漫才【B&B】(1)|残しておきたい昭和の演芸

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  • Опубликовано: 1 янв 2023
  • 島田洋七・島田洋八
    「B&B」の漫才をお楽しみください。
    #残しておきたい昭和の演芸 #漫才 #B&B
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    残しておきたい昭和の演芸をたくさん投稿していきますのでチェックしてね
    / @showa-owarai
    B&B
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    B&Bは、広島県広島市出身の島田洋七(1950年2月10日 )が、相方を4度変えたコンビ名である。特に岡山県笠岡市出身の島田洋八(1950年2月13日 )と組んだ三代目B&B。コンビの東京進出が漫才ブームを誘発・点火させた。
    結成二年目の1977年には第6回上方お笑い大賞銀賞を受賞。翌1978年には第13回上方漫才大賞奨励賞を受賞するなど実力が認められた。こと劇場内で笑いをとることにかけてはB&Bは、一、二を争っていた。しかし当時は関西でも演芸番組が激減していた時代、B&Bが売れっ子になるという訳ではなかった。
    1979年、「ヤングおー!おー!」にレギュラー抜擢されなかった事が原因で大阪の活動に限界を感じる。東京行きを決行した理由を洋七は幾つか異なる説明をしている。一つは当時の吉本興業には、やすしきよし、Wヤング、中田カウス・ボタンといったそうそうたる売れっ子がズラリといて、どんなに賞を獲ったとしても、自分たちは野球でいえば二軍、いつかはおハチが回ってくるかもしれないが、ボクは待ちきれなかった。また当時の大阪の若手実力漫才コンビの中では、ほぼ唯一の"非関西圏"の出身でもあり、大阪にいるあいだは"ヨソもん意識"があって大阪に執着は無く、東京なら"ヨソもん"の集まりだからいいだろうと考えたこと。「僕ら広島と岡山の出身やから、大阪で働くのも東京へ行くのも、根本的には違いない」、「一部から認められているのだが、いっこうに売れない。生活だって楽ではない。そんな焦りから気分を変えるために東京に出た」。セント・ルイスの人気をみて、東京に行った方が売れるんじゃないかと思ったこと。また、大阪では結構売れっ子となっていたのに、郷里の広島や、祖母のいる佐賀ではほとんど知られておらず、「いくら売れても大阪ローカルではダメ、東京発の全国ネットのTV番組に出演しなければ意味がない」と悟ったこと。他にも、この頃から付き合いのあったビートたけしから「東京に来いよ」と言われていた、Wヤングの平川幸男に「お前らなら売れる。東京に行け」と勧められたという話もある。友人でもあり、ライバルでもあったザ・ぼんち・里見まさとは、「洋七は以前から、このままではいかん。東京に出たい、出たいと言っていた」と話している。これらの理由から東京で活躍したいという野望が沸く。東京進出を洋八に話すと二つ返事でOKと言った。上京前日、洋七のアルバイト先のスナックを訪ねた親しい大阪新聞記者に洋七は、「俺は腕はある。自信もある。けど、どこで漫才やったらええねん」と吐露した。これが当時の漫才の置かれた状況。洋七の言葉は、当時の若手漫才師みんなの代弁だった。上方漫才界のガスは、十分に充満していた。
    当時の吉本は東京に事務所がなかった。1979年8月26日、NHK教育テレビ『若い広場』「B&Bラストin大阪(うめだ花月)」に出演。同年9月、東京行きを決行した。
    東京の漫才協団に加入し戸崎事務所に移籍。東京の業界はB&Bを概ね好意的に受け入れた。このため吉本は円満退社だったという説がある。東京の漫才協団にすんなり加入できたのはこのため。木村政雄は「彼らはまだ、会社として問題になるほどのタレントでもなかった」と述べている。浅草松竹演芸場に当初ノーギャラで出演。B&Bの名前は東京の関係者には轟いており、観客がまばらなのに偵察に来た東京の若手芸人達が立ち見に並んだ。自身もこれを見たというラサール石井は「何より凄かったのは洋七さんのテンポ、速射砲のような喋りとパワーあふれるツッコミ」「しかも画期的なことは、出番でない他の芸人達がB&Bが出ると楽屋から出てきて客席の後ろの方で大笑いしていた」と話している。それほど売れていなかったツービートのビートたけしもまた、洋七の“言葉の連射攻撃”“客を完全に飲み込んで唖然とさせる漫才”を見て衝撃を受け、スピードを早め、たけし一人が喋りまくるスタイルへ変更した。ツービートの看板ネタ「山形いじめ」は、B&Bの「広島vs岡山ネタ」を真似たもので、借用元のB&Bの上京以降「山形いじめ」ネタを封印せざるを得なくなり、それがツービートの過激度を一段と高めることになった。
