【ゆっくり解説】南北朝時代最強・北畠顕家はなぜ天下を取れなかったのか

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  • Опубликовано: 23 янв 2025

Комментарии • 31

  • @bigshot088
    @bigshot088 Месяц назад

    平成っ子「チャリで来た。」
    顕家「騎馬で来た。(1000km)」

  • @evolutiongmr7389
    @evolutiongmr7389 7 месяцев назад +14

    南朝は北畠顕家、楠木正行ら名将を若くして失った痛手が大きかった。

  • @コンバット越前-b5v
    @コンバット越前-b5v 4 месяца назад

    顕家の墓所がある北畠公園に行ったことあるけど、これ程の人物なのに寂れたお墓で気の毒に思いました😢

  • @naohikawa4784
    @naohikawa4784 7 месяцев назад +17

    大河だったか後藤久美子が顕家やってたな。やっぱ美形だったのか。

    • @栄さんにお世話されたい
      @栄さんにお世話されたい 5 месяцев назад +4

      舞御覧記には「幼く可愛らしい。しかし態度はしっかりとしている」と記述されており、美形と言うよりも中性的な顔立ちだったらしい。
      顕家は御前で当時14歳で陵王を舞った記録があり、御前から唐の衣類を下賜されたとか。

    • @羽菜たろう
      @羽菜たろう 5 месяцев назад

      美形というか、少年だしね。
      それでも、全大人を凌駕してたのだから、凄いのです。
      子供ならではの、後先考えられない、欠点もあるけどね。

  • @YaYa-lo1zi
    @YaYa-lo1zi 7 месяцев назад +9

    高師直は成果報酬で身分関係なしの登用をしてるから正規武士に対して足軽みたいな半武士でよく南朝方に勝てたもんですね。

    • @Achzehn
      @Achzehn 3 месяца назад

      この時代の人って武将ですらモラルとか低かったから平気で裏切るし裏切った先の状況悪いとすぐ出戻るし
      足軽も落馬した1人の武将に対して首取るために我先にワラワラ群がるほどハングリー
      南朝の忠義とか名誉とか大義名分で集まった人達より
      戦功がそのまま自分の褒美になる北朝側のほうが荒くね者の士気は高かったんだろうね

  • @ddgg1808
    @ddgg1808 7 месяцев назад +9

    逃げ若で石津の戦いが始まった時期に上げるとは、タイミング狙ってた? 逃げ若では主人公の時行を遥かに凌駕する濃いキャラになりましたね。時行からは兄のように慕われてるけど、最期はどう描かれるのか気になる。

  • @111-r5b1q
    @111-r5b1q 3 месяца назад

    稼ぎもしないで京で会議ばっかりやってた公家に力などありはしなかった

  • @Akane_Rubia
    @Akane_Rubia 3 месяца назад

    奥州各地の豪族のまとめ役としてのカリスマ性はあったんでしょうね
    二十歳かそこらで奥州に来たと思うから
    余計な事は言わず自身は旗印に徹して現場武者達の士気を下げないように振る舞ってたんじゃないのかなー
    歴戦の叩き上げの軍人さん達の隊に、血すら見た事がない小綺麗なエリート隊長が配属されて理想ばかり披露されても誰もついてこないでしょうし

  • @プリンセヌ
    @プリンセヌ 2 месяца назад +1

    先祖なんだよね、じいちゃん家で資料見せてもらったら後醍醐天皇とか書いてあってびびった

  • @直道中山-s6l
    @直道中山-s6l 7 месяцев назад +2

    古代ローマに何度も勝利したが、退却を余儀なくされたピュロスを連想した。

  • @たこやきイズム
    @たこやきイズム 7 месяцев назад +3

    私の職場の近くに顕家の終焉の地の供養塔がありますね。

  • @ねおぞえ
    @ねおぞえ 7 месяцев назад +3

    東北地方は気候のせいで裏作ができないので扶養人口が他地域より少ない。純粋に兵力が足りない。

  • @ヒストレイン
    @ヒストレイン 7 месяцев назад +4

    どうもゴクミの顔が浮かんでしまう…

  • @八郎-m7r
    @八郎-m7r 6 месяцев назад +3

    北畠顕家は、なぜ天下を取れなかったのか..このテーマ自体ナンセンスこの方武士では無いし。

    • @パワーボム-z9e
      @パワーボム-z9e 4 месяца назад

      確かにその通り。そもそも北畠家は当時は公家ですし、それに北畠顕家自身に天下取りなんて発想も無かっただろうし。あくまでも後醍醐天皇を正当な天皇として仕えていただけですしね。

  • @セネガルエチオピア
    @セネガルエチオピア 7 месяцев назад +14

    実際は従えた伊達と南部が強かった。

  • @羽菜たろう
    @羽菜たろう 5 месяцев назад +1

    連戦のし過ぎ。
    兵糧も無いから、各地で奪うしかなくなり、協力が得られない。
    農民から、大反発。
    織田信長「農民を、大事に扱わないやつは、馬鹿。いくら知略が優れていてもな!」

  • @ultraman.ultraseven
    @ultraman.ultraseven 7 месяцев назад +2

    嗚呼、幻の北畠幕府⚔️🤦!ゴダイゴのリーダーは、ミッキー吉野👌💁!

  • @どん吉-r4d
    @どん吉-r4d 7 месяцев назад +4

    突き詰めると、いくら武威にすぐれていても、貴族出身ゆえに、ほんまもんの武士たちの心を掴めなかった点もあるのでは?
    何度敗れても、武家の棟梁として落ち延び先から巻き返してくる尊氏、直義らに比べて、武士たちを心服させる力(身分ゆえに仕方ないのだが)を備えていなかった。いくらでもわいてくるゾンビ?と戦っていたようなもので、気の毒でもある。

    • @パワーボム-z9e
      @パワーボム-z9e 4 месяца назад +1

      同感です、後醍醐天皇の政権が崩壊したのも全く同じ理由ですね、結局当時の日本における生産と軍事を担う武士を蔑ろにして最終的な勝利を納められるはずがない。北畠顕家は楠木正成に対しても身分の低い人物という評価しかもっていなかったようです、恐らく父親の北畠親房の影響を当然受けていたでしょうから。

  • @ねこちん-y8k
    @ねこちん-y8k 6 месяцев назад

    弓が無かったから。

  • @matukawatositane
    @matukawatositane 7 месяцев назад +14

    高師直の方が強かったから()
    真面目な話、奥州から無茶苦茶な行軍して来てるし何処かで限界が来るわな

    • @55tg
      @55tg 7 месяцев назад +3

      無茶苦茶な行軍なら北朝南朝共にかなり無茶苦茶をやっていた気がするのだが...。

    • @matukawatositane
      @matukawatositane 7 месяцев назад

      @@55tg 先に限界きたのは奥羽からやってきた顕家だったのになんか不思議があるの?
      少なくとも畿内にいた北朝軍よりよっぽど無理してるでしょうに

  • @user.fg2ch1tu0shiri
    @user.fg2ch1tu0shiri 5 месяцев назад

    兵糧を度外視したから。