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懐かしい この言葉に尽きる。父の故郷巻迄の路、親戚が東三条駅に迎えに来ては姉と10歳の私は新潟の夏、冬は必ず数週間も行っていた。父が渋谷駅で徹夜して並んで買った往復券、嬉しかった。 家族で行くときはビュッフェに寄りビールが揺れたり、供えのポテトチップが美味しくて、上野駅の匂い、降り立った新潟の香り、自分の育成は新潟で形成した。 二人の子がときに乗って正月帰って来た時の白く雪を被ったときの先頭車に母は泣いたと言う。頑張って走って来たときに心が動いたと言う。 懐かしい、
特急ときは憧れました。私は子供の頃、新潟県見附まで母親に連れられて帰省したのですが、見附はときがほとんど停まらないのでよく急行佐渡を利用していました。子供心に長くてくたびれましたが、今となっては良い思い出です。
食堂車が連結されてた181系、183系では食堂車が廃止されてましたね。
子供の頃、母親の故郷に里帰りするときに良く乗ったな〜 上野で駅弁と冷凍ミカンを買ってもらうのが嬉しかった。その頃、母親はティーパック付きの緑茶を飲んでたな。半透明のボトルに白湯だけ入って渡されてた。本当に良い思い出だな。
上野発のときで、冬の三国峠辺りかな、雪のせいで蛇行路をゆっくりと、次第に座席シートヒーターも子供には熱すぎて そしてそのヒーターの匂いなど懐かしい
懐かしいなぁ・・・自分の放送が、記録に残っていたとは、驚きました。当時の上野駅は、賑やかでしたね。
新潟駅到着時、新幹線駅舎や東側連絡通路がほぼ完成している様子から昭和54~55年の映像と思われます。その頃発売された「ときの旅」というガイドブックを持っていました。
ときのヘッドマーク大好き
151系こだまから転用された181とき号懐かしい上野駅が特急 急行の黄金時代ですね急行 佐渡 新潟行きも走ってましたよね?
先日リバイバルされた特急ときに乗ってきました。都会のビル群から山中の紅葉、温泉街にスキー場、バブルの名残を感じさせるマンション群に稲刈りが終わった後の田んぼなど、5時間かかりましたが色々な景色を楽しむことができました。また走らせてくれないかな〜
はじめまして、新幹線も快適ですが、こうした味のある列車を、何本か残してほしいですね。本当に懐かしい、いい列車でしたね。
この素っ気ない観光案内が良いんだよなぁ
そうそう
確かに❗
新幹線が味気ない。旅情もなんもない。
「とき」の所要時間L特急 → 上野~新潟 4時間新幹線 → 東京~新潟 2時間(最速:1時間37分)
在来線特急で4時間でも当時としては速そうですな。
なので上越新幹線大宮暫定開業の段階で、羽田~新潟の航空線が早々と休止に追い込まれたそうです1983年のこと。仙台線は上野開業の85年まで保ったのに。
3:14 当時は地上ホームだった新潟駅の在来線ホームも、現在は全て新幹線と同じ高架ホームに変わりました。
在来線の特急とき新潟行は子供の頃、新潟の👴👵祖父母の家(今の実家)に帰る時よく乗りました。この当時特急列車には必ず🍽食堂車があって、食堂車に親に連れて行ってもらい🍽ハンバーグステーキ定食をいつも食べていた記憶があります、今は無き食堂車の懐かしい思い出です。
「新潟までおよそ4時間という便利さ」に時代を感じずにはいられない新潟民です。この特急「とき」の登場で新潟と東京はギリギリ日帰り圏にはなりましたが、当時を知る方によると、やはり東京で1日予定をこなそうとすると1泊しなければならなかった。しかし上越新幹線の開業で余裕をもっての日帰り圏になったと。今は上越新幹線最速便なら1時間40分弱、各駅停車便でも2時間半。上越新幹線が新潟県の発展に寄与した功績ははかり知れません。在来線特急時代に礎を築き、今も新潟~東京間のエースランナーとして君臨する「とき」在来線特急時代を知る世代、新幹線になってからのイメージが強い世代、どちらにとっても新潟民にとって愛着、思い入れのある名前です!
ただ車両が残念だった.......。食堂車を無くした罪は大きいと思います。
40数年前の若かりし頃、佐渡の任地から実家へ帰省する際にお世話になった「とき」。冬場の曇天続きの日本海側から眩しい太陽が降り注ぐ上野駅まで運んでくれたこの列車が懐かしい。幾多のトンネルをくぐり抜け、それらの工事の困難等にも思いを馳せつつ、現代の速さを競う鉄道とは異なる風情が感じられた特急列車のひとつだった。
上越新幹線開通は、批判の声が大きかったけれど、高崎線の在来線特急や急行が多かったせいで、都市化が進んでいた大宮~熊谷間の普通列車の本数が少なく、沿線住民の不満は絶えなかった。新幹線開通で高崎線の特急が少なくなったのは残念だけれど、このおかげで普通電車が増えたのは良かったと思います。
確かに上尾事件とかありましたからね
本数が少ないだけでなく、優等退避が多くて所要時間がかなりかかっていました上野から高崎まで2時間超えるのが当たり前だった
1:45あたりの駅は赤羽駅。高架になる前の、しかも国鉄時代の動画は、貴重です。この4番線ホームの突端に踏切があり、とき、ひばり、やまびこ、はつかり、やまばと、あさま、はくたか、白山、あいづなどを見ましたね。急行は数知れずでした。。。お客さんの服装も、当時の自分や親の服装に似ていて、それもまた懐かしいですね、、、
@ゆゆゆゆーたそ そうでしたか!赤羽出身の身としてこんな嬉しいことはありません。いい時代でしたよね。
3:13 新潟駅の在来線ホームも今では新幹線と同じ高さに変わっています。特に5番線は新幹線との乗り換え改札がホームにあるので、新幹線からの乗り換えが簡単になりました。
181系.183系12両編成の特急とき号は風格はありました。急行佐渡号165系も特急とき号を補佐する形で活躍してました。
かつての大型愛称板をつけた165系はビュッフェもあって特急に負けない堂々たる出立ちでしたな。(*´・∀・)
3:13 この新潟駅の旧地上ホームがなくなった後は、この生まれたスペースに自由通路とバスターミナルができたそうです。これで新潟の街はもっともっと発展しそうです。
3:50 この「とき」こそが181系最後の砦となりました。181系にもイラスト入りマークが付けられたのは1979年頃から。
母の故郷が伊香保で子供の頃L特急「とき」「白根」はよく乗ったなぁ...渋川停車の「とき」はなぜか181系ばっかりで揺れるし古臭いし183系の「白根」のほうがいいななんて当時は思ってました。のちに151系の改造車だったことを知り貴重な列車に乗っていたんだなと...急行「ゆけむり/草津」や「よねやま」「佐渡」ほんとうになつかしいなぁ
1:00 183系1000番台は非貫通だから189系はそれをベースにして造られたのですね。だから当時の「あさま」と「とき」は兄弟分のようです。違いは189系ではロクサンと協調運転できる設備がありますが、183系1000番台にはないのです。また「とき」の場合は上越国境を越える際に下りが新清水トンネル、上りがループ線を経由するので補機はいりませんが、「あさま」は碓氷峠を経由しなきゃならないので必ず補機のロクサンが必要だったのです。
183系1000番台と183系0番台はもはや別形式と言っていいほど大きな違いがあります。
中学生の修学旅行 『とき』で長岡から上野へ思い出が残る5日間でした。
