Tawaraishi Village - Investigate the ruins of a magnificent abandoned village deep in the mountains

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  • Опубликовано: 4 окт 2024

Комментарии • 218

  • @岡山政次
    @岡山政次 2 года назад +211

    懐かしき俵石 社員になって初めての勤務先が関西電力新宮営業所外線係。高田から那智山まで電柱がありました。高田と那智山に小水力の発電所があり6KVの線路が繋がっていました。当時台風とかの復旧線路としては重要な電柱でした。俵石に民家もありました。私の記憶では1軒でした。おばあさんが一人。郵便屋さんが通っていました。電話はなかったようです。私がおばあさんに聞いたのを覚えています。「もし、家の中の約定ヒューズが切れて停電したらどうすのですか」と、そしたら「郵便屋さんが来た時にハガキでお知らせします」とのことでした。悠長な話しですね。当時の道は今の映像を見るよりはるかに歩きやすかったです。1971年ころの話です。

    • @neu_historica
      @neu_historica  2 года назад +25

      貴重なお話ありがとうございます!
      70年代でもまだ居住があったのですね。
      おばあさんのお家は動画にも出てくるポストのあるお家でしょうか
      このお話を聞いた後ではまた見え方が変わってくるものですね。

    • @davidchu9179
      @davidchu9179 2 года назад +5

      很懷念當時的人情味相當濃厚

    • @user-rw5zd6cj4q
      @user-rw5zd6cj4q 2 года назад +8

      棚田があるので、大昔はこの斜面は明るい日差しがあったと思いますが、
      1971年頃のおばあちゃんがいた頃は、どうでしたか?
      すでに、このように暗く鬱蒼とした山になっていましたか?

    • @AiRobi
      @AiRobi Год назад +8

      関西電力さん有難うございました。現在の社員さんからは想像もつかないかもしれませんが、電気は本当に生活に寄り添ったエネルギーですね。今も山奥まで供給して下さり、有難うございます。

    • @奥田圭亮-k5h
      @奥田圭亮-k5h Год назад +8

      昭和46年には定住者が居たんですね。私も経験有るんですが滋賀県の廃村情報で何時何時定住者零ってなってますが私が行った時にはまだ定住されてたり廃校もその後も通学されてたりと意外と知らない史実って有るんですよね😃

  • @eikoara6708
    @eikoara6708 Год назад +36

    16:33~の物体は薪式湯沸し器(ボイラー)です。
    母方の実家で風呂の湯沸しに使われていたのを思い出します、懐かしい~

  • @もふさわ
    @もふさわ 2 года назад +37

    historicaさんの動画は単に廃村を探索するだけでなく、集落の歴史やそこに住んでらした方へのリスペクトが感じられるので大好きです。
    神社やお寺を見つけると必ずお参りされるのも素晴らしい心がけだと思います。

  • @田中博幸-r1d
    @田中博幸-r1d 2 года назад +32

    風呂釜ありましたね。焚口と水の入口、お湯の出口がありました。その前にディーゼルエンジンがありました。上部には油タンクと水タンク(冷却用)横には羽根車とプリーが付いていました。昭和30年代~40年代ぐらいのエンジンです。

    • @neu_historica
      @neu_historica  2 года назад +7

      コメントありがとうございます!
      謎が解けました!情報提供に感謝します。

  • @中中中中
    @中中中中 Год назад +10

    石垣ってそこに人がいたという証明だし、計算して石を積んでいったという職人の知恵だし。感動するんだよね。
    まさかその時代の職人も何百年たって、人を感動させる仕事になってるとは想像もしなかったでしょうね。
    石垣をたくさん見つけてくれてありがとう。
    私は歴女ですがどうも石垣押し💗だったのが最近わかりました。
    本当にすごいよね。

  • @雪の森
    @雪の森 2 года назад +34

    川沿いだから石垣がすっかり苔むしてすごくいい雰囲気ですね。
    朽ちてる雰囲気の割に石垣の状態が良いから本当に質のいい遺跡という感じ。

    • @neu_historica
      @neu_historica  2 года назад +2

      コメントありがとうございます!
      我々も実際に現地に行って驚きました。

  • @ゆうか-m2c
    @ゆうか-m2c Год назад +8

    おふたりで行動されていて、ちゃんと調べてから動画編集されているのは素晴らしいです。
    安心して歴史を見られます。
    ありがとう

  • @トドの祭り-u5n
    @トドの祭り-u5n 2 года назад +25

    関東に住む私にとって、新宮と聞くと海しか思い浮かばないけど
    こんなに凄い所が有るんですね。
    それもあの石垣には圧倒されますね。
    赤い郵便受けを見て、郵便配達の人は大変だったろうなあ。と思わずにはいられません。

    • @neu_historica
      @neu_historica  2 года назад +5

      コメントありがとうございます!
      集落の景色に昔の人の苦労が垣間見えますね。

  • @hope515
    @hope515 2 года назад +26

    まるでゲームのステージのようです。
    昭和初期に離村とありますが、その割にはTVや発動機があったりと昭和30-40年頃まで人がいそうな家財がありますね。

    • @neu_historica
      @neu_historica  2 года назад +3

      コメントありがとうございます!
      今回は郷土資料の記述をそのまま紹介しましたが、明らかにそのぐらいの時代まで人のいた形跡がありますよね。
      離村後も管理に訪れていた人が居たのかもしれませんね。

  • @sada2541
    @sada2541 2 года назад +7

    ありがとうございました。今回は良いものを見させていただきました。
    こんな山奥で7軒だけですか・・・子供もいたんでしょうね。ただ、大人になるともっと便利なところ、
    楽しいところに生活の場を移して、ここには年寄りだけが残る。その年よりも一人減り、二人減り、
    最後はおばあさんが一人残ったんですね。寂しいような気楽なような・・・
    人の営みやら一生やらを想像させてくれる貴重な跡ですね。

