Размер видео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показать панель управления
Автовоспроизведение
Автоповтор
和製の勉強しているものです。どうしても連続5度見つけるのに時間がかかっていたのでこの動画でわかるようになりました。ありがとうございます
自分はエレクトーンをやっていてクラッシックの教え方だと頭の中がパニックになるのですが、北原さんの教え方はとても分かりやすかったです。ありがとうございました。
ありがとうございます!
和声初心者で、独学で赤本(最初の方ばかり)を何度も読んでいますが、並逹がよくわからなくて、検索してたどり着きました。大変わかりやすい解説で、とてもしっくりきました。禁則の見つけ方もわかりやすくて、本には書いてないことですし、大変ありがたかったです。ありがとうございました。
いつも分かりやすい説明を有難うございます。和声の勉強を一から始めています。「属9の第5音レと第9音ラは完全5度になっているが第9音に到達する際に起こる並達5度は許される。連続5度すらも許される場合がある。これは第9音の特殊性によるもの。」は理解できましたが、属9の根音ソと第5音レについて言及されていないですが、この根音のソと第5音レにおける完全5度は問題になるということで理解してよいでしょうか。どうぞよろしくお願い致します。
「根音と第5音によって形成される完全5度」に到達する連続5度は、特に許容事項がないので禁則となります。
ありがとうございました。
ものすごく基本的な疑問なんだけど、そもそも何で連続五度はダメなの? 和声学や対位法の教科書には「連続五度を作ってはいけません」とは書いてあるけど、なぜ作ってはいけないのか、その理由がどこにも書いてないんだよね。「倍音がどうたらこうたら」だの「空虚な響きになってしまうから」なんて分かったような分からないような解説をされたこともあったけど、俺の耳には空虚だとはどうしても感じられないんだよね。それに百歩譲って仮にそうだったとしても、空虚な響きがあるってことは、使いようによっては独特な音楽的な効果が出せるってことじゃないの?それに気がついたのが印象派の音楽家たちだろ。特にドビュッシーの「沈める寺院」なんてのは連続五度や連続八度のオンパレードで、「連続五度、許すまじ!」なんて固定観念に凝り固まった音大の先生方からすると耳を塞ぎたくなるような曲かもしれないけど、ドビュッシーはそれを多用することによって、独特な神秘的な雰囲気を出すことに成功した。俺は音楽を志す若い人たちに言いたいんだけど、重箱の隅をつつくように禁則を探したりするのは、音楽本来の目的を見失っていることになるんじゃないかな?
コメントありがごうございます。とても興味深い着眼点なので、ぜひ動画で解説させていただきますね!簡単な解答を述べさせていただくと、「連続5度を許さない感性」と「連続5度を受け入れる感性」はどちらも正しい。ですが、西洋音楽文化を厳密に分析していく上では前者と後者の境界をしっかり区別する必要があるのです。「和声」という分野においては基本的に連続5度は許容されないので、この動画ではその見つけ方を解説しているわけです。楽譜中の禁則を探すことは音楽理論の習熟に必要な訓練であって、それによって音楽の本質を見失うかはまた別問題だろうと考えます。
和製の勉強しているものです。どうしても連続5度見つけるのに時間がかかっていたのでこの動画でわかるようになりました。ありがとうございます
自分はエレクトーンをやっていて
クラッシックの教え方だと頭の中が
パニックになるのですが、北原さんの教え方は
とても分かりやすかったです。
ありがとうございました。
ありがとうございます!
和声初心者で、独学で赤本(最初の方ばかり)を何度も読んでいますが、並逹がよくわからなくて、検索してたどり着きました。大変わかりやすい解説で、とてもしっくりきました。禁則の見つけ方もわかりやすくて、本には書いてないことですし、大変ありがたかったです。ありがとうございました。
いつも分かりやすい説明を有難うございます。和声の勉強を一から始めています。「属9の第5音レと第9音ラは完全5度になっているが第9音に到達する際に起こる並達5度は許される。連続5度すらも許される場合がある。これは第9音の特殊性によるもの。」は理解できましたが、属9の根音ソと第5音レについて言及されていないですが、この根音のソと第5音レにおける完全5度は問題になるということで理解してよいでしょうか。どうぞよろしくお願い致します。
「根音と第5音によって形成される完全5度」に到達する連続5度は、特に許容事項がないので禁則となります。
ありがとうございました。
ものすごく基本的な疑問なんだけど、そもそも何で連続五度はダメなの? 和声学や対位法の教科書には「連続五度を作ってはいけません」とは書いてあるけど、なぜ作ってはいけないのか、その理由がどこにも書いてないんだよね。
「倍音がどうたらこうたら」だの「空虚な響きになってしまうから」なんて分かったような分からないような解説をされたこともあったけど、俺の耳には空虚だとはどうしても感じられないんだよね。それに百歩譲って仮にそうだったとしても、空虚な響きがあるってことは、使いようによっては独特な音楽的な効果が出せるってことじゃないの?
それに気がついたのが印象派の音楽家たちだろ。特にドビュッシーの「沈める寺院」なんてのは連続五度や連続八度のオンパレードで、「連続五度、許すまじ!」なんて固定観念に凝り固まった音大の先生方からすると耳を塞ぎたくなるような曲かもしれないけど、ドビュッシーはそれを多用することによって、独特な神秘的な雰囲気を出すことに成功した。
俺は音楽を志す若い人たちに言いたいんだけど、重箱の隅をつつくように禁則を探したりするのは、音楽本来の目的を見失っていることになるんじゃないかな?
コメントありがごうございます。とても興味深い着眼点なので、ぜひ動画で解説させていただきますね!
簡単な解答を述べさせていただくと、「連続5度を許さない感性」と「連続5度を受け入れる感性」はどちらも正しい。ですが、西洋音楽文化を厳密に分析していく上では前者と後者の境界をしっかり区別する必要があるのです。「和声」という分野においては基本的に連続5度は許容されないので、この動画ではその見つけ方を解説しているわけです。楽譜中の禁則を探すことは音楽理論の習熟に必要な訓練であって、それによって音楽の本質を見失うかはまた別問題だろうと考えます。