1:01 この当時のL特急電車で一番運転本数が多かったのは、新潟行きのとき、長野へ行くあさま、そして仙台へ向かうひばりがそうでした。
懐かしいですね。スキーシーズンに石打駅に行くのに何度乗った事か解ら無いくらいです。
ベテランそうな車掌さんとヤンチャしてました系の車内販売のネーチャンが国鉄の代名詞?ちなみに高い車高で編成美を乱したサロ181の2両 は「リゾートやまどり」の先頭車として未だに生き残っています。
今見るとヤンキーにしか見えないけど、この頃の標準的な化粧だと思う
新幹線じゃないの?騙された💢くあー💢
上越線の「とき」は日14本も設定された当時の国鉄でも有数の特急だった。信越本線の「あさま」や「白山」などより余程本数が多く、それだけ首都圏と新潟を結ぶ需要は多かった証である(しかも上越線はこれに加えて「はくたか」と「いなほ」も当時設定されていた)。それ故、北陸新幹線より先に上越新幹線が建設されたのである。この新幹線の建設が田中角栄の我田引鉄によるなどという主張は、国鉄時代の移動需要を見ていないのだろう。むしろ上越新幹線が開通したからこそ、それまでの米原経由に変わって長岡乗り継ぎによる首都圏~北陸の連絡ルートが確立されたというべき。それが長岡連絡の「かがやき」、更に北越急行開業による「はくたか」、そして北陸新幹線へ繋がった。
イラストヘッドマークなので、181系編成からモロとサシが外されて183系編成と統一化されてからの作品ですね。181系から食堂車が外されたのは残念でした、「とき」は直流特急最後の食堂車営業列車でもあり、日本食堂と聚楽の担当列車があったのも魅力でした。「はくたか」は昭和53年10月改正までは、向日町運転所(大ムコ)所属の481・485系が上野まで運用されていましたね。かつては山陽・九州・北陸特急と一体の広域運用を組み、西鹿児島・熊本・大分・名古屋・新潟・上野と同一編成が走っていたというのも今では考えられませんね。「はくたか」が上野で方向幕を回すと「つばめ」「みどり」「うずしお」が現れたりして面白かったものです。
新潟県民視点でコメントさせて頂きますと新潟~東京間は、2地点間の速達需要も旺盛な地域性故に、上越新幹線のメリットは絶大です❗️高架線で雪対策もしっかりしていて、冬期在来線のダイヤが乱れても上越新幹線はほぼ定時運行ということは多々あります。もし上越新幹線がなかったら新潟県はどうなっていたかと思うと暗澹たる思いです。今の上越新幹線につながる礎を築いた在来線特急時代の「とき」そしてその名前は新幹線に引き継がれ今も新潟~東京間のエースランナーに君臨。新幹線としては「のぞみ」や「はやぶさ」より地味な存在ですが、新潟民には思い入れのある名前です❗️
最初につくられた新幹線が東海道新幹線だったのは、いちばん需要がある路線だったから、上越新幹線が北陸新幹線よりも早く建設、開業したのは、それだけ需要が見込める路線だったという事がわかりますね。首都圏対北陸アクセスは羽田~富山、小松線が北陸新幹線開業後も存続している事からも、航空便にもそこそこの需要がある距離感、ならばそれなりの需要規模かつ、航空便需要を一気に取り込める距離感の上越新幹線優先になるのも理解できます。
@@uka_blues そんな広域運用!!(゜ロ゜ノ)ノ車両が新製から引退までに天文学的(笑)な走行距離になりますね!!( ; ロ)゚ ゚
私も田中角栄の「我電引鉄」だと思ってました。ただその結果、いくら新幹線で便利になったとはいえ、背後に関西圏も控えている北陸に対して、上越の相対的地位低下を招くことになってしまったのは、なんとも皮肉というか。
ときは約4時間という特急にしてはやや短い運行時間の割りには全編成に食堂車がついていた、それだけ乗車率が高い区間だったのだろう。
懐かしいな 父の実家に行くとき、必ず乗ったよ
せめて武州・大宮にある鉄道博物館に於いて、ぜひとも上映してほしいです。
懐かしい特急❣️上越線で走る特急とき、はくたか、いなほでした。いなほの食堂車があってコックがいるのが見えて食べてみたいな!と憧れていました。
群馬県の伊勢崎市にある華蔵寺公園にクハ183-1529が保存されていてベッドマークはときになっています。
もとクハ183-1029号、房総特急用へ改造(ATC化)のため1982年に改番した。
この頃の上野駅はとき・ひばり・はつかり・つばさ・やまびこ・やまばと・はくたか・あさま・白山などと全国に名の知れた特急がたくさん出入りしてましたね。東京の北の玄関としての面影が次第に薄れていってるのが寂しいです。
上野東京ライン開通により、中距離や近距離列車ですらもはや上野を発着駅としなくなりましたからね(「ひたち」「ときわ」の品川延伸など)。新宿すら下回り、途中駅や分岐駅という印象が強まったように今は思えます。
日本国有鉄道時代の名列車には、特別急行のあいづ(上野駅~会津若松駅)も運行されていましたものね。
@@伊東明洋-i3m 「あいづ」は「つばさ」と共に、新幹線開通後、JR発足後まで上野発着の在来線特急として結構生き残りましたよね。今や快速に格下げされて磐越西線内を往復するのみとなってしまいましたが。
グリーン車だけ車高が高いのはご愛敬。
皆様が特急に愛着、思い出があるのは、すべての特急に名前がついていること、それもご当地、ふるさと名前だから忘れられないです。
上越線沿線に住んでいたので非常に懐かしく拝見しました。
帰省シーズンの指定席を購入するために、主な駅では徹夜をしていた人がいたとか。ニュースで見た記憶があります。上野駅・東京駅も、その状況だったのでは?
3:41「とき」は181系最後の砦でもありました。
181系も老朽化が進んでいたけど、1982年までの輸送需要を賄うためにだましだまし延命されていた感がありますよね1975年に「あさま」運用から離脱して最後の牙城となっていた
@@asakazefuji 本来なら183系1000番代にすべて置換えるところ、国鉄末期の危機的財政難により叶わず。故に181系の状態のよい車両を選んで編成組み換えを行い183-1000と共通の編成組成として運用した。と、新潟の鉄道史に関する資料にありました。
181系ある意味付け焼き刃的な耐寒耐雪装備だったので、冬季の故障とかも多かったようですな。(´Д`|||)同じ区間を【佐渡】として走った165系はあまりそうした話は聞かないんですがね。(*´・∀・)
@@クモハ165165系は元々上越線を走行することを念頭に置いて最初から耐寒耐雪構造で設計されているんだよ。183系だって1000番台って言って、ただの183系とは比べられないほどの耐寒耐雪構造を採用してるから実質183系じゃない。後に普通列車用にも115系が導入されたが、こちらも上越線を走行するという事115系に更に手を加えた1000番台を導入した。国鉄の1000番台と名の付く車両は、上越線や極寒地を走行することを考慮して付番された車両が大半だから、現在でも上越線を走行する列車はその専用設計で開発された車両以外は導入されない。1960年代の新潟県の暴風で随分と痛い目を見たから、国鉄も専用設計車を出すことにしたんだ。
181系の食堂車が、背の高いグリーン車と差し替えられているので、上越新幹線開業直前の80年頃ですね。
サロ481に転用を見込んでの差替えでしたね!
