「余計者」扱い。
馬鹿馬鹿しくて、ついにキレました。
キリスト教関係のもの(ロザリオ、絵、ミニチュアイコンなど)全て段ボールにしまって、今後一切キリスト教には関わりたくありません。
何か愚痴になってしまいました、ごめんなさい。
とにかく腹立つ。教えも、今となっては
「きれいごと言ってんじゃね~よ、偽善者の集まり!!」
としか思えない。
私は30年以上、カトリック教会に行っているけど、あなたがされた経験は相当にレアなケースです。
にわかには信じられませんが、そうであるのなら、心中お察しします。
しかし、キリスト教徒とは、イエス・キリストと結ばれることが本質です。周囲の人間のことなんて二次的なこと。
仏教の場合でも、自分が悟るか否かが問題であって、お坊さんがどういう人だったかとか、教団が意地悪だったかなどは、本質的な問題ではない。嫌なら、他教団に行って悟りを開けばいい。
それと同じで、カトリックがダメだったら、プロテスタントに行けばいいんじゃないの?
あなたが洗礼を受けたことが真実の気持ちからなのであれば、何で神父やシスターが偽善者だからといって、自分の救い主から離れる必要があるのでしょうか。その辺がわかりません。
馬鹿なアメリカ人たちに意地悪されたから、英語やアメリカ文化が嫌いになったというのは理解できるけど、魂の救いのことは別次元なんじゃないのでしょうか。
しかし、あなたが受けた12年分の傷については、申しわけなく思います。残った者たちで、そういった問題をなくすようにするしかないですね。
しかし、歌には罪はないですからね。わざわざご覧になるのであれば、素直に聞いてあげればいいのでは?
私は洗礼もずっと待たされ、悪魔にそそのかされ、理解できずに教会に行かなくなりました。私の知人は別のカトリック教会で外人の副司祭にお尻を触られて教会に行くのをやめたと言っていました。中国共産党と日本共産党の在り方が違うようにイタリアのバチカンと日本のカトリック教会は霊性が違うのでしょう。動画で観ましたがバチカンのミサでの合唱は芸術ですね。教会にはヒエラルキー、上下関係があるから、やっぱりバチカンが上で宣教地の日本は下だし、教皇、司祭、修道士の順で、信徒は一番下。役に就いている信徒は上で、平信徒はその下。それに対して、プロテスタントは牧師さんが信者さんの足を洗ってくれるように対等に接してくれたり、自由で寛容ですよね。カトリック教会ではカトリックの学校の卒業生だというと通りがいいみたいですね。教会での迫害に耐えていたら、病院行きでしょう。
私は信者ではありませんし、洗礼を受けたいとも思いませんが、キリストの考え方は好きです。
どこに居るかや誰と居るかという問題より、自分の信じることが大切なのではないかなと思いました。大きな独り言です^^*
そうですね。救世主と呼ばれた意味がなかったらだめだよ。
まあ教会は、そもそも実社会と変わらないね・・・
社会で傷ついた不器用な人は、教会に行っても傷つきます。
逆にコミュ力高い人は、教会でも楽しくやっている。
感謝します