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相国は漢においては前漢に蕭何、曹参と功臣の筆頭がついたから董卓がなるまで実質この二人だけの特別な役職みたいな感じだったんですよね。
三国時代において、将軍位は大将軍~衛将軍までは格式は同じだがそれ以下の将軍位の格式には(四方将軍、四征、四鎮、四安等)では国ごとに違いがある。また功績の高い将軍には雑号大将軍(例:征西大将軍)となるので通常よりも格上となる。
王国には太守に相当する宰相=相(元は相国・丞相)が置かれます。あえて漢初の諸侯王の制度を用いると言われている魏王曹操は相国を、呉王孫権も丞相を置いていました。劉備の漢中国にも丞相がいてしかるべきなんですが、それが誰か不明というのが惜しい。
とても面白かったです。参考になりました。相が諸侯王に変わって統治を行っていたとのことですが、王は特に何もせず遊び惚けてた感じなんでしょうか?三国志の話の中で、黄巾・董卓・李傕・曹操と帝室の大ピンチにも全然諸侯王が出てこないのが不思議です。官渡の戦いや徐州大虐殺の時とか、孫策孫権が幅を利かせてた時とか、その地の王は何やってたんでしょう?
遊び惚けるというより身動きが取れない状態と言った方が早いかな。これは少し長くなるけど前漢の時代に劉邦の血縁が諸侯王になったんですよ。中央には皇帝が居り、各地には劉姓の諸侯王がゴロゴロ居ました。この時の諸侯王は軍事力を有しており、中央から離れてる事を良いことに制御が効かなくなってきてました。ここで諸侯王抑制策が始まります。この中央での動きに諸侯王が不安となり乱を起こします。これが呉楚七国の乱。乱は直ぐに平定されますが、武帝の時代に諸侯王の権限を縮小させます。この時の政策として諸侯王のあり方が決まります。諸侯王は直接政治に口を出してはならない。領内の政治は中央から派遣されるので国相に運営を任せる。諸侯王の領内の官の任免権を剥奪。早い話が食邑としての機能を残した感じになります。これは郡国制で有りながらも郡県制に近い状態に戻したと思って良いですね。そしてトドメとして武帝は推恩の令を発して諸侯王の力を更に削ぎます。従来であれば諸侯王が亡くなれば嫡子が全てを受け継ぐのですが、武帝は諸侯王の諸子(嫡子以外の子)にも諸侯王の地を継承させる令を発しました。表向きとしては諸侯王の諸子の救済なんですが、実際のところは子供の数が多いほど、元の領地が分割されていくと言ったシステムなんです。こんな感じで諸侯王の抑制策は後漢でも続いていたと言うことになります。纏めると諸侯王に力をつけさせると制御が効かなくなるから中央(皇帝)が手綱を握ってないとならない。
@@月友 偉い身分ではあるけど肩身が狭い感じだったんですかね。任命されたけど特にやる事が無いって当事者はどんな気持ちだったのかな
州牧や刺史と都督諸軍事の意味合いが今は1番知りたい(都督考といった石井先生の論文を読むべきか
大司馬も大将軍も上公。汝南袁氏は袁隗が太傅で袁紹が大将軍になってるので二世上公の位置にあります。あとは大司馬は劉虞がなってますね。大司馬の劉虞は督六州事となってるので六州を督する立場です。(形骸化してますが)あと民爵は売買出来る。その爵を上げる方法には敵の首を上げると言うものがある。これを首級と言う。
韓信は 大将軍と大元師から斉王、楚王から淮陰侯になった。それほど韓信は劉邦(高祖)から警戒されていたことがわかるぞ
語尾に「っ」が入るね…
魏と蜀が入れ替わったらなあ~みんなもそう思ったら返信してくれ
相国は漢においては前漢に蕭何、曹参と功臣の筆頭がついたから董卓がなるまで実質この二人だけの特別な役職みたいな感じだったんですよね。
三国時代において、将軍位は大将軍~衛将軍までは格式は同じだが
それ以下の将軍位の格式には(四方将軍、四征、四鎮、四安等)では国ごとに違いがある。
また功績の高い将軍には雑号大将軍(例:征西大将軍)となるので通常よりも格上となる。
王国には太守に相当する宰相=相(元は相国・丞相)が置かれます。
あえて漢初の諸侯王の制度を用いると言われている魏王曹操は相国を、呉王孫権も丞相を置いていました。
劉備の漢中国にも丞相がいてしかるべきなんですが、それが誰か不明というのが惜しい。
とても面白かったです。参考になりました。
相が諸侯王に変わって統治を行っていたとのことですが、王は特に何もせず遊び惚けてた感じなんでしょうか?
三国志の話の中で、黄巾・董卓・李傕・曹操と帝室の大ピンチにも全然諸侯王が出てこないのが不思議です。
官渡の戦いや徐州大虐殺の時とか、孫策孫権が幅を利かせてた時とか、その地の王は何やってたんでしょう?
遊び惚けるというより身動きが取れない状態と言った方が早いかな。
これは少し長くなるけど前漢の時代に劉邦の血縁が諸侯王になったんですよ。中央には皇帝が居り、各地には劉姓の諸侯王がゴロゴロ居ました。
この時の諸侯王は軍事力を有しており、中央から離れてる事を良いことに制御が効かなくなってきてました。ここで諸侯王抑制策が始まります。この中央での動きに諸侯王が不安となり乱を起こします。これが呉楚七国の乱。乱は直ぐに平定されますが、武帝の時代に諸侯王の権限を縮小させます。
この時の政策として諸侯王のあり方が決まります。
諸侯王は直接政治に口を出してはならない。
領内の政治は中央から派遣されるので国相に運営を任せる。
諸侯王の領内の官の任免権を剥奪。
早い話が食邑としての機能を残した感じになります。
これは郡国制で有りながらも郡県制に近い状態に戻したと思って良いですね。
そしてトドメとして武帝は推恩の令を発して諸侯王の力を更に削ぎます。
従来であれば諸侯王が亡くなれば嫡子が全てを受け継ぐのですが、武帝は諸侯王の諸子(嫡子以外の子)にも諸侯王の地を継承させる令を発しました。表向きとしては諸侯王の諸子の救済なんですが、実際のところは子供の数が多いほど、元の領地が分割されていくと言ったシステムなんです。
こんな感じで諸侯王の抑制策は後漢でも続いていたと言うことになります。
纏めると諸侯王に力をつけさせると制御が効かなくなるから中央(皇帝)が手綱を握ってないとならない。
@@月友
偉い身分ではあるけど肩身が狭い感じだったんですかね。任命されたけど特にやる事が無いって
当事者はどんな気持ちだったのかな
州牧や刺史と都督諸軍事の意味合いが今は1番知りたい(都督考といった石井先生の論文を読むべきか
大司馬も大将軍も上公。汝南袁氏は袁隗が太傅で袁紹が大将軍になってるので二世上公の位置にあります。
あとは大司馬は劉虞がなってますね。
大司馬の劉虞は督六州事となってるので六州を督する立場です。(形骸化してますが)
あと民爵は売買出来る。その爵を上げる方法には敵の首を上げると言うものがある。これを首級と言う。
韓信は
大将軍と大元師から斉王、楚王から淮陰侯になった。それほど韓信は劉邦(高祖)から警戒されていたことがわかるぞ
語尾に「っ」が入るね…
魏と蜀が入れ替わったらなあ~みんなもそう思ったら返信してくれ