やっぱり主力度が強くて華々しかったのはボンネットスタイルの181系ですな。
ただパワーがないから183系より遅かったけどね。
子供の頃の当時はL特急自慢があり、485系もいいけど、友達の父親の郷里で走る583系には憧れがあった
懐かしく見ていました。私の青春期はまだ東京駅迄の新幹線なく特急とき上野着。でした!懐かしく時々、見てます
私が録音した最後のときの車内放送も聞いてください
私も学生時代の6年間何回も帰省等で乗りました そして最後のときにもruclips.net/video/wbuRZz7WD30/видео.html
181 の食堂車つき編成に乗りたかったでも181にはなんとか乗れたので、そんな贅沢を言ってはいけませんね181にもう一度乗りたいなあ
@agemangirl1919 「みどりの窓口」番組自体は昭和40年から20年間テレビ朝日(当時はNETテレビ)でやってました。朝の鉄道運行状況を告知する15分番組でした。
NETテレビは、1977[昭和52]年4月1日を期して、テレビ朝日と変更してます。
@@みやのこだべ その筆頭株主が東映なのもまた秀逸。一方で鉄道ジャーナル社とも何らかの関係を持ったというからすごい⤴️⤴️
現在の「とき」は上越新幹線の列車名になりました。そして、2019年3月からはあの北陸新幹線で大活躍しているE7系も「とき」に使われるようになります。
1:17ここ好き
昔はたくさん、特急が走っていましたね。(o^^o)新幹線が出来たので皆居なくなりました。悲。
新幹線では旅の情緒も何もない。こんな日本に誰がした。
ほんとですよね僕は中学生なので生きたことないんですけど、この頃のが良さそうに見えます。。。。。。
旅の情緒、といってたらその在来線の列車もなくなってしまうのが現実ですよ・・・芸備線や姫新線など新幹線など無縁のローカル線見てみましょう。高速道路・バスに負けて、優等列車が全廃されました。鉄道が生き残るための新幹線です。なければ飛行機と自家用車・高速バスの間でかなり衰退していただろうことは間違いない。
新潟駅で、165系グリーン車と並びましたね。懐かしい~~~♪
何しろ急行『佐渡』も走っていたからね。
【とき】の自由席と【佐渡】のグリーン車なら、後者を選びます!(*´ω`*)
@@クモハ165 特急の自由席と急行のグリーン車結構難しい選択ですね。
おいらの記憶が確かなら8号車の14番は緊急時の対応で座席指定がいつも空いていて、上野駅で飛び乗りで三条駅まで出張で利用した。あれから35年、FCオーナーの南雲さんはどうしてるかな・・・・
季節特急のそよかぜ、新雪もみたい!
上越線は季節臨時列車の宝庫だからなぁ~(^-^)
ゴハチが牽く12系がスキー臨のイメージですな。
@agemangirl1919 中に登場する人物の服装から見て、昭和50年代中ごろと思いますよ。昭和57年に新幹線ができるまでの4年間ですね。昭和53年10月の白紙大改正(ゴオサントオ)で列車名のサインに絵模様が入るようになりました。それまでは文字のみでした。「エル特急」という名称もこの改正でかなり定義がハッキリしてきました。
それと同時に優等列車の号数も下りは奇数、上りは偶数になりました。ちなみに新幹線は開業した時から下りは奇数、上りは偶数という形です。例:(下り) とき1号、とき3号、とき5号・・・・・(上り) とき2号、とき4号、とき6号・・・・・
今では❗もう見られない国鉄色183系1000番台とき❗せめても動画❗Nゲージ‼だけでも見ていたい❗あ~あァ‼ボンネット型特急ときも欲しかった‼。😭😭😭
183系1000がやくもに転用されてたらどんな運用されてたか気になる最終的に381系か283系に押し出されML山陽に回されたりしたんかな?
確か183系1000番台登場後、181系のサロが違和感を持つようになったんですよね…車高が合わなくて。
トキ号の顔は ちょっとつり目なんだよね。あのつり目を上野駅で見るたびに思わずニヤリとしてしまった。
やっぱ181系ときってスピード遅かったんだよな。183系も同じMT54使ってたけど、181系よりも遥かにスピード面では速かった。思うに国鉄特急が遅かったのって、MT比が低いから所要時間が掛かってたんじゃないかなぁと思うんだ。
1:00 エル特急としての「とき号」は、絶滅いたしましたね。
189系が多い中、こだま151系の生き残り181系がこっそり紛れて(?)走ったりしましたね。
3:41 そう、181系最後の活躍の舞台がこの「とき」でしたからね。
今では東京から新潟までの列車の旅もグランクラスだ!
いなほが好きだ
私にとっての思い出の『とき』号は、🍴連結の181系特急です。上越新幹線も関越道もなく、在来線特急全盛期の頃でしたね。
私も何度も学生時代に帰省等で乗車しました、そして最後の『とき』にも、その時の感動の車内放送てす。ruclips.net/video/wbuRZz7WD30/видео.html
今では新潟駅に停車する特急は いなほ と しらゆき だけ、、、
kunkakunka 特急ときの現在の姿が上越新幹線です。上越新幹線が無かったら現在も特急ときが運行されていた事でしょう。当時で14往復ですから、現在も特急ときが存命なら20往復くらいになってたのではないかな。
redfox gowen それ言ったら、東京新潟間は在来線特急で十分だったかもしれんな。
高崎線と同じ線路を共用することになる無理が念頭にあるでしょうか。高崎線は沿線人口増加で通勤需要が増していたのに、長距離列車も捌かねばならないので線路容量が切迫しており、満足な輸送力強化が行えませんでした。1971年にはそれに加えて労使関係の悪化による順法闘争が追い打ちとなり、上尾事件・首都圏国電暴動という乗客の国鉄襲撃事件まで起きています。今の高崎線の輸送力増強は、上越新幹線の開業で長距離列車を取っ払えたことでなし得た側面も少なくないのです。
@@SYD_DAVIS 東京新潟間の所要時間短縮より、上野~前橋の在来線混雑緩和が重要そう。
@@通りすがり-y7g それだったら、初めっから東京―高崎―長野―富山―金沢―敦賀―米原間の順に敷設して、循環新幹線にすれば良かったのにって思わされちゃいますね。
車内販売員が今と違って何か化粧や髪型が飲み屋のママかホステス見たいですね。
3:25 走行中に標識灯が点灯しますね。
列車としての『とき』は特急や新幹線の変遷をたどるとこんな感じになります。181系 ⇒ 183系 ⇒ 200系、E1系、E2系、E4系 ⇒ E2系、E4系、E7系 ⇒ E7系
絵入りヘッドマークなので、国鉄末期。80年代のとき号ですね。もう食堂車は営業休止になっている頃かな?70年代は、まだ特急が高嶺の花な頃で、同路線に特急と急行が並走していたら、急行の方が増発傾向にあったけど、上越線は不思議と急行上越より圧倒的に特急ときの方が本数が多かった。
1970年代といっても後半ではもう特急志向がだいぶ高まっていたと思いますよ。急行の格上げによる所要時間が大して向上しない特急の設定も見られるようになっていました(1974年の急行「えびの」格上げによる特急「おおよど」の設定など)。それでも特急のほうが座席等の質が良いため好んで使われるようになってたかと。
ボンネットは80年代まで絵入りになったのが多いですが、はくたか、白山、ときは割と早めにつき始めていたみたいですね。183系や181系に元485系のグリーン車を使っていたりと苦労も垣間見えるシーンですね。
@@asakazefuji 確かに房総特急が設定されたあたりから、明らかに潮目が変わりましたね。ただ、東北方面は所謂「カニ族」の存在があった為か、急行志向は根強かったみたいですが。
今度は雷鳥やはつかり等の485系の列車を見てみたいです
俺は両親共に新潟市の生まれなので、乗った。いや乗らされた。 田舎の人は、家に人が来るのが、嬉しいらしい。しかし俺は迷惑だった!もっと行きたい場所があったのに!親戚への点数稼ぎに利用されていた。 一番の思い出は、あの煙草臭さ。4時間堪えられなかった。それで俺は嫌煙家になった。 親戚への点数稼ぎ、煙草臭さ、行きたい場所へ旅行できない。そんな思い出しかない。
春に亡くなった大好きな祖父が、特急ときの運転士をしておりました。映像を見て涙が溢れてきました。ありがとうございます。
お盆、歳末は特急復活とかしてくれないかな…
@agemangirl1919 「みどりの窓口」の中の1コーナーじゃない?
