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夜須とか朝倉とか、畿内と同じ地名が同じ位置関係で、久留米の東の広範な範囲に残ってるんだよね。邪馬台国のことはおくとして、九州に古王朝があって、それが畿内へ東遷したと考えるひとつの根拠になっていると思う。
九州最大の古墳はニニギから神武天皇までの日向三代の宮崎にありますよ。
九州説機内説の融合にだいぶ近づいて来て、何となくスッキリ感が芽生えましたぜ、ありがとう。
九州には日向という東を意味する国名が有りますからね畿内から見たら西です
「金銀錯嵌珠龍文(さくがんしゅりゅうもん)鉄鏡」。大分県日田市で戦前に見つかったものとされ、装飾の巧みさから1964年に重要文化財に指定された。由来を含め多くの謎が残るこの鏡が、三国志の英雄・曹操の墓から出土した鏡とほぼ同じ型式である可能性が高まっている。「皇帝の所有物にふさわしい最高級の鏡」がなぜ九州に――。研究者らは首をかしげる。↑コピペですが、やはり日田から朝倉にかけて卑弥呼が居た可能性があるのでしょうか。ロマンがありますね。
大和朝廷は遣唐使から大陸と交流持ち始めてますから遣唐使以前の中国史書の倭に付いての記録は九州の倭国に付いてのものですね。
日田街道が気になります。宮崎県は何故か昔から海路開拓が鈍い。地形的に港(津)を作りにくい上に黒潮の厳しさからってのもあるけど、むしろ内陸に何らかの権力があったからではと思う。神武東征も始まりはかなり内陸からだし、海路に出るのも北に寄り過ぎてる。南西諸島からの海路は鹿児島で上陸してしまうから、宮崎県の海沿いは発達してなかったのかも。ただし後々古墳が盛んに作られているので、内陸から権力が南下してきたのかもしれない。
継体の筑紫磐井の乱はどちらが乱なのか?大和ね。九州王朝説は謎だけどとても面白い動画でした。でも崇神ってぶっちゃけ九州の人だしまぁ私が思うに泡国説よりまとも🤔
初めてまともに読んだ古代史本が古田氏の著書だったので刷り込まれてしまった。
これのトップが国造神で出雲なんだと思う
中臣家に伝わる弓前文書読むと面白いよ
大宰府の倭京は北側?上半分は痕跡があるが、南側は痕跡が少ないので、条坊都市の建設は途中で止まったとみている。のちに近畿へ移ってからリベンジしたのが初のフルの条坊都市である藤原京だと思っている。
大和朝廷が九州王朝の歴史を取り込んで、720年日本書紀が成立した。
日本は隋や唐に遣隋使、遣唐使を送っているので、隋や唐は彼らから日本の歴史をよく聞いていたと思うのですが。遣隋使、遣唐使は日本のどこから船を出しているんでしたっけ。
遣隋使は九州から、遣唐使は越後から渡った事になってますが、遣唐使の再現舟ではとても日本海の荒波に耐えられるものではない物が平気で展示されてますよ。中国は唐の時代なのに日本書紀では隋に行ったことになってますよ、歴史学者はスルーしてますけどね(笑)
隋の官僚である文林郎・裴清は、遣隋使の返礼で畿内まで船てやってきてますけどね。
日本統一王朝なんてずいぶんと後になってからの正立なんじゃないかと思うよな。特に当時の道路事情を考えると。
古代の交通は海と川ですね。畿内は地政学的に、全国へアクセスしやすい地域です。瀬戸内海を通れば中国、四国、九州へいけます。紀伊半島を通過すれば関東へ、琵琶湖から大川を北上すれば日本海へ出ることもできます。これら交通の要衝地は大和朝廷の支配のシンボルである前方後円墳が築かれており、4世紀には関東から九州までが支配下に置かれていたことがわかります。九州には王朝に匹敵する遺跡がまったく出土していません。
日本は基本的に海洋民族なので軍を渡海させるのは、まあ余裕です。3〜4世紀にはすでに半島まで軍を派兵してますから。
日本は基本的に海洋民族なので軍を渡海させるのは、まあ余裕ですね。半島最古の正史にも記録されてますよ。
@@ぱぴぽら はい。熊本県の馬門石ですね。馬門石が産出される地域にも、前方後円墳はたくさんあります。円墳や方墳、横穴墳墓もたくさんありますが、九州においても前方後円墳は桁違いの大きさです。
@@ぱぴぽら 福岡には京都郡という地域があり、記紀によると景行天皇の九州征伐の拠点になったから、その地名が付けられたとあります。そしてこの地域には前方後円墳がありますが、これは3世紀ものもです。神功皇后が百済から贈られた七支刀が現存していて369年のものと判明しています。景行天皇は神功皇后の2代前の天皇なので、時代も一致します。九州の前方後円墳は全県に分布しています。
百田が扱ってるってことが逆に怪しいわ
ヤマトの枕言葉にそらみつってあるんだけど意味不明なのです。天満ってそらみつって意味で、そらみつヤマトは九州太宰府のヤマト(首都)を意味するのか?