  • @眠れぬ猫
    @眠れぬ猫 2 года назад +11

    廃村などと言う言葉ではくくれない領域ですね
    果てしなく続く苔むした石垣は、既に遺跡と呼んでも過言では無いレベル
    この集落を築いた方々や、それを守りながら暮らしていた人々…そして暮らしぶり、今はもう確かめるすべも無ければ探すあても無いけれど、確かに存在したんですね
    記録や記憶から消えていく中で、今回ヒストリカさんが実際に足を運んで動画や写真に残してくれた事は、これからの未来でとても重要な物になる気がします
    実際、こんな場所の存在すら知らなかった私ですが震えるほどの感動を頂きました
    元盛松の時も、言葉に出来ないくらい感動しましたが、やはり広大で立派な石垣があった共通点がありますね
    本当に素敵な動画を見せてくれてありがとう‼️

    • @neu_historica
      @neu_historica  2 года назад

      コメントありがとうございます!
      今後も色んな場所をご紹介していきたいと思います。

  • @ノガガ
    @ノガガ 2 года назад +8

    最近こちらのチャンネルに辿り着きました!
    素晴らしい景色と、自然の中に自然に人が暮した足跡、魅入ってしまいました!少々物悲しさはありますが。私の父も小さな集落出身で幼い頃何度か夏休みには訪れましたが、今はもう台風などの影響で立ち退き、そこは人の立ち入れない場所になってしまいました。
    歴史をゆったり辿れる、素敵なチャンネルですね!ありがとうございます!
    御身体に気を付けて、活動されて下さい。これからも楽しみにしています!!

  • @Cat-hx6kk
    @Cat-hx6kk 2 года назад +19

    一緒に歩いているような感じで拝見出来たので楽しかったです。カメラがイイのか樹木と背景の凹凸感があり迫力を感じました。おかげで目から森林浴ができました😄
    集落というより遺跡というのがぴったりですね。俵石の大きさにもびっくりしました。日本ってこういう歴史があって廃れてしまった所が沢山あるんですね。これからも楽しみにしています。
    もっと登録者数が増えますように応援しています😄

    • @neu_historica
      @neu_historica  2 года назад +3

      コメントありがとうございます!
      多くの方にお届けできるよう頑張ります!

  • @四面楚歌-y1d
    @四面楚歌-y1d 2 года назад +11

    郵便ポストって郵便局の職員がこんな秘境の山奥まで配達していたのか?どうやってこんな細い山道を登って家の資材を運んで建てたのかとても興味があります。日本のポンペイかマチュピチュですね!このチャンネルで今までの中で一番規模が最大で歴史が古いですね!勿体ない歴史の遺跡が埋もれてしまって勿体ないですね!

    • @neu_historica
      @neu_historica  2 года назад

      コメントありがとうございます!
      そのようなことを考えだすと色々ロマンが広がりますね。

  • @niqoodon
    @niqoodon 2 года назад +9

    斜面を削って平地を作る際にゴロゴロと石が出てくる土地では、それを山側に積んでいって次の段の礎とします。
    丸い石の石垣に時々四角い石や平たい石が混じっているのは、運べない大きな石に木の楔を打ち込んで水で膨張させて割ったものかもしれません。

    • @neu_historica
      @neu_historica  2 года назад

      コメントありがとうございます!
      そのように石を加工していくのですね。
      勉強になります。

  • @V2inSV650X
    @V2inSV650X 2 года назад +17

    日本の原風景を目の当たりにしたようで感動しました。タモリさんをレギュラーに加えて地上波で放送してくれないかなー😊

    • @neu_historica
      @neu_historica  2 года назад +5

      コメントありがとうございます!
      タモリさんは呼べそうにありませんが、まだまだ色んな場所を紹介していきます!

  • @paxson5tom758
    @paxson5tom758 2 года назад +12

    石垣って年月たっても簡単に崩れないんですね。。。昔の職人凄い。。。

  • @eekitreatment
    @eekitreatment 2 года назад +5

    ロンドンから。16:00辺りに転がっていた金物の使い方、アレは下から火をくめて、その直ぐ上にあったのが鍋や釜を置く所で煙出しの部分が大きく穴開いてます。この装置は、片側、横に2つ穴が開いてますが、片方が水ので入り口で、多分村での唯一の共同風呂であった様で、その装置と見られます、ここには常に水が循環しており掛け湯、流し湯には湯船から汲み出して使い、基本には湯船だけの水を暖めるそうちです。この装置と良く似た物を東京の実家に使ってました。全部銅製でして、釜があってその部分に水を張り蛇口が付いた下から必要な湯を台所で、使用する物で私が小学校時代まで薪を組め、釜を置いて飯を炊き、同時に洗い物用のお湯とかお客様のお茶用の湯などに使っていました。空滝炊き厳禁、銅板のハンダが溶けて湯が漏れて来ます。転がっていた物は鉄製ですがそれでも空炊き厳禁。多分、大阪か堺の板金やさんに作ってもらった物でこの様に転がって居るのが可哀想に見えました。

  • @富士蘭たん
    @富士蘭たん Год назад +3

    信じられないです。!!!❤良い所見ましたね。感謝です

  • @YM-kq1nbm
    @YM-kq1nbm 2 года назад +18

    和歌山遠征お疲れ様でした 和歌山〜奈良の辺りも廃村や限界集落も多いですよね 不便な場所には年を取れば住めなくなるのも仕方がないとは言えあれだけの石垣と棚田を作って離村は寂しいですね オカヤスさんの念じ系カメラマンとして新たに進まれるよう応援してます

