[ 姫 伝 説 ] 中之坊・西南院・奥院 當麻寺 Taima dera Temple in Nara, Japan

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  • Опубликовано: 18 окт 2024
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    近鉄南大阪線の 阿部野橋駅(天王寺) から 当麻寺駅 へ約40分。
    駅近くにある和菓子屋さんの角を西に折れて仁王門までほぼ一直線の道を徒歩15分。
    古代の豪族 當麻氏の本拠地にある當麻寺を訪問。
    曼荼羅がご本尊で、1年ごとに宗派が入れ替わる珍しいお寺です。
    以前訪問した際は、万葉の森登山口 から二上山を山歩したついでの訪問で、
    奥院の本堂前でみごとな桜吹雪が舞ったのが、記憶にあたらしい。
    仁王門をくぐると、がらんとした空間の向こうの方に梵鐘がぽつんとたっていてその奥に二上山の頂きがみえる。
    撮影当日は来迎橋を本堂前に設営するというタイミングで工事車両などが数台あったため
    浄土宗エリアの奥院を撮影させていただき、後日あらためて真言宗エリアを再訪問。
    桜はすでにだいぶ散っていましたが、菜の花に れんげ草、飛び交うベニシジミ、春霞の山並み、
    春のうららかな風景がありました。
    Google Map(航空写真)で當麻寺付近を眺めていると、
    二上山のすぐ北にある銀峰の中腹あたりから屯鶴峯にかけて大規模に採掘されていてとてもおどろいた。
    屯鶴峯を起点としたダイトレコースも消滅?
    採掘後はメガソーラー? ゴルフ場? ペンキで緑色に塗る? 
    地元や行政はよく許可をしたものです。
    採掘された山はもう元には戻りません。
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    當麻寺の歴史 変遷を生き抜いてきた奇跡の寺 裏紫都子
    前身寺・萬法蔵院の創建
    當麻寺は謎の多い寺で、鎌倉時代まで正史に記録がない。...
    ...以上のように各史料は、まず當麻寺の前身寺院である萬法蔵院が建てられ、それを天武天皇の時代に現在地に移したことを伝えている。
    この萬法蔵院創建より数十年の後、壬申の乱後の、白鳳九年(681)、壬申の乱の功臣、當麻真人国見が瑞夢を見て、役行者ゆかりの現在地に寺を移した。
    當麻の地は、役行者練行地、しかも最初の修行地とされる。
    聖水の山・天の二上
    二上山は聖水の山であり、『延喜式』「中臣壽詞」にいう「天の八井」の恵みをもたらす聖山を 「天の二上」、聖水が田畑を潤す村々を「岳郷」と呼んだ。
    霊石「影向石」と龍神社こそ、当地古代信仰の原点かと思われる。...
    白鳳・天平期の當麻寺
    萬法蔵完移転後の寺は正しくは禅林寺と号するのであるが、天皇家親族「真人」たる當麻氏の氏寺として、氏の名を取り當麻寺と呼ばれ現在に至る。...
    當麻曼荼羅に係わる中将姫伝説は鎌倉の諸史料でも触れられているとおり、当時既に有名だったようだ。 ...
    中将姫の原像は誰か。もっとも可能性が高い人物とされるのは、藤原京家の藤原麻呂と當麻氏の女性の間の娘、藤原百能(光明皇后姪)である。...
