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「雨の日も風の日もちどりは走り続けてきました。これも時代の流れでしょうか・・・」ちどり最終日の車掌案内放送でした。忘れられないです。
昔昔、広島駅深夜発で松江駅、米子駅早朝着の、夜行ちどりに繰り返し乗っていました。途中駅の備後落合駅のおでん入りのうどんを食べて一服。あんな深夜にうどん屋さんが営業していたのは、今では驚きです。
ちどり、やくも、白兎、しんじ、懐かしい思い出です😊😢😂
S57~59にガラガラのグリーン米子~広島何度か乗りました。さすがに夜行は乗れませんでしたが、、備後落合のおでんうどんは必ず頂きました。今では想像もつきませんが、いい時代でしたね。
唯一のローカル線の急行は乗らず終いになって鳥取県に住んでいたが今思えば一度乗りたかったな。
東京在住の者ですが、首都圏を運行しないこともあってか、なぜか地方の気動車急行に興味あって、そのなか一番興味あったのが「ちどり」でした。80年代半ば中学生の頃、初めて買ったNゲージがキハ58系です。廃止になって30年近いですが、動画を見ることができるのは嬉しい限りです。
昭和41年、米子~広島の夜行列車(普通)は米子駅23時頃~広島駅5時頃(6時頃?)乗車客は数名でした。
出雲坂根駅の究極の「三段スイッチバック」、これが木次線の唯一の目玉でもあり、見もの。仮に木次線が廃止されると、三段スイッチバックが見れなくなり、寂しさを感じる。
陰陽連絡の使命も終え、部分廃線になってもおかしくないですね。10両の「トワイライトEXP.瑞風」は入線できないでしょうが地元と一緒に観光列車のテコ入れなど活性化してもらいたいですね。
今このルートは普通列車を乗り継ぐしかなくなりしかも備後落合で待つ必要ありますね急行「ちどり」は残念ながら乗ったことがないのですが急行「だいせん」乗った事ある者としては実に嘆かわしいと言うより実に残念だとしか言えないのが山陰の現実ですね
米子・松江から広島との行き来は今も昔も多いのですが、時間がかかり、料金も決して少なく、運行本数も少なく、居住性の悪い木次線を利用する人はほとんどありません。出張経費が出る人は「やくも」+新幹線が多いですが、所用で利用する倹約派はバスでしょうね。かつて急行「ちどり」は夜行列車もあり、スキーシーズンには三井野原や大山へのスキー客でも賑わっていました。
高速道路が延伸すると、在来線(特に山岳路線)は 残念ながらほぼ抵抗不能になってしまいます。。。「ちどり」も、所要時間6時間というのはいかにも苦しかったでしょう。 陰陽連絡のクイーンだった「やくも」も、現在では短編成化が進みました(嘆)。
かつては、夜行便もあった急行「ちどり」ですが、浜田-広島間は、国鉄時代からバスが主役ですし、出雲市~米子-広島は「やくも」+新幹線をメインルートとして、木次線は陰陽連絡という位置づけではなくなりましたね。「やくも」は、編成こそ短くなっていますが、早朝から深夜まで運行本数は増え、利便性は大きく向上しました。
「ちどり」には、志和口数度友達の家に行くのに乗ったことがあります。普通なら普通列車で行くんだけど、かなり待ち時間があったので奮発して急行料金を払いました。車内放送で興味をそそられたのは、JR西日本のプロフェッショナルな車掌さんが甲立をこうだち、下深川をしもふかがわと言っていたことです。それぞれ、こうたちとしもふかわが正解だと思うのですが、車掌さんが読み方を間違えているのは初めて聞きました。揚げ足を取るわけではありませんが、機械録音の放送と違って、こんなことがあるんだろうなと思いました。
