【#39】水戸黄門と徳川慶喜!東京で水戸徳川家(水戸藩)ゆかりの地を歩く

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  • Опубликовано: 12 дек 2024

Комментарии • 14

  • @tokyo_historical_walk
    @tokyo_historical_walk  2 года назад +9

    ご視聴ありがとうございます!都内でもお気に入りの庭園「小石川後楽園」。改めて歴史を紐解いてみると、スゴい歴史の宝庫でした★
    のんびり散策しても、じっくり名所(⁉︎)を巡ってみても、様々な楽しみ方のできるお庭です♪
    いかがでしたか?
    ご質問・コメント・高評価👍と、まだの方はぜひぜひ!チャンネル登録よろしくお願いしますね❤︎

  • @美津子大内
    @美津子大内 Год назад +3

    水戸うまれ、小石川後楽園にも行きました。素敵ですよね。❤

  • @コタロウ犬の主人
    @コタロウ犬の主人 2 года назад +4

    小石川後楽園は偕楽園とセットで行ける名勝ですね。春夏秋冬それぞれの楽しみ方が出来るので何度行っても飽きません。しかし本当にアルマさんの切り口の多さに脱帽です。是非プレミア視聴をやってほしいですね。🙏来週も楽しみにしてます!

    • @tokyo_historical_walk
      @tokyo_historical_walk  2 года назад +1

      いやいや、いつネタ切れになるかとヒヤヒヤしておりますよ〜〜😅ライブやプレミア視聴もやってみたいです…✨ちょっと自分の中での節目にたどり着けたら、計画してみようかなと💕
      そして偕楽園!コタロウ犬の主人さま、なかなか鋭いですね…😏次回をお楽しみに❣️

  • @TAKOMARU-JAPAN
    @TAKOMARU-JAPAN 2 года назад +2

    アルマさん東京の水戸徳川家ゆかりの庭の歴史散歩ありがとうございました😃
    小石川後楽園は京都の東福寺 清水寺
    嵐山等を模したテーマパークのような場所だったのですね😂
    京都への憧れもあったのでしょうか?
    そう言えば以前訪れた水戸の偕楽園も梅が一杯咲いたのを思い出しました😃

    • @tokyo_historical_walk
      @tokyo_historical_walk  2 года назад +2

      ご視聴ありがとうございます😊
      当時はこの見立てという技法を使って、各地(特に京都)の名所を造るというのが流行ったみたいですね✨上野公園も、清水観音堂と、琵琶湖に見立てた不忍池があったりしますし🍀京都憧れは、根深そうですよ〜
      偕楽園ですか…😏ニヤリ。ぜひ次回をお楽しみに!

