【国鉄時刻表】1964年9月 新潟駅信越本線上越線 JAPAN NIIGATA station ;SHINETSU JOETSU LINE time table 1964
HTML-код
- Опубликовано: 6 окт 2024
- 【時刻表の紹介】
1964年9月ダイヤ改正後
新潟駅 信越本線上越線
【情報の修正】
● 6:07 「準急あがの2号」の右情報欄の到着駅について
(誤)川内 ⇒ (正)仙台
ご指摘いただき、ありがとうございました。
当時の思い出や、思い入れのある列車について
コメント欄で教えて頂けますと
大変嬉しいです。
※停車駅の時刻は一部を除き発車時刻となっています。
当時の雰囲気を味わうための参考としていただければ幸いです。
↓チャンネル登録はこちら
/ @tomoyankun
お借りしたBGM
「雪風」/作(編)曲 : のる 様
ワスレナグサ/作(編)曲 : まんぼう二等兵 様
フリーBGM DOVA-SYNDROME
#鉄道 #昭和39年 #日本国有鉄道 #発車時刻表 ##時刻表 #上越線 #信越本線 #国鉄 #新潟 #キハ58 #過去鉄 #東北
新潟駅ですか。すっかり様変わりしたことでしょう。
10年以上前ですが、アルビレックス新潟の試合目当てでよく行きましたね…
ご視聴とコメントありがとうございます。
現在は高架化され、以前とは雰囲気が全く違うものになりましたね。
0:26 高田直通普通列車は既に廃止され 第3セクターになってから現在でも 特急列車の乗り入れを行っている
1964年当時 高田は上越市から分離され 高田市となっていた
2:11 在来線とき号は去年11月3日の復刻運転の時も上野8時30分新潟13時47分だった
ご視聴とコメントありがとうございます。
復刻運転は当時の様子を思い出すことができて楽しいですね。これからも変わらず復刻運転を続けていってもらえると、鉄道好きの一人としては嬉しい限りです。
大阪発着で有名だった急行「越後」が、この頃は上野発着とは知りませんでした。また、特急「とき」は食堂車連結でたったの一往復は、とても意外でした。今回、一番驚いたのが急行「いいで」、会津若松経由で東北本線で上野と結んでいたとは今では考えられない列車ですね。派手さはないけれど新潟発着の列車には、「日本海」や「きたぐに」などなじみのある列車が多いのが懐かしく思えます。552番の大阪行き普通列車、私も大阪まで乗ってみたいと思いましたが国鉄のあのブルーのボックスシートでしょうか、大阪に着いた時には身体の節々にきっと痛みを覚えた事でしょうね。今回もどうもありがとうございました!
大阪行きの普通列車が2本も運転されていたのも驚きです。北陸本線の富山、金沢、福井辺りは夜行列車になりますが、この頃は大きな需要があったものと思います。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
急行「いいで」には私も大変驚きました。現在では考えられない経路で運転されていますね。上野~郡山間は、急行「ざおう(上野ー山形)」とも併結していました。変則的な経路かつ多層建ての列車という、話題が尽きない列車ですね。
552レは、編成の情報はありませんが、きっとあのボックスシートだったでしょうね。深夜の時間帯以外は各駅に停まる列車で、終点まで長く感じたと思います。
@@tomoyankun さん
急行「いいで」、ググってみました。いろいろと面白い列車ですね。新潟駅を出発した時は4両編成で会津若松駅で3両増結、さらに郡山駅で急行「ざおう」の5両を併結して計12両編成の急行列車として上野駅に到着。逆に下り列車は12両で出発して新潟駅にはその1/3の4両で到着。さらに歴史好きの私には、ある事に気づきました。この「いいで」に乗車するだけで4,5か所の戊辰戦争時の古戦場を巡ることができるようです。新潟(新潟港の戦い、及びその沖での寺泊沖海戦)、会津若松(会津藩鶴ヶ城の攻防戦)、白河(白河口の戦い)、上野(彰義隊の戦い)、白河で下車して少し足を延ばせば二本松(二本松城の攻防戦)など「いいで」一本で結構な史跡を巡ることができたので、今となってはとても残念に思うようになりました。これは、本当に乗ってみたかった急行列車です。
「いいで」は新幹線停車の那須塩原を通過する急行でした。上越線が大雪で運休でも、「いいで」だけは運転していました。
