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父が生きていたら、タクシー運転手時代の話に花が咲いただろうなあ。一緒にドライブしてても都内はどこでも抜け道を知ってて、渋滞を避けて面白いほどスイスイ走ってた。あ、お父さんに会いたくて泣けてきた。
お気持ちお察し致します。自分の父はトラックの運転手だった頃がありまして、自分が大阪から埼玉県北に移住後に、仕事で長距離運行でたまに実家へ帰省時間があった時に、長距離運転手時代に何度か軽井沢を通ったと言う思い出を、現役のトラック運転手の自分に話してくれました。 亡くなる1年か2年ほど前です。多くはないけど良い思い出になりました。
ホント 会えるものなら会いたいですよね…😢
馬込にある第二京浜と環七の立体交差の美しさ。今も変わらない。
この映像は、貴重ですね~私の父は・首都高速・道路工事・の仕事をして最後は、タクシーの運転手でした、東京都内は、自分の庭みたいに道知ってましたね~今は亡き父にこの映像見せたいな~。
下手な映画よりよほど面白くてためになる
今のくだらない民放よりよっぽど面白いですね~
昔のドライバーさんは 本当に 凄いと思います👏✨ ナビも無い時代 …。凄く貴重な映像をありがとうございます。
「渋滞」という言葉、この時代にはまだ一般化されてなかったんだなぁ。
私も工事に携わりましたが、青砥〜奥戸の中川に架かる橋や葛西から南葛西にいたる環七が開通するのは だいぶ 後ですね 水戸街道から中川へ迂回して亀有に出ていたのもかなり長い間続きましたね!! 貴重な昭和の記録ですね!!
仕事でいつも通っていますよ
いつのものかは記憶にないけど、遺跡が出たので、調査してましたからね。高校に上がる頃(S58前後)に開通したんだっけかな。それにしても高層ビルどころかチョット背の高い建物すらないですね。昔は遠くまで見えてましたからねぇ。
環七や環八は大型車が多く往来しているので子供やお年寄りには声掛けをしなきゃいけません!!
へいダンナ!なんて言う人ほんとにいたんだ!
環状7号線建設で道路拡張現場の映像懐かしいですね、立ち退き、拡張の連続でした、瓦礫の中遊んだ記憶がよみがえり懐かしさいっぱいです、貴重な映像ありがとうございました。
今の環七を脳内再生しながら見ています。中原街道先の開発前は、江戸風情の残る下町に無理矢理バスが通る辺り、運転手さんに頭が下がります。後半足立区の映像は、近年とは言っても30年位前の外環整備中の八潮辺り開発中を思い出します。貴重な映像楽しく見させていただきました。
東京はもうこの頃、こういうバスが走っていたんですね。私は田舎育ちなのでボンネットバスでした。小さな帽子をかぶる車掌のお姉さんから買う切符も、まるでオモチャの切符に穴だけ開けるようなハサミでした。国鉄の硬い切符に四角く切り取るハサミに比べるといかにもチャチに見えたものです。この5~6年前ではありますが、森繁久彌さんの映画「警察日記」がこの時代の田舎の風景でしたね。
これ東京都がやってんのかこういうのに税金使うのはいいね
家に車は無かったけど、私が産まれたばかりの時ってこんなだったのか、35年生まれの世田谷育ちです。良い映像をありがとうございます。
とても貴重な映像をありがとうございます。現在は昔の面影は全くない「野沢銀座商店街」大変にぎやかな商店街だったと町の古老から聞いた事がありましたが、実際の映像を見て想像以上に賑やかそうでとても感動しました! いまでも旧野沢銀座裏の住宅地には戦前に中止になった東京オリンピック(駒沢)へ向かう為の専用道路が残っています。 この辺りは駒沢オリンピック公園と旧海軍病院(東京医療センター)などもある為、戦前戦後の航空写真も残っているはずですので是非公開して頂ければと思います。
私も以前(1966〜)駒沢付近に住んでおりました!駒沢への抜け道や昭和の芸能人宅など多く有り、環七沿いの野沢ランド(銭湯)も何度か利用しました!1970年代は三茶〜野沢〜深沢〜自由が丘、辺りを自転車で行き来していたのは、懐かしい思い出です!
最初の方に出てくる春日橋のすぐ近くの生まれです。橋の欄干が全く変わってないのですぐにどこだかわかりました!建物の数なんか全然違うけどそこから線路を眺めた姿は同じでなんだか不思議な感じです。
幼い頃春日橋の欄間から顔を出して電車に手を振ると運転士が手を振り返してくれました。まだ京浜東北線は73系などの茶色の電車で東海道線は80系などと電気機関車が引く客車列車、同線を利用していた横須賀線は紺とクリーム色、3扉の車両で正面は金太郎の腹掛け型で颯爽と駆け抜けて行きました。あと時間が来るとパーラーカー付のこだま号など色々バラエティに富んでいました。
現在の環七は規格こそ当時の設計なので道幅が狭くて困ってはいるが、それでも渋滞は緩やかな方なのでよくできた環状線だなあと思う。
昭和36年にはこんな具合だったのに、ここから10年のうちに都心部ではほぼ今の通りの道路ネットワークと首都高〜東名〜名神という大動脈を一気に完成させたのだから、高度経済成長期の勢いというものが如何程の物だったのかが良く分かります。
東京オリンピック直前(開催3年前)だったのもあるでしょうね!