米子の車掌さんなら止むを得ないかな?この頃には、備後落合で広島車掌区の車掌さんと交替しており、該当区間への乗務がありませんでした。札幌車掌区の車掌さんで、「日本海4号」函館発車後の車内放送で、「糸魚川」を「いとうおがわ」と言っていた方もいらっしゃいました。「日本海4号」動画は何本かUPしていますが、いずれかの動画にあります。急行「まつしま」だったかな?上野からの乗り換え案内で「秋葉原」を「あきばはら」と言っていた車掌さんもいらっしゃいましたし・・・日頃乗務しない区間の読み間違いはまれにありました。イントネーションの違いはよくありましたね。
@@railway-sound さん、いろいろとありがとうございました。糸魚川をいとうおがわは、酷いですね。中央構造線が走っているので、義務が教育で習っていて、有名な地名なのに。
夜行のちどり」に乗ったこと思い出す広島に国家試験で行きた当時21時ぐらい米子発で5時頃ついたと思う帰りも夜行で帰った鳥取行きの夜行だったと思う今から45年前のこと
博多からの夜行「さんべ」、大阪からの夜行「だいせん」、京都からの夜行「山陰」、東京からの夜行「出雲」「いなば」など山陰本線には夜行列車が多数運行されていました。長距離列車も多く、博多-新大阪間「まつかぜ」を筆頭に、名古屋発大社行「大社」、熊本発鳥取行「さんべ」、門司発福知山行普通列車など、乗り鉄にはたまらない列車が多数ありました。
そうですね私が中学校の頃は長門か門司発か忘れたけれど西舞鶴行きがあったよ米子から乗って倉吉(当時は上井)まで帰ってたよまあ倉吉線で小鴨までだった当時のこと思い出すと米子を11時30分頃出て倉吉が13時20分頃ついたと思うそして倉吉で倉吉線に乗り換えたそんなこと思い出すなあ
それは、浜田発東舞鶴行ですね。前日京都5時過ぎに出発して浜田まで行った折り返しで、福知山の旧型客車でした。末期はそうでもありませんでしたが、米ヨナ、米イモ、米ハマ、米トリの客車はオハ35やオハフ61など古い茶色が多く、福フチはナハフ10やスハ43など急行っぽい車両が多かったですね。幼少期は青い客車が好きで、福フチで運行される835列車や544列車、723列車、724列車などが好きでした。
追伸今から53年前のこと倉吉線も当時上井発13時30分ぐらいだったと思うが関金行きがあったもちろんc11が牽引で混合列車だった2両の客車で2両目は荷物用の客車だった
深夜の、備後落合駅で、うどんを食べた、中学生の夏休み……
小学生のころよく乗ってました 安芸高田市住んでました 当時のちどり1号ですね前3両G車付きちどり、中2両津山発のやまのゆ、後ろ3両三次増結のキハ20or17の編成でした むかいはら出ると広島まで止まらないのがかっこよかった結局三次から奥は乗れず終いでした
10時に米子を出て広島に着くのが15時49分というのは今の感覚だと流石に時間がかかり過ぎのような気がしますね…
山口百恵の「いい日旅立ち」の歌が流行ってた国鉄時代を思い出す。昔は通過する駅でも駅員さんは列車に向かって敬礼してたな。
禁煙車って響きが懐かしいな
夜行ちどりで、広島に原爆ドームを見に行った、中学生の夏休み♪
マジですか。あの夜行は今や伝説ですよ
アナウンスで『しもふかわ』を『しもふかがわ』って言ってますね
今こそこういう陰陽連絡急行を復活させないと芸備線廃線が現実の物になってしまう😅JRは採算が合わないと、すぐ廃線・廃線と言ってしまうが利用者の事を考えてダイヤを見直したり、いい方向に進めてほしい!真剣にお願いします
利用者がいないから廃線になる。気動車の風情が好きで乗りに行くけど、乗り鉄ばかりで日常に地元民がこれだけ乗らないと如何ともし難い。
