Размер видео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показать панель управления
Автовоспроизведение
Автоповтор
私は生まれた時から牧師の居る教会ではなく、兄弟姉妹と互いに呼び合う「キリスト集会」と呼ばれる礼拝の集まりの中で育って来ました。しかしながら、礼拝メッセージを取りつぐ長老としての立場にある指導者も兄弟と呼ばれていながらも、やっている事は今思えばパリサイ人と同じように、肩で風を切って歩くように見えた過去の出来事が、ふと頭に思い浮かびました。仕えるべき謙遜な姿勢、また立場は改めて学ぶべき信仰のあり方ですね。
聖書に基づいた説教を実践されている小林さんは、すごいと思います!
教会=イエスとなってた自身の過去。混乱していた頭の中が更にすっきりした。主は拓馬さんを通して隠された重要な事に光を当てて明確にしてしてくださった。ハレルヤ!日曜礼拝を最優先することに対して、ある時点から違和感を持ったことと同感。仕事、家族、プライベートよりも日曜礼拝を第一優先にすべき、と思い込んできた長い年月。神の国と神の義=教会と無意識に信じ込んでいた。カトリックからプロテスタントに変わったから大丈夫なんだ、とプロテスタント教会システム自体を信じ込み、すり替えが行われた結果と実感。仕事は生活に必要不可欠でありプライベートでもあり、休日は休養する日。教会を出てから、世の中のあらゆる様々な仕事を意識するようになり、外に出ると様々な仕事に従事されている方々を意識するようになり、自分にはとうてい出来ない仕事がほとんどであると気付き、あらゆる仕事に従事されている方々に対して何と有り難いことか感謝出来るようになった。過去の自身は、日曜日は仕事をしてはいけないから調整も必死だった。家族の状況がどうであれ教会を第一にしなければ、自分のしている仕事も教会礼拝に比べると取るに足らないんだと自己卑下の思いであった事も思い出されて、何と的外れの信仰だったかと明確にされた。身体的な病気で礼拝欠席するのは理解を得られやすいが、精神的な弱さ病いには非情であると感じてきた。教会に行けなくなった者は不信仰と決めつけられているように感じ悲しく違和感が大きくなった。今となっては、どう思われようが気にならなくなってきたこと感謝。これらの葛藤や苦みは自分だけではなかった事、タブーとされてきたような黙認されてきた事に光を当ててくださった主に感謝。聖書にこれらのことをも明確に記されていた事を知れた事は大きな恵み。長い年月の葛藤と苦みから徐々に解放され感謝。
ありがとうございます!
先生と呼ばれる風習がなくなれば、清く正しく見えるような振る舞いや装いでなくてもいいと感じれるなら、教会に訪れたいと思う人々が増えていくのではと思います。教会は敷居が高い近寄りがたいものと受け止められていると思います。イエス様を教師とした初代教会のような形に回復されていきますように、、祈っていきます。
以前の教会の牧師夫人にファーストネーム呼んだところ、僕氏より指導されました。牧師夫人だから先生と呼ぶようにと話された。思わず、笑いそうでした。
イエスキリストが私たちを導いてくれる先生に値すると思います牧師の方々も私たちと同じイエス様を愛し、信じ、学ぶ兄弟姉妹と同じなんだと感じました今回も、いいお話をありがとうございました
牧仕、素敵な言葉だと思います❗️「教会」も「共会」になると良いですね!