貴重な映像、嬉しいなぁ
とても懐かしい動画ありがとうございます。環七は長い間途切れ途切れで未舗装区間も点在していて、とても走りづらかったです。全線開通は昭和50年代までかかったと記憶してます。
もうこれはしびれます、野沢銀座、いやー、懐かしい、しかし、どこも、人が多いすね、今となにか違う、そうそうと言うのが一杯あって、ありがとう‼️
当時は東京とはいえ高層ビルは皆無、高いビルも無かったのですね。緑も多かった。昭和36年(1961年)だからまだ固定電話の無い家もあったと思う。
昭和30年代半ば頃、固定電話の無い家も… ほとんどの家に電話はありませんでした。権利金が高額だったようで、たしか抽選があって、簡単には引けなかったと思います。私はその頃中三でしたが、お隣さんに電話を借りて、出前のラーメンを注文してました。高校に入った頃、ようやく電話機が玄関に鎮座しました。オリンピックが終わった頃、どんどん普及したと、聞いたことがあります。
呼び出し電話ってのありましたね 電話そこにかけてもらい呼び出してもらうんです
町を作るには建物より先に太い幅広の道路を作ってからにした方がいいですね。建物の立ち退きほど時間とお金がかかる事は無いですから。
仰る通りです!それもインフラ整備の1つです。 その代表的な成功例の街の1つが、愛知県名古屋市です。
立派な道路があるのに、さっぱり住宅が建たないニュータウンとか、草ぼうぼうの工業団地なんかもありまして。(´Д`|||)
自分は70年代生まれだけどどこか懐かしさを禁じ得ませんあの時代、、独特の匂いがあったんだよなぁ
交通戦争とまで言われて、子供たちも沢山事故で亡くなっちゃったみたいです。。
道路幅拡張で立ち退きになったところは、何年かたつと素晴らしい大名屋敷みたいな家がたつ。これがまた周囲と釣り合いがとれないんだなあ。
アナウンサーの「のろのろ運転」が可愛すぎる
私の生まれる直前の映像ですね。よく通る場所、今でも面影のある場所、まったく変わってしまった場所、さまざまな昔の姿を見ることが出来てとても素晴らしい映像です。
昔、多摩地区から都心に行くのに五日市街道を使ったそうですが道路が舗装してなくてガタガタ道だったと聞きました。とても信じられなかったのですがこの動画を見て納得です。この動画に出てくる子供たちは今では70歳近いんですね。うーむ。
私もその70に近い者ですが、この記録映画を見て当時が思い出されました。
梅里辺りで青梅街道から分かれてしばらく狭い道が続く。立川市の砂川の方はもうまったくのド田舎で牧場や畑が広がっていた。
足立区も最近(?)まで牧場ありました 大谷田交差点の少し北にいったとこです いまはマンションです
大変貴重な映像でした。
懐かしいですねえ。最後の常磐線の踏み切りは、亀有駅の東側にあったもので、私は北口の近くに実家がありました。当時、環七は「十三間道路」と呼ばれていましたよ。子供の遊び場でした。昭和30年代の前半です。
懐かしい今も春日橋の近くの大森に住んでいます環七も環八も京急バスはまだボンネットが走ってましたね人流物流の人達は(私の世代60代)山手通りを環六、明治通りは環五と今でも言いますね今では京急の高架化が進んで南蒲田や平和島の交差点幾分渋滞緩和されましたがこの頃は道路整備が今よりずっと酷く大変そうですねそういえば京急バスの運転手が狭い路地をスイスイ走っていくのを見て子供ながらに「凄い!」と驚いたのを思い出します
昭和36年って、まだまだマイカーを持っている人が少なかったと思うけど、映像を見るとけっこう車がたくさん走ってるんだね。
環七の陸橋とか、つまり60年前の技術のお世話になっているのか
建設中の道路が子供達のいい遊び場になってしまうというのは何かいいの。わしもあんな事をしていた記憶が……今だと「危険だから立入禁止」になってしまうのじゃろうが。
言葉遣いが絵に描いたようなじいさん
あの遊んでいる子供たちが、私より7才ぐらい年上のの人だなあと思っていたところでした。
ですね あの当時は空き地があればどこでも遊べたですね 紙芝居 カタ屋 覗くと透けて見える魔法のメガネ 行商人が来てましたね
少しの時間だけタイムスリップしてみたい😮東京が故郷の人には嬉しい映像ですね😊
環七と山手通りの間に住む自分にはとても興味深い
懐かしいですね。春日橋から特急こだまと脇にあった旭段ボール、あの界隈で一番高い建物だった消防署の火の見櫓、景色はもう一変してしまいましたね。
1:12あたりで京浜急行が映ってますね、この頃はまだツートンカラーだったんですなぁ…
父親が当時営業していたけど、東京の道がムチャクチャだったといってたなぁ。こういう事だったのかと、目で見られて嬉しい。
自動車が通るには大変だったと思いますが、元々は庶民が肩寄せ合って暮らしていたところです。映像に残る人々がのんびりと道を歩き、江戸時代の面影すら残すこの光景を道路に限らず高層建築で完全に消し去った現代は人との繋がりが消え、趣がない様な気がします。便利になったかもしれませんが失ったものも多いと思います。
オープニングにこんな運動会みたいな曲を使うセンスがこの時代ならではだな。
コメントありがとうございます。音楽については、オリジナルではなく、オリジナルのものと雰囲気の似ているものに置き換えています。昭和の東京シリーズ、他の動画もぜひお楽しみください。
60年代の東京渋すぎ。。。
当たり前で草
てか、その渋さがいいんだよ
60年代までは中野や練馬にも結構キャベツ畑や大根畑が広がっていたし、世田谷には塩で舗装した道なんてのもあった。狭い生活道路にバスが無理やり入ってくる光景があちこちでみられた。23区とは思えないような雑木林や屋敷森もあったなあ
私が産まれる1年ぐらい前ですけど、東京でもこんな感じだったのですね。私は愛知県の田舎の方で育ちましたが、国道と幹線の県道以外は、舗装道路が少なく小学生の頃やっと身近かな道が舗装させてきました。なんか懐かしいなあ。
2:05 馬込の交差点、おおむね今と同じ景色で笑った
まったく同感です、やはり理想の形なんですね
新幹線が着工から僅か5年で完成したのも驚きですが、東京オリンピックの僅か3年前なのに、環七の予定地はまだ建物が密集していた地域もあったなんて信じられないです。オリンピックに向けての突貫工事だったかもしれませんが、この映像のあとどんどん立ち退いていったのでしょうかね。
交差点の真ん中の路面電車軌道の上を堂々と歩いている人がいて時代を感じる
45年ぐらい前ですが、環七は葛西付近で分断されていて、先行開通区間の南葛西付近でよくキャッチボールして遊んだ記憶があります。
往来の幅が大八車やリヤカーの基準だったから自動車では狭かったですねw 高層建築が多くなってくると、また風景が一変しますね、人の力で今日の姿が有ると思うと只々脱帽です。
馬込の立体交差が理想と分かっていたのに、、、なぜ環七の主要交差点全てに採用しなかった!