現状の芸備線・木次線で陰陽連絡急行を復活させるには線路設備の大幅な改修と高速化が必須で、莫大な費用がかかります。今のJR西日本にそのような余裕はもちろんなく、投資に見合うだけの需要も見込めないでしょう。生まれ変わった芸備線を高速で駆け抜ける列車を見てみたい気持ちは確かにありますが…
もしもドライバー不足の「2024年問題」に悩む宅急便会社&物流業界をメインクライアントに迎えてダイヤ設定(口)も線路路盤整備工事経費(カネ)も出す協定を結び、H100形やGV-E400系などの新型車両で宅急便貨物とビジネス&観光客を同時に運ぶ「貨客混載ライナー」を広島~松江間に走らせる事が可能になれば、芸備線の高~東城間にトンネル掘ったり時速80kmで走らせる高速化工事ができれば再評価されるのかな、とは思います。沿線自治体と物流業界の歩み寄り、国土交通省の仲介が課題でしょう。(ぜひ観てみたいですが)
バスだと、事故などでの渋滞もありますが、鉄道、特に特急や急行はありません。何かすごく寂しいですね。車両の色も、JRになって、かえっておもしろくなくなったというか落ち着きがなくなったような気がします。
車両のカラーも一時期は個性的なものが色々発生しましたが、最近は合理化やステンレス車の導入などでシンプルになってきましたね。私鉄もJRも地下鉄も全般的に面白みが薄れてきました。
最も、高速バスで広島から米子・松江は現在3時間程度(グランドアロー号・メリーバート号)。急行ちどりはその倍かかっていました。たとえ渋滞が酷い区間があったとしても、これだけの差があっては勝負にならないでしょう。あと、岡山での「やくも」乗り換えに需要が持って行かれた側面もあります。
しもふかがわ。どこの車掌区の人だったんだろう。
米子-備後落合間は米子車掌区、備後落合-広島間は広島車掌区の担当でした。
じゃあ、読めないわけだ。山口にも深川があるので・・・。ありがとうございます。
まぁ自分は今の哀愁漂う備後落合の方が好きですけど栄えてた時代もそれはそれでいいかもしれませんね
「雨の日も風の日もちどりは走り続けてきました。これも時代の流れでしょうか・・・」
ちどり最終日の車掌案内放送でした。忘れられないです。
昔昔、広島駅深夜発で松江駅、米子駅早朝着の、夜行ちどりに繰り返し乗っていました。途中駅の備後落合駅のおでん入りのうどんを食べて一服。あんな深夜にうどん屋さんが営業していたのは、今では驚きです。
ちどり、やくも、白兎、しんじ、懐かしい思い出です😊😢😂
S57~59にガラガラのグリーン米子~広島何度か乗りました。さすがに夜行は乗れませんでしたが、、備後落合のおでんうどんは必ず頂きました。今では想像もつきませんが、いい時代でしたね。
唯一のローカル線の急行は乗らず終いになって鳥取県に住んでいたが今思えば一度乗りたかったな。
東京在住の者ですが、首都圏を運行しないこともあってか、なぜか地方の気動車急行に興味あって、そのなか一番興味あったのが「ちどり」でした。80年代半ば中学生の頃、初めて買ったNゲージがキハ58系です。廃止になって30年近いですが、動画を見ることができるのは嬉しい限りです。
昭和41年、米子~広島の夜行列車(普通)は米子駅23時頃~広島駅5時頃(6時頃?)乗車客は数名でした。
出雲坂根駅の究極の「三段スイッチバック」、これが木次線の唯一の目玉でもあり、見もの。仮に木次線が廃止されると、三段スイッチバックが見れなくなり、寂しさを感じる。
陰陽連絡の使命も終え、部分廃線になってもおかしくないですね。10両の「トワイライトEXP.瑞風」は入線できないでしょうが地元と一緒に観光列車のテコ入れなど活性化してもらいたいですね。
今このルートは普通列車を乗り継ぐしかなくなりしかも備後落合で待つ必要ありますね急行「ちどり」は残念ながら乗ったことがないのですが急行「だいせん」乗った事ある者としては実に嘆かわしいと言うより実に残念だとしか言えないのが山陰の現実ですね
