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太田さんとてもお若くて、たくさんのお話が出てきて、いつまでも聞いていたいです👏
聞き上手荒木さん
ベシャリの太田さんに喋るだけ喋らせて自分は出しゃばらないスタイルがスマートですね古舘伊知郎さんはゲスト呼んでるのに自分が全部持っていって喋ってしまいます
太田さん、昭和40年代あるあるなお話、ありがとうございます✨私は、44年生まれなのですが、父親が昭和一桁世代なので、その根性論よくわかります、ハイ😅そう、当時は2県1校だったんですね〜確か、60回大会から都道府県代表になったんですね🏟️それにしても太田さん、本当に延長に好かれてますね〜野球の神様が導いたのかなと思います🌟🌟🌟今回も貴重なお話のてんこ盛り、ありがとうございました🙇次回は、あの試合の裏話が聞けるでしょうか、楽しみにしています🤗
当時の選抜は、北海道と東北が1校ずつでしたよね〜。関東・東京でも4校だったし。それで夏→春→夏の3季連続甲子園出場した三沢、太田幸司氏は凄かった!
大ちゃーーーん!早実!9年ぶり30回目の甲子園‼️決まったねーー!嬉しい‼️㊗️
太田さん歳重ねる度にナイスミドルになっていってる
こんばんは。お話をされている太田さんはきっと高校生の太田少年に戻って目の前のお話をされているのだなと思うほど臨場感がありました😊延長を悪い癖のようにおっしゃっていましたが、それだけよい試合(勝負)をされていたということでもあると思います。個人の感想ですが、見ているほうはテニスのラリーみたいによい試合はいつまでも見ていたい気持ちになります😍また、それとは別に、今も春夏の甲子園が始まったら、終わってほしくなくて延長大歓迎です😅選手の皆さんにとってはたまったものではないですよね🙏
昭和44年選抜高校野球小倉高-三沢高はレフトスタンドから見てました、楠城捕手が打席の時はえらい外野手が後ろに下がって守ってた記憶があります、その頭を超えられた打球があったんですね😅あの日は三沢高校の前後の試合で丸亀商業-大田高の試合があってヤクルト井原さんロッテ阪神福間さんの対決も有りました、当時の福間さんは豪速球左腕投手でしたね
1983年の第55回大会から選抜高校野球は出場校が32チームになりましたコレで2の5乗になるので中途半端に1回戦免除される高校がなくなり平等になりました1979〜1982年は30校でしたその前は29校でした1979年から北海道と東北まとめて方式から、北海道と東北は別々に選考されましたその結果、大抵北海道1校、東北から2校になり、減る傾向になりました北海道と東北まとめての時代は4校出場が多かったですから4校から3校に減ってますまた1983年に32校になりましたが、関東ひとまとめから東京のみ別選考になり、その年に2校になりましたが、元々関東ひとまとめの時代も東京は2校出場してたので、大して変わり映えはしませんでしたただ個人的に納得しにくいのは近畿圏からは7校出場関東圏と東京の合計は大抵6校で、当時でも近畿圏の2府4県の人口は関東圏の1都7県より明らかに少ないのに出場校が同じどころか、逆に関東は1校少ないのは高野連による差別だと思いますよ多分そう言う批判があったせいか、1988年だけは関東と東京合わせて7校になり、近畿圏と同じになりましたが、翌年の1989年からはまたは6校に戻り、その代わり近畿圏は固定の7校と言う我田引水ぶりが目立ちます勿論平成になり、大抵の年は7校になりましたが、1998年は近畿圏8校と首を傾げたくなる年もあります70回大会で特別にその年だけ36校になりましたが、中国、九州等も確かに増えましたが、関東と東京の合計は7校どうしても高野連は西日本中心に物事を考える人傾向があるように見受けられます
鎮西の試合の記憶があります。青森県?三沢?はぁ?と思いましたが、よく見ると球が速くて驚きました。
三沢高校は春夏も初戦突破してますね。当時三沢は2回戦の壁と言われてました。それを打破しての夏準優勝でした。今の甲子園人気は三沢高太田投手が原点だと思ってます。余談ですが青森県と秋田県での奥羽代表で青森県は一度も勝ててません。三沢高校の活躍から青森代表の暗黒時代が長かったですね。でも今は光星と山田がそれを打破してくれてます。今や青森代表は全国レベルの力があります。三沢高校に感謝です!