大田区のHPによると立体が完成したのが昭和15年と戦前なので、もしかしたらこの付近がこの映像のように宅地化する前の完成だったのかもしれません。あるいは開戦前年なのであまり強情だと非国民認定されそうだから戦後よりスムーズに買収できたのかもしれません
日本がグングン成長してた時。この時代を知らないけどなんかいいな。活気を感じる。
懐かしい車ばかりですよ~
1960年生まれで北区の環七沿いに住んでたけど交通量は多かったね公害のせいで喘息になって苦しい思いしたな
ビートたけしが(半分ネタだろうけど)言っていたのは菊次郎「うちの土地が環状七号線の用地買収の対象になる。土地が高く売れる」と言って、前祝だと言って酒を飲んでいたが、実際に用地買収の対象は数軒隣までで土地は売れない、排ガスまみれになるとロクなことが無かったとか・・・
立ち退いてたら、今のビートたけしさんはいなかったのかも!?
今年84になる父がいうには都内の渋滞は昔の方がひどかったそうです。地道に道路インフラを良くしてきた結果かな。
バブル時代が1番酷かったように思います。 環八で10キロを超える大渋滞とか。 一般道ですよ!w
いまに比べて10年前、10年前に比べて20年前は比較にならないほど渋滞してましたよ。いまも日進月歩で渋滞は緩和されてきています。
環八が完全開通する前は、広い道路から途中で物凄く狭い道に入り込み、段々不安になりつつもず~っと真っ直ぐ行ったら笹目通りという大通りに辿り着いた。映像見る限り環七通りも昔はそんなんだったんだな。
この頃の東京の街中は、地方都市のそれと大して変わらなかったんですね。
東京と地方で発展に格差が広がったのがこの頃で、地方都市はこの頃の感じで街が止まってる所が多いですね。昭和40年代前半までは、都内も地方も街並みはあまり変わらなかった。高度成長で若者が都会に就職するようになり、地方の発展は止まってしまった。東京は人が増え車が増え、スクラップアンドビルドで街が変わって行く。
環7で足立までスルスルッと回れるなんて夢の時代だね
言い方悪いけど、大昔なのにすごいお洒落な作りのビデオですね!人々の暮らしも見られて、とてもうれしい。工事してくれてる人々やこの時代の人たちに感謝ですね。今の時代も引き継いで快適に使っています。、ありがとう。
当時のタクシー運転手は、当然ナビもないから道という道に熟知していなくては勤まらない特殊技能であったろう。また標識も少なかった当時であるから。近所に道を訊ねるも日常茶飯事。いや、今、この時代にタイムスリップして東京を走ってみたいといつも思ってしまう。
そういえば近頃、道を尋ねられる事ってなくなったかな。スマホが流行る前まではあったのに
なんだかんだ言っても、国、都の職員は偉い‼️現代の道路があるのも職員の努力の賜物です。😀こういう人たちがいたからこそ、今の東京があるのです🙋若い人、そのへんよろしくお願いしまーす👍️
関わった皆様の努力だと思います。
地中電線化や都市計画が滅茶苦茶だとおもうが。。ダメダメなとこ多いね。
環七は都道だから、東京都の役人が作ったかと…関東大震災の復興計画の計画道路で、戦争の影響で計画が遅延。オリンピックで計画が促進されたらしいです。
この頃は東京近郊でもまだ狭い道や田んぼも結構残ってた
昭和30年生まれ。世田谷区で駒沢オリンピック公園も近い。従兄弟が来て、野球を見に行った記憶がかすかにある。玉川通りも砂利道。駒沢通りも砂利道だった。世田谷区もドッポントイレが当たり前、畑には肥溜めがあり、金魚売りのリヤカーもよく見かけた。まだ自家用車は無かったな。
3:55 これは環状7号線ではなく玉川通りの新町1丁目交差点付近ではないでしょうか?環状7号線同様にここから野沢付近にかけて拡幅工事が遅れていたようなので当時の編集スタッフが誤ったものと思われます。
すごい、よくわかりますね。確かにこの角度は桜新町への分岐の場所のようで、古地図アプリで昭和30〜35年頃の地図を見ると玉電の旧道の方しかなく、現246はこの先まだ道路がなかったようなので当時完成したばかりの道路の一つだったために混同したんでしょうね
9:25典型的な道路御殿w
NHKよりおもしろい
環七は西側、首都高中央環状線は逆に東側が先に開通してる。葛飾のあたりだと開通した年がそれほど違わないが西側だと50年くらい違う。
神社があってそれが障害になってたとききます
翌昭和37年には東京都(23区と都下併せて)の人口が1千万人を越え、都市問題が一層深刻化を増してきた頃です。
あの狭い道がバス通り(^_^;)環七にリヤカー
9:10~ 足立区の一部にようやく建設の『 鍬 』が入り始めたのところで思わず笑ってしまった当時としては当たり前だが
起工式では未だにエライさんが鍬を持って「エイ!エイ!」とやりますね。(・ε・` )
なんだこのイニシエ感…自分も随分長く生きてきたなと実感。トシをとるはずだわ
自分の生まれ年の映像ですね、環七は砂利道だったけどな
環状7号線のところ全然ちがうなぁ当時、めんどくさかっただろうな
前にラジオで環七は発案から完成まで90年以上かかってるなんて言ってたな
夢と希望があった時代
何だろう。交通量も人も今の方が多いのに、この時代には活気がある
8:48 平和橋この橋の下が日雇い労務者向けの職安が有り、、仕事にあぶれた人が此の橋からよく飛び降りてた、、、雪の日に走って来た米軍の戦車?が滑って左側の斜面に落ちて来たと聞いた事も、、、
/一時\|STOP| \停止/ ||近年逆三角形の一時停止標識にSTOP表記が追加されてますが、進駐軍対策か戦後の一時期は海外標準に準じたこんな8角形の標識もあったんですね。
環七と第二京浜(国道1号)の立体交差が日本で初めての立体交差である。と、自分の兄は小学生の時に習った。と言ってます。
力道山の映画にこの松原陸橋がでていた記憶があります。
自分は80年12月生まれですがこの古きよき年代感は後の年代には出せません
スーパーカブ もいるなあ、当時の人はそのスーパーカブc100が半世紀以上経った現代でも実働で走ってるとは思うまい…
100はなかったんじゃないかな 50 90 120 だと思った 詳しくは月光仮面に聞いて
◆子どものころの都内の道路は四六時中ずっと道路工事していたイメージがあります。環七のように復員拡張工事もあり都電の線路を撤去する工事もあり路面を板で敷き詰めた地下鉄工事なんてのもあり。メンコや三角ベースに明け暮れた町内の道路も徐々にクルマの交通量が増えて一方通行になったり砂利道だった細い裏路地さえもアスファルトで覆われだしたのもこのころからでしたね~( ΦωΦ)
環七も松本陸橋あたりは砂利道だった
環七は今でも混んでてイライラするけどな笑
それでも30年くらい前よりはスムーズに走れますよ
当時の映像観て環七と中原街道の交わる「長原陸橋」はまだなく高円寺方面へは昔の細い路地みたいで現在のように立派ではなかった
高校生の時、受験校の東京工業大学の下見に群馬県の高崎市から国道17号を自転車で走り環状7号を走り
それぞれの時代には面白さやつらさがたくさんあるが、昭和の方がいきいきしている。これは人々が前に向かっていく希望の表れと思いやりの精神があるからではないかなと思う。
8:52 CJ3Bジープ発見!!!!