    • @neu_historica
      @neu_historica  2 года назад +3

      コメントありがとうございます!
      オカヤスにはもっとカメラの腕前を磨いてもらわねば…笑

  • @hemuhemuful
    @hemuhemuful 2 года назад +8

    壮大な規模でしたね。人力だけでと思うと果てしなさを感じました。本当に遺跡ですね。
    「遭難」と聞いてハハツと乾いた笑いのオカヤスさんに大物を感じました。

    • @neu_historica
      @neu_historica  2 года назад +2

      コメントありがとうございます!
      とは言え遭難などせぬよう十分注意して参ります…

  • @紅葉ba--bay6t
    @紅葉ba--bay6t 2 года назад +11

    historicaさんこんばんは。
    ほんと遺跡といってもいいくらいですね。
    石垣すごかったですね。川のせせらぎに癒されますね。
    子供のころ両親が山に下草を刈りに行くについていき
    こういう雰囲気のところで遊んでたこと思い出しました。

    • @neu_historica
      @neu_historica  2 года назад +2

      コメントありがとうございます!
      このスケールには驚きました。
      自然と調和した集落の姿が美しかったです。

  • @ちゃろ-h1u
    @ちゃろ-h1u 2 года назад +10

    俵石が御神体ならばその側に神社があった可能性がありますね!
    近年稀に見る優良チャンネルだと思います。

    • @neu_historica
      @neu_historica  2 года назад

      コメントありがとうございます!
      そうですね、もう少し注意深く探しておけばと少し後悔しております。

  • @kaneisohiro170
    @kaneisohiro170 2 года назад +6

    テレビ放送の本放送開始は1958年なので、少なくとも昭和30年代後半までは人が住んでいたという事になります。

  • @もくれん-v8w
    @もくれん-v8w 2 года назад +4

    凄いですね。
    素敵な動画配信をありがとうございます。

  • @山本勝海
    @山本勝海 2 года назад +3

    廃村探訪、よく拝見してますが久しぶりに鳥肌たつようなリポートでした。感謝です。がんば💪💪😊💓💓💓

    • @neu_historica
      @neu_historica  2 года назад

      コメントありがとうございます!
      今後も頑張ります!

  • @sayo6395
    @sayo6395 2 года назад +6

    はじめまして。
    父の実家がそこから本宮方面に向かって車でで少し行ったところです。(道の駅方面)
    子供の頃は夏になると自然プールに連れてってもらったりしてたので馴染みがある場所にこんな集落があったなんて知らなかったです。
    今度機会があれば父に聞いてみようと思います。

    • @neu_historica
      @neu_historica  2 года назад

      コメントありがとうございます!
      地元の方でしたか。確かに道中川遊びをしている人を何組か見かけました。

    • @sayo6395
      @sayo6395 2 года назад +3

      @@neu_historica あ、私は地元民ではないです!
      父の実家が和歌山なだけで私は生まれも育ちも兵庫県です笑
      最後に行ったのコロナ禍になるだいぶ前なので今はどうなってるのかは知らないんですが、熊野川にある道の駅でおばが地元の方とお店やってるのでまた行かれることがあれば休憩がてら寄ってめはり寿司でも食べてってください😊

  • @nabematic5943
    @nabematic5943 2 года назад +6

    苔生す石垣に大興奮でしたね。
    次の現場、楽しみにしています。

    • @neu_historica
      @neu_historica  2 года назад +1

      コメントありがとうございます!
      ついつい興奮し過ぎてしまいました…

  • @tora8643
    @tora8643 2 года назад +17

    テレビ、ディーゼルエンジンや風呂の焚口の残留物があるって事は離村したのが昭和30年代~40年辺りじゃないでしょうか?昭和初期と言う言い方だと戦前を意味しますから中期と言ったところでは無いでしょうか?

    • @neu_historica
      @neu_historica  2 года назад +3

      コメントありがとうございます!
      離村時期について今回は郷土資料の記述を紹介しておりますが、おっしゃる通り明らかにそのぐらいの時代まで人が居た形跡はありますよね。

  • @笠原葉子-x3j
    @笠原葉子-x3j 2 года назад +7

    海抜高度が高くなつたとき、林業の若者が活躍してまた復活するときがあるならば、先人の労力に感謝と融合があると思う。
    もののけ姫や、ナウシカのような時が来たら、あると思います。
    水清き場所に住みたいなあ💞

    • @neu_historica
      @neu_historica  2 года назад +2

      コメントありがとうございます!
      既に人が去った土地に再び未来の世代が移住する日も来るかもしれませんね。

  • @あいうえお-n2p5x
    @あいうえお-n2p5x 2 года назад +6

    素晴らしい石垣が現存する集落跡の動画ありがとうございました😊
    江戸時代の新田開発で開墾された土地なら、藩(紀州藩?)の施策として
    周辺住民総出で切り開いたのでは?🤔と思いました。
    現地に住む人だけではく、開墾に関係した周辺地域の住民も通いで耕作してたのでは?と思いました🤔
    ※そんな10数件の家族で、耕作・開墾出来るレベルに見えないです😅
    石垣の石は、川で船に乗せて(四国から?)運んだのでしょう。和歌山はそういう集落多いみたいです。

  • @前田智幸-o5q
    @前田智幸-o5q Год назад +2

    私は電気店に勤めていました。その経験でいいますと、テレビは昭和30年代後半の白黒TVですね。はずみ車のあった機械は昭和のはじめの発動機ですね。ここらは田んぼで、水をくみ上げるポンプの動力だったようですね。