@company939 とにかく勉強になります。また教えてください~。
@company939 横から失礼します。大変お詳しいですね~!本当に感心します。
この当時最新型の183系電車だが、鉄オタからは食堂車が無いと嫌われていたそうな
エル特急って、ゴオサントオからの名称だっけか?いまや死語だがのう
この頃の動画は ほとんど同じ車両なんだけど 違うんだよな。愛称板 そして 愛称名 いいな
189系は、なんか怒っているみたいな顔している
列車における「とき」のスピード比べ当時のL特急とき→120㎞/h現在の新幹線とき→275㎞/h
L特急ときは183系のスピードですね。181系は120㎞/hも連続で出せないはずです。故に183系と181系ではスピード面で大きな差があり、181系ときは5時間ぐらい掛かってた。
@agemangirl1919 いえいえ(^^;当時はブルートレイン全盛時代で、小学生高学年だったワタシは撮り鉄として上の駅を中心に「都区内フリーきっぷ290円(小人)」を使って走り回っていました。上野駅が21番線までありました。はくつるが2往復ゆうづるが7往復ひばりが14往復うち2往復が青森まで常磐線経由昼行特急みちのくが青森まで1往復やまびこが12往(だったっけかな?)定かでない頭端ホームは超過密でしたね。
やまびこはたかだか3往復でしたよー多いのは青森までいくはつかり(6往復あった)
@tnakai1971jp 今調べたらゴオサントオ時で上野~盛岡が6時間26分ですね。青森まで新幹線行く、2010年からは隔世の感があります。今日はもう寝ますね。またこんど♪
すっかり衰退してしまった上越線…
車両はとっても懐かしくて感激。でも沿線案内端折り過ぎ。名物駅弁も全く出てこないし。
皆、利益を求めて生きているんです、情緒より利便性やら、色々な利益を、それで心も満たされる利益、生活やら、給料やら、仕事とかの利益、利益を求めない人は、ただのボランティアそれもボランティアをやっている人が心が満たされれば、やって喜ぶ人も居るが、基本は人は利益を求めて生きている。
国鉄時代は、色んな特急が走っていた。ときは、本数も多いのも当時の政治家で田中角栄代議士に関係しているじゃないかなと思う。新潟県出身の高齢者から田中先生のお陰です。と言う。話は、良く耳をする時があった。確かに上越新幹線や関越自動車道も東京から新潟まで繋がっている。
当時の国鉄東北線や高崎線の切迫状況を鑑みると、代議士の一存で需要もないのに多数の列車を設定する余地はなかったと思います。田中角栄議員が関与したと言うなら、新潟への企業等の誘致を盛んにし、首都圏から新潟への需要を創出したことの方ではないかと思うところですが。
実際の最高速度は何キロぐらいだったんでしょうね。
@company939 ホントお詳しい!やまびこって、盛岡まで何時間ぐらいかかってたんでしょうか?検索してもなかなか出てこなくて・・・
さすがの「朱鷺」も食堂車外されたあとか
この車両も・・・。
明らかに場違いな車両が2両入ってるんだが…
@tnakai1971jp 撮鉄って、あんまりその辺は詳しくないんです。m(_"_)m上野発着の時間を番線は覚えていたのですが・・・。すまそ
なんか速度速くない?
シャイたま大宮駅には停まりません
サロの車高…別形式?
特急が多いと普通が増やせませんからね。
特急ときリバイバルするってよ
とき号ね。今では新幹線だけどね。
私は選手交代の目撃者ですruclips.net/video/wbuRZz7WD30/видео.html
ええ、新潟まで4時間か...ならば上越新幹線が根本に要らず、在来線特急でそのまま運行して良いかも。
そうだよな、しかも東海道との直通も出来ないままじゃ本当に勿体無い、混雑云々言うなら私鉄各社と連携しても良かった事だったし…
4時間だと航空も対抗相手になる距離ですよ。実際、1983年まで羽田・新潟線が飛んでいました。今だと東京~広島・秋田がその所要時間ですが航空と新幹線のガチンコという印象が強い。
あと高崎線が特急で切迫していたということを忘れてはいけません。新幹線ができたことで、在来線の普通列車が増発できるようになしました。高崎線は1971年に上尾事件が起こるなど労使紛争と輸送力不足から利用者の不満が大きく、国鉄にとっても悩みのタネになっていました。近距離輸送と中長距離輸送を分離できた功績は大きいものがあります。
@@asakazefuji 様々な課題を抱えながらも、日本海側の地域の中ではそこそこの人口と経済規模を新潟県が維持出来ているのは、上越新幹線の力も大きいです。もしなかったら新潟県は今よりも相当衰退と人口減が進んでいる可能性も否定は出来ないですね!
@@asakazefuji 上越新幹線なしで在来線特急のまま、関越道ありと仮定すると、速達性を求めない層は高速バスに流れて在来線特急は高速バスのタコ殴りの餌食。速達需要は航空が担うにしても、中型機を飛ばすには需要的にも距離的にも中途半端、機材は小型機にならざるを得ず輸送力に難あり。加えて冬期の悪天候には飛行機は弱い。「上越新幹線不要」論の方は私たちの旅情の為に新潟県の皆さん衰退を我慢してください!という事でしょうか?