米子・松江から広島との行き来は今も昔も多いのですが、時間がかかり、料金も決して少なく、運行本数も少なく、居住性の悪い木次線を利用する人はほとんどありません。出張経費が出る人は「やくも」+新幹線が多いですが、所用で利用する倹約派はバスでしょうね。かつて急行「ちどり」は夜行列車もあり、スキーシーズンには三井野原や大山へのスキー客でも賑わっていました。
高速道路が延伸すると、在来線(特に山岳路線)は 残念ながらほぼ抵抗不能になってしまいます。。。「ちどり」も、所要時間6時間というのはいかにも苦しかったでしょう。 陰陽連絡のクイーンだった「やくも」も、現在では短編成化が進みました(嘆)。
かつては、夜行便もあった急行「ちどり」ですが、浜田-広島間は、国鉄時代からバスが主役ですし、出雲市~米子-広島は「やくも」+新幹線をメインルートとして、木次線は陰陽連絡という位置づけではなくなりましたね。「やくも」は、編成こそ短くなっていますが、早朝から深夜まで運行本数は増え、利便性は大きく向上しました。
「ちどり」には、志和口数度友達の家に行くのに乗ったことがあります。
普通なら普通列車で行くんだけど、かなり待ち時間があったので奮発して急行料金を払いました。
車内放送で興味をそそられたのは、JR西日本のプロフェッショナルな車掌さんが甲立をこうだち、下深川をしもふかがわと言っていたことです。それぞれ、こうたちとしもふかわが正解だと思うのですが、車掌さんが読み方を間違えているのは初めて聞きました。
揚げ足を取るわけではありませんが、機械録音の放送と違って、こんなことがあるんだろうなと思いました。
米子の車掌さんなら止むを得ないかな?この頃には、備後落合で広島車掌区の車掌さんと交替しており、該当区間への乗務がありませんでした。
札幌車掌区の車掌さんで、「日本海4号」函館発車後の車内放送で、「糸魚川」を「いとうおがわ」と言っていた方もいらっしゃいました。「日本海4号」動画は何本かUPしていますが、いずれかの動画にあります。
急行「まつしま」だったかな?上野からの乗り換え案内で「秋葉原」を「あきばはら」と言っていた車掌さんもいらっしゃいましたし・・・日頃乗務しない区間の読み間違いはまれにありました。イントネーションの違いはよくありましたね。
@@railway-sound さん、
いろいろとありがとうございました。
糸魚川をいとうおがわは、酷いですね。中央構造線が走っているので、義務が教育で習っていて、有名な地名なのに。
夜行のちどり」に乗ったこと思い出す
広島に国家試験で行きた
当時21時ぐらい米子発で5時頃ついたと思う
帰りも夜行で帰った鳥取行きの夜行だったと思う
今から45年前のこと
博多からの夜行「さんべ」、大阪からの夜行「だいせん」、京都からの夜行「山陰」、東京からの夜行「出雲」「いなば」など山陰本線には夜行列車が多数運行されていました。長距離列車も多く、博多-新大阪間「まつかぜ」を筆頭に、名古屋発大社行「大社」、熊本発鳥取行「さんべ」、門司発福知山行普通列車など、乗り鉄にはたまらない列車が多数ありました。
そうですね
私が中学校の頃は長門か門司発か忘れたけれど西舞鶴行きがあったよ
米子から乗って倉吉(当時は上井)まで帰ってたよ
まあ倉吉線で小鴨までだった
当時のこと思い出すと
米子を11時30分頃出て倉吉が13時20分頃ついたと思う
そして倉吉で倉吉線に乗り換えた
そんなこと思い出すなあ
それは、浜田発東舞鶴行ですね。前日京都5時過ぎに出発して浜田まで行った折り返しで、福知山の旧型客車でした。末期はそうでもありませんでしたが、米ヨナ、米イモ、米ハマ、米トリの客車はオハ35やオハフ61など古い茶色が多く、福フチはナハフ10やスハ43など急行っぽい車両が多かったですね。幼少期は青い客車が好きで、福フチで運行される835列車や544列車、723列車、724列車などが好きでした。