トランペット?の演奏がおもしろかった!
懐かしいですね観音開きのトヨペットクラウン。1980年代までは世田谷にもまだ畑が結構あり第一京浜を日通の品川6ナンバーのオート三輪が走っていたりしました。昔の名残なのか北区の神谷から十条にかけての区間だけは今でもやたらと幅員が狭いですね。
1980年代は、昭和55年から平成元年(1989年)、オート三輪なんか走っていませんよ!
@@哲朗高橋-x6uさん 横から失礼します。オート三輪は、実際に1985年頃迄港区の海岸通りなども走っていましたよ。個人タクシーでは板橋区のダットサンや大田区のタテ目のセドリック、クラウンの観音開きなども走っていて、毎日新聞で紹介された事もあります。
東京の都市計画史の縮図ですね。いつの時代も立派な道路を通したい人たちと、道路を通したくない住民たちがいて、どちらも譲れないものがあって。そういう歴史の上に、私たちが普段当たり前のように使っている道路があるのだと実感しました。
都心部が渋滞してるからと環七(環六も使ってるけど)で迂回して足立区に向かうとは、旦那(タクシーの客)は、結構な距離換算の料金を払ったに違いない・・・・まあ、お金よりも時間優先だろうし、そういう上客しかタクシーは使えなかった時代だろうしなぁ~映る幼稚園児も、今や還暦だもんな・・・・時代の変遷というか、こうした日本の成長期にできたインフラに、未だにお世話になっていることに感謝と、成長が終わり、気が付けば途上国と言われていた国々に紛れていく現代の日本とで、何か複雑な思いが過ってなりません。
旦那、遠回りになりますが、早いので、行きまっせ!なんて今のタクシー運転手が言ったら、接客態度不良と不当料金請求で訴えられるんじゃないか…。
まだ生まれていないこの時代にタイムスリップしてみたい
私事でなんですが、4:09からのBGMがドツボに嵌まりました
ハツラツとした時代🏃🏻♂️🏃♀️
すげー貴重だわ・・
環七が途切切れたところ「池上から堀ノ内に抜けた六郷街道を進む」ってどこのこと言ってるかさっぱりわからない
自分も六郷街道がなんなのかわかりませんが、池上は池上本門寺の池上、堀ノ内は方南町のあたりでしょうから、その間に道は昔そう呼ばれていたのでしょう。昭和30〜35年頃の古い地図を見ると、西側区間は中原街道〜246上馬(碑文谷あたりは一部完成)、若林〜新代田、甲州街道〜練馬(豊玉)の区間が未完成のようでした
@@zetec000 なるほど~自分も六郷街道が現在のどこの道を指すのかわからないです。池上通りではないだろうし・・・池上から方南町に抜ける道が思い浮かばないですね
この時に環八環七に鉄道を通して欲しかった
サークルセブンとエイトライナーのことですな。
作中の、環七が通ることを見越して開業したガソリンスタンド、今はどうなっているんだろうな。
同じ事考えてました。コロナが無ければ、調べに行きたいくらいです。
どのあたりなんでしょうね。映像見てわかる人いないのかな。もう今なくなってるとしたら探すのは結構難しそうですが、映像では出光っぽいので今ある出光を西側で探すと、豊玉陸橋、上馬、柿の木坂、大岡山の4か所。このうち角にあるのは柿の木坂と大岡山。昭和30年代前半の古地図アプリを見ると柿の木坂と大岡山付近はともにまだ未完成の区間なので、現存するスタンドであるのならどちらかかと。映像の手前の道路が環七になるとしたら雰囲気的には大岡山っぽいのですが、当時からあるスタンドなのでしょうか
いい音楽だねしかし。中原街道より先が無いんだ~。この頃に戻りたい
出来れば環七全体の工事予定地図を示し、その当時の進捗状況を示して欲しかった。
大変貴重な映像楽しませて貰いましたけど、余りにも密集していて、簡単に「都市開発」って訳にはいかなかった程、困難だったでしょうね!。Co2排出も半端なかった事でしょう!。
環七横浜に行った帰りに梅島の4号に抜けるよく使うがこんな苦労があったとは
横浜 産業道路 羽田から357に入り ゲートブリッジから葛西 中川の土手道を抜け梅島から4号かな?
4:30の御神木や道祖神様は、その後どうなったのでしょうか?
