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いつも動画に心が救われます。メシアって今のスターシードたちかな。エデンのような、レムリアのような、愛と調和の世界が訪れるように祈ります。
今回の絵の雰囲気、とても好きです❣️いつもありがとうございます😊
ありがとうございました
ありがとうございました。
蛇は人間の思考が作り出す『欲望』のこと生命の樹は『愛』善悪の知恵の樹は『人間の思考』つまり、人間は『思考の判断』を重視するようになり、人間が本来持っている『心』と『愛』の判断から離れただけの物語
蛇(サタン)は神の支配権に挑戦したんですね。
ダビデの子孫、、、、まさに今の時代も同じことが( i _ i )これ以上悲劇を繰り返してはならないですね。
ダビデ王の子孫たちは欲望のままやってた、自分も他人ごとに聞こえない実感しました。
旧約と新約は、つながってる。
びっくりしました。体験談が、ダブってしまって。バタン? 815 お話と絵をありがとうございます。
神は霊です。その霊とは愛です。ヨハネ第一の手紙4:8「愛さない者は、神を知らない。神は愛である。」また聖書に出てくる天使には羽がありませんので、見た目はかなり人間に近いと思われます。聖書に出てくる天使はみんな男性のようです。我々人間は、神の姿、愛に造られた。しかし善悪を知る木の実を食べ、神の完全なる愛を基準にした善悪の判断ではなく、自分達の善悪の判断で生きるようになってしまった。これが「原罪」であると思われます。神は天使にも人間にも自由意志を与えました。神に従うも、自分の意志に従うも、自由なのです。サタンとは堕落した天使(サタンとはヘブライ語で「訴える者」という意味)堕落した天使とは、神の善悪の判断ではなく自分の善悪の判断を優先し堕落した天使の事です。しかし人間とは違い、サタンとサタンに従った堕落した天使達(悪霊)は、神が愛である事を知りながら、神に背きました。ですので、人間は福音の三要素を信じ悔い改めたら罪がゆるされ、永遠の命を得る事ができますが、サタンとサタンに従った堕落した天使達は、終末には地獄に閉じ込められる事が決まってます。神が愛なら、地獄に閉じ込めてるのはおかしいと思われるかもしれませんが、地獄とは言ってみれば内側から鍵がかかっている状態かと思います。たとえ神が「地獄には鍵はかかっていない、地獄の戸は内側から引けばでてこれる」と言っても、神に従う事を拒絶する者(神の愛を拒否する者)は 引き戸を永遠に押し続けてしまうのではないでしょうか?キリストを信じれば救われるのに、それを拒絶する人達と同じように。ユダは自殺してしまいましたが、自殺とは自分の命を粗末にする事です。ユダは後悔したから自殺したと思います。しかし、十字架をかつぐイエスに「ゆるして欲しい」とかけよれば、イエスはユダをゆるしたでしょう。「後悔」と「悔い改め」の違いは、ふ後悔とは、自分のした事を悔いるだけです。悔い改めとは、神の愛を信じ、神にゆるしをこい、ゆるして貰って、自己を改め、神に喜んで従い、希望を持って「生きる」事です。 神は祝福も与えますが、試練も与えます。試練はつらいです。病気や災害はできれば避けたい。しかし人間とは たいてい満ち足りている時は、真実の探求より幸福の追求に忙しいです。試練がなければ、人間は真理を追求し、神を探し求める事もしません。神は試練も与えますが、試練もまた恵みです。試練は、神を探し求め、人間に永遠の命を得て欲しいと願う「神の愛」です。キリスト教に一番近い宗教は仏教だと私は思います。仏教の「慈悲の瞑想(嫌いな人間の幸せを願う事)」と、新約聖書のイエス・キリストの教え「汝の敵を愛せよ」と、旧約聖書のエゼキエル書のメッセージ「あなたはあなたの敵の事も愛しておられる神を愛せますか?」は類似していると思います。「敵を愛せよ」とは、愛する事は好む事よりも偉大である、たとえ好まずとも愛する事は可能であるという意味だと思います。素晴らしい教えですよね。キリスト教は日本人にとって理解しがたい宗教という事はないと思います。^ ^旧約聖書の神というと、「裁きの神」というイメージを持つかたは多いですが、神が人の人生を終わらせる事を「殺人」と捉えるか、神が「その人の人生をそこで終わらせた」と捉えるかで違ってくると思います。暖かい布団の上で80才で死ぬのも、洪水で若くして死ぬのも、どちらも神がその人の人生を「そこまで」、と決めただけの事とも考えられると思います。創世記6章5節にこうあります。「5 主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。」時空を超越した神の目から見て、愛に生きる可能性のない人間を長生きさせる事は、人間にとっても、何か意味があるでしょうか?全てを見透す事ができる神の目に、愛に生きる可能性の無い人間の地上生涯を早めに終わらせて、その人の罪がそれ以上重くならないうちに神がその人の地上生涯を終えさせることは、神の愛と言えるかと思います。実存の解釈についてわかりやすく説明されている投稿があったから日本語にしたので、良かったら暇つぶしに読んで下さい。🕊命題は「『悪』を作ったのも神だろうか?」ある大学の教授が生徒との間で議論を始めた。教授は「神は全ての存在するものを創造しただろうか?」と質問した。生徒達は「はい、そう思います」と答えた。教授は「その場合、神は悪も造った、そうだろ?なぜなら悪は存在する。」そして教授は続けた。生徒達はこれに答えがないので黙っていた。それで教授は、つまり信仰とは非論理的な神話だと結論付けた。そこで一人の生徒が立ち上がり教授に質問した。彼は教授に「先生 『寒さ』は存在するでしょうか?」と質問した。教授は「寒さはもちろん存在する。君は『寒さ』を感じたことがないのか?」と言った。生徒は「しかしわたし達が物理の授業から学んだ事によると、『寒さ』は存在しないのです。『冷たさ』は熱が不在になった場合にだけ存在するのです。これを観察できる唯一の方法は熱のエネルギーが他の物体に伝達し移動した時です。熱がなければ物体はそもそもなんの反応も示しません。不活性の存在です。つまり『寒さ(冷たさ)』は存在しません。われわれは「寒さ(冷たさ)」という言葉を熱が不在の状態を説明するためだけに作りました。では暗闇はどうでしょうか?と彼は続けた。教授は「暗闇はもちろん存在する。」と答えた。生徒は「暗闇は光の完全な不在の結果出現します。光や明るさについてわれわれは学ぶ事ができますが、暗闇自体については学ぶ事ができません。光のプリズムは、光が構成するすべての異なる色を表示し、その波長に基づいて光線を分離します。その光のいづれも存在しない時に暗闇は現れます。」と言いました。そして彼は教授に「では悪は存在するでしょうか?」と言いました。教授は何も答えませんでした。彼は続けました。「神は悪を作りませんでした。人の心に神が不在の状態の時、人間的な愛がない時、信仰がない時に悪は出現します。愛や信仰とは暖かさや光であります。神、愛、信仰は存在します。それらが不在の状態が『悪』に繋がります。」🕊創世記1:6〜1:7にある「上の水」が洪水の時雨となり降ってきたのだと思います。6 神はまた言われた、「水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ」。7 そのようになった。神はおおぞらを造って、おおぞらの下の水とおおぞらの上の水とを分けられた。地球は70パーセントくらい海の青い星と言われますが、初めは35パーセントくらいが海だったのかもしれませんね。聖書から計算するとノアが船を造るのに70年あまりの時間を費やしている事がノアの子供達の年齢でわかります。それから動物達は神様がノアのところまで来るようにして下さったので、神様との分業だったと思われまので、「全ての種のつがいの動物が入るわけない」とおっしゃる方はいますが、神様は全ての種の小ぶりな動物を選ばれたかもしれませんね?洪水が起きる時に箱船の扉を最後に閉められたのはノアではなく神様である事が聖書からわかるので、ノアは決して冷たい人ではなかったと思われます。また神も愛であります。キリスト教の神(聖書の神)とは「父と子と聖霊」の三位一体の「唯一神」のことであるので、一神教であります。日本の神道の神さまのような多神教とは少し概念が異なります。何を信じるかは個人の自由です。イエス様も宣べ伝えるようにと弟子達に言われましたが、全ての人を説得してくるようにとはおっしゃいませんでした。しかし福音の意味はGood News!です。ヨハネによる福音書3:16 神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。
神がなぜエデンの園に「知恵の木」を植えたのか?も不思議です。食べちゃいけないモノならそこに植えなきゃよかったのに。
神が人間に自由意志を与えたという象徴だからです。神に背くことも出来るという選択肢を与えた上で、人間が神の善悪の基準を信じ、神に従うことに意味があるのです。
もしなければ「神への絶対服従しかない」こととなりますね。
@@なおざりおざなり さよう、異教の神は神ではなく悪魔、もっと悪い類いならば、大悪魔だ。
蛇は比喩かな?と思いました。
悪霊に入り込まれた生物が蛇にされたようです。良かったら、読んで下さい。神は霊です。その霊とは愛です。ヨハネ第一の手紙4:8「愛さない者は、神を知らない。神は愛である。」また聖書に出てくる天使には羽がありませんので、見た目はかなり人間に近いと思われます。聖書に出てくる天使はみんな男性のようです。我々人間は、神の姿、愛に造られた。しかし善悪を知る木の実を食べ、神の完全なる愛を基準にした善悪の判断ではなく、自分達の善悪の判断で生きるようになってしまった。これが「原罪」であると思われます。神は天使にも人間にも自由意志を与えました。神に従うも、自分の意志に従うも、自由なのです。サタンとは堕落した天使(サタンとはヘブライ語で「訴える者」という意味)堕落した天使とは、神の善悪の判断ではなく自分の善悪の判断を優先し堕落した天使の事です。しかし人間とは違い、サタンとサタンに従った堕落した天使達(悪霊)は、神が愛である事を知りながら、神に背きました。ですので、人間は福音の三要素を信じ悔い改めたら罪がゆるされ、永遠の命を得る事ができますが、サタンとサタンに従った堕落した天使達は、終末には地獄に閉じ込められる事が決まってます。神が愛なら、地獄に閉じ込めてるのはおかしいと思われるかもしれませんが、地獄とは言ってみれば内側から鍵がかかっている状態かと思います。たとえ神が「地獄には鍵はかかっていない、地獄の戸は内側から引けばでてこれる」と言っても、神に従う事を拒絶する者(神の愛を拒否する者)は 引き戸を永遠に押し続けてしまうのではないでしょうか?キリストを信じれば救われるのに、それを拒絶する人達と同じように。ユダは自殺してしまいましたが、自殺とは自分の命を粗末にする事です。ユダは後悔したから自殺したと思います。しかし、十字架をかつぐイエスに「ゆるして欲しい」とかけよれば、イエスはユダをゆるしたでしょう。「後悔」と「悔い改め」の違いは、ふ後悔とは、自分のした事を悔いるだけです。悔い改めとは、神の愛を信じ、神にゆるしをこい、ゆるして貰って、自己を改め、神に喜んで従い、希望を持って「生きる」事です。 神は祝福も与えますが、試練も与えます。試練はつらいです。病気や災害はできれば避けたい。しかし人間とは たいてい満ち足りている時は、真実の探求より幸福の追求に忙しいです。試練がなければ、人間は真理を追求し、神を探し求める事もしません。神は試練も与えますが、試練もまた恵みです。試練は、神を探し求め、人間に永遠の命を得て欲しいと願う「神の愛」です。キリスト教に一番近い宗教は仏教だと私は思います。仏教の「慈悲の瞑想(嫌いな人間の幸せを願う事)」と、新約聖書のイエス・キリストの教え「汝の敵を愛せよ」と、旧約聖書のエゼキエル書のメッセージ「あなたはあなたの敵の事も愛しておられる神を愛せますか?」は類似していると思います。「敵を愛せよ」とは、愛する事は好む事よりも偉大である、たとえ好まずとも愛する事は可能であるという意味だと思います。素晴らしい教えですよね。キリスト教は日本人にとって理解しがたい宗教という事はないと思います。^ ^旧約聖書の神というと、「裁きの神」というイメージを持つかたは多いですが、神が人の人生を終わらせる事を「殺人」と捉えるか、神が「その人の人生をそこで終わらせた」と捉えるかで違ってくると思います。暖かい布団の上で80才で死ぬのも、洪水で若くして死ぬのも、どちらも神がその人の人生を「そこまで」、と決めただけの事とも考えられると思います。創世記6章5節にこうあります。「5 主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。」時空を超越した神の目から見て、愛に生きる可能性のない人間を長生きさせる事は、人間にとっても、何か意味があるでしょうか?全てを見透す事ができる神の目に、愛に生きる可能性の無い人間の地上生涯を早めに終わらせて、その人の罪がそれ以上重くならないうちに神がその人の地上生涯を終えさせることは、神の愛と言えるかと思います。実存の解釈についてわかりやすく説明されている投稿があったから日本語にしたので、良かったら暇つぶしに読んで下さい。🕊命題は「『悪』を作ったのも神だろうか?」ある大学の教授が生徒との間で議論を始めた。教授は「神は全ての存在するものを創造しただろうか?」と質問した。生徒達は「はい、そう思います」と答えた。教授は「その場合、神は悪も造った、そうだろ?なぜなら悪は存在する。」そして教授は続けた。生徒達はこれに答えがないので黙っていた。それで教授は、つまり信仰とは非論理的な神話だと結論付けた。そこで一人の生徒が立ち上がり教授に質問した。彼は教授に「先生 『寒さ』は存在するでしょうか?」と質問した。教授は「寒さはもちろん存在する。君は『寒さ』を感じたことがないのか?」と言った。生徒は「しかしわたし達が物理の授業から学んだ事によると、『寒さ』は存在しないのです。『冷たさ』は熱が不在になった場合にだけ存在するのです。これを観察できる唯一の方法は熱のエネルギーが他の物体に伝達し移動した時です。熱がなければ物体はそもそもなんの反応も示しません。不活性の存在です。つまり『寒さ(冷たさ)』は存在しません。われわれは「寒さ(冷たさ)」という言葉を熱が不在の状態を説明するためだけに作りました。では暗闇はどうでしょうか?と彼は続けた。教授は「暗闇はもちろん存在する。」と答えた。生徒は「暗闇は光の完全な不在の結果出現します。光や明るさについてわれわれは学ぶ事ができますが、暗闇自体については学ぶ事ができません。光のプリズムは、光が構成するすべての異なる色を表示し、その波長に基づいて光線を分離します。その光のいづれも存在しない時に暗闇は現れます。」と言いました。そして彼は教授に「では悪は存在するでしょうか?」と言いました。教授は何も答えませんでした。彼は続けました。「神は悪を作りませんでした。人の心に神が不在の状態の時、人間的な愛がない時、信仰がない時に悪は出現します。愛や信仰とは暖かさや光であります。神、愛、信仰は存在します。それらが不在の状態が『悪』に繋がります。」🕊創世記1:6〜1:7にある「上の水」が洪水の時雨となり降ってきたのだと思います。6 神はまた言われた、「水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ」。7 そのようになった。神はおおぞらを造って、おおぞらの下の水とおおぞらの上の水とを分けられた。地球は70パーセントくらい海の青い星と言われますが、初めは35パーセントくらいが海だったのかもしれませんね。聖書から計算するとノアが船を造るのに70年あまりの時間を費やしている事がノアの子供達の年齢でわかります。それから動物達は神様がノアのところまで来るようにして下さったので、神様との分業だったと思われまので、「全ての種のつがいの動物が入るわけない」とおっしゃる方はいますが、神様は全ての種の小ぶりな動物を選ばれたかもしれませんね?洪水が起きる時に箱船の扉を最後に閉められたのはノアではなく神様である事が聖書からわかるので、ノアは決して冷たい人ではなかったと思われます。また神も愛であります。キリスト教の神(聖書の神)とは「父と子と聖霊」の三位一体の「唯一神」のことであるので、一神教であります。日本の神道の神さまのような多神教とは少し概念が異なります。何を信じるかは個人の自由です。イエス様も宣べ伝えるようにと弟子達に言われましたが、全ての人を説得してくるようにとはおっしゃいませんでした。しかし福音の意味はGood News!です。ヨハネによる福音書3:16 神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。