せっかく新幹線があるなら、在来線に、快速を充実して通勤通学輸送を充実してください。
懐かしい この言葉に尽きる。
父の故郷巻迄の路、親戚が東三条駅に迎えに来ては姉と10歳の私は新潟の夏、冬は必ず数週間も行っていた。父が渋谷駅で徹夜して並んで買った往復券、嬉しかった。 家族で行くときはビュッフェに寄りビールが揺れたり、供えのポテトチップが美味しくて、
上野駅の匂い、降り立った新潟の香り、自分の育成は新潟で形成した。 二人の子がときに乗って正月帰って来た時の白く雪を被ったときの先頭車に母は泣いたと言う。頑張って走って来たときに心が動いたと言う。 懐かしい、
特急ときは憧れました。
私は子供の頃、新潟県見附まで母親に連れられて帰省したのですが、
見附はときがほとんど停まらないのでよく急行佐渡を利用していました。
子供心に長くてくたびれましたが、今となっては良い思い出です。
食堂車が連結されてた181系、183系では食堂車が廃止されてましたね。
子供の頃、母親の故郷に里帰りするときに良く乗ったな〜 上野で駅弁と冷凍ミカンを買ってもらうのが嬉しかった。その頃、母親はティーパック付きの緑茶を飲んでたな。半透明のボトルに白湯だけ入って渡されてた。本当に良い思い出だな。
上野発のときで、冬の三国峠辺りかな、雪のせいで蛇行路をゆっくりと、
次第に座席シートヒーターも子供には熱すぎて そしてそのヒーターの匂いなど懐かしい
懐かしいなぁ・・・
自分の放送が、記録に残っていたとは、驚きました。
当時の上野駅は、賑やかでしたね。
新潟駅到着時、新幹線駅舎や東側連絡通路がほぼ完成している様子から昭和54~55年の映像と思われます。その頃発売された「ときの旅」というガイドブックを持っていました。
ときのヘッドマーク大好き
151系こだまから転用された181とき号懐かしい
上野駅が特急 急行の黄金時代ですね
急行 佐渡 新潟行きも
走ってましたよね?
先日リバイバルされた特急ときに乗ってきました。都会のビル群から山中の紅葉、温泉街にスキー場、バブルの名残を感じさせるマンション群に稲刈りが終わった後の田んぼなど、5時間かかりましたが色々な景色を楽しむことができました。また走らせてくれないかな〜
はじめまして、新幹線も快適ですが、こうした味のある列車を、何本か残してほしいですね。本当に懐かしい、いい列車でしたね。
この素っ気ない観光案内が良いんだよなぁ
そうそう
確かに❗
新幹線が味気ない。旅情もなんもない。
「とき」の所要時間
L特急 → 上野~新潟 4時間
新幹線 → 東京~新潟 2時間(最速:1時間37分)
在来線特急で4時間でも当時としては速そうですな。
なので上越新幹線大宮暫定開業の段階で、羽田~新潟の航空線が早々と休止に追い込まれたそうです
1983年のこと。仙台線は上野開業の85年まで保ったのに。
3:14 当時は地上ホームだった新潟駅の在来線ホームも、現在は全て新幹線と同じ高架ホームに変わりました。
在来線の特急とき新潟行は子供の頃、新潟の👴👵祖父母の家(今の実家)に帰る時よく乗りました。この当時特急列車には必ず🍽食堂車があって、食堂車に親に連れて行ってもらい🍽ハンバーグステーキ定食をいつも食べていた記憶があります、今は無き食堂車の懐かしい思い出です。
「新潟までおよそ4時間という便利さ」に時代を感じずにはいられない新潟民です。
この特急「とき」の登場で新潟と東京はギリギリ日帰り圏にはなりましたが、当時を知る方によると、やはり東京で1日予定をこなそうとすると1泊しなければならなかった。
しかし上越新幹線の開業で余裕をもっての日帰り圏になったと。
今は上越新幹線最速便なら1時間40分弱、各駅停車便でも2時間半。
上越新幹線が新潟県の発展に寄与した功績ははかり知れません。
在来線特急時代に礎を築き、今も新潟~東京間のエースランナーとして君臨する
「とき」
在来線特急時代を知る世代、新幹線になってからのイメージが強い世代、どちらにとっても新潟民にとって愛着、思い入れのある名前です!
ただ車両が残念だった.......。食堂車を無くした罪は大きいと思います。
40数年前の若かりし頃、佐渡の任地から実家へ帰省する際にお世話になった「とき」。冬場の曇天続きの日本海側から眩しい太陽が降り注ぐ上野駅まで運んでくれたこの列車が懐かしい。幾多のトンネルをくぐり抜け、それらの工事の困難等にも思いを馳せつつ、現代の速さを競う鉄道とは異なる風情が感じられた特急列車のひとつだった。
上越新幹線開通は、批判の声が大きかったけれど、高崎線の在来線特急や急行が多かったせいで、都市化が進んでいた大宮~熊谷間の普通列車の本数が少なく、沿線住民の不満は絶えなかった。
新幹線開通で高崎線の特急が少なくなったのは残念だけれど、このおかげで普通電車が増えたのは良かったと思います。
確かに上尾事件とかありましたからね
本数が少ないだけでなく、優等退避が多くて所要時間がかなりかかっていました
上野から高崎まで2時間超えるのが当たり前だった
1:45あたりの駅は赤羽駅。
高架になる前の、しかも国鉄時代の動画は、貴重です。
この4番線ホームの突端に踏切があり、
とき、ひばり、やまびこ、はつかり、やまばと、あさま、はくたか、白山、あいづなどを見ましたね。
急行は数知れずでした。。。
お客さんの服装も、当時の自分や親の服装に似ていて、それもまた懐かしいですね、、、
@ゆゆゆゆーたそ
そうでしたか!