百田尚樹さんが扱っているのは仲が良かった米粒写経の居島一平さんの影響があるのかも。居島一平さんは九州王朝説支持者で彼の母が九州王朝の本を読んで居ても立っても居られず古田先生に会いに行き、突然訪問した見ず知らずの母に丁寧に教授してくれたという話をしていました。===太宰府天満宮には「鷽替え神事」という民間発祥の神事があり「替えましょ、替えましょ、嘘を誠に替えましょう」という言葉を唱えて1年に図らずもついてしまった嘘を誠と替え、悪いことを嘘にして吉に替えるという祭事があるのですが、本当は嘘で塗り固められた太宰府の歴史の嘘をいつか真実に替えたいという意味があったのかもしれません。
668年頃に唐の郭務綜以下2千名の軍兵が大宰府に駐留した。大宰府政庁跡にある筑紫都督府の石柱は明治時代に建てられたモノらしいが、倭王が都督に任ぜられたかまたは、郭務綜が大宰府で羈縻政策をとったことから筑紫都督府と彫ってあるのだろう。
唐軍二千が太宰府に駐留したというのはどの文献にあるのですか?
@@たぬ-w8k 日本書紀に記されている。
@@KeCN 日本書紀には254人と書いてありますが?それも上表分をおさめただけで、帰ってますけど。この時代の倭国は間違いなく大和朝廷ですよ。
@@KeCN しかも唐軍ではなく、唐の使節ですね。
@@たぬ-w8k 668年に2000人だね。
太宰府を首都とするのは無理がある気がする。現在でも山に挟まれた隘路のような状態。むしろ、最終防衛ラインの駐屯地みたいなものであったのでは?太宰府の北側には水城跡という古代の城があり、太宰府以南を守るものと思える。おそらく魏の使者は伊都国止まりで、そこからは伝聞で地形や人口を聞いたのでは。その点で、伊都国は外交基地であったと思う。伊都国には怡土城、太宰府の北側には大野城、太宰府の南側には基肄城がある。もしかしたら、狼煙等で伊都国以北の異変を伝える通信基地だったのではと思う。基肄城以南が本国であったのでは?と思える。吉野ヶ里や平塚川添遺跡、日田の小迫辻原遺跡あたりまで。日田は筑紫平野の奥にあり四方を山に囲まれた天然の要害。そこで、曹操の鉄鏡に似た鉄鏡が出土された。再現CGがRUclips内にありますが、銅鏡と比較にならないぐらい素晴らしいもの。
記紀とかいう欠陥・ファンタジーのせいで我が国の歴史がわからなくなってる罪深さ。せめて古墳を掘らせなさい。
それは素人の考えイリアスというおとぎ話からトロイア遺跡が発掘されて、記紀における出雲の国譲り神話から荒神谷遺跡が発掘された。
卑弥呼みかより姫でドンピシャの人いたんだね!