  • @73-LIFE-
    @73-LIFE- 2 года назад +3

    どんな暮らしだったんだろう。。。  正にそこにロマンを感じますね。

    • @neu_historica
      @neu_historica  2 года назад

      コメントありがとうございます!
      本当にロマンを感じますね。

  • @葛西明-t8d
    @葛西明-t8d Год назад +2

    17分頃にあった金属物は風呂の釜です。2本出ている管で風呂桶につながり、お湯が循環します。

  • @camp1912
    @camp1912 2 года назад +11

    こんばんは、苔生した石垣は風情がありますね♪
    それにしてもこの規模の石垣は凄いですね、先人の努力が垣間見れますね。
    植林されてますが畑もかなり広大だったんでしょうね、昔の方の知恵と努力には感服します!(^^)!

  • @ビッグママ-g5e
    @ビッグママ-g5e 2 года назад +14

    初めまして…
    素敵なところですね!!
    その場所に行くまでが大変てすが…
    昔の人々の凄さも実感させられる景色でした。
    皆、山をおりて…こういう場所が忘れさられてしまうのは寂しいですが…生活を考えると仕方のない事なのかなと思いました。
    映像をみていると…とても癒やされますし…あたたかい気持ちになります。
    これからも頑張って下さい!楽しみにしています!!

    • @neu_historica
      @neu_historica  2 года назад +1

      コメントありがとうございます!
      今後も色んな場所を紹介していきます!

  • @user-rd4oo8rs8prkms
    @user-rd4oo8rs8prkms Год назад +3

    テレビは昭和40年代初期ころのもの、赤い郵便受けやポリタンクの残骸があるので「定住者がいなくなった」のは昭和40年代ですね。初期ではありません。

  • @nsk4776
    @nsk4776 2 года назад +9

    終盤におかやすさんの後方に人影がみえたような!

    • @neu_historica
      @neu_historica  2 года назад +3

      コメントありがとうございます!
      よくお気付きで!あれはたまたま通りがかった登山客です!

  • @富嶽-e8h
    @富嶽-e8h 2 года назад +4

    和歌山県の山奥の古くからの集落は、古より落武者の隠れ集落が廃村になっている地域が在ります。源平の戦、戦国時代の豊臣軍の紀州征伐等山深い地域には辛じて戦から生き延び逃げ延びた人々の子孫が住んでいた集落など。

  • @かむ-g3v
    @かむ-g3v 2 года назад +29

    瓶マニアじゃないでしょう((苦笑)。昔はリサイクル回収のルールもないので僻地の村であればあるほど燃やせない廃棄物が山のようになっています。廃村へ行き、古い瓶を掘り出す輩の動画もありますよ。近所に酒、醤油屋があれば空き瓶を持って行って中身だけ買う時代もありましたが、山深い土地に住むと一方通行的に空き瓶がたまってしまったのだと思います。粗大ごみや草ヒロなども、交通の便がよくない土地には多いでしょう。蛇足ですが「電柱」とおっしゃっていたのは建物の中(ハリ)の配線です。昔の室内の配線はあの「ガイシ」的な陶器が使われていました。動画を楽しませていただいていますが、若い世代の人には理解できないものも多いようでさびしさも感じます。でも立派な石垣や棚田の跡を「もったいない」と感じるのは一緒なので、ほっとしています。ありがとう。

    • @neu_historica
      @neu_historica  2 года назад +2

      コメントありがとうございます!
      貴重なお話しに感謝です。
      視聴者の方の知恵にはいつも助けられています。

  • @user-AhsoKatano
    @user-AhsoKatano 2 года назад +5

    杉と苔と石が幻想的。
    行って見てみたいですが行動力が無いのでお二人の動画で楽しませて頂きます。

    • @neu_historica
      @neu_historica  2 года назад

      コメントありがとうございます!
      今後も色んな場所を紹介します。

  • @山本勝海
    @山本勝海 2 года назад +9

    テレビの残骸なんかあったので、昭和初期全戸移住、というのは疑問を感じます。廃屋の毀損状況も百年以上経過してるとは思えないんですけど、、。

  • @hirohase4208
    @hirohase4208 2 года назад +3

    大量の瓶は土留めの跡かもしれませんね。昔は土の流れやすい断面に瓶を積んだものです。

  • @小林ジジェク
    @小林ジジェク Год назад +3

    1662年に新田開発が始められたという。
    ちなみに、松尾芭蕉は18歳。
    まだ、伊賀上野で暮らしている。
    芭蕉(1644年~1694年)。

    以下のわたしのコメントは、他の方(岡山さん)の貴重なコメント(1971年頃の情報)に気づかずに、書き連ねたものです。
    故郷の「村」のわが家に、はじめてテレビが「ついた」ころを思い出したので、つい、ながながと書いてしまったものです。

    テレビがあるということは、1960年以後まで、ひょっとしたら、1964年の東京オリンピックぐらいまでは、人が住んでいたということでしょうね。
    日本全国にようやくテレビが普及しだしたのは、1958年頃から1960年前後です。
    プロレスの力道山が活躍しだした頃ですね。

    赤い郵便受けも、かなり、新しい年代を推測されます。あのような「しゃれた」郵便受けは、はやくても、昭和40年代頃からでしょうね。

    したがって、この集落が廃村になったのは、60年安保の後の、池田内閣の高度経済成長期の後ではないでしょうか。
    日本全土の好景気の大波に乗って、一人、二人、一家族と、すこしずつ離村し始め、いつか集団で、平地への移住を決断したのではないか。

