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渡辺通りが、すごい偉人方の名前を付けたことは知っていましたが、多方面に渡りこれほどまで貢献されていたことを知れたことはありがたいです。街の発展に尽力されたこと忘れません…。ありがとうございました。
コロナ禍で残念ながら閉店してしまいましたが、清川にあった料亭の三光園でお祝い事をした事があり、その事前打ち合わせを店とするため正面玄関から入ると、大きな玄関にずらりと艶やかな和服を着込んだ、上品ながら明らかにそういう関係の綺麗どころのお姉さんが十名ほど並んでお出迎えされてギョッとした経験があります(たまたま打ち合わせの時間が宴会のお客様と被って勘違いされたようで焦りました😅)その時、「あ〜博多の財界人はこういう歴史ある所で遊ぶんだ〜…」とえらく納得してしまいましたたった十年ほど前の事なので、やはり清川にはまだそういう歴史的な背景が続いているんでしょうね
亡くなった祖父祖母が博多出身で、そのまま本籍が下呉服町なので歴史が学べて有難いです!今後も楽しみにしてます!
最近このチャンネルを知り、さっそく登録しました。私は博多に土着しているので、この辺りの歴史にも精通していますが、内容・語りとも、ベースがしっかりしていてすごく勉強になります。ぼちぼち視聴させていただきますね。私が住んでいる奈良屋町にも、かつて置屋さんがあり、三味線をかかえた芸妓さんをのせた人力車‥自転車だったかな‥が行来してました。幼い頃の記憶です。
ご登録ありがとうございます。風情がありましたね、芸妓さんの影響ではないのですが、ゴンちゃんも日舞をやっています😊
よく調べてありますね私も柳町について以前調べて歩きました旧柳町、新柳町、千代町の水茶屋等でした50数年前頃には清川のキャバレーうるわしによく行ってましたあの井戸跡も遊女の哀しい伝説がありますね!
ありがとうございます。勉強になり、毎回楽しみにしています。
昔の建物減ったね~。あの辺歩くと2階の窓から「ちょいとお兄さん。。」って声をかけて来る女性が想像できるような建物がそこここに有った。清川は韓国料理が多かった。私は御供所ってところで産まれた。
私が住んで居た当時、既に大浜周辺は旧柳町の面影は無かったと思います。それと見える家屋は石城町(対馬小路)辺りに数軒ありましたか。石堂川下流付近は戦後の在日人によるバラックが形成され、石城や沖浜は港湾労働者で溢れていました。下竪小路も味噌屋、醤油屋、乾物屋、が在り、大博町では大浜流灌頂が毎夏に行われていますが、これも遊郭の存在は無縁ではないのかも知れません。川を挟んで大津町商店街があり、幼少の頃は雑多で喧騒に溢れていましたが、活気がある街でしたね。春はどんたく三味線隊、夏は博多祇園山笠(恵比須流れ・向かい側は千代町流れ)。そのまんま「山笠があるけん博多たい」でした。
懐かしいですね、「月世界」に一度行きました。小倉にも「月世界」がありました。記憶には春吉橋、春吉市場?、市電が六本松?行きと天神行きが分かれる渡辺通り一丁目辺りを思い出しています。キャバレーは川丈劇場前の「レッドシューズ」は一流の感じでした、生のオーケストラ演奏でしたね、神楽坂浮子さんの「明治一代女」を生で聞きました。
「薊」も2004年に閉店。レッドシューズは名前だけ・・キャバになってる。
@@Dahlaljapan 🎶博多っ子純情🎶を聞くと、この歳になると、おセンチな気分になりますね。
私が福岡に引越しして来た頃に、清川名店ビルと言う廃墟?がありました。最初に勤めた会社が清川でしたから、思い出は沢山あります笑
