【ゆっくり解説】宋書倭国伝

Поделиться
HTML-код
  • Опубликовано: 10 сен 2024
  • 宋書倭国伝の内容を解説します。
    ■ブログ■
    rekishi-shizit...
    ■倭の五王列伝■
    • 【ゆっくり解説】空白の150年の謎を解く
    ■関連動画■
    空白の150年
    • 【ゆっくり解説】空白の150年の謎を解く
    倭王讃
    • 【ゆっくり解説】倭王讃『150年ぶりに朝貢外...
    倭王珍
    • 【ゆっくり解説】倭王珍『朝鮮半島の支配権を望...
    倭王済
    • 【ゆっくり解説】倭王済と王位継承の謎
    倭王興
    • 【ゆっくり解説】倭王興と王位継承問題
    倭王武
    • 【ゆっくり解説】倭王武
    倭王武の上表文
    • 【ゆっくり解説】倭王武の上表文
    ワカタケル大王
    • 【ゆっくり解説】ワカタケル大王
    倭の五王からみた倭国
    • 【ゆっくり解説】倭の五王から見た倭国内
    倭の五王時代の終焉
    • 【ゆっくり解説】倭の五王時代の終焉
    倭の五王はどの天皇を指すのか
    • 【ゆっくり解説】倭の五王はどの天皇を指すのか
    ■SNS■
    Twitter
    / rvbepg0c4afgpr0
    ■ツール&素材■
    背景:My Koi
    音楽・にこにこコモンズ様
    commons.nicovi...
    素材 きつねゆっくり様
    www.nicotalk.co....
    動画作成ツール:ゆっくりムービーメーカー3
    manjubox.net/y...
    AquesTalkライセンス購入済み

Комментарии • 15

  • @shou-sho
    @shou-sho 3 месяца назад +14

    そもそも日本の記述が2,000字もある魏志倭人伝が異常なだけで、宋書の566字って中国の史書としては充分多いんですよね
    遣唐使何度も送ってた唐でも新唐書は994字しかないんだから。

    • @hiron114
      @hiron114 2 месяца назад +1

      当時の"魏"がまだ安定してる状況じゃ無かったからだと思います。
      西では劉禅率いる"蜀"が度々侵攻してきており、名宰相諸葛亮が病死したとはいえ、油断出来る状況ではなく、南からも孫権率いる"呉"が襄陽・合肥を狙っており、更に遼東半島と朝鮮半島一部では、公孫淵が国名を"燕"として独立、魏との対立を表明した時期でしたから。
      そこへ魏にとって"謎の海洋勢力"である倭国が、公孫淵・孫権を後方支援するような事があれば、かなり面倒になる為、倭国の情報収集と機嫌を取る方針だったと思います。

    • @shou-sho
      @shou-sho 2 месяца назад

      ​@hiron114
      魏志倭人伝が書かれたのは三国統一後のことなので、なぜ文章量が多いのかの説明にはなってないかな。
      結論として、陳寿が長々と記述したのが司馬氏の功績を顕彰するためであることは、多くの人が指摘するとおりです。

    • @hiron114
      @hiron114 2 месяца назад

      @@shou-sho
      公孫淵討伐の責任者が、司馬懿である以上、"公孫淵の乱が終結してないのに魏に朝貢"した倭国を長々と扱うのは、司馬懿の顕彰の一端ともいえると思います。
      また、魏も晋も陸上国家であり、倭国のような海洋重視勢力は全く未知の存在である為、少しでも情報が欲しかったのだと思います。
      それら上記の理由から、陳寿も曹叡の時代(公孫淵や孫権と対立してた頃)に纏められた、倭国の記録も付け足して、長めに引用せざるを得なかったのだろうと、愚行いたします。

  • @keeperofthe7keyspart
    @keeperofthe7keyspart 3 месяца назад +6

    九州王朝説は古田武彦氏に対してあの安元美典氏が激しく批判された歴史があるのですが、そのへんの経緯を紹介してる動画は見たことがないですね。

  • @mocchi2643
    @mocchi2643 3 месяца назад +3

    倭国が宋に朝貢したのは「漢民族王朝である南朝の方が正統」という認識があったからかもしれない。

  • @poyutre
    @poyutre 3 месяца назад +1

    九州には安東と言う名字と大将軍と言う地名、神社がかなりある

  • @user-qg3gw6cp3g
    @user-qg3gw6cp3g 3 месяца назад +4

    あの内政がめちゃくちゃで暗君・暴君だらけの劉宋が日本をどう見ていたのかは興味深い

    • @user-ig6te3tt1l
      @user-ig6te3tt1l 3 месяца назад +1

      って言うか、あの北は五胡十六国でぐちゃぐちゃ、南は南で南部豪族と北から逃れてきた貴族階級でグッチャグチャの状況のせいで日本のれきぢの空白期になっちゃったから。
      鳥人間さんの動画見ていると、五胡十六国時代ほどグッチャグチャな時代って無いんだとしみじみ。
      宋の初代は有能だったんだけど、一時的に奪回した洛陽陥落時に名将名臣失ったのが大きいかな。まぁ、それ以上に2代目以降の皇帝がひどすぎたな。
      王猛か劉穆之の寿命、苻堅の辛抱、劉裕の寛容さ、どれか足りていたら日本の歴史にも空白はなかったのかと残念。

    • @user-mh8bf7md5i
      @user-mh8bf7md5i 3 месяца назад

      「阿呆が(皇帝陛下の素晴らしい徳を慕い、我が国も華夏の末席に加わりとうございます!)」

  • @giantszero6962
    @giantszero6962 3 месяца назад

    倭国伝は倭人伝と資料の方向性が違っててあくまで外交に関する記述だけなんだな。

  • @nagino_matasaburo
    @nagino_matasaburo 3 месяца назад +2

    ほんのもうちょっとでいいから詳しく解りやすく記述しといてくれたならぁ…。
    21世紀の倭人の末裔が大勢ヤキモキしております😔

  • @YO-high
    @YO-high 3 месяца назад

    前にも書いたかもしれんが、南朝に朝貢する意味があまりないよね。
    北朝の前秦とか北魏とかに融通してた可能性あるんじゃないかな?
    まぁ、融通しててもすぐに滅ぶから「どうにもならない」って思ったのかもしれん。南朝の方が比較的長生きだからね。
    ワイは、符健の前秦こそが「秦氏」の出身だろうと見てるんですが、北朝とのかかわりが良く分からんから、、無理筋かもなぁ。

    • @user-ix3uw3lv4v
      @user-ix3uw3lv4v 3 месяца назад

      朝貢してもメリットを見出せないから雄略天皇を最後に辞めたんだろうね

    • @hiron114
      @hiron114 2 месяца назад

      中国南東の沿岸部は、三国志の頃から、ローマ帝国等欧州方面からの交易品が入ってきてたみたいですから、ユーラシア海洋交易網に加わりたかったのかもしれません。