とても考えさせられました。その聖書箇所を理解している群でも、敬意を表す敬称として先生と呼ぶのを良しとする解釈もあるんですよね。ですが、集団的にそういう習慣を作ってしまうと、やはり教える側と教わる側の立ち位置が固まってしまうんですよね。あと、たとえ先生と呼ぶ習慣がなくても、信仰的メンターであるという慢心がある場合や、逆に周囲にそういった導き手に依存する欲があると、自立的な信仰の成長、つまり神と本人の関係構築を阻んでしまうことも思いました。聖徒は皆万人祭司である、ということが心に響きました。たくまさんは神に対して直向きで熱心ですね。
今晩は、拓馬さん 私も拓馬先生とは呼びませんね。ご自身が拓馬さんと呼ばれる事を願っているからです。でも、これ教会派の羊さん達に蹴りぐるみにされそうな真実ですね。私は自分の恩師を先生と呼びますが、ご本人は呼び名に全く拘っていないからです。どうしても先生と呼ばれたい人がいたら私は呼び捨てにするかもしれません(笑)拓馬さん、今後も期待してますよ☆
聖書は、あなたがたは先生と呼ばれてはいけませんとマタイ 23章8節にあります。でも教会には、牧師を先生と呼ばれる方ばかりです個人的には、たとえ教えてくださる方であっても、イエス様以外を先生と呼ぶのは抵抗がありますので、マタイの聖句をお伝えした後から迫害を受けました。今まで拓馬さんが発信しておられる動画の全てを7つの教会を巡って見事に全部経験しております。毎回、共感しており 深い溜息の中で拓馬さんの語りに安堵しております。 主の憐れみと慰めに感謝します。
わたしも兄弟姉妹という呼び方だけの集会に居ましたが、なぜか、職業は学校の先生が多かったと思います。拓馬さんの動画を批判していた牧師さんの動画で、なにを勘違いされたのか、その牧師さんは学校の先生やお医者さんを先生と呼んではいけないのか?と言っていました。聖書で言っているのはこの世の先生のことでは無くて、教会の指導者や説教者を先生と呼んではならないということなので、これは、教会では全ての信者は奉仕する者もしない者も全てはフラットであることを言っているので、この世の先生のことは言っていません。混同する時点で聖書を理解していないことがわかります。話は変わりますがある教会の兄弟は、兄弟姉妹に会うたびに頭のてっぺんから足のつま先までジロリと見て、お前は大丈夫か?と見る人が居ました。みんなこの兄弟を恐れておりました。罪があるんだろと人を罪定めするのはサタンです。この兄弟は自分に罪が無いと確信しており、兄弟姉妹を吟味する目で見ておりました。これは先生どころか裁判官として教会に君臨している人がいたということです。神の権威を乱用することになるのであれば、こんなことも起こります。兄弟姉妹の間で先生と呼ばれる存在は必要無いだけで無く、先生と呼ばれなくても、先生ぶる人は要らないということです。長老が命令して集会出席時に必ず兄弟はネクタイするように強要しました。がしかし、そのうち3名以上の長老は集会中脳梗塞で倒れて死にました。それからネクタイするのは止めになりました。神は裁きの神でもあります。人を畏れないで神を畏れるクリスチャン同士であるべきです。全部実話です。
牧師様と先生との違いについてのご説明ありがとうございます。日本では先生と牧師様との使い方がよくまだ長い習慣と文化から使い方が難しいようですね。。。主イエス様のご祝福が皆さまのうえにありますようにお祈り申し上げます。ア-メン
集会内で小林さんが仰っていた 「呼ぶことよりも、呼ばれることの方がポイント。」 も、重要ですよね。 *先生呼びさせてる人に対して … 「呼ばれるように誘導してるのは、ヤバイ」と、仰っていました 👈暗黙のルール化・無言圧力・大衆心理利用も含む? *先生呼びする人に対して … 「`心の在り方は?(偶像化してる or してない…どっち?)` という見方[客観的視点]が重要」と、仰っていました
そのような牧師は聖書を最初からしっかりと読むべし。
聖書に生きる者にとっては正論、宗教を生きる人にとっては․․․․․ いろいろとあるのだろーけど🤔
人々を神の国から遠ざけている。ヒントがありますね
センチメンタルトレーナーにも何か拓馬さんからのメッセージがあるのかと考えてしまう😅笑
