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奈良が好きで京都から奈良に越してきました。宮司の番組に出会えて奈良を何十倍も楽しめて有り難いです😊
嬉しいコメントありがとうございます^^今後ともどうぞ御贔屓に~♡
とても分かりやすく楽しみながら勉強になりました😊
ありがとうございます。またよろしくお願いいたします✨
宮司様。色々と貴重なお話を有り難うございます。
こちらこそご覧いただきありがとうございます^^
ありがとございます🎉
丁寧にお話しくださりありがとうございます 後編が楽しみです🙏
ありがとうございます!後編ですが、音声を調整して数日内にはアップしたいと思っています。またよろしくお願いいたします。
前編を観させて頂きました。葛木御歳神社には興味があったので、あ楽しくあっと言う間の時間でした。近い内にお伺い出来る様にします✨💞☺️
嬉しいコメント、ありがとうございます!ご参拝お待ちしていますね❣
密かに長髄彦を祀っている神社のことなど新鮮な話が勉強になりました!
ありがとうございます!氏子さんたち、とても誇りに思われているそうです^^
視聴させていただきました。
沖縄では天孫子は2系統あったと伝承があります。辺戸天孫子(日本系)免登武(ミントン)天孫子(東南アジア系)どちらも東の海の底のニライカナイから来たと伝わっています。今後の展開が楽しみです。ムービーを通して学ばせて頂けたらと思います。いつかはもう少し理解が深まると良いですね。
沖縄では二系統!!それはとても興味深いです!今後ともよろしくお願いいたします。
謎の多い日本の始まりについて、私は全くのにわかファンなのですが、今回のお話しとても勉強になりました。ところで、宮司様は阿波説については、どうお考えなのでしょうか?
ご覧頂きありがとうございます❗️阿波説も結構流行ってますよね。あまり詳しくないです。ただ、何といっても、イザナギ命イザナミ命の降り立った、おのころ島からも近いですから、何かしら古い由緒があると思っています。
@@mitoshijinja阿波の国は国譲りと天孫降臨の地ですよ。まず、天孫降臨は竺紫(つくし)は九州ではありません。筑紫(ちくし)なら九州ですが。日向はひむかです。宮崎のひゅうがではありません。筑紫の日向ではなくて神社祝詞には竺紫の日向と記載してます。竺紫の日向の高千穂神社は阿波にありニニギノミコトは阿波の伊頭からかき分けてかき分けて高千穂におりてます。(神社祝詞に伊頭を千分けて千分けて高千穂と記載されてます)また、いわれ彦が15歳まで住んでいたのは阿波の佐野神社です。神武東遷は阿波から鳴門で道案内の珍彦と出会い珍彦と一緒に難波津と白方津(東大阪市日下)に上陸してます。阿波には神武天皇像と神武天皇即位地があります。
日本の古代史は、初代・神武(実際は海村雲大王)の年代を初め、奈良時代の権力者の都合により、神話・説話・例話物語にされました。真実の歴史とは大きく異なるが、日本の通説と今もなっていることは見直す時期に来ている。
ナガツネヒコさんは神武の矢など向けてなくて、自分は自決し死にますね。そうして神武に奈良を譲りましたが地元の人はナガツネヒコ慕い名を伏して神社ありますね。宮司さん着任しても直ぐ辞められるので調べた新しい宮司さん調べたら、そうした背景ありました。渡来の人々を天孫降臨続に古事記、日本書紀にして物語,小説ですね、作り男性神を天照さまを女性神に変化する消された神々沢山いますね
神武と饒速日では三世代程時間がずれていますね。古代史は抜本的に作り直す必要がありますね。なお、前方後円墳は箸墓古墳からで、三世紀中頃でしょうから、富雄古墳は長髄彦の可能性が最も高いと思います。富の特徴の蛇行剣も出ていますからね。
神話は微妙にズレがあるので、解釈が難しいですね。富雄丸山古墳がナガスネヒコ命の墓だと嬉しいのですが、こちらも記紀神話をそのまま読むと少し時代がズレているようです。ナガスネヒコの後継者の墓かも?とも思っています。
当時は春秋暦だか年齢が倍に成りました、また神武天皇の銅像が宮崎と徳島にしかないと聞いて驚きました。二宮金二郎の銅像視たいに全国有ると思っていました。長脛彦は秋田逃れました。
当時は一年に二歳ずつ歳を重ねていた説や、辛酉の年に尊い人が出てくるという話に沿って年齢を合わせた説などありますね。神武天皇像は少ないですが、葛木御歳神社にも神武天皇の橿原神宮を遥拝する遥拝所があります。
貴重な見解ありがとうございます。一点だけお聞きします。葛木御歳神社様としてはタカマガハラと発音されましたが、神社本庁の大祓祝詞ではタカマノハラと詠ませておりますが、あえてマガツカミサマにつながる言霊をお使いになる理由をご教示頂ければ有り難いです。