@@yamayuki さん
当時は、同一発着区間でも、設定順に愛称を付ける事が多く、上野ー新潟間の急行でも、「佐渡」「越後」「越路」とありました(1968年10月の白紙ダイヤ改正で「佐渡」に統一)
いつもありがとうございます。
とき号はこの時代から今に至るまで一時期を除いて東京と新潟を結ぶエースの存在ですね。
他にも急行や長距離の普通列車など絶え間なく列車が動いていたことが良くわかります。
朝早く出る上野行きの普通列車も各駅で乗り降りを繰り返していたのでしょう。
日々の生活で乗る人と長距離を乗り通す人が当たり前に同じ車内で過ごしていたのも時代を語る上で興味深いものですね。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
日本中で人の往来が活発になってきていたことがわかりますね。
日々の生活で乗る人と、長距離を乗り通す人が同じ車内にいることは鉄道旅の良さですね。現在でも18切符などで旅行していると、車内の話し言葉が変わっていくことで、「遠くまできたなぁ」と実感します。
電車・列車が系統分離される前の時刻表は見ていて楽しいです。どこを経由するのか想像するのがいいです。
新幹線が発達して、例えば新潟から金沢が遠くなったというか行きにくくなった気がします。
4:47
急行越路の106時間の遅延は初めて知りました。
それだけ当時の豪雪が凄かったのか思い知らされます。
田中角栄が上越新幹線を作らせたのも頷けます。
列車が駅に立ち往生して地元の方からの炊き出しを頂きながら4日間待機していたとのことです。除雪してもまた雪の繰り返しで大変だったことが想像できます。
何年か前に新潟県内でE129系の電車が駅と駅の間で立ち往生して一晩中車内で過ごしたという例もあります。
近年の気候変動は猛暑だけでなく豪雨や強烈な寒波として現れています。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
私も106時間の遅延の件を知った時には大変驚きました。
地元の方からの炊き出しがあったのですね。携帯電話が無く、外出中に情報を手に入れる手段が限られる時代でしたから、乗客の皆さんは大変勇気づけられたでしょうね。
@@tomoyankunさん
元国鉄車掌の坂本衛氏の著書に依ると坂本氏は、寝台特急「日本海」に乗務していた時に所謂「83豪雪」に巻き込まれ、羽越線鼠ヶ関で8時間も列車が立ち往生する羽目になったとか、その時のエピソードを読むと、鉄道マンの意地とプライドが垣間見えますね。
@@TSUYOS185 新潟の雪雲は日本海の水蒸気を吸い上げて発達するので海水温が上がると逆に豪雪も増えていくらしいです
106時間も列車内にカンヅメ……一番大変なのはトイレではなかったかと思います。
当時は停車中のトイレは使えなかったと思うので……😅
上野行きの普通列車にも上越線経由と信越本線長野経由の2パターンがあるのにはびっくりしました。
大阪行きの普通列車もあったことにも驚きですが、寝台車が連結されていなかったようなので長時間の乗車は大変だったろうなと思います。
新津行きの列車に客車・ディーゼル・電車の3タイプがあるのにも驚きです。
1964年9月だと、特急「白鳥」は大阪〜青森・大阪〜上野間運転で、新潟立寄りは無かった。普通列車は37本設定されていた。車種も電車あり、客車あり、ディーゼルとバラエティにとんでいた。普通列車は、今の様に決まった発車時刻で設定されて居らず、時隔もバラバラです。
お約束の長距離普通も走ってます。信越経由の上野行、上越経由の上野行に、大阪行きの普通が2本走らせているのは、吃驚。
優等列車は、とき、佐渡、赤倉、しらゆき、日本海と……懐かしい名前の列車ばかりです。
特急はまだまだ特別な列車で、1本しか設定されて居ない。
他の方も触れてましたが、38豪雪の時は、小学校時代でした。テレビニュースで観てました。自衛隊が出動し、雪掻してる映像が記憶に御座います。
急行「赤倉」は乗ってみたかった。最後まで電車化されなかった。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
今回の時刻表の内容を的確にわかりやすくまとめていただきありがとうございます。大阪行きの普通列車が「2本」も設定されていることには大変驚きました。