「 ♫ 博多っ子純情♪ 」を聞くと当時が思い出されますよ。「風のささやき」の博多人形に博多の面影を偲んでいます。
おもしろいわー!語りがわかりやすいし興味引きますね
久留米出身の者です。勉強になりました。ゴンちゃんさんの声、聞きやすくて癒しになります(笑)ありがとうございました(^_^)
今の祇園町辺りに女郎街の馬場新町も在りましたけど。
明治末期頃か遊郭で働く女性達の扱いもそれは酷いものだったと聞いております それにしても雰囲気的に何となく分かるものですね少し前の公団辺りの大博町、清川、那珂川沿いの住吉4丁目辺りといい
ペニシリンが無い時代の遊女は短命だと聞いたことあります。😭😭
大門はふつう「だいもん」と言いますが遊郭の場合は「おおもん」と呼びます。吉原などそうです。
江戸の吉原遊郭は「おおもん」、博多の柳橋は「だいもん」
西嶋先生描いていたとは、何度か飲んだがその話聞きたかったな
26年生まれで住吉神社近くで親が商売、電車が通って前には八百屋。映画の看板書きやが有ったり隣には連れ込み宿かな?黒人などの外人さんが出入り!その並びに割烹旅館や銭湯有り裏道には寺や駄菓子屋が有ったり今思い出すと楽しいですね、神社は昔はもっと広かったし、木を切り取る乞食かな?脅されて走って逃げたのも今では楽しい思い出!
清川の子で詩吟を習う女性がいたがその名残かな〜
ちょんの間復活してほしい
最初の出だしで、昭和33年は1964年×→1958年○ですよ。
本当ですね💦どうして間違ったんだろう、ご指摘ありがとうございます。
あと何十年したら雑餉隈もこんな感じになるんだろうかな。
振り向き柳はないが柳町かぁ
春吉には、身投げ井戸もまた、会いたい人と結ばれないと井戸にここが貞子のネタ
柳町は、結構な年齢じゃないとわからないかもなぁ
偉そうなこと言った日本の祖先も平気でimmoralなことをたくさんやっていたということだね
渡辺通りが、すごい偉人方の名前を付けたことは知っていましたが、多方面に渡りこれほどまで貢献されていたことを知れたことはありがたいです。街の発展に尽力されたこと忘れません…。ありがとうございました。
コロナ禍で残念ながら閉店してしまいましたが、清川にあった料亭の三光園でお祝い事をした事があり、その事前打ち合わせを店とするため正面玄関から入ると、大きな玄関にずらりと艶やかな和服を着込んだ、上品ながら明らかにそういう関係の綺麗どころのお姉さんが十名ほど並んでお出迎えされてギョッとした経験があります(たまたま打ち合わせの時間が宴会のお客様と被って勘違いされたようで焦りました😅)
その時、「あ〜博多の財界人はこういう歴史ある所で遊ぶんだ〜…」とえらく納得してしまいました
たった十年ほど前の事なので、やはり清川にはまだそういう歴史的な背景が続いているんでしょうね
亡くなった祖父祖母が博多出身で、そのまま本籍が下呉服町なので歴史が学べて有難いです!今後も楽しみにしてます!
最近このチャンネルを知り、さっそく登録しました。
私は博多に土着しているので、この辺りの歴史にも精通していますが、内容・語りとも、ベースがしっかりしていてすごく勉強になります。
ぼちぼち視聴させていただきますね。
私が住んでいる奈良屋町にも、かつて置屋さんがあり、三味線をかかえた芸妓さんをのせた人力車‥自転車だったかな‥が行来してました。幼い頃の記憶です。
ご登録ありがとうございます。風情がありましたね、芸妓さんの影響ではないのですが、ゴンちゃんも日舞をやっています😊
よく調べてありますね
私も柳町について以前調べて歩きました
旧柳町、新柳町、千代町の水茶屋等でした
50数年前頃には清川のキャバレーうるわしによく行ってました
あの井戸跡も遊女の哀しい伝説がありますね!