ご指摘の通り祝詞ではたかまのはらですね。一般的にはたかまがはらで呼ばれる方が多いので、その方はわかりやすいかと思っています。マガツカミというのは、ちょっと違うと思いますよ。高天ケ原なので、「たかま」で切れます。御所市にも高天があります。「たかま-が-はら」であって、「たか-まがーはら」ではありません。それでいうと、「尼崎-あまがさき」「熊谷市」「かまがさき」「駒ヶ根」もまがまがしい土地になってしまいますよね~^^;
出雲国は「国譲り」などしていない。248年物部・豊国連合軍に滅ばされた。九州を本拠地とし、2回東征(カクウの神武)した物部族を天孫降臨組に書いた奈良時代の神話物語です。歴史とは大きく異なる‼️
いつも興味深く視聴させて頂いております。古事記や日本書紀の編纂者たちが天皇家の権威付けのためにストーリーを組み立てるのでしたら、一つの天孫降臨つまり大和への降臨だけで十分な筈です。何故わざわざ南九州の水田耕作にはあまり適さない場所に降臨させて一時的に駐屯した後、三代目に水田耕作に適してはいるが未だ後進の奈良地方を目指して集団移住したのか謎ですね。私の推察では、後発の天孫族が大陸から戦乱を逃れて集団移住しようとしたとき、既に北九州・出雲・吉備などは先発の人達の強大な勢力があって、仕方なく南九州から倭国に入り一時的に駐屯せざるを得なかったのだと思います。その後に瀬戸内海を通って奈良地方を目指すのは、大陸から大海原を超えて大移動してきた人たちにとっては慣れたもの。要するに天孫族の安住の地を目指した東部開拓史を神話化したストーリーと理解しています。
コメントありがとうございます^^私も同じ見方をしています^^北九州は宗像氏の本拠地ですし、先住者が居たのではと思います。なので、稲作に適しない場所に住むしかなかったのではと?そのあたりのお話をほかの動画でも話しています。「なぜヤマトを目指したのか?」で~。
饒速日が鹿児島または宮崎の辺りに上陸したのならそれは大和朝廷に抵抗していた隼人または熊襲の祖先ということのかな?わざわざ半島から玄界灘を渡って九州を半周して南九州に上陸するのは合理的でないように思える。
饒速日命は、大和のいかるがみねに降りています。九州に降りたのはニニギ命ですね。ニニギ命の息子の山幸彦が天皇の祖先、お兄さんの海幸彦は隼人の祖として、宮崎県の潮嶽神社に祭られています。この話は記紀神話にも書かれています。
@@mitoshijinja 返信ありがとうございます。失礼しました。邇邇藝命ですね。邇邇藝命は「この地は韓国(からくに)に向かい、笠沙の岬まで真の道が通じていて、朝日のよく射す国、夕日のよく照る国である。それで、ここはとても良い土地である」と言われていますが、南九州から大陸、半島が直に繋がるようには思えない。肥沃な土地であるはずの日向がそうでないのも不思議。葦原中国は稲作が行われた豊かな土地であり、南九州は火山灰の土地で早くから稲作が行われていたとは思えないですね。また、比定地は記紀編纂後、「日向」と命名したものであり、第12代景行天皇が日向と呼ぶように言ったという説がありますね。周辺の地名も同様です。その点、糸島の高祖山周辺には地元の伝承にくしふる山が残っており、日向の地名があり、福岡の古墳からは三種の副葬品が出ている。旧「伊都国」には、天孫降臨した「瓊瓊杵尊」を祀る神社が10社ほど、「彦火火出見命」を祀る神社が6社、さらに孫の「鵜茸草茸不合命」(うがやふきあえずの みこと)を祀る神社も同数ほどあるなど、狭い地域に密集しているようです。高祖神社もまた「彦火火出見命」(妻は豊玉姫)を主祭神に、玉依姫と息長足姫命(神功皇后)の三柱をお祀りしているとのこと。状況証拠的には、記紀編纂後に名付けた南九州より信憑性があるのでは。
返信ありがとうございます。高千穂、霧島に降り立ったというのは、神仙思想(尊い方は尊い高い山に降り立つ)という思想に基づいて作られたとも言われています。確かに大陸から来たのなら、北九州の方がありえますよね。私は、北九州は、宗像氏や宇佐津彦につながる先発の一族が先に居たので、南下せざるを得なかったのでは〜とも考えます。もしかしたら、神武天皇の頃に南下したのかも?で、稲作に適さないので、ヤマトを目指す必要があったのでは?とか。
「ダ龍文盾形系銅鏡」と「蛇行剣」は、ユダヤ教の三種の神器の2つ、「モーセの石板」と「アロンの杖」という説もあるますよね。ロマンが広がります。茂木先生の見解ですが、私もそう思いたいです。
古事記の説明ですか?