自然災害には当時から自衛隊をはじめ、色々な方が対応していたのですね。携帯電話の無い時代ですし、巻き込まれた人は不安だったでしょうね。
「赤倉」は全線電化区間を走行できるようになっても、気動車のまま走り続けましたね。一度乗り通してみたかったです。
【赤倉】は佐渡の廃止などで余剰となった165系が晩年に投入されたかと。(*´ω`*)
@@クモハ165 さんへ。ご指摘頂きまして、誠に有難う御座います。
調べたら、1982年11月15日のダイヤ改正で、58系気動車から165系電車(佐渡と共通運用)に車種が変わったとの事でした。
その後、1985年のダイヤ改正で「赤倉」から「南越後」に改称されたとの事です。
@@鵺屋敷の管理人鵺太郎 さん
どういたしまして。(*´ω`*)非冷房のキハ58から165系への変更だと、同じボックスシートとはいえ、相当に快適になったことでしょうな。
64年信越本線時刻表、新潟〜長岡間のうち、東三条〜三条だけがまだ単線
ご視聴とコメントありがとうございます。
東三条~三条間はまだ単線だったのですね。
よくこの本数を走らせていたなと驚きました。
とき(朱鷺)は当時1往復
1978年10月には14往復の大所帯になり上越新幹線開業まで活躍した
(181系ハチマキボンネットと183系1000番台)
現在は上越新幹線として走破している
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
「とき」に限らず、当時の特急は本数が少なかったですね。
1往復だけ設定されている、まさしく「特別急行」の雰囲気が出ていました。
@@tomoyankun さん
地方路線は国鉄末期迄急行がメインで、私の地元の四国でも、特急「しおかぜ」「南風」(共に高松発着のキハ181時代)が、1日3~4往復しか無く、後は、急行メインでした
予讃線→「うわじま」「いよ」
土讃線→「あしずり」「土佐」
高徳線→「阿波」「むろと」
上野行・・・上越経由、信越経由、磐・西経由と3通り 特に6時台の二本の普通列車の所要時間の差が上越経由と信越経由で違うのが興味深く感じました。
ご視聴とコメントありがとうございます。
単に所要時間が短い方で運転するのではなく、ニーズに合わせて設定していたのでしょうね。当時の時刻表は様々な地方で同様のケースが存在しており、大変興味深いです。
6:02 到着時刻紹介の方が仙台でなく川内になってますよ
ご視聴とコメントありがとうございます。
概要欄に訂正文を記載させていただきますね。
ご指摘ありがとうございました。
当時は日本海が新潟経由で、白鳥は新潟経由でなかったのが興味深いです。
日本海が特急昇格してからは、逆でしたよね。いいで号は81年に乗車しましたが、
その頃とダイヤがほとんど変わらないのに驚きました。急行の列車名がいいですね。
急行越路は内田百閒の阿房列車シリーズにも登場しますね。後にときがたくさん運転されるのが
思いつかないダイヤです。
ご視聴とコメントありがとうございます。
「いいで」はいくつかの年代の時刻表を見てみましたが、仰る通り、ダイヤはほとんど変わらず走っていますね。当時の優等列車は、名称が色々と存在していてわかりにくいところはありますが、どれも旅情をかきたてる良い名前ですね。
y kunisanさん
後「日本海」が寝台特急に格上げされた時急行を廃止する予定だったのですが、大阪から北陸三県・新潟県への郵便・小荷物輸送の為に存続させて欲しいという要望があって、それで急行「日本海」のスジを引き継いだのが急行「きたぐに」でした。
この頃は加茂手前の加茂川橋梁で蒲原鉄道の電車と並走、加茂で蒲原鉄道の電車に接続していた頃ですね。
今は無き地上ホーム時代の新潟駅にはこんなドラマがあったんだなって思うと感動する。
にしても今よりも終電が早い気がする
ご視聴とコメントありがとうございます。
当時の様子を想像する事ができることも、時刻表の魅力ですね。
当時、夜行列車は豊富でしたが、多くの駅では終電は早いですね。
DとかMが付いてないのは客車列車ですね。磐越西線は平成の初め頃まで客車の普通列車が残ってました。
後半のBGMはなんというタイトルですか?
ご視聴とコメントありがとうございます。
後半のBGMは、まんぼう二等兵 様制作の「ワスレナグサ」です。
とても好きでよく聞いている曲です。
教えて頂きありがとうございます!