  • @Mars2Guin
    @Mars2Guin 2 года назад +5

    ここは他のyoutuberの動画で初めて見た時、苔むした緑の石垣が連なる斜面を見上げた映像が神秘的で感動した。
    確か一番上の方に小さな祠があって、そこに観音像が祀られていたと思う。

    • @neu_historica
      @neu_historica  2 года назад

      コメントありがとうございます!
      観音像は発見できず残念です。

  • @ひろウォーク
    @ひろウォーク 2 года назад +2

    お疲れ様です😀
    石垣で整うとは流石ですネ(笑)
    いつもワクワクして見させていただいてます❗️

    • @neu_historica
      @neu_historica  2 года назад +1

      コメントありがとうございます!
      石垣には不思議な魅力がありますね。

  • @信雄高山
    @信雄高山 2 года назад +2

    今回もなかなかの、しんどい取材でお疲れ様でした、その辺は熊ほんとうにでますよ、気おつけてください。まさに、感じとしては遺跡レベル、あそこまでなるのにたいへんな時間をようしたんでしょう、今あのままの姿で残っていたら、きっと写真マニアの格好の被写体になっていたんだろうな、でもテレビなんかが、もし捨てられたものじゃなければ30年代までは、住んでいらっしゃたんでしょうね、今回もだけど、お二人のおかげで、幼い頃住んでいた、それはいま考えても、とても不便なところではあったけれど、なんだかとってもあたたかでやさしさに守られていたように、そんな記憶を思い起こさせてもらってます、いつもありがたく観させてもらってます。感謝。
    取材には、ほんとうに最善の注意を、慣れは怖いですから、そんなことはないと思いますが、とにかく、ご自愛なさってください。応援しています。

    • @neu_historica
      @neu_historica  2 года назад

      コメントありがとうございます!
      今後も気を引き締めて取材に臨みたいと思います。

  • @忠佐藤-s2j
    @忠佐藤-s2j 2 года назад +2

    家屋の中の配線ですね。昔は今のようなVAという電線がなかったのでプラス、マイナスの2本の電線をひいていました。今の2本が1本になった電線が出てきたので1本になりましたし天井を張るようになったので電線は見えなくなりました。もう4,50年前の時代ですね。

  • @ココペリ118
    @ココペリ118 2 года назад +5

    とても良い場所ですね。平地が無くて斜面を平らにしてるので、土砂が流れて行かないように石垣で固めてたんでしょうね。それだけの規模の石垣を作るには20軒どころじゃなく、もっと多くの人々が生活していたんでしょうね。
    他の人も指摘していましたが、テレビは1960年代のものでしょうね。1969年に東京オリンピックがあって、白黒テレビが普及していったので、その頃のものだと思います。したがって昭和初期ではなく、昭和の中頃までは人が住んでいたのかも。他の廃村集落と同じで、昭和初期に出ていった住人が、しばらくは住人が様子を見に帰ってきていて、その時に捨てたのかも知れませんが。

    • @neu_historica
      @neu_historica  2 года назад

      コメントありがとうございます!
      やはりその辺りまで人はいた可能性が高いですよね。

  • @enas6836
    @enas6836 2 года назад +9

    手元に1996年の道路地図があるんですが、
    それにはまだ俵石の地名と高田から続く車道が書かれていました。
    なので昭和末期くらいまでは出作り集落として残っていたかもしれませんね。

    • @neu_historica
      @neu_historica  2 года назад +1

      コメントありがとうございます!
      情報提供に感謝します。

  • @深山雨鱒
    @深山雨鱒 10 месяцев назад +1

    植林がなされていて、ちゃんと枝打ちもされている。 それほど荒れてはいませんね。

  • @ある-m1m
    @ある-m1m 2 года назад +2

    おはようございます。
    初和歌山探索、初泊まりがけ取材ですねー。
    俵石集落、中々険しい山道でしたね。
    広範囲の石垣やシシ垣や石段、その昔開拓に入られた方々の何代にもわたる営みの跡が垣間見られますね。
    地名の元になった巨石が比較のオカヤスさんと比べても、桁違いに大きくて。神格化されそうに偉大な大きさ。
    廃墟にあった電柱らしきもの、どなたかも言ってらしたけど、家の中の電気配線ですね。
    現在の家だと配線は壁の中や天井裏に伝わせるけど、昔の家は田の字型で壁が少ない構造でしたから、柱や梁に直に配線したのでしょうね。拙宅の母家も昭和30年代築ですが、碍子(ガイシ)こそ使ってないものの、柱や長押に配線が伝ってます。
    中々のハードな道行にチャレンジしたお2人。これからもご安全に。

    • @neu_historica
      @neu_historica  2 года назад +1

      いつもありがとうございます!
      我々が知らないことをいつも教えて頂き感謝しております。
      今後も和歌山は色々見て回りたいと思います。

  • @ササカカオル子
    @ササカカオル子 2 года назад +13

    往時の集落を想像すると山全体が石垣に覆われた田畑なんでしょうか。1600年代から少しずつ少しずつ苦労して石を積み上げるなんて気が遠くなります。昔の人は短い人生を脈々と次に繋いで来たんですね。石垣見えたとたんに饒舌に元気になる声を聞いて楽しかったです、お疲れさまでした(^-^ゞ

    • @neu_historica
      @neu_historica  2 года назад +2

      コメントありがとうございます!
      詰みあがった石の1つ1つに先人の努力が垣間見えますね。

  • @gingerman-nq1vt
    @gingerman-nq1vt 2 года назад +8

    やはり林業が主な収入源だった?逆に言うと林業さえ成り立っていれば、まだこの集落は続いていた可能性があるとか?
    川はかなり綺麗だけど、食用の魚は捕れるのかな?・・・とか、拝見しながら独り言連発しましたw
    とにかく今回くらい「凄い!」を連発した回はありません。とても楽しめました。ありがとうございます。
    お疲れ様でした。
    これからも期待してます!