聖書を文化的な背景を含めて説明しておられるのでいくつかの動画を興味深く拝見しました。ただ私の場合は単純に聖書やキリストの教えについて知りたいと思っている者なので、この動画を含めあまりに他人や他教会の批判に情熱を注ぎすぎていて、例えれば店長が弟子を叱責している飲食店に入ってしまったような気まずさを感じてしまいました…。まあ教会に通っている信者への警告的な位置づけと捉えれば良いですよね…。
ふと思ったんですが、おでこの上の小箱って本来は脳みその事じゃないですかね?聖書の大事な部分はちゃんと記憶しとけよ的な。手の上の印はよくわかんないです。クリスチャン的にはイエス様は大工の息子(イエス様自身も30歳までは大工??)なので手の上の印は手に職をつける???すいません、テキトー言いました。面白くためになる動画有難うございます。
牧師ではなく、牧者にしたらどうでしょう。高原剛一郎さんも伝道師ではなく伝道者と呼ばせています。
新共同訳では、エペソ4:11「そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。 」と訳されていますね。やはり、牧師という言葉は造語で日本語としてもおかしいですよ。そして、教師と並列表記してあるので教職と同じですね。あえて使うなら、「牧士」「牧仕」「牧使」などでしょうか。敬称ではなく、役職の教職だけでも良いと思います。また、預言者の漢字も「予言者」も同義、むしろ原典に忠実なのでOKとして良いと思います。ちなみに中国語聖書では、「他所賜的有使徒,有先知,有傳福音的,有牧者和教師」と訳されており、やはり「牧師」ではなく「牧者」となっています。「牧者和教師」とは、牧者(の役職)=教師のことであるという意味です。預言者のことも、「先知者」となっています。これは日本の聖書翻訳学者が無知であったために、おかしな造語を作ってしまったのだと思います。聖書のことばを造語を使って自分たちの都合の良いように改悪することは罪ですよ。日本の聖書翻訳学者らは罪を悔い改めて欲しいものです。これが元で日本の教会の悲劇になったのですからね。
私は生まれた時から牧師の居る教会ではなく、兄弟姉妹と互いに呼び合う「キリスト集会」と呼ばれる礼拝の集まりの中で育って来ました。
しかしながら、礼拝メッセージを取りつぐ長老としての立場にある指導者も兄弟と呼ばれていながらも、やっている事は今思えばパリサイ人と同じように、肩で風を切って歩くように見えた過去の出来事が、ふと頭に思い浮かびました。
仕えるべき謙遜な姿勢、また立場は改めて学ぶべき信仰のあり方ですね。
聖書に基づいた説教を実践されている小林さんは、すごいと思います!
教会=イエスとなってた自身の過去。混乱していた頭の中が更にすっきりした。主は拓馬さんを通して隠された重要な事に光を当てて明確にしてしてくださった。ハレルヤ!
日曜礼拝を最優先することに対して、ある時点から違和感を持ったことと同感。
仕事、家族、プライベートよりも日曜礼拝を第一優先にすべき、と思い込んできた長い年月。神の国と神の義=教会と無意識に信じ込んでいた。カトリックからプロテスタントに変わったから大丈夫なんだ、とプロテスタント教会システム自体を信じ込み、すり替えが行われた結果と実感。
仕事は生活に必要不可欠でありプライベートでもあり、休日は休養する日。
教会を出てから、世の中のあらゆる様々な仕事を意識するようになり、外に出ると様々な仕事に従事されている方々を意識するようになり、自分にはとうてい出来ない仕事がほとんどであると気付き、あらゆる仕事に従事されている方々に対して何と有り難いことか感謝出来るようになった。
過去の自身は、日曜日は仕事をしてはいけないから調整も必死だった。家族の状況がどうであれ教会を第一にしなければ、自分のしている仕事も教会礼拝に比べると取るに足らないんだと自己卑下の思いであった事も思い出されて、何と的外れの信仰だったかと明確にされた。
身体的な病気で礼拝欠席するのは理解を得られやすいが、精神的な弱さ病いには非情であると感じてきた。教会に行けなくなった者は不信仰と決めつけられているように感じ悲しく違和感が大きくなった。今となっては、どう思われようが気にならなくなってきたこと感謝。
これらの葛藤や苦みは自分だけではなかった事、タブーとされてきたような黙認されてきた事に光を当ててくださった主に感謝。
聖書にこれらのことをも明確に記されていた事を知れた事は大きな恵み。
長い年月の葛藤と苦みから徐々に解放され感謝。
ありがとうございます!