現在の認識では「稲作は朝鮮半島から伝わった」とはされておりません。弥生時代後期の紀元前3世紀頃の米のDNA分析を行ったところ、その種の遺伝子型は朝鮮半島には存在しないもので、長江流域の種であることが判明しました。おそらく縄文時代後期以降に北部九州に伝わったものが最初と思われます。もし、朝鮮半島から伝わったのであれば、かの地には日本よりも古い稲作の痕跡があるはずですが、日本に稲作が伝わった約3000年前より、その痕跡は朝鮮半島では見つかっていません。朝鮮半島では水田作を行うための必需農具である「畦塗り具」の検出が、わが国の弥生時代中期に相当する新昌洞遺跡から出土した、卓球のラケット状の至って素朴なものが初出となります。そもそも稲作の朝鮮半島伝来説は、考古学調査によって早くに南京遺跡や松菊里遺跡でコメを検出し、わが国での朝鮮半島系遺物とみられる大量のモノの検出がありながら 水田遺構の検出が遅かったところから推測として唱えられ、それがモノと農業技術の相違を認識することもなく、繰り返し述べられてきたことによって 定説となってしまったのです。
何度もあちこちで話してますが、朝鮮半島経由で伝わっただけで、朝鮮半島の稲が原種ではなく、そんな話は一切してないのですが〜💦稲は、ベトナムから長江流域の苗族がルーツですよね。その話も何度も書いてるのですが〜。ちなみに朝鮮半島の前方後円墳も日本から伝わった技術です。この話も私は何も話してないのに毎回突っ込まれるのですが〜余程皆さん朝鮮アレルギーですかね💦
私も日本のコメの原種が朝鮮のDNAなどの話はしておりません。まず、23:07からの動画で、「歴史的には稲作は朝鮮半島経由で伝わった」と明確に発言されています。この点について異議を唱えているわけです。第1に、日本に稲作が伝わった時期より前に朝鮮半島で稲作の痕跡が発見されていないことから、稲作は朝鮮が先で日本が後ということは考えられないという点。第2に、弥生時代後期の米は、DNA分析により長江流域の種で朝鮮半島には存在しないものであるという点。以上のことから、稲作は朝鮮半島から伝わったのではなく、縄文後期以降に直接シナ大陸から長崎五島を経由して北部九州に伝わったものが最初であること。逆に朝鮮の稲作は渡来人もしくはヤマト人の水平移動型交流により日本から朝鮮半島南部に伝わったと推察されること。の2点の結論を導くことができます。したがって長江流域種の種籾・水稲陸稲が朝鮮半島を経由して日本に伝わった、ということは考えにくいでしょう。
長江から直接南へ出て船で日本に着いた説ですよね。私は朝鮮半島から船で南下して、対馬を経て日本へ到達する海路の方がよく使われていたと思っています。だからこそ、対馬が大切な要衝であったかと。最近の学者の間でも、まだ結論は出てないと思います。もちろん、直接大洋に出て流れ着いた人たちもいたでしょうし、中国から戦乱を避けて種籾を植えることなく大切に携えて朝鮮半島から日本に渡った人もいたことでしょう。ロマンの世界かと思います。もしよろしければぜひ、ご自身のサイトやRUclipsなどで詳しく紹介されてはいかがでしょうか?
出雲口伝では事代主はニギハヤヒ(スサノオ)に殺害されています。
出雲口伝はぶっ飛びすぎていて、さすがに引いています^^;
すみません。出雲の伝承では、大国主と少名彦事代主が殺されたのは、スサノオ徐福饒速日の謀計で、徐福の部下の現在の出雲大社社家で国造家祖先である天穂日と息子の武夷鳥だと海童が白状したとなっていますね。日本神話と出雲口伝と出雲風土記とでは、ちょっとずつ内容に違いがあるので比べてみるのも楽しいですね。
天孫降臨組は中国・朝鮮から渡来した人物および子孫です。先住出雲族は、宮崎日向発・物部渡来族に戦争で負けた。勝者が自分有利に書いた奈良時代文献を、日本の正史としてきた日本国も、いいかげんに改めるべきだ。
あはは、神話、楽しいですね。とはいえ井光の村へ行ったことあります。四輪駆動車で。さすがに井戸の底に水銀はたまっていませんでしたが、宇陀市の水銀鉱脈の一帯ですので、あるいは川上村の丹生神社の近くですので、神武さんが尾のあるイヒカに出会ったという話は神話と言うにはリアルだから、始末に悪い。私は水銀使って鳶に金メッキした、と思っています。
井光へは何度か訪れています。もちろん、神社へも。井光は尻尾があると記述されていますが、これは、山仕事の人がナタをぶら下げていた様子と言われます。また、井光の場所は窪地なので、井戸から出てきたと云われているのかも知れませんね。
@@mitoshijinja さまこれこれ神武さんの頃、ナタのような鉄器があってたまるか。
これは、私の説ではなく、よく神話解釈でよく言われている説です。また、神武軍が熊野にまで回り込んだのは、実は鉄をつくるためだったともいわれています。鉄無しにどうやって神武軍は戦っていたと思われているのかしら?
@@mitoshijinja さま鉄が日本に入ってきたのは応仁朝の頃ではなかったかな。神武さんの紀元前600年と言えば弥生時代初期ですから金属は青銅器でしょう。長柄銅鐸よりも前の時代です。吉備、出雲あたりで砂鉄からタタラ製法で鉄をつくる方法が開発されたのもせいぜい古墳時代ですね。時間的な編年を基準にして神話を解釈するか、事跡を基準にして解釈によります。もし神武さんが熊野で鉄器作ったとしたら神武さんは古墳時代の人だということになります。ウソはいっぱい含まれる、神話ですから。
応神朝
どうしても理解不能なのは宮崎からわざわざ遠い奈良まで何故?軍団だけ移動した?残された民はどうなったのか。
私のイメージは、もののけ姫のアシタカのような形。九州は、火山の被害も多く、新天地を求めて、若者たちが旅立ったのではないかと。それも、数十名くらいの少人数で。それが、だんだん各地を旅して同志を募りヤマトに入る頃には百人規模になったのではないかと思っています。
出雲の国を国譲りしたのに、九州に天孫降臨したのはわけわからん?
韓国人なら慣れた物語 鰐と兎の物語です。 新羅が日本列島の植民地を百済に譲渡することに盟約したが新羅が裏切って 道を切って百済に忠誠を誓った国々を滅しました。怒りで爆発した百済大王(天照御大神)が 王子に軍隊を与えて九州に上陸
田中英道先生の本のわかりやすく書いてありますよ😊
@@TY-ii4xp ありがとうございました
金の鳶とは、ユダヤのアークを意味しているのではないか?
