歎異抄を読む(第一条 その2)瓜生崇
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- Опубликовано: 15 сен 2024
- 歎異抄を読む(第一条 その2)のお話です。
講師は滋賀県東近江市の玄照寺住職、瓜生崇師です。
2回めですが、1回目を聞き逃した方も分かられるようにします。
中継だけでなく実際にご参詣いただけます。詳細は下記をご覧ください。
shinshuhouwa.in...
ご質問がある場合は、下記のフォームからお願いします。できるだけ講座の中で回答いたします。法話の前でも、終わったあとでも構いません。
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聞即信。事実。行信一体と教わりましたが、聞かせて頂きました。合掌。
阿弥陀様のなみあみだぶつのこえが届き摂取不捨その一瞬私の想いない、空、阿弥陀の世界を聴かせて頂きました。いのちと光で、起こり不可思議光、瓜生崇先生南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏🙏
この解釈の話なら、誰でも理解できる。誰にでも、このお話をする事が出来る。
救われました。感謝為て居ります。有り難う御座いました。
勉強になります。ありがとうございました。
ありがとうございます。
10:00夢から覚める、悟りも同じ。独生独死、自分の心の世界の分厚い殻。独りぼっちで生老病死する。最後は死ぬ。私の好き嫌い、善悪にとらわれて生きる、そして死ぬ。このことに気づくことを夢から覚めると言う。20:00梵天の登場と釈迦への願い。我は一切なりとの気づき。釈迦は如来となった。29:00菩薩から如来。法蔵から阿弥陀如来へと。
42:00浄土とは。信じるとは。疑うことと信じることは反意語ではない、同意語に近い。信じるとは心を取り繕うこと。55:0011,12,13願で浄土の境界が消滅、もともとある世界になった。(このあたりから難解)1:01:00言葉から思考が生まれていること。目覚めさせる言葉はないだろうかという大乗の足どり。1:06:00真如と殻に閉ざされた独りぼっちのわたしが呼び合う言葉。誓願としての名号、阿弥陀如来は真如の働き、如来と独りぼっちの私の呼び合い。1:11:30すべての仏、宇宙が南無阿弥陀仏を私に称える。真宗における救い、信心は私に南無阿弥陀仏が届いた、聞こえたということ。聞即信。心をあてにした信心は当てにならない、心はあくまで独りぼっち。その独りぼっちの私にお前は目覚める者だ、と声がする。(聖人は一生かけてこのことがわかった、届いた、聞こえたということは聞即信)、仏願の生起本末を聞きて疑いなき…歴史を通して届いたということ、聞即信。1:24:00正定衆。大峰顕、池田晶子との会話「君自身に還れ」、無限の命、無限の光を持っているということは今救われる、今捕まった、もう逃げられないということだ、と。摂取不捨。真如から逃げたい私なのか。
本動画で、親鸞聖人の教えが分かった様な(?)気がしました!
もう一度、この動画を拝聴して見ます。
南無阿弥陀仏
「信じる」=「疑う」
そうかも、と思われましたのは、
我が子に、
お母さんは私の事を
信じていない
けれど、
疑ってもいない
と、言われて。
そういう感じ?でしょうか?
類は友を呼ぶ
といいますが、
親子は、なんか違うものなのでしょうか。
ありがとうございます!
ご喜捨ありがとうございます。大切に使わせていただきます。
宇宙いつばいなむあみだぶつ
南無阿弥陀仏🙏