先生と呼ばれる風習がなくなれば、清く正しく見えるような振る舞いや装いでなくてもいいと感じれるなら、教会に訪れたいと思う人々が増えていくのではと思います。教会は敷居が高い近寄りがたいものと受け止められていると思います。
イエス様を教師とした初代教会のような形に回復されていきますように、、祈っていきます。
以前の教会の牧師夫人にファーストネーム呼んだところ、僕氏より指導されました。牧師夫人だから先生と呼ぶようにと話された。思わず、笑いそうでした。
イエスキリストが私たちを導いてくれる先生に値すると思います
牧師の方々も私たちと同じイエス様を愛し、信じ、学ぶ兄弟姉妹と同じなんだと感じました
今回も、いいお話をありがとうございました
牧仕、素敵な言葉だと思います❗️
「教会」も「共会」になると良いですね!
とても考えさせられました。
その聖書箇所を理解している群でも、敬意を表す敬称として先生と呼ぶのを良しとする解釈もあるんですよね。ですが、集団的にそういう習慣を作ってしまうと、やはり教える側と教わる側の立ち位置が固まってしまうんですよね。
あと、たとえ先生と呼ぶ習慣がなくても、信仰的メンターであるという慢心がある場合や、逆に周囲にそういった導き手に依存する欲があると、自立的な信仰の成長、つまり神と本人の関係構築を阻んでしまうことも思いました。
聖徒は皆万人祭司である、ということが心に響きました。
たくまさんは神に対して直向きで熱心ですね。
今晩は、拓馬さん 私も拓馬先生とは呼びませんね。ご自身が拓馬さんと呼ばれる事を願っているからです。でも、これ教会派の羊さん達に蹴りぐるみにされそうな真実ですね。私は自分の恩師を先生と呼びますが、ご本人は呼び名に全く拘っていないからです。どうしても先生と呼ばれたい人がいたら私は呼び捨てにするかもしれません(笑)拓馬さん、今後も期待してますよ☆
聖書は、あなたがたは先生と呼ばれてはいけませんとマタイ 23章8節にあります。
でも教会には、牧師を先生と呼ばれる方ばかりです個人的には、たとえ教えてくださる方であっても、イエス様以外を先生と呼ぶのは抵抗がありますので、マタイの聖句をお伝えした後から迫害を受けました。今まで拓馬さんが発信しておられる動画の全てを7つの教会を巡って見事に全部経験しております。毎回、共感しており 深い溜息の中で拓馬さんの語りに安堵しております。
主の憐れみと慰めに感謝します。
わたしも兄弟姉妹という呼び方だけの集会に居ましたが、なぜか、職業は学校の先生が多かったと思います。拓馬さんの動画を批判していた牧師さんの動画で、なにを勘違いされたのか、その牧師さんは学校の先生やお医者さんを先生と呼んではいけないのか?と言っていました。聖書で言っているのはこの世の先生のことでは無くて、教会の指導者や説教者を先生と呼んではならないということなので、これは、教会では全ての信者は奉仕する者もしない者も全てはフラットであることを言っているので、この世の先生のことは言っていません。混同する時点で聖書を理解していないことがわかります。話は変わりますがある教会の兄弟は、兄弟姉妹に会うたびに頭のてっぺんから足のつま先までジロリと見て、お前は大丈夫か?と見る人が居ました。みんなこの兄弟を恐れておりました。罪があるんだろと人を罪定めするのはサタンです。この兄弟は自分に罪が無いと確信しており、兄弟姉妹を吟味する目で見ておりました。これは先生どころか裁判官として教会に君臨している人がいたということです。神の権威を乱用することになるのであれば、こんなことも起こります。兄弟姉妹の間で先生と呼ばれる存在は必要無いだけで無く、先生と呼ばれなくても、先生ぶる人は要らないということです。長老が命令して集会出席時に必ず兄弟はネクタイするように強要しました。がしかし、そのうち3名以上の長老は集会中脳梗塞で倒れて死にました。それからネクタイするのは止めになりました。