どうして天孫降臨というあくまでも神話の中での話を本当の事のように話すのですか。多分 どうしても天孫降臨などという訳のわからないことを、真実と思いたいのでしょうね。
前提として神話のお話をどう読み解くかというお話ですよね?その前提は共通認識だと思ってましたが〜😅💦
事実ではなく何かの例えではないですか?大陸方面からの侵略戦争とか。
理不尽な話しですよね、弟を追放した国を子孫が繁栄させているのを、あそこが良い国だから私の子孫によこせとか、でもそう言う所が日本神話の良い所かも、他の国の神話ならなかった事にしてしまいそうな気がする。
天孫降臨の場所が何故高千穂峰だったかを誰も言いませんので推論してみます。先ず黄泉の国神話は明らかに火山の描写だと思います。特にイザナミが八はしらの雷を伴って現れてくる場面は、噴煙に纏わりつく雷に見えます。その後スサノオが泣き叫び「悪ぶる神の音、狭蝿如す皆満ち」の狭蝿については小説「死都日本」を書いた石黒耀氏は火山灰だろうと推定してます。ではその火山は何処かと言うと、それが高千穂峰です。実は高千穂峰は喜界カルデラ・アカホヤ噴火を挟んで2回噴火しています。そして黄泉の国神話が高千穂峰の噴火の話だとするとカグツチは流れ出た溶岩の描写かも知れません。つまり高千穂峰は天孫族の母とも言えるイザナミそのものなのです。それが天孫降臨の場所が高千穂峰だった理由です。それより黄泉の国神話が高千穂峰の噴火の話だとすると、当然アカホヤ噴火に繋がります。恐らく高千穂峰とアカホヤ噴火は人々の記憶が残っている時に連動して噴火したのでしょう。それが天岩戸神話になります。アカホヤ噴火と同じ火山爆発指数VEI7だったタンボラの噴火では、粗1日真っ暗だったとの英国人の記述が有りますから、高千穂峰近くにいた天孫族の先祖も同じ経験をした筈です。よく天岩戸神話を日食に擬える人がいますが日食の最大時間は7分、しかも薄暗くなるだけ。神話など生まれる筈はありません。さらに天照が岩屋に隠れる前にスサノオが天に参上する時「山川悉に動み、国土皆震りき」とありますが、これは地震の描写でしょう。ところが赤ホヤ噴火による堆積物を調べると、最後の大噴火の灰の下の地層に液状化の跡が発見され、この地域が噴火の前激震に見舞われた事が証明されたのです。又、天岩戸神話にも降灰らしき狭蝿が出て来ます。アカホヤ噴火は最後の大噴火の前に幸屋降下軽石と呼ばれる現象も有りますから、これはスサノオがフンを撒き散らした描写かも知れません。以上のように黄泉の国神話-天岩戸神話と高千穂峰-アカホヤ噴火は符号が合いすぎるのです。その後の、国譲りや天孫降臨は、天照が憑依した日の巫女の指示によるものと思います。つまり邪馬台国の話です。恐らく邪馬台国を書いた人間は日本に来た事が無いでしょう。若し来て邪馬台国の役人に接していれば「鬼道に事へ、よく衆を惑はす」等、書く筈がありません。だから伝なのです。従って邪馬台国の記述どおりの場所を探しても無意味です。又、邪馬台国は邪馬一国の間違いのようです。これについては日本語が不確かな通訳が倭人が「ヤマヒト国」と言ったのを「ヤマ一国」としたのかも知れません。ヤマヒト国=山人国=ヤマト国、つまり山幸の国の意味です。因み海人国とは海幸の国で南九州を勢力範囲にしていた隼人の国かも知れません。つまり天孫族と隼人族と抗争は天孫降臨の場所を巡っての抗争で、兄弟同士の抗争ですね。天孫族は南九州(上野原)に居て、アカホヤ噴火で北九州に避難、そこでヤマト国と名乗った。水稲稲作は北九州が先頭を走っているので日の巫女がニニギに稲穂を持たせたのも肯けます。どうでしょうか?かなり辻褄が合った筈です。問題は5000年前の事を伝承出来るかです。このコメントは消しても構いませんが、私は記紀に詳しく有りませんので、若しこの推論に賛同して頂けるのなら肉付けをして見て下さい。
なぜ高千穂か?という事について、よく言われているのが、中国の神仙思想の影響ですね。高貴な人は、山深い神聖な場所で生まれるというお話。なので、高貴な天孫族は高千穂の高い峰に降り立ったという話になったとのことです。邪馬台国は私もそう思っています。邪馬台国よりもっと大切なのは、ヤマト建国なのかと思っています。5000年前の事もきっと伝承できると思っています。そう思うからこそ古代は楽しいですよね❣️
口伝の伝承はあった事を文字よりも確実に伝えると聞いたことがあります。言霊という一音一意で伝えた物なら1万年前の出来事も残っているかも。アカホヤの噴火を黄泉の話かもと思っていましたが、
@@ちりめん居坐 高千穂峰がアカホヤ噴火の直前に噴火していた事は、あまり知られていませんからね。それでも日本が統一でき、現在も続いている原動力は、完新世の最大災害と言ってもよい体験に基づく信仰が有ったからと思います。
天孫 :新羅王子+百濟王子=九州征服
騎馬民族説ですね
奈良が好きで京都から奈良に越してきました。宮司の番組に出会えて奈良を何十倍も楽しめて有り難いです😊
嬉しいコメントありがとうございます^^
今後ともどうぞ御贔屓に~♡
とても分かりやすく楽しみながら勉強になりました😊
ありがとうございます。
またよろしくお願いいたします✨
宮司様。色々と貴重なお話を有り難うございます。
こちらこそご覧いただきありがとうございます^^
ありがとございます🎉
丁寧にお話しくださりありがとうございます
後編が楽しみです🙏
ありがとうございます!
