藤原惟規の生涯 姉 紫式部のおかげで道長から出世の機会を与えられた弟【光る君へ】
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- Опубликовано: 4 окт 2024
- 藤原惟規は、幼少期は姉と比べられ父に嘆かれることもありましたが、式部が中宮彰子の女房になったことで、道長の引き立てを受けて出世するなど、姉のおかげで出世の糸口を掴んでいました。
ですが、天皇の勅使を務めた際に道長ら有力貴族の前で酔っ払うなど仕事上のミスが目立ち、愛されキャラではあるもののあまり優秀な人物ではなかったといえます。
それでも、歌人としては一流で、和歌を通じて多くの女性と交流を持ち、亡くなる瞬間まで和歌のことを考える風流な一面も持っていました。
今回は、どこか抜けており、紫式部の弟として華々しい活躍をすることはなかったものの、得意の和歌の才能を発揮しいきいきと平安の世を駆け抜けた藤原惟規の生涯について紹介します!
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参考文献
倉本一宏『紫式部と藤原道長 (講談社現代新書)』
amzn.to/4aDSlPR
服藤早苗『紫式部を創った王朝人たち――家族、主・同僚、ライバル』
amzn.to/4ehGQzW
増田繁夫『評伝紫式部: 世俗執着と出家願望』
amzn.to/45HpfOg
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大河ドラマ光る君へ公式サイト
www.nhk.jp/p/h...
【目次】
1:26 藤原惟規の出自 天才の姉と比べられる
5:40 蔵人就任後の惟規 姉のお陰で出世を果たす
10:46 惟規の最期 亡くなる直前まで風流に生きる
#光る君へ #藤原惟規 #まひろ #大河ドラマ
1000年前の家族の話がこうして伝わってると、しみじみしますね。😊
昔は病が簡単に人の命を吹き消してしまったんですね。…😢
漢籍・儀礼に疎いところがクローズアップされがちなんですが
和歌を嗜む風流な人だったんですね。
ドラマ前半ではおとぼけキャラだったのが、後半生は波乱の展開なので、惟規の出番が多くなりそうな予感
「光る君へ」の中でとても明るく、登場するととてもほっとする存在です。精神的に姉を支えたかわゆい下の子設定が好きです。
惟規見てると、漢詩は学問、和歌は芸術?なんて思っちゃいました。
在原業平も漢詩はイマイチ、和歌が巧みでしたね〜🥰
今から勉強するとどっちも似た様な位置。
藤原道綱と似たタイプなのかな?
子どものころ読んだ紫式部の伝記漫画で、彼が死んだときの紫式部の嘆きと、その彼女が亡くなった(これですべての子どもに先立たれた)時の父の嘆きがなんだかすごく悲しかったのを覚えてい😿紫式部の伝記は父の出家で終わってて。
玄孫が平清盛公の元で権大納言になった藤原邦綱でしたね
レキショック様
紫式部には弟がいたのは知っていましたが、こんな異端児のような人とは思いませんでした。
ふと思ったのですが、下級貴族が出世に苦しむ中平忠盛、清盛は出世していきました。改めて平氏の財力や取り入る能力は中々のものだと改めて感じました。
受領は財力のあるイメージなんですけどね。例えば源頼光ですね。道長の邸宅が火事で焼失した時、家具・調度品付の邸宅をプレゼントした話は有名です。
@@ノブトラ さん
受領は財力のある印象は理解しているのですが、平氏の場合、財力が図抜けている気がします。
他の貴族が資産1億としますと、平氏は100億で10億程度ならすぐに寄付出来る財力を持っていた気がします。
学者の父、優秀な姉という家庭環境では、そこそこ賢くてもあまり目立たないですね。できて当然!の風もあったことでしょう。そんな中、姉が中宮彰子に出仕した縁で蔵人に任命されての出世、ここで大いに活躍しなければの際に、酒の席での泥酔での失態、儀式のやり方の勘違い、さらに盗賊闖入時の不在はイタイですね。初めの2つは大目に見るとしても、最後は蔵人という職務に直結する不始末でポカでは済まされません。そんな彼も、和歌の才はずば抜けていて自らの歌集もあるとは、さすが家系的に和歌上手の一員です。それにしても、中将の君との和歌を無断で読んで批判したり、紫式部はちょっと性格悪いですね。こういう人、結構女性に多いタイプですが、”源氏物語”がなければ紫式部もただの口の悪いインテリ女性だったかもしれないと思うと、人間らしくて面白く感じられます。