だから蛇は嫌われ者なんだ…日本では神様と言われる場所もあるけど
良かったら、読んで下さい。神は霊です。その霊とは愛です。ヨハネ第一の手紙4:8「愛さない者は、神を知らない。神は愛である。」また聖書に出てくる天使には羽がありませんので、見た目はかなり人間に近いと思われます。聖書に出てくる天使はみんな男性のようです。我々人間は、神の姿、愛に造られた。しかし善悪を知る木の実を食べ、神の完全なる愛を基準にした善悪の判断ではなく、自分達の善悪の判断で生きるようになってしまった。これが「原罪」であると思われます。神は天使にも人間にも自由意志を与えました。神に従うも、自分の意志に従うも、自由なのです。サタンとは堕落した天使(サタンとはヘブライ語で「訴える者」という意味)堕落した天使とは、神の善悪の判断ではなく自分の善悪の判断を優先し堕落した天使の事です。しかし人間とは違い、サタンとサタンに従った堕落した天使達(悪霊)は、神が愛である事を知りながら、神に背きました。蛇に取り憑いていたのも悪霊です。ですので、人間は福音の三要素を信じ悔い改めたら罪がゆるされ、永遠の命を得る事ができますが、サタンとサタンに従った堕落した天使達は、終末には地獄に閉じ込められる事が決まってます。神が愛なら、地獄に閉じ込めてるのはおかしいと思われるかもしれませんが、地獄とは言ってみれば内側から鍵がかかっている状態かと思います。たとえ神が「地獄には鍵はかかっていない、地獄の戸は内側から引けばでてこれる」と言っても、神に従う事を拒絶する者(神の愛を拒否する者)は 引き戸を永遠に押し続けてしまうのではないでしょうか?キリストを信じれば救われるのに、それを拒絶する人達と同じように。ユダは自殺してしまいましたが、自殺とは自分の命を粗末にする事です。ユダは後悔したから自殺したと思います。しかし、十字架をかつぐイエスに「ゆるして欲しい」とかけよれば、イエスはユダをゆるしたでしょう。「後悔」と「悔い改め」の違いは、ふ後悔とは、自分のした事を悔いるだけです。悔い改めとは、神の愛を信じ、神にゆるしをこい、ゆるして貰って、自己を改め、神に喜んで従い、希望を持って「生きる」事です。 神は祝福も与えますが、試練も与えます。試練はつらいです。病気や災害はできれば避けたい。しかし人間とは たいてい満ち足りている時は、真実の探求より幸福の追求に忙しいです。試練がなければ、人間は真理を追求し、神を探し求める事もしません。神は試練も与えますが、試練もまた恵みです。試練は、神を探し求め、人間に永遠の命を得て欲しいと願う「神の愛」です。キリスト教に一番近い宗教は仏教だと私は思います。仏教の「慈悲の瞑想(嫌いな人間の幸せを願う事)」と、新約聖書のイエス・キリストの教え「汝の敵を愛せよ」と、旧約聖書のエゼキエル書のメッセージ「あなたはあなたの敵の事も愛しておられる神を愛せますか?」は類似していると思います。「敵を愛せよ」とは、愛する事は好む事よりも偉大である、たとえ好まずとも愛する事は可能であるという意味だと思います。素晴らしい教えですよね。キリスト教は日本人にとって理解しがたい宗教という事はないと思います。^ ^旧約聖書の神というと、「裁きの神」というイメージを持つかたは多いですが、神が人の人生を終わらせる事を「殺人」と捉えるか、神が「その人の人生をそこで終わらせた」と捉えるかで違ってくると思います。暖かい布団の上で80才で死ぬのも、洪水で若くして死ぬのも、どちらも神がその人の人生を「そこまで」、と決めただけの事とも考えられると思います。創世記6章5節にこうあります。「5 主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。」時空を超越した神の目から見て、愛に生きる可能性のない人間を長生きさせる事は、人間にとっても、何か意味があるでしょうか?全てを見透す事ができる神の目に、愛に生きる可能性の無い人間の地上生涯を早めに終わらせて、その人の罪がそれ以上重くならないうちに神がその人の地上生涯を終えさせることは、神の愛と言えるかと思います。実存の解釈についてわかりやすく説明されている投稿があったから日本語にしたので、良かったら暇つぶしに読んで下さい。🕊命題は「『悪』を作ったのも神だろうか?」ある大学の教授が生徒との間で議論を始めた。教授は「神は全ての存在するものを創造しただろうか?」と質問した。生徒達は「はい、そう思います」と答えた。教授は「その場合、神は悪も造った、そうだろ?なぜなら悪は存在する。」そして教授は続けた。生徒達はこれに答えがないので黙っていた。それで教授は、つまり信仰とは非論理的な神話だと結論付けた。そこで一人の生徒が立ち上がり教授に質問した。彼は教授に「先生 『寒さ』は存在するでしょうか?」と質問した。教授は「寒さはもちろん存在する。君は『寒さ』を感じたことがないのか?」と言った。生徒は「しかしわたし達が物理の授業から学んだ事によると、『寒さ』は存在しないのです。『冷たさ』は熱が不在になった場合にだけ存在するのです。これを観察できる唯一の方法は熱のエネルギーが他の物体に伝達し移動した時です。熱がなければ物体はそもそもなんの反応も示しません。不活性の存在です。つまり『寒さ(冷たさ)』は存在しません。われわれは「寒さ(冷たさ)」という言葉を熱が不在の状態を説明するためだけに作りました。では暗闇はどうでしょうか?と彼は続けた。教授は「暗闇はもちろん存在する。」と答えた。生徒は「暗闇は光の完全な不在の結果出現します。光や明るさについてわれわれは学ぶ事ができますが、暗闇自体については学ぶ事ができません。光のプリズムは、光が構成するすべての異なる色を表示し、その波長に基づいて光線を分離します。その光のいづれも存在しない時に暗闇は現れます。」と言いました。そして彼は教授に「では悪は存在するでしょうか?」と言いました。教授は何も答えませんでした。彼は続けました。「神は悪を作りませんでした。人の心に神が不在の状態の時、人間的な愛がない時、信仰がない時に悪は出現します。愛や信仰とは暖かさや光であります。神、愛、信仰は存在します。それらが不在の状態が『悪』に繋がります。」🕊創世記1:6〜1:7にある「上の水」が洪水の時雨となり降ってきたのだと思います。6 神はまた言われた、「水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ」。7 そのようになった。神はおおぞらを造って、おおぞらの下の水とおおぞらの上の水とを分けられた。地球は70パーセントくらい海の青い星と言われますが、初めは35パーセントくらいが海だったのかもしれませんね。聖書から計算するとノアが船を造るのに70年あまりの時間を費やしている事がノアの子供達の年齢でわかります。それから動物達は神様がノアのところまで来るようにして下さったので、神様との分業だったと思われまので、「全ての種のつがいの動物が入るわけない」とおっしゃる方はいますが、神様は全ての種の小ぶりな動物を選ばれたかもしれませんね?洪水が起きる時に箱船の扉を最後に閉められたのはノアではなく神様である事が聖書からわかるので、ノアは決して冷たい人ではなかったと思われます。また神も愛であります。キリスト教の神(聖書の神)とは「父と子と聖霊」の三位一体の「唯一神」のことであるので、一神教であります。日本の神道の神さまのような多神教とは少し概念が異なります。何を信じるかは個人の自由です。イエス様も宣べ伝えるようにと弟子達に言われましたが、全ての人を説得してくるようにとはおっしゃいませんでした。しかし福音の意味はGood News!です。ヨハネによる福音書3:16 神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。
なぜ、実を食べたら世界が滅びたの?
いい質問です!神様が「その実を食べない」と言われたから、アダム達はその実を食べた時、罪を犯しました。それは最初の罪でした。世界で罪を出たと世界が滅ぼしたのです。
良かったら、読んで下さい。神は霊です。その霊とは愛です。ヨハネ第一の手紙4:8「愛さない者は、神を知らない。神は愛である。」また聖書に出てくる天使には羽がありませんので、見た目はかなり人間に近いと思われます。聖書に出てくる天使はみんな男性のようです。我々人間は、神の姿、愛に造られた。しかし善悪を知る木の実を食べ、神の完全なる愛を基準にした善悪の判断ではなく、自分達の善悪の判断で生きるようになってしまった。これが「原罪」であると思われます。神は天使にも人間にも自由意志を与えました。神に従うも、自分の意志に従うも、自由なのです。サタンとは堕落した天使(サタンとはヘブライ語で「訴える者」という意味)堕落した天使とは、神の善悪の判断ではなく自分の善悪の判断を優先し堕落した天使の事です。しかし人間とは違い、サタンとサタンに従った堕落した天使達(悪霊)は、神が愛である事を知りながら、神に背きました。ですので、人間は福音の三要素を信じ悔い改めたら罪がゆるされ、永遠の命を得る事ができますが、サタンとサタンに従った堕落した天使達は、終末には地獄に閉じ込められる事が決まってます。神が愛なら、地獄に閉じ込めてるのはおかしいと思われるかもしれませんが、地獄とは言ってみれば内側から鍵がかかっている状態かと思います。たとえ神が「地獄には鍵はかかっていない、地獄の戸は内側から引けばでてこれる」と言っても、神に従う事を拒絶する者(神の愛を拒否する者)は 引き戸を永遠に押し続けてしまうのではないでしょうか?キリストを信じれば救われるのに、それを拒絶する人達と同じように。ユダは自殺してしまいましたが、自殺とは自分の命を粗末にする事です。ユダは後悔したから自殺したと思います。しかし、十字架をかつぐイエスに「ゆるして欲しい」とかけよれば、イエスはユダをゆるしたでしょう。「後悔」と「悔い改め」の違いは、ふ後悔とは、自分のした事を悔いるだけです。悔い改めとは、神の愛を信じ、神にゆるしをこい、ゆるして貰って、自己を改め、神に喜んで従い、希望を持って「生きる」事です。 神は祝福も与えますが、試練も与えます。試練はつらいです。病気や災害はできれば避けたい。しかし人間とは たいてい満ち足りている時は、真実の探求より幸福の追求に忙しいです。試練がなければ、人間は真理を追求し、神を探し求める事もしません。神は試練も与えますが、試練もまた恵みです。試練は、神を探し求め、人間に永遠の命を得て欲しいと願う「神の愛」です。キリスト教に一番近い宗教は仏教だと私は思います。仏教の「慈悲の瞑想(嫌いな人間の幸せを願う事)」と、新約聖書のイエス・キリストの教え「汝の敵を愛せよ」と、旧約聖書のエゼキエル書のメッセージ「あなたはあなたの敵の事も愛しておられる神を愛せますか?」は類似していると思います。「敵を愛せよ」とは、愛する事は好む事よりも偉大である、たとえ好まずとも愛する事は可能であるという意味だと思います。素晴らしい教えですよね。キリスト教は日本人にとって理解しがたい宗教という事はないと思います。^ ^旧約聖書の神というと、「裁きの神」というイメージを持つかたは多いですが、神が人の人生を終わらせる事を「殺人」と捉えるか、神が「その人の人生をそこで終わらせた」と捉えるかで違ってくると思います。暖かい布団の上で80才で死ぬのも、洪水で若くして死ぬのも、どちらも神がその人の人生を「そこまで」、と決めただけの事とも考えられると思います。創世記6章5節にこうあります。「5 主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。」時空を超越した神の目から見て、愛に生きる可能性のない人間を長生きさせる事は、人間にとっても、何か意味があるでしょうか?全てを見透す事ができる神の目に、愛に生きる可能性の無い人間の地上生涯を早めに終わらせて、その人の罪がそれ以上重くならないうちに神がその人の地上生涯を終えさせることは、神の愛と言えるかと思います。実存の解釈についてわかりやすく説明されている投稿があったから日本語にしたので、良かったら暇つぶしに読んで下さい。🕊命題は「『悪』を作ったのも神だろうか?」ある大学の教授が生徒との間で議論を始めた。教授は「神は全ての存在するものを創造しただろうか?」と質問した。生徒達は「はい、そう思います」と答えた。教授は「その場合、神は悪も造った、そうだろ?なぜなら悪は存在する。」そして教授は続けた。生徒達はこれに答えがないので黙っていた。それで教授は、つまり信仰とは非論理的な神話だと結論付けた。そこで一人の生徒が立ち上がり教授に質問した。彼は教授に「先生 『寒さ』は存在するでしょうか?」と質問した。教授は「寒さはもちろん存在する。君は『寒さ』を感じたことがないのか?」と言った。生徒は「しかしわたし達が物理の授業から学んだ事によると、『寒さ』は存在しないのです。『冷たさ』は熱が不在になった場合にだけ存在するのです。これを観察できる唯一の方法は熱のエネルギーが他の物体に伝達し移動した時です。熱がなければ物体はそもそもなんの反応も示しません。不活性の存在です。つまり『寒さ(冷たさ)』は存在しません。われわれは「寒さ(冷たさ)」という言葉を熱が不在の状態を説明するためだけに作りました。では暗闇はどうでしょうか?と彼は続けた。教授は「暗闇はもちろん存在する。」と答えた。生徒は「暗闇は光の完全な不在の結果出現します。光や明るさについてわれわれは学ぶ事ができますが、暗闇自体については学ぶ事ができません。光のプリズムは、光が構成するすべての異なる色を表示し、その波長に基づいて光線を分離します。その光のいづれも存在しない時に暗闇は現れます。」と言いました。そして彼は教授に「では悪は存在するでしょうか?」と言いました。教授は何も答えませんでした。彼は続けました。「神は悪を作りませんでした。人の心に神が不在の状態の時、人間的な愛がない時、信仰がない時に悪は出現します。愛や信仰とは暖かさや光であります。神、愛、信仰は存在します。それらが不在の状態が『悪』に繋がります。」🕊創世記1:6〜1:7にある「上の水」が洪水の時雨となり降ってきたのだと思います。6 神はまた言われた、「水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ」。7 そのようになった。神はおおぞらを造って、おおぞらの下の水とおおぞらの上の水とを分けられた。地球は70パーセントくらい海の青い星と言われますが、初めは35パーセントくらいが海だったのかもしれませんね。聖書から計算するとノアが船を造るのに70年あまりの時間を費やしている事がノアの子供達の年齢でわかります。それから動物達は神様がノアのところまで来るようにして下さったので、神様との分業だったと思われまので、「全ての種のつがいの動物が入るわけない」とおっしゃる方はいますが、神様は全ての種の小ぶりな動物を選ばれたかもしれませんね?洪水が起きる時に箱船の扉を最後に閉められたのはノアではなく神様である事が聖書からわかるので、ノアは決して冷たい人ではなかったと思われます。また神も愛であります。キリスト教の神(聖書の神)とは「父と子と聖霊」の三位一体の「唯一神」のことであるので、一神教であります。日本の神道の神さまのような多神教とは少し概念が異なります。何を信じるかは個人の自由です。イエス様も宣べ伝えるようにと弟子達に言われましたが、全ての人を説得してくるようにとはおっしゃいませんでした。しかし福音の意味はGood News!です。ヨハネによる福音書3:16 神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。
蛇の正体は天使長ルーシェルルーシェルは神様と一緒に天地創造をする時、神様に1番頼られて1番愛されました。だけど神様はルーシェルよりも劣る、人間をより愛されました。ルーシェルは自分よりも劣る人間が、自分よりも愛されるのを見て嫉妬をしました。だからルーシェルはエバを誘惑して、神様の戒めを破るようにしました。神様の戒めを破った人間はエデンの園を追放され、天使長ルーシェルは悪魔サタンになりました。
それほんとですか?聖書に書いてないのはなぜ?