  • @bincohkmzw
    @bincohkmzw 2 года назад +3

    アルマさん、土曜日の東京歴史散歩のアップが楽しみです。
    これからも東京歴史散歩を紹介してください。

    • @tokyo_historical_walk
      @tokyo_historical_walk  2 года назад +1

      ありがとうございます〜〜✨なるべく毎週アップできるように励んでおります🥰

  • @高矩-s9k
    @高矩-s9k Год назад +6

    「徳川光圀」は、1628年(寛永5年)に水戸藩(現在の茨城県水戸市)の初代藩主「徳川義房」の三男として誕生。当初、父・徳川義房は、徳川光圀を水子(堕胎などで生まれなかった子)にするよう、重臣の「三木之次」に命じていました。理由は明らかにされていませんが、徳川光圀の母「久子」が、懐妊時に正式な側室ではなかったからだと考えられているのです。しかし久子は堕胎せず、水戸城下の三木邸で密かに徳川光圀を出産。生後しばらくは三木之次の子として育てられ、この頃からすでに徳川光圀は才気煥発な一面を見せていたと言われています。そののち、1632年(寛永9年)に正式に水戸徳川家の子として水戸城入りし、翌年1633年(寛永10年)には徳川頼房の跡継ぎとなることに。ところが徳川光圀は、江戸に渡り世子教育(跡継ぎとして必要な高水準の教育)を受けるなかで荒れた生活を送り始めます。些細なことで腹を立て、日本刀を振り回したり、「吉原遊郭」に通い詰めて卑猥なことを弟に吹き込んだりと、問題行動を繰り返していたのです。その中、18歳のときに出会った中国の歴史書「史記」に感銘を受けた徳川光圀は、荒んだ生活を改め勉学に励みながら学問の面白さに目覚めていったのです。そして、1657年(明暦3年)から徳川光圀は歴史書「大日本史」の編纂作業に取り組み始めました。1661年(寛文元年)に徳川光圀は、父・徳川頼房が逝去したことで、水戸藩2代藩主を襲封(子孫または諸侯が領地を受け継ぐこと)。このとき、徳川光圀は家臣の「殉死」(主君の死後、その家臣があとを追って死ぬこと)を禁じて、殉死しようとする家臣を説得して止めたと言われています。当時、日本ではまだ殉死の風習が根強く残っており、徳川光圀はいち早く殉死禁止を取り入れた藩主でした。徳川光圀は、城下町や寺社の整備を行いながら、大日本史の編纂事業に取り組み続け、水戸藩における学問振興に注力していきます。1665年(寛文5年)には、「明」(中国の江南を根拠地とした、漢人王朝)から儒学者「朱舜水」を招き、儒学、国学、史学など、様々な学派を網羅した学問の教えを受けました。この学風が、水戸藩における学問「水戸学」の基礎となっているのです。一般的には、この徳川光圀による修史事業に携わった学者達の間で成立した学問を「前期水戸学」と呼び、9代藩主「徳川斉昭」による藩政改革で成立したものを「後期水戸学」と呼びます。以後、水戸徳川家に受け継がれた水戸学は、「尊王・敬幕」の政治的思想(自分達は、将軍家の家臣ではないが将軍家に対しても敬意を持つ考え)が強く、多くの幕末志士達に影響を与えていくことになるのです。徳川光圀の指示で、水戸藩では貞享年間(1684~1688年)を通して大船建造が行われ、「快風丸」を造り上げました。徳川光圀は、竣工した快風丸で3度の蝦夷地(現在の北海道、樺太)探索を命じ、のちの石狩国(現在の北海道石狩市)に到達した際に、船に積んでいた食料と現地の動物の毛皮や鮭を物々交換して帰還。この徳川光圀藩主時代に行われた蝦夷地探索によって、水戸藩は以後、蝦夷地に関心を寄せることとなりました。徳川光圀は、およそ30年の藩主期間を経て、1690年(元禄3年)に家督を譲り隠居します。徳川光圀から3代藩主を継いだのは、藩主襲封時に養子に迎えていた「徳川綱條」で、もともと徳川光圀の実兄の「松平頼重」の次男だった人物です。実子がいる徳川光圀が、養子である兄の子を世子として迎え入れ到達した際に、船に積んでいた食料と現地の動物の毛皮や鮭を物々交換して帰還。この徳川光圀藩主時代に行われた蝦夷地探索によって、水戸藩は以後、蝦夷地に関心を寄せることとなりました。徳川光圀は、およそ30年の藩主期間を経て、1690年(元禄3年)に家督を譲り隠居します。徳川光圀から3代藩主を継いだのは、藩主襲封時に養子に迎えていた「徳川綱條」で、もともと徳川光圀の実兄の「松平頼重」の次男だった人物です。実子がいる徳川光圀が、養子である兄の子を世子として迎え入れたのには、2つの理由が考えられます。ひとつめは、自身が家臣邸で生まれ育てられたという生い立ちです。兄・松平頼重もまた、江戸の家臣邸で生まれていたため、物心ついてから再会した兄弟は複雑な関係性にあったこと。この経験から、徳川光圀は家督を相続する際、兄を差し置いて当主となることに引け目を感じていました。当時、江戸で荒れた生活を送っていたのも、このような苦悩を抱えていたためだと考えられます。2つめは、18歳のときに感銘を受けた歴史書の史記にある「伯夷伝」の影響です。伯夷伝は、古代中国の王子「伯夷」と「叔斉」兄弟の伝記で、徳川光圀はこの兄弟を自身と兄の関係に投影していました。このような経験から、徳川光圀は実子の世襲や子孫繁栄にこだわらず、他家の者を迎え入れて新しい価値観や見識を取り入れようとしていたのです。そして、3代藩主となった徳川綱條は、徳川光圀の修史事業を引き継ぎ、水戸藩の学問振興に貢献しました。子どもの頃から好奇心旺盛だった徳川光圀は、当時の日本では珍しく 食文化を積極的に取り入れていたことで知られています。日本の食文化史において、餃子、チーズ、黒豆納豆を最初に食べた人物は、徳川光圀だと言われているのです。そんな徳川光圀が、特に好んで食べていた物が「ラーメン」。当時、ラーメンという食べ物はありませんでしたが、徳川光圀は藩主時代に招聘した朱舜水にラーメンの作り方を学び、得意料理として頻繁に調理していたのです。麺はうどんを使い、スープの出汁には、朱舜水を介して中国から輸入した乾燥豚肉を使っていたと言われています。そこに、ニラ、ネギ、ニンニクなどの薬味をのせ、まさに現代のラーメンのように食していました。徳川光圀は、この自家製うどんを「後楽うどん」と名付け、隠居所の小石川後楽園内の北端に、藤田東湖の碑(「藤田東湖先生護母致命之処」)がある。この碑は白山通りの拡張工事のため、もともとあった場所から庭園内に移された。徳川光圀は、明の遺臣・朱舜水の意見を取り入れ、『岳陽楼記』の「天下の憂いに先んじて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ(先憂後楽)」から、江戸屋敷の庭園を「後楽園」と名づけた。小石川後楽園は、国の「特別史跡」と「特別名勝」の両方の指定を受けている。この例は他に金閣寺、浜離宮などごく限られた箇所のみという。っていたと伝えられているのです。「後楽」という名は、徳川光圀が藩主時代に江戸屋敷に築いた庭園「小石川後楽園」(文京区)に由来しています。また、徳川光圀は南蛮のワインや中国の牛乳酒などに興味を示し、異国の酒を積極的に嗜んでいました。肉も魚も好み、隠居後も様々な食事を楽しんでいた徳川光圀ですが、70歳を過ぎた頃から次第に食欲不振になり始めたのです。そして、1701年(元禄14年)に食道がんを患い、73歳でこの世を去りました。これは、当時の老人としては長寿と言われる享年です。多様な食生活を楽しんでいたことが、徳川光圀の長寿の秘訣だったのかもしれません。小石川後楽園内の北端に、藤田東湖の碑(「藤田東湖先生護母致命之処」)がある。この碑は白山通りの拡張工事のため、もともとあった場所から庭園内に移された。徳川光圀は、明の遺臣・朱舜水の意見を取り入れ、『岳陽楼記』の「天下の憂いに先んじて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ(先憂後楽)」から、江戸屋敷の庭園を「後楽園」と名づけた。小石川後楽園は、国の「特別史跡」と「特別名勝」の両方の指定を受けている。この例は他に金閣寺、浜離宮などごく限られた箇所のみという。本所亀沢町7代末孫