父が生きていたら、タクシー運転手時代の話に花が咲いただろうなあ。
一緒にドライブしてても都内はどこでも抜け道を知ってて、渋滞を避けて面白いほどスイスイ走ってた。
あ、お父さんに会いたくて泣けてきた。
お気持ちお察し致します。
自分の父はトラックの運転手だった頃がありまして、自分が大阪から埼玉県北に移住後に、仕事で長距離運行でたまに実家へ帰省時間があった時に、長距離運転手時代に何度か軽井沢を通ったと言う思い出を、現役のトラック運転手の自分に話してくれました。 亡くなる1年か2年ほど前です。多くはないけど良い思い出になりました。
ホント 会えるものなら会いたいですよね…😢
馬込にある第二京浜と環七の立体交差の美しさ。今も変わらない。
この映像は、貴重ですね~私の父は・首都高速・道路工事・の仕事をして最後は、タクシーの運転手でした、東京都内は、自分の庭みたいに道知ってましたね~今は亡き父にこの映像見せたいな~。
下手な映画よりよほど面白くてためになる
今のくだらない民放よりよっぽど面白いですね~
昔のドライバーさんは 本当に 凄いと思います👏✨ ナビも無い時代 …。凄く貴重な映像をありがとうございます。
「渋滞」という言葉、この時代にはまだ一般化されてなかったんだなぁ。
私も工事に携わりましたが、青砥〜奥戸の中川に架かる橋や葛西から南葛西にいたる環七が開通するのは だいぶ 後ですね 水戸街道から中川へ迂回して亀有に出ていたのもかなり長い間続きましたね!! 貴重な昭和の記録ですね!!
仕事でいつも通っていますよ
いつのものかは記憶にないけど、遺跡が出たので、調査してましたからね。
高校に上がる頃(S58前後)に開通したんだっけかな。
それにしても高層ビルどころかチョット背の高い建物すらないですね。昔は遠くまで見えてましたからねぇ。
環七や環八は大型車が多く往来しているので子供やお年寄りには声掛けをしなきゃいけません!!
へいダンナ!なんて言う人ほんとにいたんだ!
環状7号線建設で道路拡張現場の映像懐かしいですね、立ち退き、拡張の連続でした、瓦礫の中遊んだ記憶がよみがえり懐かしさいっぱいです、貴重な映像ありがとうございました。
今の環七を脳内再生しながら見ています。中原街道先の開発前は、江戸風情の残る下町に無理矢理バスが通る辺り、運転手さんに頭が下がります。後半足立区の映像は、近年とは言っても30年位前の外環整備中の八潮辺り開発中を思い出します。貴重な映像楽しく見させていただきました。
東京はもうこの頃、こういうバスが走っていたんですね。私は田舎育ちなのでボンネットバスでした。
小さな帽子をかぶる車掌のお姉さんから買う切符も、まるでオモチャの切符に穴だけ開けるようなハサミでした。
国鉄の硬い切符に四角く切り取るハサミに比べるといかにもチャチに見えたものです。
この5~6年前ではありますが、森繁久彌さんの映画「警察日記」がこの時代の田舎の風景でしたね。
これ東京都がやってんのか
こういうのに税金使うのはいいね
家に車は無かったけど、私が産まれたばかりの時ってこんなだったのか、35年生まれの世田谷育ちです。良い映像をありがとうございます。
とても貴重な映像をありがとうございます。現在は昔の面影は全くない「野沢銀座商店街」大変にぎやかな商店街だったと町の古老から聞いた事がありましたが、実際の映像を見て想像以上に賑やかそうでとても感動しました! いまでも旧野沢銀座裏の住宅地には戦前に中止になった東京オリンピック(駒沢)へ向かう為の専用道路が残っています。 この辺りは駒沢オリンピック公園と旧海軍病院(東京医療センター)などもある為、戦前戦後の航空写真も残っているはずですので是非公開して頂ければと思います。
私も以前(1966〜)駒沢付近に住んでおりました!
駒沢への抜け道や昭和の芸能人宅など多く有り、環七沿いの野沢ランド(銭湯)も何度か利用しました!1970年代は三茶〜野沢〜深沢〜自由が丘、辺りを自転車で行き来していたのは、懐かしい思い出です!
最初の方に出てくる春日橋のすぐ近くの生まれです。
橋の欄干が全く変わってないのですぐにどこだかわかりました!
建物の数なんか全然違うけどそこから線路を眺めた姿は同じでなんだか不思議な感じです。
幼い頃春日橋の欄間から顔を出して電車に手を振ると運転士が手を振り返してくれました。まだ京浜東北線は73系などの茶色の電車で東海道線は80系などと電気機関車が引く客車列車、同線を利用していた横須賀線は紺とクリーム色、3扉の車両で正面は金太郎の腹掛け型で颯爽と駆け抜けて行きました。あと時間が来るとパーラーカー付のこだま号など色々バラエティに富んでいました。
現在の環七は規格こそ当時の設計なので道幅が狭くて困ってはいるが、それでも渋滞は緩やかな方なのでよくできた環状線だなあと思う。
昭和36年にはこんな具合だったのに、ここから10年のうちに都心部ではほぼ今の通りの道路ネットワークと首都高〜東名〜名神という大動脈を一気に完成させたのだから、高度経済成長期の勢いというものが如何程の物だったのかが良く分かります。
東京オリンピック直前(開催3年前)だったのもあるでしょうね!