@@たまご-h5x 聖書に書いてないのはイエス様が、サタンの存在を明かす前に殺されてしまったから。蛇がルーシェルかどうか…アダムとエバは霊的な存在である神様と会話する事が出来ました。人間は神様とか霊と会話したり出来るように作られているみたいですね。人の言葉を使える蛇は霊的な存在であると考えられます。神様は戒めで「食べたら『必ず』死ぬだろう。」と言われましたが、蛇は「食べても(肉体的に)死なない。」事を知っていました。そしてエバは蛇の言葉を信じるくらい信頼していました。人間と会話する事が出来て、神様の戒めの奥義を知っていて、エバが神様と同等かそれ以上に信頼する存在が蛇です。
神様のご性質の一つは神は嘘をつけない、というところです。神は「食べたら必ず死ぬだろう」と言った事は嘘ではありません。人間は本来永遠に生きるように神に創造されていました。しかし善悪を知る木の実を食べた事で、実際に死ぬ生き物になりました。食べてすぐ死ぬとは神様は言ってません。必ず死ぬ事になると言ったんです。
あなたの聖書解釈とわたしの解釈が違うようなので、良かったら読んでみて下さい。神は霊です。その霊とは愛です。ヨハネ第一の手紙4:8「愛さない者は、神を知らない。神は愛である。」また聖書に出てくる天使には羽がありませんので、見た目はかなり人間に近いと思われます。聖書に出てくる天使はみんな男性のようです。我々人間は、神の姿、愛に造られた。しかし善悪を知る木の実を食べ、神の完全なる愛を基準にした善悪の判断ではなく、自分達の善悪の判断で生きるようになってしまった。これが「原罪」であると思われます。神は天使にも人間にも自由意志を与えました。神に従うも、自分の意志に従うも、自由なのです。サタンとは堕落した天使(サタンとはヘブライ語で「訴える者」という意味)堕落した天使とは、神の善悪の判断ではなく自分の善悪の判断を優先し堕落した天使の事です。しかし人間とは違い、サタンとサタンに従った堕落した天使達(悪霊)は、神が愛である事を知りながら、神に背きました。ですので、人間は福音の三要素を信じ悔い改めたら罪がゆるされ、永遠の命を得る事ができますが、サタンとサタンに従った堕落した天使達は、終末には地獄に閉じ込められる事が決まってます。神が愛なら、地獄に閉じ込めてるのはおかしいと思われるかもしれませんが、地獄とは言ってみれば内側から鍵がかかっている状態かと思います。たとえ神が「地獄には鍵はかかっていない、地獄の戸は内側から引けばでてこれる」と言っても、神に従う事を拒絶する者(神の愛を拒否する者)は 引き戸を永遠に押し続けてしまうのではないでしょうか?キリストを信じれば救われるのに、それを拒絶する人達と同じように。ユダは自殺してしまいましたが、自殺とは自分の命を粗末にする事です。ユダは後悔したから自殺したと思います。しかし、十字架をかつぐイエスに「ゆるして欲しい」とかけよれば、イエスはユダをゆるしたでしょう。「後悔」と「悔い改め」の違いは、ふ後悔とは、自分のした事を悔いるだけです。悔い改めとは、神の愛を信じ、神にゆるしをこい、ゆるして貰って、自己を改め、神に喜んで従い、希望を持って「生きる」事です。 神は祝福も与えますが、試練も与えます。試練はつらいです。病気や災害はできれば避けたい。しかし人間とは たいてい満ち足りている時は、真実の探求より幸福の追求に忙しいです。試練がなければ、人間は真理を追求し、神を探し求める事もしません。神は試練も与えますが、試練もまた恵みです。試練は、神を探し求め、人間に永遠の命を得て欲しいと願う「神の愛」です。キリスト教に一番近い宗教は仏教だと私は思います。仏教の「慈悲の瞑想(嫌いな人間の幸せを願う事)」と、新約聖書のイエス・キリストの教え「汝の敵を愛せよ」と、旧約聖書のエゼキエル書のメッセージ「あなたはあなたの敵の事も愛しておられる神を愛せますか?」は類似していると思います。「敵を愛せよ」とは、愛する事は好む事よりも偉大である、たとえ好まずとも愛する事は可能であるという意味だと思います。素晴らしい教えですよね。キリスト教は日本人にとって理解しがたい宗教という事はないと思います。^ ^旧約聖書の神というと、「裁きの神」というイメージを持つかたは多いですが、神が人の人生を終わらせる事を「殺人」と捉えるか、神が「その人の人生をそこで終わらせた」と捉えるかで違ってくると思います。暖かい布団の上で80才で死ぬのも、洪水で若くして死ぬのも、どちらも神がその人の人生を「そこまで」、と決めただけの事とも考えられると思います。創世記6章5節にこうあります。「5 主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。」時空を超越した神の目から見て、愛に生きる可能性のない人間を長生きさせる事は、人間にとっても、何か意味があるでしょうか?全てを見透す事ができる神の目に、愛に生きる可能性の無い人間の地上生涯を早めに終わらせて、その人の罪がそれ以上重くならないうちに神がその人の地上生涯を終えさせることは、神の愛と言えるかと思います。実存の解釈についてわかりやすく説明されている投稿があったから日本語にしたので、良かったら暇つぶしに読んで下さい。🕊命題は「『悪』を作ったのも神だろうか?」ある大学の教授が生徒との間で議論を始めた。教授は「神は全ての存在するものを創造しただろうか?」と質問した。生徒達は「はい、そう思います」と答えた。教授は「その場合、神は悪も造った、そうだろ?なぜなら悪は存在する。」そして教授は続けた。生徒達はこれに答えがないので黙っていた。それで教授は、つまり信仰とは非論理的な神話だと結論付けた。そこで一人の生徒が立ち上がり教授に質問した。彼は教授に「先生 『寒さ』は存在するでしょうか?」と質問した。教授は「寒さはもちろん存在する。君は『寒さ』を感じたことがないのか?」と言った。生徒は「しかしわたし達が物理の授業から学んだ事によると、『寒さ』は存在しないのです。『冷たさ』は熱が不在になった場合にだけ存在するのです。これを観察できる唯一の方法は熱のエネルギーが他の物体に伝達し移動した時です。熱がなければ物体はそもそもなんの反応も示しません。不活性の存在です。つまり『寒さ(冷たさ)』は存在しません。われわれは「寒さ(冷たさ)」という言葉を熱が不在の状態を説明するためだけに作りました。では暗闇はどうでしょうか?と彼は続けた。教授は「暗闇はもちろん存在する。」と答えた。生徒は「暗闇は光の完全な不在の結果出現します。光や明るさについてわれわれは学ぶ事ができますが、暗闇自体については学ぶ事ができません。光のプリズムは、光が構成するすべての異なる色を表示し、その波長に基づいて光線を分離します。その光のいづれも存在しない時に暗闇は現れます。」と言いました。そして彼は教授に「では悪は存在するでしょうか?」と言いました。教授は何も答えませんでした。彼は続けました。「神は悪を作りませんでした。人の心に神が不在の状態の時、人間的な愛がない時、信仰がない時に悪は出現します。愛や信仰とは暖かさや光であります。神、愛、信仰は存在します。それらが不在の状態が『悪』に繋がります。」🕊創世記1:6〜1:7にある「上の水」が洪水の時雨となり降ってきたのだと思います。6 神はまた言われた、「水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ」。7 そのようになった。神はおおぞらを造って、おおぞらの下の水とおおぞらの上の水とを分けられた。地球は70パーセントくらい海の青い星と言われますが、初めは35パーセントくらいが海だったのかもしれませんね。聖書から計算するとノアが船を造るのに70年あまりの時間を費やしている事がノアの子供達の年齢でわかります。それから動物達は神様がノアのところまで来るようにして下さったので、神様との分業だったと思われまので、「全ての種のつがいの動物が入るわけない」とおっしゃる方はいますが、神様は全ての種の小ぶりな動物を選ばれたかもしれませんね?洪水が起きる時に箱船の扉を最後に閉められたのはノアではなく神様である事が聖書からわかるので、ノアは決して冷たい人ではなかったと思われます。また神も愛であります。キリスト教の神(聖書の神)とは「父と子と聖霊」の三位一体の「唯一神」のことであるので、一神教であります。日本の神道の神さまのような多神教とは少し概念が異なります。何を信じるかは個人の自由です。イエス様も宣べ伝えるようにと弟子達に言われましたが、全ての人を説得してくるようにとはおっしゃいませんでした。しかし福音の意味はGood News!です。ヨハネによる福音書3:16 神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。
天使も嫉妬するんですね
そもそも神様はサタンを創造したのでしょうか??人間を苦しめる為にサタンを創造したかったのでしょうか?
神は、天使や人間を創造したと同時に自由意志を持たせました。つまりサタンとなったのはサタンが選んだのです。人間社会で例えると、人は生まれながら泥棒ではなくありませんよね?しかし生きていくうちに、人のものが欲しいと、思いを育て、その思いを行動に移すと本当に泥棒になってしまうのです。
私達終わりの時代になんで殺し合わなきゃいけないの?
悪魔を崇拝する人達も自分の権力、富、栄光を守りたいからです。
終末の時には世界の教会(キリストに在って救われている人間全て)が携挙(けいきょ)され、地上からいなくなるからです。残された人間はサタンに従う者なので、それは悲惨な終末時代だと思います。
食べたら終わる様なモノを、何故手に取れる所に置いてるんやろ🤔そんな罠みたいなんを、神が仕掛ける意味が分からん😨信用してたらそもそも選ばせんやろし、疑ってるからハズレを用意して、食べる前に止めもせずって考えると、愉快犯って思ってしまう😱
人に「選択肢」があることが重要なんですよね。選択肢がないということは、絶対服従であり、洗脳でもありますから。人があらゆる生き物の中で特別なのは「自由意志」ゆえですが、自由意志というからには自分で「従うか従わないか」を決める何かの基準が必要になります。
なんか蛇が可哀想。そんなの望んでないと思うな。そこにあるは愛だから。
いつも動画に心が救われます。メシアって今のスターシードたちかな。エデンのような、レムリアのような、愛と調和の世界が訪れるように祈ります。
今回の絵の雰囲気、とても好きです❣️
いつもありがとうございます😊
ありがとうございました
ありがとうございました。
蛇は人間の思考が作り出す『欲望』のこと
生命の樹は『愛』
善悪の知恵の樹は『人間の思考』
つまり、人間は『思考の判断』を重視するようになり、人間が本来持っている『心』と『愛』の判断から離れただけの物語
蛇(サタン)は神の支配権に挑戦したんですね。
ダビデの子孫、、、、まさに今の時代も同じことが( i _ i )
これ以上悲劇を繰り返してはならないですね。
ダビデ王の子孫たちは欲望のままやってた、自分も他人ごとに聞こえない実感しました。
旧約と新約は、つながってる。
びっくりしました。体験談が、ダブってしまって。バタン? 815 お話と絵をありがとうございます。
神は霊です。その霊とは愛です。
ヨハネ第一の手紙4:8
「愛さない者は、神を知らない。神は愛である。」
また聖書に出てくる天使には羽がありませんので、見た目はかなり人間に近いと思われます。聖書に出てくる天使はみんな男性のようです。
我々人間は、神の姿、愛に造られた。
しかし善悪を知る木の実を食べ、神の完全なる愛を基準にした善悪の判断ではなく、自分達の善悪の判断で生きるようになってしまった。
これが「原罪」であると思われます。
神は天使にも人間にも自由意志を与えました。神に従うも、自分の意志に従うも、自由なのです。
サタンとは堕落した天使(サタンとはヘブライ語で「訴える者」という意味)
堕落した天使とは、神の善悪の判断ではなく自分の善悪の判断を優先し堕落した天使の事です。
しかし人間とは違い、サタンとサタンに従った堕落した天使達(悪霊)は、神が愛である事を知りながら、神に背きました。
ですので、人間は福音の三要素を信じ悔い改めたら罪がゆるされ、永遠の命を得る事ができますが、サタンとサタンに従った堕落した天使達は、終末には地獄に閉じ込められる事が決まってます。
神が愛なら、地獄に閉じ込めてるのはおかしいと思われるかもしれませんが、
地獄とは言ってみれば内側から鍵がかかっている状態かと思います。
たとえ神が「地獄には鍵はかかっていない、地獄の戸は内側から引けばでてこれる」と言っても、神に従う事を拒絶する者(神の愛を拒否する者)は 引き戸を永遠に押し続けてしまうのではないでしょうか?
キリストを信じれば救われるのに、それを拒絶する人達と同じように。
ユダは自殺してしまいましたが、自殺とは自分の命を粗末にする事です。
ユダは後悔したから自殺したと思います。
しかし、十字架をかつぐイエスに「ゆるして欲しい」とかけよれば、イエスはユダをゆるしたでしょう。
「後悔」と「悔い改め」の違いは、
ふ
後悔とは、自分のした事を悔いるだけです。
悔い改めとは、神の愛を信じ、神にゆるしをこい、ゆるして貰って、自己を改め、神に喜んで従い、希望を持って「生きる」事です。
神は祝福も与えますが、試練も与えます。
試練はつらいです。
病気や災害はできれば避けたい。
しかし人間とは たいてい満ち足りている時は、真実の探求より幸福の追求に忙しいです。
試練がなければ、人間は真理を追求し、神を探し求める事もしません。
神は試練も与えますが、試練もまた恵みです。
試練は、神を探し求め、人間に永遠の命を得て欲しいと願う「神の愛」です。
キリスト教に一番近い宗教は仏教だと私は思います。
仏教の「慈悲の瞑想(嫌いな人間の幸せを願う事)」と、
新約聖書のイエス・キリストの教え「汝の敵を愛せよ」と、
旧約聖書のエゼキエル書のメッセージ
「あなたはあなたの敵の事も愛しておられる神を愛せますか?」
は類似していると思います。
「敵を愛せよ」とは、愛する事は好む事よりも偉大である、たとえ好まずとも愛する事は可能であるという意味だと思います。
素晴らしい教えですよね。
キリスト教は日本人にとって理解しがたい宗教という事はないと思います。^ ^
旧約聖書の神というと、「裁きの神」というイメージを持つかたは多いですが、神が人の人生を終わらせる事を
「殺人」と捉えるか、
神が「その人の人生をそこで終わらせた」
と捉えるかで違ってくると思います。
暖かい布団の上で80才で死ぬのも、洪水で若くして死ぬのも、どちらも神がその人の人生を「そこまで」、と決めただけの事とも考えられると思います。
創世記6章5節にこうあります。
「5 主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。」
時空を超越した神の目から見て、愛に生きる可能性のない人間を長生きさせる事は、人間にとっても、何か意味があるでしょうか?