    1980年1月、「花王名人劇場」「激突!漫才新幹線」に大抜擢され出演。この番組はゴールデンタイムの1時間枠をMC無しで、B&Bとやすしきよし、星セント・ルイスの三組が、おのおの10数分間の持ち時間で漫才のみをする、という当時としても画期的で、勿論現在のゴールデンでも見られない形態のものだった。また漫才と言えば、スーツや派手なタキシード、蝶ネクタイ等を着用し、年期の入った掛け合いを見せる、というものだったが、TシャツにGパン、長髪の今風の若者が、掛け合いを無視したボケの一方的なしゃべりで、広島や岡山など地方をネタにした郷土ギャグを、体を使ったオーバーアクション、一発芸を駆使してみせるという高速漫才は、従来の漫才とは違うとても新鮮なもので、やすきよにも一歩も引かない姿は大きな反響を巻き起こした。"16ビート"の"マシンガン漫才"が初めて全国のお茶の間に届けられた。
    こういったスタイルは多くがその元祖、草分けといえるものであり、現在もお笑いの基本となっている。元々、この企画はタイトル通り、東京代表の星セント・ルイスと、大阪代表のやすしきよしの激突で、広島vs岡山ネタをやっていた新人のB&Bは"つけ合わせ"としての出演だった。この千載一遇のチャンスをB&Bはモノにしたわけである。長らく司会に専念していたやすしきよしが、長い漫才をやるという話題性もあって「激突!漫才新幹線」は高視聴率を稼ぎ、これが各局とも漫才番組を製作する切っ掛けとなった。洋七は「『激突!漫才新幹線』の時は、僕らが一番売れておらず、伸び伸びとできた。お客さんも新鮮に感じたんやろね、ドッカン、ドッカン受けた。終了後、舞台のそでで横山やすし師匠に『お前ら、売れるで』って言われて、ものすごくうれしかったね。ブームが起きるなんて、全然思わなかった。全国ネットで夜9時やから、名前ぐらいは知ってもらえるやろうと。放送翌日にCMの話が来て、びっくりしたわ」などと話している。「お笑いスター誕生!!」(日本テレビ)でも、先兵役を務めて、ケタ違いの実力を見せ、ストレートで10週を勝ち抜き初代グランプリとなり大ブレイク、漫才ブームを引き起こす。お笑い芸人で初めて化粧品洗剤業界のCMに起用され、お笑い芸人で初めて客席からテープが飛んだ。『月刊平凡』1980年10月号で紳助・竜介と共に漫才師として初めてアイドル誌のグラビアを飾った。サイン色紙を手にした女子中・高校生が演芸場のロビーに列をつくり出待ちした。最初に女性ファンを呼び込み、お笑い芸人をアイドル化させた功績は計り知れない。
    漫才師で初めて全国ネットのレギュラー『笑ってる場合ですよ!』の総合MCを務めたのも、B&Bが一番人気があったからである。『サンデー毎日』1981年1月4日・11日合併号の「ニュー漫才 東西の人気コンビ名鑑」という記事のB&Bの紹介に「大阪にいるころはパッとしなかったが東京に出てくるやたちまち大当たり、一躍人気ナンバーワンとなる。"これが青春だ" "広島名物もみじまんじゅう"など数々のギャグやアドリブ、早口言葉で文字通り体当たり演技」と書かれている。
    1980年代初頭の漫才ブームの火付け役となり、ツービートや、当時若手といわれた紳助・竜介、オール阪神・巨人、のりお・よしおらが後に続いた。当時既に星セント・ルイスが人気を得ていたが、この頃の漫才師の中ではB&Bが、アイドル的人気を得てブロマイドが売れるという現象まで引き起こし一気に追い抜いた。B&Bは若い女性に大人気となり、ブロマイドの売り上げがアイドルと混じって男性部門第3位となる。漫才コンビの売れ行きが順位の上位をしめたのは、マルベル堂の歴史で初めてのことだった。この人気でピーク時で、週に26本、月84本、あるいは月100本以上もの番組に出演する殺人的スケジュールとなる。月84本をやっていた時は、70本ぐらいで芸能界は俺一人でやってる気持ちになったという。2012年10月、「笑ってる場合ですよ!」の総合MCに抜擢される。どのチャンネルをひねってもB&Bの見られない日はないほどの人気だった。スケジュール表は真っ黒、寝るのは移動の車と列車の中という忙しさだった。1981年のさっぽろ雪まつりは雪像の大部分がB&Bで飾られた。1981年暮れの特番確保にB&Bを独占するため、各テレビ局は1本500万円の軍資金を用意した。「所属事務所は社長が一人、タレントはB&Bだけで社長がマネージャーを兼務した。そのためギャラは3人で分けて毎月数千万を紙袋や段ボール箱に入れて持って帰った。漫才ブーム当時は漫才師で最も人気が有り、洋七は「月給が最高の月は8000万円、4年間で32億円稼いだ」と自称している。
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    #残しておきたい昭和の演芸 #漫才 #B&B
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Комментарии • 17