    神護景雲二年から宝亀九年 (768〜778)の間に、百能は興福寺に縦五尺、横四尺の縫弥陀浄土変を奉納した記録がある。
    奈良時代は天平文化華やかな一面、血で血を洗う政争の時代だった。
    天平宝字八年(764)、飛ぶ鳥落とす勢いだった南家の藤原仲麻呂(恵美押勝)が近江(滋賀県)高島に一族もろとも滅ぶ悲劇も起こった。
    貴婦人が寺に繍仏・織仏を施入する当時の慣わしによって、 當麻氏の血を引く藤原の高貴の姫が、無残な死を遂げた一族の菩提を弔うため、
    豪華な曼荼羅を當麻寺に奉納したのなら、大いに納得できる。
    平安期の展開 當麻寺の密教化
    寺の表鬼門には薬師堂、裏鬼門の守りには西南院が建てられた。
    ...それまでの當麻寺は、南都六宗の一つの三論宗であったというが、この時中之坊實辨法印が空海の弟子となっており、一山が真言密教化していくのである。
    ...密教化して発展した當麻寺にとって大師堂は奥之院と呼ぶべきものであろうが、浄土宗塔頭の往生院が奥院と称したことによってこの呼称は用いられていないようである。
    やがて大和一円が興福寺勢力下に入ると、當麻寺も官寺・興福寺の支配を受け、それなりの安定を見た。
    ...曼荼羅堂はいつしか本堂と呼ばれ、當麻寺は南面する古代寺院から現在のような東面の寺となった。
    治承四年(1180)、平 重衡の南都攻めで平家の別働隊が興福寺の末寺であった當麻寺に攻め込んだ。奈良の大仏を焼いたこの兵乱で、當麻寺の金堂が大破、講堂は焼失した。
    中世・曼荼羅信仰の拡がり
    鎌倉時代初期、法然の弟子、浄土宗西山派の証空上人が當麻曼荼羅を再発見することにより、曼荼羅信仰は飛躍的拡大を遂げた。...
    曼荼羅の再発見以後、浄土信仰の民衆への爆発的な広がりとともに、...
    南北朝の混乱が続く室町時代初期、応安三年(1370)知恩院派が當麻寺に二百名もの僧を送り込み、曼荼羅堂裏の古墳地帯、広大な傾斜地に往生院を建てた。
    現在代表的な浄土宗塔頭となった奥院の前身である。奥院とは「知恩院の奥之院」という意味で、以後時流に乗った浄土系の子院が数を増す。
    當麻寺が真言・浄土二宗の混在となったのはこれ以後のことである。 能『當麻』『雲雀山』が世阿弥によって劇化され、中将姫伝説はさらに文芸的彩りを増した。
    近世から近代、そして現在へ
    織豊政権期、文禄三年(1594)、豊臣秀吉は吉野への途次、當麻寺に宿泊し三百石の寺領を安堵した。
    江戸時代に入ると後水尾天皇の皇子、後西天皇行幸に際し、片桐石州が現在国史跡に指定されている中之坊香藕園と、重要文化財の書院・茶室を整備した。
    多くの文人墨客が杖を引く中で、芭蕉も當麻寺に参詣して句を残している。
    また江戸時代の事項として、役行者ゆかりの陀羅尼助の商標をめぐり大峰山と當麻寺が本家争いをし、
    大岡忠相が中之坊は「陀羅尼助」、大峰は「陀羅助」と称せよと「大岡裁き」をした話が有名である。
    ...一豪族の私寺でありながら、白鳳の貴重なみ仏たち、堂塔を守り抜いた當麻寺。
    平安期には密教と浄土信仰の両方の時流に乗ることで栄え、南都焼き討ちによる危機は源頼朝らの浄土信仰によって乗り越えた。
    南北朝の動乱期以降は、浄土宗教団を受け入れることによって、さらに発展することに成功した。
    私寺であるが故に時流をうまく見極め、たくましく生き延びてこられたのだともいえよう。 ...
    さまざまな歴史的遺物と文化を伝える貴重な遺跡であると同時に、今もその鼓動が聞こえる生きた仏教寺院。
    當麻寺はまさに奇跡の寺である。
    著者:松村實昭・さだまさし 『 古寺巡礼 奈良7 當麻寺 』 淡交社
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    ― map ―
    ◆當麻寺:www.google.com...
    ― website ―
    ◆當麻寺 中之坊と伽藍堂塔:www.taimadera....
    ◆當麻寺 西南院:taimadera-sain...
    ◆知恩院 寺院 當麻寺奥院:www.taimadera....

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