いつも楽しみに見ておりますので、今後ともよろしくお願いします。
大昔は、最遠で郡山、仙台、上野まで行けたんですね。
0:45 新潟から福島県に直通する列車は現在廃止され 現在は新津駅で会津若松方面の列車に接続
106時間も遅れた三八豪雪のときの急行「越路」、どこかで運転打ち切りにするという選択肢はなかったんですかね・・・。乗っていた人のお話を聞いてみたいです。
ご視聴とコメントありがとうございます。
現在ですと、打ち切りになってしまう可能性が高いでしょうね。体験された方のお話を詳しく聞いてみたいですね。
大阪や名古屋へも乗り換え無しで行ける時代でしたね。
3:42 特急しらゆきのルーツ 準急新井行き
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
現在も活躍する列車のルーツをみつけると、歴史を感じることができて面白いですよね。
@@tomoyankun
新潟市と妙高市を乗り換えなしでいける列車のルーツ
準急から始まり急行赤倉→特急みのり(1年間高田駅で乗り換え)→快速くびき野→特急しらゆき・新井快速(快速は使っている115系の使用終了に伴い廃止)→特急しらゆきにつながっています
返信ありがとうございます。
これだけ長い年月にわたって設定されていることから考えると、新潟市ー妙高市間の移動需要が根強く存在していることを表していますね。
@@ほしのあい-l7w 「赤倉」・「とがくし」→「南越後」・「とがくし」→「赤倉」→「みのり」。「とがくし」も忘れないで。
普通列車のバリエーション多い!
電車、汽車、客レ、夜行、果てには多層立て…
これは当時の新潟駅は見応えあったでしょうね。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
本数はそこまで多くないものの、様々な列車が設定されていて、見ごたえがあったでしょうね。地上ホームで色んな列車の写真を撮ってみたかったです。
最近まであったMLえちごがいかに俊足だったかよくわかります
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
仰る通りですね。約5時間30分で結んでいたわけですから、当時の急行より少し遅い程度ですね。大変な俊足であったことがわかります。
@@tomoyankun 返信ありがとうございます。新津~大宮の爆走区間だと約4時間半でした。大宮1分乗り換えに成功すると、東海道の始発静岡行につながり、博多までたどり着けるという恐ろしいスジでしたね
返信ありがとうございます。
遠くまで効率よく移動できますが、博多に到着した頃には、お尻が大変なことになっていそうですね。笑
あがの2号の仙台着時刻のところが川内になってた
ご視聴とコメントありがとうございます。
ご指摘の通り、「川内」になっておりました。
概要欄に訂正文を掲載させていただきます。
ご指摘ありがとうございました。
東京(上野)~新潟間を結ぶ特急急行があまりにも少なくて、衝撃です。
当時はそんなに需要がなかったのでしょうか?
しかも夜行が多いですね。今では日帰り出張の範囲内というイメージですが。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
現在の列車本数を考えると、このダイヤでの優等列車の数は少ないように見えますね。当時の需要を知る手がかりになる情報を探してみましたが、残念ながらありませんでした。特急で約4時間40分、急行で約5時間かかることを考えると、日帰りはなかなか難しいところだったのでしょうね。
@@tomoyankun さん
もしかしたら、当時の上野~新潟は信越本線回りが多かったのかもしれませんね、但しこの3年前に「新清水トンネル」の開通で、上越線の大部分が複線化されてはいるんですが‥‥‥‥
@@原田寛-e3u それで分かりました。
ご指摘の「新清水トンネル」の開通により上越線の複線化が完成したのは昭和42(1967)年であり、この時刻表の3年「後」だからです。
ただ、そうは言っても、昭和39年当時でも、動画に登場する新潟から信越本線経由の列車は1本(普通)が運行されていたのみですね。
もっとも、磐越西線経由の列車(但し、郡山・仙台行が多い)が多く運行されている上、高田・新井・上田行の列車が存在していることから、何らかの形で上越線経由のダイヤが過密にならないよう調整していたかもしれません。この頃は、上越線の運行本数と比較して、意外に信越本線を走る列車(特急・急行を含め)が多く運行されています。
当時は新潟市の人口が金沢市とさほど変わらなかったことも影響しているかもしれません。
@@kataakeo7730 さん
それか、首都圏と日本海側を結ぶ貨物列車の需要が大きかったのでは?という考え方も出来ますね。
大阪行きの普通乗りたいですね
腰が大変なことになりそうですけどw
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
一回経験すればもう満足してしまうでしょうね笑