  • @saito700
    @saito700 Год назад +12

    懐かしい漫才です。有難うございます。

    • @user-dx7we2xd3u
      @user-dx7we2xd3u 6 месяцев назад +1

      それならばぎっしり詰まるみたいな日本の懐かしいお笑い軍団などの山にもついに郵便切手に大変身してくるのは本当ですよ。だから幸せの絆ですよ。簡単な絆ですよ。がんばろう!日本。進めよう!日本。繋げよう!世界!

  • @user-lq8po3ns1i
    @user-lq8po3ns1i 8 месяцев назад +4

    懐かしいですね。良かったあの頃

  • @user-di6df5ex2b
    @user-di6df5ex2b 5 месяцев назад +1

    長尺の漫才で、ずーっとテンションMAXで乗り切るのはさすが😂😂
    そして前室でセントルイスとヤスキヨ、特にやっさんが笑ってるのがB&Bの実力の証ですね😊
    そして、なんと言いてもあの「名調子」の「もみじ饅頭」にいくまでのジワジワと上がってくる「広島vs岡山」の流れがワクワクする😊😊😊

  • @MA-kh4gm
    @MA-kh4gm 5 месяцев назад +3

    これが一夜にして
    スターにした漫才かぁ~
    オモロイ😮

  • @AA-bp8pb
    @AA-bp8pb 8 месяцев назад +4

    さすが!

  • @user-dq4oz3ny8l
    @user-dq4oz3ny8l 7 месяцев назад +6

    やすし師匠が笑ってる

  • @userTae-yuzu0122
    @userTae-yuzu0122 7 месяцев назад +1

    サブローさんはコンビの漫才も上手いですが、後年1人で、亡きやすしさんのモノマネをしたのが絶品ですね。

  • @hikick49
    @hikick49 8 месяцев назад +5

    このしゃべくりは今見てもすごい。

  • @mountain4319
    @mountain4319 7 месяцев назад +3

    漫才新幹線ですねこのときのセントルイスの漫才がみたい

  • @user-pl2hm6dv9v
    @user-pl2hm6dv9v Год назад +8

    親の健康保険で入れるはハードルが高い

  • @user-ip5po6vh2w
    @user-ip5po6vh2w 4 месяца назад

    ソニー の テレビ キューブ からですね
    😸🎃☘️✨🌸 HI-BIS-CUS
    おはようございます

  • @gum4958
    @gum4958 10 месяцев назад +3

    スイッチ入ったきよし師匠カッコイイ

  • @user-ip5po6vh2w
    @user-ip5po6vh2w 4 месяца назад

    ジンクス?
    😸🎃☘️✨🌸 HI-BIS-CUS

  • @user-ip5po6vh2w
    @user-ip5po6vh2w 4 месяца назад

    自分の声 とか ど~う していいか わからん 😸🎃☘️✨🌸 HI-BIS-CUS

  • @user-ic4hh4ue8q
    @user-ic4hh4ue8q 19 дней назад

    年収8億円あったらしい・・・2人で16億円や。吉本離れて、東京の協会へ所属したのは、知らなかった。東京の小屋では、はじめは無給。それでも、東京の芸人が、客席に回って、笑い転げていたらしい。ビートたけしが、このBBの漫才を見て、テンポを上げたらしい(cf:『浅草キッド』)。今もこんなはやいテンポで、客席を笑いの渦に巻き込む漫才師はいない。

  • @user-ew5ke5cq8l
    @user-ew5ke5cq8l 7 месяцев назад

    左の人の手が長くないですか?元ボクサーか?