唐の話では、白村江の戦で「倭王」を捕虜としてるんだけれど、日本書紀にはその話は無い。その時代の中大兄皇子は捕虜にはなってないしな。旧唐書にも新唐書にもないけれど「筑紫都督府」の所在は日本書紀には書かれてる。唐が関与してない「筑紫都督府」は誰が設置したんだろう??唐が設置したのならば、長官が記載されてるはずだが「無い」。あるのは「日本書紀」だけ。てことは、「筑紫都督府」は「大宰府」に「大和朝廷」が設置したのでは?ってこと。唐は関係ないっぽい。まぁ、よくわからんと思うわ。
歴史捏造勢力にとっては皇室は不都合な存在だと言えます。恐らく唐に捕虜として捕まった人達がいたのは事実で、日本の指揮官クラスを「倭王」と呼んだとしても不都合はないです。記紀に神話部分がある事を悪用して史実性がある記述も比定する人達は本当に気持ち悪いです。
昔はつか江戸あたりまで筑紫島なんだよな。所在地に紫入れるくらい高貴な土地ってことを表すのじゃないのかとか思ってしまう
この後に倭王は唐の泰山での封禅に参加してる、日本書紀は歴史を隠蔽してるね。
668年頃に唐の郭務綜以下2千名の軍兵が大宰府に駐留した。
@@KeCN 唐から太宰府にやってきた254の使節の間違いですね。
大和王朝となる前は九州に王国があったと思う。使ってる言葉を見れば北九州から大分の山を境に博多、久留米は言葉が違う。逆に北九州、大分から関西は何となく同じ様な言葉なので、北九州、大分近辺から畿内の方へ移動し平定したからだと思われ東遷はあったと感じ、その後統一されたかも。畿内に既に国があり九州を統一したなら、博多や久留米それ以南も今とは違う言葉になってたかも
漢倭奴国王の金印の読み方は漢の時代に北方民族を匈奴と言って貶語で呼んでいたことから倭奴の国と呼ぶのが正しいと考えます。発音は分かりませんが。
「君が代」はもともとは九州王朝の祝い歌がもとになっているよう。あちこちの王朝が統べられ、大きな和「大和」が出来た。
何を根拠に……
@@たぬ-w8k 君が代発祥の神社があるからじゃ😊
志賀海神社の安曇一族ですね。
@@たぬ-w8k 「君が代」は九州王朝の讃歌 という、㈱新泉社から1990年に「市民の古代・別館2」として発行された冊子が根拠です。著書の古田武彦氏がお仲間と神社巡りをしたことで次々と繋がっていく発見。地図や写真も挿入されていて、あっというまに読んでしまいました。本好きの方の自宅整理?で安売り処分されていた物。パッと目に入り購入した物です。
@@rx5335 新泉社発行「市民の古代 別館2 君が代は九州王朝の讃歌」古田武彦著 の地図の中に志賀海神社、出ていました!