延長癖…坂東英二も予選の時から延長戦を頻繁にやっている…ハンカチ王子も延長戦を甲子園決勝以外の試合でもやっている…そういえば荒木さんはあんだけ甲子園で試合していますが延長戦あったっけ?😅
太田さん
とてもお若くて、たくさんのお話が出てきて、いつまでも聞いていたいです👏
聞き上手荒木さん
ベシャリの太田さんに喋るだけ喋らせて自分は出しゃばらないスタイルがスマートですね
古舘伊知郎さんはゲスト呼んでるのに自分が全部持っていって喋ってしまいます
太田さん、昭和40年代あるあるなお話、ありがとうございます✨
私は、44年生まれなのですが、父親が昭和一桁世代なので、その根性論よくわかります、ハイ😅
そう、当時は2県1校だったんですね〜確か、60回大会から都道府県代表になったんですね🏟️
それにしても太田さん、本当に延長に好かれてますね〜野球の神様が導いたのかなと思います🌟🌟🌟
今回も貴重なお話のてんこ盛り、ありがとうございました🙇
次回は、あの試合の裏話が聞けるでしょうか、楽しみにしています🤗
当時の選抜は、北海道と東北が1校ずつでしたよね〜。関東・東京でも4校だったし。
それで夏→春→夏の3季連続甲子園出場した三沢、太田幸司氏は凄かった!
大ちゃーーーん!
早実!9年ぶり30回目の甲子園‼️決まったねーー!
嬉しい‼️㊗️
太田さん歳重ねる度にナイスミドルになっていってる
こんばんは。
お話をされている太田さんはきっと高校生の太田少年に戻って目の前のお話をされているのだなと思うほど臨場感がありました😊
延長を悪い癖のようにおっしゃっていましたが、それだけよい試合(勝負)をされていたということでもあると思います。
個人の感想ですが、見ているほうはテニスのラリーみたいによい試合はいつまでも見ていたい気持ちになります😍
また、それとは別に、今も春夏の甲子園が始まったら、終わってほしくなくて延長大歓迎です😅
選手の皆さんにとってはたまったものではないですよね🙏
昭和44年選抜高校野球小倉高-三沢高はレフトスタンドから見てました、楠城捕手が打席の時は
えらい外野手が後ろに下がって守ってた記憶があります、その頭を超えられた打球があったんですね😅
あの日は三沢高校の前後の試合で丸亀商業-大田高の試合があってヤクルト井原さんロッテ阪神福間さんの
対決も有りました、当時の福間さんは豪速球左腕投手でしたね
1983年の第55回大会から選抜高校野球は出場校が32チームになりました
コレで2の5乗になるので中途半端に1回戦免除される高校がなくなり平等になりました
1979〜1982年は30校でした
その前は29校でした
1979年から北海道と東北まとめて方式から、北海道と東北は別々に選考されました
その結果、大抵北海道1校、東北から2校になり、減る傾向になりました
北海道と東北まとめての時代は4校出場が多かったですから
4校から3校に減ってます
また1983年に32校になりましたが、関東ひとまとめから東京のみ別選考になり、その年に2校になりましたが、元々関東ひとまとめの時代も東京は2校出場してたので、大して変わり映えはしませんでした
ただ個人的に納得しにくいのは近畿圏からは7校出場
関東圏と東京の合計は大抵6校で、当時でも近畿圏の2府4県の人口は関東圏の1都7県より明らかに少ないのに出場校が同じどころか、逆に関東は1校少ないのは高野連による差別だと思いますよ
多分そう言う批判があったせいか、1988年だけは関東と東京合わせて7校になり、近畿圏と同じになりましたが、翌年の1989年からはまたは6校に戻り、その代わり近畿圏は固定の7校と言う我田引水ぶりが目立ちます
勿論平成になり、大抵の年は7校になりましたが、1998年は近畿圏8校と首を傾げたくなる年もあります
70回大会で特別にその年だけ36校になりましたが、中国、九州等も確かに増えましたが、関東と東京の合計は7校
どうしても高野連は西日本中心に物事を考える人傾向があるように見受けられます
鎮西の試合の記憶があります。青森県?三沢?はぁ?と思いましたが、よく見ると球が速くて驚きました。
三沢高校は春夏も初戦突破してますね。当時三沢は2回戦の壁と言われてました。
それを打破しての夏準優勝でした。
今の甲子園人気は三沢高太田投手が原点だと思ってます。
余談ですが青森県と秋田県での奥羽代表で青森県は一度も勝ててません。三沢高校の活躍から青森代表の暗黒時代が長かったですね。でも今は光星と山田がそれを打破してくれてます。
今や青森代表は全国レベルの力があります。三沢高校に感謝です!
延長癖…坂東英二も予選の時から延長戦を頻繁にやっている…ハンカチ王子も延長戦を甲子園決勝以外の試合でもやっている…そういえば荒木さんはあんだけ甲子園で試合していますが延長戦あったっけ?😅