    • @neu_historica
      @neu_historica  2 года назад +1

      コメントありがとうございます!
      今後も色んな場所を発掘していきたいと思います。

  • @kumosukeponsuke
    @kumosukeponsuke Год назад +2

    これだけの石垣を作れるってことは、集落としてそれなりの収入があったんだろうなと思ってしまいます。周囲に石は無いようだし、どこからか持ってきた、それを加工して積み上げた、、たとえ、集落の人がやったとしても、相当の時間と労力、そして賃金がかかりますよね。。
    栄枯盛衰とはいえ、全盛期の写真や映像が見てみたいですね。

  • @相澤コーヘー
    @相澤コーヘー Год назад +2

    タイムマシンでどういう生活してたか見たいですね。

  • @Shibainuryu333
    @Shibainuryu333 2 года назад +7

    お土産に新宮市の香梅堂の鈴焼きはマジで美味しいですよ

    • @neu_historica
      @neu_historica  2 года назад

      コメントありがとうございます!
      新宮市はまた訪れる予定なので試してみます!

  • @れば-z2c
    @れば-z2c 2 года назад +2

    残業祭りで荒んだ心をここで癒してる。
    新宮って割と栄えてるように見えるけど、山行けばこういうところあるんだなぁ・・・

    • @neu_historica
      @neu_historica  2 года назад +1

      コメントありがとうございます!
      今後も癒しとなれるよう頑張ります!

  • @TheBikkuri
    @TheBikkuri Год назад +1

    俵石って烏帽子山から下りてきて里道とであう場所か。小学校5年の時に那智の滝、二の滝三の滝を経て歩いたコース。高田発のバスが4月から数分速くなっていて2分ほどの差で乗り遅れた。国道もバス停に止まらない急行バスばかりで新宮まで歩いたぞ。スナックでおにぎり作ってもらって「はやたま」の前、「南紀」の名称が付く前の紀勢本線夜行で帰ってきた。51年も前の話になってしまった。当時もリボンだけが目印だった。グーグルで確認したら高田の集落はいろいろ賑やかになってますね。

  • @TSX1717
    @TSX1717 2 года назад +2

    此の残留物の品物は多分ですが当時としてはハイテクな風呂釜だと思います。大きな穴から蒔を入れ横の穴に煙突を差し込むそして
    横にある二本のパイプは浴槽内のお湯を自然循環(下から低温度のお湯が熱く成って浴槽の上部分から浴槽内に入る現代の追い焚きシステムの原理です)

  • @超人-u4t
    @超人-u4t Год назад +2

    最近の流行りでいうタルタリア時代の遺物を活用して住み続けていたのかな
    この石垣群は杉を植える前から存在してそうだし、覆い隠すように杉林を作ったという印象。
    今後重要な資料にもなりうる貴重な集落かもしれない

  • @みきはな
    @みきはな 2 года назад +1

    自給自足村や避難村には最適。

  • @onibi1966
    @onibi1966 2 года назад +4

    棚田を沢山作って、離村する時に後世への引継ぎ財産として、棚田に杉を植えたんですね。
    下草が生えてない様子を見ると、適切な枝打ちや間伐などの手入れもされていない様子。複雑な気持ちになりました。

    • @neu_historica
      @neu_historica  2 года назад

      コメントありがとうございます!
      このような場所が朽ちていくのは悲しくもありますね。

  • @norihoshiemon
    @norihoshiemon 2 года назад +2

    村跡を覆い尽くしている樹木の枝打ちされているので、植林地になったんでしょうね。
    ずいぶん前から国産材は採算が合わないので伐採されることもなく、今は治山に役立ってますね。
    苔むした石垣が連なる風景は侘しい感じですが、これも時代というものなのでしょう。

  • @Guardian016
    @Guardian016 Год назад +3

    石垣だけだと海外の古代遺跡にも見えますね。
    山道に小さな石を積んでいるのはケルンという道標かもしれません。

  • @ありんこ-n7t
    @ありんこ-n7t 2 года назад +6

    初コメ失礼します🙇‍♀
    私も石垣マニアの端くれにいる者です。笑
    お二人の感性や興味の目線が、私が気になるところと同じなので、とても嬉し楽しいチャンネルに出会えました。
    城跡レベルの石垣がある廃村って本当に素晴らしい遺構ですね✨

    • @neu_historica
      @neu_historica  2 года назад

      僕もまだまだヒヨッコですので今後も色んな石垣を見て勉強したいと思います笑

  • @danielagobbo2849
    @danielagobbo2849 2 года назад +6

    Hi, I look from Italy. Can you tell me what kind of trees is the forest ?
    They are magnificent and let in a lot of light. Thanks and good job
    Stay safe 👍

    • @雪の森
      @雪の森 2 года назад +4

      That's Japanese cedar tree. It grows straight and splits vertically, making it easy to process into boards, etc. It has high commercial value, so it was cultivated in large numbers in Japan in the past.

    • @neu_historica
      @neu_historica  2 года назад

      Thanks for the comment!
      Most of the trees are cedar.
      The history of Italy is very interesting and I love this country.
      I definitely hope to go there someday.