赤羽出身の身としてこんな嬉しいことはありません。
いい時代でしたよね。
3:13 新潟駅の在来線ホームも今では新幹線と同じ高さに変わっています。特に5番線は新幹線との乗り換え改札がホームにあるので、新幹線からの乗り換えが簡単になりました。
181系.183系12両編成の特急とき号は風格はありました。
急行佐渡号165系も特急とき号を補佐する形で活躍してました。
かつての大型愛称板をつけた165系はビュッフェもあって特急に負けない堂々たる出立ちでしたな。(*´・∀・)
3:13 この新潟駅の旧地上ホームがなくなった後は、この生まれたスペースに自由通路とバスターミナルができたそうです。これで新潟の街はもっともっと発展しそうです。
3:50 この「とき」こそが181系最後の砦となりました。181系にもイラスト入りマークが付けられたのは1979年頃から。
母の故郷が伊香保で子供の頃L特急「とき」「白根」はよく乗ったなぁ...渋川停車の「とき」はなぜか181系ばっかりで揺れるし古臭いし183系の「白根」のほうがいいななんて当時は思ってました。のちに151系の改造車だったことを知り貴重な列車に乗っていたんだなと...急行「ゆけむり/草津」や「よねやま」「佐渡」ほんとうになつかしいなぁ
1:00 183系1000番台は非貫通だから189系はそれをベースにして造られたのですね。だから当時の「あさま」と「とき」は兄弟分のようです。違いは189系ではロクサンと協調運転できる設備がありますが、183系1000番台にはないのです。また「とき」の場合は上越国境を越える際に下りが新清水トンネル、上りがループ線を経由するので補機はいりませんが、「あさま」は碓氷峠を経由しなきゃならないので必ず補機のロクサンが必要だったのです。
183系1000番台と183系0番台はもはや別形式と言っていいほど大きな違いがあります。
中学生の修学旅行 『とき』で長岡から上野へ思い出が残る5日間でした。
1:01 この当時のL特急電車で一番運転本数が多かったのは、新潟行きのとき、長野へ行くあさま、そして仙台へ向かうひばりがそうでした。
懐かしいですね。スキーシーズンに石打駅に行くのに何度乗った事か解ら無いくらいです。
ベテランそうな車掌さんとヤンチャしてました系の車内販売のネーチャンが国鉄の代名詞?ちなみに高い車高で編成美を乱したサロ181の2両 は「リゾートやまどり」の先頭車として未だに生き残っています。
今見るとヤンキーにしか見えないけど、この頃の標準的な化粧だと思う
新幹線じゃないの?騙された💢くあー💢
上越線の「とき」は日14本も設定された当時の国鉄でも有数の特急だった。信越本線の「あさま」や「白山」などより余程本数が多く、それだけ首都圏と新潟を結ぶ需要は多かった証である(しかも上越線はこれに加えて「はくたか」と「いなほ」も当時設定されていた)。
それ故、北陸新幹線より先に上越新幹線が建設されたのである。この新幹線の建設が田中角栄の我田引鉄によるなどという主張は、国鉄時代の移動需要を見ていないのだろう。
むしろ上越新幹線が開通したからこそ、それまでの米原経由に変わって長岡乗り継ぎによる首都圏~北陸の連絡ルートが確立されたというべき。それが長岡連絡の「かがやき」、更に北越急行開業による「はくたか」、そして北陸新幹線へ繋がった。
イラストヘッドマークなので、181系編成からモロとサシが外されて183系編成と統一化されてからの作品ですね。
181系から食堂車が外されたのは残念でした、「とき」は直流特急最後の食堂車営業列車でもあり、日本食堂と聚楽の担当列車があったのも魅力でした。
「はくたか」は昭和53年10月改正までは、向日町運転所(大ムコ)所属の481・485系が上野まで運用されていましたね。
かつては山陽・九州・北陸特急と一体の広域運用を組み、西鹿児島・熊本・大分・名古屋・新潟・上野と同一編成が走っていたというのも今では考えられませんね。
「はくたか」が上野で方向幕を回すと「つばめ」「みどり」「うずしお」が現れたりして面白かったものです。
新潟県民視点でコメントさせて頂きますと新潟~東京間は、2地点間の速達需要も旺盛な地域性故に、上越新幹線のメリットは絶大です❗️
高架線で雪対策もしっかりしていて、冬期在来線のダイヤが乱れても上越新幹線はほぼ定時運行ということは多々あります。
もし上越新幹線がなかったら新潟県はどうなっていたかと思うと暗澹たる思いです。
今の上越新幹線につながる礎を築いた在来線特急時代の「とき」
そしてその名前は新幹線に引き継がれ今も新潟~東京間のエースランナーに君臨。
新幹線としては「のぞみ」や「はやぶさ」より地味な存在ですが、新潟民には思い入れのある名前です❗️
最初につくられた新幹線が東海道新幹線だったのは、いちばん需要がある路線だったから、上越新幹線が北陸新幹線よりも早く建設、開業したのは、それだけ需要が見込める路線だったという事がわかりますね。
首都圏対北陸アクセスは羽田~富山、小松線が北陸新幹線開業後も存続している事からも、航空便にもそこそこの需要がある距離感、ならばそれなりの需要規模かつ、航空便需要を一気に取り込める距離感の上越新幹線優先になるのも理解できます。
@@uka_blues
そんな広域運用!!(゜ロ゜ノ)ノ
車両が新製から引退までに天文学的(笑)な走行距離になりますね!!( ; ロ)゚ ゚
私も田中角栄の「我電引鉄」だと思ってました。ただその結果、いくら新幹線で便利になったとはいえ、背後に関西圏も控えている北陸に対して、上越の相対的地位低下を招くことになってしまったのは、なんとも皮肉というか。
ときは約4時間という特急にしてはやや短い運行時間の割りには全編成に食堂車がついていた、それだけ乗車率が高い区間だったのだろう。
懐かしいな 父の実家に行くとき、必ず乗ったよ
せめて武州・大宮にある鉄道博物館に於いて、ぜひとも上映してほしいです。
懐かしい特急❣️上越線で走る特急とき、はくたか、いなほでした。いなほの食堂車があってコックがいるのが見えて食べてみたいな!と憧れていました。
群馬県の伊勢崎市にある華蔵寺公園にクハ183-1529が保存されていてベッドマークはときになっています。
もとクハ183-1029号、房総特急用へ改造(ATC化)のため1982年に改番した。
この頃の上野駅はとき・ひばり・はつかり・つばさ・やまびこ・やまばと・はくたか・あさま・白山などと全国に名の知れた特急がたくさん出入りしてましたね。東京の北の玄関としての面影が次第に薄れていってるのが寂しいです。
上野東京ライン開通により、中距離や近距離列車ですらもはや上野を発着駅としなくなりましたからね(「ひたち」「ときわ」の品川延伸など)。新宿すら下回り、途中駅や分岐駅という印象が強まったように今は思えます。
日本国有鉄道時代の名列車には、特別急行のあいづ(上野駅~会津若松駅)も運行されていましたものね。
@@伊東明洋-i3m
「あいづ」は「つばさ」と共に、新幹線開通後、JR発足後まで上野発着の在来線特急として結構生き残りましたよね。
今や快速に格下げされて磐越西線内を往復するのみとなってしまいましたが。
グリーン車だけ車高が高いのはご愛敬。
皆様が特急に愛着、思い出があるのは、すべての特急に名前がついていること、それもご当地、ふるさと名前だから忘れられないです。
上越線沿線に住んでいたので非常に懐かしく拝見しました。
帰省シーズンの指定席を購入するために、主な駅では徹夜をしていた人がいたとか。
ニュースで見た記憶があります。
上野駅・東京駅も、その状況だったのでは?
3:41「とき」は181系最後の砦でもありました。
181系も老朽化が進んでいたけど、1982年までの輸送需要を賄うためにだましだまし延命されていた感がありますよね
1975年に「あさま」運用から離脱して最後の牙城となっていた
@@asakazefuji
本来なら183系1000番代にすべて置換えるところ、国鉄末期の危機的財政難により叶わず。
故に181系の状態のよい車両を選んで編成組み換えを行い183-1000と共通の編成組成として運用した。
と、新潟の鉄道史に関する資料にありました。
181系ある意味付け焼き刃的な耐寒耐雪装備だったので、冬季の故障とかも多かったようですな。(´Д`|||)同じ区間を【佐渡】として走った165系はあまりそうした話は聞かないんですがね。(*´・∀・)
@@クモハ165165系は元々上越線を走行することを念頭に置いて最初から耐寒耐雪構造で設計されているんだよ。183系だって1000番台って言って、ただの183系とは比べられないほどの耐寒耐雪構造を採用してるから実質183系じゃない。後に普通列車用にも115系が導入されたが、こちらも上越線を走行するという事115系に更に手を加えた1000番台を導入した。国鉄の1000番台と名の付く車両は、上越線や極寒地を走行することを考慮して付番された車両が大半だから、現在でも上越線を走行する列車はその専用設計で開発された車両以外は導入されない。1960年代の新潟県の暴風で随分と痛い目を見たから、国鉄も専用設計車を出すことにしたんだ。
181系の食堂車が、背の高いグリーン車と差し替えられているので、上越新幹線開業直前の80年頃ですね。
サロ481に転用を見込んでの差替えでしたね!