後編ですが、音声を調整して数日内にはアップしたいと思っています。
またよろしくお願いいたします。
前編を観させて頂きました。
葛木御歳神社には興味があったので、あ楽しくあっと言う間の時間でした。
近い内にお伺い出来る様にします✨💞☺️
嬉しいコメント、ありがとうございます!
ご参拝お待ちしていますね❣
密かに長髄彦を祀っている神社のことなど新鮮な話が勉強になりました!
ありがとうございます!
氏子さんたち、とても誇りに思われているそうです^^
視聴させていただきました。
沖縄では天孫子は2系統あったと
伝承があります。
辺戸天孫子(日本系)
免登武(ミントン)天孫子(東南アジア系)
どちらも東の海の底のニライカナイ
から来たと伝わっています。
今後の展開が楽しみです。
ムービーを通して学ばせて
頂けたらと思います。
いつかはもう少し理解が深まると
良いですね。
沖縄では二系統!!それはとても興味深いです!
今後ともよろしくお願いいたします。
謎の多い日本の始まりについて、私は全くのにわかファンなのですが、今回のお話しとても勉強になりました。ところで、宮司様は阿波説については、どうお考えなのでしょうか?
ご覧頂きありがとうございます❗️
阿波説も結構流行ってますよね。あまり詳しくないです。
ただ、何といっても、イザナギ命イザナミ命の降り立った、おのころ島からも近いですから、何かしら古い由緒があると思っています。
@@mitoshijinja阿波の国は国譲りと天孫降臨の地ですよ。まず、天孫降臨は竺紫(つくし)は九州ではありません。筑紫(ちくし)なら九州ですが。日向はひむかです。宮崎のひゅうがではありません。筑紫の日向ではなくて神社祝詞には竺紫の日向と記載してます。竺紫の日向の高千穂神社は阿波にありニニギノミコトは阿波の伊頭からかき分けてかき分けて高千穂におりてます。(神社祝詞に伊頭を千分けて千分けて高千穂と記載されてます)また、いわれ彦が15歳まで住んでいたのは阿波の佐野神社です。神武東遷は阿波から鳴門で道案内の珍彦と出会い珍彦と一緒に難波津と白方津(東大阪市日下)に上陸してます。阿波には神武天皇像と神武天皇即位地があります。
日本の古代史は、初代・神武(実際は海村雲大王)の年代を初め、奈良時代の権力者の都合により、神話・説話・例話物語にされました。真実の歴史とは大きく異なるが、日本の通説と今もなっていることは見直す時期に来ている。
ナガツネヒコさんは神武の矢など向けてなくて、自分は自決し死にますね。そうして神武に奈良を譲りましたが地元の人はナガツネヒコ慕い名を伏して神社ありますね。宮司さん着任しても直ぐ辞められるので調べた新しい宮司さん調べたら、そうした背景ありました。渡来の人々を天孫降臨続に古事記、日本書紀にして物語,小説ですね、作り男性神を天照さまを女性神に変化する消された神々沢山いますね
神武と饒速日では三世代程時間がずれていますね。
古代史は抜本的に作り直す必要がありますね。
なお、前方後円墳は箸墓古墳からで、三世紀中頃でしょうから、富雄古墳は長髄彦の可能性が最も高いと思います。富の特徴の蛇行剣も出ていますからね。
神話は微妙にズレがあるので、解釈が難しいですね。富雄丸山古墳がナガスネヒコ命の墓だと嬉しいのですが、こちらも記紀神話をそのまま読むと少し時代がズレているようです。ナガスネヒコの後継者の墓かも?とも思っています。
当時は春秋暦だか年齢が倍に成りました、
また神武天皇の銅像が宮崎と徳島にしかないと聞いて驚きました。
二宮金二郎の銅像視たいに全国有ると思っていました。
長脛彦は秋田逃れました。
当時は一年に二歳ずつ歳を重ねていた説や、辛酉の年に尊い人が出てくるという話に沿って年齢を合わせた説などありますね。神武天皇像は少ないですが、葛木御歳神社にも神武天皇の橿原神宮を遥拝する遥拝所があります。
貴重な見解ありがとうございます。一点だけお聞きします。葛木御歳神社様としてはタカマガハラと発音されましたが、神社本庁の大祓祝詞ではタカマノハラと詠ませておりますが、あえてマガツカミサマにつながる言霊をお使いになる理由をご教示頂ければ有り難いです。
ご指摘の通り祝詞ではたかまのはらですね。一般的にはたかまがはらで呼ばれる方が多いので、その方はわかりやすいかと思っています。マガツカミというのは、ちょっと違うと思いますよ。高天ケ原なので、「たかま」で切れます。御所市にも高天があります。「たかま-が-はら」であって、「たか-まがーはら」ではありません。それでいうと、「尼崎-あまがさき」「熊谷市」「かまがさき」「駒ヶ根」もまがまがしい土地になってしまいますよね~^^;
出雲国は「国譲り」などしていない。248年物部・豊国連合軍に滅ばされた。九州を本拠地とし、2回東征(カクウの神武)した物部族を天孫降臨組に書いた奈良時代の神話物語です。歴史とは大きく異なる‼️
いつも興味深く視聴させて頂いております。古事記や日本書紀の編纂者たちが天皇家の権威付けのためにストーリーを組み立てるのでしたら、一つの天孫降臨つまり大和への降臨だけで十分な筈です。何故わざわざ南九州の水田耕作にはあまり適さない場所に降臨させて一時的に駐屯した後、三代目に水田耕作に適してはいるが未だ後進の奈良地方を目指して集団移住したのか謎ですね。私の推察では、後発の天孫族が大陸から戦乱を逃れて集団移住しようとしたとき、既に北九州・出雲・吉備などは先発の人達の強大な勢力があって、仕方なく南九州から倭国に入り一時的に駐屯せざるを得なかったのだと思います。その後に瀬戸内海を通って奈良地方を目指すのは、大陸から大海原を超えて大移動してきた人たちにとっては慣れたもの。要するに天孫族の安住の地を目指した東部開拓史を神話化したストーリーと理解しています。
コメントありがとうございます^^私も同じ見方をしています^^
北九州は宗像氏の本拠地ですし、先住者が居たのではと思います。なので、稲作に適しない場所に住むしかなかったのではと?