全てを見透す事ができる神の目に、愛に生きる可能性の無い人間の地上生涯を早めに終わらせて、その人の罪がそれ以上重くならないうちに神がその人の地上生涯を終えさせることは、神の愛と言えるかと思います。
実存の解釈についてわかりやすく説明されている投稿があったから日本語にしたので、良かったら暇つぶしに読んで下さい。
🕊命題は
「『悪』を作ったのも神だろうか?」
ある大学の教授が生徒との間で議論を始めた。
教授は「神は全ての存在するものを創造しただろうか?」と質問した。
生徒達は「はい、そう思います」と答えた。
教授は「その場合、神は悪も造った、そうだろ?なぜなら悪は存在する。」
そして教授は続けた。
生徒達はこれに答えがないので黙っていた。
それで教授は、つまり信仰とは非論理的な神話だと結論付けた。
そこで一人の生徒が立ち上がり教授に質問した。
彼は教授に「先生 『寒さ』は存在するでしょうか?」と質問した。
教授は「寒さはもちろん存在する。君は『寒さ』を感じたことがないのか?」と言った。
生徒は「しかしわたし達が物理の授業から学んだ事によると、『寒さ』は存在しないのです。『冷たさ』は熱が不在になった場合にだけ存在するのです。これを観察できる唯一の方法は熱のエネルギーが他の物体に伝達し移動した時です。熱がなければ物体はそもそもなんの反応も示しません。不活性の存在です。つまり『寒さ(冷たさ)』は存在しません。われわれは「寒さ(冷たさ)」という言葉を熱が不在の状態を説明するためだけに作りました。
では暗闇はどうでしょうか?と彼は続けた。
教授は「暗闇はもちろん存在する。」と答えた。
生徒は「暗闇は光の完全な不在の結果出現します。光や明るさについてわれわれは学ぶ事ができますが、暗闇自体については学ぶ事ができません。光のプリズムは、光が構成するすべての異なる色を表示し、その波長に基づいて光線を分離します。その光のいづれも存在しない時に暗闇は現れます。」と言いました。
そして彼は教授に
「では悪は存在するでしょうか?」と言いました。
教授は何も答えませんでした。
彼は続けました。
「神は悪を作りませんでした。人の心に神が不在の状態の時、人間的な愛がない時、信仰がない時に悪は出現します。愛や信仰とは暖かさや光であります。
神、愛、信仰は存在します。それらが不在の状態が『悪』に繋がります。」
🕊創世記1:6〜1:7にある「上の水」が洪水の時雨となり降ってきたのだと思います。
6 神はまた言われた、「水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ」。
7 そのようになった。神はおおぞらを造って、おおぞらの下の水とおおぞらの上の水とを分けられた。
地球は70パーセントくらい海の青い星と言われますが、初めは35パーセントくらいが海だったのかもしれませんね。
聖書から計算するとノアが船を造るのに70年あまりの時間を費やしている事がノアの子供達の年齢でわかります。
それから動物達は神様がノアのところまで来るようにして下さったので、神様との分業だったと思われまので、「全ての種のつがいの動物が入るわけない」とおっしゃる方はいますが、神様は全ての種の小ぶりな動物を選ばれたかもしれませんね?
洪水が起きる時に箱船の扉を最後に閉められたのはノアではなく神様である事が聖書からわかるので、ノアは決して冷たい人ではなかったと思われます。
また神も愛であります。
キリスト教の神(聖書の神)とは「父と子と聖霊」の三位一体の「唯一神」のことであるので、一神教であります。
日本の神道の神さまのような多神教とは少し概念が異なります。
何を信じるかは個人の自由です。
イエス様も宣べ伝えるようにと弟子達に言われましたが、全ての人を説得してくるようにとはおっしゃいませんでした。
しかし福音の意味はGood News!です。
ヨハネによる福音書
3:16
神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。
神がなぜエデンの園に「知恵の木」を植えたのか?も不思議です。食べちゃいけないモノならそこに植えなきゃよかったのに。
神が人間に自由意志を与えたという象徴だからです。
神に背くことも出来るという選択肢を与えた上で、人間が神の善悪の基準を信じ、神に従うことに意味があるのです。
もしなければ「神への絶対服従しかない」こととなりますね。
神は霊です。その霊とは愛です。
ヨハネ第一の手紙4:8
「愛さない者は、神を知らない。神は愛である。」
また聖書に出てくる天使には羽がありませんので、見た目はかなり人間に近いと思われます。聖書に出てくる天使はみんな男性のようです。
我々人間は、神の姿、愛に造られた。
しかし善悪を知る木の実を食べ、神の完全なる愛を基準にした善悪の判断ではなく、自分達の善悪の判断で生きるようになってしまった。
これが「原罪」であると思われます。
神は天使にも人間にも自由意志を与えました。神に従うも、自分の意志に従うも、自由なのです。
サタンとは堕落した天使(サタンとはヘブライ語で「訴える者」という意味)
堕落した天使とは、神の善悪の判断ではなく自分の善悪の判断を優先し堕落した天使の事です。
しかし人間とは違い、サタンとサタンに従った堕落した天使達(悪霊)は、神が愛である事を知りながら、神に背きました。
ですので、人間は福音の三要素を信じ悔い改めたら罪がゆるされ、永遠の命を得る事ができますが、サタンとサタンに従った堕落した天使達は、終末には地獄に閉じ込められる事が決まってます。
神が愛なら、地獄に閉じ込めてるのはおかしいと思われるかもしれませんが、
地獄とは言ってみれば内側から鍵がかかっている状態かと思います。
たとえ神が「地獄には鍵はかかっていない、地獄の戸は内側から引けばでてこれる」と言っても、神に従う事を拒絶する者(神の愛を拒否する者)は 引き戸を永遠に押し続けてしまうのではないでしょうか?
キリストを信じれば救われるのに、それを拒絶する人達と同じように。
ユダは自殺してしまいましたが、自殺とは自分の命を粗末にする事です。
ユダは後悔したから自殺したと思います。
しかし、十字架をかつぐイエスに「ゆるして欲しい」とかけよれば、イエスはユダをゆるしたでしょう。
「後悔」と「悔い改め」の違いは、
ふ
後悔とは、自分のした事を悔いるだけです。
悔い改めとは、神の愛を信じ、神にゆるしをこい、ゆるして貰って、自己を改め、神に喜んで従い、希望を持って「生きる」事です。
神は祝福も与えますが、試練も与えます。
試練はつらいです。
病気や災害はできれば避けたい。
しかし人間とは たいてい満ち足りている時は、真実の探求より幸福の追求に忙しいです。
試練がなければ、人間は真理を追求し、神を探し求める事もしません。
神は試練も与えますが、試練もまた恵みです。
試練は、神を探し求め、人間に永遠の命を得て欲しいと願う「神の愛」です。
キリスト教に一番近い宗教は仏教だと私は思います。
仏教の「慈悲の瞑想(嫌いな人間の幸せを願う事)」と、
新約聖書のイエス・キリストの教え「汝の敵を愛せよ」と、
旧約聖書のエゼキエル書のメッセージ
「あなたはあなたの敵の事も愛しておられる神を愛せますか?」
は類似していると思います。
「敵を愛せよ」とは、愛する事は好む事よりも偉大である、たとえ好まずとも愛する事は可能であるという意味だと思います。
素晴らしい教えですよね。
キリスト教は日本人にとって理解しがたい宗教という事はないと思います。^ ^
旧約聖書の神というと、「裁きの神」というイメージを持つかたは多いですが、神が人の人生を終わらせる事を
「殺人」と捉えるか、
神が「その人の人生をそこで終わらせた」
と捉えるかで違ってくると思います。
暖かい布団の上で80才で死ぬのも、洪水で若くして死ぬのも、どちらも神がその人の人生を「そこまで」、と決めただけの事とも考えられると思います。
創世記6章5節にこうあります。
「5 主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。」
時空を超越した神の目から見て、愛に生きる可能性のない人間を長生きさせる事は、人間にとっても、何か意味があるでしょうか?
全てを見透す事ができる神の目に、愛に生きる可能性の無い人間の地上生涯を早めに終わらせて、その人の罪がそれ以上重くならないうちに神がその人の地上生涯を終えさせることは、神の愛と言えるかと思います。
実存の解釈についてわかりやすく説明されている投稿があったから日本語にしたので、良かったら暇つぶしに読んで下さい。
🕊命題は
「『悪』を作ったのも神だろうか?」
ある大学の教授が生徒との間で議論を始めた。
教授は「神は全ての存在するものを創造しただろうか?」と質問した。
生徒達は「はい、そう思います」と答えた。
教授は「その場合、神は悪も造った、そうだろ?なぜなら悪は存在する。」
そして教授は続けた。
生徒達はこれに答えがないので黙っていた。
それで教授は、つまり信仰とは非論理的な神話だと結論付けた。
そこで一人の生徒が立ち上がり教授に質問した。
彼は教授に「先生 『寒さ』は存在するでしょうか?」と質問した。
教授は「寒さはもちろん存在する。君は『寒さ』を感じたことがないのか?」と言った。
生徒は「しかしわたし達が物理の授業から学んだ事によると、『寒さ』は存在しないのです。『冷たさ』は熱が不在になった場合にだけ存在するのです。これを観察できる唯一の方法は熱のエネルギーが他の物体に伝達し移動した時です。熱がなければ物体はそもそもなんの反応も示しません。不活性の存在です。つまり『寒さ(冷たさ)』は存在しません。われわれは「寒さ(冷たさ)」という言葉を熱が不在の状態を説明するためだけに作りました。
では暗闇はどうでしょうか?と彼は続けた。
教授は「暗闇はもちろん存在する。」と答えた。
生徒は「暗闇は光の完全な不在の結果出現します。光や明るさについてわれわれは学ぶ事ができますが、暗闇自体については学ぶ事ができません。光のプリズムは、光が構成するすべての異なる色を表示し、その波長に基づいて光線を分離します。その光のいづれも存在しない時に暗闇は現れます。」と言いました。
そして彼は教授に
「では悪は存在するでしょうか?」と言いました。
教授は何も答えませんでした。
彼は続けました。
「神は悪を作りませんでした。人の心に神が不在の状態の時、人間的な愛がない時、信仰がない時に悪は出現します。愛や信仰とは暖かさや光であります。
神、愛、信仰は存在します。それらが不在の状態が『悪』に繋がります。」
🕊創世記1:6〜1:7にある「上の水」が洪水の時雨となり降ってきたのだと思います。
6 神はまた言われた、「水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ」。
7 そのようになった。神はおおぞらを造って、おおぞらの下の水とおおぞらの上の水とを分けられた。
地球は70パーセントくらい海の青い星と言われますが、初めは35パーセントくらいが海だったのかもしれませんね。
聖書から計算するとノアが船を造るのに70年あまりの時間を費やしている事がノアの子供達の年齢でわかります。
それから動物達は神様がノアのところまで来るようにして下さったので、神様との分業だったと思われまので、「全ての種のつがいの動物が入るわけない」とおっしゃる方はいますが、神様は全ての種の小ぶりな動物を選ばれたかもしれませんね?
洪水が起きる時に箱船の扉を最後に閉められたのはノアではなく神様である事が聖書からわかるので、ノアは決して冷たい人ではなかったと思われます。
また神も愛であります。
キリスト教の神(聖書の神)とは「父と子と聖霊」の三位一体の「唯一神」のことであるので、一神教であります。
日本の神道の神さまのような多神教とは少し概念が異なります。
何を信じるかは個人の自由です。
イエス様も宣べ伝えるようにと弟子達に言われましたが、全ての人を説得してくるようにとはおっしゃいませんでした。
しかし福音の意味はGood News!です。
ヨハネによる福音書
3:16
神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。
@@なおざりおざなり さよう、異教の神は神ではなく悪魔、もっと悪い類いならば、大悪魔だ。
蛇は比喩かな?と思いました。
悪霊に入り込まれた生物が蛇にされたようです。
良かったら、読んで下さい。
神は霊です。その霊とは愛です。
ヨハネ第一の手紙4:8
「愛さない者は、神を知らない。神は愛である。」
また聖書に出てくる天使には羽がありませんので、見た目はかなり人間に近いと思われます。聖書に出てくる天使はみんな男性のようです。
我々人間は、神の姿、愛に造られた。
しかし善悪を知る木の実を食べ、神の完全なる愛を基準にした善悪の判断ではなく、自分達の善悪の判断で生きるようになってしまった。
これが「原罪」であると思われます。
神は天使にも人間にも自由意志を与えました。神に従うも、自分の意志に従うも、自由なのです。
サタンとは堕落した天使(サタンとはヘブライ語で「訴える者」という意味)
堕落した天使とは、神の善悪の判断ではなく自分の善悪の判断を優先し堕落した天使の事です。
しかし人間とは違い、サタンとサタンに従った堕落した天使達(悪霊)は、神が愛である事を知りながら、神に背きました。
ですので、人間は福音の三要素を信じ悔い改めたら罪がゆるされ、永遠の命を得る事ができますが、サタンとサタンに従った堕落した天使達は、終末には地獄に閉じ込められる事が決まってます。
神が愛なら、地獄に閉じ込めてるのはおかしいと思われるかもしれませんが、
地獄とは言ってみれば内側から鍵がかかっている状態かと思います。
たとえ神が「地獄には鍵はかかっていない、地獄の戸は内側から引けばでてこれる」と言っても、神に従う事を拒絶する者(神の愛を拒否する者)は 引き戸を永遠に押し続けてしまうのではないでしょうか?
キリストを信じれば救われるのに、それを拒絶する人達と同じように。
ユダは自殺してしまいましたが、自殺とは自分の命を粗末にする事です。
ユダは後悔したから自殺したと思います。
しかし、十字架をかつぐイエスに「ゆるして欲しい」とかけよれば、イエスはユダをゆるしたでしょう。
「後悔」と「悔い改め」の違いは、
ふ
後悔とは、自分のした事を悔いるだけです。
悔い改めとは、神の愛を信じ、神にゆるしをこい、ゆるして貰って、自己を改め、神に喜んで従い、希望を持って「生きる」事です。
神は祝福も与えますが、試練も与えます。
試練はつらいです。
病気や災害はできれば避けたい。
しかし人間とは たいてい満ち足りている時は、真実の探求より幸福の追求に忙しいです。
試練がなければ、人間は真理を追求し、神を探し求める事もしません。
神は試練も与えますが、試練もまた恵みです。
試練は、神を探し求め、人間に永遠の命を得て欲しいと願う「神の愛」です。
キリスト教に一番近い宗教は仏教だと私は思います。
仏教の「慈悲の瞑想(嫌いな人間の幸せを願う事)」と、
新約聖書のイエス・キリストの教え「汝の敵を愛せよ」と、
旧約聖書のエゼキエル書のメッセージ
「あなたはあなたの敵の事も愛しておられる神を愛せますか?」
は類似していると思います。
「敵を愛せよ」とは、愛する事は好む事よりも偉大である、たとえ好まずとも愛する事は可能であるという意味だと思います。
素晴らしい教えですよね。
キリスト教は日本人にとって理解しがたい宗教という事はないと思います。^ ^
旧約聖書の神というと、「裁きの神」というイメージを持つかたは多いですが、神が人の人生を終わらせる事を
「殺人」と捉えるか、
神が「その人の人生をそこで終わらせた」
と捉えるかで違ってくると思います。
暖かい布団の上で80才で死ぬのも、洪水で若くして死ぬのも、どちらも神がその人の人生を「そこまで」、と決めただけの事とも考えられると思います。
創世記6章5節にこうあります。
「5 主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。」
時空を超越した神の目から見て、愛に生きる可能性のない人間を長生きさせる事は、人間にとっても、何か意味があるでしょうか?