貴重な映像、嬉しいなぁ
とても懐かしい動画ありがとうございます。環七は長い間途切れ途切れで未舗装区間も点在していて、とても走りづらかったです。全線開通は昭和50年代までかかったと記憶してます。
もうこれはしびれます、野沢銀座、いやー、懐かしい、しかし、どこも、人が多いすね、今となにか違う、そうそうと言うのが一杯あって、ありがとう‼️
当時は東京とはいえ高層ビルは皆無、高いビルも無かったのですね。緑も多かった。昭和36年(1961年)だからまだ固定電話の無い家もあったと思う。
昭和30年代半ば頃、固定電話の無い家も… ほとんどの家に電話はありませんでした。権利金が高額だったようで、たしか抽選があって、簡単には引けなかったと思います。私はその頃中三でしたが、お隣さんに電話を借りて、出前のラーメンを注文してました。高校に入った頃、ようやく電話機が玄関に鎮座しました。オリンピックが終わった頃、どんどん普及したと、聞いたことがあります。
呼び出し電話ってのありましたね 電話そこにかけてもらい呼び出してもらうんです
町を作るには建物より先に
太い幅広の道路を作ってからにした方がいいですね。
建物の立ち退きほど時間とお金がかかる事は無いですから。
仰る通りです!それもインフラ整備の1つです。 その代表的な成功例の街の1つが、愛知県名古屋市です。
立派な道路があるのに、さっぱり住宅が建たないニュータウンとか、草ぼうぼうの工業団地なんかもありまして。(´Д`|||)
自分は70年代生まれだけど
どこか懐かしさを禁じ得ません
あの時代、、独特の匂いがあったんだよなぁ
交通戦争とまで言われて、子供たちも沢山事故で亡くなっちゃったみたいです。。
道路幅拡張で立ち退きになったところは、何年かたつと素晴らしい大名屋敷みたいな家がたつ。これがまた周囲と釣り合いがとれないんだなあ。
アナウンサーの「のろのろ運転」が可愛すぎる
私の生まれる直前の映像ですね。よく通る場所、今でも面影のある場所、まったく変わってしまった場所、さまざまな昔の姿を見ることが出来てとても素晴らしい映像です。
昔、多摩地区から都心に行くのに五日市街道を使ったそうですが道路が舗装してなくてガタガタ道だったと聞きました。とても信じられなかったのですがこの動画を見て納得です。
この動画に出てくる子供たちは今では70歳近いんですね。うーむ。
私もその70に近い者ですが、この記録映画を見て当時が思い出されました。
梅里辺りで青梅街道から分かれてしばらく狭い道が続く。立川市の砂川の方はもうまったくのド田舎で牧場や畑が広がっていた。
足立区も最近(?)まで牧場ありました 大谷田交差点の少し北にいったとこです いまはマンションです
大変貴重な映像でした。
懐かしいですねえ。最後の常磐線の踏み切りは、亀有駅の東側にあったもので、私は北口の近くに実家がありました。当時、環七は「十三間道路」と呼ばれていましたよ。子供の遊び場でした。昭和30年代の前半です。
懐かしい
今も春日橋の近くの大森に住んでいます
環七も環八も京急バスはまだボンネットが走ってましたね
人流物流の人達は(私の世代60代)山手通りを環六、明治通りは環五と今でも言いますね
今では京急の高架化が進んで南蒲田や平和島の交差点幾分渋滞緩和されましたがこの頃は道路整備が今よりずっと酷く大変そうですね
そういえば京急バスの運転手が狭い路地をスイスイ走っていくのを見て子供ながらに「凄い!」と驚いたのを思い出します
昭和36年って、まだまだマイカーを持っている人が少なかったと思うけど、映像を見るとけっこう車がたくさん走ってるんだね。
環七の陸橋とか、つまり60年前の技術のお世話になっているのか
建設中の道路が子供達のいい遊び場になってしまうというのは何かいいの。わしもあんな事をしていた記憶が……
今だと「危険だから立入禁止」になってしまうのじゃろうが。
言葉遣いが絵に描いたようなじいさん
あの遊んでいる子供たちが、私より7才ぐらい年上のの人だなあと思っていたところでした。
ですね あの当時は空き地があればどこでも遊べたですね 紙芝居 カタ屋 覗くと透けて見える魔法のメガネ 行商人が来てましたね
少しの時間だけタイムスリップしてみたい😮
東京が故郷の人には嬉しい映像ですね😊
環七と山手通りの間に住む自分にはとても興味深い
懐かしいですね。春日橋から特急こだまと脇にあった旭段ボール、あの界隈で一番高い建物だった消防署の火の見櫓、景色はもう一変してしまいましたね。
1:12あたりで京浜急行が映ってますね、この頃はまだツートンカラーだったんですなぁ…
父親が当時営業していたけど、東京の道がムチャクチャだったといってたなぁ。こういう事だったのかと、目で見られて嬉しい。
自動車が通るには大変だったと思いますが、元々は庶民が肩寄せ合って暮らしていたところです。映像に残る人々がのんびりと道を歩き、江戸時代の面影すら残すこの光景を道路に限らず高層建築で完全に消し去った現代は人との繋がりが消え、趣がない様な気がします。便利になったかもしれませんが失ったものも多いと思います。
オープニングにこんな運動会みたいな曲を使うセンスがこの時代ならではだな。
コメントありがとうございます。
音楽については、オリジナルではなく、オリジナルのものと雰囲気の似ているものに置き換えています。
昭和の東京シリーズ、他の動画もぜひお楽しみください。
60年代の東京渋すぎ。。。
当たり前で草
てか、その渋さがいいんだよ
60年代までは中野や練馬にも結構キャベツ畑や大根畑が広がっていたし、世田谷には塩で舗装した道なんてのもあった。狭い生活道路にバスが無理やり入ってくる光景があちこちでみられた。23区とは思えないような雑木林や屋敷森もあったなあ
私が産まれる1年ぐらい前ですけど、東京でもこんな感じだったのですね。私は愛知県の田舎の方で育ちましたが、国道と幹線の県道以外は、舗装道路が少なく小学生の頃やっと身近かな道が舗装させてきました。なんか懐かしいなあ。
2:05 馬込の交差点、おおむね今と同じ景色で笑った
まったく同感です、やはり理想の形なんですね
新幹線が着工から僅か5年で完成したのも驚きですが、東京オリンピックの僅か3年前なのに、環七の予定地はまだ建物が密集していた地域もあったなんて信じられないです。オリンピックに向けての突貫工事だったかもしれませんが、この映像のあとどんどん立ち退いていったのでしょうかね。
交差点の真ん中の路面電車軌道の上を堂々と歩いている人がいて時代を感じる
45年ぐらい前ですが、環七は葛西付近で分断されていて、先行開通区間の南葛西付近でよくキャッチボールして遊んだ記憶があります。
往来の幅が大八車やリヤカーの基準だったから自動車では狭かったですねw 高層建築が多くなってくると、また風景が一変しますね、人の力で今日の姿が有ると思うと只々脱帽です。
馬込の立体交差が理想と分かっていたのに、、、なぜ環七の主要交差点全てに採用しなかった!