そのあたりのお話をほかの動画でも話しています。「なぜヤマトを目指したのか?」で~。
饒速日が鹿児島または宮崎の辺りに上陸したのならそれは大和朝廷に抵抗していた隼人または熊襲の祖先ということのかな?
わざわざ半島から玄界灘を渡って九州を半周して南九州に上陸するのは合理的でないように思える。
饒速日命は、大和のいかるがみねに降りています。九州に降りたのはニニギ命ですね。
ニニギ命の息子の山幸彦が天皇の祖先、お兄さんの海幸彦は隼人の祖として、宮崎県の潮嶽神社に祭られています。
この話は記紀神話にも書かれています。
@@mitoshijinja 返信ありがとうございます。失礼しました。邇邇藝命ですね。
邇邇藝命は「この地は韓国(からくに)に向かい、笠沙の岬まで真の道が通じていて、朝日のよく射す国、夕日のよく照る国である。それで、ここはとても良い土地である」と言われていますが、南九州から大陸、半島が直に繋がるようには思えない。肥沃な土地であるはずの日向がそうでないのも不思議。葦原中国は稲作が行われた豊かな土地であり、南九州は火山灰の土地で早くから稲作が行われていたとは思えないですね。
また、比定地は記紀編纂後、「日向」と命名したものであり、第12代景行天皇が日向と呼ぶように言ったという説がありますね。周辺の地名も同様です。
その点、糸島の高祖山周辺には地元の伝承にくしふる山が残っており、日向の地名があり、福岡の古墳からは三種の副葬品が出ている。旧「伊都国」には、天孫降臨した「瓊瓊杵尊」を祀る神社が10社ほど、「彦火火出見命」を祀る神社が6社、さらに孫の「鵜茸草茸不合命」(うがやふきあえずの みこと)を祀る神社も同数ほどあるなど、狭い地域に密集しているようです。
高祖神社もまた「彦火火出見命」(妻は豊玉姫)を主祭神に、玉依姫と息長足姫命(神功皇后)の三柱をお祀りしているとのこと。
状況証拠的には、記紀編纂後に名付けた南九州より信憑性があるのでは。
返信ありがとうございます。高千穂、霧島に降り立ったというのは、神仙思想(尊い方は尊い高い山に降り立つ)という思想に基づいて作られたとも言われています。
確かに大陸から来たのなら、北九州の方がありえますよね。
私は、北九州は、宗像氏や宇佐津彦につながる先発の一族が先に居たので、南下せざるを得なかったのでは〜とも考えます。もしかしたら、神武天皇の頃に南下したのかも?
で、稲作に適さないので、ヤマトを目指す必要があったのでは?とか。
「ダ龍文盾形系銅鏡」と「蛇行剣」は、ユダヤ教の三種の神器の2つ、「モーセの石板」と「アロンの杖」という説もあるますよね。ロマンが広がります。茂木先生の見解ですが、私もそう思いたいです。
古事記の説明ですか?