古田武彦さんナベツネさんに似てますな~😅😅😅😅
広告入れすぎ
「ヤマタイ」呼びすることで更に混乱するわけで。素直に元の呼び名「ヤマトこく」にすべき。
中国の安定と混乱の影響力は広範囲に及ぶ
漢のなんたらかんたらの 金の印鑑が ほかでも 見つかっているのかな?豊前には 京都郡という地名もあったし宇佐神宮には 仁徳社とかも 本殿の途中にも ありましたね
クス、クジュウはクシフルからだろ
まあ九州のどこかは言わないけど地名を気にしながら歩き回ればすぐ分かるよ。
近年に中国の意向による邪馬台国の東遷説が出てるけど、歴史ロマンとしての面白さと史実の隙間を埋めるにはまだ材料が不足
志賀島金印は卑弥呼の時代ではない。時代錯誤である。九州王朝は神武以前の高天原時代の物である。邪馬台国時代は熊襲と混同された。
ひゃくたさん
銅鐸文化の起源は古代シュメール・アッシリアに於ける「ミステリーバッグ👜」に起因する。
シュメールは、大海洋民族であった縄文人の植民地でした。結局、世界の文明は、元をだどれば、世界最古にして最高の縄文文明に行き着きます。
阿波説にも説得力ありますよ。
九州は漢の倭奴である酋長国家。唐の高宗の封禅に参加した倭酋長とは白村江で捕まった九州の酋長で九州王朝などなかった。漢化した畿内が238年〜266年に魏晋と外交した邪馬台国。245年に魏に負けて民の一部を中国に強制移住させられた高句麗、261年に朝貢した北魏も大和朝廷と同じ魏晋に関わって初めて中国文化を身につけてゆく民族。
大和王権は唐の時代から大陸と交流するようになったのは旧唐書で明白なのに信じられないようだ。魏志倭人伝の内容は九州北部に合致するが畿内には全く合わない。
旧唐書は漢化した突厥王朝の歴史書で不完全。魏〜南朝までの年号鏡が古墳の各地に出土してる時点でヤマトの中国外交は唐以前から始まってる。
@@KeCN魏志倭人伝には会稽・東冶の東にあると書いてあって、位置的には台湾か沖縄あたりになる。特産物も亜熱帯である中国の海南島にそっくりとあるから、気候か亜熱帯であることがわかる。そもそも九州北部から船で20日南にあるところが九州であるはずがない。
🎉「魏志倭人伝」に記されている邪馬台国は南西諸島(徳之島)です。
九州王朝など存在しない。皆砂上の楼閣。
@@木村信行-c3h 九州王朝はあります、ちなみに朝倉に遷都した事は御存知❓️
豊潤な土壌。王国、王朝があったと考えるのが自然。連合王国だったのではと考える。ところで、宇佐神宮の下にはとんでもない物がありそう。掘らせてくれーー
夜須とか朝倉とか、畿内と同じ地名が同じ位置関係で、久留米の東の広範な範囲に残ってるんだよね。邪馬台国のことはおくとして、九州に古王朝があって、それが畿内へ東遷したと考えるひとつの根拠になっていると思う。
九州最大の古墳はニニギから神武天皇までの日向三代の宮崎にありますよ。
九州説機内説の融合にだいぶ近づいて来て、何となくスッキリ感が芽生えましたぜ、ありがとう。
九州には日向という東を意味する国名が有りますからね
畿内から見たら西です
「金銀錯嵌珠龍文(さくがんしゅりゅうもん)鉄鏡」。大分県日田市で戦前に見つかったものとされ、装飾の巧みさから1964年に重要文化財に指定された。由来を含め多くの謎が残るこの鏡が、三国志の英雄・曹操の墓から出土した鏡とほぼ同じ型式である可能性が高まっている。「皇帝の所有物にふさわしい最高級の鏡」がなぜ九州に――。研究者らは首をかしげる。
↑コピペですが、やはり日田から朝倉にかけて卑弥呼が居た可能性があるのでしょうか。ロマンがありますね。
大和朝廷は遣唐使から大陸と交流持ち始めてますから遣唐使以前の中国史書の倭に付いての記録は九州の倭国に付いてのものですね。
日田街道が気になります。
宮崎県は何故か昔から海路開拓が鈍い。
地形的に港(津)を作りにくい上に黒潮の厳しさからってのもあるけど、むしろ内陸に何らかの権力があったからではと思う。
神武東征も始まりはかなり内陸からだし、海路に出るのも北に寄り過ぎてる。
南西諸島からの海路は鹿児島で上陸してしまうから、宮崎県の海沿いは発達してなかったのかも。