全てを見透す事ができる神の目に、愛に生きる可能性の無い人間の地上生涯を早めに終わらせて、その人の罪がそれ以上重くならないうちに神がその人の地上生涯を終えさせることは、神の愛と言えるかと思います。
実存の解釈についてわかりやすく説明されている投稿があったから日本語にしたので、良かったら暇つぶしに読んで下さい。
🕊命題は
「『悪』を作ったのも神だろうか?」
ある大学の教授が生徒との間で議論を始めた。
教授は「神は全ての存在するものを創造しただろうか?」と質問した。
生徒達は「はい、そう思います」と答えた。
教授は「その場合、神は悪も造った、そうだろ?なぜなら悪は存在する。」
そして教授は続けた。
生徒達はこれに答えがないので黙っていた。
それで教授は、つまり信仰とは非論理的な神話だと結論付けた。
そこで一人の生徒が立ち上がり教授に質問した。
彼は教授に「先生 『寒さ』は存在するでしょうか?」と質問した。
教授は「寒さはもちろん存在する。君は『寒さ』を感じたことがないのか?」と言った。
生徒は「しかしわたし達が物理の授業から学んだ事によると、『寒さ』は存在しないのです。『冷たさ』は熱が不在になった場合にだけ存在するのです。これを観察できる唯一の方法は熱のエネルギーが他の物体に伝達し移動した時です。熱がなければ物体はそもそもなんの反応も示しません。不活性の存在です。つまり『寒さ(冷たさ)』は存在しません。われわれは「寒さ(冷たさ)」という言葉を熱が不在の状態を説明するためだけに作りました。
では暗闇はどうでしょうか?と彼は続けた。
教授は「暗闇はもちろん存在する。」と答えた。
生徒は「暗闇は光の完全な不在の結果出現します。光や明るさについてわれわれは学ぶ事ができますが、暗闇自体については学ぶ事ができません。光のプリズムは、光が構成するすべての異なる色を表示し、その波長に基づいて光線を分離します。その光のいづれも存在しない時に暗闇は現れます。」と言いました。
そして彼は教授に
「では悪は存在するでしょうか?」と言いました。
教授は何も答えませんでした。
彼は続けました。
「神は悪を作りませんでした。人の心に神が不在の状態の時、人間的な愛がない時、信仰がない時に悪は出現します。愛や信仰とは暖かさや光であります。
神、愛、信仰は存在します。それらが不在の状態が『悪』に繋がります。」
🕊創世記1:6〜1:7にある「上の水」が洪水の時雨となり降ってきたのだと思います。
6 神はまた言われた、「水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ」。
7 そのようになった。神はおおぞらを造って、おおぞらの下の水とおおぞらの上の水とを分けられた。
地球は70パーセントくらい海の青い星と言われますが、初めは35パーセントくらいが海だったのかもしれませんね。
聖書から計算するとノアが船を造るのに70年あまりの時間を費やしている事がノアの子供達の年齢でわかります。
それから動物達は神様がノアのところまで来るようにして下さったので、神様との分業だったと思われまので、「全ての種のつがいの動物が入るわけない」とおっしゃる方はいますが、神様は全ての種の小ぶりな動物を選ばれたかもしれませんね?
洪水が起きる時に箱船の扉を最後に閉められたのはノアではなく神様である事が聖書からわかるので、ノアは決して冷たい人ではなかったと思われます。
また神も愛であります。
キリスト教の神(聖書の神)とは「父と子と聖霊」の三位一体の「唯一神」のことであるので、一神教であります。
日本の神道の神さまのような多神教とは少し概念が異なります。
何を信じるかは個人の自由です。
イエス様も宣べ伝えるようにと弟子達に言われましたが、全ての人を説得してくるようにとはおっしゃいませんでした。
しかし福音の意味はGood News!です。
ヨハネによる福音書
3:16
神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。
だから蛇は嫌われ者なんだ…日本では神様と言われる場所もあるけど
良かったら、読んで下さい。
神は霊です。その霊とは愛です。
ヨハネ第一の手紙4:8
「愛さない者は、神を知らない。神は愛である。」
また聖書に出てくる天使には羽がありませんので、見た目はかなり人間に近いと思われます。聖書に出てくる天使はみんな男性のようです。
我々人間は、神の姿、愛に造られた。
しかし善悪を知る木の実を食べ、神の完全なる愛を基準にした善悪の判断ではなく、自分達の善悪の判断で生きるようになってしまった。
これが「原罪」であると思われます。
神は天使にも人間にも自由意志を与えました。神に従うも、自分の意志に従うも、自由なのです。
サタンとは堕落した天使(サタンとはヘブライ語で「訴える者」という意味)
堕落した天使とは、神の善悪の判断ではなく自分の善悪の判断を優先し堕落した天使の事です。
しかし人間とは違い、サタンとサタンに従った堕落した天使達(悪霊)は、神が愛である事を知りながら、神に背きました。
蛇に取り憑いていたのも悪霊です。
ですので、人間は福音の三要素を信じ悔い改めたら罪がゆるされ、永遠の命を得る事ができますが、サタンとサタンに従った堕落した天使達は、終末には地獄に閉じ込められる事が決まってます。
神が愛なら、地獄に閉じ込めてるのはおかしいと思われるかもしれませんが、
地獄とは言ってみれば内側から鍵がかかっている状態かと思います。
たとえ神が「地獄には鍵はかかっていない、地獄の戸は内側から引けばでてこれる」と言っても、神に従う事を拒絶する者(神の愛を拒否する者)は 引き戸を永遠に押し続けてしまうのではないでしょうか?
キリストを信じれば救われるのに、それを拒絶する人達と同じように。
ユダは自殺してしまいましたが、自殺とは自分の命を粗末にする事です。
ユダは後悔したから自殺したと思います。
しかし、十字架をかつぐイエスに「ゆるして欲しい」とかけよれば、イエスはユダをゆるしたでしょう。
「後悔」と「悔い改め」の違いは、
ふ
後悔とは、自分のした事を悔いるだけです。
悔い改めとは、神の愛を信じ、神にゆるしをこい、ゆるして貰って、自己を改め、神に喜んで従い、希望を持って「生きる」事です。
神は祝福も与えますが、試練も与えます。
試練はつらいです。
病気や災害はできれば避けたい。
しかし人間とは たいてい満ち足りている時は、真実の探求より幸福の追求に忙しいです。
試練がなければ、人間は真理を追求し、神を探し求める事もしません。
神は試練も与えますが、試練もまた恵みです。
試練は、神を探し求め、人間に永遠の命を得て欲しいと願う「神の愛」です。
キリスト教に一番近い宗教は仏教だと私は思います。
仏教の「慈悲の瞑想(嫌いな人間の幸せを願う事)」と、
新約聖書のイエス・キリストの教え「汝の敵を愛せよ」と、
旧約聖書のエゼキエル書のメッセージ
「あなたはあなたの敵の事も愛しておられる神を愛せますか?」
は類似していると思います。
「敵を愛せよ」とは、愛する事は好む事よりも偉大である、たとえ好まずとも愛する事は可能であるという意味だと思います。
素晴らしい教えですよね。
キリスト教は日本人にとって理解しがたい宗教という事はないと思います。^ ^
旧約聖書の神というと、「裁きの神」というイメージを持つかたは多いですが、神が人の人生を終わらせる事を
「殺人」と捉えるか、
神が「その人の人生をそこで終わらせた」
と捉えるかで違ってくると思います。
暖かい布団の上で80才で死ぬのも、洪水で若くして死ぬのも、どちらも神がその人の人生を「そこまで」、と決めただけの事とも考えられると思います。
創世記6章5節にこうあります。
「5 主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。」
時空を超越した神の目から見て、愛に生きる可能性のない人間を長生きさせる事は、人間にとっても、何か意味があるでしょうか?
全てを見透す事ができる神の目に、愛に生きる可能性の無い人間の地上生涯を早めに終わらせて、その人の罪がそれ以上重くならないうちに神がその人の地上生涯を終えさせることは、神の愛と言えるかと思います。
実存の解釈についてわかりやすく説明されている投稿があったから日本語にしたので、良かったら暇つぶしに読んで下さい。
🕊命題は
「『悪』を作ったのも神だろうか?」
ある大学の教授が生徒との間で議論を始めた。
教授は「神は全ての存在するものを創造しただろうか?」と質問した。
生徒達は「はい、そう思います」と答えた。
教授は「その場合、神は悪も造った、そうだろ?なぜなら悪は存在する。」
そして教授は続けた。
生徒達はこれに答えがないので黙っていた。
それで教授は、つまり信仰とは非論理的な神話だと結論付けた。
そこで一人の生徒が立ち上がり教授に質問した。
彼は教授に「先生 『寒さ』は存在するでしょうか?」と質問した。
教授は「寒さはもちろん存在する。君は『寒さ』を感じたことがないのか?」と言った。
生徒は「しかしわたし達が物理の授業から学んだ事によると、『寒さ』は存在しないのです。『冷たさ』は熱が不在になった場合にだけ存在するのです。これを観察できる唯一の方法は熱のエネルギーが他の物体に伝達し移動した時です。熱がなければ物体はそもそもなんの反応も示しません。不活性の存在です。つまり『寒さ(冷たさ)』は存在しません。われわれは「寒さ(冷たさ)」という言葉を熱が不在の状態を説明するためだけに作りました。
では暗闇はどうでしょうか?と彼は続けた。
教授は「暗闇はもちろん存在する。」と答えた。
生徒は「暗闇は光の完全な不在の結果出現します。光や明るさについてわれわれは学ぶ事ができますが、暗闇自体については学ぶ事ができません。光のプリズムは、光が構成するすべての異なる色を表示し、その波長に基づいて光線を分離します。その光のいづれも存在しない時に暗闇は現れます。」と言いました。
そして彼は教授に
「では悪は存在するでしょうか?」と言いました。
教授は何も答えませんでした。
彼は続けました。
「神は悪を作りませんでした。人の心に神が不在の状態の時、人間的な愛がない時、信仰がない時に悪は出現します。愛や信仰とは暖かさや光であります。
神、愛、信仰は存在します。それらが不在の状態が『悪』に繋がります。」
🕊創世記1:6〜1:7にある「上の水」が洪水の時雨となり降ってきたのだと思います。
6 神はまた言われた、「水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ」。
7 そのようになった。神はおおぞらを造って、おおぞらの下の水とおおぞらの上の水とを分けられた。
地球は70パーセントくらい海の青い星と言われますが、初めは35パーセントくらいが海だったのかもしれませんね。
聖書から計算するとノアが船を造るのに70年あまりの時間を費やしている事がノアの子供達の年齢でわかります。
それから動物達は神様がノアのところまで来るようにして下さったので、神様との分業だったと思われまので、「全ての種のつがいの動物が入るわけない」とおっしゃる方はいますが、神様は全ての種の小ぶりな動物を選ばれたかもしれませんね?
洪水が起きる時に箱船の扉を最後に閉められたのはノアではなく神様である事が聖書からわかるので、ノアは決して冷たい人ではなかったと思われます。
また神も愛であります。
キリスト教の神(聖書の神)とは「父と子と聖霊」の三位一体の「唯一神」のことであるので、一神教であります。
日本の神道の神さまのような多神教とは少し概念が異なります。
何を信じるかは個人の自由です。
イエス様も宣べ伝えるようにと弟子達に言われましたが、全ての人を説得してくるようにとはおっしゃいませんでした。
しかし福音の意味はGood News!です。
ヨハネによる福音書
3:16
神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。
なぜ、実を食べたら世界が滅びたの?
いい質問です!神様が「その実を食べない」と言われたから、アダム達はその実を食べた時、罪を犯しました。それは最初の罪でした。世界で罪を出たと世界が滅ぼしたのです。
良かったら、読んで下さい。
神は霊です。その霊とは愛です。
ヨハネ第一の手紙4:8
「愛さない者は、神を知らない。神は愛である。」
また聖書に出てくる天使には羽がありませんので、見た目はかなり人間に近いと思われます。聖書に出てくる天使はみんな男性のようです。
我々人間は、神の姿、愛に造られた。
しかし善悪を知る木の実を食べ、神の完全なる愛を基準にした善悪の判断ではなく、自分達の善悪の判断で生きるようになってしまった。
これが「原罪」であると思われます。
神は天使にも人間にも自由意志を与えました。神に従うも、自分の意志に従うも、自由なのです。
サタンとは堕落した天使(サタンとはヘブライ語で「訴える者」という意味)
堕落した天使とは、神の善悪の判断ではなく自分の善悪の判断を優先し堕落した天使の事です。
しかし人間とは違い、サタンとサタンに従った堕落した天使達(悪霊)は、神が愛である事を知りながら、神に背きました。
ですので、人間は福音の三要素を信じ悔い改めたら罪がゆるされ、永遠の命を得る事ができますが、サタンとサタンに従った堕落した天使達は、終末には地獄に閉じ込められる事が決まってます。
神が愛なら、地獄に閉じ込めてるのはおかしいと思われるかもしれませんが、
地獄とは言ってみれば内側から鍵がかかっている状態かと思います。
たとえ神が「地獄には鍵はかかっていない、地獄の戸は内側から引けばでてこれる」と言っても、神に従う事を拒絶する者(神の愛を拒否する者)は 引き戸を永遠に押し続けてしまうのではないでしょうか?