ありがとうございます。
勉強になり、毎回楽しみにしています。
昔の建物減ったね~。
あの辺歩くと2階の窓から「ちょいとお兄さん。。」って声をかけて来る女性が想像できるような建物がそこここに有った。
清川は韓国料理が多かった。
私は御供所ってところで産まれた。
私が住んで居た当時、既に大浜周辺は旧柳町の面影は無かったと思います。それと見える家屋は石城町(対馬小路)辺りに数軒ありましたか。
石堂川下流付近は戦後の在日人によるバラックが形成され、石城や沖浜は港湾労働者で溢れていました。
下竪小路も味噌屋、醤油屋、乾物屋、が在り、大博町では大浜流灌頂が毎夏に行われていますが、これも遊郭の存在は無縁ではないのかも知れません。
川を挟んで大津町商店街があり、幼少の頃は雑多で喧騒に溢れていましたが、活気がある街でしたね。春はどんたく三味線隊、夏は博多祇園山笠(恵比須流れ・向かい側は千代町流れ)。そのまんま「山笠があるけん博多たい」でした。
懐かしいですね、「月世界」に一度行きました。
小倉にも「月世界」がありました。
記憶には春吉橋、春吉市場?、市電が六本松?行きと天神行きが分かれる渡辺通り一丁目辺りを思い出しています。
キャバレーは川丈劇場前の「レッドシューズ」は一流の感じでした、生のオーケストラ演奏でしたね、神楽坂浮子さんの「明治一代女」を生で聞きました。
「薊」も2004年に閉店。
レッドシューズは名前だけ・・キャバになってる。
@@Dahlaljapan 🎶博多っ子純情🎶を聞くと、この歳になると、おセンチな気分になりますね。
私が福岡に引越しして来た頃に、清川名店ビルと言う廃墟?がありました。
最初に勤めた会社が清川でしたから、思い出は沢山あります笑
「 ♫ 博多っ子純情♪ 」を聞くと当時が思い出されますよ。
「風のささやき」の博多人形に博多の面影を偲んでいます。
おもしろいわー!語りがわかりやすいし興味引きますね
久留米出身の者です。勉強になりました。ゴンちゃんさんの声、聞きやすくて癒しになります(笑)ありがとうございました(^_^)
今の祇園町辺りに女郎街の馬場新町も在りましたけど。
明治末期頃か遊郭で働く女性達の扱いもそれは酷いものだったと聞いております それにしても雰囲気的に何となく分かるものですね少し前の公団辺りの大博町、清川、那珂川沿いの住吉4丁目辺りといい
ペニシリンが無い時代の遊女は短命だと聞いたことあります。😭😭
大門はふつう「だいもん」と言いますが遊郭の場合は「おおもん」と呼びます。吉原などそうです。
江戸の吉原遊郭は「おおもん」、博多の柳橋は「だいもん」
西嶋先生描いていたとは、何度か飲んだがその話聞きたかったな
26年生まれで住吉神社近くで親が商売、電車が通って前には八百屋。映画の看板書きやが有ったり隣には連れ込み宿かな?黒人などの外人さんが出入り!その並びに割烹旅館や銭湯有り裏道には寺や駄菓子屋が有ったり今思い出すと楽しいですね、神社は昔はもっと広かったし、木を切り取る乞食かな?脅されて走って逃げたのも今では楽しい思い出!
清川の子で詩吟を習う女性がいたがその名残かな〜
ちょんの間復活してほしい
最初の出だしで、昭和33年は1964年×→1958年○ですよ。
本当ですね💦どうして間違ったんだろう、ご指摘ありがとうございます。
あと何十年したら雑餉隈もこんな感じになるんだろうかな。
振り向き柳はないが
柳町かぁ
春吉には、身投げ
井戸もまた、会いたい人と結ばれないと
井戸にここが貞子のネタ
柳町は、結構な年齢じゃないと
わからないかもなぁ
偉そうなこと言った日本の祖先も平気でimmoralなことをたくさんやっていたということだね