やっぱり主力度が強くて華々しかったのはボンネットスタイルの181系ですな。
ただパワーがないから183系より遅かったけどね。
子供の頃の当時はL特急自慢があり、485系もいいけど、友達の父親の郷里で走る583系には憧れがあった
懐かしく見ていました。私の青春期はまだ東京駅迄の新幹線なく特急とき上野着。でした!懐かしく時々、見てます
私が録音した最後のときの車内放送も聞いてください
私も学生時代の6年間何回も帰省等で乗りました そして最後のときにも
ruclips.net/video/wbuRZz7WD30/видео.html
181 の食堂車つき編成に乗りたかった
でも181にはなんとか乗れたので、そんな贅沢を言ってはいけませんね
181にもう一度乗りたいなあ
@agemangirl1919
「みどりの窓口」番組自体は昭和40年から20年間テレビ朝日(当時はNETテレビ)でやってました。
朝の鉄道運行状況を告知する15分番組でした。
NETテレビは、1977[昭和52]年4月1日を期して、テレビ朝日と変更してます。
@@みやのこだべ その筆頭株主が東映なのもまた秀逸。
一方で鉄道ジャーナル社とも何らかの関係を持ったというからすごい⤴️⤴️
現在の「とき」は上越新幹線の列車名になりました。そして、2019年3月からはあの北陸新幹線で大活躍しているE7系も「とき」に使われるようになります。
1:17ここ好き
昔はたくさん、特急が走っていましたね。(o^^o)
新幹線が出来たので皆居なくなりました。悲。
新幹線では旅の情緒も何もない。こんな日本に誰がした。
ほんとですよね
僕は中学生なので生きたことないんですけど、この頃のが良さそうに見えます。。。。。。
旅の情緒、といってたら
その在来線の列車もなくなってしまうのが現実ですよ・・・
芸備線や姫新線など新幹線など無縁のローカル線見てみましょう。高速道路・バスに負けて、優等列車が全廃されました。
鉄道が生き残るための新幹線です。なければ飛行機と自家用車・高速バスの間でかなり衰退していただろうことは間違いない。
新潟駅で、165系グリーン車と並びましたね。
懐かしい~~~♪
何しろ急行『佐渡』も走っていたからね。
【とき】の自由席と【佐渡】のグリーン車なら、後者を選びます!(*´ω`*)
@@クモハ165 特急の自由席と急行のグリーン車
結構難しい選択ですね。
おいらの記憶が確かなら8号車の14番は緊急時の対応で座席指定がいつも空いていて、
上野駅で飛び乗りで三条駅まで出張で利用した。
あれから35年、FCオーナーの南雲さんはどうしてるかな・・・・
季節特急のそよかぜ、新雪もみたい!
上越線は季節臨時列車の宝庫だからなぁ~(^-^)
ゴハチが牽く12系がスキー臨のイメージですな。
@agemangirl1919
中に登場する人物の服装から見て、昭和50年代中ごろと思いますよ。
昭和57年に新幹線ができるまでの4年間ですね。
昭和53年10月の白紙大改正(ゴオサントオ)で列車名のサインに絵模様が入るようになりました。それまでは文字のみでした。
「エル特急」という名称もこの改正でかなり定義がハッキリしてきました。
それと同時に優等列車の号数も下りは奇数、上りは偶数になりました。ちなみに新幹線は開業した時から下りは奇数、上りは偶数という形です。
例:
(下り)
とき1号、とき3号、とき5号・・・・・
(上り)
とき2号、とき4号、とき6号・・・・・
今では❗もう見られない国鉄色183系1000番台とき❗せめても動画❗Nゲージ‼だけでも見ていたい❗あ~あァ‼ボンネット型特急ときも欲しかった‼。😭😭😭
183系1000がやくもに転用されてたらどんな運用されてたか気になる
最終的に381系か283系に押し出されML山陽に回されたりしたんかな?
確か183系1000番台登場後、181系のサロが違和感を持つようになったんですよね…車高が合わなくて。
トキ号の顔は ちょっとつり目なんだよね。あのつり目を上野駅で見るたびに思わずニヤリとしてしまった。
やっぱ181系ときってスピード遅かったんだよな。183系も同じMT54使ってたけど、181系よりも遥かにスピード面では速かった。思うに国鉄特急が遅かったのって、MT比が低いから所要時間が掛かってたんじゃないかなぁと思うんだ。
1:00 エル特急としての「とき号」は、絶滅いたしましたね。
189系が多い中、こだま151系の生き残り181系がこっそり紛れて(?)走ったりしましたね。
3:41 そう、181系最後の活躍の舞台がこの「とき」でしたからね。
今では東京から新潟までの列車の旅もグランクラスだ!
いなほが好きだ
私にとっての思い出の『とき』号は、🍴連結の181系特急です。上越新幹線も関越道もなく、在来線特急全盛期の頃でしたね。
私も何度も学生時代に帰省等で乗車しました、そして最後の『とき』にも、
その時の感動の車内放送てす。
ruclips.net/video/wbuRZz7WD30/видео.html
今では新潟駅に停車する特急は いなほ と しらゆき だけ、、、
kunkakunka 特急ときの現在の姿が上越新幹線です。
上越新幹線が無かったら現在も特急ときが運行されていた事でしょう。当時で14往復ですから、現在も特急ときが存命なら20往復くらいになってたのではないかな。
redfox gowen それ言ったら、東京新潟間は在来線特急で十分だったかもしれんな。
高崎線と同じ線路を共用することになる無理が念頭にあるでしょうか。高崎線は沿線人口増加で通勤需要が増していたのに、長距離列車も捌かねばならないので線路容量が切迫しており、満足な輸送力強化が行えませんでした。
1971年にはそれに加えて労使関係の悪化による順法闘争が追い打ちとなり、上尾事件・首都圏国電暴動という乗客の国鉄襲撃事件まで起きています。
今の高崎線の輸送力増強は、上越新幹線の開業で長距離列車を取っ払えたことでなし得た側面も少なくないのです。
@@SYD_DAVIS 東京新潟間の所要時間短縮より、上野~前橋の在来線混雑緩和が重要そう。
@@通りすがり-y7g それだったら、初めっから東京―高崎―長野―富山―金沢―敦賀―米原間の順に敷設して、循環新幹線にすれば良かったのにって思わされちゃいますね。
車内販売員が今と違って何か化粧や髪型が飲み屋のママかホステス見たいですね。
3:25 走行中に標識灯が点灯しますね。
列車としての『とき』は特急や新幹線の変遷をたどるとこんな感じになります。
181系 ⇒ 183系 ⇒ 200系、E1系、E2系、E4系 ⇒ E2系、E4系、E7系 ⇒ E7系
絵入りヘッドマークなので、国鉄末期。80年代のとき号ですね。
もう食堂車は営業休止になっている頃かな?