結論 そんないい人たちじゃないのに いいように描こうとしているのがちょっとおかしい
今なら 37歳といえば 働き盛りでも当時は 越後に下校するというだけでも命がけだったんですね
現在の様に新幹線でひとっ飛びの世ではないですからね。
京都から越後までの道中には幾つも山越えがあり、中でも天下の険と謳われた親不知がありますから。
為時パパは悲しかったよね
婿取り婚のご時世のため、女の子は重要視されるけど、男の子もいなくてはいけないんですよね。少しでも、上級役職に就かないと、いざと言う時、外叔父として後見が心もとない。
惟規は、確かに姉と較べ、「惟規、そこはこの前、教えたろう❔さあ❗どう読むんだ❔」
「はい……、これは、その……ええと……。」
耳元でこっそりと、「惟規……こう読むのよ。」
「あ……そうか、そう読むのか」
「お前は、この漢文が読めるのか❔惟規に、教えてやるくらいだから、読めるんだろう❔さ、初めから読んでみなさい。」
「は……、はい。お父様」
(何と❗何ということだ。いつも念入りに教えている惟規がよく覚えずに、傍らで、黙ってそれを見ているだけの娘が、こんなにできるなんて……。ああ、なぜこの子は、女の子なんだ……。もし、男の子に生まれていたら……、学問をして、たいした出世ができるだろうに……)の、有名な逸話に出てきます。
また、中宮彰子が産まれたばかりの皇子と共に一条院で休んでいたところ。泥棒に入られる事件が起きます。
「早く蔵人をよびなさい。灯り🪔を❗」と姉の紫式部は命を出します。この時の蔵人が、弟の惟規で、せっかくの手柄をおジャンにしてもいます。
年とった父・為時が越後守になりました。老人の父を心配して、蔵人の任務を終えてから越後に赴くまでは、よかったのに、逆に自分が病にかかって死んでしまった、とも。
越前守になった時は、紫式部がお供してますし。筆頭中の筆頭、上級貴族より、かえって現代の感覚とほぼ同じ家族思い、身内を大切にする気持ちが強く感じるんです😊
個人的には、紫式部が末っ子だった説が好きです。
一つ目の理由は、父親から手ほどきを受けている兄の近くで、直接教えられていないのに漢詩を諳んじた妹という設定のほうが、より紫式部の才女の片鱗を感じられること。
もう一つは、母親に関する記述がないのは、末っ子だったからこそ母親の記憶がないのではないかということによります。
紫式部と為時はどちらが先に亡くなったか不明ですが(為時の出家の理由が紫式部の死によるものという説明もあるし)、娘(紫式部の姉)にも息子にも先立たれて、さらにもう一人の娘にも先立たれたとしたら、あまりにも気の毒ですね(他の女性との間の子どももいますが)。
実在の惟規もおとぼけキャラ
惟規は学者である為時と天才肌の紫式部に挟まれてよくグレずに長々と蔵人を務めたものだと思います。
性格的には楽天家だが真面目な方だったのではないか?と思う。
おとなしく真面目なんてできやしなかった〜🎵😅
光る君へは式部と道長の恋愛書く上では式部の方が姉の方が都合が良かったから姉にしているのでしょうね
惟規は才のある紫式部と
比較されて劣る用に言われ勝ち
ですが、歌は上手であった
ようですね。
目立つ失敗をしてしまう所も
あったようですが...😅
「お前が女だったら」というセリフって史実に基づいたものだったのか
結局のところ世襲とコネで出世、こういう日本文化が今のとんでもないトンチンカン世襲議員を産み続けてるんだなと改めてガッカリしました。
平安時代の話を聞いていて思うのは、上流階級の人間も容赦なく打ち倒す疫病の恐ろしさよ………
子供はいなかったのでしようか?
ちゃんといますよ~。
大河ドラマ「平清盛」に出てきた、平清盛の腹心である藤原邦綱がいます。その邦綱が、惟規の玄孫で、権大納言にまで昇進しています。
紫式部・惟規、父親の為時の家系は勧修寺流で、邦綱が権大納言になるまで、最高官職は中納言。小倉百人一首 二十七に、中納言兼輔が入っています。この方は、紫式部・惟規姉弟の曽祖父に当たります。