大田区のHPによると立体が完成したのが昭和15年と戦前なので、もしかしたらこの付近がこの映像のように宅地化する前の完成だったのかもしれません。あるいは開戦前年なのであまり強情だと非国民認定されそうだから戦後よりスムーズに買収できたのかもしれません
日本がグングン成長してた時。
この時代を知らないけどなんかいいな。活気を感じる。
懐かしい車ばかりですよ~
1960年生まれで北区の環七沿いに住んでたけど交通量は多かったね
公害のせいで喘息になって苦しい思いしたな
ビートたけしが(半分ネタだろうけど)言っていたのは
菊次郎「うちの土地が環状七号線の用地買収の対象になる。土地が高く売れる」
と言って、前祝だと言って酒を飲んでいたが、実際に用地買収の対象は数軒隣までで土地は売れない、排ガスまみれになるとロクなことが無かったとか・・・
立ち退いてたら、今のビートたけしさんはいなかったのかも!?
今年84になる父がいうには都内の渋滞は昔の方がひどかったそうです。地道に道路インフラを良くしてきた結果かな。
バブル時代が1番酷かったように思います。 環八で10キロを超える大渋滞とか。 一般道ですよ!w
いまに比べて10年前、10年前に比べて20年前は比較にならないほど渋滞してましたよ。いまも日進月歩で渋滞は緩和されてきています。
環八が完全開通する前は、広い道路から途中で物凄く狭い道に入り込み、段々不安になりつつもず~っと真っ直ぐ行ったら笹目通りという大通りに辿り着いた。映像見る限り環七通りも昔はそんなんだったんだな。
この頃の東京の街中は、地方都市のそれと大して変わらなかったんですね。
東京と地方で発展に格差が広がったのがこの頃で、地方都市はこの頃の感じで街が止まってる所が多いですね。昭和40年代前半までは、都内も地方も街並みはあまり変わらなかった。高度成長で若者が都会に就職するようになり、地方の発展は止まってしまった。東京は人が増え車が増え、スクラップアンドビルドで街が変わって行く。
環7で足立までスルスルッと回れるなんて夢の時代だね
言い方悪いけど、大昔なのにすごいお洒落な作りのビデオですね!
人々の暮らしも見られて、とてもうれしい。
工事してくれてる人々やこの時代の人たちに感謝ですね。
今の時代も引き継いで快適に使っています。、ありがとう。
当時のタクシー運転手は、当然ナビもないから道という道に熟知していなくては勤まらない特殊技能であったろう。また標識も少なかった当時であるから。近所に道を訊ねるも日常茶飯事
。
いや、今、この時代にタイムスリップして東京を走ってみたいといつも思ってしまう。
そういえば近頃、道を尋ねられる事ってなくなったかな。スマホが流行る前まではあったのに
なんだかんだ言っても、国、都の職員は偉い‼️現代の道路があるのも職員の努力の賜物です。😀こういう人たちがいたからこそ、今の東京があるのです🙋若い人、そのへんよろしくお願いしまーす👍️
関わった皆様の努力だと思います。
地中電線化や都市計画が滅茶苦茶だとおもうが。。ダメダメなとこ多いね。
環七は都道だから、東京都の役人が作ったかと…
関東大震災の復興計画の計画道路で、戦争の影響で計画が遅延。オリンピックで計画が促進されたらしいです。
この頃は東京近郊でもまだ狭い道や田んぼも結構残ってた
昭和30年生まれ。世田谷区で駒沢オリンピック公園も近い。従兄弟が来て、野球を見に行った記憶がかすかにある。玉川通りも砂利道。駒沢通りも砂利道だった。世田谷区もドッポントイレが当たり前、畑には肥溜めがあり、金魚売りのリヤカーもよく見かけた。まだ自家用車は無かったな。
3:55 これは環状7号線ではなく玉川通りの新町1丁目交差点付近ではないでしょうか?環状7号線同様にここから野沢付近にかけて拡幅工事が遅れていたようなので当時の編集スタッフが誤ったものと思われます。
すごい、よくわかりますね。確かにこの角度は桜新町への分岐の場所のようで、古地図アプリで昭和30〜35年頃の地図を見ると玉電の旧道の方しかなく、現246はこの先まだ道路がなかったようなので当時完成したばかりの道路の一つだったために混同したんでしょうね
9:25
典型的な道路御殿w
NHKよりおもしろい
環七は西側、首都高中央環状線は逆に東側が先に開通してる。
葛飾のあたりだと開通した年がそれほど違わないが
西側だと50年くらい違う。
神社があってそれが障害になってたとききます
翌昭和37年には東京都(23区と都下併せて)の人口が1千万人を越え、都市問題が一層深刻化を増してきた頃です。
あの狭い道がバス通り(^_^;)
環七にリヤカー
9:10~ 足立区の一部にようやく建設の『 鍬 』が入り始めたのところで思わず笑ってしまった
当時としては当たり前だが
起工式では未だにエライさんが鍬を持って「エイ!エイ!」とやりますね。
(・ε・` )
なんだこのイニシエ感…自分も随分長く生きてきたなと実感。トシをとるはずだわ
自分の生まれ年の映像ですね、環七は砂利道だったけどな
環状7号線のところ全然ちがうなぁ
当時、めんどくさかっただろうな
前にラジオで環七は発案から完成まで90年以上かかってるなんて言ってたな
夢と希望があった時代
何だろう。交通量も人も今の方が多いのに、この時代には活気がある
8:48 平和橋この橋の下が日雇い労務者向けの職安が有り、、仕事にあぶれた人が此の橋からよく飛び降りてた、、、
雪の日に走って来た米軍の戦車?が滑って左側の斜面に落ちて来たと聞いた事も、、、
/一時\
|STOP|
\停止/
||
近年逆三角形の一時停止標識にSTOP表記が追加されてますが、進駐軍対策か戦後の一時期は海外標準に準じた
こんな8角形の標識もあったんですね。
環七と第二京浜(国道1号)の立体交差が日本で初めての立体交差である。と、自分の兄は小学生の時に習った。と言ってます。
力道山の映画にこの松原陸橋がでていた記憶があります。
自分は80年12月生まれですがこの古きよき年代感は後の年代には出せません
スーパーカブ もいるなあ、当時の人はそのスーパーカブc100が半世紀以上経った現代でも実働で走ってるとは思うまい…
100はなかったんじゃないかな 50 90 120 だと思った 詳しくは月光仮面に聞いて
◆子どものころの都内の道路は
四六時中ずっと道路工事していたイメージがあります。
環七のように復員拡張工事もあり
都電の線路を撤去する工事もあり
路面を板で敷き詰めた地下鉄工事なんてのもあり。
メンコや三角ベースに明け暮れた町内の道路も
徐々にクルマの交通量が増えて一方通行になったり
砂利道だった細い裏路地さえも
アスファルトで覆われだしたのもこのころからでしたね~
( ΦωΦ)
環七も松本陸橋あたりは砂利道だった
環七は今でも混んでてイライラするけどな笑
それでも30年くらい前よりはスムーズに走れますよ
当時の映像観て環七と中原街道の交わる「長原陸橋」はまだなく高円寺方面へは昔の細い路地みたいで現在のように立派ではなかった
高校生の時、受験校の東京工業大学の下見に群馬県の高崎市から国道17号を自転車で走り環状7号を走り
それぞれの時代には面白さやつらさがたくさんあるが、昭和の方がいきいきしている。
これは人々が前に向かっていく希望の表れと思いやりの精神があるからではないかなと思う。
8:52 CJ3Bジープ発見!!!!