  • @yukiya6688
    @yukiya6688 2 года назад +2

    アルマさん、今回紹介頂いた2ヵ所行ったことがあり楽しく拝見しまた。特に小石川後楽園は何度も行ったのですが、船着き場は気が付きませんでした。また、唐門も出来たのを知らなかったので近いうち行きたいと思います。今回も思いますが、大空襲無ければどんなに良かったかと。あとひとつ気になったのが、小石川後楽園の池の花は多分睡蓮だと思います。蓮の花が咲くには少し早いと思います。これからも放映楽しみにしています。

    • @tokyo_historical_walk
      @tokyo_historical_walk  2 года назад +1

      ご視聴ありがとうございます😊
      小石川後楽園は有名ですが、慶喜公の屋敷跡も行かれたとは…✨歴史マニア仲間ですね(笑)
      唐門と船着場、機会がありましたらぜひ!船遊びしてみたいです〜〜🚣‍♀️
      そして蓮…同じ漢字を使うので、もはや同じ植物の異なる形状なのかと思ってました💦💦お恥ずかしい…🪷モネの睡蓮と、お釈迦様の玉座の違いということですね!ご指摘ありがとうございます🙏

  • @kz-es4bl
    @kz-es4bl Год назад +1

    燃えよ剣の慶喜は情緒不安定気味でしたが、実際のところの人柄が気になります

  • @神田明夫-l1b
    @神田明夫-l1b 4 месяца назад +1

    2男は亡くなっているので3男です。

  • @美津子大内
    @美津子大内 Год назад +1

    ニ男ですよ。