神は裁きの神でもあります。人を畏れないで神を畏れるクリスチャン同士であるべきです。全部実話です。
牧師様と先生との違いについてのご説明ありがとうございます。
日本では先生と牧師様との使い方がよくまだ長い習慣と文化から使い方が難しいようですね。。。
主イエス様のご祝福が皆さまのうえにありますようにお祈り申し上げます。
ア-メン
集会内で小林さんが仰っていた 「呼ぶことよりも、呼ばれることの方がポイント。」
も、重要ですよね。
*先生呼びさせてる人に対して … 「呼ばれるように誘導してるのは、ヤバイ」と、仰っていました 👈暗黙のルール化・無言圧力・大衆心理利用も含む?
*先生呼びする人に対して … 「`心の在り方は?(偶像化してる or してない…どっち?)` という見方[客観的視点]が重要」と、仰っていました
そのような牧師は聖書を最初からしっかりと読むべし。
聖書に生きる者にとっては正論、宗教を生きる人にとっては․․․․․ いろいろとあるのだろーけど🤔
人々を神の国から遠ざけている。ヒントがありますね
センチメンタルトレーナーにも何か拓馬さんからのメッセージがあるのかと考えてしまう😅笑
聖書を文化的な背景を含めて説明しておられるのでいくつかの動画を興味深く拝見しました。
ただ私の場合は単純に聖書やキリストの教えについて知りたいと思っている者なので、この動画を含めあまりに他人や他教会の批判に情熱を注ぎすぎていて、例えれば店長が弟子を叱責している飲食店に入ってしまったような気まずさを感じてしまいました…。
まあ教会に通っている信者への警告的な位置づけと捉えれば良いですよね…。
ふと思ったんですが、おでこの上の小箱って本来は脳みその事じゃないですかね?聖書の大事な部分はちゃんと記憶しとけよ的な。
手の上の印はよくわかんないです。クリスチャン的にはイエス様は大工の息子(イエス様自身も30歳までは大工??)なので手の上の印は手に職をつける???
すいません、テキトー言いました。
面白くためになる動画有難うございます。
牧師ではなく、牧者にしたらどうでしょう。高原剛一郎さんも伝道師ではなく伝道者と呼ばせています。
新共同訳では、エペソ4:11「そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。 」と訳されていますね。やはり、牧師という言葉は造語で日本語としてもおかしいですよ。そして、教師と並列表記してあるので教職と同じですね。あえて使うなら、「牧士」「牧仕」「牧使」などでしょうか。敬称ではなく、役職の教職だけでも良いと思います。また、預言者の漢字も「予言者」も同義、むしろ原典に忠実なのでOKとして良いと思います。ちなみに中国語聖書では、「他所賜的有使徒,有先知,有傳福音的,有牧者和教師」と訳されており、やはり「牧師」ではなく「牧者」となっています。「牧者和教師」とは、牧者(の役職)=教師のことであるという意味です。預言者のことも、「先知者」となっています。これは日本の聖書翻訳学者が無知であったために、おかしな造語を作ってしまったのだと思います。聖書のことばを造語を使って自分たちの都合の良いように改悪することは罪ですよ。日本の聖書翻訳学者らは罪を悔い改めて欲しいものです。これが元で日本の教会の悲劇になったのですからね。