ただし後々古墳が盛んに作られているので、内陸から権力が南下してきたのかもしれない。
継体の筑紫磐井の乱はどちらが乱なのか?大和ね。
九州王朝説は謎だけどとても面白い動画でした。
でも崇神ってぶっちゃけ九州の人だし
まぁ私が思うに泡国説よりまとも🤔
初めてまともに読んだ古代史本が古田氏の著書だったので刷り込まれてしまった。
これのトップが国造神で出雲なんだと思う
中臣家に伝わる弓前文書読むと面白いよ
大宰府の倭京は北側?上半分は痕跡があるが、南側は痕跡が少ないので、条坊都市の建設は途中で止まったとみている。のちに近畿へ移ってからリベンジしたのが初のフルの条坊都市である藤原京だと思っている。
大和朝廷が九州王朝の歴史を取り込んで、720年日本書紀が成立した。
日本は隋や唐に遣隋使、遣唐使を送っているので、隋や唐は彼らから日本の歴史をよく聞いていたと思うのですが。遣隋使、遣唐使は日本のどこから船を出しているんでしたっけ。
遣隋使は九州から、遣唐使は越後から渡った事になってますが、遣唐使の再現舟ではとても日本海の荒波に耐えられるものではない物が平気で展示されてますよ。
中国は唐の時代なのに日本書紀では隋に行ったことになってますよ、歴史学者はスルーしてますけどね(笑)
隋の官僚である文林郎・裴清は、遣隋使の返礼で畿内まで船てやってきてますけどね。
日本統一王朝なんてずいぶんと後になってからの正立なんじゃないかと思うよな。特に当時の道路事情を考えると。
古代の交通は海と川ですね。
畿内は地政学的に、全国へアクセスしやすい地域です。
瀬戸内海を通れば中国、四国、九州へいけます。
紀伊半島を通過すれば関東へ、琵琶湖から大川を北上すれば日本海へ出ることもできます。
これら交通の要衝地は大和朝廷の支配のシンボルである前方後円墳が築かれており、4世紀には関東から九州までが支配下に置かれていたことがわかります。
九州には王朝に匹敵する遺跡がまったく出土していません。
日本は基本的に海洋民族なので軍を渡海させるのは、まあ余裕です。
3〜4世紀にはすでに半島まで軍を派兵してますから。
日本は基本的に海洋民族なので軍を渡海させるのは、まあ余裕ですね。
半島最古の正史にも記録されてますよ。
@@ぱぴぽら
はい。
熊本県の馬門石ですね。
馬門石が産出される地域にも、前方後円墳はたくさんあります。
円墳や方墳、横穴墳墓もたくさんありますが、九州においても前方後円墳は桁違いの大きさです。
@@ぱぴぽら
福岡には京都郡という地域があり、記紀によると景行天皇の九州征伐の拠点になったから、その地名が付けられたとあります。
そしてこの地域には前方後円墳がありますが、これは3世紀ものもです。
神功皇后が百済から贈られた七支刀が現存していて369年のものと判明しています。
景行天皇は神功皇后の2代前の天皇なので、時代も一致します。
九州の前方後円墳は全県に分布しています。
百田が扱ってるってことが逆に怪しいわ
ヤマトの枕言葉にそらみつってあるんだけど意味不明なのです。天満ってそらみつって意味で、そらみつヤマトは九州太宰府のヤマト(首都)を意味するのか?
百田尚樹さんが扱っているのは仲が良かった米粒写経の居島一平さんの影響があるのかも。
居島一平さんは九州王朝説支持者で彼の母が九州王朝の本を読んで居ても立っても居られず古田先生に会いに行き、突然訪問した見ず知らずの母に丁寧に教授してくれたという話をしていました。
===
太宰府天満宮には「鷽替え神事」という民間発祥の神事があり「替えましょ、替えましょ、嘘を誠に替えましょう」という言葉を唱えて1年に図らずもついてしまった嘘を誠と替え、悪いことを嘘にして吉に替えるという祭事があるのですが、本当は嘘で塗り固められた太宰府の歴史の嘘をいつか真実に替えたいという意味があったのかもしれません。
668年頃に唐の郭務綜以下2千名の軍兵が大宰府に駐留した。大宰府政庁跡にある筑紫都督府の石柱は明治時代に建てられたモノらしいが、倭王が都督に任ぜられたかまたは、郭務綜が大宰府で羈縻政策をとったことから筑紫都督府と彫ってあるのだろう。
唐軍二千が太宰府に駐留したというのはどの文献にあるのですか?