追伸
今から53年前のこと
倉吉線も当時上井発13時30分ぐらいだったと思うが
関金行きがあった
もちろんc11が牽引で混合列車だった
2両の客車で2両目は荷物用の客車だった
深夜の、備後落合駅で、うどんを食べた、中学生の夏休み……
小学生のころよく乗ってました 安芸高田市住んでました 当時のちどり1号ですね
前3両G車付きちどり、中2両津山発のやまのゆ、後ろ3両三次増結のキハ20or17
の編成でした むかいはら出ると広島まで止まらないのがかっこよかった
結局三次から奥は乗れず終いでした
10時に米子を出て広島に着くのが15時49分というのは今の感覚だと流石に時間がかかり過ぎのような気がしますね…
山口百恵の「いい日旅立ち」の歌が流行ってた国鉄時代を思い出す。
昔は通過する駅でも駅員さんは列車に向かって敬礼してたな。
禁煙車って響きが懐かしいな
夜行ちどりで、広島に原爆ドームを見に行った、中学生の夏休み♪
マジですか。あの夜行は今や伝説ですよ
アナウンスで『しもふかわ』を『しもふかがわ』って言ってますね
今こそこういう陰陽連絡急行を
復活させないと芸備線廃線が現実の物になってしまう😅JRは採算が
合わないと、すぐ廃線・廃線と
言ってしまうが利用者の事を考えてダイヤを見直したり、いい方向に
進めてほしい!真剣にお願いします
利用者がいないから廃線になる。
気動車の風情が好きで乗りに行くけど、乗り鉄ばかりで日常に地元民がこれだけ乗らないと如何ともし難い。
現状の芸備線・木次線で陰陽連絡急行を復活させるには線路設備の大幅な改修と高速化が必須で、莫大な費用がかかります。今のJR西日本にそのような余裕はもちろんなく、投資に見合うだけの需要も見込めないでしょう。
生まれ変わった芸備線を高速で駆け抜ける列車を見てみたい気持ちは確かにありますが…
もしもドライバー不足の「2024年問題」に悩む宅急便会社&物流業界をメインクライアントに迎えてダイヤ設定(口)も線路路盤整備工事経費(カネ)も出す協定を結び、H100形やGV-E400系などの新型車両で宅急便貨物とビジネス&観光客を同時に運ぶ「貨客混載ライナー」を広島~松江間に走らせる事が可能になれば、
芸備線の高~東城間にトンネル掘ったり時速80kmで走らせる高速化工事ができれば再評価されるのかな、とは思います。
沿線自治体と物流業界の歩み寄り、国土交通省の仲介が課題でしょう。(ぜひ観てみたいですが)
バスだと、事故などでの渋滞もありますが、鉄道、特に特急や急行はありません。何かすごく寂しいですね。車両の色も、JRになって、かえっておもしろくなくなったというか落ち着きがなくなったような気がします。
車両のカラーも一時期は個性的なものが色々発生しましたが、最近は合理化やステンレス車の導入などでシンプルになってきましたね。私鉄もJRも地下鉄も全般的に面白みが薄れてきました。
最も、高速バスで広島から米子・松江は現在3時間程度(グランドアロー号・メリーバート号)。急行ちどりはその倍かかっていました。
たとえ渋滞が酷い区間があったとしても、これだけの差があっては勝負にならないでしょう。
あと、岡山での「やくも」乗り換えに需要が持って行かれた側面もあります。
しもふかがわ。どこの車掌区の人だったんだろう。
米子-備後落合間は米子車掌区、備後落合-広島間は広島車掌区の担当でした。
じゃあ、読めないわけだ。山口にも深川があるので・・・。ありがとうございます。
まぁ自分は今の哀愁漂う備後落合の方が好きですけど栄えてた時代もそれはそれでいいかもしれませんね