現在の認識では「稲作は朝鮮半島から伝わった」とはされておりません。
弥生時代後期の紀元前3世紀頃の米のDNA分析を行ったところ、その種の遺伝子型は朝鮮半島には存在しないもので、長江流域の種であることが判明しました。おそらく縄文時代後期以降に北部九州に伝わったものが最初と思われます。
もし、朝鮮半島から伝わったのであれば、かの地には日本よりも古い稲作の痕跡があるはずですが、日本に稲作が伝わった約3000年前より、その痕跡は朝鮮半島では見つかっていません。
朝鮮半島では水田作を行うための必需農具である「畦塗り具」の検出が、わが国の弥生時代中期に相当する新昌洞遺跡から出土した、卓球のラケット状の至って素朴なものが初出となります。
そもそも稲作の朝鮮半島伝来説は、考古学調査によって早くに南京遺跡や松菊里遺跡でコメを検出し、わが国での朝鮮半島系遺物とみられる大量のモノの検出がありながら 水田遺構の検出が遅かったところから推測として唱えられ、それがモノと農業技術の相違を認識することもなく、繰り返し述べられてきたことによって 定説となってしまったのです。
何度もあちこちで話してますが、朝鮮半島経由で伝わっただけで、朝鮮半島の稲が原種ではなく、そんな話は一切してないのですが〜💦
稲は、ベトナムから長江流域の苗族がルーツですよね。
その話も何度も書いてるのですが〜。ちなみに朝鮮半島の前方後円墳も日本から伝わった技術です。この話も私は何も話してないのに毎回突っ込まれるのですが〜余程皆さん朝鮮アレルギーですかね💦
私も日本のコメの原種が朝鮮のDNAなどの話はしておりません。
まず、23:07からの動画で、「歴史的には稲作は朝鮮半島経由で伝わった」と明確に発言されています。
この点について異議を唱えているわけです。
第1に、日本に稲作が伝わった時期より前に朝鮮半島で稲作の痕跡が発見されていないことから、稲作は朝鮮が先で
日本が後ということは考えられないという点。
第2に、弥生時代後期の米は、DNA分析により長江流域の種で朝鮮半島には存在しないものであるという点。
以上のことから、稲作は朝鮮半島から伝わったのではなく、縄文後期以降に直接シナ大陸から長崎五島を経由して
北部九州に伝わったものが最初であること。逆に朝鮮の稲作は渡来人もしくはヤマト人の水平移動型交流により
日本から朝鮮半島南部に伝わったと推察されること。の2点の結論を導くことができます。
したがって長江流域種の種籾・水稲陸稲が朝鮮半島を経由して日本に伝わった、ということは考えにくいでしょう。
長江から直接南へ出て船で日本に着いた説ですよね。
私は朝鮮半島から船で南下して、対馬を経て日本へ到達する海路の方がよく使われていたと思っています。
だからこそ、対馬が大切な要衝であったかと。
最近の学者の間でも、まだ結論は出てないと思います。
もちろん、直接大洋に出て流れ着いた人たちもいたでしょうし、中国から戦乱を避けて種籾を植えることなく大切に携えて朝鮮半島から日本に渡った人もいたことでしょう。
ロマンの世界かと思います。
もしよろしければぜひ、ご自身のサイトやRUclipsなどで詳しく紹介されてはいかがでしょうか?
出雲口伝では事代主はニギハヤヒ(スサノオ)に殺害されています。
出雲口伝はぶっ飛びすぎていて、さすがに引いています^^;
すみません。出雲の伝承では、大国主と少名彦事代主が殺されたのは、スサノオ徐福饒速日の謀計で、徐福の部下の現在の出雲大社社家で国造家祖先である天穂日と息子の武夷鳥だと海童が白状したとなっていますね。日本神話と出雲口伝と出雲風土記とでは、ちょっとずつ内容に違いがあるので比べてみるのも楽しいですね。
天孫降臨組は中国・朝鮮から渡来した人物および子孫です。先住出雲族は、宮崎日向発・物部渡来族に戦争で負けた。勝者が自分有利に書いた奈良時代文献を、日本の正史としてきた日本国も、いいかげんに改めるべきだ。
あはは、神話、楽しいですね。とはいえ井光の村へ行ったことあります。四輪駆動車で。さすがに井戸の底に水銀はたまっていませんでしたが、宇陀市の水銀鉱脈の一帯ですので、あるいは川上村の丹生神社の近くですので、神武さんが尾のあるイヒカに出会ったという話は神話と言うにはリアルだから、始末に悪い。私は水銀使って鳶に金メッキした、と思っています。
井光へは何度か訪れています。もちろん、神社へも。
井光は尻尾があると記述されていますが、これは、山仕事の人がナタをぶら下げていた様子と言われます。
また、井光の場所は窪地なので、井戸から出てきたと云われているのかも知れませんね。
@@mitoshijinja さま
これこれ神武さんの頃、ナタのような鉄器があってたまるか。
これは、私の説ではなく、よく神話解釈でよく言われている説です。また、神武軍が熊野にまで回り込んだのは、実は鉄をつくるためだったともいわれています。鉄無しにどうやって神武軍は戦っていたと思われているのかしら?
@@mitoshijinja さま
鉄が日本に入ってきたのは応仁朝の頃ではなかったかな。神武さんの紀元前600年と言えば弥生時代初期ですから金属は青銅器でしょう。長柄銅鐸よりも前の時代です。吉備、出雲あたりで砂鉄からタタラ製法で鉄をつくる方法が開発されたのもせいぜい古墳時代ですね。
時間的な編年を基準にして神話を解釈するか、事跡を基準にして解釈によります。もし神武さんが熊野で鉄器作ったとしたら神武さんは古墳時代の人だということになります。ウソはいっぱい含まれる、神話ですから。
応神朝
どうしても理解不能なのは宮崎からわざわざ遠い奈良まで何故?軍団だけ移動した?残された民はどうなったのか。
私のイメージは、もののけ姫のアシタカのような形。九州は、火山の被害も多く、新天地を求めて、若者たちが旅立ったのではないかと。
それも、数十名くらいの少人数で。
それが、だんだん各地を旅して同志を募りヤマトに入る頃には百人規模になったのではないかと思っています。
出雲の国を国譲りしたのに、九州に天孫降臨したのはわけわからん?
韓国人なら慣れた物語 鰐と兎の物語です。 新羅が日本列島の植民地を百済に譲渡することに盟約したが新羅が裏切って 道を切って百済に忠誠を誓った国々を滅しました。怒りで爆発した百済大王(天照御大神)が 王子に軍隊を与えて九州に上陸
田中英道先生の本のわかりやすく書いてありますよ😊
韓国人なら慣れた物語 鰐と兎の物語です。 新羅が日本列島の植民地を百済に譲渡することに盟約したが新羅が裏切って 道を切って百済に忠誠を誓った国々を滅しました。怒りで爆発した百済大王(天照御大神)が 王子に軍隊を与えて九州に上陸
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ありがとうございました
金の鳶とは、ユダヤのアークを意味しているのではないか?