トランペット?の演奏がおもしろかった!
懐かしいですね観音開きのトヨペットクラウン。1980年代までは世田谷にもまだ畑が結構あり第一京浜を日通の品川6ナンバーのオート三輪が走っていたりしました。昔の名残なのか北区の神谷から十条にかけての区間だけは今でもやたらと幅員が狭いですね。
1980年代は、昭和55年から平成元年(1989年)、オート三輪なんか走っていませんよ!
@@哲朗高橋-x6uさん 横から失礼します。オート三輪は、実際に1985年頃迄港区の海岸通りなども走っていましたよ。個人タクシーでは板橋区のダットサンや大田区のタテ目のセドリック、クラウンの観音開きなども走っていて、毎日新聞で紹介された事もあります。
東京の都市計画史の縮図ですね。いつの時代も立派な道路を通したい人たちと、道路を通したくない住民たちがいて、どちらも譲れないものがあって。そういう歴史の上に、私たちが普段当たり前のように使っている道路があるのだと実感しました。
都心部が渋滞してるからと環七(環六も使ってるけど)で迂回して足立区に向かうとは、
旦那(タクシーの客)は、結構な距離換算の料金を払ったに違いない・・・・
まあ、お金よりも時間優先だろうし、そういう上客しか
タクシーは使えなかった時代だろうしなぁ~
映る幼稚園児も、今や還暦だもんな・・・・
時代の変遷というか、こうした日本の成長期にできたインフラに、未だにお世話になっていることに感謝と、成長が終わり、気が付けば途上国と言われていた国々に紛れていく現代の日本とで、何か複雑な思いが過ってなりません。
旦那、遠回りになりますが、早いので、行きまっせ!なんて今のタクシー運転手が言ったら、接客態度不良と不当料金請求で訴えられるんじゃないか…。
まだ生まれていないこの時代にタイムスリップしてみたい
私事でなんですが、4:09からのBGMがドツボに嵌まりました
ハツラツとした時代🏃🏻♂️🏃♀️
すげー貴重だわ・・
環七が途切切れたところ「池上から堀ノ内に抜けた六郷街道を進む」って
どこのこと言ってるかさっぱりわからない
自分も六郷街道がなんなのかわかりませんが、池上は池上本門寺の池上、堀ノ内は方南町のあたりでしょうから、その間に道は昔そう呼ばれていたのでしょう。昭和30〜35年頃の古い地図を見ると、西側区間は中原街道〜246上馬(碑文谷あたりは一部完成)、若林〜新代田、甲州街道〜練馬(豊玉)の区間が未完成のようでした
@@zetec000
なるほど~
自分も六郷街道が現在のどこの道を指すのかわからないです。池上通りではないだろうし・・・池上から方南町に抜ける道が思い浮かばないですね
この時に環八環七に鉄道を通して欲しかった
サークルセブンとエイトライナーのことですな。
作中の、環七が通ることを見越して開業したガソリンスタンド、今はどうなっているんだろうな。
同じ事考えてました。
コロナが無ければ、調べに行きたいくらいです。
どのあたりなんでしょうね。映像見てわかる人いないのかな。もう今なくなってるとしたら探すのは結構難しそうですが、映像では出光っぽいので今ある出光を西側で探すと、豊玉陸橋、上馬、柿の木坂、大岡山の4か所。このうち角にあるのは柿の木坂と大岡山。昭和30年代前半の古地図アプリを見ると柿の木坂と大岡山付近はともにまだ未完成の区間なので、現存するスタンドであるのならどちらかかと。
映像の手前の道路が環七になるとしたら雰囲気的には大岡山っぽいのですが、当時からあるスタンドなのでしょうか
いい音楽だねしかし。中原街道より先が無いんだ~。この頃に戻りたい
出来れば環七全体の工事予定地図を示し、その当時の進捗状況を示して欲しかった。
大変貴重な映像楽しませて貰いましたけど、余りにも密集していて、簡単に「都市開発」って訳にはいかなかった程、困難だったでしょうね!。
Co2排出も半端なかった事でしょう!。
環七
横浜に行った帰りに梅島の4号に抜けるよく使うがこんな苦労があったとは
横浜 産業道路 羽田から357に入り ゲートブリッジから葛西 中川の土手道を抜け梅島から4号かな?
4:30の御神木や道祖神様は、その後どうなったのでしょうか?