    • @danielagobbo2849
      @danielagobbo2849 2 года назад

      @@雪の森 thank you very very much 😊👍🙏🏻

  • @sada2541
    @sada2541 2 года назад +2

    TV新しいよね。あの型のTVは昭和40年代だよね。若い人にはわからないけれども
    TVが出だしたのは昭和30年代中頃でもっと小さくて丸っこかったと思います。
    それから角ばってきたかな。

  • @おやじひー
    @おやじひー Год назад +1

    山間の廃集落の動画よく見るが、歴史の情報はありがたいね😄ギリ、明治辺りまで繁栄してたんかな?確かに良質なコメがとれたかも😢どんな廃墟もそうだけど、生きてた頃の画がみたいよね。

  • @やじを-n5c
    @やじを-n5c 2 года назад +7

    石垣を積んであるところは、もとは棚田です。杉を植えるのに石垣を積んで平らな場所は作らないのです。我が家の周りの杉林も、もとは棚田でした。

  • @原吉弘-h6h
    @原吉弘-h6h Год назад +2

    テレビ放送が始まったのが1953年だよ!

  • @砂川芳江
    @砂川芳江 2 года назад +2

    いつも、軽く描写されて?いましたが、今回、住ンでいた、人の、思いを馳せて、よかった、郵便配達の、ご苦労も、あめ、かぜ、ゆきも、にほんじゅうが、まずしい、じだいが、ありました。

  • @toyoe4045
    @toyoe4045 Год назад +2

    実家は石垣のうえに建ってると これを見て初めて実感しました。
    もうすぐ廃村になるかも? の状態らしいからあの地域はここまででは無いけれど
    石垣は残るんでしょうか?

  • @田村秋生
    @田村秋生 2 года назад +1

    僕にはオドロキしかありません。山奥で石垣の小さな集落、今の”自然に”埋もれてしまった20軒ほど?暮らしてた!とは、、、然も電気も通って「道も今よりはるかに歩きやすかった」とはいえ、(残念ながら)僕の想像は超えています。”1971年頃”、、、東京近辺しか知らない(住んだことない)僕は或る大学前でシャンソン喫茶を開店して学生たちと青春を楽しんでた50年ほど前のことです。historicaさん、ともかく探索にはお気を付けて下さい。

  • @aon5581
    @aon5581 2 месяца назад

    水貯めるやつじゃなくて、餅つきの石臼だと、実家で餅つきしてました❤

  • @nagappp
    @nagappp 2 года назад +5

    今回も素晴らしい。
    ところどころで木に赤や青のテープが巻いてありますが、ひょっとしていまだに林業の方が入ってきてるのかな…?

    • @neu_historica
      @neu_historica  2 года назад

      コメントありがとうございます!
      道もそこまで荒れてなかったのでその可能性は高いですね。

  • @チーくん-m2r
    @チーくん-m2r 2 года назад +11

    みんなワクワクして廃村見学を楽しんでいると思います(私もそうですw)
    しかしマップ上これだけ不便な土地に住まざるを得ない事情が当時の住人達にあったのではないか?
    と勘ぐってしまうのは私だけでしょうか(>_

  • @kn8590
    @kn8590 Год назад +2

    TVの残骸ですがTVの初期の物ではなく、かなり普及した段階のモデルと思います。

  • @noia1202
    @noia1202 2 года назад +1

    貴重な資料映像になりますね
    人間の力って本当に凄いなと思います
    動画内のナニコレはお湯を沸かすやつじゃないかな?と
    でも小さいか
    風呂のお湯沸かすやつに五右衛門のような直接沸かすやつから今のような循環までは行かないけど熱をパイプを伝わせて間接的に暖めるものあったので
    俺の家は幼少期それでした
    火をくべる所があってそれにパイプが繋がっていてそのパイプに風呂の水が入っていて熱の滞留で暖まる
    ただ暮らすだけでなく
    後世まで残すという気持ちがある開拓ですね

  • @user-ew9ev3oj1t
    @user-ew9ev3oj1t 2 года назад +2

    Oお疲れ様です♪

  • @bronbron5994
    @bronbron5994 2 года назад +5

    凄いのは、石垣の石を何処から持ってきたのか、もしかしら、石垣の石を見てると、鉱山で見られるずり石にも
    見える、石垣の大きさや、石のカットの仕方を見ると、かなりレベルの高い技術者がいたと推測できます。
    もう少し、ここの歴史を知りたいですね。。。。。。。。。。。。

  • @橋本博之-k6i
    @橋本博之-k6i Год назад +1

    もし、杉の植林が無く道が整備されたら、世界遺産レベルです。

  • @UMA0986
    @UMA0986 2 года назад +5

    ここの杉の木、間伐しないとヤバいなー

  • @user-zo2xx8yw7y
    @user-zo2xx8yw7y 2 года назад +4

    楽しく拝見させていただきました。沢の水の豊富さにその当時に住まれていた先人の方々の生活の様子を妄想してしまいますね。野菜を洗ったり、洗濯も沢でしていたのかな(洗濯板とかで)。石垣はホントにスケールの凄さが映像からも伝わってきました。アンドウさんにお願いがあります。番外編で石垣特集動画お願いしたいです❤

    • @neu_historica
      @neu_historica  2 года назад +2

      コメントありがとうございます!
      結構投稿本数も増えてきたのでそういう特集も面白そうですね!