どうして天孫降臨というあくまでも神話の中での話を本当の事のように話すのですか。
多分 どうしても天孫降臨などという訳のわからないことを、真実と思いたいのでしょうね。
前提として神話のお話をどう読み解くかというお話ですよね?
その前提は共通認識だと思ってましたが〜😅💦
事実ではなく何かの例えではないですか?大陸方面からの侵略戦争とか。
理不尽な話しですよね、弟を追放した国を子孫が繁栄させているのを、あそこが良い国だから私の子孫によこせとか、でもそう言う所が日本神話の良い所かも、他の国の神話ならなかった事にしてしまいそうな気がする。
天孫降臨の場所が何故高千穂峰だったかを誰も言いませんので推論してみます。
先ず黄泉の国神話は明らかに火山の描写だと思います。特にイザナミが八はしらの雷を伴って現れてくる場面は、噴煙に纏わりつく雷に見えます。その後スサノオが泣き叫び「悪ぶる神の音、狭蝿如す皆満ち」の狭蝿については小説「死都日本」を書いた石黒耀氏は火山灰だろうと推定してます。
ではその火山は何処かと言うと、それが高千穂峰です。実は高千穂峰は喜界カルデラ・アカホヤ噴火を挟んで2回噴火しています。そして黄泉の国神話が高千穂峰の噴火の話だとするとカグツチは流れ出た溶岩の描写かも知れません。つまり高千穂峰は天孫族の母とも言えるイザナミそのものなのです。それが天孫降臨の場所が高千穂峰だった理由です。
それより黄泉の国神話が高千穂峰の噴火の話だとすると、当然アカホヤ噴火に繋がります。恐らく高千穂峰とアカホヤ噴火は人々の記憶が残っている時に連動して噴火したのでしょう。
それが天岩戸神話になります。アカホヤ噴火と同じ火山爆発指数VEI7だったタンボラの噴火では、粗1日真っ暗だったとの英国人の記述が有りますから、高千穂峰近くにいた天孫族の先祖も同じ経験をした筈です。よく天岩戸神話を日食に擬える人がいますが日食の最大時間は7分、しかも薄暗くなるだけ。神話など生まれる筈はありません。
さらに天照が岩屋に隠れる前にスサノオが天に参上する時「山川悉に動み、国土皆震りき」とありますが、これは地震の描写でしょう。ところが赤ホヤ噴火による堆積物を調べると、最後の大噴火の灰の下の地層に液状化の跡が発見され、この地域が噴火の前激震に見舞われた事が証明されたのです。
又、天岩戸神話にも降灰らしき狭蝿が出て来ます。アカホヤ噴火は最後の大噴火の前に幸屋降下軽石と呼ばれる現象も有りますから、これはスサノオがフンを撒き散らした描写かも知れません。
以上のように黄泉の国神話-天岩戸神話と高千穂峰-アカホヤ噴火は符号が合いすぎるのです。
その後の、国譲りや天孫降臨は、天照が憑依した日の巫女の指示によるものと思います。つまり邪馬台国の話です。恐らく邪馬台国を書いた人間は日本に来た事が無いでしょう。若し来て邪馬台国の役人に接していれば「鬼道に事へ、よく衆を惑はす」等、書く筈がありません。だから伝なのです。従って邪馬台国の記述どおりの場所を探しても無意味です。
又、邪馬台国は邪馬一国の間違いのようです。これについては日本語が不確かな通訳が倭人が「ヤマヒト国」と言ったのを「ヤマ一国」としたのかも知れません。
ヤマヒト国=山人国=ヤマト国、つまり山幸の国の意味です。因み海人国とは海幸の国で南九州を勢力範囲にしていた隼人の国かも知れません。つまり天孫族と隼人族と抗争は天孫降臨の場所を巡っての抗争で、兄弟同士の抗争ですね。
天孫族は南九州(上野原)に居て、アカホヤ噴火で北九州に避難、そこでヤマト国と名乗った。水稲稲作は北九州が先頭を走っているので日の巫女がニニギに稲穂を持たせたのも肯けます。どうでしょうか?かなり辻褄が合った筈です。問題は5000年前の事を伝承出来るかです。
このコメントは消しても構いませんが、私は記紀に詳しく有りませんので、若しこの推論に賛同して頂けるのなら肉付けをして見て下さい。
なぜ高千穂か?という事について、よく言われているのが、中国の神仙思想の影響ですね。
高貴な人は、山深い神聖な場所で生まれるというお話。なので、高貴な天孫族は高千穂の高い峰に降り立ったという話になったとのことです。
邪馬台国は私もそう思っています。
邪馬台国よりもっと大切なのは、ヤマト建国なのかと思っています。
5000年前の事もきっと伝承できると思っています。そう思うからこそ古代は楽しいですよね❣️
口伝の伝承はあった事を文字よりも確実に伝えると聞いたことがあります。
言霊という一音一意で伝えた物なら1万年前の出来事も残っているかも。
アカホヤの噴火を黄泉の話かもと思っていましたが、
@@ちりめん居坐 高千穂峰がアカホヤ噴火の直前に噴火していた事は、あまり知られていませんからね。それでも日本が統一でき、現在も続いている原動力は、完新世の最大災害と言ってもよい体験に基づく信仰が有ったからと思います。
天孫 :新羅王子+百濟王子
=九州征服
騎馬民族説ですね