キリストを信じれば救われるのに、それを拒絶する人達と同じように。
ユダは自殺してしまいましたが、自殺とは自分の命を粗末にする事です。
ユダは後悔したから自殺したと思います。
しかし、十字架をかつぐイエスに「ゆるして欲しい」とかけよれば、イエスはユダをゆるしたでしょう。
「後悔」と「悔い改め」の違いは、
ふ
後悔とは、自分のした事を悔いるだけです。
悔い改めとは、神の愛を信じ、神にゆるしをこい、ゆるして貰って、自己を改め、神に喜んで従い、希望を持って「生きる」事です。
神は祝福も与えますが、試練も与えます。
試練はつらいです。
病気や災害はできれば避けたい。
しかし人間とは たいてい満ち足りている時は、真実の探求より幸福の追求に忙しいです。
試練がなければ、人間は真理を追求し、神を探し求める事もしません。
神は試練も与えますが、試練もまた恵みです。
試練は、神を探し求め、人間に永遠の命を得て欲しいと願う「神の愛」です。
キリスト教に一番近い宗教は仏教だと私は思います。
仏教の「慈悲の瞑想(嫌いな人間の幸せを願う事)」と、
新約聖書のイエス・キリストの教え「汝の敵を愛せよ」と、
旧約聖書のエゼキエル書のメッセージ
「あなたはあなたの敵の事も愛しておられる神を愛せますか?」
は類似していると思います。
「敵を愛せよ」とは、愛する事は好む事よりも偉大である、たとえ好まずとも愛する事は可能であるという意味だと思います。
素晴らしい教えですよね。
キリスト教は日本人にとって理解しがたい宗教という事はないと思います。^ ^
旧約聖書の神というと、「裁きの神」というイメージを持つかたは多いですが、神が人の人生を終わらせる事を
「殺人」と捉えるか、
神が「その人の人生をそこで終わらせた」
と捉えるかで違ってくると思います。
暖かい布団の上で80才で死ぬのも、洪水で若くして死ぬのも、どちらも神がその人の人生を「そこまで」、と決めただけの事とも考えられると思います。
創世記6章5節にこうあります。
「5 主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。」
時空を超越した神の目から見て、愛に生きる可能性のない人間を長生きさせる事は、人間にとっても、何か意味があるでしょうか?
全てを見透す事ができる神の目に、愛に生きる可能性の無い人間の地上生涯を早めに終わらせて、その人の罪がそれ以上重くならないうちに神がその人の地上生涯を終えさせることは、神の愛と言えるかと思います。
実存の解釈についてわかりやすく説明されている投稿があったから日本語にしたので、良かったら暇つぶしに読んで下さい。
🕊命題は
「『悪』を作ったのも神だろうか?」
ある大学の教授が生徒との間で議論を始めた。
教授は「神は全ての存在するものを創造しただろうか?」と質問した。
生徒達は「はい、そう思います」と答えた。
教授は「その場合、神は悪も造った、そうだろ?なぜなら悪は存在する。」
そして教授は続けた。
生徒達はこれに答えがないので黙っていた。
それで教授は、つまり信仰とは非論理的な神話だと結論付けた。
そこで一人の生徒が立ち上がり教授に質問した。
彼は教授に「先生 『寒さ』は存在するでしょうか?」と質問した。
教授は「寒さはもちろん存在する。君は『寒さ』を感じたことがないのか?」と言った。
生徒は「しかしわたし達が物理の授業から学んだ事によると、『寒さ』は存在しないのです。『冷たさ』は熱が不在になった場合にだけ存在するのです。これを観察できる唯一の方法は熱のエネルギーが他の物体に伝達し移動した時です。熱がなければ物体はそもそもなんの反応も示しません。不活性の存在です。つまり『寒さ(冷たさ)』は存在しません。われわれは「寒さ(冷たさ)」という言葉を熱が不在の状態を説明するためだけに作りました。
では暗闇はどうでしょうか?と彼は続けた。
教授は「暗闇はもちろん存在する。」と答えた。
生徒は「暗闇は光の完全な不在の結果出現します。光や明るさについてわれわれは学ぶ事ができますが、暗闇自体については学ぶ事ができません。光のプリズムは、光が構成するすべての異なる色を表示し、その波長に基づいて光線を分離します。その光のいづれも存在しない時に暗闇は現れます。」と言いました。
そして彼は教授に
「では悪は存在するでしょうか?」と言いました。
教授は何も答えませんでした。
彼は続けました。
「神は悪を作りませんでした。人の心に神が不在の状態の時、人間的な愛がない時、信仰がない時に悪は出現します。愛や信仰とは暖かさや光であります。
神、愛、信仰は存在します。それらが不在の状態が『悪』に繋がります。」
🕊創世記1:6〜1:7にある「上の水」が洪水の時雨となり降ってきたのだと思います。
6 神はまた言われた、「水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ」。
7 そのようになった。神はおおぞらを造って、おおぞらの下の水とおおぞらの上の水とを分けられた。
地球は70パーセントくらい海の青い星と言われますが、初めは35パーセントくらいが海だったのかもしれませんね。
聖書から計算するとノアが船を造るのに70年あまりの時間を費やしている事がノアの子供達の年齢でわかります。
それから動物達は神様がノアのところまで来るようにして下さったので、神様との分業だったと思われまので、「全ての種のつがいの動物が入るわけない」とおっしゃる方はいますが、神様は全ての種の小ぶりな動物を選ばれたかもしれませんね?
洪水が起きる時に箱船の扉を最後に閉められたのはノアではなく神様である事が聖書からわかるので、ノアは決して冷たい人ではなかったと思われます。
また神も愛であります。
キリスト教の神(聖書の神)とは「父と子と聖霊」の三位一体の「唯一神」のことであるので、一神教であります。
日本の神道の神さまのような多神教とは少し概念が異なります。
何を信じるかは個人の自由です。
イエス様も宣べ伝えるようにと弟子達に言われましたが、全ての人を説得してくるようにとはおっしゃいませんでした。
しかし福音の意味はGood News!です。
ヨハネによる福音書
3:16
神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。
蛇の正体は天使長ルーシェル
ルーシェルは神様と一緒に天地創造をする時、神様に1番頼られて1番愛されました。だけど神様はルーシェルよりも劣る、人間をより愛されました。
ルーシェルは自分よりも劣る人間が、自分よりも愛されるのを見て嫉妬をしました。だからルーシェルはエバを誘惑して、神様の戒めを破るようにしました。神様の戒めを破った人間はエデンの園を追放され、天使長ルーシェルは悪魔サタンになりました。
それほんとですか?聖書に書いてないのはなぜ?
@@たまご-h5x
聖書に書いてないのはイエス様が、サタンの存在を明かす前に殺されてしまったから。
蛇がルーシェルかどうか…
アダムとエバは霊的な存在である神様と会話する事が出来ました。人間は神様とか霊と会話したり出来るように作られているみたいですね。
人の言葉を使える蛇は霊的な存在であると考えられます。神様は戒めで「食べたら『必ず』死ぬだろう。」と言われましたが、蛇は「食べても(肉体的に)死なない。」事を知っていました。そしてエバは蛇の言葉を信じるくらい信頼していました。
人間と会話する事が出来て、神様の戒めの奥義を知っていて、エバが神様と同等かそれ以上に信頼する存在が蛇です。
神様のご性質の一つは神は嘘をつけない、というところです。
神は「食べたら必ず死ぬだろう」と言った事は嘘ではありません。
人間は本来永遠に生きるように神に創造されていました。
しかし善悪を知る木の実を食べた事で、実際に死ぬ生き物になりました。
食べてすぐ死ぬとは神様は言ってません。必ず死ぬ事になると言ったんです。
あなたの聖書解釈とわたしの解釈が違うようなので、良かったら読んでみて下さい。
神は霊です。その霊とは愛です。
ヨハネ第一の手紙4:8
「愛さない者は、神を知らない。神は愛である。」
また聖書に出てくる天使には羽がありませんので、見た目はかなり人間に近いと思われます。聖書に出てくる天使はみんな男性のようです。
我々人間は、神の姿、愛に造られた。
しかし善悪を知る木の実を食べ、神の完全なる愛を基準にした善悪の判断ではなく、自分達の善悪の判断で生きるようになってしまった。
これが「原罪」であると思われます。
神は天使にも人間にも自由意志を与えました。神に従うも、自分の意志に従うも、自由なのです。
サタンとは堕落した天使(サタンとはヘブライ語で「訴える者」という意味)
堕落した天使とは、神の善悪の判断ではなく自分の善悪の判断を優先し堕落した天使の事です。
しかし人間とは違い、サタンとサタンに従った堕落した天使達(悪霊)は、神が愛である事を知りながら、神に背きました。
ですので、人間は福音の三要素を信じ悔い改めたら罪がゆるされ、永遠の命を得る事ができますが、サタンとサタンに従った堕落した天使達は、終末には地獄に閉じ込められる事が決まってます。
神が愛なら、地獄に閉じ込めてるのはおかしいと思われるかもしれませんが、
地獄とは言ってみれば内側から鍵がかかっている状態かと思います。
たとえ神が「地獄には鍵はかかっていない、地獄の戸は内側から引けばでてこれる」と言っても、神に従う事を拒絶する者(神の愛を拒否する者)は 引き戸を永遠に押し続けてしまうのではないでしょうか?
キリストを信じれば救われるのに、それを拒絶する人達と同じように。
ユダは自殺してしまいましたが、自殺とは自分の命を粗末にする事です。
ユダは後悔したから自殺したと思います。
しかし、十字架をかつぐイエスに「ゆるして欲しい」とかけよれば、イエスはユダをゆるしたでしょう。
「後悔」と「悔い改め」の違いは、
ふ
後悔とは、自分のした事を悔いるだけです。
悔い改めとは、神の愛を信じ、神にゆるしをこい、ゆるして貰って、自己を改め、神に喜んで従い、希望を持って「生きる」事です。
神は祝福も与えますが、試練も与えます。
試練はつらいです。
病気や災害はできれば避けたい。
しかし人間とは たいてい満ち足りている時は、真実の探求より幸福の追求に忙しいです。
試練がなければ、人間は真理を追求し、神を探し求める事もしません。
神は試練も与えますが、試練もまた恵みです。
試練は、神を探し求め、人間に永遠の命を得て欲しいと願う「神の愛」です。
キリスト教に一番近い宗教は仏教だと私は思います。
仏教の「慈悲の瞑想(嫌いな人間の幸せを願う事)」と、
新約聖書のイエス・キリストの教え「汝の敵を愛せよ」と、
旧約聖書のエゼキエル書のメッセージ
「あなたはあなたの敵の事も愛しておられる神を愛せますか?」
は類似していると思います。
「敵を愛せよ」とは、愛する事は好む事よりも偉大である、たとえ好まずとも愛する事は可能であるという意味だと思います。
素晴らしい教えですよね。
キリスト教は日本人にとって理解しがたい宗教という事はないと思います。^ ^
旧約聖書の神というと、「裁きの神」というイメージを持つかたは多いですが、神が人の人生を終わらせる事を
「殺人」と捉えるか、
神が「その人の人生をそこで終わらせた」
と捉えるかで違ってくると思います。
暖かい布団の上で80才で死ぬのも、洪水で若くして死ぬのも、どちらも神がその人の人生を「そこまで」、と決めただけの事とも考えられると思います。
創世記6章5節にこうあります。
「5 主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。」
時空を超越した神の目から見て、愛に生きる可能性のない人間を長生きさせる事は、人間にとっても、何か意味があるでしょうか?
全てを見透す事ができる神の目に、愛に生きる可能性の無い人間の地上生涯を早めに終わらせて、その人の罪がそれ以上重くならないうちに神がその人の地上生涯を終えさせることは、神の愛と言えるかと思います。
実存の解釈についてわかりやすく説明されている投稿があったから日本語にしたので、良かったら暇つぶしに読んで下さい。
🕊命題は
「『悪』を作ったのも神だろうか?」
ある大学の教授が生徒との間で議論を始めた。
教授は「神は全ての存在するものを創造しただろうか?」と質問した。
生徒達は「はい、そう思います」と答えた。
教授は「その場合、神は悪も造った、そうだろ?なぜなら悪は存在する。」
そして教授は続けた。
生徒達はこれに答えがないので黙っていた。
それで教授は、つまり信仰とは非論理的な神話だと結論付けた。
そこで一人の生徒が立ち上がり教授に質問した。
彼は教授に「先生 『寒さ』は存在するでしょうか?」と質問した。
教授は「寒さはもちろん存在する。君は『寒さ』を感じたことがないのか?」と言った。
生徒は「しかしわたし達が物理の授業から学んだ事によると、『寒さ』は存在しないのです。『冷たさ』は熱が不在になった場合にだけ存在するのです。これを観察できる唯一の方法は熱のエネルギーが他の物体に伝達し移動した時です。熱がなければ物体はそもそもなんの反応も示しません。不活性の存在です。つまり『寒さ(冷たさ)』は存在しません。われわれは「寒さ(冷たさ)」という言葉を熱が不在の状態を説明するためだけに作りました。
では暗闇はどうでしょうか?と彼は続けた。
教授は「暗闇はもちろん存在する。」と答えた。
生徒は「暗闇は光の完全な不在の結果出現します。光や明るさについてわれわれは学ぶ事ができますが、暗闇自体については学ぶ事ができません。光のプリズムは、光が構成するすべての異なる色を表示し、その波長に基づいて光線を分離します。その光のいづれも存在しない時に暗闇は現れます。」と言いました。
そして彼は教授に
「では悪は存在するでしょうか?」と言いました。
教授は何も答えませんでした。
彼は続けました。
「神は悪を作りませんでした。人の心に神が不在の状態の時、人間的な愛がない時、信仰がない時に悪は出現します。愛や信仰とは暖かさや光であります。
神、愛、信仰は存在します。それらが不在の状態が『悪』に繋がります。」
🕊創世記1:6〜1:7にある「上の水」が洪水の時雨となり降ってきたのだと思います。
6 神はまた言われた、「水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ」。
7 そのようになった。神はおおぞらを造って、おおぞらの下の水とおおぞらの上の水とを分けられた。
地球は70パーセントくらい海の青い星と言われますが、初めは35パーセントくらいが海だったのかもしれませんね。
聖書から計算するとノアが船を造るのに70年あまりの時間を費やしている事がノアの子供達の年齢でわかります。
それから動物達は神様がノアのところまで来るようにして下さったので、神様との分業だったと思われまので、「全ての種のつがいの動物が入るわけない」とおっしゃる方はいますが、神様は全ての種の小ぶりな動物を選ばれたかもしれませんね?
洪水が起きる時に箱船の扉を最後に閉められたのはノアではなく神様である事が聖書からわかるので、ノアは決して冷たい人ではなかったと思われます。
また神も愛であります。
キリスト教の神(聖書の神)とは「父と子と聖霊」の三位一体の「唯一神」のことであるので、一神教であります。
日本の神道の神さまのような多神教とは少し概念が異なります。
何を信じるかは個人の自由です。
イエス様も宣べ伝えるようにと弟子達に言われましたが、全ての人を説得してくるようにとはおっしゃいませんでした。
しかし福音の意味はGood News!です。
ヨハネによる福音書
3:16
神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。
天使も嫉妬するんですね
良かったら、読んで下さい。
神は霊です。その霊とは愛です。
ヨハネ第一の手紙4:8
「愛さない者は、神を知らない。神は愛である。」
また聖書に出てくる天使には羽がありませんので、見た目はかなり人間に近いと思われます。聖書に出てくる天使はみんな男性のようです。
我々人間は、神の姿、愛に造られた。
しかし善悪を知る木の実を食べ、神の完全なる愛を基準にした善悪の判断ではなく、自分達の善悪の判断で生きるようになってしまった。
これが「原罪」であると思われます。
神は天使にも人間にも自由意志を与えました。神に従うも、自分の意志に従うも、自由なのです。
サタンとは堕落した天使(サタンとはヘブライ語で「訴える者」という意味)
堕落した天使とは、神の善悪の判断ではなく自分の善悪の判断を優先し堕落した天使の事です。
しかし人間とは違い、サタンとサタンに従った堕落した天使達(悪霊)は、神が愛である事を知りながら、神に背きました。
ですので、人間は福音の三要素を信じ悔い改めたら罪がゆるされ、永遠の命を得る事ができますが、サタンとサタンに従った堕落した天使達は、終末には地獄に閉じ込められる事が決まってます。
神が愛なら、地獄に閉じ込めてるのはおかしいと思われるかもしれませんが、
地獄とは言ってみれば内側から鍵がかかっている状態かと思います。
たとえ神が「地獄には鍵はかかっていない、地獄の戸は内側から引けばでてこれる」と言っても、神に従う事を拒絶する者(神の愛を拒否する者)は 引き戸を永遠に押し続けてしまうのではないでしょうか?