@@たぬ-w8k
日本書紀に記されている。
@@KeCN
日本書紀には254人と書いてありますが?
それも上表分をおさめただけで、帰ってますけど。
この時代の倭国は間違いなく大和朝廷ですよ。
@@KeCN
しかも唐軍ではなく、唐の使節ですね。
@@たぬ-w8k 668年に2000人だね。
太宰府を首都とするのは無理がある気がする。現在でも山に挟まれた隘路のような状態。むしろ、最終防衛ラインの駐屯地みたいなものであったのでは?太宰府の北側には水城跡という古代の城があり、太宰府以南を守るものと思える。おそらく魏の使者は伊都国止まりで、そこからは伝聞で地形や人口を聞いたのでは。その点で、伊都国は外交基地であったと思う。伊都国には怡土城、太宰府の北側には大野城、太宰府の南側には基肄城がある。もしかしたら、狼煙等で伊都国以北の異変を伝える通信基地だったのではと思う。基肄城以南が本国であったのでは?と思える。吉野ヶ里や平塚川添遺跡、日田の小迫辻原遺跡あたりまで。日田は筑紫平野の奥にあり四方を山に囲まれた天然の要害。そこで、曹操の鉄鏡に似た鉄鏡が出土された。再現CGがRUclips内にありますが、銅鏡と比較にならないぐらい素晴らしいもの。
記紀とかいう欠陥・ファンタジーのせいで我が国の歴史がわからなくなってる罪深さ。
せめて古墳を掘らせなさい。
それは素人の考え
イリアスというおとぎ話からトロイア遺跡が発掘されて、記紀における出雲の国譲り神話から荒神谷遺跡が発掘された。
卑弥呼みかより姫でドンピシャの人いたんだね!
唐の話では、白村江の戦で「倭王」を捕虜としてるんだけれど、日本書紀にはその話は無い。その時代の中大兄皇子は捕虜にはなってないしな。
旧唐書にも新唐書にもないけれど「筑紫都督府」の所在は日本書紀には書かれてる。唐が関与してない「筑紫都督府」は誰が設置したんだろう??
唐が設置したのならば、長官が記載されてるはずだが「無い」。あるのは「日本書紀」だけ。
てことは、「筑紫都督府」は「大宰府」に「大和朝廷」が設置したのでは?ってこと。唐は関係ないっぽい。
まぁ、よくわからんと思うわ。
歴史捏造勢力にとっては皇室は不都合な存在だと言えます。
恐らく唐に捕虜として捕まった人達がいたのは事実で、日本の指揮官クラスを「倭王」と呼んだとしても不都合はないです。
記紀に神話部分がある事を悪用して史実性がある記述も比定する人達は本当に気持ち悪いです。
昔はつか江戸あたりまで筑紫島なんだよな。所在地に紫入れるくらい高貴な土地ってことを表すのじゃないのかとか思ってしまう
この後に倭王は唐の泰山での封禅に参加してる、日本書紀は歴史を隠蔽してるね。
668年頃に唐の郭務綜以下2千名の軍兵が大宰府に駐留した。
@@KeCN
唐から太宰府にやってきた254の使節の間違いですね。
大和王朝となる前は九州に王国があったと思う。使ってる言葉を見れば北九州から大分の山を境に博多、久留米は言葉が違う。逆に北九州、大分から関西は何となく同じ様な言葉なので、北九州、大分近辺から畿内の方へ移動し平定したからだと思われ東遷はあったと感じ、その後統一されたかも。畿内に既に国があり九州を統一したなら、博多や久留米それ以南も今とは違う言葉になってたかも
漢倭奴国王の金印の読み方は漢の時代に北方民族を匈奴と言って貶語で呼んでいたことから倭奴の国と呼ぶのが正しいと考えます。発音は分かりませんが。
「君が代」はもともとは九州王朝の祝い歌がもとになっているよう。あちこちの王朝が統べられ、大きな和「大和」が出来た。
何を根拠に……
@@たぬ-w8k 君が代発祥の神社があるからじゃ😊
志賀海神社の安曇一族ですね。
@@たぬ-w8k
「君が代」は九州王朝の讃歌
という、㈱新泉社から1990年に「市民の古代・別館2」として発行された冊子が根拠です。
著書の古田武彦氏がお仲間と神社巡りをしたことで次々と繋がっていく発見。地図や写真も挿入されていて、あっというまに読んでしまいました。本好きの方の自宅整理?で安売り処分されていた物。
パッと目に入り購入した物です。
@@rx5335
新泉社発行「市民の古代 別館2 君が代は九州王朝の讃歌」古田武彦著 の地図の中に志賀海神社、出ていました!