70年代は、まだ特急が高嶺の花な頃で、同路線に特急と急行が並走していたら、急行の方が増発傾向にあったけど、上越線は不思議と急行上越より圧倒的に特急ときの方が本数が多かった。
1970年代といっても後半ではもう特急志向がだいぶ高まっていたと思いますよ。急行の格上げによる所要時間が大して向上しない特急の設定も見られるようになっていました(1974年の急行「えびの」格上げによる特急「おおよど」の設定など)。
それでも特急のほうが座席等の質が良いため好んで使われるようになってたかと。
ボンネットは80年代まで絵入りになったのが多いですが、はくたか、白山、ときは割と早めにつき始めていたみたいですね。
183系や181系に元485系のグリーン車を使っていたりと苦労も垣間見えるシーンですね。
@@asakazefuji 確かに房総特急が設定されたあたりから、明らかに潮目が変わりましたね。
ただ、東北方面は所謂「カニ族」の存在があった為か、急行志向は根強かったみたいですが。
今度は雷鳥やはつかり等の485系の列車を見てみたいです
俺は両親共に新潟市の生まれなので、乗った。いや乗らされた。
田舎の人は、家に人が来るのが、嬉しいらしい。しかし俺は迷惑だった!もっと行きたい場所があったのに!親戚への点数稼ぎに利用されていた。
一番の思い出は、あの煙草臭さ。4時間堪えられなかった。それで俺は嫌煙家になった。
親戚への点数稼ぎ、煙草臭さ、行きたい場所へ旅行できない。そんな思い出しかない。
春に亡くなった大好きな祖父が、特急ときの運転士をしておりました。
映像を見て涙が溢れてきました。
ありがとうございます。
お盆、歳末は特急復活とかしてくれないかな…
@agemangirl1919
「みどりの窓口」の中の1コーナーじゃない?
@company939
とにかく勉強になります。また教えてください~。
@company939
横から失礼します。大変お詳しいですね~!本当に感心します。
この当時最新型の183系電車だが、鉄オタからは食堂車が無いと嫌われていたそうな
エル特急って、ゴオサントオからの名称だっけか?いまや死語だがのう
この頃の動画は ほとんど同じ車両なんだけど 違うんだよな。
愛称板 そして 愛称名 いいな
189系は、なんか怒っているみたいな顔している
列車における「とき」のスピード比べ
当時のL特急とき→120㎞/h
現在の新幹線とき→275㎞/h
L特急ときは183系のスピードですね。181系は120㎞/hも連続で出せないはずです。故に183系と181系ではスピード面で大きな差があり、181系ときは5時間ぐらい掛かってた。
@agemangirl1919
いえいえ(^^;
当時はブルートレイン全盛時代で、小学生高学年だったワタシは撮り鉄として上の駅を中心に「都区内フリーきっぷ290円(小人)」を使って走り回っていました。
上野駅が21番線までありました。
はくつるが2往復
ゆうづるが7往復
ひばりが14往復うち2往復が青森まで
常磐線経由昼行特急みちのくが青森まで1往復
やまびこが12往(だったっけかな?)定かでない
頭端ホームは超過密でしたね。
やまびこはたかだか3往復でしたよー多いのは青森までいくはつかり
(6往復あった)
@tnakai1971jp
今調べたらゴオサントオ時で上野~盛岡が6時間26分ですね。
青森まで新幹線行く、2010年からは隔世の感があります。
今日はもう寝ますね。
またこんど♪
すっかり衰退してしまった上越線…
車両はとっても懐かしくて感激。
でも沿線案内端折り過ぎ。
名物駅弁も全く出てこないし。
皆、利益を求めて生きているんです、情緒より利便性やら、色々な利益を、それで心も満たされる利益、生活やら、給料やら、仕事とかの利益、利益を求めない人は、ただのボランティアそれもボランティアをやっている人が心が満たされれば、やって喜ぶ人も居るが、基本は人は利益を求めて生きている。
国鉄時代は、色んな特急が走っていた。ときは、本数も多いのも当時の政治家で田中角栄代議士に関係しているじゃないかなと思う。新潟県出身の高齢者から田中先生のお陰です。と言う。話は、良く耳をする時があった。確かに上越新幹線や関越自動車道も東京から新潟まで繋がっている。
当時の国鉄東北線や高崎線の切迫状況を鑑みると、代議士の一存で需要もないのに多数の列車を設定する余地はなかったと思います。
田中角栄議員が関与したと言うなら、新潟への企業等の誘致を盛んにし、首都圏から新潟への需要を創出したことの方ではないかと思うところですが。
実際の最高速度は何キロぐらいだったんでしょうね。
@company939
ホントお詳しい!やまびこって、盛岡まで何時間ぐらいかかってたんでしょうか?検索してもなかなか出てこなくて・・・
さすがの「朱鷺」も食堂車外されたあとか
この車両も・・・。
明らかに場違いな車両が2両入ってるんだが…
@tnakai1971jp
撮鉄って、あんまりその辺は詳しくないんです。m(_"_)m
上野発着の時間を番線は覚えていたのですが・・・。
すまそ
なんか速度速くない?
シャイたま大宮駅には停まりません
サロの車高…別形式?
特急が多いと普通が増やせませんからね。
特急ときリバイバルするってよ
とき号ね。今では新幹線だけどね。
私は選手交代の目撃者ですruclips.net/video/wbuRZz7WD30/видео.html
ええ、新潟まで4時間か...
ならば上越新幹線が根本に要らず、在来線特急でそのまま運行して良いかも。
そうだよな、しかも東海道との直通も出来ないままじゃ本当に勿体無い、混雑云々言うなら私鉄各社と連携しても良かった事だったし…
4時間だと航空も対抗相手になる距離ですよ。
実際、1983年まで羽田・新潟線が飛んでいました。
今だと東京~広島・秋田がその所要時間ですが航空と新幹線のガチンコという印象が強い。
あと高崎線が特急で切迫していたということを忘れてはいけません。新幹線ができたことで、在来線の普通列車が増発できるようになしました。
高崎線は1971年に上尾事件が起こるなど労使紛争と輸送力不足から利用者の不満が大きく、国鉄にとっても悩みのタネになっていました。近距離輸送と中長距離輸送を分離できた功績は大きいものがあります。
@@asakazefuji
様々な課題を抱えながらも、日本海側の地域の中ではそこそこの人口と経済規模を新潟県が維持出来ているのは、上越新幹線の力も大きいです。
もしなかったら新潟県は今よりも相当衰退と人口減が進んでいる可能性も否定は出来ないですね!
@@asakazefuji
上越新幹線なしで在来線特急のまま、関越道ありと仮定すると、速達性を求めない層は高速バスに流れて在来線特急は高速バスのタコ殴りの餌食。
速達需要は航空が担うにしても、中型機を飛ばすには需要的にも距離的にも中途半端、機材は小型機にならざるを得ず輸送力に難あり。
加えて冬期の悪天候には飛行機は弱い。
「上越新幹線不要」論の方は私たちの旅情の為に新潟県の皆さん衰退を我慢してください!
という事でしょうか?
せっかく新幹線があるなら、在来線に、快速を充実して通勤通学輸送を充実してください。
私が録音した最後のときの車内放送も聞いてください