キリストを信じれば救われるのに、それを拒絶する人達と同じように。
ユダは自殺してしまいましたが、自殺とは自分の命を粗末にする事です。
ユダは後悔したから自殺したと思います。
しかし、十字架をかつぐイエスに「ゆるして欲しい」とかけよれば、イエスはユダをゆるしたでしょう。
「後悔」と「悔い改め」の違いは、
ふ
後悔とは、自分のした事を悔いるだけです。
悔い改めとは、神の愛を信じ、神にゆるしをこい、ゆるして貰って、自己を改め、神に喜んで従い、希望を持って「生きる」事です。
神は祝福も与えますが、試練も与えます。
試練はつらいです。
病気や災害はできれば避けたい。
しかし人間とは たいてい満ち足りている時は、真実の探求より幸福の追求に忙しいです。
試練がなければ、人間は真理を追求し、神を探し求める事もしません。
神は試練も与えますが、試練もまた恵みです。
試練は、神を探し求め、人間に永遠の命を得て欲しいと願う「神の愛」です。
キリスト教に一番近い宗教は仏教だと私は思います。
仏教の「慈悲の瞑想(嫌いな人間の幸せを願う事)」と、
新約聖書のイエス・キリストの教え「汝の敵を愛せよ」と、
旧約聖書のエゼキエル書のメッセージ
「あなたはあなたの敵の事も愛しておられる神を愛せますか?」
は類似していると思います。
「敵を愛せよ」とは、愛する事は好む事よりも偉大である、たとえ好まずとも愛する事は可能であるという意味だと思います。
素晴らしい教えですよね。
キリスト教は日本人にとって理解しがたい宗教という事はないと思います。^ ^
旧約聖書の神というと、「裁きの神」というイメージを持つかたは多いですが、神が人の人生を終わらせる事を
「殺人」と捉えるか、
神が「その人の人生をそこで終わらせた」
と捉えるかで違ってくると思います。
暖かい布団の上で80才で死ぬのも、洪水で若くして死ぬのも、どちらも神がその人の人生を「そこまで」、と決めただけの事とも考えられると思います。
創世記6章5節にこうあります。
「5 主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。」
時空を超越した神の目から見て、愛に生きる可能性のない人間を長生きさせる事は、人間にとっても、何か意味があるでしょうか?
全てを見透す事ができる神の目に、愛に生きる可能性の無い人間の地上生涯を早めに終わらせて、その人の罪がそれ以上重くならないうちに神がその人の地上生涯を終えさせることは、神の愛と言えるかと思います。
実存の解釈についてわかりやすく説明されている投稿があったから日本語にしたので、良かったら暇つぶしに読んで下さい。
🕊命題は
「『悪』を作ったのも神だろうか?」
ある大学の教授が生徒との間で議論を始めた。
教授は「神は全ての存在するものを創造しただろうか?」と質問した。
生徒達は「はい、そう思います」と答えた。
教授は「その場合、神は悪も造った、そうだろ?なぜなら悪は存在する。」
そして教授は続けた。
生徒達はこれに答えがないので黙っていた。
それで教授は、つまり信仰とは非論理的な神話だと結論付けた。
そこで一人の生徒が立ち上がり教授に質問した。
彼は教授に「先生 『寒さ』は存在するでしょうか?」と質問した。
教授は「寒さはもちろん存在する。君は『寒さ』を感じたことがないのか?」と言った。
生徒は「しかしわたし達が物理の授業から学んだ事によると、『寒さ』は存在しないのです。『冷たさ』は熱が不在になった場合にだけ存在するのです。これを観察できる唯一の方法は熱のエネルギーが他の物体に伝達し移動した時です。熱がなければ物体はそもそもなんの反応も示しません。不活性の存在です。つまり『寒さ(冷たさ)』は存在しません。われわれは「寒さ(冷たさ)」という言葉を熱が不在の状態を説明するためだけに作りました。
では暗闇はどうでしょうか?と彼は続けた。
教授は「暗闇はもちろん存在する。」と答えた。
生徒は「暗闇は光の完全な不在の結果出現します。光や明るさについてわれわれは学ぶ事ができますが、暗闇自体については学ぶ事ができません。光のプリズムは、光が構成するすべての異なる色を表示し、その波長に基づいて光線を分離します。その光のいづれも存在しない時に暗闇は現れます。」と言いました。
そして彼は教授に
「では悪は存在するでしょうか?」と言いました。
教授は何も答えませんでした。
彼は続けました。
「神は悪を作りませんでした。人の心に神が不在の状態の時、人間的な愛がない時、信仰がない時に悪は出現します。愛や信仰とは暖かさや光であります。
神、愛、信仰は存在します。それらが不在の状態が『悪』に繋がります。」
🕊創世記1:6〜1:7にある「上の水」が洪水の時雨となり降ってきたのだと思います。
6 神はまた言われた、「水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ」。
7 そのようになった。神はおおぞらを造って、おおぞらの下の水とおおぞらの上の水とを分けられた。
地球は70パーセントくらい海の青い星と言われますが、初めは35パーセントくらいが海だったのかもしれませんね。
聖書から計算するとノアが船を造るのに70年あまりの時間を費やしている事がノアの子供達の年齢でわかります。
それから動物達は神様がノアのところまで来るようにして下さったので、神様との分業だったと思われまので、「全ての種のつがいの動物が入るわけない」とおっしゃる方はいますが、神様は全ての種の小ぶりな動物を選ばれたかもしれませんね?
洪水が起きる時に箱船の扉を最後に閉められたのはノアではなく神様である事が聖書からわかるので、ノアは決して冷たい人ではなかったと思われます。
また神も愛であります。
キリスト教の神(聖書の神)とは「父と子と聖霊」の三位一体の「唯一神」のことであるので、一神教であります。
日本の神道の神さまのような多神教とは少し概念が異なります。
何を信じるかは個人の自由です。
イエス様も宣べ伝えるようにと弟子達に言われましたが、全ての人を説得してくるようにとはおっしゃいませんでした。
しかし福音の意味はGood News!です。
ヨハネによる福音書
3:16
神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。
そもそも神様はサタンを創造したのでしょうか??人間を苦しめる為にサタンを創造したかったのでしょうか?
神は、天使や人間を創造したと同時に自由意志を持たせました。
つまりサタンとなったのはサタンが選んだのです。
人間社会で例えると、人は生まれながら泥棒ではなくありませんよね?
しかし生きていくうちに、人のものが欲しいと、思いを育て、その思いを行動に移すと本当に泥棒になってしまうのです。
神は霊です。その霊とは愛です。
ヨハネ第一の手紙4:8
「愛さない者は、神を知らない。神は愛である。」
また聖書に出てくる天使には羽がありませんので、見た目はかなり人間に近いと思われます。聖書に出てくる天使はみんな男性のようです。
我々人間は、神の姿、愛に造られた。
しかし善悪を知る木の実を食べ、神の完全なる愛を基準にした善悪の判断ではなく、自分達の善悪の判断で生きるようになってしまった。
これが「原罪」であると思われます。
神は天使にも人間にも自由意志を与えました。神に従うも、自分の意志に従うも、自由なのです。
サタンとは堕落した天使(サタンとはヘブライ語で「訴える者」という意味)
堕落した天使とは、神の善悪の判断ではなく自分の善悪の判断を優先し堕落した天使の事です。
しかし人間とは違い、サタンとサタンに従った堕落した天使達(悪霊)は、神が愛である事を知りながら、神に背きました。
ですので、人間は福音の三要素を信じ悔い改めたら罪がゆるされ、永遠の命を得る事ができますが、サタンとサタンに従った堕落した天使達は、終末には地獄に閉じ込められる事が決まってます。
神が愛なら、地獄に閉じ込めてるのはおかしいと思われるかもしれませんが、
地獄とは言ってみれば内側から鍵がかかっている状態かと思います。
たとえ神が「地獄には鍵はかかっていない、地獄の戸は内側から引けばでてこれる」と言っても、神に従う事を拒絶する者(神の愛を拒否する者)は 引き戸を永遠に押し続けてしまうのではないでしょうか?
キリストを信じれば救われるのに、それを拒絶する人達と同じように。
ユダは自殺してしまいましたが、自殺とは自分の命を粗末にする事です。
ユダは後悔したから自殺したと思います。
しかし、十字架をかつぐイエスに「ゆるして欲しい」とかけよれば、イエスはユダをゆるしたでしょう。
「後悔」と「悔い改め」の違いは、
ふ
後悔とは、自分のした事を悔いるだけです。
悔い改めとは、神の愛を信じ、神にゆるしをこい、ゆるして貰って、自己を改め、神に喜んで従い、希望を持って「生きる」事です。
神は祝福も与えますが、試練も与えます。
試練はつらいです。
病気や災害はできれば避けたい。
しかし人間とは たいてい満ち足りている時は、真実の探求より幸福の追求に忙しいです。
試練がなければ、人間は真理を追求し、神を探し求める事もしません。
神は試練も与えますが、試練もまた恵みです。
試練は、神を探し求め、人間に永遠の命を得て欲しいと願う「神の愛」です。
キリスト教に一番近い宗教は仏教だと私は思います。
仏教の「慈悲の瞑想(嫌いな人間の幸せを願う事)」と、
新約聖書のイエス・キリストの教え「汝の敵を愛せよ」と、
旧約聖書のエゼキエル書のメッセージ
「あなたはあなたの敵の事も愛しておられる神を愛せますか?」
は類似していると思います。
「敵を愛せよ」とは、愛する事は好む事よりも偉大である、たとえ好まずとも愛する事は可能であるという意味だと思います。
素晴らしい教えですよね。
キリスト教は日本人にとって理解しがたい宗教という事はないと思います。^ ^
旧約聖書の神というと、「裁きの神」というイメージを持つかたは多いですが、神が人の人生を終わらせる事を
「殺人」と捉えるか、
神が「その人の人生をそこで終わらせた」
と捉えるかで違ってくると思います。
暖かい布団の上で80才で死ぬのも、洪水で若くして死ぬのも、どちらも神がその人の人生を「そこまで」、と決めただけの事とも考えられると思います。
創世記6章5節にこうあります。
「5 主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。」
時空を超越した神の目から見て、愛に生きる可能性のない人間を長生きさせる事は、人間にとっても、何か意味があるでしょうか?
全てを見透す事ができる神の目に、愛に生きる可能性の無い人間の地上生涯を早めに終わらせて、その人の罪がそれ以上重くならないうちに神がその人の地上生涯を終えさせることは、神の愛と言えるかと思います。
実存の解釈についてわかりやすく説明されている投稿があったから日本語にしたので、良かったら暇つぶしに読んで下さい。
🕊命題は
「『悪』を作ったのも神だろうか?」
ある大学の教授が生徒との間で議論を始めた。
教授は「神は全ての存在するものを創造しただろうか?」と質問した。
生徒達は「はい、そう思います」と答えた。
教授は「その場合、神は悪も造った、そうだろ?なぜなら悪は存在する。」
そして教授は続けた。
生徒達はこれに答えがないので黙っていた。
それで教授は、つまり信仰とは非論理的な神話だと結論付けた。
そこで一人の生徒が立ち上がり教授に質問した。
彼は教授に「先生 『寒さ』は存在するでしょうか?」と質問した。
教授は「寒さはもちろん存在する。君は『寒さ』を感じたことがないのか?」と言った。
生徒は「しかしわたし達が物理の授業から学んだ事によると、『寒さ』は存在しないのです。『冷たさ』は熱が不在になった場合にだけ存在するのです。これを観察できる唯一の方法は熱のエネルギーが他の物体に伝達し移動した時です。熱がなければ物体はそもそもなんの反応も示しません。不活性の存在です。つまり『寒さ(冷たさ)』は存在しません。われわれは「寒さ(冷たさ)」という言葉を熱が不在の状態を説明するためだけに作りました。
では暗闇はどうでしょうか?と彼は続けた。
教授は「暗闇はもちろん存在する。」と答えた。
生徒は「暗闇は光の完全な不在の結果出現します。光や明るさについてわれわれは学ぶ事ができますが、暗闇自体については学ぶ事ができません。光のプリズムは、光が構成するすべての異なる色を表示し、その波長に基づいて光線を分離します。その光のいづれも存在しない時に暗闇は現れます。」と言いました。
そして彼は教授に
「では悪は存在するでしょうか?」と言いました。
教授は何も答えませんでした。
彼は続けました。
「神は悪を作りませんでした。人の心に神が不在の状態の時、人間的な愛がない時、信仰がない時に悪は出現します。愛や信仰とは暖かさや光であります。
神、愛、信仰は存在します。それらが不在の状態が『悪』に繋がります。」
🕊創世記1:6〜1:7にある「上の水」が洪水の時雨となり降ってきたのだと思います。
6 神はまた言われた、「水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ」。
7 そのようになった。神はおおぞらを造って、おおぞらの下の水とおおぞらの上の水とを分けられた。
地球は70パーセントくらい海の青い星と言われますが、初めは35パーセントくらいが海だったのかもしれませんね。
聖書から計算するとノアが船を造るのに70年あまりの時間を費やしている事がノアの子供達の年齢でわかります。
それから動物達は神様がノアのところまで来るようにして下さったので、神様との分業だったと思われまので、「全ての種のつがいの動物が入るわけない」とおっしゃる方はいますが、神様は全ての種の小ぶりな動物を選ばれたかもしれませんね?
洪水が起きる時に箱船の扉を最後に閉められたのはノアではなく神様である事が聖書からわかるので、ノアは決して冷たい人ではなかったと思われます。
また神も愛であります。
キリスト教の神(聖書の神)とは「父と子と聖霊」の三位一体の「唯一神」のことであるので、一神教であります。
日本の神道の神さまのような多神教とは少し概念が異なります。
何を信じるかは個人の自由です。
イエス様も宣べ伝えるようにと弟子達に言われましたが、全ての人を説得してくるようにとはおっしゃいませんでした。
しかし福音の意味はGood News!です。
ヨハネによる福音書
3:16
神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。
私達終わりの時代になんで殺し合わなきゃいけないの?