  • @buntanoie
    @buntanoie 2 года назад +4

    テレビの放送開始が昭和28年ですからその後でしょうね、白黒テレビでしょうから東京オリンピック前か?。
    それなりの財力はあったのでしょう、灯油発動機(レトロエンジンのマニアが居るらしい)やバランス式風呂釜があると言う事はかなりの収入が有ったのでは?と思います。
    この地域は林業が今でも盛んなはず、間伐が進んで居ないのはまだ樹が成長していないのではないかな?まだ20年程度の樹々だと思います、としたら結構林業の方々が山に入っていると思います、綺麗に枝打ちされているように見えますね。
    ヤマビルと滑落には気を付けて取材し続けてくださいね。

  • @adj1jgp2mda3ajmt
    @adj1jgp2mda3ajmt 2 года назад +8

    初コメです!あっという間に登録者数2万いきそうですね。見やすい動画ばかりなので10万近く登録者数いるのかと思ってました😂
    お二人の言葉は東海エリアのイントネーション?なので色んな地域を感じています😏
    遠方の探索おつかれ様でした。今後もケガと遭難に気をつけて頑張ってください🙌

    • @neu_historica
      @neu_historica  2 года назад +2

      コメントありがとうございます!
      開き直って方言丸出しですみません笑
      温かいお言葉励みになります。

  • @ペコちゃん1223
    @ペコちゃん1223 2 года назад +2

    灯油で沸かす!お風呂の釜じゃないのかな🤔私の小さい頃 有ったよ。雨降りは、灯油 晴れは、薪で沸かす。ステンレスと、タイルのお風呂…その昔は、五右衛門風呂でした。すのこを踏んで、はいったものよ。👵の思い出…

  • @ver.147
    @ver.147 2 года назад +2

    その土地の性質、特徴、地勢や地形、そんなものが地名になります。耕地家屋など峻別するため、細かく分かれていますが、集落単位などになると、その範囲内での中心地や一番特徴が出ている知名を集落名に定めたりするのが通例かと思います。お節介ながら、柳田国男の「地名の研究」を読み込めば、今後さらに土地の持ち味を拾えるのではと思います。
    巨石、奇岩信仰というものがありますから、あの大岩を命名由来との考察に私も一票投じたいと思います。

    • @neu_historica
      @neu_historica  2 года назад

      コメントありがとうございます!
      ご紹介頂いた書籍さっそく読んでみます。

  • @S-HappyField
    @S-HappyField 2 года назад +3

    昭和初期に離村のはずが、TVがあって、建物跡も昭和40年代頃の雰囲気なので、離村後も結構な人が居たのではないでしょうか。

    • @neu_historica
      @neu_historica  2 года назад +2

      コメントありがとうございます!
      離村後も管理に訪れる方は多いのでその可能性が高いですね。

  • @るみかるみか-p6j
    @るみかるみか-p6j 2 года назад +2

    環境は凄くいいなあ、やっぱり綺麗な水があるところに集落ができるのかしら。
    せめて初期頃に原付か自動車一台分くらいでもいいから通れる道が整備されてれば未来は変わったかもしれないですね。
    それでもまあ寂れてしまいそうですが…昭和初期なんて車持てる人間は限られてますもんね。

  • @GoooNakayama
    @GoooNakayama 2 года назад +1

    こういう山奥の石垣って、雨対策なのかもという気がする。
    土そのものに湿気が多いし、ちょっとした雨で斜面が一面川になって山崩れが起きやすかったんじゃないだろうか。
    植林で地場を固め、石垣を巡らせて水の流れをコントロールし、かつ草木が好き勝手に生え散らかすのを防いでたんではないか。
    瓶ももしかしたら、土に縦に埋めて、雨で流れるのを防ぐのにとってあったとか?階段を作るのにも有効ですよね。

  • @クラタタカヒロ
    @クラタタカヒロ 2 года назад +3

    杉が最近植えられたものに見えるから林業従事者が植えたんじゃないかな?

  • @chanjin9474
    @chanjin9474 2 года назад +1

    廃屋、廃村は哀愁が漂い、懐かしく見ております。ただ屋敷跡で時折見つける地面の窪み(穴)は昔のポットントイレの後なので要注意ですよ!!

  • @角のうどん屋
    @角のうどん屋 2 года назад +1

    陸船と呼ばれる牛の背に乗せ運ぶ、塩や生活物資が此処の集落生活を支える。
    今では忘れられた此の様な場所から、生木を焼いた灰が大きな収益源。
    案外に豊な暮らしをしていた。

  • @michii9604
    @michii9604 2 года назад +2

    逆にこういうところどんどん再生していったら面白そう✨
    田舎暮らし好きな人たちもいますし。下界離れたい人たちからしたら宝の山でしかないよね✨

  • @tk4834
    @tk4834 2 года назад +3

    テレビがある時点で、昭和初期に全戸が移住とは思えないですが…

  • @waterclear6529
    @waterclear6529 2 года назад +2

    凄いですね。遺跡みたいです。素晴らしい。行ってみたい。テレビは昭和30年代以降でないと個人所有はしないと思います。

  • @ajadrew
    @ajadrew 2 года назад +16

    I wonder whether that large rock at 9:32 was part of a landslide? Facinating to wonder how it got there & how long ago!

    • @neu_historica
      @neu_historica  2 года назад +5

      Thanks for your comment!
      Japan is an earthquake-prone country, so perhaps that's why they came to their current location.
      In any case, it is interesting.

  • @MachizohJP
    @MachizohJP 2 года назад +5

    テレビがあるという事は1950年代から1960年代まで人が居たと思われます。特に地方まで電波が届いたのはかなり遅い筈ですので離村は昭和30年代ではないでしょうか。

    • @neu_historica
      @neu_historica  2 года назад

      コメントありがとうございます!
      離村時期については郷土資料などの記載と現場証拠に確かに矛盾があり悩んだのですが、確かにそうですよね・・・
      明らかに電気の通った生活をしている痕跡があるので、しばらくは定住せずに通っておられた関係者が居たのかもしれません。

  • @airboos
    @airboos 2 года назад +1

    だいぶ以前に枝打ちはしてありそうですね、密すぎるので間伐必要です。