古田武彦さんナベツネさんに似てますな~😅😅😅😅
広告入れすぎ
「ヤマタイ」呼びすることで更に混乱するわけで。
素直に元の呼び名「ヤマトこく」にすべき。
中国の安定と混乱の影響力は広範囲に及ぶ
漢のなんたらかんたらの 金の印鑑が ほかでも 見つかっているのかな?
豊前には 京都郡という地名もあったし
宇佐神宮には 仁徳社とかも 本殿の途中にも ありましたね
クス、クジュウはクシフルからだろ
まあ九州のどこかは言わないけど地名を気にしながら歩き回ればすぐ分かるよ。
近年に中国の意向による邪馬台国の東遷説が出てるけど、歴史ロマンとしての面白さと史実の隙間を埋めるにはまだ材料が不足
志賀島金印は卑弥呼の時代ではない。時代錯誤である。九州王朝は神武以前の高天原時代の物である。邪馬台国時代は熊襲と混同された。
ひゃくたさん
銅鐸文化の起源は古代シュメール・アッシリアに於ける「ミステリーバッグ👜」に起因する。
シュメールは、大海洋民族であった縄文人の植民地でした。結局、世界の文明は、元をだどれば、世界最古にして最高の縄文文明に行き着きます。
阿波説にも説得力ありますよ。
九州は漢の倭奴である酋長国家。唐の高宗の封禅に参加した倭酋長とは白村江で捕まった九州の酋長で九州王朝などなかった。
漢化した畿内が238年〜266年に魏晋と外交した邪馬台国。
245年に魏に負けて民の一部を中国に強制移住させられた高句麗、261年に朝貢した北魏も大和朝廷と同じ魏晋に関わって初めて中国文化を身につけてゆく民族。
大和王権は唐の時代から大陸と交流するようになったのは旧唐書で明白なのに信じられないようだ。魏志倭人伝の内容は九州北部に合致するが畿内には全く合わない。
旧唐書は漢化した突厥王朝の歴史書で不完全。魏〜南朝までの年号鏡が古墳の各地に出土してる時点でヤマトの中国外交は唐以前から始まってる。
@@KeCN
魏志倭人伝には会稽・東冶の東にあると書いてあって、位置的には台湾か沖縄あたりになる。
特産物も亜熱帯である中国の海南島にそっくりとあるから、気候か亜熱帯であることがわかる。
そもそも九州北部から船で20日南にあるところが九州であるはずがない。
🎉「魏志倭人伝」に記されている邪馬台国は南西諸島
(徳之島)です。
九州王朝など存在しない。皆砂上の楼閣。
@@木村信行-c3h 九州王朝はあります、ちなみに朝倉に遷都した事は御存知❓️
豊潤な土壌。王国、王朝があったと考えるのが自然。
連合王国だったのではと考える。
ところで、宇佐神宮の下にはとんでもない物がありそう。
掘らせてくれーー