悪魔を崇拝する人達も自分の権力、富、栄光を守りたいからです。
終末の時には世界の教会(キリストに在って救われている人間全て)が携挙(けいきょ)され、地上からいなくなるからです。残された人間はサタンに従う者なので、それは悲惨な終末時代だと思います。
良かったら、読んで下さい。
神は霊です。その霊とは愛です。
ヨハネ第一の手紙4:8
「愛さない者は、神を知らない。神は愛である。」
また聖書に出てくる天使には羽がありませんので、見た目はかなり人間に近いと思われます。聖書に出てくる天使はみんな男性のようです。
我々人間は、神の姿、愛に造られた。
しかし善悪を知る木の実を食べ、神の完全なる愛を基準にした善悪の判断ではなく、自分達の善悪の判断で生きるようになってしまった。
これが「原罪」であると思われます。
神は天使にも人間にも自由意志を与えました。神に従うも、自分の意志に従うも、自由なのです。
サタンとは堕落した天使(サタンとはヘブライ語で「訴える者」という意味)
堕落した天使とは、神の善悪の判断ではなく自分の善悪の判断を優先し堕落した天使の事です。
しかし人間とは違い、サタンとサタンに従った堕落した天使達(悪霊)は、神が愛である事を知りながら、神に背きました。
ですので、人間は福音の三要素を信じ悔い改めたら罪がゆるされ、永遠の命を得る事ができますが、サタンとサタンに従った堕落した天使達は、終末には地獄に閉じ込められる事が決まってます。
神が愛なら、地獄に閉じ込めてるのはおかしいと思われるかもしれませんが、
地獄とは言ってみれば内側から鍵がかかっている状態かと思います。
たとえ神が「地獄には鍵はかかっていない、地獄の戸は内側から引けばでてこれる」と言っても、神に従う事を拒絶する者(神の愛を拒否する者)は 引き戸を永遠に押し続けてしまうのではないでしょうか?
キリストを信じれば救われるのに、それを拒絶する人達と同じように。
ユダは自殺してしまいましたが、自殺とは自分の命を粗末にする事です。
ユダは後悔したから自殺したと思います。
しかし、十字架をかつぐイエスに「ゆるして欲しい」とかけよれば、イエスはユダをゆるしたでしょう。
「後悔」と「悔い改め」の違いは、
ふ
後悔とは、自分のした事を悔いるだけです。
悔い改めとは、神の愛を信じ、神にゆるしをこい、ゆるして貰って、自己を改め、神に喜んで従い、希望を持って「生きる」事です。
神は祝福も与えますが、試練も与えます。
試練はつらいです。
病気や災害はできれば避けたい。
しかし人間とは たいてい満ち足りている時は、真実の探求より幸福の追求に忙しいです。
試練がなければ、人間は真理を追求し、神を探し求める事もしません。
神は試練も与えますが、試練もまた恵みです。
試練は、神を探し求め、人間に永遠の命を得て欲しいと願う「神の愛」です。
キリスト教に一番近い宗教は仏教だと私は思います。
仏教の「慈悲の瞑想(嫌いな人間の幸せを願う事)」と、
新約聖書のイエス・キリストの教え「汝の敵を愛せよ」と、
旧約聖書のエゼキエル書のメッセージ
「あなたはあなたの敵の事も愛しておられる神を愛せますか?」
は類似していると思います。
「敵を愛せよ」とは、愛する事は好む事よりも偉大である、たとえ好まずとも愛する事は可能であるという意味だと思います。
素晴らしい教えですよね。
キリスト教は日本人にとって理解しがたい宗教という事はないと思います。^ ^
旧約聖書の神というと、「裁きの神」というイメージを持つかたは多いですが、神が人の人生を終わらせる事を
「殺人」と捉えるか、
神が「その人の人生をそこで終わらせた」
と捉えるかで違ってくると思います。
暖かい布団の上で80才で死ぬのも、洪水で若くして死ぬのも、どちらも神がその人の人生を「そこまで」、と決めただけの事とも考えられると思います。
創世記6章5節にこうあります。
「5 主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。」
時空を超越した神の目から見て、愛に生きる可能性のない人間を長生きさせる事は、人間にとっても、何か意味があるでしょうか?
全てを見透す事ができる神の目に、愛に生きる可能性の無い人間の地上生涯を早めに終わらせて、その人の罪がそれ以上重くならないうちに神がその人の地上生涯を終えさせることは、神の愛と言えるかと思います。
実存の解釈についてわかりやすく説明されている投稿があったから日本語にしたので、良かったら暇つぶしに読んで下さい。
🕊命題は
「『悪』を作ったのも神だろうか?」
ある大学の教授が生徒との間で議論を始めた。
教授は「神は全ての存在するものを創造しただろうか?」と質問した。
生徒達は「はい、そう思います」と答えた。
教授は「その場合、神は悪も造った、そうだろ?なぜなら悪は存在する。」
そして教授は続けた。
生徒達はこれに答えがないので黙っていた。
それで教授は、つまり信仰とは非論理的な神話だと結論付けた。
そこで一人の生徒が立ち上がり教授に質問した。
彼は教授に「先生 『寒さ』は存在するでしょうか?」と質問した。
教授は「寒さはもちろん存在する。君は『寒さ』を感じたことがないのか?」と言った。
生徒は「しかしわたし達が物理の授業から学んだ事によると、『寒さ』は存在しないのです。『冷たさ』は熱が不在になった場合にだけ存在するのです。これを観察できる唯一の方法は熱のエネルギーが他の物体に伝達し移動した時です。熱がなければ物体はそもそもなんの反応も示しません。不活性の存在です。つまり『寒さ(冷たさ)』は存在しません。われわれは「寒さ(冷たさ)」という言葉を熱が不在の状態を説明するためだけに作りました。
では暗闇はどうでしょうか?と彼は続けた。
教授は「暗闇はもちろん存在する。」と答えた。
生徒は「暗闇は光の完全な不在の結果出現します。光や明るさについてわれわれは学ぶ事ができますが、暗闇自体については学ぶ事ができません。光のプリズムは、光が構成するすべての異なる色を表示し、その波長に基づいて光線を分離します。その光のいづれも存在しない時に暗闇は現れます。」と言いました。
そして彼は教授に
「では悪は存在するでしょうか?」と言いました。
教授は何も答えませんでした。
彼は続けました。
「神は悪を作りませんでした。人の心に神が不在の状態の時、人間的な愛がない時、信仰がない時に悪は出現します。愛や信仰とは暖かさや光であります。
神、愛、信仰は存在します。それらが不在の状態が『悪』に繋がります。」
🕊創世記1:6〜1:7にある「上の水」が洪水の時雨となり降ってきたのだと思います。
6 神はまた言われた、「水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ」。
7 そのようになった。神はおおぞらを造って、おおぞらの下の水とおおぞらの上の水とを分けられた。
地球は70パーセントくらい海の青い星と言われますが、初めは35パーセントくらいが海だったのかもしれませんね。
聖書から計算するとノアが船を造るのに70年あまりの時間を費やしている事がノアの子供達の年齢でわかります。
それから動物達は神様がノアのところまで来るようにして下さったので、神様との分業だったと思われまので、「全ての種のつがいの動物が入るわけない」とおっしゃる方はいますが、神様は全ての種の小ぶりな動物を選ばれたかもしれませんね?
洪水が起きる時に箱船の扉を最後に閉められたのはノアではなく神様である事が聖書からわかるので、ノアは決して冷たい人ではなかったと思われます。
また神も愛であります。
キリスト教の神(聖書の神)とは「父と子と聖霊」の三位一体の「唯一神」のことであるので、一神教であります。
日本の神道の神さまのような多神教とは少し概念が異なります。
何を信じるかは個人の自由です。
イエス様も宣べ伝えるようにと弟子達に言われましたが、全ての人を説得してくるようにとはおっしゃいませんでした。
しかし福音の意味はGood News!です。
ヨハネによる福音書
3:16
神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。
食べたら終わる様なモノを、何故手に取れる所に置いてるんやろ🤔
そんな罠みたいなんを、神が仕掛ける意味が分からん😨
信用してたらそもそも選ばせんやろし、疑ってるからハズレを用意して、
食べる前に止めもせずって考えると、愉快犯って思ってしまう😱
人に「選択肢」があることが重要なんですよね。選択肢がないということは、絶対服従であり、洗脳でもありますから。人があらゆる生き物の中で特別なのは「自由意志」ゆえですが、自由意志というからには自分で「従うか従わないか」を決める何かの基準が必要になります。
良かったら、読んで下さい。
神は霊です。その霊とは愛です。
ヨハネ第一の手紙4:8
「愛さない者は、神を知らない。神は愛である。」
また聖書に出てくる天使には羽がありませんので、見た目はかなり人間に近いと思われます。聖書に出てくる天使はみんな男性のようです。
我々人間は、神の姿、愛に造られた。
しかし善悪を知る木の実を食べ、神の完全なる愛を基準にした善悪の判断ではなく、自分達の善悪の判断で生きるようになってしまった。
これが「原罪」であると思われます。
神は天使にも人間にも自由意志を与えました。神に従うも、自分の意志に従うも、自由なのです。
サタンとは堕落した天使(サタンとはヘブライ語で「訴える者」という意味)
堕落した天使とは、神の善悪の判断ではなく自分の善悪の判断を優先し堕落した天使の事です。
しかし人間とは違い、サタンとサタンに従った堕落した天使達(悪霊)は、神が愛である事を知りながら、神に背きました。
ですので、人間は福音の三要素を信じ悔い改めたら罪がゆるされ、永遠の命を得る事ができますが、サタンとサタンに従った堕落した天使達は、終末には地獄に閉じ込められる事が決まってます。
神が愛なら、地獄に閉じ込めてるのはおかしいと思われるかもしれませんが、
地獄とは言ってみれば内側から鍵がかかっている状態かと思います。
たとえ神が「地獄には鍵はかかっていない、地獄の戸は内側から引けばでてこれる」と言っても、神に従う事を拒絶する者(神の愛を拒否する者)は 引き戸を永遠に押し続けてしまうのではないでしょうか?
キリストを信じれば救われるのに、それを拒絶する人達と同じように。
ユダは自殺してしまいましたが、自殺とは自分の命を粗末にする事です。
ユダは後悔したから自殺したと思います。
しかし、十字架をかつぐイエスに「ゆるして欲しい」とかけよれば、イエスはユダをゆるしたでしょう。
「後悔」と「悔い改め」の違いは、
ふ
後悔とは、自分のした事を悔いるだけです。
悔い改めとは、神の愛を信じ、神にゆるしをこい、ゆるして貰って、自己を改め、神に喜んで従い、希望を持って「生きる」事です。
神は祝福も与えますが、試練も与えます。
試練はつらいです。
病気や災害はできれば避けたい。
しかし人間とは たいてい満ち足りている時は、真実の探求より幸福の追求に忙しいです。
試練がなければ、人間は真理を追求し、神を探し求める事もしません。
神は試練も与えますが、試練もまた恵みです。
試練は、神を探し求め、人間に永遠の命を得て欲しいと願う「神の愛」です。
キリスト教に一番近い宗教は仏教だと私は思います。
仏教の「慈悲の瞑想(嫌いな人間の幸せを願う事)」と、
新約聖書のイエス・キリストの教え「汝の敵を愛せよ」と、
旧約聖書のエゼキエル書のメッセージ
「あなたはあなたの敵の事も愛しておられる神を愛せますか?」
は類似していると思います。
「敵を愛せよ」とは、愛する事は好む事よりも偉大である、たとえ好まずとも愛する事は可能であるという意味だと思います。
素晴らしい教えですよね。
キリスト教は日本人にとって理解しがたい宗教という事はないと思います。^ ^
旧約聖書の神というと、「裁きの神」というイメージを持つかたは多いですが、神が人の人生を終わらせる事を
「殺人」と捉えるか、
神が「その人の人生をそこで終わらせた」
と捉えるかで違ってくると思います。
暖かい布団の上で80才で死ぬのも、洪水で若くして死ぬのも、どちらも神がその人の人生を「そこまで」、と決めただけの事とも考えられると思います。
創世記6章5節にこうあります。
「5 主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。」
時空を超越した神の目から見て、愛に生きる可能性のない人間を長生きさせる事は、人間にとっても、何か意味があるでしょうか?
全てを見透す事ができる神の目に、愛に生きる可能性の無い人間の地上生涯を早めに終わらせて、その人の罪がそれ以上重くならないうちに神がその人の地上生涯を終えさせることは、神の愛と言えるかと思います。
実存の解釈についてわかりやすく説明されている投稿があったから日本語にしたので、良かったら暇つぶしに読んで下さい。
🕊命題は
「『悪』を作ったのも神だろうか?」
ある大学の教授が生徒との間で議論を始めた。
教授は「神は全ての存在するものを創造しただろうか?」と質問した。
生徒達は「はい、そう思います」と答えた。
教授は「その場合、神は悪も造った、そうだろ?なぜなら悪は存在する。」
そして教授は続けた。
生徒達はこれに答えがないので黙っていた。
それで教授は、つまり信仰とは非論理的な神話だと結論付けた。
そこで一人の生徒が立ち上がり教授に質問した。
彼は教授に「先生 『寒さ』は存在するでしょうか?」と質問した。
教授は「寒さはもちろん存在する。君は『寒さ』を感じたことがないのか?」と言った。
生徒は「しかしわたし達が物理の授業から学んだ事によると、『寒さ』は存在しないのです。『冷たさ』は熱が不在になった場合にだけ存在するのです。これを観察できる唯一の方法は熱のエネルギーが他の物体に伝達し移動した時です。熱がなければ物体はそもそもなんの反応も示しません。不活性の存在です。つまり『寒さ(冷たさ)』は存在しません。われわれは「寒さ(冷たさ)」という言葉を熱が不在の状態を説明するためだけに作りました。
では暗闇はどうでしょうか?と彼は続けた。
教授は「暗闇はもちろん存在する。」と答えた。
生徒は「暗闇は光の完全な不在の結果出現します。光や明るさについてわれわれは学ぶ事ができますが、暗闇自体については学ぶ事ができません。光のプリズムは、光が構成するすべての異なる色を表示し、その波長に基づいて光線を分離します。その光のいづれも存在しない時に暗闇は現れます。」と言いました。
そして彼は教授に
「では悪は存在するでしょうか?」と言いました。
教授は何も答えませんでした。
彼は続けました。
「神は悪を作りませんでした。人の心に神が不在の状態の時、人間的な愛がない時、信仰がない時に悪は出現します。愛や信仰とは暖かさや光であります。
神、愛、信仰は存在します。それらが不在の状態が『悪』に繋がります。」
🕊創世記1:6〜1:7にある「上の水」が洪水の時雨となり降ってきたのだと思います。
6 神はまた言われた、「水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ」。
7 そのようになった。神はおおぞらを造って、おおぞらの下の水とおおぞらの上の水とを分けられた。
地球は70パーセントくらい海の青い星と言われますが、初めは35パーセントくらいが海だったのかもしれませんね。
聖書から計算するとノアが船を造るのに70年あまりの時間を費やしている事がノアの子供達の年齢でわかります。
それから動物達は神様がノアのところまで来るようにして下さったので、神様との分業だったと思われまので、「全ての種のつがいの動物が入るわけない」とおっしゃる方はいますが、神様は全ての種の小ぶりな動物を選ばれたかもしれませんね?
洪水が起きる時に箱船の扉を最後に閉められたのはノアではなく神様である事が聖書からわかるので、ノアは決して冷たい人ではなかったと思われます。
また神も愛であります。
キリスト教の神(聖書の神)とは「父と子と聖霊」の三位一体の「唯一神」のことであるので、一神教であります。
日本の神道の神さまのような多神教とは少し概念が異なります。
何を信じるかは個人の自由です。
イエス様も宣べ伝えるようにと弟子達に言われましたが、全ての人を説得してくるようにとはおっしゃいませんでした。
しかし福音の意味はGood News!です。
ヨハネによる福音書
3:16
神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。
なんか蛇が可哀想。
そんなの望んでないと思うな。
そこにあるは愛だから。